ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その6)

2006-12-31 14:10:57 | 能楽
今年もついに大晦日。能楽師は新年は忙しいのですが、この時期はほっとお休みを楽しんでおります。今年一年を振り返るつもりでいたら。。

今日、名古屋の研究者・鮒さんから ぬえの師家所蔵のSP盤をデジタル化した成果、見本盤のCDが送られてきました。しかも総数10枚! ぬえが上京した鮒さんと一緒に師家に挨拶に伺って、かねて保存状態を調査してあったSP盤を拝借して、そのままそれを名古屋に運び、デジタル化を行う業者さんにお渡ししたのが11月11日。それから考えると、あの大量のSP盤をわずか1ヶ月半ですべてCDに起こしたことになります。驚異的。

ぬえも録音状態をチェックして、新年になってから鮒さんは師家に納めるためのCD盤を作って、拝借したSP盤も返却し、そこでデジタル化の作業は一段落となります。その後、CDを師家に聞いて頂き、許可を得たならば、デジタル化した音源は鮒さんのサイトで一般に公開されることになります。DLも可能ですので、みなさんにも朗報かも。おそらく公開は1月下旬になると思いますが、その際には ぬえもこの場にてご案内を申し上げます。お楽しみにお待ち下さいね~ (^^)v

さて見本盤のCDを聴いてみたところ、『思ったよりは』雑音も少なく、やはり演者のもとに残されていた盤の状態は良かったようです。それにじっくり聴いてみていろんな事を感じました。

【1】 明治時代の「出張録音」
これは雑音の向こうに、遠くで謡(と一部は囃子も)が鳴っている感じ。当時まだマイクロフォンが発明されてなかったので、録音機につけられたラッパに向かって怒鳴って録音した時代で、これは仕方のないところ(映画『海の上のピアニスト』にそういう時代の録音の様子が出てきますね)。ちなみに「出張録音」というのは、当時日本にはまだレコード会社がなく、米国の技術者が来日して、日本の貴重な音源を収録したのだそうです。そして、ここで録音された原盤は米国に持ち帰られて、そこでプレスしてから再度日本に輸入されたのだそう。大変な手間で、これを聴ける人は限られていたんでしょうね。。

それにしてもこれが明治時代の謡かと思うと感慨深い。。初世・万三郎の『七騎落』は舞囃子の録音ですが、そこで演奏される「男舞」の囃子はとっても上手い。囃子方のクレジットはないので誰が演奏しているのか不明なのが残念ですが、スリリングな演奏で、実演はもっともっと素晴らしかったでしょう。

それと、これは驚いたのですが、なんとSP盤の最後の曲目のあとに、クレジットには載っていない『四海波』が収録されいること。これには驚いた! 盤面に表示されていないという事は「番外」での演奏、という意識があったに違いなく、おそらく現代の舞台で行う「附祝言」のような感覚なのではないでしょうか。上記のように録音する事自体が大変手間の掛かる作業だった時代でもあり、当時の日本人にとって音声を記録できるなんて革命的な驚異だったでしょう。この録音の作業が大変な事件だった事は想像に難くなく、しかもこの場で録音された音源は遠く海を渡って米国に運ばれ、そこで製品になる、という。そしてその製品が出来上がるまで、おそらく録音したその成果も実演者には確認できなかったでしょう。演者は まるでわが子を見知らぬ外国に送り出すような気持ちで、不安もありながら演奏されたのではないでしょうか。その演奏の最後に付け加えられた『四海波』。ああ、なんだか明治時代にタイムトリップしてしまいそう。

『砧』雑感(その9)

2006-12-28 11:47:17 | 能楽
上記のような下掛リ系の中入の型~シテとツレは一緒に橋掛りに行くが、途中でツレは足を止め、シテのみが幕の中に引き、ツレはそれを見送る~を、観世流の役者の中にも試みに演じてみる方が最近はあるのではないか、と思っていましたら、やはりおられるのだそうで。

やはりなあ、という感じですが、じつはこれ、今月の初旬に師匠が『砧』を勤められたときに、楽屋で他門のシテ方と話していてわかった事なのです。ぬえの師家ではついぞこの中入の型を試みたことはなかったのですが、他家では他流のやり方にも感心を持って「試演」という形で現行曲に新しい息吹を与えようとする方はあったのですね~。

流儀に定められた型をキチンと守ってゆく、これはもちろん大切なことなのだけれど、また一方では役者である以上、自分が勤める曲の可能性を探ってゆく、というのも、能楽師として必ずしも否定されるべきとばかりは言えないでしょう。まあ、『砧』のような大切な曲の中入の場面で、他流の型を参考にする、というのは、それが出来る役者は「立場」として限られてくるのは仕方がないとして、このような極端な例を別にすれば、ぬえを含めてすべての能役者は、ある曲を演じるにはいろいろな工夫をしています。「“型付け”にはこう書かれているけれど、あえてやらない」という事もあるし、時には指定されている以上に型を増やしてみる事も、師匠の顔色をうかがいながら、試みてみたことも ぬえもあります。

これについて、以前関西方面だったと思いますが、こういう事がありました。

若手のある役者が、ある切能を勤める事になった。上演日が近づいてきたある日、この役者は師匠にお願いして稽古をつけて頂いた。師匠は弟子であるこの役者の演技を見て、すこしばかりの注意とアドバイスを与えた。ところが、その稽古を見ていたほかの弟子が、そのあとで師匠にそっとこう聞いた。「あいつはあんなに勝手な、創作したような型ばかりやって。定めの型に従わないのに、師匠はなぜ諫めないのですか?」すると師匠はこう言いました「ああ、今はあんな事をやっていても、“キマリの型”にいずれ戻ってくる。放っておけばいいんだよ」。

