ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第23次支援活動<気仙沼市>(その6)…「星と能楽の夕べ」公演

2014-09-24 23:24:40 | 能楽の心と癒しプロジェクト
二人の若者を気仙沼を案内していると寺井さんから到着の知らせも来たので、鹿折の復幸マルシェで二人とはお別れして寺井さんを迎えに行き、その後緑さんのお宅にお迎えに行くと、緑さんはすでに外出中で途中で拾ってほしい、とのことでお嬢さんの梨紗ちゃんだけをとりあえず車に乗せ、やがて緑さんも拾って本日の公演会場である気仙沼中央公民館へ。

前日に職員さんと打ち合わせた通り上演会場をエレベーターに近い部屋に変更したのですが、おかげでいろいろな問題が一気にクリアになりました。まずは機材のセッティングをしたり椅子を並べたり。。梨紗ちゃんも受付や舞台進行のお手伝いをしてくれます。そうこうしているうちに、やはり前日 杉浦恵一さんにお願いした機材オペレーターさんが到着しました。。と思ったら、キミか!!

そう、彼は前日 杉浦さんのシェア・オフィス「co-ba KESENNUMA」で出会ったスタッフさんでした。南町の紫市場商店街で売っていた「ごろごろイチゴのかき氷」の評判を教えてくれた人で、伊藤誠さんといいます。どうも横浜の人らしいので、杉浦さん同様に気仙沼の支援に来て、そのまま住み続けているボランティアさんかな。

伊藤さんは音響機材にも詳しく。。あとで聞けば音楽もやっておられたとか。。プロジェクトの技術担当の寺井さんとともに どんどん機材の結線を進めて行きます。やがてピアノの村上典子さんとフルートの浩乃ちゃんも到着、楽器のセッティングも始まり、ぬえも装束の準備に取りかかります。

おおそれそれ、寺井さんが伊藤さんの写真を撮っていました。こちらリハーサル前のひととき。すいません冷房費ケチったので控室以外は暑い中での作業を強いてしまいました。



こっちは能『石橋』の装束を ぬえが自分ひとりで着られるように仕掛けを施しているところ。身長が ぬえとほとんど一緒の伊藤さんにモデルになって頂きました~



この「星と能楽の夕べ」公演はPCやDVDに録画した星空の映像をプロジェクターで投影して、その前で音楽の演奏や能を楽しんで頂く、という企画で、すでに石巻で1度、気仙沼ではこれが2度目の上演になります。もともとのアイデアは能楽評論家でもあり、天文にも造詣の深い 幽玄堂さんがプラネタリウムで能を上演する企画として始めたもので、彼女が大崎市のプラネタリウムでの上演の企画を ぬえたちプロジェクトにご紹介頂き、震災の翌年の冬に上演が実現しました。

このときもピアニストの山本実樹子さんをお迎えして音楽と能のロマンチックな上演としたのですが、音楽を入れるのは誰のアイデアだったかなあ? その後 ぬえがこのアイデアを発展させまして、プラネタリウムのない被災地(宮城県でプラネタリウムの設備を持つのは仙台と大崎だけなんです)に擬似的なプラネタリウムを出現させて、音楽と能を楽しんで頂く公演として上演を続けております。

大崎でも石巻でも、そして前回の気仙沼での公演も、すべて発案者の幽玄堂さんに天文解説者としてボランティア出演して頂きましたが、今回はどうしても日程が合わず。。そしてピアニストも、石巻や気仙沼ではやはりピアノ演奏で被災地支援を続けておられる御子柴聖子さんにお願いしていましたが、その後いろいろな出会いがあって、今回はフルートの浩乃ちゃんをメインに、ピアニストは地元・志津川出身で涌谷町在住の村上典子さんにお願いすることとなりました。

プロジェクトでは仮設住宅や仮設商店街の応援の一方、「文化の復興」という目標を持っております。これは震災被害を受けた街の一般の市民を対象に、震災以前の普通の生活。。芸術文化を気軽に楽しめる気風を興すことを目指す活動で、ほかにも音楽と能の上演を行ったりしておりますが、この「星と能楽の夕べ」はその目標に向けた活動の中核となっています。

ぬえがPCでオープニングの映像を作ったり、星空の映像や音楽をネットで探し出して提供をお願いしたり。。準備段階で相当な労力が必要な催しなのでありますが、出来上がった舞台の美しさは素晴らしいものだと自負しております。能は神秘的に演じるのは得意だけれど、ロマンチック。。となると意外に難しい。そこで毎回音楽の演奏とのコラボを考えるのですが、星空の下でロマンチックでもあり神秘的でもある上演をするのは ぬえにとっても楽しみでもあります。今回ははじめてフルートを入れての上演でしたが、これまたピアノだけの演奏と違う魅力があって、この公演の雰囲気とよく合っていると思います。やはり息を使って鳴らす楽器だからかも。





