ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設14周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

震災10年雑感(その15)~能楽師の支援活動

2021-09-18 13:02:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
コロナ禍で能楽界も未曽有の混乱がもう1年半以上も続いています。
それでもようやくワクチン接種も広がりを見せ、ぬえも2回の接種を終えました。このためか東京ではこのところ感染者が減ってきて、あと2週間で緊急事態宣言が解除される予定です。これが最後の我慢になり、公演や教室が以前の賑わいを取り戻すことを祈りつつ。。

さて、そんなこんなで ぬえも生活を続けるためにいろいろな試みをしておりまして、なかなかブログの更新ができず申し訳ありません。。それでも震災10年を振り返るこの連載は細々となりとも続けていきたいと考えております。

東日本大震災に関して、じつはぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」のほかにも多くの能楽師が被災地支援に携わりました。今回はそのような能楽師の活動についてちょっと紹介したいと思います。

まず震災の年、各地の能楽堂ではチャリティを目的とした義援能が数多く行われました。
この年の義援能を網羅した記録を見つけられなかったのですが、一部をご紹介すると、震災の翌月にはすでに義援能が行われていたようです。

「東日本大震災チャリティー狂言会」 平成23年4月12日 京都・大江能楽堂
「東北地方太平洋沖地震 義援能」 平成23年4月25日 京都観世会館 
「東日本大震災チャリティー能」 平成23年4月29日 京都・金剛能楽堂
「震災復興支援能」 平成23年5月3日 石川県立能楽堂
「東日本大震災チャリティー能」 平成23年5月4日 神戸・上田観正会能楽堂
「東日本大震災チャリティー能」 平成23年5月5日 名古屋・ミッドランドスクエア
「東日本大震災チャリティ能」 平成23年5月11日 東京・阿佐谷神明宮
「東日本大震災復興支援能」 平成23年5月23日 東京・観世能楽堂

こちらは震災の年の記録は見つからなかったけれど、翌年の平成24年に「第2回」と銘打った義捐能が行われていた事がわかった公演です。

「第2回 東日本大震災義援能」 平成24年3月10日 福岡・大濠公園能楽堂
「第2回 東日本大震災義捐能」 平成24年3月11日 大阪能楽会館

これらはそれぞれの都市の流儀や能楽師、また会場となった施設や社寺が協力して行ったもので、いわばオフィシャルな義捐公演というべき性格のものですが、これに対して ぬえらのプロジェクトと同じように有志や個人として被災地支援を行った能楽師もあります。

これについてまず特筆されるべきは「息吹の会」でしょう。
ぬえたちプロジェクトと同じく能楽師有志によって立ち上げられた団体ですが、もともと教室を開いていたなど東北に所縁のある数人が集まって、さらに数多くの、そして能楽界の主だった人々まで広く協力したことによって、被災地支援の取り組みの中で最も規模も大きく充実した成果を上げた会だと思います。

メンバーは柿原光博さん(大鼓方高安流)を代表として、小島英明さん(シテ方観世流)、小寺真佐人さん(太鼓方観世流)、佐々木多門さん(シテ方喜多流)、八反田智子さん(笛方一噌流)、水上優さん(シテ方宝生流)、山井綱雄さん(シテ方金春流)で、さらに補佐役として岡久廣氏(シテ方観世流)、國川純氏(大鼓方高安流)が名を連ねておられます。
ともかく活動が大規模で、まず震災の翌年に東京の観世能楽堂でチャリティ公演を行い、これには能楽各流儀の宗家や人間国宝の先生方をはじめとして多くの能楽師が無報酬で参加、この収益をもとに被災地各地で能楽の本格公演を行いました。公演地は福島県いわき市・南相馬市・須賀川市、岩手県大船渡市、宮城県多賀城市・名取市の各地に及び、入場無料の公演を行ったそうです。

仮設住宅などをまわって小さな活動を続けている ぬえから見ても立派な公演が行われるのは素晴らしいことですし、ぬえたちも「文化の復興」ということを活動テーマのひとつとして捉えていましたから、大勢の能楽師が協力して実現したことはまさに大きな成果だといえますし、羨ましい限りです。

「息吹の会」の活動自体は平成29年に東京で最終公演となったそうですが、先日「息吹の会」代表の柿原さんと話す機会があって、この震災10年目の機会に再び活動をする計画もあったそうです。コロナ禍の現状で実現はしなかったそうですが、いまでも東北に心を寄せている能楽師がいることに感激。

被災地での能楽公演はほかにもいくつかあったようですが、ぬえ自身も震災の翌年の3月10日、石巻の駅前に設えられた追悼式の前夜祭(?)の式典に、仲間の観世流の能楽師の山中迓晶さんが出演すると聞いて見に行きました(笑)。ぬえもこの震災1周年の日には閉鎖された旧避難所での追悼集会に出演することになっていて、その前日には会場の飾り付けをしておりましたので、ちょっと手を休めて式典に行き、山中さんとも面会。どちらも「こんな所でお会いするなんて!」と驚いていました。

このほかにも被災地での慰問公演の話はピアノと共演される津村禮次郎さんなどいくつか聞きましたが詳細がわからないので。。

でも慰問に限らず、東北に教室を持っていた能楽師の多くは率先して義捐金を送っていたそうですし、中には師匠が先導して門下で協力して大量の支援物資を送った例もあったと聞いています。

能楽師の仲間もみんな頑張ってるなー。
東日本大震災とは話題が変わりますが、楽屋で仕入れたこんな話も。

2016年に起きた熊本地震で重文の楼門などを破損した阿蘇神社に、ワキ方下掛宝生流が流儀をあげて義捐金を送ったのだそうです。

熊本地震については東北で一緒に活動するプロジェクト・メンバーの寺井宏明さんとも支援活動をするかどうか話したのですが、東京からは熊本はあまりに遠く。。交通費の負担が重すぎるので断念した経緯があるのですが、なぜワキ方の能楽師が熊本。。わけても阿蘇神社を支援したのかというと。。