。。うう。。ぬえも耳が痛い。。(/_;)

ぬえも舞台でいろんな事を試みた時期がありました。。いま思えばよく師匠が許していてくださっていたもんだ。。でも、この師匠がおっしゃった通り、いまの ぬえは「型付」をはずれて冒険してみよう、という気持ちは さらさらなかったりします。型付けに書かれている型に無限の演じ方の可能性があると思えるようになったし、今思えば「型付」から外れていこうとするのは、既存の型の研究が足りないからにほかならなかったと思います。

それらの葛藤を経た上で、『砧』の中入の型に手を加えるのは、もちろん『砧』を何度も勤められた方でしょうし、この師匠のように型の研究をし尽くされたうえで あえて新しい可能性を探っておられるのでしょう。ぬえはこういう事も上演に対する真摯な研究の一つだと思うし、「試演」であり続けるならば良い事だと考えています。

ちなみに。。この「試演」の『砧』では、三之松で足を止めたツレは、シテが幕に入るのを見送りながら、下掛リのようなシオリをしなかったのだそうです。冷たくシテを見送ったそうで。。なるほど。

『砧』雑感(その8)

2006-12-24 01:15:01 | 能楽
「砧之段」が終わったところでシテは、ツレから都からのさらなるメッセンジャーの到来を告げられ、そしてそのメッセージとは、ほかならぬ夫が「この年の暮れにも御下りあるまじき」ということでした。妻は絶望して「さてははや真に変り果て給ふぞや」と双ジオリをします。

地謡が謡い出し、「声も枯野の虫の音の…」と上歌になるとツレはシテの後ろに着座してシテに手を掛け、シテは扇を作物の上に残したまま立ち上がり、そして二人はそのまま静かに橋掛りに向かって歩み出し、やがて幕の中に消えてゆきます。シテ妻の死を象徴している、と誰にも首肯できる場面だと思います。舞台面だけを捉えれば、夫が帰らぬ事を知ったシテが落胆して、その場で息を引き取ったようにも考えられるのですが、地謡は「風狂じたる心地して、病の床に伏し沈み終に空しくなりにけり」と描写しているのですから、はじめはあたかも風邪をひいたかのように病床に伏して、そのまま重篤となって息を引き取った事は明らかで、数日か数週間か、彼女が悲しみを深めて死に至った無惨な時間の経過がここに内包されています。しかもその前に地謡は「声も枯野の虫の音の」と謡っていて、彼女が病床についたのは、その泣く声が枯れるまで続いた、その後だったことを示しています。(ぬえは 声が枯れるまで「叫んだ」と解釈していますけれども)

舞台上の役者の動作としては、ただツレに支えられて立ち上がったシテが、とぼとぼと幕に引くのみ。その型の意味としては、夫が帰らぬ事を知って絶望して動けなくなったシテを、ツレが介抱して、家の奥の間に誘って休ませた、以上のものであるはずはなく、ここに地謡がそれとはまったく違う描写(声が枯れるまで泣いた~風邪をひいたように病床についた~ついに亡くなった)を加える事で、この型に時間経過のまったく違う二つの意味を持たせているのです。こういうところは能に独特の優れた演出法でしょうね。悲しい場面だけれど、ぬえも好きな場面です。

さて上記にシテとツレが同幕で引く、と書いたのですが、これは観世流の型なのです。他流では(流儀による違いについて詳しく知りませんが、少なくとも下掛リ系の流儀では以下の型のようです)、シテの後ろからシテを支えるように付き従っしていたツレが、橋掛りに至ると一之松で足を止めるのです。あとはシテが一人で静かに幕に向かって歩いてゆき、幕に入るときに、ツレは一之松に立ったままそれを見送りながらシオリをします。ぬえがこの型を初見したのは金剛流だったと思いますが、あまりに印象的な型にびっくりしました。このシオリが「シテの死」を見事に観客に印象づけている。。 ちなみにツレは、地謡が「終に空しくなりにけり」と謡い切ってから、静寂の中を幕に引きました。この静寂がまた良かった。

。。でも、いま考えてみて、この型はどうだろうか? と思わないわけではありません。いや、観世流とまったく違うこの中入の型の善し悪し、という問題ではなくて、ここでツレがシテの死を悲しんでシオリをしてしまうのはどういう事か、と思うのです。シテの死を悲しんでしまったとたんに、夕霧=愛妾説も成り立たなくなるのだし、前記のように「砧之段」でツレ夕霧が意図的にシテに不安感を煽っていて、その結果彼女を死に至らしめているのではないか、という解釈も霧散してしまうからです。

『砧』雑感(その7)

2006-12-21 11:07:37 | 能楽
そして今年の春だったかと思いますが、ある雑誌論文に以下のような「砧之段」の解釈を見つけて ぬえは驚いてしまいました。いわく、

本曲のツレ夕霧は意図的にシテに不安感を煽っていて、その結果彼女を死に至らしめているのではないか。

田口氏も、前掲したような「夕霧愛妾説」の立場はとっておられるので、「シテ妻の志向は常にマイナスの方向に進み、ツレ夕霧はプラス志向であると言うことになろう」という指摘は必ずしも夕霧がシテよりも楽天的である、という意味ではないでしょうが、本日紹介している今年発表された論文は、もっと的確に、夕霧は間接的にシテを殺したも同然、という立場で、明解に夕霧像を描いたのでした。それによれば「砧之段」は次のように読むべきではないか、というのです。