この日は実際に夕暮れになる時刻を見計らって18:00の開演としました。。が、あいにくの雨。。しかもお盆の中日ということもあって。。ちょっとお客さんが少なかったのが残念ではありました。リアスアーク美術館のときは100名さまを超えていたのですが~。

でも内容は充実していたと思います! 能は『羽衣』と『石橋』の2番で、着替えが間に合うのか心配したのですが、伊藤さんの体型に合わせて仕掛けた装束も ぬえの身体にうまくフィットしました~





『羽衣』を舞っているとき、女の子とお母さんの二人連れのお客さまが最前列にいらしていることに気づいて、その女の子に向かって扇を出す型をしたり、『石橋』のときにもその席のそばまで行って印象づけようとしていたのですが。。あとで聞けばその女の子、ぬえが扇を出すと受け取ろうとしたのだとか。とっても可愛かったですよ~、と聞きました。ああ、それだけでも上演した甲斐がありましたね~。

やがて終演となり、大急ぎで片づけ、車に装束や機材を積み込んで。。例によってホテル観洋でお風呂に入ってから宿に帰りました。仙台からわざわざ駆けつけてくださった料理研究家の浅野ゆかさんが作ってくれた。。途方もない量のご馳走を頂いて。。食べきれない。。コンビニ弁当でなきゃ受け付けない身体に。。いつの間にか。。(うそ)

最後になりましたが、星空の映像を提供してくださったStarDust☆彡さまとPhotoGalleryNorthさま、彗星の画像を提供頂いたサザンクロス☆スターウォッチングツアーさま、オープニング映像のための音楽を提供頂いた秋山裕和さまには改めまして厚く御礼申しあげます。

とくにStarDust☆彡さまは。。震災で南三陸町在住のお身内を亡くされたそうで。。そのせいか ぬえのお願いに大変親身になってご協力頂き、なんとこの日の上演のために新たにご自身が撮り貯められた映像を編集して提供くださいました! おかげで素晴らしい映像をお客さまにご覧頂くことができました。心より御礼申しあげます!

→StarDust☆彡さまのブログ「Starry Sky~星空への誘い~」でご紹介頂きました!

第23次支援活動<気仙沼市>(その5)…気仙沼めぐり

2014-09-18 10:18:50 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月15日(金)】

朝、起床すると伊藤クンと山川クンを連れて家主の佐々木さんのお宅にご挨拶に伺いました。

佐々木さん。。5月に煙雲館で『松風』を勤めた際も村上緑さんとともに後見の大役を果たされた方で、器用な方と見た(笑)。今回はそのご縁もあって離れを宿舎として拝借させて頂くことになったのですが、思わぬ珍客が増えて困惑されたことでしょう。。

ところがご挨拶に参上すると、佐々木さんは笑顔で迎えてくださり。。あまつさえご主人は二人の若者を裏山の方へ案内して、気仙沼の街を見下ろせる高台から「あそこまで波が来たんだよ」「震災後はうちもいろんなボランティアさんを泊めてあげたりねえ」と懇切丁寧に震災の時の状況を教えてくださいました。

うん! これは良かったです! 本州最北端を目指す旅の途中とはいえ被災地をこの目で見よう、と思い立った若者たち。でも実際には知人もいない状態では震災の体験を聞く機会はそれほど多いとはいえません。ぬえも最初はそうでしたもの。。偶然にも「亀の湯」さんで ぬえと出会った彼らはラッキーでしたし、佐々木さんのご厚意があって、彼らは震災当時の現実を知り、山口県の友人に伝えてくれることでしょう。

さて裏山から下りてきた ぬえたちは、途中でなんとニホンカモシカに遭遇!!!



ぬえも間近で見たのは初めて。。すぐに佐々木さんのご主人が「近づいちゃいけないよ!」と注意の声を飛ばします。「天然記念物なんだけど。。こっちじゃ迷惑している人もあるんだ」。。だそうです。

ん~。以前石巻の牡鹿半島では鹿が道を横切るのを見てびっくり。。このときも石巻の市街に帰ってきてその話をしたら、「ああ、あそこじゃ見ない方が少ないくらいですね。食害があったり大変なんですよ」と言われたし。気仙沼では真冬に白鳥を見て またまたびっくり。この時も気仙沼の人は「朝とか、鳴き声がうるさいんですよ」。石巻の山奥にある追分温泉では湯上がりに縁側で涼んでいたらタヌキが目の前を。。 やっぱり自然が豊かですが、さすがに目の前のニホンカモシカには驚きました。

さてこれにて佐々木さんのお宅を辞して、二人を連れて気仙沼の被災地区を案内しました。彼らは仙台から先は鉄路を使って青森県を目指しているのですけれども、実際には鉄道やBRTは被災地区を通りません。たとえば壊滅した南気仙沼駅周辺には今は人家も商店もないので、BRTの南気仙沼駅は市内に路線を変えて運行しているのです。だから実際に被災した地区を見てもらうには、やはり車での移動が欠かせませんね。