それは普段の舞台で能『高砂』でワキの「阿蘇の宮の神主 友成」の役を勤める機会が多いからなのだそうです(!)。古来大切に上演されてきた『高砂』のワキ「友成」は平安時代に実在した阿蘇神社の大宮司で、その役に扮する機会が多いことから、日頃の感謝とご恩返しの意味をもって阿蘇神社の復興のお手伝いをしなければ、とお考えになったのでしょう。「誰言うということもなく」提案がなされて自然にみなさん賛同されたとも聞いていて、これを聞いた ぬえは感激しました。
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震災10年雑感(その14)~被災地で上演する曲(承前)

2021-07-12 02:30:29 | 能楽の心と癒しプロジェクト
このような理由があって、プロジェクトでは仮設住宅など初めてお邪魔する土地では必ず『羽衣』を上演しているわけですが、そのほかにも理由があって選曲している場合があります。たとえば、震災の年の夏、初めて避難所で演じたのは『石橋』でした。これは、その1カ月ほど前に ぬえが初めて単身で被災地にボランティア活動をしに行ったときの経験によります。震災の3カ月後、津波に襲われた石巻を初めて訪れた ぬえは、見てしまったのです。。

3カ月も経つとすでに捜索活動などは一段落してしまっていて、瓦礫も一部片付けが進んでいました。街の中心部に近い地域では、ピースボートのような大きなボランティア団体のメンバーが大勢ゼッケンを着けた姿で、それこそ蟻が菓子に群がるように(失礼!)半壊した家の掃除をしていました。反面、海に近い被害が甚大だった地域には誰もおらず。。何かを探している住民さんなのかが遠くの方に1人か2人。あとは警備のためにパトロールしているのか、全国中の県警のパトカーが時折ゆっくりと巡回しているだけで、あとは一面崩れかけた家ばかりが立ち並ぶ、それだけでも戦慄を覚える光景なわけですが。。そうではない、そこにいちゃいけない何者かの。。姿は見えないのですが。。やはり「見た」と言うべきだと思います。



これはいけない。。ととっさに思いました。人が見捨てて行かなくなったところに巣食う者。打ちひしがれて首をうなだれて歩く人の心を蝕む者。本当にいるんだ。。

(被災地の方々のお気持ちを害するかもしれない表現で申し訳ないです。震災10年を経て、ようやく今、あの時の気持ちを正直に表現して、ひとつの記録にしておこうと思っております)

『羽衣』の解釈から能楽師の使命を感じた ぬえですが、このときは震災に対して能楽師が行えることまでは考えが至らず、すぐに東京に戻って、仲間の能楽師に被災地の現状を伝えて被災者の慰問に行くべきだ、と相談したのでした。それからの準備期間に、避難所でどの曲を上演するのかを決めなければならず、そこでようやく ぬえは能楽師の使命と、その選曲の重要性に気が付いたのでした。ただ自分が好きな曲を演じるのでは自己満足でしかないです。街の半分が破壊されるような状況でそんな事は許されない。それで熟考の末選んだのが『石橋』でした。

『石橋』は能の中でも屈指の動きの烈しい能です。そしてこの曲の後シテの獅子は文殊菩薩のお使い。これについては興味深い解釈があるのですがそれは他の機会に譲るとして、注意すべきは乗り物である以上、文殊菩薩は常にこの獅子の背後(か頭上)に存在しているということです。

言うなれば『石橋』は仏と、その守護をして悪鬼を駆逐する明王や天部とを、一人のシテが同時に表現する曲なのですよね。こういう例はほかにないと思います。

ぬえがこのとき避難所で『石橋』を演じることを選んだのは、避難者にとっては仏の加護を願い、同時に、この少し前に ぬえが「見て」しまったもの。。魔、と呼んでいいのか、そいつに対して「この避難所に近づくな!」と威嚇する、という意味を込めてのことでした。



そのほか、避難所から仮設住宅に被災者の生活の場が変わったときなど、あえて『菊慈童』を選んだりしました。『菊慈童』のシテは経文の功徳により童子の姿のまま七〇〇歳の長寿を保つ少年。。いわば不老不死の仙童がその長寿を観客に約束する能です。高齢者が多かった仮設住宅で孤独死の問題などが起きた頃、この曲を演じて住民さんに長生きを祈ったのです。上演後に面をはずして再び住民さんの前に出て「この曲は700歳の長寿をお授けしたんですよ~♪ えと、、みなさんの平均年齢は。。45歳くらいかな??」 苦笑を感じながら「ではまた、650年後に会いに来ますからね~♪」



心の中では「みなさん、長生きしてくださいね」と思いながら。
すごいなあ、日本人の先人の感性。
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震災10年雑感(その13)~被災地で上演する曲

2021-07-09 02:18:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ところで、ぬえたちプロジェクトでは上演する曲目を選ぶのに一定の「決まり」を持っていました。

もちろん ぬえが所持している面装束を使い、すでに師匠の稽古を受けて能楽堂で上演した経験がある曲から選ばざるを得ないので曲目は限られるのですが、それでもたとえば、初めて訪れる地域では必ず『羽衣』を上演することにしています。

地上界に降り立って水浴びをする天女の羽衣を見つけた漁師はそれを隠しますが、嘆き悲しむ天女の姿に心動かされた漁師は「天人の舞」を見せることを条件に羽衣を返し、天女は三保の松原の風景を愛でながら舞い上がり、やがて天上に姿を消す。。誰でも知っているこのストーリーは、じつは日本中にある「羽衣伝説」(や世界中にある類例の「白鳥処女伝説」)の中では異色です。

