ロマネスクという名のお野菜をご存じだろうか。お釈迦様の頭のような、鶯色の野菜である。カリフラワーやブロッコリーの仲間のようだ。これがおいしい。2,3分、蒸気で蒸せばたちどころに食べられる。蒸しすぎない方がいい。少々堅めが歯触りがいい。タレは三杯酢でもいい。マヨネーズでもいい。ケチャップ和えでもよさそうだ。さぶろうは今晩これを喰った。さぶろうの畑で育てていた野菜である。これはスーパーなんかには売ってない。売っているところを見たことがない。
しかし、しかし、しかし。ここに生きてここを苦しみここを悲しむことは重要なことだったのである。これがなければ繭は繭のままだったのである。これがあったので、羽化があったのである。成長には欠かせない道行きだったのである。この娑婆世界での長年の懊悩苦悩は、懊悩苦悩のままで終わることはなかったのである。繭は破られて、次に開けていたのである。開けるためには、しかし、しかし、しかし、しかし、ここでもう一段の大ジャンプが必要になっている。それは何か。次の地点に飛躍するための大ジャンプ台が整っていて、ここを勇猛して越えていけるという確信である。条件整備完了の把握と安心である。覚了である。意識改革である。これでアビバッチ、不退転の位置に立てたのである。無明凡愚の人に、恐れはなくなったのである。やがて彼は大ジャンプ台に立つことになるが、彼は称名念仏の力を付与されて晴れ晴れとしているのである。ジャンプした彼の着地点は光明照曜世界である。
吾誓得仏 普行此願 一切恐懼 為作大安 「讃仏偈」より
ごせいとくぶつ ふぎょうしがん いっさいくく いさだいあん
吾 誓うらく 仏となり得なば 此の願いを普く行ぜん 一切の恐懼(くく)(の者)を為(こ)れ大安(の者)と作(な)さん。
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ここの「吾」は阿弥陀如来の修行時の名前である法蔵菩薩である。法蔵菩薩は師の世自在王仏に向かって誓いを立てているところである。
わたしが阿弥陀如来となった時には、<恐れを抱く(苦界の)一切の衆生を大きな安らぎへと導いて行く>という此の願いを普く行じて行きます。
この苦界にいる者は恐懼者である。恐れ戦(おのの)く者たちである。この者たちを大きな安らぎの世界の住人に致します。これをお誓いいたします。
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「讃仏偈」は阿弥陀如来(の前身の法蔵菩薩)の誓いの言葉で、大無量寿経の中に出て来る。四言80句より成る。
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この世に生きる間の恐れ悩み、苦しみ悲しみは、はたしてこの世にいる間だけのものなのか。死んだ後の世界でもこれは改善できずに、却ってますます深まるものなのか。そうだとすれば解決はないことになる。いつまでたっても、行くべきはずの大安心の世界には出て行けないことになる。そもそもそれを懊悩の地獄の底でこれを一挙に翻して、打開する力が残されているかどうか。あり得ることではなさそうである。法蔵菩薩の願は成って阿弥陀如来と成られた。必ず救出できる目途がたったのである。
阿弥陀如来は、自力を当てにせずに、他力に頼め、頼むこころが生まれたらそこですべてが解決できる、という宣言を布告された。無力の者に修行を期待することはできない。頓悟漸悟の双方も望むべくもない。阿弥陀如来は帰命称名という手段を用意された。わたしの名を呼べ、そうすればわたしがスーパーマンとなって汝の前に現れ、汝を救出するであろう、と。それを信じよ、と。そうなることを信じよ、と。
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さぶろうは、そう宣言されても、阿弥陀如来の宣言は彼の脳内の観念に過ぎない、ララバイだと思ってきた。実行はないと思ってきた。それが、このところそうではなくなってきているふうなのだ。これは事実に基づいているという信念のようなものが座を占めだしてきているのである。恐怖心をかなぐり捨てて、大安に行き着けるという安心が生まれて来ているようなのである。
