ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

小学校の創立20周年記念祝賀会で『嵐山』

2009-06-28 16:54:43 | 能楽
昨日は東京都練馬区立光が丘第八小学校(名前が長い…)で創立20周年記念の祝賀会が催され、ぬえはそのオープニングで『嵐山』のデモンストレーション上演をしてきました。

え~、この学校には チビぬえが通っていまして、創立20周年と比較的歴史が浅いのは、この地区がその頃振興巨大高層マンション街として突如出現したからです。「第八小学校」という名称が、一斉に作り上げられた新しい町だということを表すし、その規模の巨大さも表していますね~。

。。とはいえ、最近はご多分に漏れず地区全体でも児童数は減少の一途で、チビぬえの学年でもクラスはたった一つだけ。学期ごとの席替えはあってもクラス替えはあり得ないという。。ぬえが小学生だった頃は学年に6クラスあったものだけれど。。これほど少子化は深刻な問題なんだ。。 ここまで児童数が減ると当然ながら学校統合も進められて、次年度からは 第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七小学校は統合されて半数の小学校になるという。チビぬえが通う第八小学校だけが、それらの学校の中では少し離れた場所に位置しているので、なんとか統合されずにそのまま残るらしいです。第一~第七小学校がなくなるのに「第八」だけが残るのもなんだか変な感じですけれどもね。

さて祝賀会は練馬区の教育長さんや歴代の校長先生、学校を支えてくださっている地域の方々、ご父兄も参加され、とてもにぎやかでした。午前中には校長先生や来賓の方々の挨拶と子どもたちの合唱からなる記念式典が行われ、児童が下校した午後からは祝賀会が開かれます。ぬえはその冒頭で能『嵐山』を勤めました。

。。とはいっても録音された音源を使い、上演時間も10分程度と、まあ祝賀会のオープニングとしての略式の上演です。それでも チビぬえも ぬえも装束を着けて、まずは チビぬえが一人で「天女之舞」を舞い、その後「大飛出」の面を掛けた ぬえが登場するのは割とインパクトがあったでしょうね。曲柄もめでたく、小学校の創立記念祝賀会としても、チビぬえも登場できる曲目だったし、まあ、うまい時期にちょうど『嵐山』のお役があったもので、おかげでスムースに稽古を重ねることができましたし、逆に言えば苦労して積み重ねた稽古であったからこそ、研能会だけではなくて、このような場面で再度上演することができて幸せだったと思います。

終演後は急いで片づけをして帰宅しましたが、その間にも地域の伝統芸能である太鼓の上演があったり、なかなか見どころも多くて堅苦しくない祝賀会でした。あとで実行委員会の反省会もあったそうで、そこでは ぬえが勤めた『嵐山』も好評だったそうです。繰り返しになりますが、まずは子方が華やかな天女を舞い、その後 厳めしい表情の蔵王権現が登場する『嵐山』は、その祝言性も含めて、こういう場面に本当に良く似合う能で、うん、よく出来ている曲だな~、と思いました。

この光が丘第八小学校では、チビぬえが通学している縁から、前任の校長先生からも非常に ぬえに気を配ってくださいまして、何度か能楽講座も催させて頂いております。その第一回目では副校長先生に装束を着て頂いて児童も巻き込んで即席に『鶴亀』の能を上演してもらったり。ん~、ぬえが小学生だった頃と比べると、セキュリティは厳しくなったけれども、校外から人物を呼んで講演をしたり体験をしたり、ということが比較的自由に出来るようになったようです。

このたびの記念祝賀会に ぬえが出演させて頂くためにご尽力頂いた実行委員の方々、教職員の方々、ならびに関係各位に深く御礼申し上げます~
これをキッカケに、ご来場頂いた方々にも能楽堂に足を運んで頂けるとうれしいです~。

『嵐山』、大成功で終了~!(続々々々)

2009-06-25 01:38:59 | 能楽

こちらは「子守明神」役の チビぬえです。綸子ちゃんと同じく白大口と稚児着を師家から拝借し、風折烏帽子、狩衣、腰帯、中啓が ぬえの所蔵品。それどころか。。この風折烏帽子は ぬえが自作した品です。昨年の「狩野川薪能」のために思い立って和紙と革で作ってみましたが、まあ。。出来はそれなり。

狩衣は、これはある神社の関係から安~~く出た物を ぬえが購入したもので、この藤色のほかに黄色と薄い茶色の三領を同時に手に入れました。神官装束店の製作品ながら、これは化繊の装束ですね。稽古用にと思って購入したのですが、これまた意外や伊豆で ぬえが指導している「子ども創作能」に使用する装束の一つとしてとっても重宝していまして、その延長として昨年の薪能に、引き続いて今回の公演でも チビぬえに着てもらいました。やはり大人用の装束ですので、袖を子ども用に折り込んで使用しました。

中啓は骨董屋で見つけたもので、表が金地、裏面が銀地で、図は松竹の図柄で神扇に見立てることができる扇です。これはもともと僧侶の用だったのでしょうが、これまた ちょうど子方の扇にちょうど良い品で、やはり重宝して使っております。

このように今回の子方が着た装束や扇は、多く他の用途のために作られたものを ぬえが工夫して転用したり、自作したものばかり。いうなれば能装束ではない「ニセモノ」とも言え、それを東京の能楽堂で正式に催される公演に使うことには議論もあるでしょうし、ぬえ自身も使用の是非を躊躇もしたのですが。。やはり子方にとっては稽古で使い慣れたものを本番でも使うのが最良かな、という判断をしました。

ぬえの骨董屋通いは有名で、もう10数年にもなるかなあ。ぬえは親が能楽師ではない一代目なもので、この道に志したときには、面も装束も、それこそ何も所蔵するものがありませんでした。徒手空拳で六百年の伝統の中に飛び込んだのですから、いま考えれば若かったな~と。。

それで、内弟子に入門してからはありとあらゆるものを、機会を見つけては買い揃えるように心がけています。面にしろ装束にしろ、内弟子時代から 年に最低ひとつは必ず所蔵品を増やすことを自分に課していまして。まあ。。収入がほとんどなかった書生時代は大変でしたが。。そいうワケで骨董屋通いは内弟子時代からの習慣です。小道具や楽器なども骨董屋や骨董市でほとんど手に入れましたし、ときには とんでもない掘り出し物に巡り逢ったことも、一度ならずあります。

が、こういうところで本格の面や装束がたやすく手に入るわけもなく。。大半は どうもアヤシイ感じの道具ながら稽古で使うために入手したり、伊豆で教えている子どもたちが勤める創作能の小道具にいいんじゃないかな~?? と思って買ったりしたものばかり。

道具類や面、装束というものは、公演の本番では(少なくとも自分が所蔵していない品は)師家から拝借できるのですが、だからと言ってまったく自前で揃えなくても済んでしまう、というのもまた乱暴な話で、経験上、やはりその曲に使う種類の面を掛けて稽古するのは、ある程度必要なことだと思いますね。稽古で使うのだからそれほど出来は問わなくても、やはり大飛出を掛ける曲の稽古を、所蔵している「小面」で済ますのは ちょっと違うと思います。やはり面が持つ力というのは偉大なので、大飛出を掛ければ 自然にそういう構エになる、ということだってあるのです。

『嵐山』、大成功で終了~!(続々々)

