ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

久しぶりの伊豆(続)…と仕事納め

2010-12-30 03:01:26 | 能楽
今日(29日)は仕事納めで、師家で稽古能がありました。ぬえは『東北』の地頭のお役を頂き、最後のお仕事が能の地頭とは…なんとか大過なく勤めることができました。思えば今年の正月は丹波篠山での元朝深夜の神事能で『翁』の後見を務めさせて頂き、そしてまた年末には能の地頭と、大役で始まり大役で終わる年でありました。ありがたや、ありがたや~

さて伊豆のお話の続き。まだまだ見ていないところがたくさんあるんですう。

で、こちらは峰温泉というところにある噴水ならぬ「噴湯」。やぐらの上から勢いよく温泉の湯が噴き上がっています。



峰温泉は、中伊豆をずっと南下して、河津を経て、東伊豆の海に突き当たる その直前にあります。噴湯…このときはあまり勢いはなかったようですが、普段は10mあるやぐらの2倍の高さ…30mまで噴き上がるのだそうです。観覧は無料。噴湯のある時間は決められていて、1時間おきに1分間が設定されていました。1時間おきに1分間? なんだかあまりに規則正し過ぎている印象。どうも間欠泉とはまた違うようです。

すぐそばの売店の方に聞いてみたところ、やはり噴湯は人工的に管理されているのですって。1時間おきに やぐらの内部のストッパーをはずして、その時だけ湯が噴き上がる、というシステムだそうです。とはいえ、1時間の間に湯を溜めておいてポンプか何かの力で噴き上げさせている、というわけではなく、湯はいつも噴き出しているのですって。しかも発見された大正時代から現在までずうっと(!)。

ところが、常に湯を噴き上げさせていると、その成分が隣接する建物を傷めるのだそうで、そんなワケで人工的に間欠泉のように噴出を制御して、普段は温泉施設にその湯をまわしている、というような事のようです。

順序としてはこの峰温泉~前回ご紹介した「尾ヶ崎ウイング」~白浜という順番で廻った ぬえは、下田で開国博物館を見学、そのときに、なんと伊豆の根元…真鶴で今夜、冬の花火大会が行われることを知ったのでした。ええ~、真冬の花火大会…

南伊豆の、ほとんど伊豆半島の先端部分まで来た ぬえでしたので、ん~これはどうしようかなあ…と考えた末、やっぱり見に行くことにしました。下田から真鶴まではかなりの距離があるが…

ま、そんなこんなで 真鶴で見た花火がこれ。





え~、花火にあまり派手さはありませんで、1発づつ…1発づつ打ち上げられる、という感じ。防寒対策で重装備のお客さんの中からも「すこし暖まるくらい たくさん打ってほしいねえ」なんて声も出ていましたが。(^◇^;) それでもフィナーレでは花火の連射もあって、見応えがありました。なにより漁港の堤防の中で打ち上げる花火が水面に映って、不思議に幻想的な感じがよろしかったと思います。

そのほかにも須崎御用邸のそば…爪木崎では水仙が咲き乱れているところに遭遇! 水仙がこんなに咲いているなんて…はじめて見ました。



こうして久しぶりの伊豆を堪能しました~。子ども能も早速に次回の上演が決まり、来年も楽しい稽古ができそうです~

久しぶりの伊豆

2010-12-28 02:25:03 | 能楽
約1ヶ月ぶりに ぬえの心の故郷である伊豆に行って参りました~。

この時期は子ども能の稽古ではなくて、その有志の子どもたちとママたちのお稽古です。ところがお稽古の会場として拝借している旅館さんが、さすが忘年会シーズンということで12月はお部屋の空きがなく、当初取り決めてあった稽古日が流れてしまいまして、ようやく2度目の稽古日となる先日に伊豆にお邪魔した、というわけです。

このブログではせっかく師家のオープンリールテープのデジタル化のお話をし始めたところに申し訳ないばかりですが、いや~、伊豆を満喫して参りました! デジカメで撮った写真もとっても印象的だったので、ついついご紹介させて頂くことにしました。

まずはタイトル画像! 伊豆・韮山地区から見た富士山…ああ、キレイですね~。…でも不思議なことに、こんなに富士山に近いのに、伊豆からは年間を通じて富士山が見える、ということがないのです。これで11年 伊豆に通い続けている ぬえの経験によれば、春…4月頃からは もうずっと霞がかかったように富士山は見えませんで、それはずうっと…気象条件にもよりますが、次に富士山の勇姿を見るのは秋の頃まで待たねばなりません。

