平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

傷だらけの私たちを癒すイエス(2017.7.5 祈り会)

2017-07-06 06:55:17 | 祈り会メッセージ
2017年7月5日祈り会メッセージ
『傷だらけの私たちを癒すイエス』
【マルコ14:27~31、66~72】

はじめに
 2週間前は大雨・洪水警報が出ましたから、祈り会は中止にしました。その後も雨が降る日が何日もあり、そして昨日はまた台風の通過に伴って大雨・洪水警報が出て、かなり強い雨が降りました。そういう中にあっても5月以降は、会堂の雨漏りがありませんから、とても感謝に思っています。
 思い返すと、今年の4月前半には、雨が降る度に雨漏りがしていました。私はその度に屋根に上がり、怪しいと思われる箇所に補修剤を塗り付ける作業を繰り返しましたが、雨漏りは一向に止まりませんでした。それで私は途方に暮れました。私が気づいていない箇所で雨漏りがしているわけですが、それをどうやったら見付けられるのか、わからずにいましたから、本当に困りました。
 それで私は、練り歯磨きのような補修剤ではなくて、水のような液体の補修液があれば、目に見えない小さな穴でもそこに流れ込んで、穴を塞いでくれるのではないかと考えました。そうして、そのような補修液がないかネットで検索したら、ちゃんとそのような製品がありました。それで、その補修液を屋根に何度も重ね塗りをしたら、雨漏りは治まりました。これで当分の間は大丈夫だろうと思いますから、感謝です。

みじめな失敗を犯した人々を描く聖書
 さて、今月から祈り会のメッセージのテーマを変えることにします。どういう方向に変えるかということを、まず少しの間、話すことにします。
 今の日本を率いている人々を見ていると、自分に近い人々を優遇することが、まかり通っています。もともと人間とはそういうものだとも思いますが、特に与党が衆議院の3分の2以上の議席を獲得した2012年の12月以降、その傾向が目立ち始め、段々と露骨になりました。衆議院で2/3以上の議席があれば、たとえ参議院で可決されなくても衆議院で2/3の賛成によって法案を通すことが可能だからです。そうして国民の間で賛否が分かれる法案でも強行採決を繰り返すようになり、政権交代から4年半が経った今は本当にひどい状態になったと感じます。
 特に、きょうの7月5日付けで財務省の佐川宣寿氏が国税庁の長官に就くという人事には驚き呆れました。佐川さんは、国有地が森友学園に約1/10の安い価格で売却された問題の国会答弁で、記録は一切残っていないと強弁し続けた人です。5年以上前の記録ならともかく、1年以内の記録すら処分したため残っていないと言い張った人です。そんなことは普通は有り得ないわけで、明らかに嘘を付いているわけです。仮に嘘ではなくて本当に記録が残っていないとしたら、それは何かやましいことがあるから証拠を隠滅したとしか思えません。そのようなことに関わっている人を国税庁のトップに就かせる人事は、税金を納める我々国民の気持ちをまったく理解していないと言わざるを得ません。こんなことでは世の中が良くなるはずがありません。
 こんな風に世の中がおかしくなっている今、私は聖書を宣べ伝えることの重要性がますます増していると感じています。それは聖書に登場する人物の多くが、みじめな失敗を犯した者たちだからです。聖書は、そこから教訓を得る書物だとも言えます。聖書においてはイエス・キリストを十字架に付けた人々も失敗を犯した者たちです。そしてイエスの弟子たちも失敗を犯しました。さらに言えば、現代の私たちもまた、失敗を繰り返しています。そして、今の国を率いている人々もまた、国民の気持ちがわかっていませんから、失敗を犯している人々です。国民のことがわかっていない者は上に立つ資格がないのに、自分は資格があると思い込んでいますから、失敗を犯している人々と呼ばなければなりません。そういう意味で私たちは皆がみじめな者たちです。聖書はそれを教えてくれます。この聖書のことがほとんど知られていない現状を、私たちは変えていく必要があります。

ペテロのみじめな失敗
 さて、そのようなみじめな失敗を犯した聖書の人物たちの中から、きょうはペテロを取り上げます。今日だけではなく、ペテロについては何回か取り上げたいと思います。そして聖書は、こういうみじめな失敗を犯した人物には事欠きませんから、この祈り会ではしばらくの間、そのような人物をシリーズで見て行こうかと思います。それはまた私たちの姿でもあり、神様はこんなみじめな私たちをも愛して下さっているという豊かな恵みもまた、お伝えすることができたらと思います。
 きょうはペテロが犯したみじめな失敗の中でも特に有名な、イエスを三度知らないと言った出来事を取り上げます。
 ペテロがイエスを三度も知らないと言ったことは、もちろんそれ自体が失敗です。しかし、ペテロは失敗を犯す前に、自分は決してそのような者ではないと強がっていたことによって、失敗が一層みじめなものとなりました。
 皆さんが良くご存知の箇所ですが、まずマルコの福音書14章の27節から31節までを交代で読みましょう。 