2009-06-24 01:54:47 | 能楽

前回にて一応『嵐山』の子方の成功についての記事を終了にしようと思っていたのですが、思わずも某国家権力からの検閲を受け(笑)、また これまた はからずも研能会当日の画像が送られてきました~! 今回は最終回としてこの画像について少し話したいと思います。

あらかじめお断りしなければなりませんが、著作権・肖像権の関係でシテやワキ、お囃子方などが写った画像は公開できません。子方ばかりの画像になりますことをご承知おきください。。m(__)m

さてトップ画像は二人の子方が「渡リ拍子」のところを舞っている図。某所の担当者さま~、桜の持枝が写っていますよ~。Y(^^)ピース! これこそ国民の血税を注ぎ込んで国家予算の四分の一を費やして作り上げられた桜!(うそ) 昔なら正倉院に収蔵されるべきところ、庶民の手に届く国立能楽堂の御収蔵庫に納められておりますものを、特別のお計らいをもって拝借させて頂きました~(大うそ)

いや実際 繊細で可愛らしくいかにも子方が持つのにふさわしい、こんな良い持枝を去年の薪能のために発見できたことは喜びでした。某所の担当者さまにも舞台の成果をご心配頂きましたようで、温かいお心遣いに感謝申し上げます~(#^.^#)



で、まずは「勝手明神」役の綸子ちゃん~。 ん。ぬえ家にも終演後「去年よりも少し大人びてきましたかね~?」という感想が寄せられましたが、この画像を見るとなるほど そのようにも見えます。まあ、稽古では相変わらず おてんばぶりを発揮していますけれども~。

今回は緋大口と稚児着は拝借しましたが、この天冠と長絹、それに中啓はすべて ぬえの所蔵品です。稽古でもずっと使わせていましたので、やはり使い慣れているものが良いかなと。天冠は、これは良い品で、もうかなり以前になりますが、ある鍛金師の方に造って頂きました。

長絹は ぬえが初シテとして『吉野天人』を勤めさせて頂いた際に記念に新調した品です。白地に金の破レ業平菱と花ノ丸や鳳凰ノ丸の文様が織り出されているのですが、当時の ぬえには文様を本金で織った装束を買うのはとても無理で、鋳金(中金とも言う)と呼ばれる「ニセモノ」の金糸で作って頂きました。当時はまだ鋳金の技術は今ほど高くなくて、なんだか安っぽい色合いなのですが、今回は子方に使わせるために袖や前身頃を折り込んでみたところ、意外や全体のバランスが取れたような感じになりました。

中啓は表面が「花軍」裏面が「花車」の図の扇で、これは骨董市で見つけたものです。図柄は本格の鬘扇なのですが不思議に寸が小さく、まさに子方用の中啓でしょう。しかし子方の役に対しては図柄がやや大仰かな? と思って、当日は表裏を反対に持たせて、花車の図を表面にして使わせました。

『嵐山』、大成功で終了~!(続々)

2009-06-23 02:03:21 | 能楽

それで、公演からしばらく経って、しばらくと言っても冷静に自分の舞台を振り返ってみられる、ということですから2~3日程度ではありますが、ようやくそういう自責の念から解放されるのです。舞台の総合的な成果と、自分に納得のいかない部分とをようやく冷静に秤に掛けることができるようになって、些細なミスであればここに至って やっと自分を許せるようになる、といいますか。

ミスが舞台で起きた場合 演者は急いでそのミスを取り繕おうとしますね。それは多少なりとも演技を自分のミスのカバーに向けることになるわけで、その時点で自分が思い描いて稽古してきた舞台の成就はなくなるわけで。そりゃそうなんですが、ややもすると役者はその「ミス」の定義を自分でも知らず知らずのうちに細かい点にまでエスカレートさせてしまったりします。このあたりは役者個人の性格によるとも思いますが。。

こうなると、お客さまも気づかないような小さなところの小さなミスで思い悩むようにもなります。ぬえは割と自分のミスは気になる方ですが。まあ、それでも2~3日経てばなんとか自分の中で折り合いをつけることができるようになりますが、公演当日の夜はダメ。ずっとそうでした。結局、パーフェクトな舞台などあり得ないことなのだと割り切れるようになったのは最近のことです。

この日の『嵐山』の子方は、まさにそういう「役者根性」のようなものの萌芽であったのでしょう。まあ、チビぬえは仕方がないのでありますが、綸子ちゃんがやっぱり同じように反省していたのに感心しました。ぬえも時には厳しい言葉も使って稽古していましたが、綸子ちゃんの心の中にも責任感が生まれていたんですね~

『嵐山』終演後、子方二人には ぬえから「100点」をつけてあげました~。(#^.^#) そのうえで、この日の公演がすべて終了するまで居残ってもらって、ロビーでお客さまのお帰りをお見送りするよう申しつけました。綸子ちゃんはこの翌日が学校のテストだったのだけれども、やはりこれも舞台の仕事のうち。ましてや子方を成功させたのですから、胸を張ってお見送りしてほしかったです。

あとで聞いたところでは、ロビーでは「あ、あの子たちよ~~」と喜ばれて人垣ができたのだそうな。(^_^;)
あまつさえ「あなたがリンコちゃんね~」「。。リンズです。。」というようなやりとりがあったのだとか。(^◇^;) あ~、そのお客さまはこのブログの読者ではありませんね~~(;^_^A

まあ、ともかく子方二人はよくやりました。ぬえも神経をすり減らしたけれど、舞台が成功して苦労も心配も吹き飛びました。綸子ちゃんは中学生になって、これから段々と忙しくなってくるでしょうけれども。。ぜひお稽古を続けてほしいなあ。実際には ちょっと前に ぬえは綸子ちゃんに「ね~、また今度 ぬえと一緒に舞台やらない?」と聞いてみて。。綸子ちゃんは「ん~? やらな~い」と。。あえなくフラれてしまいましたけれども。(T◇T)

さてトップ画像は『嵐山』で子方が手にして登場した 桜持枝です。自分で作ろうとも思ったのですが、桜の造花というのはなかなか良いものがなくて。昨年の「狩野川薪能」で ぬえが『嵐山』を勤めたときに、国立能楽堂の所蔵品が最も出来がよいことがわかって拝借したもので、今回の研能会でも同じものを使わせて頂きました。

※国立能楽堂の担当者から「ぜひ!ぬえさんのブログで国立能楽堂の桜持枝がイイ!と書いてください!」とお願いされましたのでご紹介させて頂きま~す。いや~ ぬえもやっぱり国家権力の前には吹けば飛ぶような弱者なもので。。ご意向には逆らえません。。バキッ!!(-_-)=○()゜O゜)アウッ!

