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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

blogのお引越し

2025-05-28 00:44:09 | 雑談
このたび当ブログを置かせて頂いておりました goo blog がサービスを終了することになり、
はてなブログ様にお引越しをすることとなりました。
どうぞ今後ともよろしくお願い申し上げます。

https://nuenokai.hatenablog.com/

鹿行水郷子ども創作能が始動!

2025-05-12 10:02:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
茨城県鹿嶋市に毎月1週間ほど滞在している ぬえですが、当地でいよいよ子ども創作能が始動しました!

コロナ禍から当地で運動を続けて、小さなデモンストレーションなどもいましたが、献身的に協力してくださる方もできて、そのご尽力を頂き、Workshopを何度か行いましたところ。、意外にも多くの子どもたちも参加してくれ、これがまた日本の伝統芸能にとても興味を持ってくれました。

それでは!というので子ども稽古を開始したのですが、これまたよく覚える優秀な子どもばかり。保護者さまからも教示を頂き、この土地の民話も収集できて、急に予定が入った昆劇の役者さんへのWorkshopなどかなり忙しいスケジュールでしたが、急遽その民話を元にした大蛇退治の物語を描く「子ども創作能」の動作を完成させました。

昨日は子どもたちにいきなりその稽古。あれあれ?みんなすぐにできるようになってるぞ?急ごしらえなので台本はプラン程度しかなく、これから細かく作っていきますか、伊豆の子ども能の経験があるから自信はあり。そのうえ第一回目の稽古でこの出来栄えならすでに上演の成功は予感できています。





まだまだ、20年間教えたあの伊豆の子どもたちのレベルには遠く、今年は数分程度の、仕舞に毛が生えた程度のものになるでしょうが、見応えは十分にあると思います。

当地では「東国三社」といって、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を網羅した観光事業も予定されているそうで、子ども創作能もその地域を見据えて「鹿行水郷子ども創作能」としました。子どもたちにも故郷のことを知る絶好の機会。ぬえもすでに二つの市の市長さまにお話する機会を得て、能楽のミニ公演からはじめて、当地で能の活動や公演を展開していきたい、と考えております!

昆劇の団員さんへのWorkshop

2025-05-10 02:18:21 | 能楽の心と癒しプロジェクト
突然のことでありました。

今ぬえはひと月のうち1週間程度を東京を離れて茨城県の鹿嶋市にある別荘で過ごし、ここでも教室やデモンストレーションなどの活動を展開しているのですが、昨日ここで受けた知らない携帯電話の番号からのお電話。

流暢な日本語ではありますが明らかにアジア系の外国人からのお電話だとわかりました。聞けば能楽のWorkshopをして欲しい、とのこと。ああ、たまにそういう依頼はあるけれとも、外国人からの依頼はないなあ。まして ぬえは東京を離れていて、こちらには面も装束も持ってきていないのです。。

その旨をお伝えしたのですが、是非ともお願いしたい、と仰る。そうしてお相手は旅行中の少人数のグループで、演劇をやっているから滞在中に能を学びたい、それもあさってには帰国するから明日お願いできないか?とのこと。ああ、演劇家なら面や装束なしでも能の世界の中でも独特の方法論を話せますし、それはかなり興味を持って頂けると思う。やはり滞在は東京とのことなので、鹿嶋市まで遥々来て頂くんだから、それでは無料でWorkshopをやってあげますよ、と答えました。

さあ大変。さすがにこの別荘では手狭なので会場を借りたり、ほんの2時間くらいしか時間が割けないから資料を揃えたり、体験して頂く簡略版の仕舞のプリントを探し出したり。

こうして今日、わざわざ茨城県まで来て頂いて初めてお会いしたのですが、なんと!
中国の世界文化遺産、昆劇の役者さんでした!

ぬえも中国では北京と香港では能楽の公演に出演したこともあり、北京では京劇も拝見しました。また、じつは先週は鎌倉能舞台さまのお誘いで韓国公演に参加させて頂き、このときも文化交流で中国の南方の同じ感じの芸能団体とも交流があったのです。ぬえは勉強不足で京劇と昆劇、また韓国で拝見した劇との違いがまだよくわかっていないのですが、昆劇が世界文化遺産だということは知っていました。今回は大学の招聘を受けて来日され、滞在中に日本の伝統芸能を学びたかった模様。

短い時間ではありましたが、羽衣のキリのダイジェスト版を体験頂き、ビジュアルとして能の上演の様子を見て頂くために能の動画をお見せすることにしたのですが、こういう人たちなら理解が得られるだろう、と思って、あえて「隅田川」の動画をお見せしました。

韓国公演でも思ったのですが、アジアの伝統芸能はアクロバティックな物が多いです。そんな中で静謐を尊ぶ能はアジアではかなり異質と思うのです。動画を見せながら、シテが笠をいつまでも脱がない「隅田川」は、最後に悲劇で終わるこの曲にあって、観客に不安感を抱かせる演出なのだ、とか、ワキやワキツレとともに舟に乗る場面では舟は舞台に出さない、観客のイマジネーションに訴えいるんです、とか、その舟は客席側に向かって進んでいるはずなのに、舞台の奥にはシテの息子である子どもが埋められている墓が見えていて、観客は対岸に向かう一行の表情と、彼らが向かう目的地の両方が見える仕掛けなのだとか、女性の役なのに声色を使わず男たる役者の声で演じるのは役者が女性を演じているのではなくて、彼女の「悲しみ」や慟哭を表現するのに主眼を置いていて、声色ではなく男の役者の生の声だからこそ深刻さをリアルに表現できるのだとか。こんなことを説明しましたが、かなりインパクトはあった模様。

終わってからとても意義深かった、と感謝されました。

一方、京劇や昆劇では長い袖の衣装を着て、その袖を床まで垂らしたり、またヒラヒラ、と上手にまくり上げたりしますよね。そのことをこちらから聞いたら、なんと彼らは衣装を持参してきて、ぬえにその演技を見せてくれました。いや伸ばした袖を優雅に巻き上げるもんだ。聞けば、ただまくり上げるのではなくて、ほんの指先だけが見えるようにするのだそうです。それは高難度!