14:27 イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから。
14:28 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」
14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」
14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

 29節でペテロは言いました「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」そんなペテロにイエスは言いました。「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
 するとペテロは「力を込めて言い張った」と31節にあります。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」これだけ、強がったペテロでしたが、結果は皆さんがご存知の通りです。
 66節から72節までを交代で読みましょう。

14:66 ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、
14:67 ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
14:68 しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない」と言って、出口のほうへと出て行った。
14:69 すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です」と言いだした。
14:70 しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」
14:71 しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
14:72 するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。

 このペテロのことを、あざ笑うことができる人はいないでしょう。私たちは皆、ペテロのようなみじめな失敗を犯すかもしれませんし、既に犯してもいます。まずは出発点として、この共通理解に立つ必要があるのではないでしょうか。

ペテロの心の傷を癒すイエス
 それなのに、今の世は多くの人が失敗を犯す前のペテロのように、自分は他の人とは違う、自分は大丈夫だと思っているような気がします。そして異なる意見を持つ人々との間で批判合戦を展開しています。一方がもう一方を馬鹿だと言い、言われたほうもそういうアンタが馬鹿だと言い、双方が相手を馬鹿だと言い合っているように思います。これではイエス・キリストが望む、皆が一つになる方向には進みません。
 イエス・キリストはみじめな失敗を犯したペテロを批判し罵倒するようなことはしませんでした。これもまた皆さん、よくご存知のヨハネ21章の、イエスペテロに「あなたは私を愛しますか」と三度聞いた場面を交代で読みましょう。15節から17節までです。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 イエスはペテロを批判することなく「あなたはわたしを愛しますか」と聞きました。それに対するペテロの答えもすごいと思います。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは人の心が読めますから、口で「はい。主よ」と答えたことが本当か嘘かがわかります。ペテロはそのことがわかっていて、「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と言いました。ペテロは失敗を経たことで、すべてをイエスにお委ねすることができるようになっていました。
 そういうペテロのことを、イエスは愛しています。ペテロもまた、イエスの愛弟子です。

自分で自分を守るのではなく、イエスに委ねる
 人は色々な心の傷を抱えています。それゆえ人を批判する時に敢えて、その傷に触れるようなことを言うと、却って相手は怒り、手に負えなくなることがあります。今の日本のリーダーには、そのような傾向が見て取れます。今の日本のリーダーにこそ、イエス・キリストの声が届く必要があると思います。イエス・キリストの霊は人の目には見えない心の傷にも浸み込んで行って、癒して下さいます。きょうの最初に屋根の雨漏りの補修液の話をしました。この補修液は人が気付かない小さな傷口でも、そこに浸み込み、傷を塞いでくれます。
 私たちも色々な傷を抱えています。そして、その傷を守ろうとして必要以上に厚い防御をしたり、相手を攻撃したりします。しかし、そのようなことをしていては、世の中は少しも良くなりません。自分の傷を自分で守るのではなく、すべてをイエスの御手に委ねるなら、イエスが傷を癒して下さいます。そのように私たちがすべてをイエスに委ねるなら、私たちが暮らす世の中は、もっとずっと良くなっていくでしょう。
 このイエスを宣べ伝えて行くための働きを、私たちが進めて行くことができますように、お祈りしたいと思います。
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奥深い自分に忠実だったパウロ(2017.7.2 礼拝)

2017-07-03 12:31:39 | 礼拝メッセージ
2017年7月2日礼拝メッセージ
『奥深い自分に忠実だったパウロ』
【使徒14:19~28】

はじめに
 使徒の働き14章の学びを続けます。先週学んだ箇所では、パウロとバルナバはガラテヤ地方のルステラにいました。
 このルステラに足がなえた人がいて、パウロがこの人に「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言ったところ、この人は飛び上がって、歩き出しました。これを見たルステラの人々は「神々が人間の姿をとって、私たちのところにおくだりになったのだ」と言って、パウロとバルナバにいけにえを捧げようとしました。
 このように、唯一の神ではなくて分業制の神々を信仰するルステラの人々は、八百万の神々を信仰する日本人に似ているように思われます。それで先週は、このような分業制の神々を信仰する人々は、唯一の神のスケールの壮大さがわかっていないのではないかという話をしました。私たちは、聖書の神様がいかに壮大なスケールのお方であるかを、お伝えして行きたいと思います。