いや、ま、本当にこの桜は良い出来なので拝借したんですよ~。念のため。(^_^;)

『嵐山』、大成功で終了~!(続)

2009-06-22 04:08:02 | 能楽
土曜は伊豆のお稽古に出かけ、東京に帰った日曜には国立能楽堂と観世能楽堂をハシゴして舞台を拝見に伺いました。とくに ぬえが8月に勤めることになっている能『現在七面』がこの日上演されまして、勉強のために参上した次第です。足指を骨折しているので車で能楽堂に向かい、そこでギプスをはずしてサンダルから靴に履き替える。。ああ~~面倒くさい~~

それにしても稀曲の代表曲のような『現在七面』が2ヶ月の間に2度上演されるというのは本当に珍しいことです。たまたま昼食時だったので国立能楽堂の楽屋食堂に行ったら、太鼓のKくんがいたのでしばし談笑。ところが『現在七面』についての囃子方の「決マリ」について重大な情報を得ることができました。ぬえが自分の8月の舞台で計画している 小さな「工夫」について、その実行の可否にかかわる情報でした。ふ~~む、勉強のタネはこんな身近なところに転がっているものなんですね~。

さて研能会で上演された『嵐山』に話題は戻って。

子方が登場してから ぬえはもう心配で心配で心配で心配で、後見座でずう~っと心臓バクバク状態でした。無事に「天女之舞」を終えて やっと安心。後シテの途中で舞台から下がって、子方が先に引いてくるのを幕の中で待ち受けました。ササッと天冠や烏帽子を取って、今度は後シテが引くのを平伏してお受けして、こちらの面や赤頭を取って、終演後の挨拶のお世話をして、さて装束を脱がせてようやく終了。

これから先の子方の動向は ぬえは知らなかったのですが、なんでも二人とも「あそこでタイミングを間違えかけて あわてて取り繕って。。」「あそこは両足をひねって向き直るはずなのに片足をカケて向いちゃった。。」「もう少し手を下げるように言われていたのに ついクセが出ちゃった。。」と反省しきりで落ち込んでいたそう。

ん~、いつの間にかそこまで到達していたか。

いえね、これらの「失敗」は、後見座にいた ぬえでさえほとんど気づかなかったような細かいミスなのです。それでもそれが気になるか。。ぬえと一緒だよ、そりゃ。

これはたぶん公演が一日限りで、一期一会の舞台を突き詰める能であるからこそ能の役者の心の中には しばしば起きる感情なのだろうと思います。能役者は一日限りの舞台のために数ヶ月も準備に費やしたりするので、その分 公演当日の舞台の成否はとっても気に掛かる。それで、ほんの些細なミスであっても演者の心の中には大きなキズとして残るのですよね~。。

ぬえは。。自分の性格がうらめしいですが、ある種の完全主義者で、そのために ずいぶんつらい思いもしてきました。初めてのシテのお役。。これは無我夢中でしたが、3番、4番とお役を重ねるごとに、重ねてきた稽古の何分の一しか本番では発揮できず。。それも、とくにシテを勤めて年数が浅い頃には、装束に負けて思うように演技ができない、なんてことさえありました。気負いすぎて足が止まらなくなったこともあります。この頃の ぬえは、シテを勤めて帰宅してから、もう頭をかきむしって、叫び出したくなるほど つらい思いをしたものです。

こういう、あからさまな「失敗」を経験で乗り越えてからの ぬえも、お役を勤めた終演後に自分に襲いかかってくる後悔と自責の念には ずうっと苦しめられてきました。多かれ少なかれ、能役者はみんなこういう思いと戦ってきたはずです。

『嵐山』、大成功で終了~!

2009-06-19 11:10:20 | 能楽
昨日、東京での師家の月例公演・梅若研能会6月公演にて能『嵐山』が上演されました。この曲に子方として出演した増田綸子(りんず)ちゃんと チビぬえのコンビはみごと、大役を勤めおおせて、ぬえのひいき目かもしれないけれど、結果は大成功だったと言えると思います!

天女之舞の型はかなり精密にシンクロしていたと思うし、謡の声も明瞭で大きかった。なにより物怖じせずに大きく舞えたのがよかったです。楽屋でも「あんなに型が合うなんて、すげ~と思いました」と ぬえに言ってくれる人もいて、稽古をつけた ぬえもうれしかったです~

じつは申合には風邪気味でやってきた 綸子ちゃん。代役はいないので ぬえも心配しましたが、当日楽屋に来た様子を見ると。。ありゃ? 顔色もよく、あの元気な綸子ちゃんに戻っていました。「風邪。。大丈夫なの?」と聞いたところ「はい!治してきました!」

治して。。(¨;) オマエ、プロだな。。

うう~。。「公演当日は子方といえどプロとして扱う。代役はいないのだから、たとえ40度の熱が出ていても、骨折していても、必ず舞台には立ってもらう!」とあらかじめ綸子ちゃんに宣言していた ぬえでしたが、大言壮語した ぬえはまだ足指の骨折を治せていません~~ (T.T)ゴメン

伊豆に住んでいる綸子ちゃんには、本番の前に何度か東京に稽古に来てもらったので、その折に観世能楽堂を借りて稽古してあげたかったんですが。。あいにく舞台のスケジュールはことごとく埋まっていて、とうとう当日を迎えるまで実際に自分が立つ舞台の感触を確かめることはできませんでした。そこで当日は早めに楽屋入りしてもらって、開演前の舞台で稽古、というより簡単な打合せというか 最終確認だけをしてもらって、あたふたと装束を着けることになりました。

それなのに、初めて立つ能楽堂の舞台に緊張するでもなく、よくまあ稽古の成果をそのまんま舞台に再現できるもんだ。感心です~

一方この日の ぬえは大忙しでした。もう汗だくになりながら子方の装束を着け、うわっと、もうすぐ開演時間だ!ちょ、ちょっとこのまま待っていてね、と上等の袴に着替えて自分のお役の仕舞『誓願寺』を勤め、すぐにまた常用の袴に着替えて子方の装束の着付をもう一度手直しし、『嵐山』が開演すると作物の桜立木を舞台に出し、前シテが登場すると絶句に備えてずうっとシテの文句を口の中で謡いながら後見を勤め、中入ではシテが捨てた萩箒を引き、楽屋に戻って出番を待っている子方に何か不都合や故障がないか調べてまた装束を整え、間狂言が終わるとすぐさま桜の作物を引き、子方の登場には幕内でこれに付き添い、子方が舞台に入ったら、型を間違えたり、事故が起こる用心のために後見座に控えて見守り、後シテが登場したら楽屋に戻って子方が退場してくるのを待ち受け、ついで後シテの退場もお受けして、終演後に役同士が挨拶を交わすために手早くシテの面を外して、子方にも各役に挨拶をさせてようやく装束を脱がせ、そうしてホッと安心しているのも束の間、もう一番の能『藤戸』の地謡に出演しました。もう一日中走り回っていた。。いや楽屋では走ってはいけないので、一日中競歩をしていた、そんな感じの一日でした。

能の後見には主後見(おもこうけん)と副後見の二種があって、主後見はシテの装束を着付けたり、シテに事故が起きたときに対処するなど、シテの世話をする役目で、副後見はツレや子方の世話をしたり、舞台に作物を出し入れするなど、どちらかというとシテ以外の役を担当したり雑用をこなしたりします。今回の『嵐山』では ぬえは副後見のお役を頂きましたが、おかげさまで子方の面倒をみるのに専念できました。この曲では舞台上で主後見が仕事をすることはほとんどなく、副後見が立ち働く場面ばかりに見えますが、もちろん主役たるシテが気持ちよくお役を勤めるための補佐をする主後見の方が大変なのは言うまでもありませんが。

それにしても。。自分ではない他の演者がシテを勤める舞台に、自分が教えた子方を出演させる、というのは 本当に神経がすり減ります。どんなに稽古を重ねていても、やっぱり子方は子ども。なにが起きるかわかりません。極端に言えば、舞台上で頭が真っ白になって何もできなくなり、立ち往生して泣き出す、って可能性だって完全に消し去ることはできないのです。それが自分がシテを勤める舞台であれば、こういう大失敗が起こっても(お客さまへの責任は別として)自分の中では最後にはなんとか「諦め」がつく。しかし他人さまの舞台を台無しにしてしまっては。。「ゴメンなさい」じゃ済まないです。自分が子方を演じたのではないけれど、能楽師としての資質を問われる、と言っても過言ではあるまい。