シテ「都にいる夫の許へ、西より吹く秋風よ、私の思いを運んでおくれ。庭の松よ、嵐の音をその枝々に残して遮らないでおくれ。今打つ砧の音だけを運んで、夫の許へ運んでおくれ」
ツレ「そんなに強く願ってしまうのでは。。その音がご主人様の夢を覚ましてしまいますよねえ。」
シテ「そうでした。。松に吹く風よ、私の思いが夫に届いたならば、その夢を覚まさないでおくれ。」
ツレ「破れる。。いま打っているこの衣も、もし破れてしまったら誰も着ようとはしませんね」
シテ「でもいつか戻って来られるでしょう。そのときには衣がいつでも裁ち替えられるように、私も永遠に夫と寄り添おう。」
ツレ「衣を裁ち替えるとは。。夏の薄い衣が思い出されて忌まわしいですこと。」
シテ「そうだ、あの方のご寿命は長い世々まで続いてほしい。。」
ツレ「それにしてもこの長い夜。。」


。。これは。。恐ろしい。 (((((((・・;)サササッ

ちなみに、この論文、たしかに今年の春に読んだと思ったので、紀要などを漁ってみたのですが、残念ながら見つけられなかった。。執筆者の方、ど、どうもすみません。m(__)m また発見しましたらご報告させて頂きます(上記の「砧之段」の読みも、この論文のおぼろげな記憶から ぬえが勝手に行ったものであることも申し添えておきます)

ともあれ、古い謡本の中には「砧之段」の直前の一セイの部分で「音づれの稀なる中の秋風に」とシテが謡ったあとにツレが「憂きを知らする夕べかな」と謡い(現行は地謡)、さらに「誰が夜と月はよも問はじ」をシテとツレが連吟する(現行はシテ謡)演出も記録されていて、「砧之段」の中のツレの位置は、現実の舞台演出の上でも、現在よりもずっと重要視されていた事もあるらしい。

さてこの「砧之段」が終わった直後にツレ夕霧から「今年の暮れにも夫が帰らない」ことを聞かされたシテ妻は、夫の不実をいよいよ信じてしまい、「病の床に伏し沈」んで亡くなってしまいます(このあたりの事情を間狂言がリアルに伝えています=「女性の御身のはかなさは、さては御心も変り、御下向なきと思召し、早や御心も空になり、うつつなき事のみ仰せられ、終に空しく成り給ひて候」)。

ところが、この「病死」の場面、すなわち中入の演出にもちょっとした問題が。。

舞台は終わったけれど体調が。。

2006-12-20 19:46:49 | 能楽
日曜日に師家の月例会の今年最後の公演を終え、これで今年の能の催しはすべて終了しました。あとは今週末に先輩のお弟子さんの会のお手伝いに出勤するのみ。なんだか あっと言う間、というか年末が突然来た、という感じですね~

。。と思っていたら、日曜日の楽屋にいるうちから体調がみるみる悪くなってきて、フラフラと帰宅したけれど、そのまま寝込んでしまいました。月曜に医者に行ったのですが、どうもノロウィルスではないらしい。うん、世間で言われている症状ともちょっと違う。咳止め薬や抗生物質を頂いて一日様子を見たのですが、これが一向に良くなりません。。(;_:) ああ~~どうしちゃったんかしらん。で、今日再び医者に掛かったところ、インフルエンザでもなく、あと考えられるのは。。「一般的な雑菌に感染したんじゃ。。」という。ハナハダ情けない病気のようでした。でも、もう足かけ3日以上ほとんど体調が好転しないし、これが催しの多い時期だったら、ぬえ、どうするんだろ。ましてやシテを勤めるときだったら。。

そんなワケで、みなさんも「風邪には注意しましょう」という意味でトップを替えてみました~。

『砧』雑感(その6)

2006-12-17 01:24:04 | 能楽
田口和夫氏は「砧之段」の前半部分について次のような解釈を示されています。

このあたり、(略)二つの相対立する感情が連鎖しているのである。これをシテ一人の感情の起伏とせず、シテ・ツレ二人の掛け合いとみたいのである。どの部分をそれぞれの分担とするか、むずかしいところだが、例えば、始めにやや希望を持って「吹けや風」と言うのがシテとすれば、ツレがそれにブレーキを掛ける形で「吹きすぎて夢を破るな」と言う。たちまち落ち込んでしまったシテが、「破る」という言葉にこだわって「誰も来てくれない」と呟く。ツレは男のために「いつまでであっても衣は裁ち替える(仕立て直す)」と言う。シテは「裁つ即ち絶つ」と連想して「忌まわしい」と呟く。シテ妻の志向は常にマイナスの方向に進み、ツレ夕霧はプラス志向であると言うことになろう。「<砧>を読む –三年・夕霧--」(『能楽研究』23号・1999年)

『砧』の中でツレ夕霧が占めている立場というのは微妙で(後述)、ぬえも「砧之段」の中でじつは夕霧がなにかしゃべっているのではないか、という疑問は持っていたのですが、この論考はみんなが感じる「砧之段」の詞章の不安定さを明解に解き明かした画期的な発見だったのではないでしょうか。じつはこの「砧之段」がシテとツレの掛け合いではないか、という指摘は、田口氏のこの論考のテーマとして中心的な部分ではなく、田口氏自身も「どの部分をそれぞれの分担とするか、むずかしいところだが」と断っておられるように試論的な指摘だったのかもしれませんが、この指摘があった頃から、どうも「砧之段」がシテとツレの対話が表わされている、という認識は研究者のみならず、演者も含めて一般的になってきたように思います。

