ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設11周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

気仙沼・羽田神社奉納

2018-09-04 01:45:45 | 能楽の心と癒しプロジェクト
8月12日の日曜日、気仙沼の羽田神社(はたじんじゃ)で奉納上演させて頂きました。
この朝、何度もプロジェクトの活動に参加くださっている太鼓の大川典良さんも到着。



大川さんはその前日には横浜で催しがあり、それが終わってから東北に駆けつける、とのことでしたが、なんせこちらの奉納の開始が午前10時。。
深夜に車で走って来る、とのことでしたので、がんばって気仙沼の宿舎(個人宅)まで来れば。。とお勧めはしたのですが、結局多賀城に深夜に宿泊することになったそうでした。
え。。多賀城から気仙沼までは車で2時間の距離。。
朝の奉納のためには、また多賀城から早朝に出発しなければなりません。
それでもこの日、無事に気仙沼に到着されました。相変わらずのバイタリティ。

さて羽田神社は気仙沼では有名な神社だそうで、それというのも「お山がけ」という神事が国の重要無形民俗文化財に指定されているからです。
「お山がけ」は数え七歳の男児が神社の裏にある羽田山に登って奥院に参拝し、無事の成長を祈願する行事で、全行程は2時間ほどのようですが、さすがに小児のことですから登山には同伴者が必要。しかし両親の同伴は我が子への情けを断ち切るためか禁止で、通常は祖父や叔父さんがつきそうのだそうです。

子どもさんは登山がつらくて泣いたりしないのですか? と総代さんに ぬえは聞いてみたのですが、子どもはつらいようだが途中棄権の例はないです、むしろ同伴のお爺さんが先に音を上げたりしますね(笑)とのこと。

まあ、こういう神事は似た例もありそうなものですが、こちらの神社の「お山がけ」は広く気仙沼全域。。それこそ町村合併以前の唐桑地区や本吉地区からの参加者もあるそうです。さらにはお祭りの際の御輿の渡御も、羽田地区だけではなく気仙沼の広い範囲を廻るそうで、この神社がいかに崇敬されていたのかが分かります。前日に泊めて頂いた ゆかぽん家でもこの「お山がけ」に参加したことがあるそう。

さて羽田神社の拝殿・本殿は急勾配の階段の上に鎮座しています。が、現在では参拝者もこの急段を登るのは難儀とのことで、我々プロジェクトの奉納場所も拝殿ではなくふもとの社務所となりました。ぬえもがんばって装束を階段で運び、拝殿で着付けて奉納するつもりだったのですが。。社務所で良かった。。もとい、残念でしたw

羽田神社は気仙沼の水梨地区あたり、だとは神社の住所を見て見当はつけていたのですが、実際はかなり山奥、といったところで、それでも奉納上演にはかなりの参詣者が集まってくださいました。






(↑撮影:小野寺由美子さん)

能「羽衣」の奉納のあとには いつものように能楽体験会も。



終演後。。と言っていいのか、楽屋に割り振られた社務所の一角に飾られた「吊し雛」の紐がもつれていたのは能楽師3人ともが到着早々気になっていたところで。。

ぬえもこれが気になって、もつれた紐をほどこうとしていたのですが、途中で断念。

が、ほどなく別の能楽師。。太鼓の大川さんがこれに挑戦して、まさしく没頭状態にww





神社さまからは わざわざ昼食のご用意を頂いたのですが、もうこなると大川さんは食卓にお招きしても「はい。。すぐ行きます。。」と生返事をしながら、まばたきもせずに吊し雛との格闘を止めようとしません。

あーこう細かいところが気になるの、「能楽師あるある」かもしれないです。

結局紐はほどけませんで、大川さんは「次に当地に来るときは必ず」と、宿命を背負わされて(誰に?)、次の活動場所である石巻に移動したのでした。ははは。

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大槌町から気仙沼へ

2018-08-27 08:26:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ちょっと時間が経ってしまいまいましたが、その後の報告です。
 
初めての大槌町での活動は町内・安渡(あんど)地区の公民館で行われました。
新しく、モダンな公民館でしたが、じつは安渡地区はもともと海に近い場所にあって、震災時も被害が大きかったようで、公民館も津波の被害を受け、この建物も震災後に再建されたものだそうです。
 
上演曲は「羽衣」で、初めて活動する場所では必ずこの曲を上演することにしております。
終演後は恒例の体験会も行い、楽しい催しとなりました。











(撮影:新宮夕海氏)
 
終了後に宮城県・気仙沼市に移動。
 
今回は旧知の住民さんの「ゆかぽん」家に泊めて頂きました。
高台に建つ住居の裏には広い旧家があって、ここに泊めて頂いたのですが、震災当時はこの家が臨時の避難所になり、その状態が長期化するにつれて「みなし仮設」(賃貸アパートなど自治体が建設する仮設住宅ではないが、被災者が生活する場所として認定された施設)となっていたとのこと。
 
気仙沼での活動は久しぶりですが、なんとこの日、ゆかぽんが呼び掛けてくれて、これまでにプロジェクトの活動に支援頂いたみなさんが集まってくださり、お庭でバーベキュー大会になりました!
 