隣町に住む弟がひょいとやって来た。「おーい」玄関で声がする。「おーい」返事をする。もう靴を脱いで上がってきている。「やあ」「やあ」顔を見合わせてお互いの元気を確認する。「今日は大根をもらいに来たよ」「しばらく干して味噌漬けをしたいんだ」と言う。しばらくお茶を飲みながら、正月からこちらのこと、健康状態、家族のこと、旅行へ行ったことなどを話し出した。話があらかた済んだので、いっしょに外へ出て畑に向かった。立派に育った大根を8本、白菜の大きくなったのを2株抜いたあと、一夜漬け用の葉大根をどさりと間引きした。遅く蒔いたので今がちょうど適期になっている。「よしよし、これで当分はおいしいものが食べられそう」と弟は満足げだった。彼は、庭の隅っこの<どんだ(土手)>に、藪椿が咲いているのを見つけて、崖をよじ登って、若い蕾を幾枝か手折った。「素朴でいいねえ」「真冬に咲く寒椿はいいねえ」兄弟がこの点でことさら一致した。「春になってあたたかくなったら、どっかへ出掛けようじゃないか」「うん、そうしよう」ここでも意見が一致した。やがて弟は「じゃあね。元気でね」と手を振りながら帰って行った。
小学生が、下校途中で、我が家を訪れる。ほとんど毎日。ランドセルを背負ったまま、元気よく、ばたばたばたと走り込んで来る。今日は書斎にいるさぶろうを覗き込んで手を振った。さぶろうも手を振る。「お帰りなさい」「寒かっただろう」の声をかける。子どもたちはにこにこしている。窓を開けて首を出す。今日は小雨の日だったので、傘も手にしている。首からは飲料水の入ったボトルも提げている。1年生と2年生の男の子は兄弟だ。お兄ちゃんの後から付いて来て、真似をする。今日はもう一人、3年生の男の子が加わった。彼らは猫を玩具にして遊び出す。さぶろうは玄関から外に出て彼らに合流する。目白に食べてもらうための蜜柑の箱から取り出してお蜜柑をあげる。お腹が減っているのだろう、彼らは手袋を脱いで皮を剥きだす。2年生が家で飼っている猫の話を始める。1年生が「おじちゃん、今日僕は喧嘩しちゃった」と告白する。「ふううん」「そうか、喧嘩をしたのか」と聞いて顔を覗き込む。「じゃ、明日は仲直りをしなくちゃいけないね」さぶろうは付け加える。年長者の3年生はおとなしくしている。「さ、もう帰ろう」彼が切り出す。後の二人がこれにすぐに従って、やがて庭先から小学生の元気な姿が消えた。
情報発信、といったって、さぶろうが書いているブログ「おでいげにおいでおいで」はこの機能を達成していない。役に立つ情報なんてこれっぽちもない。すべて役立たない。いい加減の<でまかせ>ばかりで他愛もない。ま、しかし、これでいいかもしれぬ。役立つ情報を発信している人に、それは一任しておけばいいことだ。そういう方はいっぱいいらっしゃる。それに、無用の用ということもある。徒手、赤手、空拳の空っぽもいいではないか。そういうことにしておこう。でないとここから先が書けない。
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お日様が射してきた。小雨も止んだ。暗い空が明るくなった。ふう。気持ちいいなあ。
アネモネが笑ってる。嬉しいんだろう。このアネモネさんは超特大である。真っ白。首も長くて、でかい。兎に角どでかい。もう幾日こうして大輪を咲かせ続けているだろう。寂しがり屋のさぶろうを寂しくさせないという使命、これを存分に果たしている。
植物にも意識がある。さぶろうはこれを疑っていない。だから、意識対意識で繋がり合えるはずである。魚心に水心。魚に心があれば、水もまたこれに応じるこころを備える。さぶろうにこころがあれば、アネモネはこれに応じるこころを備えてくるだろう。互いにいのちを生きているのだ。宇宙のお命を生きているのだ。生きて楽しんでいるのだ。
「はるのにおい」
におい せっけんのにおい かみのにおい かあさんのにおい
におい きっちんのにおい ゆげのにおい はらがすくにおい
におい なっちゃんのにおい ばらのにおい とけそうなにおい
におい あっまいにおい もものにおい さんがつのにおい
におい ぽっかぽかのにおい つちのにおい おおぞらのにおい
におい ふっくらなにおい ぱんのにおい しあわせのにおい
におい おっぱいのにおい わかいにおい きゅんとくるにおい
「小窓」
たった小雨のこれしきで、わたしは何処にも行かれない。古い屋敷に小窓がひとつ。小窓がわたしをとざしてる。
たった小雨のこれしきで、わたしは鍵をかけられる。お空がわたしを覗くとき、あなたの翼も見えて来る。
たった小雨のこれしきで、わたしはつめたくなるばかり。思いの翼つけて来る あなたが透けて消えぬよう。
たった小雨のこれしきで、わたしの両手は祈る手に。わたしを救いに来る翼、小雨が解かして行かぬよう。