日本各地の「羽衣伝説」にはかなりろいろな種類があって大変面白いのですが、そのほぼすべてで天女は羽衣を返してもらえず、漁師の妻になったり、羽衣を拾った老夫婦の養女となったりします。それでも天女は漁師の子を産んで円満な家庭を築いたり、酒を造るのが上手くて老夫婦の家を栄えさせたりするのですが、最後は天女は隠されていた羽衣を見つけ出すと夫や子供を残して天上に去る、というのが典型的なストーリーだと思います。

ちなみに老夫婦の養女となった天女は最後まで羽衣を返してもらえず、あげくに家から追い出されて地上に定住してしまいますが、そのときに天女が嘆いて詠んだ歌が「天の原 ふりさけ見れば。。」と能『羽衣』に引用されています。これは「羽衣伝説」の中では最も古いものの一つと考えられいる『丹後国風土記』の中に出てくる話ですが、能『羽衣』の舞台である三保の松原の「羽衣伝説」については散逸した『駿河国風土記』に載っているようで、わずかに江戸期に他書に引用されて知られる程度。それによれば漁師の妻となった天女は経緯はわからないながら羽衣を見つけ出して天上し、漁師もそのあとを追って仙人になったようです(えっ!)

さてこういうわけで能『羽衣』の「天人の舞を見せる」という展開はおそらく作者の発想による創作なのではないかと思われるのですが、そうであるならば、この能が初演された当時これを見た観客は現代人には想像がつかないくらい驚いたことでしょう。え! 返しちゃうの? しかしその後美しい長絹をまとったシテが優雅に舞う姿を見せることで、ストーリー展開に違和感を覚えた観客もいつしか満足もできたでしょう。それだからこそ現在では天人の舞を見せるのが「羽衣伝説」の典型のストーリーだと誤解されているほどに能『羽衣』は受け入れられたのだと思います。



が、まだ内弟子時代の ぬえはここであることに気づきました。

天女は漁師に舞を見せる約束をしたのに、いざ舞い始めると(他の能の曲と同様に)シテはワキではなく見所に向かって演技をしますし、ワキの漁師は目立たぬように着座します。ワキはこの場面からは舞を傍観する立場からシテの舞の邪魔にならぬように演技を控えるのだし、シテはワキに舞を見せる心で客席に向かって演技をすると考えればこれも当然なのですが、どうもそれだけではないと ぬえは思います。

それが端的に現れるのはキリの「七宝充満の宝を降らし、国土にこれを施し給ふ」という部分で、シテは客席に向かって進みながら扇を持った右手(あるいは両手)を上げて、大きく二度あおぐ型をするのです。いかにも天上界から宝物をバラバラっと降り下らせることを直観させる印象的な型です。この場合降り注がれる宝物は金品や財宝ではなく、「幸せ」でしょう。

シテがワキ個人の要求に応える範囲を完全に逸脱して「国土に」幸せを降り注ぐ型をする事実を考えるとき、この能の作者がなぜ本来の「羽衣伝説」のストーリーを変えて「天人の舞」を挿入したのかがわかるような気がします。おそらく作者は、能を楽しむ観客の心に、知らず知らずに「幸せ」をもたらすことを祈ったのでしょう。

演技の対象となるべき相手(この場合ワキ)ではなく演技を客席に向かって行うことは演劇としてよくあることではありますが、能では『高砂』などの脇能などを見れば、シテはワキを相手としていても、むしろそれを代表としつつも人類全体への祝福を意図しているのは明らかなので、『羽衣』の作者もその手法に沿って原作のストーリーを大胆に書き換えた、と考えられると思います。

観客の心に知らず知らずのうちに「幸せ」をもたらすのが作者の意図。。これに気づいた ぬえは能が単なる演劇にとどまらない奥深さを持っていることに驚嘆したものです。結婚式で『高砂』の待謡を謡う意味もこれで氷解し(別なところで ぬえの解釈を述べていますのでここでは詳述しませんが)、能役者の仕事というものが本来的に持っている使命や責任というものも考えさせられたのでした。

そういうわけで震災を受けて慰問ボランティアという支援方法があると知った ぬえは、能楽師が立ち上がるのは今しかない、と考えて、また仮設住宅などにご紹介を頂いて初めて訪れるときには必ず『羽衣』を上演することにしているのです。

住民さんには「今日はみなさんもストーリーはよく知っている”羽衣”をやりますよー」「ちょっとゆっくりな動きで退屈かもしれないけれど、衣裳がキレイだから楽しんでくださいねー」。住民さんにはこう言って興味を持って頂くようにはしていますが、じつは『羽衣』を上演することで、初めてお目にかかる、震災によって痛手を受けた住民さんに「幸せになってくださいね」と祈りを込めております。言うなれば「七宝充満。。」の、あの型をやるためだけにこの曲を選んでいるのです。神様と人間との橋渡しをする。。ぬえはそんな大それたことができるような高潔な生活をしているわけではないのですが、赤面しながらも能楽に携わるようになった以上、その本来の使命を果たすべきだと思います。

じつは初めて避難所で上演したのは『羽衣』ではなく『石橋』だったのですが、それについてはもう少し深い意味合いがあります。これは改めてお話したいと思います。

丹後地方の羽衣伝説
滋賀県・余呉町の羽衣伝説
鹿児島県・喜界島の羽衣伝説
沖縄県・宜野湾市の羽衣伝説
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震災10年雑感(その12)~いろいろな上演場所②

2021-06-21 09:09:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
被災地での上演場所としてもう一つ忘れてならないのは、地元の寺社での奉納上演です。
プロジェクトでは信心の厚い地元の住民さんの要望によっても神社やお寺で奉納上演をして参りましたが、折を見つけては自分たちからも進んで奉納のお願いをしてきました。