こちらも運ビ。。すり足を体験して頂き、頭の上に扇を乗せてもスラスラ動けるように体幹がブレないようにします、と言ったら、なんと若い美形の役者さんが私たちも同じことをします、と言ってたまたまあった板?を頭に乗せて優雅に、そして速く動いて見せてくれました。それが出来るのならば?と足元をよく見ると、ああ、やはりすり足に近い動きです。先方も ぬえも、なんか似ているところがありますねえ!とお互いに驚きました。

終わってからまた東京までのバスターミナルまで送迎しましたが、本当に喜んでくれて、扇をプレゼントして頂きました。




なんとも面白い体験でした。北京に来たらぜひまたお会いしたい、と言われましたが、さてそれは何時になることか。。

14年目の震災の日(その2)

2025-03-26 17:05:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今回の上山八幡宮での奉納曲は「羽衣」で、これは初めて訪れる土地、はじめて上演する場所では必ず「羽衣」とプロジェクトで決めているからです。理由は長くなるので割愛しますが、かなり深い意味を持っています。以前このブログでご説明したことがありますので興味のある方は調べてみてください。

ところがこのお宿でご主人から驚くべきお話を伺いました。いわく当地(津の宮地区)にも羽衣伝説があり、それはこういうもの。

土御門帝の延徳の頃(室町時代)、艶宮(現・津の宮)の島守が翠竹島(現・竹島)から楽曲が聞こえてくるのを不思議に思い舟で近づいて見ると、大勢の羽衣を着た天女が舞い踊っていた。天女は島守の姿を認めると驚いて天の彼方へ飛び去ってしまったが、見ると白い子犬と十五六歳ばかりのこの世のものとも思われない美しい天女がうずくまって取り残されていた。病のため起き上がれず怯える天女を哀れに思った島守は彼女を村に連れ帰り介護したが、天女は人の作る食物は食べられず、干し柿や木の実を口にするばかりで、それから七日ほどでとうとう亡くなり、白犬も後を追うように死んでしまった。村人は哀れに思い塚を築いて弔った。(天女塚・狗塚の案内板より要約)


天女塚
ペットの(?)ワンちゃんを連れた天女!! 羽衣伝説は日本各地に残り、その内容も多岐に渡った展開をするので興味深いのですが、まさかこの南三陸町のそれも限られた小さな地区に、ほかの羽衣伝説とは明らかに異質の独自の伝承があるとは。。


竹島

「羽衣」を舞う直前にとても興味深い発見があったのを喜び、翌朝に天女塚と狗塚(いぬづか)に詣でてきました。天気も東京では曇りや雨の予報でしたが当地は快晴でした!

さて上山八幡宮に参り、午前中に正式参拝をして神様に奉納上演の成功や旅の安全、そしてもちろん当地に幸せが訪れるよう祈願しました。

14:15、社務所にて着付け開始。奉納場所は、神社にも立派な神楽殿もあるのですが小高い山の上に鎮座されている関係上ご覧になる参詣者は限られてしまうので、近くの「さんさん商店街」(元は仮設商店街だったのが移転しながら常設の商店エリアとなったもの)から近い神社の駐車場で奉納することにしました。この「さんさん商店街」のすぐ裏手の川(八幡川、または志津川)の向こう側に有名な震災遺構の「旧防災対策庁舎」があり、そこから復興祈念公園が広がっています。





ぬえは震災三カ月後に志津川を訪れ、その後も気仙沼に向かう際に何度も通ったのですが、志津川ではこの川を遡上した津波の被害がかなり山の奥深くにまで及んでいるのが印象的でした。また、震災直後にこの上山八幡宮での奉納が実現しなかったそれ以来、プロジェクトとして南三陸町では活動していないと思い込んでいたのですが、今回上演記録を調べたところ、2011年に泊浜、2016年に志津川、2018年に歌津と3回も活動していました。さすがに今回が160回目で記憶が定かでないところも。。

16:46、発災時刻のサイレンと黙祷。ぬえは毎度この時間を、装束を着たまま楽屋となった部屋の片隅で黙祷を捧げることになります。今回は黙祷しながら ふと、「14年、かあ。。」とつぶやいていました。

その後駐車場に移動して、階段があるので面はお客さまの前で着けることにしました。行ってみると大勢のお客さまが! 商店街からは道路を隔てているし、10名様くらい見えれば十分かな? と思っていたのですが、後で聞けば30名様ほどがお集まり頂いたそうです。感激。

この日の奉納はプロジェクトのYouTubeチャンネルでご視聴になれます。



駐車場は大きな尖った砕石が敷かれていて足の裏が痛かった。。

これにてミッション・コンプリート。志津川のみなさまの幸せを祈りながら帰途につきました。

あーレンタカーと新幹線で楽チン。10年以上車で東京から往復してきたけど、さすがに14年経って自分の体力を気遣うようにもなりました。(-_-;)

14年目の震災の日(その1)

2025-03-26 03:23:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去る3月11日の東日本大震災の日、ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」では宮城県南三陸町志津川の上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)にて奉納上演を行って参りました。

被災地での慰問上演もすでに14年目になり、今回で支援上演も160回目に達しました。震災三カ月後に石巻市の湊小学校避難所でスタートさせた活動も、すでに避難所もその後の仮設住宅も仮設商店街もすべて解消され、いまはほとんど現地で活動する機会もありませんが、それでも3.11の震災の日だけは欠かさずに被災地に足を運んでおります。