上記のような解釈を得て、ぬえはそれならば、と「砧之段」の前半部分を次のように読んでいました。

シテ「都にいる夫の許へ、西より吹く秋風よ、私の思いを運んでおくれ。庭の松よ、嵐の音をその枝々に残して遮らないでおくれ。今打つ砧の音だけを運んで、夫の許へ運んでおくれ」
ツレ「でも。。あまり強く願ってしまっては。。その音がご主人様の夢を覚ましてしまうのでは。。」
シテ「そうでした。。松に吹く風よ、私の思いが夫に届いたならば、その夢を覚まさないでおくれ。もしその夢が破れてしまったら。。破れた衣を誰も着ようとはしないように、夫の心ももう私の許へは帰ってこないかも知れない。。」
ツレ「それでもご主人様はいつか戻って来られるでしょう。そのときには」
シテ「そうだ。お帰りになったならば、衣がいつでも裁ち替えられるように、私も永遠に夫と寄り添おう。しかし。。衣を裁ち替えるとは。。夏の薄い衣とは忌まわしい。。」(。。と、以下はシテが妄想を深めてゆく)

しかし一方、『砧』のツレ夕霧という人物の造形は、単なるワキのメッセンジャーとしての役割以上の意味がある、とかなり以前から指摘されてきました。すなわち、夕霧はワキ芦屋某の愛妾だ、という捉え方です。訴訟のために都に上った芦屋某が故郷から同伴した夕霧は、某の身辺の世話をしたのであり、舞台の上でもワキから「おこと」と親しみを込めて呼ばれている存在です。そして、これも度重ねて指摘されてきたことではありますが、故郷・芦屋に下った夕霧は、シテ妻に対面しても、肝心のワキの伝言~「この年の暮には必ず下るべき由、心得て申し候へ」~をシテに伝えないのです。。

さらに、故郷に下ったツレの姿を認めたシテの言葉は「いかに夕霧、珍しながら恨めしや」であり、音信不通となっていた弁解をする夕霧に対しての「なに都住まひを心のほかとや」というシテの言葉には「嫉妬的な一語である」(能勢朝次『謡曲講義』)という評価がなされていたり、また「砧之段」の直後に「この年の暮にも御下りあるまじきにて候」という、シテの死に決定的な言葉が伝えられるのも、やはりツレ夕霧の口からであることにも、ワキが帰郷できないのは事実であるにせよ、そのタイミングの悪さに恣意的なものを感じる指摘は幾度となくなされているのです。

『砧』雑感(その5)

2006-12-16 00:04:07 | 能楽
>幽玄堂さん、こっしーさん、tamonさん
コメントを頂いていたようで、返信もせず大変失礼しました。
どうも最近gooブログの「コメントおしらせメール」の機能がうまく働いておらず、コメントを頂いても気づいていなかったりします。。


衣替えをした夏。その「夏衣」からの連想は生地が「薄い」、ということ。さらにシテはそこから「薄き契り」と自分の境遇に思いを馳せます。ああ、ネガティブな連想だ。しかしすぐに彼女はその連想を「忌はしや」と振り払おうとします。それどころかかえって「君が命は長き」と夫の長寿を祈ろうとさえしますが、その言葉がまた「長き夜」と、今の自分のつらい境遇への思いに引き戻してしまう。

なんだかシテの連想のサイクルが段々と縮まってきているような。。くるくると思いが交錯して、彼女も混乱してきているのが目に見えるよう。そして、夫へ自分の思いを伝えるためだったはずの砧を打つ行為が、次第に、夫との契りがすでに消滅してしまったかのように、彼女の孤独な作業へと変化して、彼女の言葉もその境遇を恨む気持ちに変わっているように思えます。

「かの七夕の契り」、すなわち牽牛と織女の年に一度だけの逢瀬は、すぐに天の川の波に隔てられ、櫂のない浮舟のようにはかなく、七夕に和歌を書き付ける梶の葉がもろいように、私の心も砕けようとしている。二つの星の主がともに袖を濡らすのは梶の葉に置く露のためばかりではあるまい。星の二人はまるで天の川の水辺の水陰草のよう。それならば川水の泡が岸に打ち寄せるように天の川の波が二人の、そして私もともに、逢瀬を成就させてほしい。。(ぬえ意訳)

ここまでが「砧之段」の前半部分です。うう、かわいそう。。
ここに続く後半部分では、シテは月を見上げ、低く霜を見、風の音を聞きながら、実際に砧を打つ型に導かれてゆき、そして「砧の音、夜嵐、悲しみの声、虫の音、交じりて落つる露、涙。ほろほろ、はらはら、はらと。いづれ砧の音やらん」という聴覚だけの世界になってゆきます。

ちなみに ぬえは、この後半部分では、すでにシテの心情が夫との契りが復すること、契りが永遠に続くことへの祈りから、諦めや絶望、そして夫への恨みまでもが顔を出している事に注目しています。「千声萬声の憂きを人に知らせばや」。。この言葉は、もう「君が其方へ吹けや風」という前半部分の言葉とは別次元の気持ちでしょう。後シテの登場への伏線がこっそりとここに張られているのだとしたら、それは恐ろしいまでの作者の力量と言わざるを得ない。なんせ系統だった演劇論なんて誰も考えていない、今から650年前に作られた曲なのですから。。

さて「砧之段」の前半部分に戻って、これまで見てきたように、この部分はシテの揺れ動く心情、言うなれば「意識の流れ」が表現されている、と捉えて読んできました。しかし、それ以外の解釈もすでに提出されているのです。すなわち、これらの錯綜・矛盾した言葉は、じつはシテとツレの掛け合いの言葉なのではないか、という説です。

『砧』雑感(その4)