…がしかし、冬の伊豆から見る富士山は、もう感動的ですらありますね~。こんな大きな富士山は東京では望むべくもありません。

…あ、そういえば伊豆から見る富士山といえば ちょいとしたトリビアが。

富士山の南にあたる伊豆から見ると、宝永火口(江戸時代中期に起きた大噴火でできた火口。この噴火は風下にあたる相模国や江戸には大きな被害をもたらしたが、伊豆の被害は軽微だったらしい)がほぼ正面に見えますね。だから伊豆に育った ぬえの教え子の子どもたちに富士山の絵を描かせると、まず山の形を描いてから、その真ん中に○を描くんですよ。(^◇^;)

さて久しぶりに伊豆を訪れることになった ぬえは、稽古日の前日から伊豆に入り、あちこちを見て歩きました。これがまたキレイだった~。



こちらは中伊豆をずうっと抜けて相模湾に出たところにある「尾ヶ崎ウイング」という展望台から見た風景。スゴ過ぎです。そのうえ海上に目を転ずると、遠くに見えるのはなんと伊豆大島。それどころかこの日は快晴で、伊豆七島のほとんどが見えました!



それから南伊豆に下っていったところにある「白浜」。真冬とはいえホントにエメラルドグリーンの海でした。伊豆はほとんどが岩礁なので、ここの白砂は不思議ですね。日本の砂浜の砂はほとんど黒いので、このように白い砂だと海もグリーンに見えるんですね~。南国ムード満点。そういえば南紀白浜もこんな感じだったな。





師家所蔵 オープンリールテープのデジタル化大作戦!(その2)

2010-12-22 01:56:36 | 能楽
今回、師家所蔵のオープンリールテープをデジタル化する事になり、まずは師家よりお許しを得てテープを拝借し、リスト作りから取りかかりました。古いものは「昭和17年」という但し書きがついている先々代の師匠…初世の梅若万三郎の録音でしたが…これは不審。いくら録音機としてオープンリールテープが古いと言っても、まさか戦前に遡りはするまい。

それでも、その極端に古い録音を除けば、最も古い録音は昭和30年という事になるようです。中には収録の期日がリールやケースに記されていないものもあったので、あるいはこれより古い録音もあるかも知れませんが、とりあえず期日が記録されていて確認できるものとしては昭和30年が最も古いものでした。

…が、これは驚異的に古いのかも。というのも、その後調べたところ、オープンリール録音機が民間に普及したのはもう少し後のようだからです。昭和30年といえば、西暦では1955年ですが、SONYが日本で初めて磁気録音テープを発売したのは、これよりたった5年前の1950年の事なのだそう。当時まだSONYは「東京通信工業株式会社」という社名でした。発売初期のテープの素材は「紙」がベースだったようですし、ほぼ同時に発売された録音機そのものは受注生産でした(ものすごく高価だったのでしょう)。その後オープンリールテープレコーダーが普及したのは1960年代のことらしいです。機器やテープの価格がようやく下がってきたのでしょうね。

ですから昭和30年の能の録音は、相当な大金をかけて行われたことを意味しています。…でも ぬえ、その気持ちはよくわかるなあ。なんせ、オープンリールテープレコーダーというものは、はじめて個人が、自由に音源を記録して手元に置いておくことを可能にした機械なのですから。

今でこそ、録音といえばICレコーダーなどを使ってデジタル録音をして、PCに取り込んだりCDに焼く、などの方法でしょうし、さらに言えば音楽をネットでDLしてipodなどの機器に入れて、ポケットに入れて持ち歩く…なんて事の方がむしろ一般的かも。今はマイクやら、CDやDVDなどのメディアさえ目にしない時代になりつつあります。

ところがつい半世紀前には大きな録音機に磁気テープを装着して録音しなければならなかった…のですが、それ以前に、そもそも「録音」なんていう概念が個人のものでなかった時代を考えてみれば、これは革命的な技術の進歩だったのですね。そうしてそれは、能楽師…だけじゃなく、舞台芸術や音楽家の間では、天地がひっくり返るような大変な事件だったでしょう。

