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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能『海士』について(その7)

2006-10-30 22:10:09 | 能楽
「龍女」と「泥眼」このまったく相反する相貌を持った二つの面を使う選択肢を持つ能『海士』。このシテの人格像はどう考えたらよいのでしょうか。

『海士』の典拠とされている『讃州志度寺縁起』の有名な「海女の玉取り伝説」はおおよそ能の海士の物語と同じ内容ながら、さらに海人の死後人々が龍女の再誕であったと噂したこと、宝珠を奪い返された龍王が猿沢の池に移り住んで興福寺に収まった玉の守護神となることを誓ったこと、十三歳になった房前が二十六歳の行基を伴って房前の浦に到り法華八講を営んだことが見えます。

一方、『海士』の後シテが物語る法華経の『提婆達多品』に見える「変成男子」の話では、文殊菩薩が海中で法華経を説き、その教下を受けた娑竭羅龍王の八歳の娘が釈迦に宝珠を捧げるとたちまち男子に変成し、成仏を遂げて南方無垢世界に到った旨が説かれます。

【注】仏教の世界にさえはびこる「男尊女卑」の代表例として知られる「変成男子」の説話ですが、じつはそれは誤解で、生まれながらに女性は「五障」を持ち、成仏できない、とされている、という疑問が出されたとき、文殊はそれに反論して、娑竭羅龍王の八歳の娘が成仏した事を語り、さらに龍女自身がそれを体現して見せる、というのが『提婆達多品』の物語です。「変成」した龍女がなぜ「男子」になるのか、という点はさておき、少なくともこの場面の主旨は、女性であるばかりでなく、その身はまだ幼く、そのうえ人間ではない畜生の類である龍女でさえも、固い信仰の力によって成仏できる、という点だと考えるべきでしょうね。

注意すべきは、『海士』の典拠となるこの二種の物語では、いずれも宝珠を中心にして起こった事件のために龍が仏教の守護者に変成する、という点でしょう。能『海士』の作者がこの点に影響を受けて、作品の中に投影させたのが後シテの姿なのではないか、と ぬえは考えています。宝珠=仏の教化そのものと単純化して考えることができるのならば、これに帰依した龍女は仏弟子なのであり、言うなれば菩薩の造形が後シテに投射されているのではなかろうか。

そして、その菩薩としての造形を「龍女」という人格に持たせたところがこの能の後シテの複雑な性格を増幅させています。「龍」であることに焦点が定まれば「龍女」の面がふさわしいだろうし、また「菩薩」としての性格にスポットが当てられれば、これは『当麻』のように本来「増」の面を使うべきでしょう。ところが「増」では「龍」としての後シテの性格をまったく消去してしまうことになりかねない。そこで「増」の代用として、「増」よりもさらに超人的な相貌が求められた結果が「泥眼」の使用なのではないでしょうか。

「宝珠」を狙って、それを運ぶ船を襲う龍。しかし宝珠の守護神ともなり、変成男子して成仏をも遂げる、という、相反する性格を持つ龍。でも、そもそも宝珠を惜しむその心が仏への敬虔な祈りを内包しているのですし、本来自分の身の中に輝く仏性を秘めている、とも言えるわけで。『海士』の後シテの造形には、いろいろな解釈が可能であるようです。古い能であるにもかかわらず、まだまだ未消化な問題をたくさん含んでいる、とも言える。ぬえも世阿弥が『海士』に持ち込んだ、とされる犬王の「天女之舞」の事とか、『当麻』との関連性など、いろいろ調べてみたい事はあるのだけれど。。今回はそこまでは到達できそうにありません。。これは今後の宿題とさせて頂きたい、と思います。

次回からは少し視点を変えて、『海士』と、興福寺と藤原氏との関係について考えてみたいと思います。
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能『海士』について(その6)

2006-10-27 12:53:48 | 能楽
9)シテ(前後とも)の使用する面が甚だ流動的。これまた『海士』を特徴づけている点でしょう。前シテでは面は「深井」を使うのが普通で、それ以外は少なくとも ぬえは拝見した事がありません。ところが大成版謡本の前付でも、また師家の型付けでも前シテの使用面は「深井または近江女」とされているのです。

