ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

結婚式つながりで(その3)

2006-08-31 17:24:45 | 能楽
それではコメントをつけて下さった そこのハンカチ王女さまに入れ知恵をしますと、じつは結婚披露宴でオプションで謡がつく会場というのは、あるんです。ぬえも何度も出演しております。

まあ、ホテルのような会場ではなく純日本風の会場だから、そういう企画も生まれたのでしょうね。ここの場合、披露宴をされるカップルから謡の希望が出た場合、ぬえの友人の能楽師に連絡が行って、スケジュールの都合がつく場合は出演する、というようなシステムのようです。やはり披露宴も休日になさる場合が多いから、能楽師の公演のスケジュールとバッティングする事も多いので、必ずしも希望通りに出演できるとは限りません。そんで、その友人が催しなどで出演できない場合は ぬえに連絡が来て、ぬえのスケジュールが空いていれば代役で出演するわけです。

こういうワケで ぬえは友人のピンチヒッターなのですが、能の催しがなくて経済的に苦しい時などはありがたいアルバイトになっています。。ぬえは友人のお祝いなどで儲けるような事は潔しとしないけれど、ここではビジネスとしてシステムが構築されているのだから、ありがたく謝礼を頂戴していますね。こういう会場もあるのです。

そういえば結婚式での謡の作法について、いろいろ興味深い話があります。

ぬえが聞いた話では、結婚式での『高砂』は、本来は仲人さんが謡うのだそうです。それも、昔は難しいしきたりがあったそうです。地方にもよるのでしょうが、ぬえが聞いたのはこんな作法。

花嫁さんが馬の背に揺られて(!。。いつの時代?)新郎の家に嫁いで来る。まさに「嫁入り」の時代ですね。新郎は座敷に正座していて、また仲人さんは新郎の家の門前に筵を敷いて花嫁の到着を待っている。さて遙かに花嫁を乗せた馬が引かれて来る行列が見えたならば、仲人さんはおもむろに『高砂』を謡い出し、花嫁が門前に降り立つところまでに謡い配る。。

。。『高砂』のどこを謡ったのでしょうね? 「四海波」ではないだろうけれど、一般的な「待謡」だとしても、どんなにゆっくり謡っても、花嫁行列を遠望して、それが到着するまで謡い続けるのは無理。まさか番謡ではないだろうから、普通に考えれば一箇所か、またはいくつかの小謡の箇所を繰り返し謡ったのでしょう。

ちなみに先ほど書いた ぬえがときおり出演させて頂く会場では、この方式にできるだけ近い形で「待謡」を謡います。つまり新郎新婦の入場から、高砂の席に着くまでに、ぬえと助吟二名で謡い配るのですが、ゆっくり謡っても、それでも「待謡」だけでは足りません。そこでやはり「四海波」を足したり。。ぬえは工夫でいつも最後に『皇帝』を独吟します。

そしてその後に『羽衣』の仕舞を舞う、というのがこの会場の定番のようで、結婚式での仕舞は良いですね。ぬえも謡うだけより舞う方が好きで、結婚式にお呼ばれするとよほど会場が狭くなければ必ず仕舞を舞っています。

あ、だんだん結婚式の謡ネタが面白くなってきた。次回は文句の「翳シ」について。

鵜澤速雄師逝去

2006-08-30 19:00:02 | 能楽
あまりにも突然でした。聞けば7月に観世流シテ方の会の翌日に恒例で行われるゴルフにいつものように出かけられたそうで。。 ぬえもまさか一週間の間に能楽師が集まった婚礼で『四海波』を謡う場面と、葬儀で『卒都婆小町』を謡う場面の両方に立ち会うとは思わなかった。。

師は ぬえよりはずっと上の世代の方々とのおつき合いが多かったと思いますし、ぬえは師の父君である人間国宝だった故・寿師の温かいお人柄に書生時代から触れていたのと、ご長男で今回喪主を務められた洋太郎くんとは同じ世代で一緒の舞台をいくつも勤めてきたのですが、速雄師はちょうど我々の世代が書生時代に鼓を習う世代の先生にあたり、正直に言って速雄師に鼓を習ったわけではない ぬえにとっても「怖い先生」という印象が強い方でした。

それでも昨日 お通夜に参列させて頂いて、その後のお別れの席では何人もの方が涙ぐまれていました。某・観世流の先生はその席で ぬえに、若い頃に舞台を終えたあとに、師やまた ぬえの師匠らとも一緒に遊んだ思い出話をお話してくださいました。「明日の葬儀では棺にこれを入れてやるんだよ」とおっしゃって ぬえに見せて下さったのは昨年 熱海で遊んだ写真。。そのあとこの先生は飾ってあった遺影にビールを手向けて、あとは無言でずうっとその遺影を見つめ続けておられました。(/_;)

歳が近くて、若い頃からずうっと舞台を共有して来られた先生方には、それはそれは大切な思い出でしょう。これらの先生を残して、速雄師は60歳代で逝去されました。。永眠するにはあまりに早いお歳でした。 ぬえ自身も今年のはじめに楽屋でお目に掛かりましたが、とても痩せられて、そうして、とても柔和で優しくなられていて。。なんだかあの厳しさがないのを寂しく感じました。やはり能楽界にはなくてはならない方でしたし、偉大な足跡も残された方だと思います。

故師のご冥福をお祈り申し上げます。  合掌

結婚式つながりで(その2)

2006-08-29 14:03:54 | 雑談
そういえば。。やっと思い出した。

ぬえが在学中にずっと所属していた近代文学研究会で、卒業が迫ったある日、顧問の教授を交えて飲み会があって。。そこで先生が「ぬえ君は在学中から能楽師の家に入門して、卒業後は修行を積んで能楽師になるのだそうだ。君たちも結婚する時には彼に来てもらって『高砂』を謡ってもらいなさい。もちろん かわいい後輩たちのためだ。出演料なんて取らんだろう。な? ぬえ君」と冗談でおっしゃって。まだ修行を始めたばかりの ぬえは能楽師になれるかどうかも分からなかったのに、やっぱり冗談半分に「ええ、もちろん出演料なんて要りません!日本全国どこにでも駆けつけますよ~~!」なんて言った記憶が。