そりゃそうです。ぬえだって、デジタル時代に生まれたわけではないけれど、カセットテープぐらいは小学生時代からいじっていました。能の世界に飛び込んでから、謡や囃子は録音を聞きながら勉強したし、舞は自分の姿をビデオに撮って研究しました。その当時から「録音や録画が出来ない時代の人々はどうやって稽古していたんだろう…」という疑問がありました。いや、それは疑問というよりも、もっと切実な…同情みたいなものでしたね。

「同情」なんて言うと先人に対して無礼千万な言葉ではありますが…が、しかし「表現」した途端に 片っ端から消え去ってしまう宿命を根元的に持つ舞台人や音楽家にとって、ぬえと同じような、払拭しきれない不安…自分の芸の位置みたいなものは常に確認していたいものでしょう。「耳で盗む」と言われた昔の稽古法は、そうやって手に入れた技術を いざ自分が正確に再生できているのかの検証方法がないだけに ぬえには確実には思えないし、ましてや世阿弥の言う「離見の見」に至っては、当時の公演の頻度の低さ(=実際の舞台での経験の少なさ)から考えれば、哲学的な概念にさえ思えてしまう… こんな事を考えてしまうのが文明に感化されすぎた現代人の浅はかさかもしれませんが…

ともあれ、たとえば録音技術そのものは19世紀には発明されていましたし、日本でも戦前からSP盤のような形で記録された音源を再生することは一般的に普及していました。しかしそれらは成果となるSP盤などを販売するなど商業ベースで企画され、録音技師や機材なども大規模に準備されて録音されたもの。それに対してオープンリールは、はじめてパーソナルな使用を許す録音機でありました。つまり「現在」の自分を客観的に見つめる事ができる、舞台人にとって理想的…というより希求されていた欲求が現実のものとして自分の手に入る技術だったのです。これにお金を惜しむ事はできなかったでしょうね~

師家所蔵 オープンリールテープのデジタル化大作戦!(その1)

2010-12-20 01:37:35 | 能楽
ご存じの方も多いと存じますが、ぬえは修行の傍らに師家の近代の事績や動向などについて研究のようなことを続けております。これはもう書生時代から続けていることで、戦災で灰燼に帰した師家のお舞台を、関係者からの聞き取り調査や現地踏査を基にして平面図に復元するなどの事を、細々と、ではありましたが進めておりました。

そうしたところ、最近はもう10年以上前のパソコン通信時代からの友人の名古屋の能楽研究者の 鮒さん(あ、いやいや 本名は飯塚恵理人さん、というのですが、どうもハンドルの方が呼びやすくて…)の発案に ぬえが協力する形で、師家に残されている映像・音源資料のデジタル化という作業に取り組んでおります。

すでに終了した作業は、師家所蔵のSP盤のデジタル化。これは当時一般に販売されたものですから音源資料として新発見のものはありませんでしたが、ぬえとしては初めて耳にする録音もあって興味は尽きませんでした…しかしそれよりも特筆すべきは、SP盤という、知っているようでいながら実体はほとんど未知であるモノそのものについて、その材質や録音方法、また制作意図や流通過程など、明治期から第二次大戦頃までの、それこそ初めて「音」を記録して再生することができる、という革命的な技術の実体を知ることができて、これまた大変貴重な機会でした。

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(まとめ)

この仕事は、なんと2007年に行ったのですね~。もうずいぶん昔になるなあ。これらの音源の一部は鮒さんのサイトでDLできますので、ご興味がおありの方はぜひ鮒さんのサイトをご覧ください。

→鮒さんのサイト 恵理人の小屋 

その後 この業績が影響したのでしょう、今度は師家の方から ぬえと鮒さんにご依頼があり、師家所蔵の16mmフィルムをデジタル化する作業を始めました。こちらはようやく2巻のフィルムをDVD化したところで、目下作業は進行中です。

がしかし、これまでデジタル化した16mmフィルム2巻は、能『羽衣』をこよなく憧憬しながら、能そのものも、また三保松原も見ぬまま病没した若きフランス人バレリーナのエレーヌ・ジュグラリス夫人の魂に、先代の師匠が『羽衣』を舞って手向けた、という とても興味深い内容のものでした。こちらは作業がまだ中途であることや、フィルムに収録された上演の時代が近いこともあり、著作権を配慮して公開の方法や時期については検討中の段階ですが…

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!