見知らぬ土地に足を踏み入れて活動する場合には土地の神様にご挨拶するのは能楽師としては至極当然な行動でして。。これについてはいろいろ申したいこともあるのです。仏さまは全国チェーン(?)ですから申すまでもないのですが、神様についてはかなりナイーブな面もありまして、いわく初詣なども含め神社でお願い事をしない、とか、午後5時を過ぎたら神社には立ち入らない、とか。。

あまり細かいところまで言いだすときりがないので割愛しますが、たとえば伊豆で教えている小学生たちにも、神社のお祭りなどの機会に上演させて頂く機会があれば、子どもたちにも必ず神様にご挨拶させていまして、子どもたちには二礼二拍手一拝の作法も玉串奉奠の作法も教えています。そして神様にご挨拶する時には「上演が成功しますように、とお願いするんだよ」と言うのです。あれ? ついさっき神様にお願いするものではない、と言ったばかりなのに。。でもね、土地の神様には「郷土愛」があるので、地元の子どもたちが神様に奉納するので失敗がないようにお守りください、というのは間違いではないのです。ぬえは信仰はないけれど信心はある、と日ごろから言っているのですが、能楽師の多くが ぬえと同じような気持ちを持っていると思います。

さてこのようなわけで被災地でも機会があれば土地の神社で、自分たちが活動するご挨拶をするとともに、土地の平安や住民さんが幸せになるように見守って差し上げてください、という気持ちを込めて奉納上演をさせて頂いております。

さて実際の奉納上演の画像がこちら!



これは石巻市の住吉神社で年始の時期に奉納しました。震災の翌年で、仮設住宅で年越しイベントを行った翌日。。つまり元日の朝に舞囃子『高砂』を奉納上演しました。奉納上演なので裃を着用して勤めています。



こちらも石巻の牧山零羊崎(ひつじさき)神社での奉納です。牧山は湊小学校の裏山にあたる場所で、活動の初期に拠点としていた湊小学校避難所を見守るように建ち、この地区の人々から崇敬されていた神社での奉納が実現できたのは震災から2年後のことでした。







このほかにもいろいろな神社やお寺で奉納させて頂きました。画像は上から気仙沼市の御崎神社、塩竃神社、再建なった閖上湊神社での奉納で、タイトル画像は登米市の横山不動尊での奉納です。



こちらは石巻市の門脇地区を見下ろす。。被災地のシンボルともなってしまった鹿島御児神社の大鳥居のもとでの奉納。昨年の震災の日の奉納上演です。この大鳥居は地震にも耐えたのですが、老朽化のためとうとう今年に建て替えのため撤去されてしまいました。



朝の連続ドラマ「おかえりモネ」でも紹介された登米市の「森舞台」こと「登米伝統芸能伝承館」。東北にもここや中尊寺の境内に建つ白山神社に立派な能舞台があります。

あと、変わった場所での上演といえば。。



有名な陸前高田市の「奇跡の一本松」の前での奉納上演。一本松は結局枯死してしまってレプリカに置き換わり、今では巨大な防潮堤に囲まれた「高田松原津波復興祈念公園」の一部となっています。


(撮影:前島吉裕氏)

気仙沼の地福寺でのお盆送りの行事。地元ボランティア団体「ともしびプロジェクト」さんによる蝋燭の明かりでの幻想的な上演で、これにヒントを得てプロジェクトでも似たような活動を始めました。





上は大崎市のプラネタリウムでの上演と、石巻市の栄光教会での上演です。そのほか気仙沼の美術館や公民館でもパソコンで星空を投影しながら、また能とは別にクラシック音楽家に演奏をお願いしてロマンチックなイベントを企画したりしました。能の上演以外に機材も必要でしたが、このあたりは笛の寺井宏明さんの得意分野で、また能楽情報誌「花もよ」を編集する小林わかばちゃんに投影される星空の解説をして頂いたり、簡易的ではありますが被災地でプラネタリウムと音楽、そして能の美しいイベントが出来上がりました。





このあたりからですかね、「復興の支援」から「普通に文化芸術を楽しめる市民生活の再建」に活動の目標が少しずつシフトされていったように思います。でもそれは、たまに訪れるよそ者だから思うことで、仮設住宅で医療支援などを続ける住民ボランティアさんの活動を見ていて、現実はそんなに簡単なものではなかった、と思い知らされることにもなりましたが。。

気を取り直して、こんな画像も。



こちらは気仙沼大島の大島中学校でのワークショップのひとコマ。ちゃんと面の扱い方を教えたうえで様子を見ていたら。。子どもたちの発想は面白いですねー



こちらは福島第一原発事故で町ぐるみで避難した福島・双葉町の住民さんたちが暮らす埼玉県・加須市の「騎西高校避難所」での炊き出しの様子です。炊き出しには2度ほど携わりましたが、このときはご覧のように外国人ばかり50名による炊き出しでした。炊き出しはそれほど大変な作業で、廃校を利用した避難所で炊事施設があり、これだけのボランティアさんが集まってはじめて可能になるのだと実感しました。このときは ぬえは上演ばかりでしたが、寺井さんは何でもできる人で、炊き出しでも活躍していました!



