小田原周辺のマイナースポットや些細な出来事を少しずつ
小田原の端々



土木遺産の顕彰を通じて歴史的土木構造物の保存に資することを目的として、公益財団法人日本土木学会が平成12年から優れた土木遺産の認定制度を設立。
毎年20件前後の歴史的土木構造物を土木遺産として選出している。小田原市内にもいくつか土木遺産に選出された構造物があって、このたび酒匂川橋梁近くの土手に記念碑が建立された。8月中旬頃から東海道線酒匂川橋梁右岸側の土手で記念碑設置のための工事が始まった。工事中は説明部分の銘板が取り付けられていなかったので、何の記念碑なのか分からず気になっていた。先週日曜日、ランニング途中に記念碑前を通ると養生が外されて記念碑が完成していた。記念碑は公益財団法人土木学会関東支部の他、小田原市や小田原箱根商工会議所などが設置実行委員会を組織して建立したもの。記念碑は高さ約80センチ前後。記念碑上部は土木遺産に選奨されている酒匂橋橋梁の説明文のプレート、下部には土木学会選奨土木遺産の銘板が取り付けられている。酒匂橋橋梁の説明プレートによると、土木遺産となっているのは旧熱海線鉄道施設群酒匂川橋梁(貨物線部)。大正時代の鉄道橋黎明期の代表的鋼橋で竣工は大正9年。竣工から100年を越える歴史と、当時の優れた土木技術が伺える橋梁であることから、令和元年度に日本土木学会選奨土木遺産に認定された。土木遺産に認定されている酒匂川橋梁は貨物線部なので、真ん中の橋梁。普段乗車している東海道線や湘南新宿ラインが使用している橋梁では無いが、信号機トラブル等でごくまれに貨物線利用で国府津駅へ運行することがあるので酒匂川を渡る時に土木遺産に認定されている橋梁を通過するのか気にしたい。

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散策の際に石仏石塔を探すのが好きで寺院や路傍に置かれているそれらの写真を撮っている。小田原市府川にあるお寺の境内にはユニークな彫刻が施された石塔があって、近くを通ると立ち寄っては眺めている。小田原市府川にある正應寺は曹洞宗の寺院で、大雄山線飯田岡駅より西側約1kmほどの場所に所在。境内には石塔が多いが、本堂へと向かう参道脇に目をひく石塔が立っている。石塔の一面に大きく彫られているのは「金光明最勝王経」の文字。帰宅後に調べたところ、8世紀ごろに伝わった経典で聖武天皇が『金光明最勝王経』を写経して全国に配布。全国に建立した国分寺と密接な関係がある経典とのこと。正應寺の金光明最勝王経塔の歴史が分かるヒントがないかと残りの3面を調べると、裏側に造立の年号が刻まれていた。文化13年とあるので西暦に直すと1816年。今から200年ほど前に造られた石塔で、碑文の全ては理解出来なかったが当時の住職が造立したようだ。正應寺の金光明最勝王経塔のユニークなところが、基礎部分が亀の彫刻になっていて亀の甲羅にめり込むように塔身が立っている。市内では光明最勝王経塔は他に見たことがなく、また基礎部分に亀の彫刻のある石塔も記憶にないのでかなり珍しい石塔だと思われる。亀の彫刻は顔の部分が一部欠損しているが、憤怒の表情で迫力がある。和風というより、アメリカのSFコミックに出てきそうなデザインで面白い。塔身の一面には梵字が彫られている。帰宅後に専門書と見比べながら解読しようとしたが当てはまる種子や真言が無くて解読不能。おそらく金光明最勝王経の一節が彫られているようだ。正應寺の金光明最勝王経塔を眺めていると、今から200年以上前にどのような経緯で石塔が作られ、石工が趣向を凝らしたのかと色々と想像を掻き立てられる。また近くに出かけることがあれば迫力のある亀の彫刻を眺めに立ち寄りたい。