もともと3.11の日は追悼の日なのでイベントは出来にくい状況で、我々プロジェクトは現地で活動される団体の追悼行事の中にゲストのような形で参加させて頂いておりますが、いつも追悼行事の主催者様には能楽の奉納上演の意味に深くご理解を頂き、これまでの13回の震災の日には欠かさず上演させて頂けることができました。

今回は志津川の上山八幡宮の工藤真弓さんのご厚意で、おそらく3.11の日では初めて、プロジェクトが主体となって八幡宮様との共催の形で奉納上演させて頂くこととなりました。じつは上山八幡宮様では震災の翌年だったかお邪魔させて頂き、神社での奉納の計画について話し合った経緯があります。そのときは能楽師のスケジュールと神社の行事とが合わず実現しませんでした。今回は満を持して、12年ぶりに計画が実現できたことになります。

今回の出演者はプロジェクトメンバーの ぬえ、寺井宏明さんに加えて、梅若会の土田英貴氏が地謡で参加してくれました。土田氏はある催しの楽屋で話して、最近山火事でも話題になった被災地・岩手県大船渡市に震災前からお稽古に通っておられるそう。それで今回はお手伝いに参加して頂き、今年中にも大船渡市で慰問上演を行おう、ということになりました。

しかしプロジェクトの被災地での上演といえば、なにせ囃子方は笛だけだったり時々は太鼓が入るのみ、地謡も後見もおらず上演場所も集会所のような屋内ならまだ幸い。多くは駐車場であったり神社の境内であったり、と 能楽の上演としてはかなりイレギュラーな条件なので、まずは今回の志津川で様子を見て頂き、それから大船渡での上演について考えてもらうことにしました。

前日の3月10日にぬえは仙台で土田氏と合流、レンタカーを借りて石巻の復興状況の定点観測をしがてら志津川に向かいました。
(画像がんばろう大看板)
最初に向かった石巻ではお世話になっている観光協会にご挨拶したり、石巻のおみやげでいつも大人気になる「とろろ昆布」を大人買いしたり。しかし石巻の震災遺構である「門脇小学校」や震災のあと整備された復興祈念公園は、この日が月曜のため閉館していました。公共施設は多く月曜休館なわけですが、震災の日の前日、いまはそれぞれの土地に戻ったボランティアさんなども集結するこの時期にも休館とは、14年の月日の経過を考えてしまいます。ちなみに被災地では3月11日は学校も休校日になっていますが、すでにそれを解除した自治体もあると仄聞しました。



ぬえが震災後最初にお手伝いに伺い、その後の活動の拠点にもなった湊小学校。当時は避難所でしたがいまは学童が元気に通っています。この子たちは震災を知らないんだよなあ。。



続いて訪れた女川では震災遺構の「女川交番」が当時のまま残されていました。





こちらも整備されて、海風による風化を避けるためかコンクリートの壁に囲まれていましたが、あの小さな交番が大きな壁に囲われて大きく見えて、壁に背後を遮られてカメラには収まり切れない感じ。

女川から志津川に向かう途中再び石巻市に入り、大川小学校を通ることになります。



こちらも震災遺構として残されています。ぬえたちは早くから大川小学校の遺族会と連絡を取っていて、何度かこの場所での能楽の奉納上演をお願いしたのですが認められることはありませんでした。





しかし14年が経った今になって考えると、この場所だけは静かに追悼をするべき場所だと感じられるようになりました。あまりにも大きな悲劇。ぬえは大川小学校に限らず被災地で「追悼」を掲げて当事者に無断でイベントを行い、遺族会や現地の住民さんと諍いが起こったことを何度か聞いていますが、この場所だけは能楽といえども、奉納するには細心の注意が必要だと考えます。いつの日か平安が訪れるよう祈るのがいまはまだ必要でしょう。

志津川に到着してすでに夕暮れ近く。寺井さん推薦の民宿「津の宮荘」では驚くほど豪華な夕食を頂けてびっくり。



意外に思われることが多いのですが、ぬえたちプロジェクトが被災地支援活動を行っているなかで、さぞや沿岸の豪華な海産物ばかり食べているとばかり思われがちなのですが、実際にはコンビニ弁当ばかり食べていました。活動初期の頃は、それこそ一日に2か所で奉納することもよくあって移動の時間に追われていたり、当時は募金を資金に活動していたので酒食の区別を明確にするため、また費用節約のため、宿泊は素泊まり、それも宿泊費は5千円まで、と上限を決めていました。

さらには、ぬえたちプロジェクトではなんと去年まで、いまや皆無になった募金の残額を節約して活動資金としていました。震災の翌年にすでに ぬえは他のボランティア団体から「今どき募金で活動している団体なんてありませんよ。これからは被災地といえども正当な対価を頂いて活動すべきです」なんて言われたけれど、ぬえはそれを潔しとはせず、なんと13年も細々と活動を続けてきました。

昨年、ついに資金も底を尽き、寺井さんとも 今後は自分たちで負担して続けることになるね、なんて話していたのですが、まさかのその時期にプロジェクトの活動を援助したい、という篤志家が現れて、プロジェクトは活動を続けることができたのですが。



それにしてもこれは豪華すぎるなあ。これも14年の歳月による変化か。。いや、我々が高級旅館で贅沢をしているのではなくて、漁師さんが経営する民宿だから。これも復興の現れのひとつかも。ちなみにプロジェクトでは今回も、そして今後も出演者には謝礼はなくただ働きです。せめて食事がよいと とっても嬉しい。。(翌日の昼食はやっぱり「たこ焼き」だったから貧乏な活動は変わらないのかも。。)

三位一体の舞…『杜若』(その13)

2024-06-28 14:45:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今月はじめに研能会で「杜若」のシテを舞わせて頂きましたか、なんと同じ月の間に公演で三河に行くことになり、空き時間もあったので「三河の国八橋」にある「かきつばた園」に行って参りました!