最後はラジオ番組への生出演の様子です。被災地ではコミュニティラジオ局が震災当初から情報発信に大きな力を発揮しましたが、その後「災害FM」として認可を受けて新しく開局するなど、東日本大震災では30の災害FM局が作られたそうです。



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震災10年雑感(その11)~いろいろな上演場所①

2021-05-31 09:14:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
楽屋の話が出たので、震災10年を機に ぬえたちプロジェクトが被災地で慰問上演してきた場所の数々を振り返ってみました。

震災当初はご存じの通り被災した住民さんは避難所で生活しておられたので、ぬえたちの上演も必然的にそこになりました。





避難所にも大小いろいろありましたが、ぬえたちが上演したのはもっぱら公立の小中学校の体育館でした。これはその後の仮設住宅での上演でも感じた事なのですけれども、ぬえたちプロジェクトの活動は意外にスペースを必要とするので、小さな避難所や集会所を備え付けていない仮設住宅では活動は不可能でした。一人だけでフレキシブルに活動するマジシャンの慰問ボランティアさんが ぬえたちの倍は公演回数をこなし、ホテルに企画を持ち込んでディナーショーまで行っておられるのを見て羨ましく思っていました。

さて避難所は、当時活動の主な拠点であった石巻の場合震災の年の10月末に解消され、ぬえたちの活動場所は仮設住宅の集会所と仮設商店街に移りました。この時期が一番長くて、活動のほぼすべての期間は仮設住宅と仮設商店街で行ったといえます。







仮設住宅では2度、年越しイベントを企画しました。こちらは住民さんと「紅白歌合戦」を観ているところ。



仮設住宅はプレハブで割とどこも同じ造りでしたが、ときには個性的な建物もありました。一方この頃から女川や気仙沼、釜石などへ活動の場所も広がりましたが、仮設商店街はそれぞれ個性的でじつに楽しい上演場所でした!









ときには仮設商店街の「売り出しイベント」に協力させて頂くこともありまして、なんと我々のためだけに「能舞台」を作って頂いたことも!!



で、こちらは同じく商店街のイベントで、地元アイドルのショーのために用意されたステージ・トレーラーの上での上演です。さすがに面をかけたままステージによじ登るのは無理で、そういう難しい状況はしばしばあります。そういうときはお客様の前で面を掛けるところをお見せしてからの上演になります。


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震災10年雑感(その10)~東北での楽屋と舞台

2021-05-29 03:53:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
先日の記事でプロジェクトの活動の宿泊場所についてご紹介したら、意外に興味を持ってくださった方がありましたので、それなら、ってんで、これまでに被災地での恐るべき(笑)楽屋をご紹介しましょう。

この記事のカバーに掲げた画像は ぬえが一番好きな画像で、名取市の閖上地区にある閖上中学校の教室を楽屋として使わせて頂いた時のものです。閖上地区は仙台平野の中でも仙台市若林区の荒浜と並んで海のすぐそばまで集落が迫った地区で、それだけに震災の被害も甚大でした。この閖上中学校も被災して生徒にも犠牲者が出たそうです。この画像が撮影されたのは2015年の震災の日。。3月11日ですが、中学校は震災の後立ち入り禁止になっていて、教室は津波が襲ったときのまま、床といわず壁といわず泥だらけでした。出番を待つ間にどこかに座って休むことはおろか、そこらに物を置くことすらできない中で、立ったまま面を掛け(本来なら厳禁!)寺井さんに装束を直してもらって頂いているところです。その後この校舎は解体されて、中学校は別の場所に「閖上小中学校」として再建されています。

次にご紹介するのは気仙沼の楽屋。



こちらは気仙沼で震災後いろいろな目新しい活動をされた伊藤雄一郎さんのプロジェクトのひとつ、被災した店舗で立ち上げた「WINE BAR風の広場」でのライブイベントに参加させて頂いた時の楽屋です。照明設備が完全には復旧しておらず、楽屋としてあてがわれたお部屋は真っ暗(!)。この、かろうじてある照明は ぬえが自前で持ち歩いていた携行ライトです。真っ暗な楽屋は ぬえも初めての体験。。あちこち明かりを求めながら装束の着付けをしましたっけ。なお伊藤さんは今年急逝されました。生前のご厚情にあらためて感謝を申し上げます。

次は湊小学校避難所での初期の活動の一コマです。



小学校の体育館の上階ランニングバルコニーで上演前の「お調べ」を吹く寺井宏明さん。たしかこのときは住民さんに上演を見て頂くための宣伝だ、とボランティア団体のリーダーから言われて、校庭の真ん中に椅子をひとつ置いて、そこでお一人で独奏しておられましたw

こちらは同じく湊小学校で、震災から2年後の画像です。


(撮影:加藤昌人氏)

避難所としては解消されて、しかしながら津波の被害の補修のためにいまだ学校は再開できないという宙ぶらりんの状態の体育館で、3月11日にはボランティア団体の主催で避難所の「同窓会」が開かれました。ここで上演をした ぬえたちプロジェクトの楽屋は緞帳を下した体育館のステージ上でした。



上演を終えて狭い通路をお囃子方の手を借りて楽屋に戻る ぬえ。

いまは仮設住宅でバラバラですけれども、震災当時は命からがらここに逃げ込み、そのまま長く窮屈な共同生活を耐え忍んだ仲間でもある住民さんたちが再会した瞬間でもありました。



こちらは震災6年後の3月11日。場所は先ほど書きました仙台の荒浜です。


(撮影:茅原田哲郎氏)

砂浜にあるテントが ぬえたちの楽屋で、その前で前説をする寺井さん。もちろん上演も砂浜でした。うう。。ハコビ(すり足)をする足が砂に潜っていっちゃう。。


(撮影:茅原田哲郎氏)

こちらは福島第一原発事故のために町ぐるみで埼玉県加須市の廃校・騎西高校に引っ越ししてきた双葉町避難所。



もはや通路が楽屋です。。

最後は仮設商店街での上演で、空き店舗が楽屋に指定されました。



ここまでくると平和に見えるのが不思議~
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震災10年雑感(その9)~第2回目の活動と宿泊場所のこと