今回はその意味でも良い舞台に仕上げることができた、と ぬえは思います。ようやく肩の荷が下りました~

(続く)

『嵐山』、申合おわりました

2009-06-17 01:11:13 | 能楽
今日は『嵐山』の申合~

前述の通り「健康管理も稽古のうち」「当日は40度の熱があっても骨折しても出演してもらう」と常々綸子ちゃんに言っていた ぬえが骨折してしまいまして、合わせる顔がない ぬえなのでしたが。

今日 師匠のお宅に到着した綸子ちゃんは。。風邪気味でした。うひぃぃ~~~。センセがセンセなら生徒も生徒。いや~仲の良い師弟関係で。(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)

ちょっと つらそうだった綸子ちゃんでしたが、申合をしないわけにはいきません。結果、常の稽古では一度もなかったようなミスが出たり、チビぬえとの相舞の「天女之舞」も、あと一歩シンクロしていない点もありました。ただ、技術の上では去年からの稽古の成果が出て、子方としてはかなり高レベルに仕上がっていますから、お客さまのお目汚しになることはないと思いますし、今日の程度のミスならばお客さまには気づかれないかも知れない微細な瑕瑾でありましょう。

まあ、それでも当日までどうなることやら、ぬえには少しばかりの心配が残ることになりましたが、そんなことより、綸子ちゃんのベストコンディションの状態での、あのシンクロした「天女之舞」をお客さまにお見せしたかったな~、と思います。

それでも今日は師匠や先輩からも 綸子ちゃんに割と厳しい指導のお言葉がありました。これを聞いて ぬえはひと安心。やはり、ある程度以上の成果が出せると見れば、より良い舞台のためにさらに要求を出したくなるのが 同じ舞台に立つ役者の気質というものですから、要求が出されたということは、裏返して考えれば この子方の出来にまずまず納得して頂けた、ということになるのです。そりゃ、型をなぞっているだけ、決められた謡をただ謡っているだけ、であっても舞台は進行するのですが、そういうお役の者には誰も何も言いません。もっとも ときおり、ぬえのようなヤツがぶち切れて怒鳴り出すこともないわけではないですが。(^◇^;)

んで、ぬえは。今日は足指にギプスをはめているため靴を履くことができず、師匠のお家には車で行ったうえサンダル履きで玄関に向かうことになりました。あ~~我ながら情けない。

この状態なのですが、正座にはとくに支障はないので能『嵐山』の副後見と能『藤戸』の地謡は苦もなく勤められました。ことに『藤戸』は地謡の席次ではナンバー3なので、地頭である師匠のお隣で謡わなければなりませんで、いやが上にも緊張しますですね~~。。先日の稽古能でも『嵐山』に引き続いて『藤戸』が演じられたのですが、このときは ぬえは地頭を勤めさせて頂きました。慣れない重責ですが頑張って。。でも今日の申合で師匠の地頭を聞くと、なるほど ぬえとはずいぶんレベルが違います。。がっかり。

あと ぬえは仕舞『誓願寺』のお役がありますが、さすがに申合ではギプスを着けたままでは舞えないので外したのですが、まあまあ運ビをするのには支障はなく、曲が静かなのにも助けられまして、まあ、安全圏内で舞う、という感じではありますが、当日のお役はどれも勤めることができそうです。

それにしてもこのところケガが多いなあ。。先輩からは「3度目に大きな事故が起きるってこともあるんだよ。ここらで わざとつまずいて転んでおいたらどうだ?」と真顔で言われました。そういうものなのか。

またやっちまいました。。今度は骨折。(・_・、)

2009-06-15 23:53:56 | 能楽
うん、やっちまいました。。

いえ、ケガといっても足の指で、骨折といっても、まあ、ヒビ程度のものですが。でも、やっちまいました。能楽師の中枢部を。

先日、東京での催しに出勤するのに、その前にその日の朝から自宅で事務作業に追われておりました。いえ、いくら催しでのお役が地謡だけといっても さすがに催し当日の出勤前に根を詰めた仕事はしないのですが、その日に限って 前日から進めている伊豆の子どもたちへ渡す資料がどうしても完成しなくて、稽古スケジュールを考えてもどうしても必要な資料だったものですから、この日の朝、猛スピードで作業を仕上げて、そして大急ぎで家を飛び出そうと。。この焦りがいけませんでした。

ケガの原因は、言うのも恥ずかしい「柱に足をぶつけた」。わっはっは。(T.T)

まあ、急いでいるときやってしまう、アレです。普通なら「あ痛てててててて~~!」でなんとかなり、あとは時間が解決してくれるものですが、今度はそうはいかなかった。急いだかいあって楽屋に遅刻しないで到着できたのですが、この頃になっても痛みが引かないのです。それどころかだんだんと痛みがハッキリしてきて。。終演後、すぐに ぬえが懇意にして頂いている代々木八幡の病院の院長さんに電話をして、診て頂くことになりました。この病院は ぬえが困ることがあると すぐに頼っちゃう病院で、まるで ぬえの駆け込み寺のようになってしまっていて。。すみません。

もう夜だというのに院長先生はご自宅から病院に駆けつけてくださって、診断の結果。。骨折なのだそうです。うう~~。このときは応急ということで湿布を貼って頂いて、院長先生はあり合わせの材料でギプスを自作してくださって。あと炎症止めの薬を頂いて、専門医がいる時間に再度通院することになりました。

んん~、綸子ちゃんにも「健康管理も稽古のうち」「当日は40度の熱があっても骨折しても出演してもらう」と常々言っているのですが、明日はその綸子ちゃん出演の『嵐山』の申合。ああ~~綸子ちゃんに合わせる顔がない~~(;>_<;)

しかも、あろうことか ぬえは仕舞のお役があるのでした。(゜_゜;)b 
今日はギプスをしたままで仕舞の稽古。。あれ? なぜか運ビはできるのですか。。なんで? 普通に歩くのはびっこ引きひきなのに。。正座も問題ないようなので、まあ安心はしました。けれど、よい教訓にはなった出来事でした。むか~し、まだ ぬえが書生だった頃、風邪をひいた状態で地謡(の末席)に出て、もう声は出ないわ、鼻はつらいわで大変な目に遭ったことがあって、これではイカンな。。と考えて、以後 絶対に催しの日に病気にはしない ぬえなのでありますが、まさかの油断でありました。反省。。(・_・、)

ところで。。じつは ぬえの能楽師としての中枢部分が、やはり最近大きな危機(?)にさらされたのでした。

先日 六本木で例の「ブルーマン」の公演を見にいったのです。これはある結婚式のお手伝いをさせて頂いて、そのときの新郎新婦がこの公演の企画に携わっておられる方で、その関係から公演にご招待頂いたのでした。

同じ舞台人として公演に感心したところはたくさんあったのですが。。それ以外に。。

この公演、お客さんを巻き込んで大騒ぎの場面がたくさんありますのですが。。ぬえは内視鏡のような小型カメラを持って客席に下りてきたブルーマンに注目されて。。お口の中をカメラで撮られて、それを公開されてしまいひた。(◎-◎)