2006-12-14 20:35:54 | 能楽
「砧之段」の詞章はこういうもの。

蘇武が旅寝は北の国、これは東の空なれば、西より来たる秋の風の、吹き送れと間遠の衣擣たうよ。古里の軒端の松も心せよ。おのが枝々に嵐の音を残すなよ。今の砧の声添へて君が其方に吹けや風。あまりに吹きて松風よ、我が心通ひて人に見ゆならば、その夢を破るな。破れて後はこの衣、誰か来ても訪ふべき、来て訪ふならば何時までも衣は裁ちも更へなん。夏衣、薄き契りは忌はしや。君が命は長き夜の、月にはとても寝られぬにいざいざ衣擣たうよ。かの七夕の契りには、ひと夜ばかりの狩衣。天の川波立ち隔て、逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき、露、涙。二つの袖や萎るらん。水陰草ならば、波打ち寄せよ泡沫。文月七日の暁や、八月九月、げにまさに長き夜。千声萬声の憂きを人に知らせばや。月の色、風の気色、影に置く霜までも心凄き折節に。砧の音、夜嵐、悲しみの声、虫の音、交じりて落つる露、涙。ほろほろ、はらはら、はらと。いづれ砧の音やらん

この「砧之段」の詞章は、ちょっと読んだだけでは内容が今ひとつよくわからない(?)構造になっていて、ぬえも初めて『砧』の地謡を覚えた当時は苦労したものでした(うう、懐かしい)。それは、この部分の詞章が、常に反語のように肯定・否定を繰り返しているからで、夫への思慕と、その心変わりへの疑いとの間に揺れるシテの心を表現するのと同時に、これを耳にする観客にも不安定な感覚を与えて、非常に効果を上げていると言えるでしょう(ついでにそれを覚える若手能楽師(当時)にまで不安感を与えてしまいましたとさ)。複式夢幻能という、過去と現在の時空を一つの舞台に繋ぐ画期的な手法を発明した一方で、このような通時態風の、「意識の流れ」のようなものを深化させてゆけるなんて。。やっぱり世阿弥ってすごいなあ。

さてこの「反語」風に肯定・否定を繰り返す手法は、「砧之段」で、とくにその前半部に顕著に現れています。

「西より来る秋の風」に、夫の方へこの砧の音を「吹き送れと間遠の 衣打たうよ」
と、はじめは吹き来る秋風をも自分の思いを夫へ伝えるものと頼もしく思う妻は
「君が其方へ吹けや風」と言う(ここでシテは足拍子まで踏みます)のに、すぐにその思いはあらぬ方向へと向かって行きます。
「あまりに吹きて松風よ、我が心通ひて人に見ゆならば、その夢を破るな」

当時、というか王朝時代より、思う人と心が通じたならば、「夢の通い路」を通ってその人と会える、と信じられていました。『清経』のツレが「涙とともに思い寝の夢になりとも見え給へ」と言っているのも同じ思いでしょう。和歌集でも恋の歌にはしばしば夢が登場しています。ちなみに『古今和歌集』の「巻第十二(恋歌二)」の冒頭には小野小町の夢の歌が三首まとまって載っていて、そのうちの一つ「うたた寝に恋しき人を見てしより 夢てふものは頼みそめてき」は、『清経』のシテが登場直後に謡っていますね。

さて「砧之段」のこの部分ではシテは、「君が其方へ吹け」と言ってすぐに、それをうち消すように「でも自分の言葉によって荒く風が吹いてしまったならば、夫の夢を覚ましてしまうだろう。どうか夢の通い路を破らないでおくれ」と言うのです。そして「破れる」という言葉から、いま打っている衣との連想となります。

「破れて後はこの衣、誰か来ても訪ふべき」
破れた衣を誰も着ないように、夢が破れて通い路が閉じてしまったならば、夫は二度と帰って来ないだろう。
「来て訪ふならば何時までも、衣は裁ちも更へなん」
夫が帰ってきたならば、衣を裁ち直し、契りも永遠になるのだ。
「衣は裁ちも更へなん」…衣を裁ち直す事はそのまま「衣替え」に通じて、シテの心の中の季節は夫との蜜月の日々の夏に移ろってゆきます。

『砧』雑感(その3)

2006-12-12 02:00:20 | 能楽
『砧』の前シテの眼目たる「砧之段」。ぬえはこの場面になると、いつも「良い曲だなあ。。」と思うのですが、それは、ぬえの場合はこの箇所の詞章の美しさだけを思うのではありません。

もちろん『砧之段』の詞章は、初見した時には ぬえもちょっと驚いたほどに美しく、そして儚い。陰翳に富んで、いかにも日本的な美しさの極致がここにある、と ぬえも認めます。

月の色、風の気色、影に置く霜までも心凄き折節に。砧の音。。夜嵐、悲しみの声、虫の音。。交じりて落つる、露。。涙。。 。。ほろほろ。。はらはら、はらと。。いづれ砧の音やらん。。

こういう感覚は日本人のものでしょうね。描かれる世界というものは とっても小さい。ハリウッド映画のような「壮大なスペクタクル」みたいなものとは対極にあるものです。砧が置かれた部屋、そこから眺められる庭。夜だから景色が見えるのではなく、秋深い季節の虫の音だけが響く静寂。そして冴えざえと怜悧な輝きを放つ孤独な月。小さなもの、小さな音に耳を傾けて、その中に小さな、小さな生命を感じて共感し、自分も共鳴しあうような。。

日本語は世界の中でも習得が難しい言語だそうで、日本語の言葉の語彙の豊富さを考えるとき、なるほどそんなものかも知れないな、とは思うのですが、そしてまた、その語彙の豊富さを活かして、重層的に言葉の響きを練り上げて作られて、その結果、素晴らしい効果を上げる事に成功している能の詞章もたくさんあるのですが、ぬえはこの「砧之段」には、すこし違うものを感じます。上記の詞章(「砧之段」の終末部)は、ニュアンスを変えずにそのまま英語に直訳できるほどに単純な単語ばかりが使われているのに ぬえは気づきました。言葉の言い回しなどの修辞に頼らずに、ストレートな表現だけで、これほどの名文を作れるとは。。