※ちょっと飛び飛びですが、この最初の記事から「次の記事へ」を辿って頂けると全貌が見えると思います。

映像資料のデジタル化は費用がかかるため、今後長い年月を掛けて作業を進めていくことになろうかと思います。一方、それらの師家所蔵資料を探していた ぬえは、もっと他にも面白い資料を見つけたのでした。それが今回ご紹介させて頂くオープンリールと、それからガラス板に写し込まれた初期の写真(写真乾板)です。

写真乾板については将来的にデジタル化していこう、という計画を立て始めたばかりですが、オープンリールテープの音源はほぼ作業が完了しました。それがまた…驚くような発見があったのです。

NHKテレビ~元旦の放送の収録

2010-12-15 01:22:58 | 能楽
今日は水道橋の宝生能楽堂で『羽衣』の収録が行われました。

毎年恒例の正月三賀日の能・狂言の放送ですが、来年の元旦は ぬえの師匠による『羽衣・和合之舞』が放映されることになり、今日がその収録というわけでした。

おワキもお囃子方も地謡も当代の第一人者揃い…なんとも豪華な『羽衣』でした。ぬえも地謡の末席を汚させて頂きましたが…ん~、なんとも至福のひと時でした。

今日のスケジュールは、まず午後3時から部分マイクテスト。装束は着けずに紋付のままの上演で、言うなれば申合ですね。この時はシテの呼び掛けから物着のところまでを演じて、その間にマイクのボリュームやカメラのリハーサルをなさっておられました(と思います…そちらは専門外ですんでよく知りませんが…)

それから装束を着付けて、午後5時から本番の収録となりました。この日のおシテの装束を見た ぬえはびっくり。普段は展示には出しても(ぬえの師家の月例公演では必ず面装束の展示を行っています)、ついぞ身につけたところは一度も見たことのない、時代を経た良い装束でした。ちなみにそれをご紹介しますと…腰巻に着けた縫箔は紫地で松に藤の文様。まずは紫地の縫箔というのが現在では珍しいですが、そこに刺繍されている松が相当大きなもので、この文様を縫い上げるのは大変な労力だったことでしょう。袖の部分には金銀で蝶が乱舞しています。

長絹は白地…といってもかなり濃い生成の色で、むしろ鬱金地と呼びたいほど。その背中一面に鳳凰が翼を拡げている文様が金糸で表されています。その鳳凰には首がなく、要するにこの長絹を着たシテが鳳凰であるかのように見えるように文様が配置されていて、もっぱら『羽衣』専用に使われます。この長絹は例が多く、金剛宗家のご所蔵になるもの(これは赤地でしたか…?)や梅若六郎家のご所蔵のものが有名ですね。師家にもこの白地のほか赤地に色糸で鳳凰を表した、こちらは相当に古い長絹があります。

下着としての摺箔や天冠は比較的最近に作られたものでした。本来古い装束と新しいそれとを混在させて着ると、どうもちぐはぐになってしまうものですが(その対策でしょう、古い摺箔も楽屋には用意されていました)、今回ははそれらの装束がケンカすることなく、うまくまとまっていました。あ、鬘帯もかなり時代があるもので、胴箔に、こちらも藤が刺繍されたものでしたね。これは胴箔の金がすり減っているところが良い味を出していて、気品がある鬘帯です。

それにしても緊張した『羽衣』でした。テレビの収録のためだけの上演でしたのでお客さまはおられなかったのに、それでも地謡のみなさんもあとで同じことをおっしゃっていましたね。だって~、もし地謡の一人が大声で間違ってしまって、その瞬間「カット~~!!」なんて言われて撮り直しになったら… (O_o)WAO!!!

お正月は早起きして みなさんでご覧くださいまし~

NHKテレビ 新春能狂言 
平成23年1月1日(土)午前6時35分~7時35分(予定)

能 羽衣 和合之舞

       シテ   梅若万三郎
       ワキ   宝生  閑
       ワキツレ 宝生 欣哉
             御厨 誠吾
       笛    一噌 庸二
       小鼓   大倉源次郎
       大鼓   安福 建雄
       太鼓   観世 元伯

       後見   梅若長左衛門(梅若靖記改メ)ほか
       地謡   梅若 玄祥、梅若紀彰(晋矢改メ)ほか

放送はNHKオンデマンドでのインターネット放送、およびNHKワールドプレミアムにて国際放送される予定だそうです。

秦野市のお蕎麦屋さんで結婚式のお手伝い

2010-12-11 01:51:44 | 能楽
先週の日曜日、学校公演が終わって1ヶ月ぶりの休みをはさんで、神奈川県の秦野市で結婚式に出演してまいりました。

挙式コーディネーターは例によって八千代ウェディングさん。ところがなんと今回の挙式会場は「お蕎麦屋さん」なのだそうです。(O.O;) こりゃまたどうしてそういう場所で…