仙台でお勤めしている ゆかぽんの長女と、盛岡で大学生活を送る長男もお盆で帰省して、なんとも賑やかなパーティーになりました。二人ともプロジェクトの能楽体験に参加したことがありますが、当時はたしか小中学生。。もうあれから7年も経ったのだもんね。
 
。。が、話題はやはりいつの間にか震災のことに。
分けてもこの夜、集まった方のうちのお一人から、震災関連死についての重い重い体験談を伺う事になりました。
 
詳しくここに内容を書くことはできませんが、震災の犠牲になった両親の跡を追ってしまった少年の話。。あまりにも重く、悲しい。生き残った命を「死なせてしまうのは もう見たくない」と、この話者さんは締めくくりました。
 
。。
 
じつは ぬえは震災の体験談というものを ほとんど聞いた事がありません。
実際に被災地の瓦礫や倒壊した建物を見には行くんだけれど、その惨状を見て決意を新たにして避難所や仮設住宅に向かいます。
しかしプロジェクトの活動は被災した住民さんに楽しんで頂くことを目的としているので、そこで被災体験を伺うことはありません。宿泊したときなど、住民さんと膝をつめてふれ合う場面で断片的な体験談を伺うことが何度かありましたが。。
 
それだけに、この夜に聞いた少年の死の話はショッキングでもあり、7年経っても 当事者にしかわからない重い心の傷を、この街は抱え続けているのを実感しました。
 
震災の記憶の風化がかつて言われ、今はそれさえ話題に上らなくなった昨今ですが、伝えてゆくべき事もまた、あるのだと思います。
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風の電話

2018-08-15 10:18:33 | 能楽の心と癒しプロジェクト
怒濤の被災地支援活動をすでに終え、東京に帰る途中です。
今回もいろんなものを見、聞きして、内容の濃い活動となりました。
かいつまんで、にはなりますが、ご報告申し上げようと思います。
 
8月10日、大槌町の町役場で笛の寺井宏明さんと、能楽写真家で 今回の大槌町での活動をコーディネートしてくれた新宮夕海さんと現地集合で落ち合い、実際に大槌町での活動を受け入れ、各方面との調整や準備に奔走してくださった佐々木慶一町議さんや、その佐々木さんを紹介頂いた藤原勝志ともお会いして、翌日の上演内容や段取りの打合せをさせて頂きました。
 
が。。この集合時刻にまだ余裕があった ぬえは、集合の前に もう3度目になった 大槌町にある「風の電話」に行ってきました。ぬえにとっても亡くなった大切な人に会う貴重な場所。。
 
ところが、「風の電話」のすぐ下には。。1年前に ぬえ自身も着工をこの目で見た三陸自動車道が完成していました。
開通はまだのようでしたが、もうすぐここをビュンビュンと車が疾走するのですね。。


 
もういくばくもなく、亡き人と語り合う静かな時間は失われてしまうのでしょう。
そうして、建設された三陸道は土盛りされて、もう「風の電話」から大槌湾の海は見えなくなってしまっていました。。
 
もうひとつ、大槌町には有名なものがありまして、それが「ひょっこりひょうたん島」です。
 

 
大槌湾に浮かぶ小島で、正しくは「蓬莱島」、もしくは弁財天を祀っているので地元では「弁天島」とも呼び習わしているのだそうです。
 
昔のテレビの人形劇番組に出てくる小島のモデルになった、とも言われていて、この名前でも有名なのですが、実際にはこの島が人形劇のモデルなのかは不明で、台本を書いた井上ひさしさんが東北の出身で、代表作の小説『吉里吉里人』との関係が思われる「吉里吉里」という地名が大槌町にあることからの連想なのかもしれない、とのこと。
 
そんな「ひょっこりひょうたん島」ですが、じつは ぬえはもう何回かこの大槌町を訪れているのに なぜか一度も目にしたことがありません。
 
それがこの度は場所を教えていただき、そのうえなんとこの島は堤防で陸続きになっている、という情報まで得て、それならば、と島に行ってみることにしました。
 
藤原さんの案内でついにたどり着いた島は。。あれ? 以前に写真で見たのと少し印象が違うような。。
 

 

  
じつはこの島は震災の時に津波が超えて行ったそうで、そのときに灯台も弁財天を祀る祠も壊れてしまったそうで、それらは震災後に再建されたのだそうです。
灯台の形が以前と変わったのか、津波によって島が削られて形が変わったのか。。
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鵜住居復興スタジアム

2018-08-11 00:18:47 | 能楽の心と癒しプロジェクト
遠野を出ていよいよ最初の活動場所である岩手県・大槌町に到着しました!
 
…とは言っても今夜は大槌町に到着しただけで、本格的な上演活動はあさってから始まります。今日は同地の受け入れ協力者さんにご挨拶し、おいしいお食事をご馳走頂きました!
 