さすがに杜若の盛りの時期は過ぎてしまったので、まあ、花の名残の茎や葉だけでも眺めてくるか、と思い、また先輩からも「現地に行った、ということが大切なんだよ」と勧められて、せっかくの機会だから行ってみたわけですが、案の定、タイトル画像のように一面の草ばかり。。と思ったのですが。。



よく見るとなんと! まだ遅咲きの杜若が咲き残っているではありませんか!!!

これは驚いた。じつはこの「かきつばた園」に到着してすぐ、現地の観光ボランティアガイドさんに声を掛けられ、東京から来ました、先日能の「杜若」を舞わせて頂いたのでひと目現地に行って見ようと思い立ったのです、とお答えしたところ、「まだ咲いていますよ」と教えて頂き、その後1時間に渡って園内をご案内して頂きました。





本当に咲いていた! それに「これが杜若」と意識してこの花を見たのは初めてでした。無事に能を舞えた事を感謝して、手の届くところに咲いていた1輪をそっと撫でてきました〜






最近作られたという業平像。

ここは知立市の無量寿寺というお寺の境内にあたり、境内に16もの池を持って、そこで杜若を育てているそうです。「伊勢物語」の業平の「東下り」史実ではないと思われますし、「杜若」に「水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり」とあるように古来増水などあって時代により地形も変わりやすかったとのことですが、やはり「伊勢物語」の世界に想いを馳せるのにこういう場所が整備されているのは素晴らしいことです。

ボランティアガイドさんは戸田勝士さんとおっしゃる方で、興味深いお話をたくさん伺いました。

いわく
・杜若の群生地は珍しく、愛知県刈谷市、京都府北区、鳥取県岩美町などにあり国の天然記念物に指定されているとのこと。

・尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」はこの八橋の無量寿寺のもので、尾形光琳は何度か都と江戸を往復しているが、そのうち2度は5月・6月の杜若の季節に知立市を通ったということが記録から確認されているのでここに立ち寄った可能性は高い。

・杜若はどちらかというと弱く、ここでも一時は絶滅する寸前にまでなったことがあるが、保存会の努力によってまた勢いを取り戻しつつある。

戸田さんに「いまの五千円札の裏側に描かれている杜若はもちろん尾形光琳の絵で、すなわちこの八橋の杜若なんですよ。」と言われてはじめて、ぬえは五千円札に杜若が描いてあることを思い出しました。




戸田さんいわく、この五千円札も7月のはじめには新しいデザインのものと切り替えになってしまうのです。

そうだたのか。。たまたま今年の杜若の季節にシテを舞わせて頂き、また偶然にも同じ月に八橋を訪れるとができたのも驚きででしたが、まさか咲いている杜若を見ることができ、さらには杜若が描かれている五千円札の流通が終わる、その最後のタイミングだったとは。。



当日ご案内頂いた知立市ガイドボランティアの会の戸田勝士さん。感謝です!

三位一体の舞…『杜若』(その12)

2024-06-08 12:31:03 | 能楽
さてこれまで長々と能「杜若」を読み解いて参りましたけれども、やはり業平が菩薩の分身であり、「伊勢物語」はその菩薩が衆生済度のため仏縁を結ぶ物語であり、この能はその菩薩がいまや成仏を遂げた杜若の精となり高子ともなり、この三者が再び舞台の上に降臨して観客=衆生に寿福を授ける能だ、という解釈は、この能が作られた中世では成り立つけれども現代においてはこれを観客に訴えかけるのは少々難しいのではないかと思います。いわばこのブログでの考察は作者の意図や当時の享受について考えてきたに留まるわけで、業平が菩薩だ、という主張が率直には受け入れがたい現代人の感覚からすればこれは荒唐無稽と感じられることでしょう。

そのうえ我々舞台人というものは主張があってもそれはすべて舞台で完結していなければいけないのです。舞台を離れてこのような作者の意図やこの能が作られた時代背景を説明してしまうことは、「そのように私の舞台を見てほしい」と観客に鑑賞の方法を強要することであり、それは舞台人として決してあってはならないことです。

とすればこのブログは矛盾に満ちているわけですが、ぬえの思いは別のところにあります。ぬえは能「杜若」限らずに能を演じるにあたり、演者の責任として作者の意図や時代背景を調査しておく必要があると考えていまして、いわばこのブログは自分のための作品の読み込みの手段です。これらを行ったうえで、さて、それでは今回はどのように演じるべきか、を考えることになります。

ですからこのブログの読者の方々にも、こういう背景がこの能にあるんだ、とご理解頂く程度にとどめて頂き、さてそれではこのブログを読んでいない(おそらく大多数の)観客に納得させるように、どのように ぬえ君は舞うつもりなのかな? とご期待頂きたいと思います。

結論を先に言えば、何度も言いますように作者の意図はどうであれ、この能を菩薩の衆生済度の物語、とお客さまが感じるのは現代では不可能でしょう。だとすれば別の切り口でこの能に対峙するべきで、今回 ぬえは、この哲学的な能は、現代においてはメルヘンに帰するべきだと考えています。

。。ずいぶん安っぽくなったように感じられるかもしれませんが、やはりこの能は、哲学的な命題が根底にあるとはいえ、現代では歌に詠まれたことで業平に恋をしたお花の精の物語である方が受け入れやすいのだと思います。能の最後で杜若の精は成仏を果たすと謡われ、シテもユウケンの型でこれを表現しています。花の精の純粋な恋の心が昇華してついに悟りの境地に至ったのだ、と考えれば、純白の世界に生まれ変わるシテの神々しい姿も納得できると思われますし、「業平は極楽の歌舞の菩薩の化現なれば」というシテの文句に疑問を持ってしまったお客さまも、この最後の場面でのシテが昇華する姿と重ね合わせるとき、中世的な空気を感じながらひとつの解決を見ることができるかもしれません。