そしてまた、この文章の箇所には節付けもかなり精緻に付けられているのですが、しかしこの静寂の世界を上手に表現しているのは、言辞そのものでも、また節付けでもなく、「間」なんですよね~。上記に掲出した「砧之段」の詞章に ぬえが付した「。。」というのが、実演上にもある「間」です。これによってこの場面が本当に、秋深い頃の夜の冷え冷えとした空気が舞台上に満ちてくるんですよね。。やっぱ世阿弥はスゴイや。

で、話を戻して、ぬえがこの「砧之段」に魅力を感じるのは、全体が単純な言葉で綴られていながら、それとは裏腹にその詞章が非常に複雑な構造を持っている事なのです。

周知のとおり、この場面は夫の芦屋某の帰りを三年待ち続けている妻(前シテ)が、侍女・夕霧(ツレ)とともに砧を打つ場面で、匈奴に捕らえられた蘇武の帰りを待ちわびる妻が打つ砧の音が蘇武の許にとどいた、という故事に倣って砧を打つ、という場面です。ところが、この文章はかなりくせ者で、いろいろな読み方が出来るのです。そしてまた、先日新しいこの場面の詞章の読みについて、新しい解釈が提出されたのを読んだ ぬえは またまたビックリ。

『砧』雑感(その2)

2006-12-09 19:28:18 | 能楽
ところでこの能の冒頭部分、喜多流ではワキが登場しない事は前述しましたが、前ワキが登場する流儀でも様々な演出の違いがあるようです。観世流では名宣リ笛に乗って登場するワキが後ろにツレを伴って登場し、ワキが舞台常座に入って名宣リを謡うとき、ツレはそのすぐ後ろに着座しています。その後ワキが掻キ合セ(両袖を前で合わせる定型の型)をしてからツレヘ向いて芦屋の里へ下るよう申しつけるのです。

ぬえは観世流の役者なので、この型を見慣れているのですが、金春流や宝生流では、囃子方と地謡が登場すると、まずツレが登場して地謡の前に着座し、ついでワキが名宣リ笛で登場されるようです。この場合はツレは静寂の中で登場する事になるのですが、ツレが着座するまで(ワキが幕から出るまで)は囃子方も床几に掛けず、このツレは登場、というよりは むしろ「最初からそこに居た」というような感じに見えるかと思います。このような登場のしかたを「出し置き」と言っていて、『砧』のほかにも『清経』『千手』『恋重荷』『土蜘蛛』などで見られる演出です。「出し置き」は主にツレの登場の場面に時折用いられる演出ですが、『西行桜』『実盛』などではワキが「出し置き」で登場しますし、『柏崎』などは珍しくシテが「出し置き」で登場します。

『砧』に話を戻して、観世流の場合は、前述のようにワキが名宣リを謡っているときには、そのすぐ後ろにツレが控えていますから、ツレ夕霧に故郷へ下る事を申しつけたワキが幕へ退場する際にはツレが通り道をふさいでいる格好になるのです。もちろん、ツレはワキの退場の邪魔をしないように、その横をワキがすり抜けて橋掛りへ向かえるように着座の位置に気を付けるのですが、故郷へ下る事をツレが仰せつかると すぐにお囃子方がツレが「道行」を謡い出すための前奏の「ツヅケ」を打ち始めますので、その演奏を聞きながらワキはツレの横を通過することになり、ちょっと“際どい”ように思うこともありますね。

ツレが「出し置き」であらかじめ登場している演出では、ワキは地謡の前にいるツレに向かって故郷への下向を命じ、そのままクルリと向きを変えて幕へ引けますから、その点では合理的でしょう。しかし「出し置き」での登場は、何というか、その役に「存在感」を与える登場の仕方であるように思えます。上記、「出し置き」で登場するツレの役は、たとえば『清経』では清経の妻ですし、『千手』では平重衡、『恋重荷』では女御、『土蜘蛛』では源頼光の役と、それぞれシテの相手役としてかなり重要な、いわばその曲のカナメとなる役なのです。『砧』の夕霧の役は、もちろんツレとしてはかなり重い役なのですが、この能の冒頭部分ではワキのメッセンジャーとして登場するわけで、その意味では「出し置き」での登場は少々意味深長に過ぎるようにも思います。どの演出にも一長一短があって、意外に処理が難しい場面といえるのではないでしょうか。

能舞台というのは、簡素な造りであるという点が非常に大きな舞台効果を挙げるのは周知であろうかと思いますが、じつはその同じ理由のゆえに、このように登場人物の登場・退場などに大きな制約が出てくる場合があるのです。新作能を作る場合でも、登場人物が登退場する方法やタイミングには、みなさんかなり工夫されているでしょうし、もっとも演出に苦労する点のひとつでもあるでしょう。

古典の作品の中で、このように流儀による大きな演出の違いがあるのは、『砧』という曲に独特に見られる現象で、その理由は、これは有名な事でしょうが、『砧』という曲には桃山期?~江戸中期に渡る、長い退転と、その後の再興の歴史があるからに他なりません(金春流では昭和30年代の復曲)。作者である世阿弥自身にとっても自信作であり、現代でも人気曲でもある『砧』には、ほかの曲のような系統だった長い年月に渡る演出の洗練がなく、その分 各お流儀の主張が独自に反映されているのは興味深い事だと思います。

『砧』雑感(その1)

2006-12-08 01:26:03 | 能楽
あれよあれよとパソコンの不調が改善され、修理にも出さないで済みました。どうやら自宅内の電源の配線に問題があったらしいです(パソコンの不調よりもそっちの方がよっぽど怖いってばさ)。ただいま~~