「深井」の替として「近江女」を使うのはかなり異質な感じですが、これまた調べてみると、じつはこれは類例がないわけではなく、『山姥』『富士太鼓』『雲雀山』『安達原』などが同じ例に挙げられます。これらの曲目を見ると、いずれもシテの性格に微妙な陰影がある役だなあ、と思いました。「近江女」というのは年齢不詳の面で、本来『道成寺』に使う面なので紅入なのでしょうが、無紅にしてもなんだか似合ってしまうところがありますね。ついでながら「深井」の無紅に対して紅入、つまり「増」や「若女」の替として「近江女」を使う選択肢がある曲、となると『殺生石』『紅葉狩』などがそれに当たります。ああ、こりゃいかにも。。ですね。

で、問題は後シテが使用する面で、謡本の前付や師家の型付の何れもが「泥眼」となっています。ところが古い型付には「龍女」と「泥眼」がおおよそ同じ比率で指定されていて、また一部の型付には「橋姫にも」とされ、現代でも宝生流だけはこれに従っておられるようです。ここで ぬえが「龍女」に拘泥したいのは、ぬえの師家の名物面として古作の「龍女」が所蔵されているからで、これはなんと氷見作と伝えられているおそろしく古い面です。また師家にはこの「龍女」がもう一面ありまして、それは伝・氷見作の「龍女」を、これまたかなり古い時代に写した面なのです。なんだかまあ。。

ぬえの師匠は何度か『海士』を伝・氷見の「龍女」で舞っておられますし、今年の正月にNHKで放送された ぬえの師匠の『春日龍神・龍女之舞』では後場にツレの龍女が二人登場し、この時はぜいたくにも師家所蔵のこの「龍女」二面をツレが着用していました。(画像をお見せしたいのですが。。二次使用の問題があるので断念しました。師家の所蔵面集『能面手鑑』に写真が掲載されていますので、よろしければ図書館ででもご覧ください。。)

「龍女」という面は『海士』の専用面で、ほかの曲に使う事はできないほど、女龍にふさわしい相貌の面です。しかし、この面は本当に現存する作例が少なく、おそらく「橋姫」を使う、という記事が古い型付に散見されるのも、比較的伝わっている作品が多い「橋姫」という面が「龍女」に似ている事から、「龍女」の代用として使われたのでしょう。

ところで上記のように、古い型付でも「龍女」と「泥眼」は「どちらを使ってもよい」というような記事が多く、その選択は演者に任されているようです。これほど違った相貌の面を選ぶ事は、この曲をどのように舞うのか、という演者の解釈そのものに直接に関係する問題でしょう。そしてもう一つの疑問。。泥眼が『海士』の後シテにふさわしい面なのか? とは、みなさんが感じられる疑問ではないかと思います。

「泥眼」という面は、ことに『葵上』の前シテで使われるのが有名なので、どうしても怨霊の面に見えてしまいます。また他の曲での使用例も『鉄輪』の前シテや『砧』『定家』の後シテなど、やはり怨霊か、もしくは妄執の束縛にとらわれた女性の役として使われていて、『海士』は「泥眼」の使用例としてはまことに特殊だと言わねばなりません。こう見てくると「泥眼」は、やはり「橋姫」同様、「龍女」の作例が少ないゆえにその代用として流用されたのでしょうか。

おそらく、ぬえはこの『海士』という曲が、もっと広い可能性をを含んだ能なのではないかと考えています。そもそもなぜ『海士』という曲が世阿弥時代からありながら、専用面と考えられる「龍女」の作例が少ないのか? 古い型付の「龍女または泥眼」という使用面の指定の流動性が、それを物語っているように思えます。
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能『海士』について(その5)

2006-10-26 02:31:15 | 能楽
8)後シテの登場の場面でシテ本人より先に地謡が謡い出す、ということについて。あまりにも特異な登場のしかたをする『海士』の後シテ。通常の「出端」の囃子に乗って橋掛リに現れた後シテは、経巻を左手に捧げ持っています。そして。。一之松まで到ったときに、シテはおもむろに正面に向く。ここでシテが謡い出すならば他にもいくらでも例があり、またぬえの師家では観世家よりも後シテは舞台に入らず一之松で謡い出す事が多いのですが、『海士』ではここでシテが謡うのではなくて、地謡が「寂寞無人声」とシテの姿に向けて謡い掛け、シテはそれを聞きながらすぐさま舞台に入り、シテ柱でヒラキ、ここでようやく後シテの謡「あら有難の御弔ひやな」と謡い出すのです。

