小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



相模湾に面した小田原では古くから漁業が盛んで、江戸時代になると様々な漁法が取り入れられるようになり領内の漁村は急速に発展した。また明治以降は漁船にエンジンが搭載され遠洋の漁場にも向かうようになった。しかし、当時は天気予報や無線なども無く暴風波浪の度に多くの漁船が遭難したようで、海辺のお寺の境内に水難事故に遭った漁船の慰霊碑や供養塔がいくつかみられる。小田原市寿町の墓所の入口には昭和初期に遭難した漁船の供養塔がある。小田原市寿町の本光寺の墓所。一般的に寺院は本堂の近くに墓所があることが多いが、本光寺の墓所と本堂は300mほど離れている。もともと本光寺は現在の下水道終末処理場の辺りに所在していたが、明治29年の洪水の際に本堂が流出してしまい現在の場所に移転。墓所は当時と同じ場所のまま残されたのでこのような位置関係にあるとのこと。墓所入口の片側には無縁塔、もう片方に遭難供養塔が建てられている。この遭難供養塔は昭和4年に遭難した房五郎丸の乗員の供養のため昭和6年に建立されたもの。水難事故の供養塔や慰霊碑は名号や題目のほかは施主と遭難者の名前のみのタイプが多いが、この房五郎丸の遭難供養塔には、遭難に至る状況や天候などが詳細に記載されている。碑文によると房五郎丸は南酒匂の常盤家所有の遠洋漁業発動汽船で乗員は13名。昭和4年4月18日に千葉県銚子港を出港し4月21日に勝浦沖で操業中に暴風に遭い遭難。その後10日間に渡り捜索するも船の残骸も乗組員も見つからず捜索を断念した旨が記載されている。供養塔の下部には遭難した乗組員の氏名と年齢が刻まれている。房五郎丸の松本船長は当時33歳、その他の船員は皆20代の若さ。若くして亡くなった船員達の無念さが偲ばれる。

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