じつは ぬえには同じように作者の意図が現代ではなかなか理解できない能に遭遇したことがありまして、今回の「杜若」ではその経験が大変役に立ちました。その能とは「源氏供養」でして、いま大河ドラマで放映している紫式部がシテなのです。ところが「源氏供養」ではその主人公の紫式部は死後地獄に落ちていまして。。それでワキの僧に救いを求めて現れる、というのがその物語です。なぜ紫式部が地獄に堕ちているのか、も問題ですが、それより大きな問題は、後シテ。。すなわち紫式部の霊が烏帽子をかぶって登場することなのです。

これには ぬえも大いに悩みまして、当時いろいろ調べてみたところ、やはり今回の「杜若」と同様に末法思想が大きくこの能に影を落とし、また一方、そんな地獄で苦しむ紫式部に能「源氏供養」の作者は大きな共感を持っているのだと考え至りました。この能は紫式部へのオマージュとして作られ、おそらく彼女に捧げる気持ちも作者にあったのではないかと ぬえは考えています。長くなるので詳細は割愛しますが、「源氏供養」のシテが烏帽子をかぶる理由はこのような作者の思いからだと考え至りました。が。。これをお客さまに理解頂くのは長い説明を必要とする。。それは前述のようにお客さまに能の見方を強要することになる。。このときも こう考えて、作者の意図はどうあれ、烏帽子を着たシテを見たお客さまの違和感をどうやって払拭できるか、と考えたのでした。

「源氏供養」はメルヘンにはならないけれども、「杜若」はお花の精の恋物語であって、純粋な恋の心が彼女を純白の清浄な世界に生まれ変わらせる、という見方ができそうです。

(この項 了)

三位一体の舞…『杜若』(その11)

2024-06-07 01:26:09 | 能楽
序之舞が終わるとシテが「ワカ」と呼ばれる小段を謡います。地謡がこれに続けて謡うのですが、この地謡と合わせると言葉通り和歌と同じ文字数になりますね。

シテ「植ゑ置きし。昔の宿のかきつばた。
地謡「色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ。


物着のあとのシテの言葉の中に見える「玉雲集」の歌がここに現れます。そのときは「女の杜若になりし謂れの言葉」だとして引かれた歌ですが、このワカではそれを踏まえつつ、別の意味で謡われていると思います。もとの歌は昔の恋人に贈った歌ですが、ここでは昔を懐かしむ思いで、シテが藤原高子の立場と考えれば恋人の業平との逢瀬を懐かしむのであろうし、杜若の精の立場とすれば業平の歌に詠まれた思い出、ということになるでしょうか。いずれにせよこれらは女性の立場(杜若の精も女性と考えれば、ですが)から業平への思慕なのですが、すでにこの能では業平は菩薩の分身であって恋も衆生を仏の道へ導く方便だった、と語られているわけですから、これは単純に恋人との楽しい時間を思い返した、と読むわけにはいきません。

「昔なりけれ」と言うように、いまワキ僧に物語をしている「伊勢物語」の恋のお話はすべて過去のもの。藤原高子も、歌に詠まれた杜若もすでにこの世にはいないはずで、そうなれば業平菩薩の功徳によって彼女たちは極楽世界に再誕したと思われます。つまり衆生である高子や杜若の精は業平との邂逅によって仏果を得たのであって、その端緒となる業平との出会いを仏縁のはじめとして思い返しているのでしょう。

ここでようやく能「杜若」のシテが一体誰なのか、ということが明白になってくるように ぬえには思えます。これはすでに前述したのですが、ぬえは「杜若」のシテは業平を中心に、高子、杜若の精の三者がひとつの身体に共存している姿と捉えています。すでに他界し極楽浄土に再誕した女性たちは業平菩薩の脇侍のように彼に付き従って、菩薩がいま再び衆生を救済しようとして舞台に登場したのに一心同体のように従っているのであって、身にまとっている冠や唐衣をシテは「形見」とはっきりと述べているにも関わらず、それは三人が共存している姿なのだ、と ぬえは読んでいます。

この舞台での衆生救済、ということについても、戯曲上はワキ僧を救おうとしているようにも見えるけれども、実際にはワキを代表としながらそれを通して衆生全体が救済の目標であろうし、作者はこの能を見ている観客を想定してこの能を書いていて、むしろこの能を見に来た観客を救済。。というか観客に寿福を与えるのがこの能が作られた目的なのだと ぬえは確信しています。

シテ「むかし男の名を留めて。花橘の。匂ひうつる。菖蒲の鬘の。
地謡「色はいづれ。似たりや似たり。杜若花菖蒲。梢に鳴くは。
シテ「蝉の唐衣の。


もうひとつこの能で思うことは、三人の物語であるはずなのに藤原高子の影がどうも薄いように思えますね。でもまあ、歌を通して業平が心を通わせた高子も業平菩薩から見れば杜若の精と同じ衆生の立場であるし、それが極楽往生したのであれば身分の違いも人間や植物という違いもすでに消滅していて同じ仏弟子であるはず。この能の舞台は都ではなく三河国なのだし、いまや一心同体のような存在となった二人を杜若の精が代表している、と考えるほかないかも。

「蝉の唐衣の」というところで珍しい型があります。扇を持ったまま右手で長絹の左袖を引っ張る型。。似た型は「高砂」にもありますが、かなり珍しい型です。袖を見る型なのですが、「蝉の抜け殻」と自分が着ている唐衣を同一視する、というような意味で、ちょっとわかりにくいかもしれませんが、じつはここは重要な型だと ぬえは考えています。唐衣はいわば高子の人間界での衣裳なのであって、東下りをして遠く隔たっている業平との接点でもあります。しかしながらこれを「抜け殻」と見るとき、人間界からの決別を意味するのであって、今や業平との思い出さえ昔の話となり、菩薩に従う自分の身には必要のないものなのです。