う~ん、そしておぼろげな記憶では、彼女。。かどうかわからないんだけど、その後 ぬえの隣りに座って「先輩! 私の結婚式には必ずお呼びしますので、その時は絶対に駆けつけてくださいね!」と。。言った後輩がいたような。。いないような。。

ともあれ、それから10年近くが経って、突然この電話を頂戴した、というワケです。そんな口約束をずっと大切に信じていた人がいたなんて。。忘れていた ぬえも不覚。でもその時は宴会で出た冗談でしかなかったはずなのです。その人を除いては。。

かくして月日は流れて ぬえは長崎に出かけました。ぬえは長崎に行くのは初めてだったのですが、ここぞとばかりに福岡の能楽師の友人とも会って、また長崎市内を見物させて頂いて。。そして結婚式に出席させて頂きました。グラバー園にほど近い南欧風の小さなホテルの、大きなテラスを持ったホールでの結婚式は、とってもロマンチックでしたね~。長崎は新郎の故郷で、新婦(ぬえの後輩)は広島の出身。そんなわけで結婚式の打合せも事前に会ってできるわけではなく ぬえは新婦にはこの会場で10年ぶりに再会する事になりました。う~ん幸せそうだ。

最終の飛行機に間に合わないので、残念ながら ぬえは披露宴の半ばで失礼して空港に向かいましたが、新郎・新婦のお二人にはとても喜ばれたようで、ぬえとしても光栄でした。そして、やっぱり「心」ってものが大切なんだな。。としみじみと思いましたね。ぬえは新婦以外には一人の知人もいなかったのですが、参加者も ぬえに親切に言葉を掛けて頂いて、ぬえも宴を楽しみました。うん、とっても良い披露宴だったと思います。

彼女たち夫婦は現在は埼玉県にお住まいで、ぬえの自宅からはちょっと離れているけれども行けない距離じゃない。この機会に久しぶりに電話を掛けてみようかな。。こちらにお住まいになったら一度飲みましょう! という約束もまだ果たしていないし。(^^)v

。。という、これが長崎の結婚式に出席させて頂いた顛末でした。ナニ? せっかく用意したハンカチはどこで使うのか? ええと。。それは。。いやまだ残暑がキビシイですから。そっと汗をぬぐってくらはい。。マウンドの上ででも。。

結婚式つながりで(その1)

2006-08-26 18:47:49 | 雑談
結婚式つながりの話題で、ちょっと思い出したことなど。いい話ですよ~。はいはい~みなさんハンカチ用意して~(/_;)

それは内弟子修行も終わって ぬえが独立して何年目の事だろう。。ぬえは大学在学中からいまの師家に内弟子として入門したのですが、その修行は9年半の長きに及びました。つまり独立した頃にはもう大学生活なんて10年近くも昔の事になっていました。

大学時代の友人の何人かは、卒業してからも勤めの傍らに ぬえを応援してくれて、何度も ぬえの舞台を見に来てくれていましたが、年を経るに従ってだんだんと自分の仕事が多忙になるにつれて足が遠のいてしまったり、結婚して家事に追われて観能どころではなくなってしまったり。。

それでも、今でも ぬえの同級生で、ぬえのシテの時はほとんど毎回欠かさずに見に来てくれる友人もいたりします。彼は量販家電店員なので、ぬえもご恩返しに、家電製品はほとんど彼を通じて買っていて、そうすると彼はまたそれに恩義を感じてくれて、社員割引の扱いにしてくれたり。。やっぱり人間、最後は「心」なんだな、って思います。

話がそれましたが、そうこうしているある日、ぬえのもとへ一本の電話が掛かってきました。若い女性の声で「大学の文学研究会で一緒だったKです。。」と名乗ります。K。。そういえばそれは ぬえが在学中にずっと在籍していた近代文学の研究会の後輩で、しかしながら最近は年賀状の交換をしている程度の間柄で、それも彼女から必ず年賀状が届くので ぬえもお返しをしている程度で、正直に言って ぬえは彼女の顔さえ定かには。。失礼極まりない話ですが、年賀状が途絶えたら ぬえはすぐに年賀状を送る宛先の名簿から抹消していた事でしょう。。

すると彼女は電話で、それこそ突然にこう言うのです。「あの。。先輩。。大学時代にしてくださった約束。。覚えていますか。。?」

「あ。。あの。。約束ね。。」(「えええええええぇぇぇぇぇ!!!」←内心はこう)

「覚えて下さっているんですか!」(#T.T#)

「いや。。その。。なんだ。。んん~。。わかった。では約束の果たし合いは明朝辰ノ刻、一乗寺下り松で。。」

「やっぱり覚えていないんだ!」(>_<)

「す。。すんません。。」(--;)

「先輩が能の世界に進まれると決まってから、研究会の忘年会で私に約束してくださったじゃないですか。。私の結婚式で『高砂』を謡って下さるって。。ずいぶんお待たせしてしまいましたが、ようやく相手が見つかりました。先輩結婚式に出席して頂けますか。。?」

「あ。。ああ。。そうなんだ。。もとい、そうだったね。喜んでお伺いしますよ。それで日取りは?」アホな ぬえにもようやく記憶が戻ってきました。断片的ながら。でも。まさか、あの約束を本気で待ち続けていたなんて。。

「○月○日。彼の郷里で行うので、秋のよい日ですよ」

「そうか!それは本当におめでとう!その日はスケジュールが空いているからぜひお伺いさせて頂くよ。お式はどちらで?」

「本当!? うれしいっ! ではすぐに航空券を手配しますので。。会場は 長崎です」

「な。。長崎。。??」


博多紀行。ここで会ったが千年目!!