さて大槌町に向かう途中にも、いくつか震災以来見守り続けてきた遺構のその後を見てきたのですが、今回ぜひともご紹介したいのが釜石市の鵜住居(うのすまい)地区に完成なった「鵜住居復興スタジアム」です。
 
釜石市の中心部からは少し北上した場所にある鵜住居地区ですが、ぬえらプロジェクトは何度か被災旅館での活動を行いました。はじめて当地を訪れたのは震災の年の年末。この時は宮城県と比べて、岩手県の復興は半年遅れているな。。と感じたものですが。
 
ところがその後、ぬえが見てきた限りでは岩手県の復興は どんどんと進められました。防潮堤問題ひとつとっても、岩手県では「作るべきところには作る。不要と住民さんが決断したところは建設を諦めて潔く撤退する」というように、ぬえの素人目ながら、ブレない基準をもって貫き通して、震災から7年目の、それにふさわしい復興が進められてきたのだ、という実感が感じられます。
 
さてこの鵜住居復興スタジアムですが、2~3年前にはじめてこの計画を聞いた ぬえはビックリ仰天でした。なんせ。。実際に津波が襲って被災した小中学校の建物を取り壊した、その跡地にスタジアムを建設し、東京オリンピックの前年。。つまり来年に日本で行われるラグビーのワールドカップの試合会場に誘致しよう、というのですから。
 
そして。。その後この計画は実現し、つい先日、テレビのニュース番組でスタジアムの完成が報道されました。
 
まさか、の展開。ぬえもこの機会にスタジアムを見に行ってみました。
 
ふうむ、すごいなあ。
正直言って、東京のスタジアムのような壮麗はないのだけれど、あの学校跡地がこうなるとは。。
 
そのスタジアムが震災当時どうなっていたのか。
ここで ぬえが2011年の終わりに撮影した画像をお見せしましょう。
 

 

 


「○」「スミ」は生存者の捜索作業がすでに完了した場所であることを、後続の捜索隊に知らせるために書かれたサインです。

。。これほどひどい状況だったのが、いま外国人のサポーターをゲストとしてお迎えしてワールドカップを開催する施設に変貌を遂げる日が来るとは。。
 
ちなみに、そのとき被災した「鵜住居小学校」「釜石東中学校」ですが、震災当時は日頃の避難訓練が効を奏して いち早く避難して、1名の犠牲者も出さなかったそうで、「釜石の奇跡」などといわれました。


それがこれほどに震災後に復興を遂げるなんて。
素晴らしいことです。
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悟道の里山

2018-08-09 19:38:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
台風と並走しながら東北に向かいましたが、風も雨もそれほど厳しくはなく、それでも8時間掛かってようやく遠野に到着しました!
 
大槌町での活動は明後日で、明日は現地に入るだけの予定ですが、思うところもあり、また長旅で疲れた様子で現地入りするのもどうかと思うので、さらに1日早く岩手県に入り、今夜は遠野の「悟道の里山」に泊めて頂くことにしました。
 
ここ「悟道の里山」は、石巻のご出身で解体業のほかレストラン経営など多方面で活躍される真野孝仁さんが震災の犠牲者の慰霊の意味を込めて遠野に建設された施設で、誰でも拝礼できるように わざわざ無宗派として建立した寺院を精神的な支柱にして、この地方独特の「曲り家」(の形式の巨大な建物)を中心に、森あり、池ありの広大な施設です。
 

 
真野さんは震災当時にバイクを駆って石巻市内の在宅避難者の救済に当たったりの奔走をされたそうですが、その後この施設を建設され、この日は久しぶりにお会いできるかと思ったのですが、なんと広島の豪雨の被災地に行っておられるとか。。残念。
 
さて昨年の開山式には ぬえも奉納上演させて頂きましたが、鎮魂のための施設にとどまらず、文化の発信基地として いろいろなイベントも行われています。
 
その「悟道の里山」が来月に1周年を迎えるそうです。
 

 
あいにく ぬえはこの日は東京で舞台があり参上できませんが、真野さんとは「いつか石巻で鎮魂のための本格的な能楽の上演をしよう!」と話し合っております。
その日が来ることを心から願って、今日はここに鎮座された仏さまに手を合わせて、ありがたく投宿させて頂きます。
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大槌町へ

2018-08-09 11:14:25 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3.11に名取市・閖上を訪れて以来、久しぶりの東北地方支援活動に出発しました。お盆ですもん。
 
。。が、まさかの台風と並走しての北上になるとは。。
またしても「嵐を呼ぶ男」になってしまうのか。(←迷惑)
 
それにしても。。
 
常磐道で福島県・楢葉や大熊・双葉あたりを走りながら周囲を見ると。
原野と化した田畑。。
扉や窓も失われて廃墟となった家屋。。
草原にポツンと滑り台やブランコが立つのは小学校の校庭か。。
 
あれから7年半。
長崎の原爆の日に、「罪の深さ」を思う。。
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梅若研能会2月公演