まずは旧南気仙沼駅からずっと先。。海産物工場が建ち並んでいた半島状の工業地帯の先端まで行きましたが、もう見せるものはなにもない。。と思いきや、まだ取り壊しにならない民家もほんの少数残っていました。それから彼らは再建された工場の陰に取り残された自動車を発見! へえ、まだこんなところに残されていたんだ。。これは ぬえも知りませんでした。

内湾地区に戻って、中を見れる被災建物ということで伊藤雄一郎さんがいる「WINE BAR風の広場」へ。声を掛けながら店内に入ったのですが雄一郎さんの姿はなく。。奥の部屋に行ってみると、ニャンコのハナちゃんを抱っこしながら まだお休みでした。あ~寝込みを襲っちゃった。

寝起きでまだ意識のはっきりしない雄一郎さんは措いといて、ハナちゃんと遊ぶ伊藤クンです。このへんからやっと写真を撮りだしたので、これまで文字ばっかりでごめんなさい。



こちら「風の広場」の前。手前を歩くのが山川クンです。



次に鹿折マルシェを訪ねようと思って車を進めると、五十鈴神社が建つ神明崎の周囲をぐるりと廻る遊歩道が通行可能になっていました。震災前は「浮見堂」という、昭和初期に建てられた小さな東屋があって、恵比寿像があったそうです。震災後はずっと立入禁止になっていましたが、ついに整備されたのか。

が、遊歩道を行ってみると、手すりもなにもなく、浮見堂は取り壊されたままになっていました。さらに先に進むと。。やはり途中から先は通行止めのまま。神明崎を遊歩道を使ってひと廻りできるのはまだ先のようですね。ただこの遊歩道から五十鈴神社に上がる石段は通行止が解除されていました。







このあと、ちょっと足を伸ばして安波山に上って市街を見下ろし、それから鹿折復幸マルシェへ。

マルシェは周囲のかさ上げ工事が進んで移転を余儀なくされ、この8月に500mほど市街に寄った地点に移転することになっています(現時点で10月5日に「鹿折復幸マート」としてグランドオープンが決定しました!)。

そのマルシェの最後の大きなイベントとして、この日ここでデコトラが集合することになっているはずですが。。ををっ、すでにデコトラは大集合しておりました!





このイベント、2年前に一度行われたのですが、これが夜には一斉にイルミネーションを輝かせるのですって! あいにく ぬえは同じ時間に中央公民館で催しをするので、その勇姿を見ることはできないのですが。。

小野寺商店の由美子さんにも二人を紹介し、鹿折工房でお話しも伺って、さて寺井さんも到着したとの知らせを受けたので、ここにて二人とは別れて、上演準備のため中央公民館に向かうこととしました。

。。ちなみに彼ら、その後無事に本州最北端の大間崎までたどり着いたそうです。それから仙台~横浜と戻り、山口県在住の伊藤クンは自宅に帰って行きました。車で被災地区をめぐる間にも、車から降りるたび、乗るたび「ありがとうございます!」と丁寧に挨拶を言った彼ら。被災地区を見、気仙沼の住民さんとのふれあいもできた彼ら、次には駆け足でなく、ピンポイントでじっくりと被災地を訪れてみたい、と言っておりました。





気仙沼のみなさん、ありがとう!

第23次支援活動<気仙沼市>(その4)…伊藤クンと山川クン

2014-09-17 10:36:45 | 能楽の心と癒しプロジェクト
この二人の若者、伊藤俊介クンと山川幸宏クンと言います(←本人から実名許可もらってます)。

聞けば、なんと山口県出身の二人(!)。同郷の二人ですが就職などその後は別の道を歩み、山川クンは現在 横浜在住なんですって。今回の旅は本州最北端の地を目指すのが目的らしく、その途次に被災地を訪ねようと思い立ったようです。

今も山口県に住む伊藤クンは、今回飛行機で横浜に向かい、山川クンと一緒に車で仙台に移動、そこからは電車利用で青森を目指しているのだそう。交通機関の選択が ややイミフな気もしますが、東北のみなさんとの触れあいを期待し、また「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道に乗りたい、という気持ちもあって このような交通手段になったのですって。そうして宿泊は、宿がみつからなければテントで、という気ままな旅なのだそう。

ここまでを聞き出して宿舎に到着して、まだ夕食を摂っていないという彼らに、前夜に活動計画を立てたお店を紹介してあげて。そうして彼らが戻る前に、今回の宿舎を提供してくださった佐々木さんに連絡を取って彼らの同宿の是非をお伺いし、佐々木さんも快くOKを出してくださり、さて食事から帰った彼らと飲みながら、彼らの思いや ぬえが行ってきた活動、それから被災した各地で ぬえが見聞きしたことや、防潮堤問題など いま被災地が抱えている問題について話し込みました。