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石仏や石塔が好きで散策の際に見かけては写真に撮って記録に残している。先日、車でおだわら諏訪の原公園近くの道路を通った際に、道路脇に石塔があることに気がついて週末に調査に出かけた。おだわら諏訪の原公園のトンネルを抜けて県道74号へと下る途中に今回の目的の石塔がある。最近になって道路脇の木が伐採されて藪の中にあった石塔が見えるようになったので気が付くことが出来た。道路脇の小高い場所に石塔が3基並んでいる。石塔の中でも薮の中や人里離れた場所にあるものは個人的にとても興味をそそるので期待が高まる。 3基並んだうちの左側の石塔は正面に碑文がないものの、彫られている彫像から庚申供養塔だと類推できる。三面六臂の青面金剛像の下には「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿。石碑裏の碑文は摩耗が激しかったが正徳の年号が読み取れたので1711年~1715年までの間に造立された石碑で300年の歴史がある。右側の石塔の正面には一面六臂の青面金剛像と三猿が彫られている。この石塔は碑文が大きく彫られているので読み取りやすく庚申と刻まれていたので庚申供養塔だと分かった。年号は元文元年なので1736年に造立された石塔。真ん中の石塔は碑文の摩耗が激しくて解読不能だったが3面にそれぞれ猿が彫られているので恐らく庚申供養塔だと思われる。今は廃れてしまった民間信仰の庚申待は江戸時代はこの小田原でも盛んに行われていたようで、各地に関連する石塔が点在している。市内にはまだ訪れたことのない石塔が沢山残っているので、これからもちょくちょく探しては記録に残したいと考えている。

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小田原市内には明治維新以降の戦争で亡くなった戦没者を慰霊する慰霊塔や忠魂碑が各地に点在している。小田原市早川の寺院には太平洋戦争で沈没した駆逐艦戦没者の慰霊碑がある。小田原市早川の東善院は早川の街並みを見下ろす魚藍観音のある寺院。その魚藍観音の横の階段は墓所へと続いている。魚藍観音の横の階段を登っていくと墓所の一角に駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑が建立されている。五月雨は昭和12年に竣工された日本海軍の駆逐艦。戦後70年以上が経過しているがまだ参拝に訪れる人がいるようで慰霊碑には供え物が手向けられている。駆逐艦五月雨は昭和16年の太平洋戦争開戦から様々な任務に従事して昭和19年の8月にパラオ近海で座礁中に敵潜水艦からの攻撃を受けて大破沈没した。慰霊碑の下部には戦没者の名前が年月日とともに刻まれている。昭和17年10月14日が10名。昭和18年11月2日が6名。昭和19年8月26日が9名。帰宅後に調べたところ昭和17年10月14日はガダルカナル島の戦いで輸送艦を援護中に空襲を受けたとの記録があった。また昭和18年11月2日はブーゲンビル島沖海戦に参戦中に米艦隊と交戦。その際に混乱して味方同士でも衝突があったようで6名が亡くなっている。一番最後に刻まれている昭和19年8月26日は五月雨がパラオ近海のガルワングル環礁で座礁中に米潜水艦バットフィッシュから攻撃を受けて大破した日。五月雨の乗務員は駆逐艦竹に移乗してガルワングル環礁から脱出し戦後、元乗組員による五月雨会が結成された。駆逐艦五月雨の戦没者慰霊之碑が小田原に建立された経緯は、五月雨会のメンバーの中に小田原出身者がいたこと。元乗組員9名が発起人となり、場所の選定と寄付金集めを行い昭和57年8月22日に遺族ら55名が参列して除幕式と開眼法要が行われた。駆逐艦五月雨戦没者慰霊之碑は相模湾を望む早川の高台から五月雨の建造地である浦賀に向け建てられている。

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市内には事故や災害で亡くなった人の供養塔が各地に建立されている。供養塔の場所は寺院の境内のほか、事故や災害のあった場所に建立されることも多い。小田原市米神の国道沿いには昭和39年に交通事故で殉職した警官の供養塔が今も残っている。小田原市早川から海沿いを伊豆方面へ続く国道135号。海岸に沿って続く道路はカーブが連続していて国道開通後から交通死亡事故が多く起きている。その国道135号の米神港先のカーブで昭和39年に交通取締り中の警官が交通事故で殉職している。事故現場の近くの国道脇、雑草に隠れるようにして一体の地蔵像が置かれている。地蔵像の下の台座には橋口末治 昭和三十九年五月十六日没と刻まれている。この橋口末治という人物は当時、神奈川県警第ニ交通機動隊の巡査で事故当日に国道135号で交通取締りを行っていた。橋口巡査は事故当日、スピード違反のバイクを発見し真鶴方面から上り線を追跡中に、センターラインをオーバーして対向車線のトラックと正面衝突して23歳の若さで殉職。神奈川県警に交通機動隊が出来て初の殉職者となってしまった。事故から10年が経過した昭和49年。橋口巡査の同僚ら22名が中心となって、故人の冥福と一般ドライバーに危険なカーブ地帯であることを知らしめるために供養塔を建立した。この供養塔の開眼供養式は昭和49年7月16日に成田の成願寺で行われ、その後事故現場近くの国道沿いに置かれた。事故から来年で50年。今は供養に訪れるほとんどいないようで雑草に隠れるようにしてひっそりと地蔵像が道路脇に佇んでいる。

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