むひ~~っ、巨大スクリーンにいま。。映し出されている。。それは。。?? ぬえのノドですかっ>>★◇◎▲☆★♯♪b ←実話

ああ~青いお顔のアナタ様がた~~、能楽師の鍛えられた声帯を 断りもなく衆目の下にさらさないでくらはい~~ (;>_<;)

稽古能のあと、お台場に行きました

2009-06-14 01:17:41 | 能楽
さて稽古能が終わって、次回 綸子ちゃんが東京に来るのはもう本番と同じメンバーがうち揃っての申合になります。申合ではできるだけ本番通りの環境を整えて行ってあげたいので、師匠には申合の際に装束を拝借させて頂くお許しを得、綸子ちゃんの身体に合った装束を選び出すところまで稽古能の日に行うことができました。

ここまで終えてもうお昼過ぎ。師匠や先輩にお礼を申し上げて師家をあとにしました。綸子ちゃん「おなか空いた~」とのことで、もちろん ぬえもそうだったので、綸子ちゃんと綸子ママ、チビぬえ、そして ぬえの四人で新宿の高層ビルにご飯を食べに行きました。さすがに伊豆にはこういう高層ビルはないので、面白かったかなあ。ご飯もおいしかったです。

んで、せっかく東京に来たんだし、それに研能会当日に近づくにつれていろいろな意味で余裕もなくなってくるだろうから、この稽古能のあとは一緒にお台場に行って、短い東京見物を楽しんでもらうことにしました。

東京都庁の前から地下鉄で汐留まで行って、そこから「ゆりかもめ」に乗せてあげる計画で、汐留から「ゆりかもめ」の新橋駅に向かって歩いていたら日本テレビの名物の 宮崎駿デザインの巨大な仕掛け時計が見えてきました。あ、これはいいかも。じつは ぬえもそばで見るのは初めてです。エスカレーターを乗り継いで近寄ってみると、ありゃこんなに大きいのか。しかも到着したのが2時55分! これは5分待てばこの時計の仕掛けが動くのが見られるかも。。5分だけ待ってみたら、その通り、いろいろな仕掛けが動きまわり始めました! 見物を終えてから説明板を見たら、毎時に動くわけではないようで、おおっ ちょうど綸子ちゃんが到着したときに動いて見せるなんて、なかなかやるじゃないか、宮崎駿(違)。

さて新橋駅から「ゆりかもめ」に乗って、レインボーブリッジを渡り、台場駅まで行きまして、ほんの少しだけパレットタウンのお店をひやかして。綸子ちゃんはディズニー・ショップに心ひかれてお買い物。(#^.^#)

それから海上バスに乗って、今度はレインボーブリッジの下をくぐって日の出桟橋に戻って。海上バスも興味津々だったようです。じつは綸子ちゃんが住む伊豆の国市には海がありません。伊豆半島の中では中伊豆と呼ばれる地域で、一番近い西伊豆の海。。三津(みと)まで行くためにはひと山越えなければなりません。反対側の東伊豆では伊東が一番近いと思いますが、こちらは伊豆半島の背骨のような山脈を越える、ちょっとした旅気分の距離。そんなわけで展望の利く海上バスは面白かったかも。ぬえも以前に師家で チビぬえが稽古能に参加したあと、今回に近いルートで チビぬえを「ゆりかもめ」と海上バスに乗せてあげたことがありますが、これは時間がそれほどなくても楽しめる なかなかお勧めのコースだと思います~

浜松町まで歩いて、そこで綸子ちゃん母子とお別れしました。もう5時近かったけれど、綸子ちゃんはそこで「あ! 今日は『ドラえもん』だった!」と。。 ははあ、金曜日の夜7時はいつも ドラえもん、見てるんだ~ (^_^;) すんません、お引き留めしまして~ (・_・)(._.)

いや、稽古能がうまくいかなければ これほどは楽しめなかったでしょう。お互いにね。このまま当日も笑って楽屋を後にしてほしい。。

新幹線で帰ったようだけど、7時に間に合ったかなあ??(´。`)

『嵐山』、稽古能は無事終了

2009-06-13 10:24:47 | 能楽
昨日は師家で稽古能が開かれまして、綸子ちゃんは学校をお休みして早朝に伊豆を出発して、稽古能に参加してくれました。

いや、チビぬえとの「天女之舞」の相舞もうまくシンクロしています! どうやら前回の、伊豆での最後の稽古のときに、公演当日まで毎日稽古をすることを命じ、この1週間は学校の部活も休んでもらうようお願いしてきましたが、それが功を奏したか、ん~、去年の「狩野川薪能」を思い出すレベルになってきたな。ああ~~ ぬえがシテを舞いたいです~~

が、稽古能が終わってからおシテから少し型の注文も出まして、また子方の舞う舞台上の位置どりも 少し具合の悪いところも感じたので、そこを改めて修正して、それから、いろいろと注意を出しておきました。伊豆での稽古よりも稽古能の方がずっと良かった、確実に進歩していることは良いことだ、とまずは褒めてあげて、それでも、今日突然うまくなっているから却って油断が起きてくるのがこわい。当日に失敗すると本当に後悔するから、明日から当日までさらに稽古を厳重にやっておきなさい、と命じておきました。

綸子ちゃんは うまく出来たのにもっと稽古をしろ、と ぬえに言われたのが理解できなかったらしく「それじゃ、今日失敗していたら。。?」と聞いてきました。その答えは簡単。稽古能や申合で失敗していたら、ぬえに言われなくても死にものぐるいで自発的に稽古するでしょう。そして少なくとも、そこで失敗した部分に限って言えば、まず当日には失敗は起きないのです。しかし稽古が順調だと安心と油断が生まれてしまう。それが稽古の弛緩につながって、結果的に自分が築き上げてきたレベルをいつの間にか自分で低下させてしまうのですよね。これが怖いです。当日は1回だけしかないのですから。この説明に綸子ちゃんは納得したようでした。あと少しの辛抱だ。

聞けば綸子ちゃんは研能会で『嵐山』の子方を勤めた翌日は学校のテストなんだそうで。。(¨;) おお、そりゃ大変だ。授業とテスト勉強と。そしてクラスメートとは違って綸子ちゃんには一世一代の舞台があるし。やっぱり部活はしばらく中止してもらって正解でしたし、そうでなければ綸子ちゃんに立ちはだかる いくつもの課題は共倒れになる危険もあったでしょうね。

ともあれこのように褒めてあげるのも難しくて、稽古が進んできたらそれは認めてあげなければいけないけれども、褒め過ぎるのは禁物です。そこで ぬえは綸子ちゃんには反対にこれまで以上の稽古をしておくよう課題を出しておくことにしました。

で、ここで世阿弥の伝書の話題に戻ります。。(^_^;)

たとえば『申楽談儀』に、観阿弥が『自然居士』を舞った際 その芸に感心した義満が傍らにはべらせた稚児の世阿弥に向かって「お前は自分の芸で父の舌を巻かせようと考えてみても、このようなところは父の芸には叶わないな」と言った、という記事があります。

これは稚児時代の世阿弥が義満に寵愛されていた様子を活写して面白く、また資料の少ない観阿弥の芸を推測するためによく引用される記事なのですが、能楽師としての ぬえはこの記事から違ったことを読みとりますですね~~。