彼らは観光で訪れたことを少し申し訳なく思っていたようでしたが、もちろんそんな事を気にする必要はありません。震災3ヶ月後に被災地を訪れた ぬえも被災した建物の写真を撮ることに ずいぶん躊躇したものでしたが、その日のうちに住民さんから「ああ、どんどん写真を撮ってください。そうして東京に帰ってから現状を伝えてほしい」と言われたものです。

そりゃ、3年前とは事情が違うし、あの時のような。。被災地のために何かしなきゃ。。と居ても立ってもいられない気分で、取る物もとりあえず駆けつけた、という切実さとはまた違う気持ちの彼らなのですけれども、東北からは遠く離れた山口県の二人が被災地を自分の目で見たい、という気持ちをもって気仙沼を訪れたのです。彼らの旅の目的は本州最北端に到達する、という事ではありましたけれども、仙台から先はわざわざ鉄路を選んで被災地を巡るという気持ちは、やはり志なのだと思います。

ぬえは、彼らの中に3年前の自分の姿を見ました。

とくに先を急ぐ旅ではない彼らと、ぬえも翌日は気仙沼中央公民館での催しの楽屋入りが午後の予定だったので、それでは翌日は ぬえが車で気仙沼の被災地域を案内することにしました。

それにしても何て礼儀正しい若者たちなんでしょう! じつは。。ぬえ、被災地の銭湯で出会った若者を自分たちの宿に泊めてあげたのはこれが2回目なのです。1回目は震災の年の大晦日だったと思いますが、石巻での出来事でした。

その日の活動を終えた ぬえと笛の寺井さんは 例によって石巻のスーパー銭湯「元気の湯」に行きました。その大浴場の中で ぬえに「あの。。地元の方ですか?」と声を掛けてきた若者3人のグループがあったのです。

聞けば埼玉県からやって来た大学生の彼らは、車でこの数日間、被災地を巡っているのだそう。被災地のために何かできる事はないか、と考えて、冬休みを利用してこの地までやって来たのでした。寒い時期でしたので使い捨てカイロを200個持参してきたが、渡す相手がなく困っている、とのこと。

それならば、と石巻の住民ボランティア団体の「明友館」を紹介することにして、湯上がりに携帯電話の番号など控えて、翌朝に ぬえから明友館にお話しを繋いでおくことにしました。

さて宿舎に帰ってから よく考えると。。あれ? 彼らはどこに泊まるのだろう。。ホテルならばこの時間にスーパー銭湯に入浴に来ている訳がない。。

まさか、と思って携帯電話で連絡を取ってみると。。案の定彼らは車中泊をするのだそうです。この寒空に。。3人で1台の車の中で眠るなんて。。

ぬえたちは正月休み中のボランティア団体の事務所を宿舎として拝借させて頂いていたので、どうしようか しばらく悩んだのですが、結局彼らを宿舎に招くことにしました。う~んこれはちょっと問題ではあります。ぬえたちもボラ団体のご厚意で宿舎を拝借しているので、これでは無断での「又貸し」。。がしかし、窮屈な車中泊のために明日以降起きるかもしれない問題を予想すれば、これは致し方のないところ、という判断をしました。

さて彼らを宿舎に招いた ぬえは最初に厳しく宣言。もう深夜に近い時間だったので、もしも騒いだりしたら夜中でも容赦なく追い出すよ、と。。相手は学生でもあり、貸し主に無断の行為でもあり、一応厳しく取り決めをしておきました。

。。が、それも不要だった。彼らは至って礼儀正しく、やはり深夜まで被災地の今後について話し合ったりして。。就寝時には彼ら、「ああ。。やっと足を伸ばして眠れる」なんて言ってました。もう数日間、彼らは車の中で寝起きしていたのです。

よほど疲れていたのか、翌日彼らは昼頃までずっと眠り込んでいましたが、起床してからは宿舎を拝借する条件となっていた暖房のための灯油を買いに行く作業をしてもらったり、宿舎の掃除をやらせたり。ぬえも明友館に連絡して彼らの受け入れをして頂き、いろいろ教えてあげてください、とお願いしてお別れしました。あとで明友館に聞いたところ、彼らの持参した大量の使い捨てカイロは住民さんに喜ばれ、あっという間に配り終えたのだそうです。

翌日の活動では宿舎を提供してくれたボラ団体との橋渡しをしてくださった住民ボランティアさんに昨夜の経緯を説明しましたが、事後承諾にもかかわらず快くお許しを頂きました。このときは昨夜学生さんたちに厳しい宣言をしたのを少し後悔しましたね。

このときの経験があったから、今回の ぬえは安心して伊藤クンと山川クンを泊めてあげたのですが、今回の二人は学生ではなく社会人であったし、その礼儀正しさは立派なものでした。いやホント。