この、あまりに特異な『海士』の後シテの登場が、他の曲にも類例があるのか調べてみました。結果はやはり類例はなく、『海士』一番に限った演出のようです。ところが調べてみると、後シテが登場してすぐに謡い出さない曲というのは意外に多いことも分かってきて、これまた興味を引かれました。『海士』とは関係ないけれど、これらを試みに分類してみましたのでご覧ください~

Ⅰ後シテ以外の役が先に謡い出す曲

A)登場したシテを見たワキやツレなどが、シテが謡い出すより先に言葉を発する曲
 『昭君』(ツレ)『通盛』『鵺』(ワキ)

B)シテが他の役と一緒に登場し、かつシテが従の立場であるために他の役が先に謡い出す曲
 『草子洗小町』(ツレ)『鳥追舟』(ワキツレ<またはワキ>

C)他の役とともに登場し、かつシテは従の立場ではないが、他の役が先に謡い出す曲
 『正尊』『烏帽子折』『忠信』(立衆)『通小町』『錦木』『船橋』『錦戸』(ツレ)

D)ほかの役の謡のうちに後シテが登場する曲
 『葵上』(ワキ)

E)シテは目立たぬように登場し、その後他の役が登場して謡い出す曲
 『舎利』

Ⅱ後シテよりも先に地謡が謡い出す曲

F)シテが地謡のうちに登場する曲
 『絵馬』『雷電』『鷺』『飛雲』『室君』『梅枝』

G)同上。ただしシテが作物から現れる曲
 『道成寺』『土蜘蛛』『紅葉狩』『大社』『羅生門』『龍虎』『白鬚』『逆矛』『輪蔵』

H)登場した後シテを地謡が描写する曲
 『石橋』『竹生島』『江口』『小鍛冶』『猩々』『嵐山』『谷行』『望月』『吉野天人』『春日龍神』『西王母』『大瓶猩々』『現在七面』『和布刈』

上記の分類の中で『海士』の後シテの登場の演出にもっとも近いのはF)でしょうか。。でも『海士』の後シテは地謡のうちに登場する訳ではない。演出としてもっとも近いのは むしろA)で、しかしながら後シテが登場した時に地謡が謡い出す、という点に注目すればその意味は H)と同じでしょう。

しかし地謡が謡うのが、「寂寞無人声」という、一句として考えるにも憚られるほどの短い謡である事にもまた注意すべきでしょう。これは誰が言った言葉なのか。。?

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能『海士』について(その4)

2006-10-25 02:08:22 | 能楽
地謡が心理描写をしない。。いや、そこまで言明するつもりはないのですが、ほかの能と比べて『海士』の地謡は、少なくともシテの心理描写という意味での比重は必ずしも高くないかもしれない。たとえばシテの心情を最も良く描いている地謡の箇所というのはクセの部分だと思いますが、なんと言うかな。。描写が「薄い」と思うのです。これと比べれば玉之段のあとでシテが謡う「クドキ」の方が、内容そのものは説明的だけれども、宝珠を取り返した海女の最期を描いてよほど効果的なのではなかろうか。

これは『海士』の詞章が稚拙、だという意味ではなくて、この曲の地謡はおそらく徹底的に「叙事」を担うように作者によって計画されているのではないでしょうか。ぬえは、原初の能の姿を知っているわけではないのだけれど、こういう点からなんとなく『海士』という能に“古作”の匂いを感じます。

4)の「定型を備えた上歌がない」というのも、5)のクセが「片クセ」というのも、3)の「初同が次第」という点と同じく、この曲が能の脚本が定型の順列に整備される以前の、もっと自由な発想の下で作られた能なのではないか、という ぬえの印象を強めます。『海士』が古作の能であるとして、そのような古い曲も時代を経るに従って、定型の枠の中にはめ込もうとする役者の要求があったのか、いくつかの曲では後世に改変される場合もあるのですが。。たとえば『盛久』でシテが登場する場面がシテ方の流儀によって大きく違う、などはその典型でしょう。しかし『海士』にはそのような痕跡はあまり感じられません。地謡が叙事を担当し、役者が ある程度までにせよ叙情を担当するのは他の能とは大きく異なっている『海士』の特徴だと思います。『海士』が古作であったとしても、それを受け止め、受け入れるだけの完成度がすでにこの曲にはあって、改変を許さなかったのかも知れません。