さて国立能楽堂に4日間通い詰めの日々ですが、今日は伝統芸術振興会の記念公演で、師匠の『砧』の地謡を勤めて参りました。この曲はつい先日も幸清次郎師のお弟子さんの発表会で師匠が勤められ、ぬえも地謡でお手伝いさせて頂きましたが、『砧』は今年はこれで3度目になります。しかも先月以来『砧』『檜垣』『道成寺』と大曲ばかりが師家・門下の会で出されていて、なんだか目まぐるしい日々。。

ところで先日と今日、地謡座から しげしげと『砧』のお舞台を拝見して ぬえが思ったことなど。

この曲、じつは ぬえは知らなかったのですが、下掛リ宝生流のおワキでは後ワキは「キマリ」の厚板を召されておられるんですね~。『砧』というと下宝生のおワキで拝見する機会が多く、これまでも、地謡に出ていて何となく「見慣れたお姿」だなー。。と、漠然と考えてはいたのですが、続けさまに上演に接する機会を得て、ようやく確信に至りました。。後ワキは素袍の下(袴)だけの裳着胴に、無紅厚板を着て、さらにその上に掛絡(から=袈裟)を掛けて、右手には中啓、左手には数珠を持っています。その、上に着ておられる厚板が、毎回「茶地破れ格子に笠」の文様だと気づきました。シテ方のキマリの装束は有名だけれど、おワキの場合でもこのように重い曲の場合には流儀によりキマリの装束や扇で勤める事が、ままあります。『砧』の、この厚板の事は知らなかった。。ぬえの勉強不足かも知れませんが、新しい発見ではありました。

『砧』のワキは、出番としては舞台に登場している時間は比較的少ないお役なのですが、重習の曲でもあり、おワキもかなり重い扱いとなっています。しかし何といっても、待謡の途中におワキが「シオリ」の型をするのがとっても印象的ですね~。「梓の弓の末弭に、言葉を交はす哀れさよ、言葉を交はす哀れさよ」という文句でおワキは右手でシオリをされるのですが、この文句によれば、待謡、すなわち夫の弔いのうちに、すでに亡妻の声が聞こえはじめているのですね。。誤解から幽明を異にして、しかも夫に恨みを持って死んだ妻。なんともやりきれないテーマの曲なのですが、このシオリが、曲の最後に提示される夫婦の和解の伏線を形づくっているようにも、ぬえには思えます。

このおワキは、能の冒頭にも登場します。この場面は都で、訴訟のために長く在郷している夫が妻を案じて「今年の暮れには故郷に帰るから」と妻への伝言を伝えるために、侍女の夕霧を故郷へ遣わす場面なのですが、ここにも夫が妻を思いやる気持ちが舞台上に現れてきて、この待謡の風情とよく呼応しているのです。

ちなみに、喜多流ではこの前ワキは出さない事になっていて、舞台はいきなり夕霧が都に向かう場面から始まります。この場合は妻を気遣う夫の姿が冒頭に描かれないため、夫の不実を疑って狂気に追い込まれてゆく前シテの姿は、ご覧になっているお客さまにも前シテと同じ不安を呼び起こさせて、前シテの気持ちへの同化がし易いのではないかな、とも ぬえは思います。一方、ぬえが普段見慣れている、そして喜多流以外では一般的な、前ワキが登場する演出の場合は、妻は「誤解」のために夫を疑ってしまう事が鮮明になってしまうのですよね。そして「この暮れにも帰れなくなった」という中入前のツレ夕霧の言葉に絶望して前シテは死の床についてしまうのです。これもまた、悲しい物語ではありませんか。。

地謡を謡っていて ぬえは思うのですが、地謡は冒頭にワキを見ているから、夫の真実を知っている。それなのに、それを疑う妻の狂気を描写しなければならないのです。なんだか、『砧』にやりきれない思いをいつも感じてしまうのは、ここに原因があるのでしょう。

ぬえは やはりツレの「この年の暮れにも御下りあるまじきにて候」という言葉は、夫がやむにやまれぬ在京の事情を、夕霧を遣わしたうえにさらに別の使者を立ててまで妻に逐次知らせたのであって、妻を気遣ったワキの愛情と捉えておきたいな。

【しばらくお休みのおしらせ】

2006-12-06 21:15:12 | 能楽
ちょっと多忙な日が続いておりました。

また、今日から国立能楽堂に4日間も通い詰めの毎日を送っております。

ところで、昨夜から突然パソコンが不調になりまして、なんと今朝からはパソコンが起動しない!というトラブルに見舞われております。

この記事は、能楽堂で申合を終えてからインターネットカフェで書き込みをしているという有様。。

なんせ数年前の古いパソコンを使っているから。。ぬえ。いまだにOSはMeだし~。(TT)
明日からパソコンが修理のため旅に出ます。しばらく書き込みができなくなります事をお知らせ申し上げます。お許しくだされ~。

なお、同様の理由でメールを頂いていても返信できない場合があります。携帯に転送しているのでメール本文は読めますが。。どうぞ併せてご寛恕くださいまし~

あ~あ、この機会に新しいパソコン買おうかなあ。。でもすぐにWindowsはVistaってのが出るんですよねー。。もうしばらく様子見かなあ。

鎌倉・建長寺での『隅田川』

2006-12-02 22:48:23 | 能楽
ぬえ、お仕事を頂いてしまいました。

他流シテ方の方からお電話を頂きまして、来年初夏に鎌倉・建長寺で奉納能のシテを ぬえに勤めてほしい、とのこと。ええ~~っ、本当ですかっ!?