2021-05-26 14:18:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
第1回目の慰問活動から1カ月後の2011年9月、発足した「能楽の心と癒やしプロジェクト」はメンバーがそれぞれにスケジュールをやりくりして1週間ほどをかけての本格的な慰問上演活動を計画しました。。おや? 当時の記録を見ると、このときまだ団体名は決定していなかったようで「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」と名乗っていたようです。自分でも忘れていましたが。。この当時は自分たちの団体の名称を決めるなどという事よりも、まず集まった能楽師だけで被災地へ能楽を届けなければ、という思いが強かったのだと思います。

実際は、このときは本当に大変な思いをしました。スケジュールはみんなで合わせて空けたのに、活動を始める直前まで受け入れしてくださる場所が見つからなかったのです。そりゃそうで、東北になんの地盤もない ぬえに知人はなく、慰問公演をする場所を紹介してもらえるあてもないままの、見切り発車でした。結局「明友館」の千葉さんや「チーム神戸」の金田さんにご紹介を頂き、また早めに東北入りした寺井さんが友人を通じて宣伝して下さり、5日間で計7回の上演を行うことができました。

東北入りした初日は、せっかく現地に到着したのに上演場所が見つからず。。仕方なく笛の寺井さんと南三陸町の堤防で海に向かって二人だけで舞囃子「融」を手向けました。それが表題の画像で、その後もプロジェクトの活動の報告によく使っている画像です。

こうして ぬえたち能楽師有志による被災地支援団体「能楽の心と癒やしプロジェクト」は手探り状態のまま活動を開始しました。それでもその後は何人かの能楽師から協力の申し出を頂いて被災地での活動にゲスト出演して頂いたり、現地のボランティア団体や住民さんたちと協力しながら、非力ながら10年間におよぶ活動を続けて来られたのは本当に幸運だと思います。もちろん、このような能楽師や現地の住民さんの協力や応援なくしては活動を続けることは不可能でした。

活動の費用を抑えるために、一番大きな出費である宿泊費をどうするかがとくに大きな課題でしたが、これも幸いにしてボランティア団体や現地の個人の厚志を頂いて、避難所である湊小学校の音楽室に宿泊したのをはじめ、ボランティア団体の事務所に泊めて頂いたり、個人宅に泊めて頂いたり。震災の年はとくに宿泊施設がなかった時期ですから大変助かりました。

なかなか興味深いと思いますので、ぬえたちプロジェクトが活動するときにどういう場所に宿泊していたのか少し紹介してみたいと思います。

最初は湊小学校避難所の音楽室。五線譜が書かれたホワイトボードには、ここに集ったボランティアさんたちから後に続く者たちへのメッセージが描かれていました。





こちらはとある街の住民ボランティアさんの住居兼事務所。まず津波の被災を受けていることと、ボランティア事務所ということは同時に支援物資の倉庫にもなるわけで。。とくに個人や少人数のボランティア団体ではこういう感じの事務所が多かったです。もちろん宿泊させて頂く方も寝袋持参。



こちらは呉服屋さんのご厚意でお店(被災して閉店中)に泊めて頂いたところです。畳の上で寝られるなんてかなり贅沢な感じでした。もちろん雑魚寝で寝袋持参。このときは総勢4人で泊めて頂きました。



こちらは避難所が解消されてからの「チーム神戸」の事務所。避難所で仲良しになった被災者さんから「自宅は被災しているけれど、自分たちで手を入れて直せるなら事務所として使って」と許可を得て独力でリフォームしたのですって。すばらしい!!



最後は仮設住宅に泊めて頂いた貴重な体験です。仮設住宅は空室があっても、それは自治体の所有物だからボランティアといえども宿泊はできませんでした。こちらは某所の住民さんが自宅再建中に空けている間だけ仮設のお部屋を宿泊所として提供してくださいました。





東日本大震災では5万戸を超える仮設住宅が建設されたそうですが、しかし仮設住宅生活は長く続きました。本来法定ではプレハブの仮設住宅の耐用年数は2年ですが、公営災害住宅の建設の遅れなどから国と自治体の協議によって仮設住宅の供用期間の延長が繰り返し行われ、現在ではほぼ解消しているものの、福島の原発事故による避難をしている双葉町などでは今年になってからさらに延長が決められています。

(続く)
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震災10年雑感(その8)~「能楽の心と癒やしプロジェクト」の誕生

2021-05-17 03:36:11 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽師有志による慰問活動を終えて東京に戻り出演者で話し合い、たった1回だけだった今回の活動をさらに拡大していくことを確認し、ここに被災地支援団体としての「能楽の心と癒やしプロジェクト」が発足しました。「能楽の心と癒やしプロジェクト」という団体名を発案したのは寺井宏明さんで、同時に慰問公演の標準的なイベント名も「能楽の心と癒やしをあなたへ」と称することを提案されましたが、あとで聞いたところによればこの名称は湊小学校避難所の体育館に掲げてあった横断幕? に書かれていた言葉から取ったものだそう。



「癒し」ではなく「癒やし」と表記するのも寺井さんのこだわりで、なんでも「や」を入れるのが正しい送り仮名なのだそうで、こういう こだわりは「能楽師あるある」かも。おかげで「癒やし」をパソコンで単語登録していない ぬえは今でも「癒し」としか変換されないので、 わざわざカーソルを戻して「や」を追加しなければなりませぬw

そして狂言の大蔵千太郎さんの提案でメンバーに千太郎さんの門下の小梶直人さんが加わりプロジェクトは4人体制となりました。前回の慰問上演では千太郎さん一人では狂言が上演できなかったので、これで能も狂言も上演できることになったのです(が、千太郎さんは狂言大蔵流の宗家の嫡男のお立場の重責もあり多忙でもあるので、被災地での狂言の活動はこの翌年の正月までで事実上休止となりました)。