つまり、父の観阿弥がシテを舞っているのに世阿弥は楽屋におらず、足利将軍の所望で見所の座敷で将軍の傍らで舞台を見ているのです。観阿弥は世阿弥を出演させるか、少なくとも楽屋働きをさせたかったんではないかなあ。そりゃ見所で舞台を見るのは立派に稽古のひとつだし、こういう状況になったのであれば観阿弥は、将軍義満に見て頂くのと同時に、世阿弥に見せることで芸を伝えたい、という思いで舞ったことでしょう。

観阿弥は我が子の世阿弥が足利将軍に寵愛されたことを喜びながら、反面いつでもそのために堕落することを恐れていたはずです。世阿弥の美童の面影もいつかは去り、そして自分も大夫の立場を世阿弥に譲らなければならない時が来る。そのときに世阿弥の芸が下がっていたら、これはせっかく掴んだ栄光どころか家の存続にまで影響が及ぶ重大な事件になってしまう、と観阿弥は考えたに違いありません。だからこそ観阿弥は、将軍に愛されたために楽屋から連れ出されて「お客さん」となって舞台を見つめる世阿弥の立場には、つねに複雑な思いだったと思いますね。

結果的に世阿弥は将軍の寵愛に堕落することなく、かえって連歌や蹴鞠まで習得して、それをきちんと能に反映させて、貴人に賞翫される芸を目指しました。そしてこの記事では義満は観阿弥の芸を認めて世阿弥に注意を促したのですから、義満は優れた批評眼を持っていたうえ、世阿弥を溺愛して堕落させることもなかったことがわかります。この記事では義満はちゃんと世阿弥を観世座を継ぐ者として認識して扱っていて、義満は能にとって本当の意味で大恩人だと言うべきでしょうし、そのような正しく世阿弥を導いた義満と、慢心っせずに努力を惜しまなかった世阿弥の出会いこそが能にとって幸せな事件だったのです。

『嵐山』、売れ行きがよろしいです。。ムカつく~~っ(хх,)

2009-06-11 01:34:16 | 能楽
。。というわけで伊豆の ぬえの教え子、増田綸子ちゃんと チビぬえが子方として出演する研能会の『嵐山』ですが。じつは ぬえに対してお申込がた~くさん来ていまして。ぬえ自身のお弟子さんを除いても20枚くらいはお申込を頂いたかなあ。中には「綸子ちゃんが出演するのは今月でしたっけね~~」なんてメールもいくつか頂戴しておりまして。

正直言って複雑な思いです~。なんせ ぬえがシテを勤めている催しではないので~。(・_・、)
そうです。自分が勤める舞台でない催しのお申込を頂くことも稀なのに、それが大勢さまとなると。。

何と言っても驚いたのは、ぬえの親戚から数枚のお申込があったこと。(゜_゜;) こ。。これは。。チビぬえを見に来るのだな。。ちょ、ちょっと待て。先月 ぬえがシテを勤めた『殺生石・白頭』に対しては申込もな~~んにもなかったではないか。(__;) そ、その『殺生石』では、命がけと言っても過言でない「朽木倒レ」の型を勤めるのに、ぬえは恐怖と戦いながら稽古を積み、ついに生還したのではないか。(*_*) そ、それなのに~~ (~_~メ)

ぬえの教え子に対する期待はうれしいやら。。
それでもやっぱりムカつく~~っ (T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)(T-T)

で、今日は師家で『嵐山』のおシテの稽古にお付き合いしました。(゜_゜)b

子方は。。これから稽古能、申合、そして当日と三度に渡って学校を休まなければならないので、ぬえの判断で今日は稽古には参加させず学校に行かせましたが。

このとき先輩(←ぬえと同じく一代目の能楽師)に上記の話をしたら、返ってきた言葉が面白かった。

いわく「そんなもんだよ。ウチの親戚も子どもが出演するときだけチケット買ってくれるのに、自分がシテを舞う催しはずっと来てくれなかったよ。子どもはいつでもスター。でも、その舞台を見て、あ、能も面白いんだな、と思ってくれて、それから段々に自分の舞台も見に来てくれるようになったよ」

面白かったのは、そのあとに続いた先輩のこの言葉。

「だって、世阿弥時代からそうだったんだよ」。。ははあ、これは面白い見識ですね~。なるほど。

つまり、能が中世~近世の間ずっと武家の式楽でいられたその嚆矢は、例の京都・今熊野で催された能を見た足利義満が観阿弥・世阿弥父子を後援してくれたところからで、そのとき義満は観阿弥の芸にも感心したけれど、それ以上に当時まだ稚児だった(当時12歳)世阿弥の美貌に心奪われた、というのはあまりにも有名な話です。当時流行した稚児趣味とか男色といった話はこの際措いておくとして(←ぬえは持論として義満と世阿弥の関係はこういった下世話な話とはちょっと次元が異なると確信しています)、稚児時代の世阿弥の魅力がなければ、ぬえたちも今 舞台には立っていない可能性もあるわけで。

こういう考えに立って考えてみると、世阿弥の伝書を読むのにもこれまでとは違った視点も見えてきます。

綸子ちゃん、がんばってをりますっ(続々)

2009-06-10 01:06:44 | 能楽


それでも。稽古は厳しいだけではダメでして。

この週末に伊豆の国市で子どもたちの稽古をつけ、さらに夕方から夜に掛けて綸子ちゃんの稽古をつけた ぬえ(と チビぬえ)は、綸子ちゃんと、その同級生で去年の薪能で子ども創作能の主役の一人を勤めた 千早ちゃん、そしてそれぞれぞれのご家族と一緒にホタルを見に行きました~。(#^.^#)

伊豆の国市の韮山は、本当に史跡の多いところで、源頼朝が流罪になった(と伝えられる)蛭ヶ小島も韮山にありますし、頼朝を助けてともに挙兵し、ついには鎌倉幕府の執権となった北条氏の館跡も韮山の寺家というところにあります。さらに幕末、黒船の来航を機に、首都・江戸を防衛するために造られたお台場。。その砲台に据え付けられた大砲を鋳造したのが伊豆の代官だった江川太郎左右衛門で、その屋敷は「江川邸」としてやはり韮山に保存されてあって、国の重要文化財に指定されています。そして実際に大砲を鋳造した「反射炉」というものが、これまた韮山に建造当時のまま保存されているのです。

んで、その「韮山反射炉」のすぐそばを古川という小川が流れています。そこではこの時期、ホタルの群舞を見ることが出来るのですよね。もう10年伊豆に通っている ぬえは、そのこと自体は知っていたのですが、見に行ったことはありませんでした。いや、本当のことを言えば、これだけ通い慣れた土地ながら、ほとんど観光というものを ぬえはしたことがなかったのです。それはなんといっても高速道路の料金が高すぎて、これまでとても車で現地に向かう気が起きなかったから、というのが一番大きな理由でしょうね~。。ですからこれまでの ぬえはひたすら新幹線と伊豆箱根鉄道(駿豆線)を利用して伊豆に通っていました。そうなると、ほとんど伊豆の稽古場と東京を行き来するだけの、なんとも味気ない旅になってしまいます。それでも仕方がなく、ずうっと ぬえは電車利用。稽古で疲れた身で電車で爆睡するのもまた心地よく。。