2006-08-24 01:11:38 | 能楽
話が少しズレましたが、博多の結婚式のつづき。

鏡割りで始まり、能楽師の「四海波」の連吟、と続いた結婚式も、あとは ぬえが知っている通りのオーソドックスな式次でした。お色直しがあってキャンドル点火があって。。あれ? そういえばケーキカットはなかったな。

ともあれ順調に披露宴は進んでゆき、すでに祝宴もお開きになろうとしたところで、新郎側・新婦側からそれぞれご挨拶がありました。これも東京で普通に見るのはどちらか一方の側だけが挨拶をするのだと思いますが、博多ではこういう形なのかしらん。

さて挨拶が済んだのですが、ここで祝宴の最後を飾る独特の締めくくりがあるのでした。いわく『博多祝い歌』と『博多手一本』。へぇぇぇ~~これは知らないや。

『博多祝い歌』は「祝いめでたの若松さまよ、若松さまよ、枝も栄ゆりゃ葉も茂る」というような内容で、ははあ、この歌は有名だけれども、ぬえが知っているのと少し歌詞が違う。。おそらく地元以外の人たちによって広められたうちに歌詞が少し変わってしまったのでしょう。オリジナルを初めて聞いた。

そしてまた、『博多手一本』とは、締めくくりの一本締めなのですが。。ぜんぜん「一本」じゃないでやんの。(T.T) シャンシャン、シャンシャン、シャシャンシャン。え~~~?七回も手を打ってるんだけども。。

ま、これもともあれ、(^_^; 特記すべきはこの『博多祝い歌』『博多一本締め』の音頭を取る方がどうやら大変な名誉であるらしい事と、その音頭を取る方が司会に「○○流れの××様にお願い致します」と紹介されていたこと。「流れ」。。ははあ、これは ぬえも知ってる。「博多祇園山笠」の「山」の単位となる自治組織のことですよね!

ぬえは祇園山笠を実見したことはないのですが、ずっと以前に今回の新郎に櫛田神社を案内してもらって大体の様子だけは聞いていました。この祭では「山」と呼ばれる巨大な御輿を「流れ」ごとに担いで引くわけですが、なんといっても面白いのは、この祭のクライマックスの「追い山」。櫛田神社境内、および博多の市内を「山」が全力疾走するのです。テレビでもときどき放映されているし、同じように町内を山車が疾走する大阪・岸和田の「だんじり祭」なども有名でしょうが、この祇園山笠ではなんと!タイム計測が行われるんですよねえ。。

ちなみにこの新郎は、内弟子修行のために東京に出てきたとき、東京のお祭りを初めて見て、「ワッショイ、ワッショイ」と威勢はよいのに、なぜかついだ御輿がまったく進まないのか大きな疑問だったそうです。(^◇^;)

なお「追い山」は祇園山笠の最終日、それも深夜(というか早朝)の午前5時頃からスタートします。そして、すべての行事が終わった朝、櫛田神社では喜多流の能楽師によって『鎮めの能』というのが恒例行事として演じられるのだそうです(実際の演目は居囃子と舞囃子、とのこと)。

ふうん。。結婚披露宴の仕上げに『博多祝い歌』『博多手一本』の音頭を取る方は「流れ」の代表として重要な使命と誇りを持って会場にいらっしゃるんですね。

【今日のお題】

マリンワールド海の中道で、水槽の前に陣取ってようやく撮った貴重な一枚。
赤い魚は「アツモリウオ」、茶色くて地味な魚は「クマガイウオ」と言うんですって!もちろん『平家物語』の挿話からの命名ですが、この水族館では2種をわざと同じ水槽に入れて飼っていた。。
これはシャッターチャンスを待つしかあるまい。。
で、撮れました。一ノ谷合戦の再現図。。「返させ給へ、返させ給へ」と熊谷次郎が敦盛を呼び止めているところ。

博多紀行。能楽師の結婚式とわ。

2006-08-22 23:32:28 | 雑談

博多から帰還しました!

う~~ん、みんなに「えーっ!八月の博多?。。暑いだろうに」なんて言われるけれど、やっぱり若干東京の方が暑く感じる気がする。。湿気の問題かなあ。。

ところで博多の結婚式というのは、当地ではあたりまえなのだろうけれど 生まれ育ちとも東京で帰郷するべき田舎というものを持っていない ぬえとしては不思議な習慣がありました。洋装姿の新郎新婦なのだが、乾杯は「鏡割り」でしたねー。シャンパンでの乾杯しかほとんど見たことのない ぬえにはなんだか意外でした。

そう言えば、今回は能楽師の結婚式でしたので、恒例の出席能楽師全員による「四海波」の唱和が行われました。「四海波」とは「しかいなみ」と読み、『高砂』の初同の全文「四海波静かにて、国も治まる時つ風、枝を鳴らさぬ御代なれや。あひに相生の松こそめでたかりけれ。げにや仰ぎても、事も疎かやかかる代に、住める民とて豊かなる。君の恵みぞありがたき、君の恵みぞありがたき」を謡うもので、能楽師の結婚式では乾杯に先立って必ず行われます。出席の能楽師が全員起立して大声で謡うのだから新婦さん側のご親戚やご友人はビックリされるでしょうね。

ところがこの「四海波」、流儀によって文句に微妙な違いがあるのです。いわく、下掛リでは最後の句が「君の恵みぞありがたき」ではなくて「君の恵みはありがたや」なのです。今回は「四海波」の「発声」(冒頭の一句を謡う当座のリーダー役)は観世流の方だったので ぬえも安心して謡いましたが、時により下掛リの能楽師の方が発声される場合もあって、そのときには ぬえなど観世流の能楽師は他流の謡につき合うのではなく、必ず自分が属する流儀の文句のままで謡うのです。当然最後の一句は唱和にはならないのですが、やはり発声を勤められる方が他流であっても、そのお流儀に従う、ということはないのです。その文句では師匠から習っていないのですからね。(^。^)

それでも ぬえも以前は混乱した事がありました。どなただったか、囃子方の結婚式の際に金春流のご宗家(当時)の信高師が発声を勤められました。その時には出席した能楽師は属する流儀ごとに丸テーブルを囲む席次になっていたので、ぬえの周囲は観世流の若手ばっかり。そして「四海波」が始まり、ぬえらも気持ちよく、仲間の囃子方を祝福し、幸多かれと思いながら謡っていました。ところが例の部分にさしかかり、発声の信高師が「君の恵みは。。」と謡い出したとたん、それまで大声で謡っていた観世流のテーブルでは全員「うっっ。。」と絶句。。そのときは誰も金春流の謡の文句が観世流と違う、という事を知らなかったのです(!)