2018-02-06 13:42:15 | 能楽
もう来週に迫ってしまいましたが、来る2月15日、師家の月例会「梅若研能会2月公演」にて ぬえは能『実盛(さねもり)』を勤めさせて頂きます。ここのところずっと序之舞を舞う女性の役ばかりだったのですが、今回は久しぶりの修羅能。。どころか流儀では「準九番習」として重く扱われる能『実盛』ぼお役を頂戴致しました。(゜;)

時宗の指導者である他阿弥上人が加賀国篠原に滞在して説法をしていると、熱心に日参して聴聞する老人がいます。不思議なことには老人の姿は上人以外の者には見えないのでした。上人は老人に名を名乗るよう促すと、老人は実盛の霊だと明かして篠原の池の汀に姿を消します。

その夜、上人が臨時の踊り念仏をして弔うと実盛の霊が現れ、阿弥陀仏を称えることにより成仏できるという教えを喜び、懺悔のためにかつての有様を語ります。

この篠原の合戦で平家が破れたとき、源氏の大将・木曽義仲の御前に畏まって手塚光盛が申し上げたことには、光盛は奇怪な武者と組んで首を討ち取りました。大将のようにも見えますがそれに続く軍勢もありません。また身分の低い侍かと思えば錦の直垂を着ております。名を問うても答えずに首を取りましたが、言葉は関東の者のようです。。これを聞いた義仲はさては実盛であろうと直感しましたが、歳のほどであれば白髪であるはずのところ黒髪なのを不審に思い、家臣の樋口次郎を呼んで首実検をすることになりました。

樋口は首をひと目見て涙を流し、この首が実盛のものだと断じます。彼によれば実盛が常に言っていたことには、六十歳を越えて合戦に出たら、若武者と先陣争いをするのも大人げない。また老武者だと敵にさげすまれるのも口惜しいこと。いざその時には鬢や鬚を墨で染めて若やいで出陣して討ち死にする覚悟だ。。樋口はこの首を洗ってみる事を提案し、近くの池の水で洗うと、果たして墨は流れ落ちて白髪の元の姿に戻りました。これを見た源氏の武者たちは、実盛の武者としての覚悟に感嘆し、みな鎧の袖を濡らすのでした。

また実盛が着ていた錦の直垂は、自身の功名心の故ではありませんでした。義仲討伐のため北国へ進軍する事になった平家軍の中で実盛は大将の平宗盛に向かってこう言います。故郷へ錦を飾る、という言葉があります。実盛は領地を賜って武蔵国の長井に住んでおりましたが元は越前の生まれ。このたびの北国での合戦は自分の故郷へ帰ることになります。この老武者は生きて陣に戻ることはないでしょう。老後の思い出のため、なにとぞお許しを願いたい。こう言うと宗盛も感じて、赤地の錦の直垂を実盛に賜ったのでした。

こうして故郷に錦を飾り、若やいで討ち死にする決意も成し遂げた実盛でしたが、やはり合戦に出たからは敵の大将・義仲を討ち果たすことが念願。それを手塚に阻まれたことは今に残る無念。そのとき実盛の前に立ち塞がった手塚に実盛は組もうとしますが、手塚の家臣は主人を討たせまいとさらに実盛に組み掛かります。これを容易く首を取った実盛でしたが、その隙に手塚は実盛に手傷を負わせ、さらに手勢も襲いかかって、ついに実盛は首を打ち落とされたのでした。

こうして篠原の土と還った、と語った実盛は上人に重ねての回向を頼んで姿を消すのでした。

 ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇

能の多くの曲は作者が不明なのに対して、能『実盛』は世阿弥作であることが確実、しかも成立年代までおおよそ判っているという希有な例の曲です。世阿弥としてはやや後年に作られた曲であり、彼にとって自信作でもあったようです。

謡曲の中には明示されませんが、じつは実盛は敵将の木曽義仲の命の恩人でもあり、また後世の話になりますが、彼が遺した兜が現存していて、国の重要文化財となっていたり、この兜を見た松尾芭蕉が「むざんやな兜の下のきりぎりす」の有名な句を詠んだり、と話題も多い主人公ですね。

今回は時間がなくブログでの作品研究はできませんが、こうした話題も紹介しながら能『実盛』の見どころをお話する事前講座「能『実盛』みどころ講座」も開催させて頂くこととなりました。


どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 2月公演

【日時】 2018年2月15日(木・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 仕舞 野 宮   中村 裕