6)「打切」があるべき箇所に「刻返」が多用されている。これは7)の、囃子がアシライから打切になるべき箇所にまで徹底して「ヲトシ」が多用される、という点とも密接に関係しています。「打切があるべき箇所」というのが当たっている表現かどうかわかりませんが、『海士』という曲には謡の区切りに打たれる囃子の手が通常の「打切」のほかに、それよりは半分の長さの手である「刻返」が2度もあります。2度では多いとは言えないと思われるでしょうが、刻返自体が珍しい手で、これが打たれる曲は稀なのです。調査はしていないけれど、2度も刻返がある曲は『海士』のほかにはないかもしれません。ちなみにその刻返が打たれる箇所は、前シテが登場して謡う「下歌」の初句「刈らでも運ぶ濱川の」のあと、返シの前と(このところ、下歌に返シがある事も珍しい、といえば珍しい。)、中入の直前、シテの「海士人の幽霊よ」と地謡「この筆の跡をご覧じて」の間です。

とくに後者のところは、シテの謡も「これこそ御身の母」までを拍子に合わせずに謡って、「海士人の幽霊よ」から拍子に合い、さらに刻返のあと地謡が謡い出す間も通常とは違って「半声」という間で「この筆の跡をご覧じて」と謡い出します。謡い出す間が難しいためか、古来、わざわざこのところは「此筆之出」(このふでので)と名称がつけられています。要するに「“此の筆”と地謡が謡い出すときの特殊な謡い方」という意味なのでしょう。しかもこの「此筆之出」は謡本では小書として扱われていますが、じつはわざわざこの小書(?)を明記していなくても『海士』が上演される時には必ずこの間で謡われているのです。「此筆之出」は有名無実な小書名で、このような例はほかの曲にも時折あります。

いずれにせよ『海士』には、打切があるべき箇所にそれを省く傾向があるように思います。能の冒頭、子方を先立ててワキ一行が登場する場面でワキが謡うサシの部分、ここは後半を子方が受け継いで長いサシを謡うのですが、その終わり「追善をも為さばやと思ひ候」は、本来は打切となってワキの下歌「習はぬ旅に奈良坂や」と続くべきところでしょう。ここは子方が打切の手に合わせて謡い留めることが難しいので、便宜上、囃子方が見計らってトメの手を打つ事ができる「ヲトシ」とされているとも考えられますが、前シテが登場した場面、シテのサシの終わりの「何を海松藻刈らうよ」のところや、前述の中入前のシテ謡「海士人の幽霊よ」のところなど、打切の手を打ってあらためて次の小段を謡い出せば構成上はよりカッチリと定型に合うような箇所にまで、ヲトシが用いられています。しかもそのどちらの例も、シテの拍子に合わない謡と、拍子に合う小段との境界にヲトシが用いられている事は注目すべきかもしれません。定型としての「サシ」を意図的に除外しているかのよう。

地謡が叙事を担当し、能の定型たる上歌やサシからも自由である、というのは、この曲の性格を端的に表しているよう。古作の匂いが濃厚なこの曲は、能が定型、すなわちある種の儀式性を獲得して作品の神秘性を増す事に成功する以前の、演劇としての現実的な舞台効果を最優先に構成されていながら、卓抜した手腕で緻密に計算して作られ、成功を収めた能であったために、その古格を保ち得たのかも知れません。これだけ破格な能でありながら、構成上にはなんら破綻がない。なんと言うか、この曲が作者の冷徹な目で作られた事を示唆しているように思います。
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能『海士』について(その3)

2006-10-22 17:10:28 | 能楽
1)の「前シテは一セイ~サシ~下歌を謡うが上歌がない」という点については、『井筒』などのようなかなりカッチリした構成で作られている本三番目物や『葵上』のような位を持った曲では登場した前シテが 次第(または一声・二ノ句)~(次第)~サシ~下歌~上歌まで謡うことがあるのですが、むしろそれらは例外で、ほとんどの能では何かしらの部分を欠いている場合の方が多いのです。その意味では『海士』という曲の特殊性を言うには当たらない例なのですが、後述のようにこの曲ではあちらこちらで、ほかのほとんどの曲には普通に見られる様式が欠けている部分があるので、ここも一応考えに入れておくことにしました。