かくて。。観世流のテーブルだけ「し~~~ん」としたままで「四海波」が終わってしまって。。(~~;)

司会の方が「ありがとうございました。ご着席くださ~~い」と号令を掛けて、一同着席しましたが、なんとも気まずい空気が。。そのうち誰かが「うちは観世流なんだからうちの文句でいいんだよ!」と言って、みんな「そ。。そっか~~」と、今気がついてもあとの祭り。覆水盆に返らず。落花枝に帰らず破鏡ふたたび照らさず。

【今日のお題】

結婚式の翌日は博多の水族館「マリンワールド海の中道」に行ってみました。じつは ぬえは水族館マニア。。

博多紀行。今日はよく晴れました!

2006-08-20 18:07:12 | 雑談

今日は福岡県の博多に来ています。友人の囃子方の結婚式にお呼ばれしました~。彼とは内弟子時代からの友人でまさに苦楽を共にしたのですが、その後 能楽協会の九州支部が開設されたのをキッカケに福岡出身の彼は活動拠点を東京から博多に移したのでした。

博多はずうっと台風に悩まされていたのに、今日は台風一過の晴天でした。まさに結婚式日より!暑いことは暑いんだけど、なんだか東京よりもずっと湿度が低いのではないかしらん。からっとしていて良い気持ち。結婚式も華々しく、偉い能楽師の先生も、また同じく東京で修行していて今はこちらに住んでいる旧知の後輩などとも親しくお話する事ができました。。と言ってもさすがにあまり知っている人はいないなあ。

いやはや彼の結婚式のために博多までくる事になるとは思わなかった。。と言っても ぬえ、こういう事はよくあります。。結婚式では長崎にも呼ばれたし、この秋には広島に。。いや、わざわざ呼んで頂く事は光栄この上ないのですが、なんせ「ぬえさんにはぜひ来てもらいたい!」と言ってくださる新郎や新婦以外の出席者は ぬえはほとんど知らない、という事も多いです。その土地にまったく関係なくて出席してるのが ぬえだけ、という。。(^^;)

結局、今日は披露宴のあと山口県まで足をのばして、ニフ時代のアクティブの友人のセミちゃんにお酒をつきあってもらう事になりました。彼女ともこういう機会がないと本当に会わないから、よいチャンスを頂いた事になります。今日結婚式に呼んで頂いた友人には感謝しなければいけませんね。これからのご多幸をお祈りします。

それにしても博多は空港が街から近い! これは来るたびに思うけれど、空港から博多駅までわずか2駅、そこから2駅でもう中心街の中州。。博多で飲んでいても「おっと終電だ」と言って東京に帰れますな、こりゃ。(ということは「終電」逃して「駅」に泊まる人や、泥酔していて「乗車拒否」に遭う方も。。やっぱりあるんかいな??)九州で ぬえが知っている空港は鹿児島と長崎しかないけれど、どちらも街からはかなり離れていて、それは東京の羽田空港の比ではないかも。。今度行く広島も空港は遠いですね。それと比べると福岡空港は便利だ。。騒音問題はないのかなあ。。

明日は博多をぶらぶらして夕方に東京に帰ります。じつは博多はすでにだいたい見てしまっているから、どうしようかなあ。。明日。この暑い時期に倒れなければいいが。。

ワキ方の流儀について(その7)

2006-08-17 23:27:09 | 能楽
装束の虫干しが終わり、いくつかの装束は来年の虫干しに廻され、いくつかは補修が出来上がり、またいくつかは装束屋さんに修理や裏地の取り替えに廻されることになりました。

ホッとしたのもつかの間、その翌日には師匠がこの11月に勤められる『檜垣・蘭拍子』の稽古が行われ、お囃子方も勢揃いしての初の本格的な稽古で、ぬえも地謡を勤めました。『檜垣』の地謡は ぬえは初めてで、囃子の手は大体は知っているのですが、囃子の手も間も非常に難しいですね。。ただ、老女物の中ではもっとも観念的な『檜垣』という曲に乱拍子は良くイメージが合っているように思います。今回は「老女之舞」にも工夫があって、興味深い舞台になる期待がいまからふくらみます。それにしても催しの3ヶ月前からすでに囃子方を揃えての稽古。。やはり大変な曲なのだと思います。

さて、ワキの流儀の違いについて考えてきましたが、少し補足しておきます。
ワキのお流儀によりこんな違いもあります。

『桜川』 観世流の謡本にある「里人」の役のワキツレは福王流にはあるのですが、宝生流のおワキの場合はこのワキツレの役は登場しません。この曲ではワキツレの役は人商人、磯部寺の従僧がありますから、福王流の場合はさらにもう一人の役者が必要になります。軽い曲の割にはかなり人数ものの曲と言えるでしょう。

『鳥追船』 これは面白い曲で、ワキ方の流儀によって、またシテ方の流儀によってもワキの役とワキツレの役が逆転します。訴訟のため長く在所を留守にしていた日暮殿の家では、家臣の左近尉が日暮殿の妻子の面倒を見ていたが、召し使う家人も足りず、ついに妻子を鳥追船に乗せて田の鳥を追わせる。そこに十数年ぶりに日暮殿が帰郷して左近尉の仕打ちが露見し、左近尉は手討ちになろうとするが、妻の取りなしによって許されて再び平安な日々が戻る。。だいたいこういう筋書きで、シテの日暮殿の妻と子方に付き添って、舞台上に登場している時間も仕事も、左近尉の方が日暮殿よりもずっと多くを占めているのですが、シテ方観世流と金春流、そしてワキ方の福王流だけがワキ=日暮殿、ワキツレ=左近尉としていて、そのほかの流儀ではすべてそれとは逆でワキ=左近尉、ワキツレ=日暮殿とされています。これは舞台上での仕事の軽重を取るか、役割としての格を重んじるか、で判断が分かれているのですね。この判断は難しいところで、たしかに舞台上では左近尉の役割の方がずっと重いのですが、能が終わる場面では再び日暮殿の家臣としての契りを固めて、左近尉は日暮殿の太刀を捧げ持って、日暮殿の後に続いて引くのです。左近尉をワキツレとすると、これは非常に混乱した場面になってしまいます。まあ、これだけの場面をもってどうこう言うべきではないかも知れないけれど。。