第一次伝道旅行を終えたパウロとバルナバ
 さて、きょうは使徒の働き14章の19節からです。19節と20節、

14:19 ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

 アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが、ルステラの町に来て、パウロを石打ちにしてしまいました。この19節と20節については、後でまた取り上げます。その前に、14章のおしまいまでを簡単に見ておくことにします。21節から23節、

14:21 彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、
14:22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。
14:23 また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

 これらの地方では多くの人々が信仰に入りましたから、教会が形成されていたのですね。 パウロとバルナバは「彼らのために教会ごとに長老たちを選び」ました。そして、24節から26節まで。

14:24 ふたりはピシデヤを通ってパンフリヤに着き、
14:25 ペルガでみことばを語ってから、アタリヤに下り、
14:26 そこから船でアンテオケに帰った。そこは、彼らがいま成し遂げた働きのために、以前神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。

 パウロとバルナバは、最初の出発点のアンテオケ教会に戻って来ました。こうしてパウロの第一次伝道旅行が終了しました。
(後ろの地図で第一次伝道旅行の経路を、もう一度確認しておきましょう。)

 そして27節と28節、

14:27 そこに着くと、教会の人々を集め、神が彼らとともにいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったこととを報告した。
14:28 そして、彼らはかなり長い期間を弟子たちとともに過ごした。

 こうしてパウロとバルナバは第一次伝道旅行を終えてアンテオケ教会に戻って来ました。

石打ちに遭ったパウロ
 さて、きょうの箇所の最初のほうで見たように、パウロはこの第一次伝道旅行の途中のルステラの町で石打ちに遭いました。もしパウロが石打ちで死んでいたら、そこでパウロの伝道旅行は終わり、第二次伝道旅行も第三次伝道旅行も行われなかったことになります。
 ステパノの場合は石打ちで死に、パウロの場合は石打ちで死にませんでした。ステパノは石打ちで死にましたが、これがきっかけでエルサレムの教会の人々が各地に散らされて、キリスト教が広大な地域に広く伝わることになりました。そしてパウロは石打ちで死なずに第一次伝道旅行を終えて、やがて第二次伝道旅行でヨーロッパにキリストの教えを広めました。パウロはこのことに用いられるために死なないように神様が守って下さったのでしょうか。神様の御心は計り知れませんから私たちにはわかりませんが、結果だけを見るなら、そのように見えます。
 では、改めて使徒の働き14章の19節と20節を、ご一緒に読みましょう。

14:19 ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した。
14:20 しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町に入って行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

 群集はパウロが死んだと思いました。ということは、パウロは相当にひどいダメージを受けたということです。しかしパウロは立ち上がって町に入って行ったとありますから、これは奇跡的なことです。やはり主がパウロを用いるためにパウロを守ったのでしょうか。本当のところはもちろんわかりませんが、そのようなことを感じます。

様々な艱難に遭ったパウロ
 パウロが石打ちに遭ったことは、パウロ自身もコリント人への手紙第二に書いています。第二コリント11章を、ご一緒に読みましょう。この第二コリント11章でパウロは、自身がこれまでにどれくらいの艱難に遭ったかを書いています(新約聖書p.359)。23節から27節までを交代で読みましょう。

11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。
11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 25節に「石で打たれたことが一度」とあります。石打ちは死刑ですから、普通は死にます。ですから、もしパウロがもう一度石打ちに遭っていたら死んでいたでしょう。それにしても、パウロは何と多くの艱難に遭ったことでしょうか。これだけの艱難に遭いながら、なお、くじけずにイエス・キリストの教えを宣べ伝え続けることができたのは、なぜでしょうか。
 それは、聖霊の力を受けていたからですね。使徒の働き1章8節には、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」とありますから、聖霊を受けた者はイエスさまの証人になります。
 この、聖霊を受けると力を受けてイエスさまの証人になるということは、この礼拝でも前から繰り返し話していることで、パウロもその聖霊の力を受けていました。それに加えて、きょうはまた別の観点から話してみたいと思います。