狂言 千鳥(ちどり)
     シテ(太郎冠者) 大蔵彌太郎
     アド(主人)   吉田信海
     アド(酒屋)   小梶直人

   ~~~休憩 15分~~~

能  実 盛(さねもり)
前シテ(尉)/後シテ(斉藤別当実盛) ぬ え
ワキ(遊行上人)福王和幸/間狂言(里人)大蔵基誠
笛 藤田次郎/小鼓 観世新九郎/大鼓 柿原弘和/太鼓 小寺真佐人
後見 梅若万佐晴ほか/地謡 青木一郎ほか

                     (終演予定午後4時30分頃)

【入場料】 指定席A6,500円 指定席B5,500円 学生席各席2,000円引き
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com


※事前講座※
能「実盛」みどころ講座
2月10日11:00~12:30
於:梅若万三郎家能舞台(東京都渋谷区西原1-4-2)
受講料:1,000円(研能会入場券購入者は無料)
講師:ぬえ
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何某の院の物語…『夕顔』(その10)

2017-07-26 22:26:35 | 能楽
この、能『夕顔』のシテが天上して消える終曲のあたりは、同じ本三番目物の能の中でもかなり特異だと思います。多くの三番目物の能。。いや、曲柄に限らず多くの、所謂「複式夢幻能」では本性を現した後シテはワキ僧の回向に感謝しつつ、往時の出来事を仕方話として語ることによって懺悔としますが、このためについにシテが「往生を遂げた」という大団円で終曲を迎える能はそれほど多くないように思います。

『井筒』にしろ『東北』にせよ、こうした能の多くは僧の夢が覚めたところで終曲するのであって、主人公が僧の回向と本人の懺悔によって救済されたという印象は残るものの、本当に死後の安寧が主人公にもたらされたのかどうかには含みが持たせてあって、観客の想像に任されているのです。こうした能の終曲の場面は、静謐な能であるほど余韻が深まるので、能の作者は当然そこを狙ってこのような終曲を用意したのだと思われます。

一方、多くはないけれども、能『夕顔』のように主人公が成仏できた喜びを表して、浄土に? 赴く様を表して終わる曲もありまして、『江口』や『誓願寺』、『当麻』『海士』などがその部類に入ると言えると思います。じつはこれらの曲に共通した特長があって、それは主人公そのものの生死を物語るストーリーでありながら、その能のテーマが経文や、あるいは仏法そのものの礼賛にある曲で、少なくとも最後の場面ではそうした経や仏神が高らかに賛美されて終わるのです。

『夕顔』はこうした一連の能ともまた少し違っていて、あくまで僧の回向があり、シテはそれに帰依した事によって成仏するのであって、終曲部分では単純にその喜びを表現するという趣向になっていますね。僧が唱える具体的な経文の文句も『夕顔』には出てきません。しかし、シテが僧を頼りに仏の教えに帰依する、ということは序之舞の前にはっきり書かれていて、キリでは「雲の紛れに失せにけり」と、シテが昇天していく様子が描かれています。

まるでシテが菩薩に変身したかのような錯覚さえ覚える終曲部ですが、その前に「変成男子の願いのままに」とありますし、ワキも待謡でわずかに「法華読誦の声絶えず」と言っているので、ここは『法華経』に見える八歳の龍女が男性の姿となって南方無垢世界で成仏した、という説を念頭に置いているのでしょう。もっとも夕顔が男性や龍の姿に変身した、と読むよりは、やはり菩薩のような姿となったと解したいところですね。

閑話休題。

能『夕顔』については少々問題もあるようで、後シテが登場してすぐに「物の怪の人失ひし有様を現す今の夢人の跡よく弔ひ給へ」と言っているのに、実際には人。。すなわち夕顔上自身が物の怪によって命を奪われる件が舞台上で表現されない、という指摘があります。

これについて、ぬえも最初は同じような疑問を持っていたのですが、じつは後シテが登場した姿が、そのまま「人失ひし有様」。。つまり犠牲者のそれなのですよね。実際には若女の面を掛け、長絹に緋大口という優美な姿で後シテは登場しますから、印象としては凄惨な姿を想像することは出来ませんが、後シテは続けて「見給へ此処もおのづから気疎き秋の野らとなりて」と言い、ワキも「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く」と同調すると、さらにシテが「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声」と言い、ワキが「さも物凄く思ひ給ひし」と夕顔の心を気遣っています。

この「気疎き秋の野ら」「池は水草に埋もれ」というのは『源氏物語』の中で源氏と夕顔が「何某の院」に早朝に到着し、日が高くなった頃に起き出して格子を上げて見た庭の光景で、また「鳥の嗄声」は夕顔が物の怪に襲われて人事不省になったときに源氏が聞いた梟の声です。