そう読めば、次に来る能「杜若」の最後の詞章は意味が深くなります。

地謡「袖白妙の卯の花の雪の。夜も白々と明くる東雲の。浅紫の杜若の花も悟りの心開けて。すはや今こそ草木国土。すはや今こそ草木国土。悉皆成仏の御法を得てこそ。失せにけれ。

高子と同じように今や杜若も「悟りの心開けて」極楽世界の住人となり、シテもこのとき扇を胸の前から頭上にまでゆっくりと引き上げる「ユウケン」という型をします。「心が晴れやかになる」という意味を込めるのですが、扇を上げるときにシテの顔が短時間隠れるとき、シテは往生を遂げた純粋無垢な存在へと変身した、と ぬえは考えています。

仕舞でもよく演じられるこの部分なので「ユウケン」の意味は以前からこのように ぬえは捉えていましたが、今回「杜若」の本文をよく読むと意外な発見がありました。。この部分でシテの色が変わっているのですよね。

「袖白妙」「卯の花」「雪」。。すべて白一色で、純白のイメージといってよいでしょう。さらには「夜も白々」。これも白。。そして極めつけが「浅紫の杜若の花も悟りの心開けて」です。

何気なく本文を読み、またこれまで何十年も自然に謡っていましたが、考えてみるとシテは最初の登場の場面でこう言っているのです。

さすがにこの杜若は。名におふ花の名所なれば。色も一しほ濃紫の。。

紫色の杜若が、この八橋ではさらに「濃紫」なのだ、と誇らしげに言うシテ。それは名所の杜若だから、とうだけではなくて業平に歌に詠まれた、という自負でもあろうし、あとで明かされるように仏縁によって成仏できた花だから、という意味もあるでしょう。

ところが能の終盤に至ってその杜若の色は「濃紫」から「薄紫」に色が変わっているのです。

「薄紫」は「薄い紫色」ではなくて、「白妙」「卯の花」「雪」、そして夜明けと溶け込んだ、つまり純白、と読むべきでしょう。今や舞台全体が白一色になってしまった。それは清浄な仏の世界が舞台に現出した象徴なのでしょう。ぬえはこれに気づいて今回の上演での装束の色の取り合わせを決定することができました。いや、白にしたのではありません。むしろ ぬえ自身が所蔵し、また「業平菱」という業平にゆかりの文様が織り出された白い長絹を使うつもりだったのをあえて封印したのです。✌

矛盾に聞こえる、と思われるでしょうが、それには ぬえがこの難解な仏教世界が投影された能「杜若」をどうやったら現代人の前で違和感なく上演できるか、について、この半年ばかりずっと悩んできた経緯があるのです。結局その方法についてひとつの結論には至ったのですが、この発見はその結論を強く補強するものだったのです。    (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その10)

2024-06-04 00:39:22 | 能楽
一方、動かなければよいという訳でもなくて、それが「杜若」のような例なのです。

本性の化身である前シテであるならばワキに問われるままに昔の物語をするために着座して居グセにすることができますが、後シテや「杜若」のように本性を現わしてワキの前に立った場合、それは僧ワキに懺悔なりの物語をするのであって、そこで改めて着座してじっくり語るのは舞台の進行上は不自然でもあり、また戯曲の後半に至ってまで動作を伴わないのは不利であるなどの理由もあって、いわゆる仕方語りのように動作を交えて物語をすることになろうかと思います。

情緒的な曲でシテの心理や感情などを描く能。。「杜若」のクセではそれらからは少し離れて「伊勢物語」の展開や、そこには菩薩の衆生済度の目的があるのだ、という哲学的な内容なわけですが、こうした能では具体的なシテの動作が伴いにくく、抽象的な型でそれを補うことに傾きます。

それに加えてクセは前述のように曲舞という能とは別の芸能を取り込んだ章段であるためか、独特の「約束事」に則って型が組み立てられているのです。いわく最初は扇を閉じて舞い出し、地謡も前半部では主に低音で謡い、クセの途中では「上羽」と呼ばれる部分があって、ここではシテがうって変わって高音で短く1句か2句を謡い、続く地謡もこれをきっかけに煌びやかな高音を中心にして謡う、その「上羽」の直前にシテは左右打込というこれも定型の型を行って扇を広げそれを前に立て、さて「上羽」を謡いながら上扇という扇を頭上に上げる型をする、さらにはその後には必ず大左右と型を続けて正先まで出ながら打込の型をする。。ここまでシテが行うべき型が決められているとなると、クセは物語のストーリーに即して演じているとは言えない部分もあると思います。

考えてみれば能はそれ自体、いわゆる演劇の一種ではあろうと思いますが、同時にある種の儀式のような一面も持っていると言えると思います。能の終曲部分では必ずシテはシテ柱の前で右ウケして二足詰め、広袖の装束を着ていれば左袖を返して「留め拍子」を踏んで終わるのです(若干の例外はあり)。「羽衣」であれば地謡は「霞に紛れて失せにけり」と、シテ天女が富士山の上空の春霞の向こうに姿を消した、と言っているのにシテはやはり音を立てて拍子を踏んで終曲するのです。能の終わりにはシテは戯曲を離れて儀式として曲を終わらせると考えられるわけで、能の特長と言えると思います。

こうした、演劇と儀式が同時に共存する能の様式のためか、能の動作もあえて抽象的に作られているように思います。ひとつの動作に意味を込めることもできるし抽象的な身体動作にすることもできる、とも言えるし、逆に抽象的な動作にシテの工夫で意味を込める(あるいは込めない)のでもあり、そこがシテの工夫のしどころであり責任でもある、という。。

ですので、お客さまとしても能の演技ひとつひとつに意味を求めるのはあまり意味がないことがあります。シテとしても抽象的に舞うところと具体的な意味を込める動作は明確に意識していて、前者ではできるだけ突出した動作として印象づけないように舞い、後者ではその逆でお客さまに印象的に見えるように気を付けています。自分でここまで書いてきて、やはり能は特殊な芸能だと思います。