活動資金の調達も始め、千太郎さんが小さな狂言のチャリティイベントを開催してくださったり、東北大学の大隅典子先生のご厚意で横浜の国際学会で募金を募ったり、プロジェクトの活動を知った個人から寄付が寄せられたり。この個人の寄付はその後相当長く続いた例もありました。毎月の11日。。それは震災のあった日。。つまり犠牲者の月命日に当たる日に毎月1万円を、数年に渡り寄付してくださる方もありました。





じつは、驚異的なことではありますが、プロジェクトの活動は震災から10年経ったいまでもこのような寄付や被災地での上演の際に住民さんからねぎらいの意味で頂戴したご祝儀などで活動を続けております。

震災の翌年だと思いますが、ほかのボランティア団体と話をしていて、「え! いまだに寄付だけで活動している団体なんてほかにないですよ」と驚かれた記憶がありますが、プロジェクトはその後も9年間こうして活動を続けて来られました。

それというのも能楽師は上演する肉体と技術、そして面装束や楽器などの道具があれば活動は可能なわけで、しかしボランティアなのですからもちろん出演料をもらうのなどはもっての外で、面装束や楽器の損料ももらいません。すると出費は交通費と宿泊費、そして食費程度で済むことになって、そもそも活動自体がとってもリーズナブル。

そのうえこの当時は ぬえの車にメンバーが同乗して交代で運転して被災地に向かうことでガソリン代を節約したり、自治体から「災害支援活動」の認定をもらって高速道路の通行料を免除してもらうこともできました。宿泊も避難所やボランティア団体の事務所に雑魚寝したり個人宅に泊めて頂いたりして、ホテルなどに宿泊費を支払うことはほとんどなかったです。さらにはプロジェクトの方針として食費はメンバーの自己負担と決めていました。これは ぬえのこだわりですが、支援活動のためとして募金をお預かりした以上、そのお金は被災地支援に直接結び付く目的に費やされるべきで、酒食の区別がつかない食事の費用には消費するべきではない、と思ったからです。

これじゃーお金使わないですねー。 しかし事態が落ち着いてくるに従って ぬえたちボランティアを取り巻く状況も変わって行きました。

まず自治体によって「災害支援活動」の認定を受けると高速道路通行料が免除される制度は、震災から半年もしないうちに廃止になりました。当時はそれでも「深夜割引」を使うと通行料が半額になる制度があったので、能楽師は深夜0時に集合して徹夜で運転して被災地に向かう、なんて事もしました。

宿泊についても、震災の年の秋には避難所も解消されましたし、ボランティア団体も順次撤退して事務所が閉鎖されたり、被災地が落ちつきを取り戻すにつれて個人宅に宿泊させて頂くのが難しくなったりして、現在ではホテルに宿泊するのが普通になりました。

それでも宿泊費は5,000円を上限と取り決めたり、交通費は ぬえの車に同乗できない場合でも夜行バスを使うなど節約に心がけました。食費についても、ゲストの能楽師が参加された場合のみ楽屋弁当としてコンビニ弁当を配ったり、と節約に努めております。
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震災10年雑感(その7)~湊小学校避難所で初の上演

2021-05-13 12:41:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
こうして ぬえの最初の被災地訪問は終わりました。

この訪問によって、「慰問」という形の支援があるのだ、と ぬえは気づかされました。泥掻きや義捐金など被災地支援にはいろいろなやり方があるでしょうが、能楽師として「慰問」という支援の方法があるのだ、それは我々にしか なしえない方法なのだ、と気づいたのは大きな収穫でした。東京に帰った ぬえはすぐに仲間の能楽師に ぬえの体験を伝え、慰問訪問に協力してもらえないかを相談しました。

その相談の相手というのは笛方森田流の寺井宏明さんと狂言方大蔵流の大蔵千太郎(現・大蔵彌太郎)さんです。彼らは ぬえが長年伊豆で指導している「伊豆の国市子ども創作能」の公演に協力頂いている方々で、ぬえがこの相談を持ちかけたのも伊豆での子どもたちの公演の楽屋でだったと記憶しています。

ちょうどその頃 ぬえが指導する「伊豆の国市子ども創作能」の公演があり、このとき来演頂いた仲間なら、と ぬえは思ったのでした。伊豆の「子ども創作能」は、出演者は地謡も含めすべて小学生で、これがプロの能楽師の囃子方の先生に合わせて謡い舞うことができる、という、国に出しても恥ずかしくないレベルを誇る ぬえが自慢の「児童能楽劇団」です。しかしあくまで素人の小学生が上演するものですし公演会場は神社の神楽殿など。こういう通常の能楽の公演とはかけ離れた不規則な上演を嫌がらずに、協力してくれる彼らならば、と協力をお願いしたのでした。

能楽での慰問公演というのは、まさに能楽が本来持っている上演の本質的な目的とも合致する行為で(この辺は ぬえが能楽に関わっている経験から導き出された確信で、これについては後日改めて詳述しようと思っています)、これを行うのは能役者としてあるべき姿だと思います。

がしかし一方、能舞台ではなく避難所となった小学校の音楽室を会場にしての上演、また出演料どころか交通費も宿泊費も出ないような活動を行う無理をお願いできるのは、よほど被災地に寄せるお気持ちがある人でなければならず、お二人には大変感謝しております。

お二方とも二つ返事で快諾くださり、早速ミーティングを重ねて被災地での慰問公演の計画を練り、石巻の湊小学校避難所の「チーム神戸」のリーダーの金田さんにも相談して、1カ月後の8月に同避難所において初めての慰問公演を行うことが決まりました。