第23次支援活動<気仙沼市>(その3)…亀の湯での出会い

2014-09-15 03:35:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼の銭湯「亀の湯」さんにはもう長いことお世話になっております。ぬえたちは活動の際の宿舎として安いホテルを使うこともあるのですが、それは かなり待遇の良いときで、ボランティア事務所に寝泊まりさせて頂いたり、被災家屋を拝借したりする事も多く、そんなときはまずお風呂がついている可能性は皆無ですね。その場合は銭湯を利用するのですが、活動終了が遅い時間であったり、そもそも震災で銭湯も被災して営業していなかったり、という事も多いです。

実際、石巻では「鶴の湯」という銭湯がボランティアの努力によって震災の翌年に営業再開したのですが、なぜか開店休業状態で、週に2~3日しか開いておらず、結局 ぬえが「鶴の湯」の湯船につかることは一度もありませんでした。代わりに深夜まで営業している大街道のスーパー銭湯「元気の湯」をもっぱら利用しておりました。

気仙沼でも活動終了~後片づけ~夕食という流れで動いていると どうしても宿に帰るのが遅くなり、いきおい深夜近くまで営業しているホテルの「日帰り湯」を利用することが多くなります。スーパー銭湯にしろホテルの「日帰り湯」にせよ、ネックは入浴料が高額なことですね~。どうしても800円前後の金額になってしまい、それが滞在中毎日となると。。なんか、活動中に一番お金を使うのは…プロジェクトの活動費は募金によってまかなわれているので、食事や入浴は自費負担を鉄則としておりますのですが…意外や食費ではなく入浴のために使うお金だったりします。食事は、これはいつも驚かれるのですが、もっぱらコンビニ弁当ですね。これが三食という事も多いです。宿舎に炊事設備がなかったり、設備はあっても活動が早朝起床出発だったりするので炊事から食器洗いまでするのは無理なことも多いので。。三陸のおいしいものを食べたい気持ちはあるし、そういう贅沢な食生活をしていると思われがちではありますが、実際の活動のスケジュールを考えると、活動~食事~風呂~睡眠だけで一日が終わる、という感じです。

そんな中、気仙沼の銭湯「亀の湯」さんだけは 抜きん出て利用頻度が高いです。なぜだろう。NHKのドキュメンタリー番組で取り上げられて、震災前には漁師さんたちが長い航海から帰ってくると、まずは「亀の湯」さんでひとっ風呂浴びてから歓楽街に繰り出して行った、とか、彼らが預けた「○○丸」とマジックで書かれたマイ洗面器がズラリと並んでいたとか、被災してから営業再開にこぎ着けるまでに苦労の連続だったとか、こういう事をテレビを通じて ぬえが知っていたのは事実で、それが気になって? いや、そうではありません。やはり「亀の湯」の女将さんの人柄でしょうね。初めて ぬえが「亀の湯」さんにお邪魔したのは震災の翌年の夏で、そのときは宿舎にお風呂はついていたのですが、入浴の順番待ちが時間の無駄だったので、ぬえは太鼓の大川典良さんとともに「亀の湯」に出かけたのでした。そのとき女将さんが ぬえに掛けてくれた親しいお言葉がご縁の始まりかな。大川さんには「。。お親しいようですが。。何度も来てらっしゃるのですか?」と尋ねられて、いえ、初めてです。。とか答えたっけ。

この日、ぬえは一人で「亀の湯」さんにつかりに行きました。閉店は夜8:30ということは知っていたのですが、それに間に合うかなりギリギリな時間。。これに遅れれば、またしてもホテルで高額なお風呂に入ることに。。という時間でした。「すいません! 遅くに」と言いながら暖簾をくぐった ぬえでしたが、女将さんもご主人も、相変わらず明るく出迎えてくださって。。

料金を支払って、さて脱衣所に行くと、若い二人の先客が入浴しているのが見えました。ぬえもカラスの行水なので入浴は早いのですが、この若者二人は ぬえが入浴しているうちにお風呂場から出て行って、ぬえは何だか初めて「亀の湯」さんを独占して。。ちょっと泳ぎました~

さて ぬえも湯から上がって着替えていると、なにやら入口の方で談笑する声が聞こえます。閉店時間も近いのに、相変わらず人の声が絶えないなあ、と思いながら ぬえも脱衣所から出てみると、さきほどの若者が女将さんやご主人も交えて、いろいろと相談のご様子。これには加わらずに ぬえは履き物を履いて外へ出ようとしたのですが。。

ここで聞くとはなしに会話を聞いてみると、どうもこの若者二人は これから陸前高田を目指して行くつもりだそうで、BRTの乗り場や時間を聞いているらしい。これから陸前高田へ? 夜9時近いのに?