然るにこの物語。その品多き事ながら。とりわきこの八橋や。三河の水の底ひなく。契りし人々の数々に。名をかへ品をかへて。人待つ女物病み玉簾の。光も乱れて飛ぶ蛍の。雲の上までいぬべくは。秋風吹くと。仮にあらはれ衆生済度の我ぞとは知るや否や世の人の。

さて本文に戻って、この辺りからクセの後半になります。意味は「伊勢物語」に描かれた挿話は多いけれども八橋の水のように深く果てがなく、業平が契った女性というのも名前も身分も様々である。「人待つ女」(「伊勢物語」十七段もしくは二十三段)、「物病み(の女)」(四十五段)、「玉簾(の女)」(六十四段)などが登場しているが「ゆく蛍 雲の上までいぬべくは 秋風吹くと雁に告げ越せ」(四十五段)の歌のように雲の上からかえって仮の姿として衆生済度を目的としてこの世に現れた私とは世の人は知っているか知らないであろうか。ここでは「光も乱れて飛ぶ蛍」と正先まで出て上を見回し、さらに「雲の上までいぬべくは」と左袖を返して扇を右に広げて空を見上げる「雲ノ扇」という、割と派手な型が連続するところです。

シテ「暗きに行かぬ有明の。
地謡「光普き月やあらぬ。春や昔の春ならぬ我が身ひとつは。もとの身にして。本覚真如の身を分け陰陽の神といはれしも。たゞ業平の事ぞかし。かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人遥々来ぬる唐衣。着つゝや舞をかなづらん。


二度目の上羽からクセの終わりまで。意味は「知るや君 我に馴れぬる世の人の 暗きに行かぬ 便りありとは」(注釈書に見える歌)と詠んだように衆生が暗黒世界に迷い行かないように有明の月のように照らすのだ。「月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にして」(四段)とも詠んだが、かえって私は悟りや真実を体現する菩薩の身の分身として人間の姿となり、男女の仲の神と言われたのもこの業平なのだ。このように申すことをお疑いなさるな旅人よ。そうやって極楽世界から遥々とやって来た身で唐衣を着てこのように舞を奏するのである。という感じ。こうやって読むとクセの前半では「伊勢物語」の「東下り」の行程を並べ、後半部分ではそうした旅や都での女性との恋の物語もすべて菩薩の分身としての業平が衆生を救済するためのことなのだ、と説き聞かせる、とはっきりと書き分けられていますね。

二つ目の上羽のあとは「本覚真如の身を分け」と扇を左手に取って両腕を左右に広げて分身となったことを表し、「かやうに申す物語疑はせ給ふな旅人」とシテ柱からワキに向かってハネ扇、さらに右に小さく廻りながら扇を右手に逆手に持ち替えてワキに念をおすように決める、と意味のある型が続きます。

クセの終わりに太鼓が打ち出して位がぐっと静まり「序之舞」の位に変わってゆきます。

シテ「花前に蝶舞ふ。紛々なる雪。
地謡「柳上に鶯飛ぶ片々たる金。 【序之舞】


「花の前に飛び交う白い小さな蝶の一群が雪のように散り乱れる」「柳の上に飛ぶ鶯が陽を浴びて金色に輝く」。。出典は未調査ですが蝶も鶯も一匹・一羽ではないように思えますね。ぬえはここからシテは業平から杜若に立場が変わったと考えていて、そこにはひと本の杜若だけでなく群生したイメージが微妙に盛り込まれているのかもしれません。なお「鶯」は「蛍」の書き写し間違いの可能性があるんじゃないか、とも思っていますが。。これはあまり自信なし。

「序之舞」は草木の精がシテの場合には太鼓が入るのが原則で、大小序之舞より少々軽やかになります。ほかに「六浦」「藤」などに例がありますが、「芭蕉」は曲柄が渋い能なので太鼓は入らず大小序之舞、「半蔀」はシテが夕顔の花の精のようでもあり夕顔上の霊のようでもあってやはり大小序之舞です。

太鼓序之舞がやや軽やか、といってもやはり7~8分はかかる舞なので、お客さまにはやはり集中し続けるのは難しいかもしれませんね。

今回は初めて能をご覧になるお客さまもいらっしゃいますので簡単に鑑賞のコツをお知らせしますと。。

①序之舞は最初に短い足遣いがあって、舞が始まると全体は四部構成。
②扇を閉じて最初の小段【掛リ】を舞いはじめ、その扇を広げたところで二番目の小段【初段】になる。
③今度は角でその扇を左手に持ったところで三番目の小段【二段】になる。
④【二段】が一番長い小段。正先で扇を右手に逆手に持ったところで最後の小段【三段】になる。
⑤【三段】は短く、最後はシテ柱で扇を広げて前に立てたところでシテが「ワカ」を謡い出して序之舞が終わる。    (続く)

三位一体の舞…『杜若』(その9)

2024-06-01 12:30:28 | 能楽
地謡「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いとどしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましくも。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕景色。
シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。
地謡「遠近人の。見やはとがめぬと口ずさみなほ遙々の旅衣三河の国に着きしかば。


クセは長大でシテが謡う「上羽」が二カ所ある二段グセ。序破急の原則により最初は静かに謡い出す地謡も次第に速度を上げ、最後はかなり急調になります。そのあとに序之舞になるのはほかに「二人静」「千手」に例がありますが、急調の謡からグッと位を静めて序之舞の位に持ち込むのは難しいところです。もっともこの三曲のうち太鼓が入るのは「杜若」だけで、太鼓序之舞に特有のコイ合一クサリを聞いてからシテが謡い出す一種の場面転換のような間があるし、そもそも太鼓序之舞は大小のそれよりやや位が軽くなるので、いくぶんやりやすいかも。