行ってみました。ところが、これがまたすごい古民家を改装してお蕎麦屋さんにした店でして、その佇まいは見事と言うほかない。



そうして、このお蕎麦屋さんの若きご主人が、今回の新郎さんだったのです。新郎さんは手打ち蕎麦の職人さんで、鎌倉の方で修行を積まれた後に当地で開業された方だそうです。こだわりを持って独力で夢を拓いて来られた方なのですね。それならば職人さんの聖域たるお店での結婚式は、絵に描いたような、祝言挙式のあるべき姿でしょう。例によって ぬえは三三九度の場面で謡を謡ったり、祝言舞として仕舞を舞うことでこの挙式のお手伝いをさせて頂きました。



この古民家は新郎さんのおじいさんのご実家で、昔はここを母屋として、道に面した表で駄菓子屋を営まれておられたそうです。こんな母屋があるなんて、なんて贅沢な駄菓子屋さんでしょう。伺えば両隣りのおうちもそれぞれ個性的で、造り酒屋さんと、和傘の職人さんのお家なのだそう。和傘は家の向かいにある竹林から竹を伐ってきて作るのだそうで、タイトル画像は興味をもった ぬえが踏み行った竹林の様子です。

さて結婚式もお開きとなって、会場は新しいご夫婦の家でもあるわけですから、手分けしてみんなで掃除を致しました。そうしたら、せっかくですから、と新郎さんのご好意で、お蕎麦や、それだけではない いろいろな料理を振る舞って頂きました。いやこれが! おいしいのなんの。

そういえば今日のご披露宴のお食事は折り詰めのお弁当で、なんだか不思議に思っていたのですが、なんと! そのお弁当はすべて新郎さんの手作りだったのだそうで(!)。う~ん、お蕎麦屋さんにしておくのは勿体ないような… (;^_^A

ぬえたちが頂いたお料理も、見た目では想像できないような、ちょっと意表を突いたようなお味のものも多く…ものによっては新郎さんに「これ、なんですか?」と聞いても「あ、それは小麦粉と味噌と…」という具合で、材料の名前は言えても料理そのものの名前はないようなものもありました。まさに創作料理ですね。このお料理も結局名前は分からずじまいでしたが「…と、シナモンです」ですって。シナモン…(^_^;)

とにかく おいしいものをたくさん頂いて、予想外のシアワセでした。秦野に行かれるおついでがありましたら、ぜひお立ち寄りになることをお勧め致します。

…とはいえ、このお店は「お蕎麦屋さん」ですのでお間違いなきよう… 上記のほとんどのお料理はメニューにはありませぬ。でもまたお蕎麦がおいしいですから、やはりお出かけされては如何でしょうか~ (^^)V

手打そば くりはら


埼玉県で学校公演(その3)

2010-12-07 07:38:31 | 能楽
合計10カ所にも渡った学校公演が終わりました。

旅の終わりに立ち寄った学校は、本庄市と深谷市の学校でした。とくに本庄市では、はじめての試みとして、小学部から高等部までを擁する特別支援学校での能楽公演でしたが、いやいやみんなしっかりしていましたよ。終演後の質疑応答でも高等部の生徒から「役者が素顔で演じることができそうな役の場合にもやはり能面を使うのですか?」という質問が出て、これはさすがに高校生だな~と感心しました。

深谷市の市立花園小学校は、全校児童がなんと700名もいるという大きな小学校で、こちらはもう質疑応答での質問が止まらない。(^^ゞ みんな古典芸能にもちゃあんと関心を持って、疑問があれば手を挙げて発言できるのが頼もしいですね~。

この日、ぬえは花園小学校から電車で帰宅することにしました。師匠や先輩、ほかの演者にもご挨拶をして、さて最寄りの駅に向かって歩いていると…なんと! SLが走ってきましたよ! な、な、なんじゃこりゃ!!



駅に着いてから知ったのですが、この駅…小前田駅という駅でしたが、ここを通る秩父鉄道では定期的に「バイオエクスプレス」と名付けられたSLが走っているらしいです。驚異!