2)の「シテとワキの掛合いの謡」というのは、通常では 主に前シテとワキが問答を重ねているうちに、その会話が「セリフ」から節のついた「歌」に変化してゆく事をさします。たとえば『羽衣』ならば「この御言葉を聞くよりも~」というワキの文句以下が「歌」による問答に変わる部分で、囃子もこういう箇所からアシライを打ち始めて、地謡が初同を謡い始める直前の「せんかたも」までで「ヲトシ」と呼ばれる一時停止の手を打って、あらためて地謡が謡うのに合わせて打ち始めることになります。

ついでながら、このような会話部分に節がつけられた部分を「カカル」と呼んでいます。ここは声楽というよりは、会話が【次第に】音楽性を帯びてゆく、と ぬえは捉えております。囃子が多くの場合ここから打ち始めるのも、能全体がこの部分から次第に音楽的な要素を増してくるのだと考えられます。このブログには謡のお稽古をされておられる方も多いと思いますが、お弟子さんに稽古をしていますと、この感覚が理解しにくいようですね。どうしても謡本を見ると、カカルのところからはゴマが目に付きますから、それまで詞で会話を続けてきたのに、ここからイキナリ「謡」になってしまう、というか、不自然に会話の印象がガラッと変わってしまうような謡い方をされる方が多いように思います。もちろんここから節になるのですが、上記のように会話が【次第に】音楽化してゆく、と考えれば、ここで不自然に音階を意識した謡い方になるのは不利で、これを防ぐためには、上音など指定された音階で謡い出す事にあまりこだわり過ぎずに、それまでワキと交わしてきた会話の「詞に節をつける」ように心がけるとうまく謡えるのではないかと思います。

ワンポイントレッスンはともかく、(^^;) 『海士』にはこういう「カカル」の部分が一箇所もありません。いや、謡本には何カ所か「カカル」と指定されている箇所もあるのですが、それはただ一句だけだったり、子方の長い謡の「カカル」二箇所は会話とはいえず、むしろ「サシ」に近いものです。純粋に会話が声楽によって組み立てられている「カカル」の部分となると、この曲には一箇所もないのです。これはかなり異質な印象を受けます。上記のように、このような構成の場合、詞によるやりとりだけで会話が進行すると囃子も打ち出しにくいようで、この曲では前シテとワキとが問答を始めてから後の部分でアシライがあるのは「玉之段」の前だけ。ここもシテの長い独白は詞だけで作曲されているのですが、さすがに激しい場面から始まる「玉之段」の前には囃子方もある程度気分を高潮させておく必要があるのでしょう。ちょっと無理な箇所から(シテの「子細あらじと領状し給ふ」、また囃子の流儀によりその次句「さては我が子ゆえに捨てん命」からにも)囃子のアシライが始まる事になっていたりしています。

3)「初同が「次第」である」。。これは。。ほかに例があるかなあ? なんだか地謡の存在意義全体を問い直すかのような、奇抜な構成でしょう。地謡は能にとっては非常に重要な役で、大先輩もしばしば「地謡は能の中でシテの次か、場合によってはシテよりも重要」というような発言をされるのを ぬえも直接伺った事が何度もありますし、そこまで ぬえには断定できなくても、少なくとも地謡の役割は情景の描写というよりは、もっとシテの内面というか感情を直接的に描くものだと思います。

考えてみれば、上記のような会話が最高潮に達したときに、その会話を引き継いで、シテの心情を完全に音楽として地謡が描く事が多いですし、その意味では、これは役であるシテが謡うよりも客観性という面で地謡が謡う方が有利でしょう。それが理由か、シテが自分の心情を吐露するのは、登場の際のサシや上歌を除けば、あとは「クドキ」「語リ」など、ごく限られた部分であるようにも見えます。地謡とくらべてシテとしての役者に要求されるのは、はまさにそこにいる姿のその風情とか、もっと視覚的な面、あるいは身体から発散されるオーラのようなものが強いのではないか、とさえ考えられる。

ところどころ、地謡が描写を進めていくその中でシテがひと言謡う部分があるのも、なんというか、心情描写にひと役買っているというよりは、地謡が長文を謡い進めていく中で、シテと地謡がそれぞれ演出意図をお互いに確認しあう、という意味があって、また一方では謡の位を調整するための確認ポイントでもあるのではないか、と ぬえは考えています。

このようにシテの心情を描写するのが地謡の主要な使命であるとすれば、『海士』の初同(はじめて地謡が謡う場面)がたった三句の地次第だ、というのはどういう事なのでしょうか。
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能『海士』について(その2)