『正尊』 「読物」という重い謡の習いがある『安宅』『木曽』『正尊』の一曲で、この曲には「起請文」という「読物」があります。複雑なのは、これら、能の中の聴かせどころである「読物」が現行ではすべて「小書」扱いになっている事で、よほどの事がない限り、この三曲は『正尊・起請文』のように小書つきで演じられ、それに従ってはじめて「読物」が演じられるキマリになっています。ところでこの三曲ともその肝心の「読物」はシテが謡う事になっているのですが、この『正尊』だけは古くからワキが「起請文」を読み上げる演出となっていました。京都にいる義経のもとに、兄・頼朝から土佐正尊が派遣されて京都に到着したとの知らせが届きます。義経はすぐに弁慶を正尊の宿所に派遣してこれを義経の御所に連行します。義経を討つために上京したのではないか、との詰問に正尊はこれを否定し、神仏に誓う起請文を書き上げます。。ここで「起請文」を読む事になるのですが、現行の演出では(「起請文」の小書によって)シテがこれを謡うのです。観世流の場合は書き上げた正尊その人がその場で朗読する、という演出ですが、どうやら古くは正尊から起請文を受け取ったワキの弁慶がそれを読み上げる、という演出であったらしい。これはシテ方のどの流儀でも古くは同じ演出だったのが、現在ではシテがすべて「起請文」を謡うように改められました。ところが、その改変のしかたが各流で違うところが面白い。観世流や、ほかにも宝生流・喜多流では上記のように正尊みずからが読み上げる方法をとったのに対して、金剛流と金春流では弁慶をシテ、正尊をツレとして、古い本文は改変せずに弁慶が起請文を読む形式にしたのです。ワキの「読物」か。。一度拝聴してみたいものですね~~

楽あれば苦あり、リターンズ。

2006-08-16 01:44:51 | 能楽

で、再び昨日は師家のお装束の虫干しのお手伝いに行って参りました。

画像をご覧になって分かるように、今回の ぬえは唐織とか紅入縫箔とか、ハデなお装束を干すところには残念ながら居合わせませんでした。。今日 ぬえが手伝ったのは狩衣、色大口、半切、無紅縫箔、角帽子、唐帽子、袈裟頭巾、緞子腰帯、舞衣、半着付。。と比較的渋いお装束ばかりでした。でも今の ぬえは無紅縫箔にとても関心を寄せているところなので、それはそれで嬉しい日でありました。



また師家の古い狩衣を干そうとしたところ、裏地にほつれと切れを発見しまして、繕いのお手伝いに何人かのお弟子さんも参加しておられましたので、そちらにお任せしてもよかったのですが、何となく ぬえが修繕を始めました。何というか、この狩衣に愛着もあったからかなあ。そしたらまあ、見つけた解れだけではなくてあちこちに傷みがある事に気づいて、大がかりな補修となりました。まあ、糸針を扱うことは普段から慣れているので、そこかしこを補強して。。そしてそれが出来上がったときの達成感と言ったら! ぬえがこの狩衣を蘇らせた、と思うと満足感でいっぱい。

考えてみれば ぬえ、学生時代に初めて能を見たときには衝撃的だったけれども、その後の観能は、だんだんにお装束を見る楽しみが勝っていたように感じます。今思えば、演者はお装束の文様の取り合わせにいろいろなメッセージを織り込むうえに、色合いのバランスにも気を遣っているから、割と ぬえはイイところを見ていたのかも。いまでも ぬえは自分が舞う曲のお装束にはかなり凝りますし、工夫もしています。

ところが面白いもので、能楽師の中には自分が着るお装束にあまり頓着しない人もありますね。身体的な稽古に重点を置いて曲を構築していって、自分を飾るのは潔しとしない人。そんな人もあります。。まあ、そう人ばかりかと言うと、そうでもなくて、稽古の段階では自分が舞う曲の面装束にまでは関心が及ばない、という人もいるのも事実ですけれども。。

ぬえは能を舞うときには、肉体的な稽古と割と平行して装束の取り合わせを、稽古の初期段階から考える方です。どの面を使うか、ではなく、どの装束を使うか、と考える事はどうなのかなあ、と自分でも思いますけれども、ある年 故・観世銕之丞師がどこかでかの発言でやはり「自分は装束の取り合わせから能を作っている」と仰っているのを聞いて、ぬえが間違っているわけではないんだ、とようやく思うことが出来た、という思い出があります。

ともあれ今年の師家のお装束の虫干しは終わりました。やはり3日間ではとてもすべてのお装束を干すには足りませんが、古いお装束にとっては清々しい空気に触れて、ここが骨休めの夏休みだったでしょうね。

虫干しのお手伝いをしてくださった皆様に感謝申し上げます。

苦あれば楽あり。

2006-08-15 02:03:16 | 能楽
師家での装束の虫干しのうち、昨日だけは ぬえは用事があって参加できませんでした。なんだか東京では朝のうちに大停電があったそうで、電車も軒並み運行停止になったらしいが。。師家の虫干しの要員はちゃんと集合できたのだろうか。それにしても ぬえ家はぜ~~んぜん停電なんてなくて、停電のニュースさえ知りませんでした。ま、ぬえが住む○馬区は東京の中でも田舎という事になっていて、ときに「東京22区」などと○馬区を無視した無礼な表現も散見するわけですが。。でも停電まで○馬区を仲間はずれにしなくてもいいんじゃなぁいぃ?(←なんかまちがってる)

でも○馬区には畑は言うに及ばず、牧場だってあります! どう見ても田舎です。カントリーライフを満喫しております。ぬえ。(自暴自棄) でも「○馬大根」はいまはありません!地下鉄大江戸線の「○馬春日町駅」徒歩すぐの寺院「愛染院」の前に「○馬大根の碑」が建っているだけですっ(力説) 。。そう言えば牧場、まだあるのかなあ。子どもの頃に見た記憶だけしかないけれども。

さてそんなわけで、今日は ○馬区と同じく牧場を区内に抱える世田○“カントリー”区にお稽古に行って参りました。前にもちょっとご紹介したと思いますが、ここにご在住で「代田長唄会」を主宰されて外国人を対象に長唄を教え、「インターナショナル邦楽」コンサートの梶取(かんどり)役としても活躍される 西村“カントリー”真琴さんの生徒さんにお仕舞を教えるためです。