そこでようやく ぬえが声を掛けて事情を聞いてみました。。案の定、若者たちはこれから陸前高田に行って、今夜はそこに泊まるつもりなのだそう。この時間にBRTに乗って陸前高田に行っても、徒歩で行ける宿なんてあったかしらん? そう思って宿について尋ねると、持参したテントで眠るつもりなのだとか。

ふうむ、これは放っておけない。

では、とりあえず ぬえの車でBRTの駅まで送ってあげようか? と提案してみました。
二人の若者は喜んでくれて何度も ぬえに礼を言いましたが、その前に、まだ夕食を食べていないそうで、近くの仮設商店街で食事をしたいのだそう。まずはそこまで車に乗せて頂けますか? と。

とりあえず承諾して車で送ることにして「亀の湯」さんから出た ぬえと若者の都合三人ですが。。ううむ。ここから近い復興商店街というと「気仙沼横丁」だと思うけれど、そこまで送っても、またBRTの乗り場とは違う場所だし。。そもそも これから食事をして、まだBRTの終電に間に合うのか??

そこで ぬえも考えまして、それじゃ ぬえの宿舎に泊まる? と提案しました。

ちょうど ぬえも今夜は一人だけで泊まることになっていたので、うまい具合に話し相手が見つかったと思ったのも事実。でもそれだけじゃない理由が ぬえの側にもあったのです。

第23次支援活動<気仙沼市>(その2)…ごろごろイチゴのかき氷

2014-09-10 09:52:45 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月14日(木)】

この日は朝から気仙沼市役所に行き、活動の助成金などについてお話しを伺いました。いろいろな助成金があるのねえ。プロジェクトとしても本当は本格的な能楽公演をめざしているのですが、なかなか資金面ではウニャムニャ。。なもので。。企業とかまわって寄付金お願いした方がよいのかなあ。

市役所では担当の方がそれは親身に応対してくださったのですが、聞けば震災ボランティア出身の方なのだそうです。こういう人、たくさんおられますね。女川町では震災直後に一人で手伝いにやって来て、半年テントで暮らして。。現在は町の職員となり、地元の女性と結婚されて仮設住宅にお住まいの方とか。。公務員でなくても被災地に住所を移していろいろなプロジェクトを起こしたりお店を開いたり、という方は本当に多いと思います。

そのうえ気仙沼市役所には翌日のプロジェクトの公演「星と能楽の夕べ」のポスターが掲示してありました! あう~申し訳ないです~~

資料を頂いて市役所を後にして、次はその「星と能楽の夕べ」公演の会場である気仙沼中央公民館の下見に。

会場の申込みの前に下見には来ている ぬえでしたが、今日はフルートの浩乃ちゃんが同行してくれているので、事前に会場を見てもらう必要もありましたし、また ぬえ自身もいざ公演を組み立てる段階になって、会場の設備や造作、広さなど記憶がおぼろな部分もあって、確認の作業が必要だったのです。

ああ、ここでも職員さんが本当に親身になって相談に乗ってくださいまして、ぬえの計画を申しあげたところ、なんと一部使用させて頂く部屋を変更した方が良いのでは、というアドバイスまで頂きました。この下見で会場の壁や窓の位置などを確認して、クリアしなければならない問題をたくさん発見したのですが、職員さんの提案によって部屋を変えることで一挙に解決! そのうえ書類の訂正はこちらでやっておきますから大丈夫ですよ、とのお言葉まで! なんで皆さん、そんなに優しいの~? (・_・、)

さてせっかく中央公民館まで来たので、新装なった「海の市」を見に行きました。

ここは震災前には「気仙沼リアスシャークミュージアム」と呼んでいたと思います。併設して「氷の水族館」というものがありました。漁港ならではの面白いもので、水揚げされた魚を製氷技術で氷詰めにして展示してある水族館。。でも ぬえは見たことがないのです。震災前に学校公演で気仙沼を訪れたときに、これは見に行かねば! とは思ったのですがスケジュール的に無理でして。。

「氷の水族館」の展示内容はこちらに詳しいです。

→ playful Wanderer「気仙沼:氷の水族館 リアスシャークミュージアム」

現在は装いも新たに「海の市」となり、建物の外観のイメージカラーも以前の青から赤に変わりました。「リアスアーク美術館」と間違えやすい名称の「リアスシャークミュージアム」も館内に再開しましたのでそこも見学。鮫の専門の博物館なのですが、やはり震災の被害とそれからの復興の歩みを展示するコーナーや映像の上演もありました。「氷の水族館」はさすがにありませんでしたが、いずれ再開する、というようなウワサも耳にはしました。

村上朋子さん、高橋和江さんのお店に顔を出して挨拶や軽い打合せをして、お昼ご飯を食べて、やがて浩乃ちゃんは翌日の公演のためにピアニストの村上典子さんと練習するためにBRTバスに乗って志津川に向かいました。

ぬえもやはり公演の準備に。。今回の公演には問題が少々残されていましたが、一番の問題は機材オペレーターが必要だ、ということでした。この問題をクリアするために いろいろと考えていたのですが。。やはり外注しかないだろう、と、この日ようやく決断するに至りました。そこでオペレーターを気仙沼で現地調達することに決めて、「ともしびプロジェクト」の杉浦恵一さんを頼りにすることに。そこで彼が立ち上げたシェア・オフィス「co-ba KESENNUMA」へ。