さすがに1日に1往復しかしておらず、もう少し早く駅に着いていたら…SLに乗れたのかなあ?? 残念ながら今年の運行はすでに終了してしまっているようで、この日は今年の「ラストラン」よりも後の日でしたが、ちょうど沿線の秩父市で有名な「秩父夜祭」が開かれている関係で特別列車が運行されていたもののようです。

そういえば、何年か前に埼玉県にある渓谷の「長瀞」(ながとろ)に遊びに行ったときに、やはりSLが走っているのを見て驚いたことがありましたが、あれも秩父鉄道だったのですね。路線図を見れば秩父鉄道は秩父方面から熊谷までを結ぶ鉄道で、「長瀞駅」もちゃあんとありました。

来年の「バイオエクスプレス」の運行は3月まで待たねばならないらしいです。これは…ぜひ乗りに行かねばなるまい!

秩父鉄道HP
バイオエクスプレスについて
2011年運行スケジュール

埼玉県で学校公演(その2)

2010-12-02 09:57:07 | 能楽
昨日は埼玉県での学校公演の3日目。3日目から5日目は宿泊しての公演になります。昨日伺ったのは秩父市の小学校でしたが、自然の多い素晴らしい環境の学校でした。

…と思うのもうべなるかな、じつは昨日の朝 特急電車で当地に向かうことになっていたのですが、自宅からその特急電車の始発駅である池袋に到着するまでが、それはそれは大変でした…いや、世間では一般的なのかもしれませんが。

ぬえは元々 東京都の練馬区の出身でして、今でもそこに住んでいます。ですから大学に通っていた頃も、池袋までまず私鉄で出てから、JRに乗り継いでいたのです。通勤・通学電車には慣れていたはずなのですが…

ところがその朝、久しぶりに通勤電車に乗りましたが…いや、本気で気絶するかと思った。駅をひとつひとつ進んでいくうちに段々と増えていく乗客…そのたびに増してゆく車内の圧力…車両の前部に乗っていた ぬえは、電車が加速するといくぶん手足を動かせるものの、ブレーキをかけるとものすごい圧力が掛かって…あちこちでうめき声も聞こえるし、圧力の当たり所が悪ければ、朝ご飯が逆流してしまいますね…

電車に乗っていた時間はわずか15分くらいだったと思いますが、本当に危険を感じました。実際、池袋駅に着いてから、担架で運ばれていく乗客や、ケンカしている乗客を見てしまった…なんだか病的ですね。これが毎朝なんて…仕事をするってのは本当に大変。ぬえの仕事にはこういう苦労はないけれど、いろいろな意味で仕事をするのは大変だと思います。

そういえば…ぬえが通学していた頃も、ケンカは毎日のように見たし、一度は満員電車の中で窓ガラスに手をついて圧力に耐えていた乗客が…ついに窓ガラスが割れた現場を見たことがあります。あれから何にも変わっていないのか…なんとか通勤の苦労を緩和するうまい方法はないものかしら。

そういう、悲惨な場面とは無縁な、自然の中の学校。ああ、心癒されます。ただ、こちらでは少子化と戦っている現状もあるのでした。なんと今日の学校公演を見た小学生はわずか20名弱…父兄や地域の方々もお出でになったので、実際にはその倍ほどのお客さまがいらっしゃったのですが、児童だけなら出演者の人数と同じような状況でした。

でもねえ。子どもたちはそれでも元気。今回の学校公演では、終演後に質疑応答を求めるのですが、なんだか行く先々の学校でだんだんと質問が増えていっているように思います。「どうやったらそんな声が出るようになるのですか?」とか「先生はいつ頃からお能をやっているんですか?」(←この質問に対して、答えは「はい、600年前からです」だったという…) というような素朴な疑問から、「間違ったときはどうするんですか?」という、演者が青ざめるような質問まで、いやいや、多岐にわたる質問が出ました。

子どもたちみんなで今回の上演曲『安達原』の一部を謡ってみたり、昨日は囃子方のはからいで、子どもたちを舞台に上げて大鼓の演奏を体験させたり。あ、この大鼓方は先日の伊豆の子ども能でも ぬえが出演を頼んだ人だったのですが、そうか~ こんなに子ども好きだったんだ~。しめしめ。終わってから早速彼に、こんな子ども好きとは知りませんでした。これからも伊豆の子ども能にお手伝いを頼むから、断っちゃダメだよ~、と言い含めておきました(笑)

こういう、交通の便の悪いような地方で、たった20名ほどの子どもたちを相手に能の公演ができるなんて、なんて贅沢で、意義のある企画なんでしょう! こういう地道な活動から文化というものは育っていくのですよね。あと2日間で今年の学校公演は終わってしまうけれど、ぬえは本当に楽しみにしております!