「代田長唄会」主催の「インターナショナル邦楽」コンサートは来年も3月に東京の能楽堂で行われる事が決まり、ぬえもボランティアとして出演します。いや、もちろん ぬえが長唄を演奏するのではなくて、西村さんに三味線を習う外国人の生徒の中の希望者に仕舞を教えて(もちろん教えるのもボランティアですよ。念のため)このコンサートで発表させるのです。コンサートでは ぬえ自身も仕舞を披露致します。

(西村さんの活動の意義と、ぬえが参加するようになった経緯は→ ここ を参照。)

さて今回の仕舞受講希望者はいまのところ三人。前回の「インターナショナル邦楽」でも仕舞『清経』を披露したニュージーランド人のクレイトンくん、そして新人のジャン・ポールくん(カナダ人)とアンネケさん(ドイツ人)です。今日はまだ基本の型の稽古だけで終わってしまいましたが、彼らはとっても真面目に仕舞に取り組んでいて、ぬえとしては頼もしいかぎり。これから彼らは半年以上を掛けて仕舞の稽古ができるので、上達もすることでしょうね。

クレイトンくんは日本でずっと空手も習っていて、秋には演武もあるらしい。武道の嗜みがあるだけあって彼は前回の仕舞でもとても集中力を感じさせる仕舞を披露してくれましたし、またジャン・ポールくんはデザイナー志望でイラストもお手の物の器用さが売り。来年の「インターナショナル邦楽」のチラシも彼がパソコンでデザインして完成に向けて着々と進行中のようです。ぬえは西村さんとは毎度コンサートのために仕舞の稽古をする時にしかお会いしませんが、彼女のもとに人が集まるのは、その人望のたまものでしょう。

ぬえの指導のもとで来年仕舞を披露する予定の3人、がんばれ~~

楽あれば苦あり

2006-08-13 23:46:01 | 能楽

短い夏休みが終わって早速。。今日から3日間、師家では恒例のお装束の虫干しが始まりました。はぁぁぁぁぁ~~はやく来年の夏休みが来ないかなっと。(。_゜☆\ベキバキ(~_~メ)

虫干しとは土用の入りから立秋に掛けて衣類や書籍を干して梅雨の間にこもった湿気を取り除く、という年中行事(?)で、今年の夏土用は7月20日~立秋前日の8月7日までに該当したのですが、師家では実際には能の催しがないお盆の時期に行っています。

虫干しの作業は多岐に渡っていて、装束自体を舞台の梁に張ったロープに吊るして干すのはもちろんの事ですが、この機会に装束の補修、畳紙の修理、お装束蔵の整理も行います。それにしてもこの分量。。どうしても3日間ではお装束蔵の中のすべてのお装束を干すのは無理で、毎年「この慳貪の中は来年に廻そう。。」と泣く泣く虫干しを諦めるお装束もあります。平安時代には衣替えは年に7回もあったそうですから、それから考えたら能装束の種類は少ないんだ! と自分に言い聞かせないと身体が動きましぇん。。

※慳貪=けんどん。左右に切り込みを入れてフタや戸をはめはずし出来るようにした箪笥。そばやの出前が持つ「岡持」と構造は同じようなものですな。



まあ、虫干しの楽しみと言ったら、普段の公演ではお目にかかれないような古い良いお装束に触れられる事ですかね。お装束の中には、古くてとても上演には耐えられないけれども、細かいところまで贅を尽くしているお装束があったり、とても品の良いもの、良い仕事で丹誠を込めて織られているもの、あっと驚く大胆で奇抜な意匠のもの。。いろいろなお装束があり、またそれぞれの畳紙には面白い来歴が書いてあったり。見ていて嬉しくなってくるお装束がたくさん!

ぬえは面と同じく、自分の公演ではお装束の取り合わせにはかなり凝る方でして、自分でもコツコツと買い揃えてはいるけれども、とてもそれでは足りずに、公演のときには師匠から多くのお装束を拝借しなければなりません。普段の公演でも地謡に出ていておシテが着ているお装束を眺めていると、時には「あ!そうか。このお装束があったか!これを秋に勤めるあの曲の時に拝借させて頂いたら。。」なんて考えたりしています。ま、そのお装束の年代などから、1=間違いなく拝借できるもの、2=絶対無理、3=うまくいけば。。といろいろな段階はあるんですけれども。(~~;) だから虫干しの時はお装束を一堂に拝見できる絶好の機会なんです。ときどきは師匠のご子息から「このお装束狙ってるでしょ。これは無理だよ~~」なんて機先を制されたりもしますけれども。。

あとは。。そうですね。やはり昔のお装束に込められている職人さんの「意気」みたいなものを感じるられるのが虫干しの良いところかな。お装束というものは戦前と戦後のそれとでは全く別物、と言って良いぐらいに違うものなんです。技術の確かさ、意匠の力強さ、そして何と言ってもお装束に込められている「心遣い」。。ヘンな例えかも知れないけれど、我々を取り巻く品物は、日用品や食品のようなものにいたるまで、普段の生活の中でどんどんとイミテーションに取って代わられている。でも徐々に、ゆっくりと置き換わっていくと、イミテーションである事にさえ気がつかなくなるんですよね。こういう仕事をしていると、なんだか文化そのものがニセモノに代わって行きそうで。。怖さはいつも感じています。なんだか現代のものばかりを使っていると、芸までニセモノになっちゃいそう。。だからこういう機会に良い品物に触れておく事は、自分を見失わないためにも良い事なのでしょう。

ただ、もう少しお装束が軽いともっと嬉しい。。


夏休み

2006-08-12 17:25:55 | 雑談
二日間の夏休み~

で、伊豆の伊東に行って参りました。あいかわらず伊豆とは縁が深い ぬえ。
。。それにしても夏休みの前日には台風7号が上陸するのでは、といわれて伊豆地方では大雨警報が出され、また伊豆旅行を終えて東京に帰ってきた翌日の今日は、雷つきの大雨。なぜか旅行中だけが快晴だったという幸運に恵まれました。う~む。。外出する時には毎日必ず手を合わせる故・師匠が ぬえにご褒美を下さったか。。

伊豆の海はよく晴れ渡っていたけれど、水は台風が通り過ぎた後で少し濁っていましたかね。でも帰省ラッシュにも夏休み旅行の渋滞にも巻き込まれずに快適に過ごすことができました。