ところが一昨年あたりから、チビぬえに伊豆の子どもたちの稽古を見学させたり、また稽古に参加させる必要が生じてきて、それで車を利用して伊豆に通うことが多くなってきました。伊豆での機動力を得た ぬえは、まあこれまで全く伊豆のことを知らなかったと思い知らされましたですね。上記のような史跡を見たのは伊豆に通い始めてようやく八年目から。。(^_^;) そこに降って湧いたような高速料金の値下げで、いまの ぬえは車ばかりを利用して伊豆に通っています。

いや~、見た見た。ようやく三島大社も見たし、柿田川湧水にも行った。伊豆の国市の葛城山のロープウェイにも乗ったし、古寺も見て廻りました。そうして今年はじめて、この反射炉のそばのホタルを見たのでした。

ここのホタルは天然野生なのだそうですが、へえ~~、こんなにたくさん飛んでいるものなんだ! もうずうっと以前、ぬえが『道成寺』を披いたあとに行った旅行で、山口市の、それこそ県庁のそばを流れる小川でホタルの群舞を見て驚いたけれども、それ以来の感動的な体験でした。ああ、伊豆はいいなあ。去年は当地で玉虫が飛んでいるのも見たし。伊豆の子どもたちには「ええ~~?? 東京の人はカブトムシを買うの?? 家の庭に普通にいるよ~?」ってバカにされるし。

ちょうど ぬえがホタルを見た日は当地でも「ホタルまつり」としてイベントを行っている日でしたが、さすがに子どもたちの稽古を終えてから参上した頃にはそれらもすべて終了した後。でも ぬえはコンサートやフリマを見に来たわけではないんで、静かにホタルを見ることができました。

だいたいホタルくんもイベントの日だけ光って、それでギャラをもらうわけじゃなし。(^◇^;) まだまだ今月の中旬まではホタルを見ることができるようですよ~。

綸子ちゃん、がんばってをりますっ(続)

2009-06-09 11:07:36 | 能楽

ただ。。正直に言って、いまの綸子ちゃんは去年の彼女とは違います。去年はがんばって薪能で見事に子方を勤め上げて栄冠を掴んだ綸子ちゃんだったけれど、薪能が終わった後しばらく稽古にもブランクができてしまったし、その間に綸子ちゃんも中学生になり生活も一変、勉強にも部活にも忙しくなってきて。

そのうえ前回の『嵐山』は薪能での上演では上演時間の制約もあり、眼目の「天女之舞」も少し短縮したのですが、今回は東京での定期公演での上演とあって省略や短縮は一切なし。去年覚えた舞の型にさらに大きな追加の型を覚えなければなりません。そんなこともあってか、今年になってようやく稽古を開始しましたが、ん~、なかなか軌道に乗らなかったというか。このブログで今年 綸子ちゃんの稽古の報告をしていないのは、そういう事情もあったりします。

いえ、結局綸子ちゃんは新たに加えられた型も覚えました。笛の唱歌もきちんと覚えて、チビぬえを連れての伊豆での稽古でも去年のようにうまくシンクロしています。この週末のお稽古では、舞台で起きる可能性があると考えられるかぎりのアクシデントの状況を再現して、その対処の仕方を教えるところまで進んできました。そういう意味では綸子ちゃんへの稽古も もう仕上げの段階にあります。

余談ですが、じつはこのアクシデントへの対処の稽古というのが子方の稽古ではとくに大切なのです。「もしも」長絹の露が天冠に引っかかって取れなくなったら。。後見が外すけれども、それができる場面は限られているから、それまでは無理に引っ張らずに片手が頭に上がったままで演技を続行する。そのつもりでの稽古もしておきなさい。「もしも」扇を落としたら。。自分で拾ってはならない。やはり後見が渡すけれども、これもタイミングの問題があるから、それまでは扇を持っている「つもり」で演技を続行する。これもやっておきなさい。「もしも」緊張のために次の型がわからなくなったら。。その時は隣で舞っている チビぬえをチラ見しなさい。でも顔を向けてはだめだよ。。「もしも」「もしも」。。それでも続行が絶対条件です。そして、「もしも」アクシデントが起こったり間違えたりしたら。。それでもともかく続行。そしてその事故なり失敗なりを引きずらない。その次の演技を万全にこなせば、とりあえずその場では、アクシデントはなかったことにしてもらえる。。

ぬえの要求は厳しいかもしれないけれど、それを乗り越えてもらえれば、当日は不安なくお役を勤められる。最後は笑顔で楽屋を後にしてもらえるように ぬえは心を配っています。そして綸子ちゃんの稽古とは別に チビぬえには「お前は絶対に間違ってはならない」と指導しています。それでも。。それでも、どんなに注意を払って、どんなに事前にシミュレートを重ねていても、意表を突くアクシデントってのは起きるものなのですけれども。。

こうして綸子ちゃんのお稽古は、まずまず形になってきましたが。それでもなお ぬえには不安が残っています。去年の、あの一生の晴れ舞台に臨んだ綸子ちゃんのテンションと今の彼女は少し違う。「あ、しまった」「あ、こうじゃなかった」。。稽古でもこういうことがまだ、そりゃ、ほんの時々ではありますが、起きたりしています。結局は稽古不足。。の一種。。と言ってしまうのは酷かもしれないけれど、能の舞台の本番は一度きりで、そこで起こる失敗は、消しがたい後悔となって自分に残る、ということが、もう一つ現実感となって彼女に迫っていないのかなあ。。

結局は「覚悟」なんです。どんな理由があっても舞台の上では言い訳できない。その覚悟があれば結果的に失敗に終わることはない。ただ、この「覚悟」だけは他人の心の中に醸成させるのは本当に難しいです。そりゃ、腕力を使えば簡単に植え付けることはできますけれども。。そしてもう一つは「責任感」。お客さまに対する責任。そして信頼されてお役を頂戴したことについての責任。信頼されて任されたことは ありがたいと思って成果を出すことでご恩返しをして喜んで頂かなければね。

ぬえは綸子ちゃんにはこういう、心の中に持っていなければならない必要な条件という面では全幅の信頼をおいています。それだけはハッキリ言っておきたいです。技術を伝えることでも、シミュレーションの稽古でも心残りはありません。ただ、伊豆を離れて東京の舞台に立つ喜びと、それから「恐ろしさ」は、伊豆での稽古では伝え切れていないかな、という思いも残ります。

今週から いよいよ綸子ちゃんは東京で稽古能、申合に臨むことになります。お囃子方や地謡も参加するこの場で、公演が実感となって感じられて おそらく綸子ちゃんは変わって、去年のあのテンションを取り戻すことでしょう。それまで自宅での稽古にも課題を出して、それを克服するよう言ってあります。ご家族にも協力をお願いしてあります。公演前日まではともかく稽古。このブログが公演の言い訳になってはならないですから、それまでは ぬえも全身全霊、綸子ちゃんをサポートしてあげたいと思います。

がんばれ~、そして、もっと がんばれ~!!