2006-10-21 01:22:32 | 能楽
『海士』という曲がどのようにほかの能と異なる点があるのか? いや、それを説明するのならば、ほかの能と『海士』とが似ている点を探す方がはるかに近道かもしれません。子方とワキの登場の場面、そして前シテの登場の場面を除けば、それほどこの曲の構成は破格に満ちあふれた能なのです。以下、それを列挙してみると。。

1)前シテは「一声」の囃子で登場し、一セイ~サシ~下歌を謡うが上歌がない。
2)シテとワキの掛合いの謡(=カカル)が一箇所もない。
3)初同が「次第」である。
4)きちんと定型を備えた「上歌」というものがない。
5)クセが「片クセ」
6)「打切」があるべき箇所に「刻返」が多用されている。
7)囃子がアシライから打切になるべき箇所にまで徹底して「ヲトシ」が多用される。
8)後シテの登場の場面でシテ本人より先に地謡が謡い出す。
9)シテ(前後とも)の使用する面が甚だ流動的。
10)舞への掛かり方が独特。
11)キリの詞章が極端に定型からはずれる。

このような、ほかの能からは例外になってしまうような特長も、ひとつ一つについて考えればほかの曲の中にも例はいくつか見いだすことができます。ところがこれだけ「例外」が揃ってしまうと。。この曲は、当初は能として作られたのかしらん? という疑問まで浮かび出てしまう。。なにか他の芸能にあった曲が能に移植されたとか、またはこのような宗教性の強い曲の場合は、作品の本説となる強力なもの~寺社縁起とか唱導とか~があって、能として形づくられた際にも極端にその影響力が及ぼされたとか。。

後述しますが、この能はやはり純然として能として作られたようで、とくに他の芸能から翻訳された曲ではなさそうです。となると上記のような能の定型から外れる理由は、まずこの能が古作であることが最も大きな原因として考えられるようです。能の曲の定型が生まれる以前に自由闊達に作られた曲で、それが定型の枠組みの中におさまるように後世に手を加えられずに残った、というところでしょうか。それぞれの点については、おいおい解説を進めていく上で触れていくつもりです。

。。それでも、解けない疑問がこの能には数多くある。この疑問が ぬえを悩ませます。

12)なぜ使用する面や装束がここまで流動的なのか?
13)なぜ前シテは海中から現れて海中に去るのか?
14)なぜ後シテは母親の姿そのものとして現れるのではなく龍女という形をとるのか?
15)後シテが持参する経巻の意味は?

。。はあぁぁ。。(;_:) 気にしないで舞っちゃえば いかに楽か。

次回からは舞台進行についてご説明させて頂きながら、少しくこれらの問題にも触れてゆきたいと思います。
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『大原御幸』 ここを見逃すなっ

2006-10-19 00:13:20 | 能楽
明日は梅若研能会の10月例会で師匠の『大原御幸』が上演されます。

昨日申合があって、地謡を勤めていた ぬえはこの曲についてまた新たな発見がありました。ツレ阿波内侍は寂光院を訪れたワキ萬里小路中納言にも、そして法皇に対しても、シテ建礼門院の留守の理由を「上の山へ<花摘み>に御出でにて」と答えているんですね。本当の外出の理由とは違っている。。これについて考えてみました。ちょっとした事なんだけど、鑑賞の参考にもなるかも知れませんので、すこし記しておきます。

その前に、この曲全体の演出について考えてみます。まず前シテ(と二人のツレ)は、通常では水衣を着ておらず、シテは唐織または白練、ツレは無地熨斗目の着流し姿に、三人とも花帽子を被り(シテは純白、ツレは浅黄の類)、水晶数珠を手にしています。そして山から戻った後シテのみが紫水衣(袖の幅が大きい大水衣を使います)を着ています。ところが、最近ではツレもシテと同じく水衣を着る舞台が多くなってきました。おそらく、花帽子を着た姿はどうしても頭が大きくなるので、着流し姿ではバランスが悪い、と感じた演者の工夫によるものでしょう。

ツレが水衣を着る場合、内侍はずっと舞台に居残っているので、最初から水衣を着ている必要があり、そうなると大納言の局の方も最初から水衣を着る事になります。結局、前シテだけが着流し姿で、後シテとなってシテも水衣を着て、ようやく三人の水衣姿が完成される事になります。

