「龍女」と「泥眼」このまったく相反する相貌を持った二つの面を使う選択肢を持つ能『海士』。このシテの人格像はどう考えたらよいのでしょうか。
『海士』の典拠とされている『讃州志度寺縁起』の有名な「海女の玉取り伝説」はおおよそ能の海士の物語と同じ内容ながら、さらに海人の死後人々が龍女の再誕であったと噂したこと、宝珠を奪い返された龍王が猿沢の池に移り住んで興福寺に収まった玉の守護神となることを誓ったこと、十三歳になった房前が二十六歳の行基を伴って房前の浦に到り法華八講を営んだことが見えます。
一方、『海士』の後シテが物語る法華経の『提婆達多品』に見える「変成男子」の話では、文殊菩薩が海中で法華経を説き、その教下を受けた娑竭羅龍王の八歳の娘が釈迦に宝珠を捧げるとたちまち男子に変成し、成仏を遂げて南方無垢世界に到った旨が説かれます。
【注】仏教の世界にさえはびこる「男尊女卑」の代表例として知られる「変成男子」の説話ですが、じつはそれは誤解で、生まれながらに女性は「五障」を持ち、成仏できない、とされている、という疑問が出されたとき、文殊はそれに反論して、娑竭羅龍王の八歳の娘が成仏した事を語り、さらに龍女自身がそれを体現して見せる、というのが『提婆達多品』の物語です。「変成」した龍女がなぜ「男子」になるのか、という点はさておき、少なくともこの場面の主旨は、女性であるばかりでなく、その身はまだ幼く、そのうえ人間ではない畜生の類である龍女でさえも、固い信仰の力によって成仏できる、という点だと考えるべきでしょうね。
注意すべきは、『海士』の典拠となるこの二種の物語では、いずれも宝珠を中心にして起こった事件のために龍が仏教の守護者に変成する、という点でしょう。能『海士』の作者がこの点に影響を受けて、作品の中に投影させたのが後シテの姿なのではないか、と ぬえは考えています。宝珠=仏の教化そのものと単純化して考えることができるのならば、これに帰依した龍女は仏弟子なのであり、言うなれば菩薩の造形が後シテに投射されているのではなかろうか。
そして、その菩薩としての造形を「龍女」という人格に持たせたところがこの能の後シテの複雑な性格を増幅させています。「龍」であることに焦点が定まれば「龍女」の面がふさわしいだろうし、また「菩薩」としての性格にスポットが当てられれば、これは『当麻』のように本来「増」の面を使うべきでしょう。ところが「増」では「龍」としての後シテの性格をまったく消去してしまうことになりかねない。そこで「増」の代用として、「増」よりもさらに超人的な相貌が求められた結果が「泥眼」の使用なのではないでしょうか。
「宝珠」を狙って、それを運ぶ船を襲う龍。しかし宝珠の守護神ともなり、変成男子して成仏をも遂げる、という、相反する性格を持つ龍。でも、そもそも宝珠を惜しむその心が仏への敬虔な祈りを内包しているのですし、本来自分の身の中に輝く仏性を秘めている、とも言えるわけで。『海士』の後シテの造形には、いろいろな解釈が可能であるようです。古い能であるにもかかわらず、まだまだ未消化な問題をたくさん含んでいる、とも言える。ぬえも世阿弥が『海士』に持ち込んだ、とされる犬王の「天女之舞」の事とか、『当麻』との関連性など、いろいろ調べてみたい事はあるのだけれど。。今回はそこまでは到達できそうにありません。。これは今後の宿題とさせて頂きたい、と思います。
次回からは少し視点を変えて、『海士』と、興福寺と藤原氏との関係について考えてみたいと思います。
『海士』の典拠とされている『讃州志度寺縁起』の有名な「海女の玉取り伝説」はおおよそ能の海士の物語と同じ内容ながら、さらに海人の死後人々が龍女の再誕であったと噂したこと、宝珠を奪い返された龍王が猿沢の池に移り住んで興福寺に収まった玉の守護神となることを誓ったこと、十三歳になった房前が二十六歳の行基を伴って房前の浦に到り法華八講を営んだことが見えます。
一方、『海士』の後シテが物語る法華経の『提婆達多品』に見える「変成男子」の話では、文殊菩薩が海中で法華経を説き、その教下を受けた娑竭羅龍王の八歳の娘が釈迦に宝珠を捧げるとたちまち男子に変成し、成仏を遂げて南方無垢世界に到った旨が説かれます。
【注】仏教の世界にさえはびこる「男尊女卑」の代表例として知られる「変成男子」の説話ですが、じつはそれは誤解で、生まれながらに女性は「五障」を持ち、成仏できない、とされている、という疑問が出されたとき、文殊はそれに反論して、娑竭羅龍王の八歳の娘が成仏した事を語り、さらに龍女自身がそれを体現して見せる、というのが『提婆達多品』の物語です。「変成」した龍女がなぜ「男子」になるのか、という点はさておき、少なくともこの場面の主旨は、女性であるばかりでなく、その身はまだ幼く、そのうえ人間ではない畜生の類である龍女でさえも、固い信仰の力によって成仏できる、という点だと考えるべきでしょうね。
注意すべきは、『海士』の典拠となるこの二種の物語では、いずれも宝珠を中心にして起こった事件のために龍が仏教の守護者に変成する、という点でしょう。能『海士』の作者がこの点に影響を受けて、作品の中に投影させたのが後シテの姿なのではないか、と ぬえは考えています。宝珠=仏の教化そのものと単純化して考えることができるのならば、これに帰依した龍女は仏弟子なのであり、言うなれば菩薩の造形が後シテに投射されているのではなかろうか。
そして、その菩薩としての造形を「龍女」という人格に持たせたところがこの能の後シテの複雑な性格を増幅させています。「龍」であることに焦点が定まれば「龍女」の面がふさわしいだろうし、また「菩薩」としての性格にスポットが当てられれば、これは『当麻』のように本来「増」の面を使うべきでしょう。ところが「増」では「龍」としての後シテの性格をまったく消去してしまうことになりかねない。そこで「増」の代用として、「増」よりもさらに超人的な相貌が求められた結果が「泥眼」の使用なのではないでしょうか。
「宝珠」を狙って、それを運ぶ船を襲う龍。しかし宝珠の守護神ともなり、変成男子して成仏をも遂げる、という、相反する性格を持つ龍。でも、そもそも宝珠を惜しむその心が仏への敬虔な祈りを内包しているのですし、本来自分の身の中に輝く仏性を秘めている、とも言えるわけで。『海士』の後シテの造形には、いろいろな解釈が可能であるようです。古い能であるにもかかわらず、まだまだ未消化な問題をたくさん含んでいる、とも言える。ぬえも世阿弥が『海士』に持ち込んだ、とされる犬王の「天女之舞」の事とか、『当麻』との関連性など、いろいろ調べてみたい事はあるのだけれど。。今回はそこまでは到達できそうにありません。。これは今後の宿題とさせて頂きたい、と思います。
次回からは少し視点を変えて、『海士』と、興福寺と藤原氏との関係について考えてみたいと思います。