朝一番のいの一番に外に出て草取りに励んで来ました。朝食が済んですぐから。働き者だのう、さぶろうは。そして戻って来てどっかり腰を下ろして緑茶を一服。「ああ、いい気持ち、ああ、いい気持ち」と言ってらあ。さぶろう、よかったなあ。おまえこんないい朝を迎えていられたんだ。
今朝はそんなに寒くない。霜柱も立ってない。屈(かが)み込んで草取りをしていると目白が遊びに来て、ほんの2mほどのところで蜜柑を啄んでいる。こちらをちらちら覗き見をしているが、もう、さぶろうが恐くもないらしい。さぶろうは暴力を振るわない。脅しをしない。平和な穏やかな顔をしている。だから、目白にとって危険ではない。昨日からは熟し柿もタッパーに載せて木の三角股のところに設置してあげた。
さぶろうは昨日ことのほか何度も強く、「無執着」を自分に言い聞かせている。未練を残すな、ということだ。死に際に来て一切の未練を残さない。「燃焼し了った」「燃焼すべき原材料はなくなった」と言い聞かせている。それは選択である。それをそうだと決めてしまうのである。そうではないかもしれないが、そうだと決めてしまって終わりにするのである。そうしてその判断を選択した自分を許している。
この世に未練を残さないのは、先へ進みたいがためである。死んだ後は、逆戻りではなく、停滞停留ではなく、次のステイション、次の星まで一気呵成に進んでみたいのである。次の段階、次のレベルへ行ってこの世にある100基軸のさらに10乗分の光を吸収してみたいのである。
そこの新たなバージョンで新種のよろこびを喜んでみたいのである。次の新たなよろこびをよろこんで輝きを共有したいのである。そう選択をすればそうなれるということを知ったからである。そしてそこからどうするか、それも少しずつ考えている。わくわくしながら考えているところだ。