シューマンの「子どもの情景」第7曲トロイメライが聞こえて来ている。これでさぶろうは妙におだやかな気分にひたった。恐れるものは何もないという思いがした。なんの根拠もないのにそんな思いがした。外の雨は止んでいたが雲はどんよりした色をしていた。恐れてきた自分の方がまちがった認識をしていたのだと思った。恐れを克服するための練習、鍛錬に明け暮れて、遮二無二竹刀を振り回してきたのだが、今日は汗を掻いたあとで道場に一人で座っている自分を発見したような落ち着きがあった。トロイメライが彼の肩を撫でて行った。
言い聞かさないとさぶろうというやんちゃ坊主はすぐに図に乗って独占してしまうところがある。それで、言い聞かす。「まあ、いいじゃないか。譲ってあげろよ」「半分ぐらいならいいじゃないか」「おまへがおいしいのは弟だって姉さんだっておいしいのだから」などとさぶろうの左脳が諄々と言い聞かす。するとさぶろうの顔はべそを掻く。だから、半分のその半分を分けるのも不承不承なのだ。そのやんちゃ坊主がこの頃あまりべそを掻かなくなってきた。進歩してきた。小学校も3年生になっていた。さぶろうは自分の変化に戸惑っているところだ。どうしたのだろう。ほんの少しだからたいした自慢はできないが、これは変化だ。「奪い合えば足りず、分け合えば余る」いち婆やの繰り言をほんの微量信じてきたようなのだ。自分への分け前が少ないと思ったときも以前ほどには腹が立たなくなってきた。自分へ払い下げられてくる愛情の量が一升枡くらいな時でも、これでいい、これで十分味わえると思うことができるようになってきた。不足分の1合升分くらいは自分で増幅増量ができるという見込みが立ってきたようなのだ。さぶろうはこれは父が自分をそういう幾分余裕のある広い原っぱまで導いてきているのではないかと思うようになった。父が亡くなってからもう随分の月日が経っているが、やっとこの頃になってそれを感じるようになってきたのだった。縁の下には鶏が飼われていた。たくさんいた。雌鳥が産んだ卵は、縁の板を一枚剥がして上から手を下へ伸ばして掴み取った。鶏小屋の中で雄鳥が雌鳥の上に乗っているところを見るとさぶろうは妙に自分が興奮するのを知っていて、自分の興奮を人に覚らせまいと努力した。
ヒヨドリが畑のブロッコリーの葉を食べている。おいしいのだろう。食い散らしてぼろぼろにしてしまう。でも、追い立てない。追い立てようとするが、そこで時間をおく。退け退けと怒鳴るのを思い止まる。種を蒔いて肥料を施して育ててきたとは言っても、ほんとうのところはこれは我が物ではないからである。わが独占物ではないからである。育ててきたと言っても実際は土と太陽と水と風とが育ての親だ。種蒔きをしたさぶろうにすべての権限があるなどと横柄になってはいけない。横着を決め込んではいけなかった。そこを慮って、追い立てるのを思いとどまった。これでよかったのだ。そう思って落ち着いた。
さぶろうは王林の林檎が食べられるようになった。これは吉祥事である。これまで、摺って食べる以外には、林檎は食べきれなかったのである。林檎を囓るときの歯触りとかさっという音が苦手だったのである。摺ってもらうと啜って食べられるのだ。歯槽膿漏を患っているわけではないのに、ずっとこうだった。それがつい先だって薄く切った王林を口にしてこれが解消されたのである。その朝の王林はかさっという音、がじがじという音を出さなかったのである。それからは怖じることがなくなった。先日も自分でわざわざ王林を買って来てしまったほどだ。それ以外のはまだ食べられない。林檎に関しては、幼児段階で食育進歩がストップしているのかもしれない。
「我が物を盗むな」ということは「我が物は盗まれてもいいぞ」ということでもある。我が物というものがないからである。所有していると思っているがこれは勝手にそう思っていることである。本来無所有である。この世にあるものはこの世の物であって、ここに住む者の誰のものでもない。われわれは裸で生まれて来て裸で死んでいく。所有できるものなどは何もないのである。仏教は無所有を教条にしてわが強欲を戒めている。