8月15日、こうして行われたたった1日だけの第1回の慰問公演。会場は湊小学校避難所の体育館で、ここも津波に遭い泥だらけの床を掃除するところから始まりました。



雑巾がけをする千太郎さん。狂言方大蔵流宗家の嫡男という恵まれたお立場なのに、こんな汚れ作業も率先してできる方です。

このとき上演した曲は『石橋』です。ぬえと寺井さんの二人だけの上演で、千太郎さんは主に司会をして頂きました。



このとき『石橋』を上演することを選んだのは ぬえです。シテと笛だけによる『石橋』の上演は、もちろん ぬえにとっても初めての経験ですが、なにより能楽の世界で大切に扱われている曲をこうした あまりに変則的な場所で、変則的な形で上演をすることには ぬえにも葛藤がありましたが、これも ぬえがよくよく考えて選んだ曲なのです。その理由についてはまた改めて詳しくお話したいと思います。
(続く)
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震災10年雑感(その6)~何もできなかった気仙沼

2021-05-10 15:29:19 | 能楽の心と癒しプロジェクト
この震災後初めての石巻訪問のときは、前泊した塩釜市のホテルだけはネットで予約できたのですが、石巻や次の目的地である気仙沼、その途中の南三陸町などの宿泊施設で営業している情報はありませんでした。なので行きあたりばったりに石巻を後にして気仙沼に向かったのです。

忘れもしない。。カーナビを頼りにはじめて走る真っ暗な夜道。対向車もほとんどないまま海岸線に沿って、所々は道路も陥没していたり、倒壊した家屋が道路の半分を塞いでいたり、自衛隊が架設した橋を渡ったり。。道路の状況に気を付けながら、ときには通行止めで延々と道を戻って迂回路に向かったり。すると突然、それまで海岸線に沿ってカーブを描いていた道路が、ぬえの目前で直角に曲がるのがライトに照らし出されました(!)。

とくに建物もないのになぜ。。と思いながらカーナビを見てみると。。そこは南三陸町の志津川の街の中心部にいつの間にか入っていたのでした。ライトに照らし出されたのは津波によって流された建物の残された基礎でした。そして車の中から外をよく見透かしてみると。。平野かと思ったその場所は一面、建物が消え去って土台ばかりが残った志津川の街でした。ひとりきりの ぬえは慄然。。

その後歌津の被害状況を見て、さすがに深夜になる前に宿泊場所をカーナビで探すことにしました。志津川や気仙沼の海に近いホテルは営業しているはずもなく。。いや、あとで知ったところでは実際には海に近くても高台にあったホテルの中には被害が比較的少ないものもあったのですが、この頃はそういう宿泊施設はほぼ例外なく避難所となっていましたから、旅行者が泊まれる状況ではありませんでした。結局 ぬえがこの夜泊まったのは30km離れた登米市のラブホ。。でもこれは正しい判断だったのです。そして翌日に気仙沼に入りました。

気仙沼を目的地に選んだのは、石巻と同じく震災の前に学校公演のために新月(にいつき)中学校に訪れたことがあったからです。とにかく宮城県の児童・生徒は挨拶が礼儀正しいな、とそのとき感じた ぬえは、震災で彼らがどうなったのか気になっていたのです。

しかし石巻のときと違って気仙沼ではボランティア団体を見つけることができず、また本当に当時の ぬえは学校公演の記憶があるだけの、被災地にとっては「よそ者」でしたので、避難所に足を向けるのもはばかられて。。結局このときは被災状況を 指をくわえて見ているだけになってしまいました。その後 気仙沼ではかなり長く活動を繰り広げることになりましたが、それは震災の年の年末、東京の「演劇倶楽部 座」の代表である壌晴彦さんから気仙沼の児童劇団「うを座」の関係者をご紹介頂いてからのことになります。

しかし。。気仙沼は驚くばかりの惨状でした。震災から3カ月も経っているというのに。







この年の暮れに「能楽の心と癒やしプロジェクト」として訪れた際に同行頂いたワキ方宝生流の野口能弘さんは「この光景。。東京に帰って説明しても信じてもらえないかもしれませんね。。」とつぶやいたのが印象的でいまでも良く覚えています。

(そうそう、話は脱線しますが、今年震災10周年がすぎてから野口さんと楽屋で話していたら、ワキ方下掛宝生流では熊本の震災の際に流儀をあげて阿蘇神社に支援物資を送るなどの活動をされたのですって。それはワキ方の役者は能『高砂』で「阿蘇の宮の神主・友成」の役を頻繁に上演しているので、震災の際に少しでもお役に立てたら、と考えられたのだそうです。まったく知らなかったですが素晴らしいことだと思います!)

結局 ぬえはこの日気仙沼の被災地区を見て、昼食に「かっぱ寿司」でカツオを食べて帰りました。カツオ。。そう、震災前の学校公演でもうひとつ気仙沼で強烈に印象に残ったあの味をもう一度と思って。。「この味じゃない。」(←当たり前)

あとで知ったことですが じつは学校公演で気仙沼を訪れたのはちょうど秋の「戻りガツオ」の時期でして、その美味しさは衝撃的でした。これは気仙沼で水揚げされてすぐ、地元のお店でしか味わえない味で、それも秋のほんの2週間程度の限られた時期しか食べられないのだそう。後日このことを気仙沼の方から聞いて、夏に「かっぱ寿司」で戻りガツオが食べられると思っていた この当時の ぬえの行動について存分に笑って頂きましたー。

こうして最初の、一人きりでの活動を終えて ぬえは東京に戻りました。行きははじめて被災地に向かうので緊張していたのか疲れは感じませんでしたが、帰りは500kmの道のりを一人で運転して、もうサービスエリアごとに休憩して眠り込むような感じで、10時間近くもかけて帰ったように思います。
(続く)
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