すなわち後シテが登場した場面は、場所こそ「何某の院」ではありますが、ワキ僧が訪れた時から一気に時間が遡ったように、源氏と夕顔とが愛を語らいあった、そして物の怪が夕顔を襲った「あの時」の様相が現前したのでした。

これを見てワキは「さも物凄く思ひ給ひし」。。「さぞ恐ろしく思われたことでしょう」と夕顔を気遣ったわけで、そう考えてみると、じつは後シテは実際の舞台に現れる優美な姿ではなく、命を奪われた苦しみの姿で登場した、と考えることができます。実のところシテ自身も「心の水は濁り江に引かれてかかる身となれども」と言っているわけで、物の怪を遠回しに言った「濁り江」に引かれて「かかる身」。。この世ならぬ身となった姿を現したと考えるのが自然でしょう。

そうであれば定めの取り合わせに逆らう事にはなりますが、後シテの面装束には工夫の余地があるかもしれません。

が、作者の狙いは陰惨な夕顔の死の事件の再現にはありませんね。
こうしてワキ僧の前に夕顔の死は示されたわけで、「物の怪の人失ひし有様を現す今の夢人」というシテの言葉に矛盾はないことになります。

そして、そこからシテは気持ちを変えて「かかる身となれども、優婆塞が行ふ道をしるべにて。来ん世も深き契り絶えすな」と言います。これは前述の通り、夕顔邸で夜を明かした源氏が、明け方に夕顔を「何某の院」へと誘うときに詠みかけた歌で、原作では近所から聞こえてくる行者・御嶽精進の礼拝する声に自分の夕顔に対する思いを重ねて、来世も深い契りを結びたいものだ、と言っているのですが、能では御嶽精進をワキ僧に置き換えて、シテはその教えに帰依し来世に導く便りとしよう、と自らに向かって言っているのです。

すると。。このあとに置かれた序之舞はシテ夕顔がワキ僧の弔いを神妙に受けている姿なのであって、能でシテが舞う理由としてしばしば挙げられる「報謝の舞」というものよりも、ずっと精神的なものだと考えるべきだと思います。

考えてみれば夕顔が僧の弔いに感謝して。。「舞を見せる」のは不自然ですよね。ここは僧の教化をありがたく受けている姿と考えたいです。

さらに序之舞が終わるとシテが言う言葉も「お僧の今の弔ひを受けて数々嬉しやと夕顔の笑みの眉」。シテは僧の弔いによって成仏できることが限りなく嬉しいのです。ですからこの序之舞は、最初は有難く読経を聞く敬虔で静かな心であり、その後だんだんと、浄土に生まれる確信を得て喜ぶ心なのでしょう。序之舞は『夕顔』の場合10~15分も掛かりますが、これほど長い舞の場合、途中からシテの気分が変わってくる、ということは能ではままある事です。長い舞の中でシテの心情の変化を表現するのは簡単ではありませんが、そのような心持ちを忘れずに舞いたいと考えています。
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何某の院の物語…『夕顔』(その9)

2017-07-21 03:30:08 | 能楽
後シテは若女の面が建前となっていますが、増を使うこともあります。装束は長絹に緋大口の姿。長絹は夕顔の花の色の印象から白地を選ぶ演者が多いと思いますが、もう少し工夫の余地はあるように思います。

後シテ「さなきだに女は五障の罪深きに。聞くも気疎きものゝけの。人失ひし有様を。現す今の夢人の。跡よく弔ひ給へとよ。とワキヘ向き
ワキ「不思議やさては宵の間の。山の端出でし月影の。ほの見え初めし夕顔の。末葉の露の消え易き。本の雫の世語を。かけて顕し給へるか。
シテ「見給へ此処も自づから。気疎き秋の野らとなりて。
ワキ「池は水草に埋もれて。古りたる松の蔭暗く。
シテ「また鳴き騒ぐ鳥の嗄声身に沁み渡る折からを。
と面伏せて聞き
ワキ「さも物凄く思ひ給ひし。
シテ「心の水は濁江に。引かれてかゝる身となれども。
とワキへツメ足
シテ「優婆塞が。行ふ道をしるべにて。と正へ向き
地謡「来ん世も深き。とサシ込ヒラキ 契り絶えすなとシテ柱にクツロギ 契り絶えすな。 と正面に向き これより序之舞

後シテも ひたすら動作が少ないですねー。ぬえの経験としても後シテが登場して舞にかかるまでにシテ柱から動かないまま、というのは初めての経験かもしれません。『井筒』が同じようにシテ柱から動かないけれど、「形見の直衣。。」あたりに型もありましたが、『夕顔』ではワキとの問答の中から舞に移ってゆく感じです。

序之舞でようやく動き出すシテ。可憐な夕顔がシテでありながら、能『夕顔』はひたすら重厚に、彼女の恋というよりは その死に焦点を当てたような曲ですね。この場面も夕顔が舞を舞う、というよりは僧の弔いに対する報謝として描かれていると思います。

やがて序之舞が終わると終曲に向かいます。

シテ「お僧の今の。弔ひを受けて。とワキヘ向き
地謡「お僧の今の弔ひを受けて。数々嬉しやと。と正へ出
シテ「夕顔の笑みの眉。とヒラキ
地謡「開くる法華の。
シテ「英も。
とツマミ扇にて扇を前へ上げ