奥深い自分に忠実だったパウロ
 それは、パウロが「奥深い自分に忠実であった」ということです。この「奥深い自分に忠実である」ということについては、『自己愛とエゴイズム』(ハビエル・ガラルダ著、講談社現代新書)という本の紹介で話したことがあると思いますが、きょうを含めて、これから、このことを私は繰り返し述べていくべきであることを示されています。きょうは、この本の内容には深く立ち入りませんが、近々、紹介する機会が持てたらと思っています。
 「奥深い自分に忠実である」とは、まず小さな例を挙げるなら、こんなことです。私は同じ食品を2個ずつ買うことが多いです。それは毎日買い物をするよりも2日に一回買い物をしたほうが食料費を節約できることを経験的に知っているからです。そして、自分の買いたいものが棚に2個しかないことが、たまにあります。その時、2個あって良かったと思って2個とも買い物カゴに入れてしまうこともありますが、1個だけにして、あとの1個は他の人のために残しておくこともします。前者は自分のことだけを考えており、後者は他者のことを考えています。そして後者のほうが奥深い自分が満足することを感じます。
 或いはまた、電車に乗った時、空いている席を見つけて、その方向へ向かっている時に、別の人もその席に向かっているのが目に入ったなら私は譲ります。なぜなら却って足を速めてその席に突進して座っても後味の悪い思いをすることを経験上、知っているからです。奥深い自分は我先に席を勝ち取ることを望んではいません。奥深い自分は、自分のことよりも他人のことを優先します。

奥深い自分に忠実だった前川氏、忠実でなかった佐川氏
 私がどうして、この「奥深い自分に忠実であること」を今回のメッセージで語ることを示されたかというと、テレビで官僚や元官僚の発言を見て、これらの人々の「奥深い自分」について考える機会があったからです。ごく最近のニュースでは財務省の理財局長の佐川という財務官僚が国税庁長官になるということが報じられていました。この佐川さんは、森友学園への国有地の売却問題を巡って野党が国会で文書の存在を追及した際に、文書は処分したから存在しないと言い張った人です。森友学園へは不当に安い価格で売却された疑惑がありますから、価格の算出の根拠を示すように野党が言っても、記録した文書が最早存在しないから確認できないというようなことを言っていました。パソコンのデータは自動的に消去されるようになっているとすら言いました。しかし記録を大事にする文化がある官庁のパソコンがそんなことになっているとはどう考えてもおかしいわけで、おそらくは虚偽の答弁をしているわけです。
 このような虚偽の疑いが濃厚な答弁によって、一部の人々の地位が守られますから、それら一部の人々にとっては幸いなことと言えるかもしれません。しかし日本人全体にとっては極めて不幸なことです。そのことは佐川氏の奥深い自分はわかっているはずです。しかし佐川氏は奥深い自分の声が聞こえないように心の耳を閉ざしてしまっています。そういうことができる人でないと出世はできないのかもしれません。奥深い自分の声に忠実に生きている人であったら、こういう世界で高い地位を得ることは難しいのでしょう。
 文部科学省の元官僚の前川さんも、そのようにして事務次官にまで上り詰めたのかもしれません。しかし天下りの問題で事務次官を辞めましたから、自由な立場になりました。そうして前川さんが言って有名になった「あったものを、なかったことにはできない」という言葉からは、前川さんが奥深い自分に忠実でありたいと願っていることが伝わってきます。

奥深い自分に忠実だったイエス・キリスト
 奥深い自分に忠実になって、人のために生きようとする人が増えるなら世の中は良い方向に向かって行くでしょう。その反対に奥深い自分の声に耳をふさいで自分のために生きる人が増えるなら、世の中は悪い方向に向かって行くでしょう。
 イエス・キリストはもちろん、奥深い自分に忠実な方でした。イエスさまは十字架を目前にして父に祈りました。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコ14:36)
 イエスさまはできることなら、十字架に付けられたくはありませんでした。それは当然のことです。しかし、イエスさまの奥深い自分は父の御心に従うことを望んでいましたから、そのようにしました。それは私たちを罪の奴隷から救い、命を得させるためでした。
 パウロにも、もっと楽な人生を歩む選択肢があったはずです。しかし、パウロもそうはしませんでした。それはパウロもまた奥深い自分に忠実だったからです。
 奥深い自分に忠実であるとは、結局のところ、いつも共にいて下さるイエスさまの声を聞くということであろうなと思います。聖霊を受けていなくても、イエスさまはいつも私たちと共にいて下さいます。そして奥深いところから私たちにいつも声を掛けて下さっています。イエスさまを信じて聖霊を受けるなら、そのイエスさまの声がそれ以前よりもずっとハッキリと聞こえるようになります。
 私たちは、この奥深いところから聞こえるイエスさまの御声に耳を傾けながら、進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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