さて今回の旅行のハイライトは、伊東市で毎年この時期に開かれている「按針祭」の花火大会を見る事でした。「按針祭」とは桃山時代末に日本に漂着し、のちに江戸幕府に航海術や造船技術、砲術などを伝えた三浦按針ことウィリアム・アダムスを記念するお祭りで、これが伊東市で開かれているのは家康の命によって按針がこの地で日本初の西洋式帆船を建造したことに由来するそうです。しかしこのお祭り、とんでもなく大規模なもので、記念式典には外国からの来賓も多数招かれ、町中では3日間に渡り灯籠流し、大小のコンサート、各種のパレードなどが次々に催されて、そのフィナーレを飾るのがこの花火大会なのでした。

じつは ぬえは東京の練馬区に古くからある遊園地「としまえん」の近所に生まれまして、夏休みにはこの遊園地が毎週土曜日に花火大会を開催していました。それはもう花火を真下から見るような環境で育ちましたので、花火大会には慣れっこなのでしたが、伊東按針祭の花火大会はちょっとビックリするぐらい、それとはスケールが違った。。海上に設えられた数カ所の打ち上げ会場から打ち上げられる花火はこれでもか! 状態のままで約1時間。ははあ、海の上ということで会場の土地の制約がないからこれほど贅沢な花火大会になるのだろうが、近くの会場の花火は目の前に打ち上がり、遠い会場で打ち上げられる花火はそれこそ遙か遠くに見える。。



で、もちろん ぬえは狩野川薪能に出演した子どもたちのお母さん方から「花火大会観覧おすすめスポット」を事前に伝授してもらって、本当に楽しむことができました~~来てよかった。

翌日は、近くの大室山に寄ってリフトで頂上まで上り、その後は伊豆半島の尾根を縦断する「伊豆スカイライン」を通って箱根まで戻って、大湧谷の噴煙地を見て帰りました。なんだか久しぶりに遊んだ~~!


ワキ方の流儀について(その6)

2006-08-09 20:09:39 | 能楽
このところ毎日、あちこちのお舞台のお手伝いに飛び回っています。先日は神奈川県での催しに出勤していましたが、そこでは能『隅田川』が出て、地謡に出ていた ぬえは、おワキの流儀によってやはり演出効果に違いが出るこの曲にまだ触れていない事に気がつきました。この曲の冒頭のおワキの名宣リの部分がお流儀によって違いがあるんです。

ちなみに観世流の本ではこのように書いてあります。ワキ「これは武蔵の国隅田川の渡し守にて候。今日は舟を急ぎ人々を渡さばやと存じ候。またこの在所にさる子細あって、大念仏を申す事の候間、僧俗を嫌はず人数を集め候。その由皆々心得候へ」。。この詞章は観世流の本によりますから、すなわちおワキの福王流でもほぼ同じ文句を語られます。

ところが、東京ではむしろ福王流よりも聞く機会が比較的多いと思われる宝生流では以下のような名宣リの文となっています。ワキ「これは東国隅田川の渡し守にて候。さてもこの渡りは、武蔵下総両国の境に落つる川にて候が、この間の雨に水気に見えて候。大事の渡りにて候程に、旅人の一人二人にては渡し申す間敷く候。人々を相待ち渡さばやと存じ候」

。。二つのお流儀の詞章のもっとも大きな違いは、宝生流のおワキが「大念仏」について触れていない点なのです。それほど大きな違いではないと思われる方もあるかもしれませんが、『隅田川』という能が子を求める母の悲しい物語だと知らずにご覧になるお客さまにとっては、福王流のように能の冒頭で悲劇の結末を予想させる文言が提示される場合と、宝生流のように能の中盤でワキツレが対岸の人だかりを訝しんでそのわけをワキに問い、そこで初めてワキがこの土地で亡くなった子どもの事を語り出す場合とでは演出効果はおのずと異なるでしょう。どちらが優れているとは言えない問題だとは思いますが、宝生流のおワキの場合は、このワキの語リによって、見所のお客さまもシテとともに初めてこの土地である事件が起こった事を知る事になるのです。

なお、『隅田川』ではワキツレの役柄がおワキのお流儀によって違っています。宝生流では「東の者」で、都からの帰り道にこの川に着いたところで、福王流では逆にワキツレは「都の者」でこれから東国に下る途中なのです。ところがこの役柄の違いによって、じつはワキツレの装束は両流でまったく違うのです。宝生流ではこのワキツレは都から遠く離れた東国の住人だという事で、素袍上下の姿、福王流では「都人」ですから品格を重んじて白大口に掛素袍という仰々しい出で立ちになります。

しかしながら。福王流の場合、この仰々しい出で立ちがかえって舞台の邪魔になったのでしょうね。現在では福王流のワキツレでも宝生流と同じ素袍上下の姿で登場します。なるほど掛素袍ではワキよりも「良い」格好になってしまうし、渡し船に乗った場面でシテの後ろに座した時も、能の終盤で子方が舞台に登場したときも、どうも掛素袍に白大口の姿は目立ちすぎるかもしれませんね。

それから『隅田川』ではおワキの語リが能の重要な場面になりますが、宝生流のおワキはこの「語リ」の最後の部分で福王流にはない言葉「ただ返す返すも母上こそ、何よりもって恋しく候とて、弱りたる息の下より念仏四五遍唱へ…」がありますね。死の間際まで母親を恋い焦がれていた子どもの姿。そしてその「語リ」が語られる場には、まさに子どもの最期に間に合わなかった母その人がいる…あまりに残酷なこの場面を、いかにも効果的に盛り上げる優れた脚本だと思います。


。。明日から2日間の夏休み~~

ワキ方の流儀について(その5)

2006-08-08 13:08:03 | 能楽
こんな事も。

ぬえが『安達原』のシテを勤めたとき、終演後におワキが難しい顔をして楽屋に座っておられました。自分では まあまあの出来だったと思ったので、終演直後にご挨拶をしたところ、このおワキだけは生返事で挨拶を返してきて、ぬえも「?」と思っていました。