地謡「変成男子の願ひのまゝに。 と左へ廻り、解脱の衣の。袖ながら今宵は。何を包まんと とワキの前でヨセイ、言ふかと思へば音羽山。 と正へ出、嶺の松風通ひ来て。 と脇座の上の方を見回し、明け渡る横雲の と雲ノ扇にて見上げ、迷ひもなしや。東雲の道より と脇座よりサシにて舞台を大きく右に廻り、法に出づるぞと。暁闇の空かけて とシテ柱にて正へヒラキ、雲の紛れに。失せにけり。 とトメ拍子踏み幕へ引く

夕顔が舞を舞う。。前述したように、これは報謝の舞ではありますが、それはそのまま夕顔が僧の弔いに感謝してダンスを見せた、という訳ではないでしょう。ぬえは、ここは本来「イロエ」を舞う心なのだろうと解釈しています。

本三番目物、鬘物の能の定石として能『夕顔』にも序之舞が置かれており、ここまで動きの少ない能であれば、この序之舞が唯一 この能の見どころという事になりますが、この舞は夕顔上が実際に舞ったのではなく、僧の弔いに感謝を述べ回向を受けている、ということを舞台芸術として視覚的に表現した、と解するべきだと思います。

夕顔の感謝の気持ちと、僧による教化を敬虔な気持ちで受けているはずのこの場面であれば、この舞はこの夕顔の心の動き、と読むべきでしょう。とすれば実際には ゆったりしたテンポでノリのない囃子、動作の方が似合うはずです。拍子に合わない囃子による舞というものは能の中にはないと思いますが、これに一番イメージが合うのが「イロエ」なのです。

イロエはごくゆったりと地を打つ大小鼓と、拍子に合わずに演奏される笛による舞ですが、いまひとつ定義が定まっていません。ときに太鼓が参加する「イロエ」もありますが、シテ方では太鼓が入った場合は「イロエ」と称せず「立廻り」と言う方が多いのですが、『歌占』や『百萬』のそれには太鼓は入らないのにシテ方でも「立廻り」と唱えますし、『巻絹』は太鼓が入るのに「イロエ」。このように同じ舞をシテ方と囃子方とでは呼び方が違う場合さえあるのです。

上に「舞」と書きましたが、「イロエ」でのシテの動作には 積極的な意味はない場合がほとんどです。静かに舞台を一巡する程度で、多くは主人公の心の揺らぎとか、茫洋とさまよう動作を表します。これに対して「立廻り」には動作に積極的な意味がある場合が多く、前述の『百萬』では母親が生き別れた我が子を探す動作です。シテ方はこの動作に意味があるかないかで「イロエ」と「立廻り」を区別している、とも考えられますが、その基準に合わない場合もあって、結局このふたつの定義は曖昧だと言わざるを得ません。

能『夕顔』でこの場面に「イロエ」ではなく「序之舞」が舞われるのは、台本全体の中では後場が短いので「イロエ」ではバランスが取れない、ということもありましょうし、やはり格式を備えた本三番目物の能として、重量のある「序之舞」が必要だった、ということもあるでしょう。

しかし、序之舞が置かれているから、と言って舞踏としての舞を舞うのは、この曲の場合そぐわないはずです。あくまで僧に対する感謝と、仏法に帰依する敬虔な気持ちの表現であるべきでしょうね。

もうひとつ、ここに序之舞が置かれた理由として ぬえが考えることがあります。それは10分近くにおよぶ序之舞の長さ。この中でシテの心情は変わってきています。

それを如実に語るのがキリの冒頭。。つまり序之舞を舞い上げたシテが発する最初の言葉です。「お僧の今の弔ひを受けて、数々嬉しやと夕顔の笑みの眉。。」 シテは弔いに対する感謝だけではなく喜びを表していて、これが能『夕顔』のひとつの特長であると思います。

それどころか夕顔のシテは成仏までをも果たしているのですね。地謡「変成男子の願いのままに解脱の衣の袖ながら今宵は何をつつまん」。。シテがワキ僧に対して包み隠すことがありましょう、というのは、その回向によって成仏できた喜びのことで、この曲の終盤は主人公が成仏する清浄な世界と、その法悦にひたるシテの喜びに満ちあふれています。終曲は「雲の紛れに失せにけり」という文句で、主人公は昇天して消え失せるのですよね。
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何某の院の物語…『夕顔』(その8)

2017-07-19 04:15:14 | 能楽
中入で前シテが幕に入ると間狂言の里人が登場してワキと問答します。

(注)以下の詞章は大蔵流に拠る「かやうに候者は。都五条辺りに住居する者にて候。この間は久しく何方へも出で申さず候間。今日は東山の辺りへ参り心を慰まばやと存ずる。いやこれに見慣れ申さぬお僧の御座候が、何処より何方へ御通り候ひて。この所にて休らふて御座候ぞ。
ワキ「これは豊後の国より出でたる僧にて候。御身はこの辺りの人にて渡り候か。
間「なかなかこの辺りの者にて候
ワキ「左様に候はゞ。まず近づ御入り候へ。尋ねたい事の候。
間「心得申して候。さて御尋ねありたきとは、如何様なる御用にて候ぞ
ワキ「思ひも寄らぬ申し事にて候へども。光源氏の古。夕顔の上の御事につき。様々子細あるべし。御存知においては語って御聞かせ候へ。