ぬえは、海外での仕事ならばご指名を受けて大学で講義をしたり、公演をした経験はあるのですが、また、日本国内でも大倉正之助氏から頼まれた仕事で伊豆へ行き、それ以来 子ども能の稽古を続けているのですが、しかし最初から「シテを舞ってほしい」と頼まれたのは初めて。しかも他流の方からとなると。。思いも掛けないお申し出に、ぬえは狼狽してしまいました~~

さっそく師匠にも相談したところ、「そのようなお誘いを頂ける事を名誉に思って、ありがたくお受けしなさい」と仰られて、この催しは実現する事になりました。予算の関係もあり、出演者は通常の催しより多少は規模を縮小しなければならない、とはいえ、上演曲目には『隅田川』を指定されていますので、このような大曲は師匠の居られないところでは ぬえも勤める気はなく、師匠にもお出ましを願って、監督して頂く事と致しました。

ぬえをお誘い頂いたこの方とは ぬえはかなり以前から懇意なのですが、どうやら昨年にすでに ぬえをご指名されるおつもりでお電話を頂戴してそうなのです。ところが。。ぬえは昨年、ブロードバンド回線の導入のために電話番号を変更していまして。

今年はじめ、偶然この方とお会いした時に「ぬえくん、電話番号変わったの?」と突然聞かれて「はい。ご連絡を失念しておりましたか?それは大変失礼を。。」「いえね、きみにシテをお願いしようと思ってお電話したんだけど繋がらなくて」「ええっ!いや、あの、その、それは。。今の番号は。。」「いや、もういいです」「あ、そうですか。。(T.T)」。。こんな やりとりがありましたとさ。(;_:)

そして来年の催しにあらためて ぬえをご指名してくださったようです。いずれにしても大変ありがたいお話で、ぬえは大切にこの催しを勤めさせて頂きたいと存じます。う~~ん幸せっ。

以下、サイトにも載せておきましたが、主催者の承諾も得ましたので、まだ気は早いながら番組の宣伝をさせて頂きます。よろしくお願い申し上げます~~

建長寺巨福能 (こふくのう)

平成19年6月3日(日)開演時刻 未定
会場=鎌倉・建長寺
入場料=未定

能 『隅田川』 シテ(狂女) ぬえ

※未定の部分が多くて申し訳ありません。日が近づいてきたら改めて詳細をお知らせ致します。。

「仲間」ということ

2006-12-01 00:18:36 | 能楽
前回「仲間」という言葉が出てきたので、それを思うとき必ず思い出すこと。

数年前に ぬえが『道成寺』を披いたとき、「仲間」のありがたさは身に沁みました。このときの稽古などの詳細はサイトにレポートを載せていますが、ははあ、「仲間」についてのことは書いていないようだ。

当時 ぬえは本当に『道成寺』を披くことに命を賭けてしまっていました。「失敗したら。。帰りの電車を待つプラットホームで。。ぬえはやってしまうだろう。。」当日まであと1ヶ月を控えた頃、ぬえは追いつめられた自分が恐ろしい事をしてしまう予感に気づいて、怯えていました。いや、ホント。後にも先にもあんな恐ろしい毎日を送ったことはありません。「完全主義者」という自分の性格を思い知り、またそれを恨んだ1ヶ月でした。。

「がんばってね」。ぬえを励まして言ってくださる、その言葉が一番つらい時もある。こういうとき、「仲間」たちは ぬえに一切手を差し伸べてはくれませんでしたね。むしろ厳しい言葉ばかりでした。「なあ、催しが終わったら、ゆっくり飲みながらこの曲を目指しているこの苦労を語り合いたいよなあ。温泉にでも浸かりながらさ。。」「馬鹿っ!まずキチンと舞台を終わらせてからだよ!」。。(;_:)うう。。

じつは、これも「仲間」だからこその「優しさ」だったのですよね~、後で思ってみれば。公演の日、ある囃子方の友人は、別の観世流の会の催しで秋田県に行っていたのですが、その朝 ぬえにメールをくれました。そこには「君が稽古してきた内容は間違ってない。舞台を楽しんでらっしゃい」と書かれていました。稽古の一環のつもりで、緊張しても睡眠だけは規則正しく取るようにしていた ぬえも、さすがに当日の朝は寝覚めからすでにゲッソリしていたのですが、このメールを読んで、一気に勇気が出ました。

後日、このメールへの感謝を言うために彼と飲んだのですが、彼は「だってさ。。仲間じゃんか」と言ってくれた。うう~ ぬえは幸せ者です。そのうえ彼はこう言った。「あの日。。秋田ではシテ方もみんな ぬえの事を心配していたんだよ。ああ、今頃 ぬえのヤツ、装束を着け終わった頃だな、なんて楽屋でみんなで話していたんだ」。。(T.T)

それから数年。。お互いに微妙に立場が変わってきて、いまはあまり連絡を取っていない人もいるけれど。。刹那の事であっても、信頼できるってことはすばらしい、と ぬえは思います。前回、恐れ多くも師匠の「仲間」の事を詮索してしまったけれど、若輩の至りながら ぬえはそういう美しい関係のひとつの結実を師匠に見たのは、あながち ぬえにも経験がないワケではないだけに、おそらく真実なのではなかろうか、と考えています。

「仲間」かあ。。いまはその危うさのような事も考える事があるけれど、せめて同門の中に、そういう美しい関係が築ければいいなあ、なんて思います。ま、実際は難しいことも多くて、ぬえが苦しんだ『道成寺』だったから、あとに続く人たちのために書き付けや資料をたくさん作ったのですが。。聞きに来る後輩がなくてガッカリしたり。。 ま、人それぞれだから、ぬえと違っていたとしても、各自が自分を高めてくれる良い友人を作って、その「仲間」と一緒になって結果的に「良い舞台」が築ければ ぬえも喜ばしい、と思います。