綸子ちゃん、がんばってをりますっ

2009-06-08 02:09:58 | 能楽

週末には立て続けに、小さな催しがありました。
まず金曜に チビぬえが通う小学校でデモンストレーションを行い、能『嵐山』のダイジェスト版を子どもたちに見せて、土曜日は伊豆に行って子どもたちの稽古。翌日の日曜には同じく伊豆で結婚式への出演がありました。仕事なんですが なんだか楽しい~~日々を過ごしております~

さて8月の終わりに伊豆で催される『狩野川能』で上演される「子ども創作能」の稽古ですが、今年は稽古のスタートが1ヶ月遅れたうえに、今年初演の新作を上演することとなりまして、この春は 空っぽの頭をなんとか働かして新作の台本を作るのに四苦八苦。。頭がオーバーヒート気味になったところに頭を縫うケガをしたり、先月には『殺生石・白頭』で「朽木倒レ」をしたり。もう ぬえの頭は使い物になりませ~ん (×_×;)

それでも子どもたちは感心に稽古に取り組んでいます。スケジュールが押していることもあって、今年は ぬえも最初から厳しい稽古にしていますが、いや、子どもたちはよく ぬえについて来ています。引っ込み思案な子がいて、「この子にこの役は。。どうかなあ。。」と思いながら役をつけた例も、正直に言えばあったのですが、いやいやなんの。その子が発奮して「こんなに大きな声が出るんだ。。」と驚かされることも。さらに言えば、今年はじめて参加した低学年の子がいて、低学年は立ち方ではなく地謡を担当してもらうことにしていたのですが、稽古を始めてみれば先輩よりも大きな声が出ていたり。あなどれないぞ。伊豆の子どもたち。

子どもたちの稽古を夕方に終えて、それから我らが綸子(りんず)ちゃんのお稽古。

綸子ちゃんは去年の当地での催しで ぬえが舞った『嵐山』の子方を チビぬえとともに勤めてもらったのですが、稽古でめきめき上達する綸子ちゃんの姿に ぬえは大きく考えを改めさせられました。

いや、最初はどうしてもできなくて、何度もダメ出しをくらわせた挙げ句に、稽古の付き添いに来ていたお母さんに「伊豆に稽古に行く日数が限られることは最初からわかっているから資料もたくさん揃えて送りましたし、納得づくでお役を引き受けたのではありませんか。ご家庭でも型を一緒に研究してちゃんとアドバイスをしてあげなければ、本人がつらい思いをする。それじゃかわいそうじゃないですか!」とまで 言い放った ぬえでした。綸子ちゃんもつらそうだった。でも、それから綸子ちゃんはがんばりました。

なんせ『嵐山』は子方二人が「天女之舞」を相舞する、という至難な曲で、いま思えばこの曲を選んだ ぬえも おやおや、ですが~。。でも それから綸子ちゃんは変わりました。謡も舞もしっかり覚えて来て。稽古が進んできて いよいよチビぬえも伊豆に同伴して稽古するようになると、それまでは東京と伊豆で、いわば遠隔操作で相舞の稽古をしていたわけですが、「ええ~? こんなに合っていいの~?」と思うくらい型がシンクロしています。稽古は型を「覚える」というところから「洗練させる」ところまで到達して、そうして昨年の『狩野川薪能』での『嵐山』は大成功に終わりました。言うなればアマチュアの小学生。でも伊豆で10年稽古していると、いつの間にか ぬえが過度の期待も寄せてしまうほど子どもの可能性は大きいです。そうして選んだ『嵐山』を ぬえの期待以上に実力で成果を返して来た子。この責任感をアマチュアだ、小学生だ、と本当に呼べるか? ぬえは彼女の頑張りに教えてもらったところが多分にあります。それが、大げさに言えば ぬえの能楽師としての幅を拡げてくれたと言えると思う。

この薪能の稽古の段階から状況を逐一 ぬえは師匠に報告しておりますが、そうしたらある晩、突然 師匠から ぬえにお電話を頂いて。「どうだ? 子方の稽古はよくできているか?」「はい、だいぶ進んでおります」「そうか。じつは来年東京での梅若研能会の月例会で門下の者に『嵐山』を勤めさせようと思っているのだが、せっかく稽古しているのなら、その伊豆の子と チビぬえくんを出演させてみないか」「!!。。ありがとうございます! 本人も喜ぶと思います!」「ではよろしく伝えておいてくれ」

。。思いもよらない展開でした。師匠はそこまで気に掛けて下さっておられたんですね。

そして、薪能が終わってからすでに9ヶ月が経ちました。綸子ちゃんも中学生になりました~。そうしてもういよいよ来週! 師匠の門下で ぬえの後輩がシテを勤める『嵐山』が上演され、綸子ちゃんとチビぬえは子方として東京の舞台に立ちます。ぬえはこの舞台では副後見として彼らを見守ることになります。彼らにとってもう稽古も仕上げの段階。これから1週間は、綸子ちゃんも学校を休んで東京に稽古や申合に通う日が増えてきます。

週末に チビぬえを同伴して伊豆で最後の稽古をしたのがトップの画像です。ああ~、がんばってね~~(・_・、)

国宝 阿修羅展に行って来ました

2009-06-03 09:56:05 | 日本文化
え?? 今ごろ?? と言わないで~~(・_・、)

いや、ホンに今ごろでして、なんせ展示開始前には ずいぶん長く展示しているんだなあ、と思っていた展覧会も今週末で終了なんですね~。ぬえのお弟子さんの中には「3回行きました~」という強者もおりました。。

さて ぬえが国立博物館に到着したのは午後4時過ぎ。それでも長蛇の列があって、ぬえは列に並んでから建物の中に入るまで、ちょうど1時間かかりました。これでも短い方らしい。

さて展示の全体の印象としては、こんなに展示品が少ないの? という感じかなあ。眼目の「阿修羅像」はほかの八部衆とは別格に展示されていましたが、まさしくここは芋洗い状態。今回の展示の特徴は「阿修羅像」を360°ぐるりと歩き回って見れる、ということでしたが、ああ、この押し合いへし合い状態の混雑に、
さぞ阿修羅くんも目の前で「おしくらまんじゅう押されて泣くな~~」。。と、はじめて見る異様な光景にとまどったことでしょう。阿修羅くん、いつの間にか おしくらまんじゅうに加わっていたりして。まだ子どもですから。。

で、展示品は少ないのですが、今回は八部衆のすべてが展示されているということで、それを楽しみにしていました。うう~~ん、これは迫力だ。ぬえは「カルラくん」がとっても気に入りました。

考えるのですが、ぬえは鎌倉時代の仏師の仕事が素晴らしいのは、島国である日本にとって西からやってきた仏教がこの地で行き場をなくして円熟していった結果だと思っていました。聖徳太子はがんばって仏教を国教にしましたが東漸はここで尽きて あとはドン詰まりの海が広がっているだけ。。そういう位置関係にある日本人の仏教に対しての感情が、ほかに行き場をなくしてギリギリの緊張状態を生み出したのではないか。さらに仏教は平安時代に熟成が進み、そのあとの平安末期からの末法の世の中に向かって必死に仏の救済を願うことになって。。だから鎌倉期の仏師の仕事は素晴らしいことが多いのかなあ、と思っていました。生命かかってますから。。

でも、仏教が伝来して間もない天平時代に、すでに八部衆のイメージを勝手に解釈しなおして再構築し、独自のこういう像を造る力を、日本人は持っていたんですね~。

それと、この八部衆が不比等の娘が父に先立たれ、その後母を亡くしたときに、その母を追善供養するために造ったのだ、という成立事情をはじめて知りました。なるほど像の繊細で美しい表現はまさに女性的。仏教が女性の、つまり尼僧が中心になって発展してきたのだったら、これは現在とはまったく違って面白い展開になっていたでしょうね~