我が物でもないものを我が物にしている方が泥棒である。盗人である。盗んでおきながら盗人を自認していないから悪人中の悪人である。しかも、おれの物を盗むなと言って憚らないのである。盗んできて我が物にして隠しておいて、人が盗ろうとすると「盗むな」と罵声を浴びせる。所有は人をますます傲慢にしてしまう。
必要なものは与えられているのである。与えられているものでやり繰りをすべきである。不要な大金を一人で蓄え込んで威張っていても無意味なのだ。いくら大金を蓄え込んでいてもこれを役立てなければ無財の者に等しいだろう。胃袋は各人に一つしか無い。大金があるからと言って一日に100人分の100食を平らげるものはいない。
「盗むな」は、仏教でもキリスト教でもユダヤ教、イスラム教でも守らなければならない大切な戒律である。「我が物にしてはならない」「本来無所有である」のにもかかわらず、しかし、われわれは少なからず所有している。これは「しばらくお借りしている」と考えてよいかもしれない。わが肉体もわが所有ではない。お借りしているものである。お借りしているのだからお返しをしなくてはならない。
返した後までそれは我が物だったとして愛着するような不届きを起こしてはなるまい。所有は愛着を生むのだ。愛着を抱え込んでしまうと次の新しい旅の出立が困難になってしまうだろう。無所有がいいのだ。無所有であってよかったのだ。所有に対して強欲してはならないのだ。
放てば手に満つ。両手が把握しているは高が知れている。山川草木、花も鳥も、空も海も、太陽も月も星々も、わが胸中の大宇宙にに満ち満ちているではないか。さぶろうはそんなことを考えてわが現在の貧乏を慰めてみた。小さい小さいさぶろうである。
アムリタは甘露と訳される。「不死の」の義。「阿弥陀如来根本陀羅尼」別称「十甘露呪」の経典の中に何度も現れてくる。甘露尊とは無量寿・無量光如来、すなわち阿弥陀如来を指している。のーぼーあらたんのうたらやーや のうまくありやみたばーや たたぎゃたやあらかてい・・・と続く。これは阿弥陀如来の徳を讃歎する真言陀羅尼(呪)である。
甘露尊よ、甘露より生ぜるものよ、甘露より出現するものよ、甘露を胎とするものよ、甘露によって成就せられたるものよ、甘露の威光あるものよ・・・一切の利益(りやく)を成就せしめるものよ、一切の業と煩悩の滅をもたらすものよ。スヴァーファー。 勝又俊教著「一家に一冊 お経 真言宗」より
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1,中国古来の伝説で王者が仁政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。2,梵語アムリタ。ヴェーダではソーマの汁を指す。神々の飲料で、不死の霊薬とされる。仏の教法をたとえる。3,美味なこと。4,煎茶の上等。5,夏、カエデ、エノキ、カシなどの樹液から甘味のある液汁が垂れて樹下を潤す。6,アブラムシが植物内の養分を吸収して排泄する葡萄糖汁。甘露煮;味醂と砂糖または蜜、水飴などで甘味をきかせて煮た料理。魚介類には醤油を加える。
・・・うんうん、そうだったのか! 面白かった。甘露は神々の飲料で不死の霊薬だったのだ!
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アムリタはわれら衆生の霊薬である。不死の霊薬である。われわれのいのちは不死だということを知らしめてくれる教法、これが甘露の教えある。不死だと言うことは永遠であるということだ。さぶろうは、この甘露の霊薬をすでに飲んだことになる。さぶろうは、わがいのちが不壊であって不死であることをもはや疑っていないからである。