あいにく杉浦さんは不在でしたが、被災店舗を改装した「co-ba KESENNUMA」や、おとなりの「ともしび工房」を初めて訪れることができました。また奥さんの美里さんに会い、気仙沼のヤンママさんのためにプロジェクトを始める、というお話しを聞くことができたのもよかったと思います。「co-ba KESENNUMA」は南町にあるので紫市場の仮設商店街はすぐとなり。杉浦さんが帰って来るのを待つ間に ちょいとひやかしで覗いてみると。。ををっ、なにやら豪華なかき氷を売っている模様。お値段400円ですって。う~ん、どうしようかなあ、と「co-ba KESENNUMA」に戻ってスタッフさんにその話をしてみると、なんとそのかき氷、B級グルメだかの大会でグランプリを勝ち取ったのですって!

ををっ、そうなのか、とすぐに緑さんと かき氷食べました~。うん、さすがに美味い!

かき氷と、優勝したという大会は。。これかっ!

→ 気仙沼復興商店街 南町紫市場「ごろごろイチゴのかき氷」販売決定☆

→ NPO AMDA復興支援 第7回『 復興グルメ F-1大会』in陸前高田市 開催報告


かき氷の情報をくれたスタッフさんは、その後プロジェクトの活動に協力頂くことになりますが、この時はそういう展開になるとは思いもよらず。。(^_^;)

そのうち別のスタッフさんが杉浦さんと電話で連絡を取り、じつは体調が悪く自宅で休んでいる、ということだったので、予定を変更して杉浦さんのご自宅へ。

杉浦さん、なんでも数日前まで高熱が続いていたのが、その後もずっと微熱に悩まされているのですって。体調悪いところ申し訳なかったのですが、翌日に迫った「星と能楽の夕べ」公演にはどうしても機材オペレーターが不可欠で、その人材の応援をお願いしました。安い金額ではありましたが謝礼は用意させて頂くことにしましたが、プロジェクトとして出演者以外のスタッフさんを雇ったのはこれが初めてですね~。杉浦さんからも心当たりを尋ねてみましょう、と心強いお答えを頂いて、この日は失礼しました。

ここで緑さんをご自宅に送って、さて ぬえは独りぼっち。夕食は例によってコンビニ弁当で済ませ、ああいけない、もうこんな時間か、という事で気仙沼の銭湯「亀の湯」さんに向かいました。

ここでまた新たな出会いが。

第23次支援活動<気仙沼市>(その1)

2014-09-05 18:31:35 | 能楽の心と癒しプロジェクト
すっかり秋めいて参りましたが、半月ほど前のお盆の頃、ぬえら「能楽の心と癒やしプロジェクト」では第23次となる東日本大震災被災地支援活動を行って参りました。
行き先は最近入りびたり気味の気仙沼市。。(^_^;)

しかしながら内容は大変に充実していました。久しぶりの「星と能楽の夕べ」公演を行ったり、仮設住宅の慰問活動、そして こちらもおなじみになりました地福寺さんの「送り火の集い」に再び参加させて頂いたり。。それから年末年始の活動にもお手伝い頂いたフルート奏者の内野浩乃ちゃんにも再び参加頂いたこと、そのお相手としてのピアニストには宮城県・涌谷にお住まいの村上典子さんにご協力をお願いできたこと。。滞在中にも 被災地を見にやって来た 見ず知らずの若者を宿舎に泊めてあげたり。。なんだか いろんな事があった活動でしたが、印象的な活動であったと思います。

前回の活動では活動資金の枯渇に直面して有料のワークショップを中心に活動を行いましたが、その甲斐あって本年中の活動を継続できる見通しが立ち、今回はようやくプロジェクトの本来の主旨である仮設住宅での活動も、それからプロジェクトの独自の目標たる「文化の復興」へ向けての活動も、どちらも成就できたことが まずもって満足でありました。それでは活動報告の始まり~

【8月13日(水)】

朝、ぬえの自宅最寄り駅にてフルート奏者の浩乃ちゃんと待ち合わせ。そのまま東北道をひた走り仙台へ。

気仙沼市民でプロジェクトの協力者。。というより、すでに現地事務所か、現地コーディネーターのようになっている村上緑さんをここにてピックアップ。。が、じつはこの数日前より緑さんと音信不通になっていまして。。 ちょっと慌てましたが どうも緑さんの携帯が壊れたらしく、ようやくこの前日に連絡が取れて待ち合わせの場所と時間を決めることができました。

気仙沼に行く場合、通常なら東北道を一関まで一気に北上して、そこより東に1時間半かけて市内に至るのが普通ですが、仙台でいったん高速を降りてしまうと、どうもまた東北道に乗るのも煩わしく、また内陸を走る東北道で一関に行ってから気仙沼に向かうのはちょっと遠回りなので、2時間を掛けて三陸道~海岸線の国道45号線を通って行くのと時間のうえでは大差なく、こちらの道を使うことが多くなりました。