この「クセ」の最初の方の文言は、「伊勢物語」の中のいわゆる「東下り」と呼ばれる第七段~十五段にまで連なる一群の章段が語られ、三河国八橋の杜若の物語がある九段も当然そこに含まれ、都を離れた「昔男」が三河に到着するまでの足跡を綴ったものです。

「伊勢物語」で「昔男」がなぜ「東下り」をしたのかは古来議論があるところで、「東下り」の直前の第六段が「鬼一口」で有名な、業平が藤原高子を盗み出して芥川を渡り、雷や雨を避けてあばら屋の蔵に女を隠し置いたところ女が鬼に食われた、という章段であるために、恋人を失った男が失意のあまりに都を去った、と一般には読まれています。

しかしながらこの第六段では盗み出した女を隠したところ鬼に食われたという本文に続けて、あたかもその注釈のように「これは二条の后の。。」と女が高子であり、鬼に食い殺されたというのは高子の兄、藤原国経・基経の二人が逃避行の後を追って高子を取り返したのだ、と書かれているのですが、これは現在ではこの部分は後補であろうと考えられています。このことはは「伊勢物語」についての根源的な謎。。作者は誰なのか、「昔男」とは本当に業平のことなのか、という疑問への回答と密接に結び付いていますね。

能「杜若」は九段の主人公が業平である(そしてその本性は菩薩である)ことを前提に書かれているから、このブログで「伊勢物語」の作者論や主人公の同定などはあまり意味をなさないのですけれども、ちょっと気になる論考を見たので少々そのご紹介をさせて頂きます。

古来「伊勢物語」の作者については、業平自身にそれを見る説や三十六歌仙の伊勢が作者でありその名前が作品名になったという説などがあります(一方 六十九段に描かれる伊勢斎宮との逢瀬が原拠となっているという説もあり)。

また一方、業平が主人公とした場合も官職を持った人物が政務を放棄して「東下り」をするということがあり得るのか、いや、高子を盗み出したために官職を止められたためにそうなったのだろう、とも議論されてきました。

さらに別の意見では、業平は一般的な見方による醜聞により出世コースからはみでた人物像とは違って、実際には官職についてはそれほど不遇ではなかった、とも言われ、それは能「松風」に描かれる兄・行平ともまた同様である、とのこと。

混迷を極める問題ですが、ぬえは、ここで国文学研究者の片桐洋一氏の説に注目しました。いわく「伊勢物語の作者は業平自身で、そこに書かれた話は事実ではないが、自身の女性との経験を脚色し、殿上人との会話の中で育っていったものであろう(大意)」。

「伊勢物語」の作者が業平自身、という説があるのは知っていましたが、文学的には素人である業平が物語を書く、という考え方自体に ぬえは疑問を持っていました。が、貫之が「土佐日記」を著した例もあるのだし、平安初期の人物像は 私たちの常識では計り知れないものです。もう証拠も見つかる可能性が低い現在では、なるほど、こういう考え方も可能性としてはあるかも。

さて能に戻って、「東下り」の原因は能の作者にとっても難しかったのか、「杜若」では業平の栄光に満ちた元服に続けて「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く。。」と、理由は示さないものの生死流転の仏教的な無常観によって主人公は都をさ迷い出たように描かれます。

「いとどしく。。」は「伊勢物語」七段で伊勢と尾張の境で都を懐かしんだ歌、「信濃なる 浅間の嶽なれや」は八段の歌。「伊勢物語」では続く九段が八橋の唐衣の歌なのだから、「伊勢物語」に沿って業平が都落ちをするその経緯を順に紹介して、さて三河に到着した、となるわけです。

こゝぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと思ひぞ出づる都人。

ここまでの所、型としてはクリからサシにかけて不動で、サシの終わりにユウケン扇をし、「衰ふる理の」と足拍子をひとつ踏んでからようやく動き出しますが、型はサシ込ヒラキ、角トリ、中に戻って再びサシ込ヒラキ、打込、上扇、大左右。。と定型の型が続きます。サシの終わりのユウケンは「羽衣」にもありますがここでこの型をするのはどちらかといえば珍しい型で、「羽衣」と「杜若」を比べてみれば続くクセの内容がめでたい曲で行われる傾向があるようです。

また「伊勢や尾張の海面に立つ波を見て」とサシ廻シをして海の波を見るのと「浅間の嶽なれや」とヒラキながら正面の上を見上げるのが具体的に意味を持った型といえるでしょう。

ぬえは思うのですが、「杜若」を含む詩的で情緒的な能。。鬘能の多くは、このように意味を持たない型が連続して、ところどころに意味がある型が散りばめられている程度という印象があります。これはある意味もっともなことで、喜びや悲しみ、また懐かしい思い出の追憶などシテの感情が地謡によって語られるとき、シテは具体的な型をすることは難しいと思います。むしろそこから能の作者が生み出した究極の演技が「動かない」ことなのであって、その意味ではシテが座ったきり動かない居グセは最大の効果を狙って成功した偉大な発明と ぬえは考えます。

たとえばシテが生前に受けた苦しみを八人の男性の地謡が力を込めて表現する場合、その一方シテは動かない。。これはただ座っているのではなくて、地謡の謡う内容を表現しているのであって、地謡と心を合わせて「力を込めて」座っているのです。そうすると木彫の能面が表情を変えることはないはずなのに、地謡が謡うシテのつらい経験を反芻して、心は後悔や憎しみに燃え上がりながらもじっと耐えているように見えるのですよね。こうすることによって観客がシテ自身の気持ちに同調してまるでシテ本人になりきって同じ苦しみを共有することができる。。動かない演技、心の中での演技がお客さまに伝わることは ぬえも何度も経験しているところです。現代のスピード社会の中ではなかなかそこまでお客さまの理解は得られにくいとは思いますが。。                         (続く)