間「これは思ひも寄らぬ事を御尋ねなされ候ものかな。我等もここには住ひ候へども。左様の事詳しくは存ぜず候さりながら。およそ承り及びたる通り、物語り申さうずるにて候。
ワキ「近頃にて候。
間「さる程に。夕顔の上と申したる御方は。三位中将殿の御息女にて御座ありたるが。さる仔細ありて。人目を包み深く忍びてこの五条辺りに御座ありたると申す。あるとき源氏、六条の御息所へ通ひ給ひ。この辺りを御通りありしに。何処ともなく上臈の歌を吟ずる声聞こえしかば。源氏不審に思し召し。しばらく佇み給ひけれども。定かに所も知れず候間。そのまま帰らせ給ひ、またある夕暮れに。惟光の方へ御出あり。門前に御車を立てられ。辺りを御覧ずれば。小家に夕顔這い掛り。花も盛りなるを御覧じて。御随身にあの花取って参らせよと宣へば。御随身小家に立ち寄り。花を折りて帰らんとすれば。内よりも童を出し。暫く御待ち候へとて。白き扇のつま いとたうこがしたるに歌を書いて。是に添へて参らせ給へとありければ。御随身請け取って惟光へ渡されければ。惟光源氏へ参らする。源氏御覧ずれば。一首の歌あり。
心あてにそれかとぞ見る白露の 光りそへたる夕顔の花
とありしかば。源氏の御返歌に
寄りてこそそれかとも見めたそかれに ほのぼの見ゆる花の夕顔
と遊ばされ。夫よりとかく言ひ寄り給ひ。深く御契りなされたると申す。頃は八月拾五夜の御事なるに。源氏この所へ御出であり。夕顔の上に宣ふ様は。この辺りは何とやらん物凄敷く見え候とて。何某の院へ誘ひ給ひ。あけの夜不思議なる御事ありて。夕顔の上は空しく成り給ひたると申す。是と申すも御息所の御業の様に皆人申し習はし候。惣じて源氏などの御事は、上つ方に御沙汰ある御事なれば。委細は存ぜず候。
間「まづ我らの承りたるは斯くの如くにて候が。只今の御尋ね不審に存じ候。
ワキ「懇ろに御物語候ものかな。尋ね申すも余の儀に非ず御身以前に。女性一人来たられ。夕顔の上の御事只今御物語の如く懇ろに語り。何とやらん由ありげにて。そのまま姿を見失ひて候よ。
間「これは言語道断 不思議なる事を承り候ものかな。それは疑ふ所もなく。夕顔の上の御亡心にてあらうすると存じ候。夫れを如何にと申すに。筑紫より御上りと承り候へば。玉鬘の御縁にひかれ顕れ給ひたると存じ候。左様に思し召さば。暫く御逗留ありて。有難き御経をも御読誦なされ。重ねて奇特を御覧あれかしと存じ候。
ワキ「近頃不思議なる事にて候ほどに。暫く逗留申し。有難き御経を読誦し。かの御跡を懇ろに弔ひ申さうずるにて候。
間「御用の事候はば。重ねて仰せ候へ。
ワキ「頼み候べし。
間「心得申し候。


源氏と夕顔のなれそめが、まず源氏がたまたま五條を通りかかった時に家の内より歌を吟ずる声が聞こえてきた、というのは能『夕顔』の中で前シテが登場するときにワキが言う言葉とも一致し、間狂言の語りでは、その時は「源氏不審に思し召し。しばらく佇み給ひけれども。定かに所も知れず候間。そのまま帰らせ給」うた、となっていますが、これは『源氏物語』には見えない話です。

もうひとつ、源氏に命じられて随身が夕顔邸に咲く花(夕顔)を手折ると、家の中より童が出て扇を参らせますが、この扇の描写を能では「白き扇のつま いたうこがしたりしに」と書いていますが『源氏』では「白き扇の いたうこがしたりしを」という表記です。

細かいことですが、前者。。能では「つま」が追加されているわけで、「つま」とは「褄」。。すなわち「端」を意味する言葉です。これは着物の褄など現代でも使う言葉ですが、扇の場合は広げた扇の角を言い、我々の世界では普通に使う言葉です。

ところが意味の上では「褄」の語の有無はかなり違ったものになり、「白き扇」を「こがしたる」のであれば、これは香を焚きしめた、という意味になり、「褄こがしたる」のであれば、これは白一色の扇なのではなく、広げた扇の左右(あるいは一方の)の角が赤く染められた。。というように解釈され、そのまま想像すればその扇には褄だけでなく扇面に雅やかな絵が描かれているという印象を観客に与えると思います。

『源氏物語』の扇の描写は、あくまでも純白の扇であり、これは清楚で可憐な夕顔の上を象徴する小道具として用意されたものでありましょう。ところが能の作者はこれを極彩色の、とまでは言わないものの、にぎやかな図が描かれた扇と解釈して、「褄」を追加しました。これは能の作者にとって、もとより扇を主要な小道具とする能に登場する扇が白一色の無地の扇という設定にするのに抵抗があったのかもしれませんね。

間狂言が橋掛リの狂言座に退くと、ワキとワキツレは「待謡(まちうたい)」という謡を謡い、月下に読経して夕顔を弔う法事を行います。

ワキ/ワキツレ「いざさらば夜もすがら。いざさらば夜もすがら。月見がてらに明かしつゝ。法華読誦の声絶えず。弔ふ法ぞ誠なる 弔ふ法ぞ誠なる。

これに付けて囃子方が「一声(いっせい)」という登場音楽を奏し、やがて後シテ・夕顔の霊が現れます。
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