とうとう雨は降り出しませんでした。そこで、さぶろうは外へ出てやっぱり草取りをしました。草を取った後へ牛糞肥料をどさりどさりと施肥しました。40リットル1袋で280円します。そこへ白茄子やらピーマンやらニガウリやらを植え付けました。作業を終えたのが7時23分でした。暗くなって足下が見えなくなっていました。
みなさん、こんばんは。雀と青大将の話の続きをします。
蛇の青大将は成長すると全長が2m近くになるのもいます。どす黒いような緑色をしています。毒はありません。にんげんを噛むことはありません。鼠や小鳥の雛、卵などを一飲みにします。巻き付きながら木を登っていきます。家の中にも棲んでいます。梁の上からどたりと落ちてくることもあります。鳥籠の中へ身を細くして侵入してカナリアだって食べてしまいます。白蛇もいます。これは一般的な青大将の説明です。でも、蛇の世界にも変わり者はいます。
雀のところへやって来たのは実に青大将らしからぬ青大将でした。らしからぬから、青大将仲間にはいられなくなって、さみしくしていました。らしからぬと言いましたが、では、どこが一体青大将らしからぬかと言うと、彼は殺生が嫌いだったのです。どうしたら殺生をしないでいいか、ということを、あるときふっと考えてしまったのでした。かといって絶食するわけにもいきません。だから、こうしました。生きているうちには食べないでおこう。今にも死にそうにしていて、苦しがっていて、お願いだから食べて下さいと頼まれた場合だけは勇気を出して食べよう、そういうことにしていました。
いつもは雀や鼠に寄り添って、むしろ友人のようにしていたい、何か助けることがあったら役に立つようでありたい、それがこの青大将の願いでありました。
*
今日はここまでです。次は第三話に譲ります。明日書けるかどうかはわかりません。にんげんだっていろんな生き方をしています。蛇だってそうなのです。
雨は降りそうでいて降らない。どんよりとしたままだ。蛙を待ちぼうけさせている。蛙だけではない、さぶろうも待っている。さぶろうというよりは、畑のサツマイモの苗である。もうひにょひにょになっている。お昼近くになって外に出た。梅の木の下一帯の草取りを仕上げた。草を取ったらそこを耕す。こうしておくと次の土作りが容易だ。座ったままの姿勢で、右手いっぽんに頼るので、右手の筋肉が強張ってくる。戻って来たのは2時だった。汗を掻いていたので、シャワーを浴びてすっきりした。忘れずに咳止めの漢方薬(粒剤)を飲んだ。これを飲んでおくと幾らかましである。それから一人で昼食を作って食べた。完熟梅干しをアペタイトにした。使った食器を洗った。洗ってあった朝食分のお茶碗類を、布巾で拭いて整理棚に片付けた。しばらく休憩する。
*
種から蒔いて育てていた小松菜がほどよい大きさに成長をしたので、昨日間引いておいたので、これを朝の味噌汁の菜にしてあった。葉物の少ない夏場の緑野菜は貴重である。しかし、夏野菜は、冬野菜と比べたら、柔らかさに欠けているように思う。春キャベツをさっき覗いてきたら、凄まじいことになっていた。虫に喰われてすっかり網の目状になってしまっていた。糞の山だ。これじゃ、もう断念するしかない。虫に食べさせるために、わざわざ育てたようなものだった。笑ってしまった。
*
喉飴がきれたので、代わりに東京の土産、榮太郎飴を嘗めている。紅茶味だ。おいしい。
*
この頃さぶろうは、いつ死ぬかわからないなあと思うことが多くなった。明日は葬儀になっていてそれを想像してみることも多くなった。いつ最後の幕切れが来るか分からない。それだけ、老いたということだ。生き延びていく力が衰えてきていることを実感するのだ。裸になると皮膚に細かい皺が寄っていて、その感を強くさせられる。鏡はつとめて見ないことにしているのだが、それでも歯磨きの折などに見えてしまうことがある。ぎょっとしてしまう。これがおれか、とあきれかえる。自分でそうだから人様にはもっと強烈な印象を与えているに違いない。
産経新聞社出版の月刊雑誌「Kiite!」が郵便局で買えるという。新聞広告を見た。早速買ってきてもらった。今月から発売になる。340円。ふううん、だ。郵便局は町の本屋さんになったのか。かんぽの宿の紹介もしてあるから提携事業なのだろう。