国道45号線を使うのは、それが被災各地を縫いながら進む道だからでもある。。震災から3年5か月、ぬえは震災の3か月後から当地に通っているので ちょうど3年を超えたばかり、という事になりますが、各地が復興に向けて変わっていく有様を。。私たちは「定点観測」なんて言っておりますが、そうやって見守っていく事も大切な活動と思うからでもあります。



そうして まずたどり着いた南三陸町・志津川の「防災対策庁舎」。もう骨組みばかりになってしまっていますが、いまはなき気仙沼の第十八共徳丸などと同様、震災遺構として保存するか解体するか、両論が入り乱れて議論は混迷を極めました。結局 南三陸町長が取り壊しを決定したのですが、昨年 国が震災遺構を保存するための支援を打ち出したため再び議論の対象となり、現在は有識者会議で保存すべき遺構の選定が行われて、その結果が出るまで結論は持ち越しになっているそうです。

一方では震災遺構が観光地化している印象もあり。。震災の記憶の風化とともに考えるべき問題はたくさん残されていますね。

志津川の防災庁舎といえば、大津波が襲うまで町民に避難を呼び掛け、自身は犠牲となった 職員の遠藤未希さんのエピソードが有名ですね。実際にその呼び掛けの放送を聞いて避難したため難を逃れた人々も多く、未希さんの放送は「天使の声」と呼ばれています。

→ 防災庁舎 遠藤未希さんの悲劇

そうしてご両親が未希さんの遺志を語り継ぐために、民宿「未希の家」を始めることになった。。というのは去年のニュースだったと思いますが、オープンはこの夏だったようです。

→ 民宿「未希の家」が来週のオープン

→ 南三陸町観光協会 


志津川漁港に面する堤防の「汚すまい この海 この浜 この港!!」のキャッチフレーズ。港へ通じる道路も立派に舗装されていました。



こちらは2011年8月の光景です。海を守ろう、という呼び掛けが書かれた堤防が破壊されている姿に衝撃を受けたものでしたが。。



こちらは気仙沼市に入った本吉地区の小泉海岸です。ここも何回通ったことか。震災前にすでに廃墟となってしまっていたかつてのアミューズメントパークが、それでも以前は陸地にあった建物が、いまは海の波に洗われています。この日はちょっと雲が多かったね。



こちらは階上地区の杉ノ下の漁港近くにある小島。引き潮のときには島に渡る洲が現れるそうで、それを聞いてから渡るのを楽しみにしているのですが。。この日は波が荒れていてダメでした。



同じく杉ノ下地区に建てられた慰霊碑。この地区では震災によって100名近い人々が犠牲になりました。このこと自体はすでに聞いていたのですが、先日NHKのドキュメンタリー番組で経緯が紹介されていました。市の防災対策でもこの場所は津波にも冠水しない場所として避難場所として指定されていたのが、今回の震災による大津波はその想定を遙かに超えてしまい、結果として多くの犠牲を出してしまった場所です。。
番組では担当者の苦悩も描かれていました。



こうして夕方前に気仙沼市に到着しました。まずは今回の宿を提供してくださる佐々木優子さんのお宅にご挨拶。佐々木さんのお宅では「倉庫」と呼んでいる離れを今回拝借することになったのですが、二階建てでそれぞれ和室が設えられた、なかなかどうして倉庫とは言えない立派なおうちでした。

荷物をまずは宿舎に下ろし、それから気仙沼大島の花火を見に行くことに。

じつは今回は大島の「浦の花火」に二度目の出演をすることを当初計画していたのですが、種々の事情もあってそれは叶いませんでした。そうなってしまうと日程は花火大会に合うのだけれど、大島にフェリーで渡ってしまうと泊まる場所に困る。。というわけで、今回は気仙沼の本土から海を隔てて花火を見ることにしました。

こちらは松岩地区の漁港です。ここから海を隔てて大島までは数百メートルという距離でしょうか。花火が打ち上げられる大島の浦の浜まで、となると1kmくらいかと思いますが、思いの外に花火はよく見えました!



思えば震災の翌年の夏に大島の浦の浜の花火大会に出演しました。当時はイベントなどはまったくなくて、会場にはテントの下の露店がようやく1つか2つある程度でした。そこで。。大きな水たまりもある壊れた舗装道路で「羽衣」を舞ったのですが、遠く離れているはずの大島の集落からどうやって集まったのか。。路上は多くの住民さんが集まり、そうして大変興味を持ってご覧頂いたのでした。

あれから2年。。今回大島に渡れないのは当方の事情もありますが、花火大会に付属するイベントも増えてきたため、必ずしもすべての団体が出演できるわけではない、とも言われて断念しました。この日聞こえてくる大島のアナウンスによれば やはりずいぶん盛り上がっていろいろな上演や演奏が行われているようでした。

やがて宿に帰り、近所の飲み屋さんで作戦会議を開いてから就寝しました。