埼玉県で学校公演

2010-12-01 01:23:03 | 能楽
月曜日から5日間連続の学校公演に出勤しております。たまたま最初の2日間は東京に近い地域だったため、日帰りでそれぞれの学校に通ったのですが、明日から3日間は宿泊しながらの旅公演になります。

その日帰りの2日目の今日は埼玉県・行田市(ぎょうだし)の小学校での公演でした。行田市は、なんと「埼玉県」の名前の由来、と言われている市でして、市の南にある「埼玉地区」(さきたまちく)には多くの古墳が残り、古墳が集まった地域は巨大な公園として整備されています。

その公園…「さきたま古墳公園」には、稲荷山・丸墓山・二子山・将軍山・瓦塚・鉄砲山・奥の山・中の山・愛宕山の、じつに9つもの古墳群をかかえていて、最大の二子山古墳は全長138mもあって、これは旧・武蔵国の中でも最大の前方後円墳であるほか、直径105mを誇る丸墓山古墳は日本最大の円墳なんですって。

そのうえ稲荷山古墳から発見された副葬品の中には金字が象嵌された鉄剣や馬の甲冑など、とんでもない珍しい品があって、これらは一括してすべて国宝となって展示室で見ることができます。また将軍山古墳には後円部を半分切り取ったような展示室があって、実際の古墳の内部に埋葬当時そのままの状態を復元してあったり…ともかく興味の尽きない史跡公園です。

ぬえがこの公園に初めて行ったのは、やはりこの近くで開かれた公演の帰りだったと思いますが、巨大な古墳があちこちにある光景に驚いて、しばらくしてから家族でここを訪れました。公園としてもかなり広い規模がありますから家族連れで遊ぶにも十分楽しめますし、いくつかの古墳は頂上に登れるようになっていたりして…これも面白いことですね~

それから、この古墳公園のすぐそばには「行田蓮」と呼ばれる古代蓮を保護育成している公園「古代蓮の里」があります。「行田蓮」は、公共工事で土を掘り返したあとにできた池になぜか咲き乱れた蓮を調べたところ、原始的な特徴を持つ古代蓮だということがわかった、という経緯がある蓮で…つまりそれまで地中に埋もれていた古代の蓮の種子が、工事によって蘇った(!)のですね。これは古墳とはまったく無関係のストーリーであるわけですが、それらが たまたま同じ時期、同じ場所のものだった(!)という事になり、なんとも不思議な気持ちになります。

この日の学校公演ではまたまた子どもたちの元気な様子や率直な反応、活発な質疑応答が楽しかったですが、こういう歴史の深い場所で暮らす彼らが、どんな夢を持って生きるのか知りたいな~。なんと、今日公演をした小学校の隣にも古墳がありました(!) そうして、この日も公園のあとにこの古墳公園に足を運んだ ぬえは、だだっ広い芝生の公園を散歩したり話し合ったりする中学生? を何組も見かけました。

ようやく日も暮れかかった頃、公園の中で一番高い場所…丸墓山古墳の頂上に登ってみると、とても夜景が奇麗でした。

さあ、そろそろ帰ろうかな、と思ったとき、あ、ぬえが登ってきたのとは反対の方向にもうひとつ作られている坂道を上って誰かが頂上に登ってきました。ああ、これはちょうど良いタイミングで、ぬえはこの方に邪魔にならないように そっと古墳から下りようとしたら…「あれ? ぬえ君?」「え…○○先輩…?」 二人一緒に「どうしたの??」

つい先ほどまで学校公演の能の地謡としてご一緒に参加していた先輩でした(!) 埼玉県内に在住する先輩は、この公園の、この古墳の頂上がずっと好きなのだそうで、なんだか ある種のパワースポットのようなものを感じるのだと仰っていました。そんな事もあってここにはよく訪れるのだそうで、今日はその近くの小学校での公演とあって、終了後に ぬえと同じくこの場所を訪れたのでした。こんなこともあるのねえ。