大好きな石田ゆり子が表紙を飾っている。美人を見て悪い気はしない。気品があって清楚だ。表紙が欲しかったんでしょうと家内は笑っている。インタビュー記事もある。こういうアトラクテイブな女性のそばに一日いられる人は幸福だろうな、と思う。1時間でもいいのになと思う。さっそくページを捲ってみた。
今月の特集は「御朱印帳」だった。神社やお寺に行くと参拝記念に朱印を押してもらえるようだ。有料だけど。これを集めるコレクターもいるらしい。それぞれ寺社で個性があふれていて、なるほどおもしろい。さぶろうはお寺も神社も好きだ。でも一度もその経験はない。四国のお遍路さんをしているときにも御朱印をもらう列ができていた。
37ページには全国かんぽの宿で利用できる限定クーポン2000円割引券もついていた。やるう~。340円の雑誌を買って2000円割引してもらえるのなら、買わないと損をすることになる。
右前隣にぽんと置いた小冊子の、表紙の魅惑者がこっちを見ている。こんなことはさぶろうの現実には起こらない。写真だから視線の位置はずっと変わらない。魅惑するのはタレントの仕事。なのに、こうして魅惑されているのはいい気持ちだ。この非現実に遊ぶ。
楽しいことがあればいいな。たくさんあればいいな。さぶろうはこんなことくらいしか考えていない。つまりそれくらいの暮らししかしていないということになる。つまらないことばかりして同じくらいの低さを往ったり来たりしている。
そしてときおり思い出したように仏陀のことを考える。すると仏陀がさぶろうの胸の中を居場所にしてくれて、あれこれの説法をしてくれる。それを聞く。
宇宙はゆたかで堂々としているから、さぶろう一人が必要とするくらいの豊かさは惜しみなく差し向けてくれる。余裕綽々で差し向けてくれる。そこを住み処として安心していればいい。そういうことも囁いてくれる。
ほんとうのようでもあり、嘘のようでもある。実際そうであるようにも思えるし、まだ不十分であるようにも思える。既に楽しいことはたくさん味わってきたはずなのに、もっとほしいような気もしている。ここら辺を往ったり来たりしている。
空模様があやしい。天気予報では昼過ぎから降り出すらしい。早く降り出してほしい。数日前、畑の畝に差し込んでおいたサツマイモの蔓が、日照り続きで枯れそうになっているのだ。これにバケツで水遣りをすればよかったのだが、この地道な努力を怠っていた。片足麻痺では、バケツ一杯の水は重すぎるのだ。耕した畑の土はぶよぶよしている。これだとよろよろして歩けないのだ。子守歌にあるように、水は天からもらい水しかない。
お金が欲しい。出掛けるための。大金でなくていい。数日分の宿賃とランチ代と交通費と酒代がないと出掛けられない。夜中寝ていてそれを、つまりどうやったらそれが充足できるかということを考えていた。当てはない。
笠地蔵さんが数人して歩いて来て玄関に大判小判を一枚ずつ置いて行ってくれたらいいな、などと、子どもみたいなことを考えた。笠地蔵さんは笠を差し掛けてくれたご恩を返しに来てくれたもので、さぶろうの過去にはそれに相当する善行がないので、このストーリーは終演する。
収入を得る仕事を何にもしていない。働きに出ていない。食い潰すだけの資産があるわけじゃない。小説の中みたいにパトロンが現れて来る兆しもない。そうであるのに、ほんの少し遊んで、ほんの少しのもう少し楽をしようというのだから、無理がある。
結局はこのところ家の中にいるばかりになっている。まあ、ずっと体調にも自信がなかったのだが。庭や畑の草取りをしている分にはお金は要らない。これも楽しくないことはない。暇潰しにはもってこいである。
今度は腹痛。いきなりだ。はらわたがぐにゃぐにゃして痛い。トイレに直行する。痛みがなかなか出てくれない。辛抱をする。小高い小窓から女竹のそよぎが見えている。ツピーツピーツピーと夏鳥が鳴いている。電線に止まっているのが見える。繰り返し繰り返して鳴いている。雀ほどの小ささだ。やがてするりと抜け落ちたものがあって、楽になった。立ち上がって、振り向いて、水洗されて行く前に、手を合わせた。さっきまでさぶろうの直腸にいて、苦しみを分かち合っていた同朋といった親しみが湧いてきて、感謝の手が合わさった。腹痛は治まった。