どうも ぬえの『安達原』がお気に召さなかったらしい。。楽屋でいまだに難しい顔をして座っておられるおワキに、ついに ぬえは再度のご挨拶に伺いました。そのときのおワキのお言葉が。。

。。「祈リというものはああいうものじゃないだろう。。オマエが押してくるところはオマエの力でこちらが下がるんだが、逆にオマエが下がるところはこちらの力で押してゆくんだ。オマエが勝手に橋掛りに行ってしまうのならば、オレは追わないぞ。オマエが祈リを舞うのが初めてだ、と知っているから今回は追って行ってやったけれど。。」

「祈リ」という舞(?)は鬼女がシテの能に独特のもので、『道成寺』『葵上』『安達原』にあって後シテの鬼女は打杖を、霊能者であるワキは数珠を持って争います。大きく分けて四段構成になっていて、1段目~3段目にそれぞれシテがワキに打ち掛かる型があります。そしてその打ち合いは、1段目と3段目では舞台の前方で行われるのに対して、2段目では橋掛りで行われます。上記のおワキはこの2段目の打ち合いの前、シテが橋掛りに行くところの事を言ったのです。

この3度の打ち合いでは、ワキに迫るシテに対してワキは法力で対抗して、数珠を揉んで祈ります。シテは祈られて弱り、ワキから顔を背けて苦しみますが、やがて一念発起、ワキに打ち掛かる、という型が繰り返されるのです。舞台の先での1段目の打ち合いのあと、ワキに祈られたシテは心弱く橋掛りに逃げ、ワキはそのあとから数珠を揉みながら追って行きます。そして橋掛りの幕際まで追いつめられたシテがそこでワキに振り返って打ち掛かるのですが、その1段目のあと、橋掛りに行く ぬえの足が速すぎたのでしょう。ワキに祈られて苦し紛れに橋掛りに逃げる、そういう心得をきちんと持っておらず、型付けの手順として橋掛りに行った ぬえをこのおワキは厳しくおっしゃったのです。

なるほど、ぬえが悪かったし、勉強にもなりました。でもそれ以上に ぬえが思ったのは、これは祈リに限った心得ではないな、ということでした。祈リはおワキと直接舞台上で争うからわかりやすいけれども、ほとんどの能ではこういう事はありません。シテは見所に向かって舞う事が多く、その場合はおワキはそれを見ているだけ、という場合が多いのです。でも。。どこまで行っても能の脚本のうえではシテはワキの前に登場して、ワキに対して舞を見せているのです。どうしても舞になるとシテは囃子方との呼吸ばかりに気を取られてしまうけれども、正面を向いて舞っていてもシテは常にワキの視線を意識していなければ、脚本そのものが成り立たないでしょう。

思えばおワキの先輩には若手のシテに対して鋭い助言をなさる方がありますね。型や謡についておワキがおっしゃる事は、ときとして先輩から頂く助言よりも冷静で的確だったりします。やはり能の中盤から後半にかけてはじっと舞台を凝視されている事の多いおワキは、いろいろな催しでシテをご覧になっていて、思われる事も多いのでしょう。

ワキ方の流儀について(その4)

2006-08-05 21:34:23 | 能楽
おワキの話題で思い出したのですが、これはお流儀には関係のない話ですが、ぬえが感心したお話を一つ。

最近の舞台で『鉄輪』が出まして、ぬえはなんとなく楽屋の机に向かってみんなが支度をする様子を眺めていました。おシテもすでに後見の手によって装束の着付けが終わり、また『鉄輪』にはシテのほかには ぬえが装束の着付けの手伝いをするようなツレなどの役もなく、すでに初番の能の地謡のお役を勤め終えた ぬえには『鉄輪』ではするべき事もなにもなく、楽屋の人手を見てお幕を揚げるのを手伝うかな…と漠然と考えていました。

やがて休憩時間が終わり『鉄輪』の開演時刻となります。ぬえはシテ方の楽屋にいたので、隣のワキ方の楽屋ではおワキとワキツレが、これまた装束を着付け終えたところを見ていました。そのうちに囃子方が各楽屋に挨拶をしながら鏡の間に向かいます。鏡の間ではシテはすでに鏡に向かって、あとは面を掛けるだけになっています。囃子方に続いてワキや間狂言も鏡の間に参集して、すべての役者がお互いに挨拶を交わして、囃子方は「お調べ」を始められます。ぬえも鏡の間に向かいましたが、鏡の間はもう出演する役者でいっぱいで、また幕を揚げるための人でも足りていたようだったので、シテ方の楽屋に戻りました。

やがて「お調べ」も終わり、囃子方が舞台に出て行ったようでした。すると。。ここでなぜかおワキが楽屋に帰って来られました。「?」と思った ぬえは、すぐに気がつきました。『鉄輪』ではおワキは能の後半にしか登場しないのです。能ではたいていの場合まずおワキが登場する場合が多いので、ぬえもついついそんな気持ちでいたところに、おワキが帰って来られたので意外に思ったのです。

おワキが開演前におシテやほかの出演者に挨拶をするために鏡の間に行き、みんなが舞台に出たところで自分の出番まで待つために楽屋に戻ったところまでは納得した ぬえでしたが、さてそうなるとまた疑問が。このおワキはすでにお装束を着けられていたのです。出番までまだ30分ちかくはあるでしょうから、能が始まってから装束を着けられても充分に間に合うはずなのです。そして装束を着けられて鏡の間に向かわれたからこそ、ぬえもこのおワキがそのまま舞台に出られるのだ、と早合点したのです。

早速 ぬえはこのおワキに、開演前の挨拶というのは必ず装束を着ていなければならないのかどうかを聞いてみました。答えは「いや、そんな事もないんだけど。やっぱり装束を着て挨拶する方がていねいかなと思って。。」。考えてみれば開演前にする挨拶のときに、すぐには舞台に登場しない人もおられるわけで、その時に一人だけ紋付とか胴着で挨拶するのはいかがなものか、と思われたのですね。やはりこれから舞台に出るぞ、とみんなが気分を高めている場なのですから、そこに普段の気持ちを持ち込まない、というのは常識で、それを考えた上で装束を着て挨拶に臨まれた、これはひとつの見識でしょう。まあ、すべてのおワキがこういう人ばかりではないけれども、そう考えておられる方がある事もあるんですね。