前シテは局に向かって「後ろの山に上がり樒<しきみ>を摘み候べし」と呼び掛け、局も「わらはも御供申し、爪木蕨<つまぎ・わらび>を折り供御に供へ申し候べし」と応じて、局はシテに花籠を渡し、内侍を留守番に残して二人は寂光院をあとにします。

樒とは仏前に供えたり葉や樹皮から抹香や線香を作る樹木で、爪木とは たきぎの事。つまり女院は我が子・安徳天皇や平家一門を弔うために樒を摘み、お供の大納言局は 薪と蕨、つまり煮炊き用の小枝と食料を採りに山に入ったのです。

やがて後白河法皇の一行が寂光院へ御幸なりますが、内侍が留守を守っているだけで、一行は「花摘みに」山に上った女院の帰宅を待つことになります。ちなみにこのところ、地謡によって謡われる寂光院の有様を描く上歌「古りにける~」はまことに名文ですが、じつはこれ、『平家物語』からまるまる移植された文章なのです。『平家』の作者の力量もさることながら、この文章が活きる節付けを編み出した能の作者の才能も相当なものですね~

さて後シテは紫水衣を着、さきほどの空の花籠には木の葉を入れます。これがすなわち樒で、ツレの局は造花の蕨と萩の枝を交えたひと握りほどの束を提げています。三人の食料としてはまことに淋しいかぎりの分量ですが、それがまた儚さを演出しています。法皇の御幸を知らされた女院は「一念の窓の前に摂取の光明を期しつつ、十念の柴の樞(とぼそ=戸)には聖衆の来迎を待ちつるに、思はざりける今日の暮れ」と不意の来訪に戸惑いながら法皇に対面します。

このとき、女院の帰宅に先立って、迎えに出た内侍はシテの花籠を持って先に舞台に戻り、作物の中央にその花籠を置きます。この花籠は最後までそこに置かれたままなのですが、つまりこれは、寂光院の中心となる部分に仏間があって、その仏壇に樒を供えたのです。花葉を供えるのは侍女の役目。女院はその準備が終わったところで読経するなどの法要を行うのです。

また、ツレ局が持ち帰った爪木や蕨は内侍が運ぶことはしません。これは同じ侍女の立場である局がみずから持ち帰ります。実際にはシテに付いて舞台に入った局は、内侍とともに地謡の前に着座し、そのときに爪木蕨はうしろに置いてしまいます。役者の心としては、持ち帰った食料や薪を急いで台所に置いて、すぐに法皇のお世話に立ち出た、というところでしょう。やがて後見がそっと爪木蕨を引きます。

ここまでは以前から気づいて知っていた『大原御幸』の型の意味で、これだけでも登場人物の役割や立場についてかなり深い考察がされて型がつけられている事がわかります。これに限らず、能では役者の動きが少ない分、ひとつ一つの型には、時にはかなり感心させられる型がつけられている事があります。

さて、今回気づいた内侍の言葉はどうでしょうか。なぜ彼女は萬里小路中納言や法皇に向かって、女院の外出の理由を「樒を摘みに」と言わず「花摘みに」と言ったのでしょうか。

それは。。女院が弔う相手=平家一門が「朝敵」だからなのでしょう。平家追討の院宣を出したのも後白河だったし、そして女院の亡き我が子、安徳天皇が平家一門とともに都落ちしたとき、平家によって擁立された安徳を廃してその弟・後鳥羽天皇を即位させたのも、後白河法皇その人だったのです。このような平家や安徳に対して弔いを続ける事は、たとえ壇ノ浦から生還した安徳の実母であり、また法皇自身から見ても嫁にあたる女院の立場からしても、公然とそれを行う事は憚られたのであり、内侍はこの微妙な立場同士の邂逅であることを知っているからこそ、「花摘み」と言葉を濁して法皇に伝えたのでしょう。。

なんとも。。かわいそう。。
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能『海士』について(その1)

2006-10-18 19:20:01 | 能楽
来る11月9日(木)、梅若研能会11月例会にて ぬえは能『海士』を勤めさせて頂きます。

これまで毎度、自分がシテを勤める曲の作品研究を行ってきたのですが…今回ばかりは苦しみました。いや、なんて破格な曲なんだろう…舞台づらは見どころが多くて型も派手な場面が多く、とっても分かりやすい能だとは思います。でも…細かく考え出すと、これはとてつもなく難解な曲、また意味を探るのが大変に難しい曲であることが次々に分かってくる…ちょっと今までに取り組んだ事がないタイプの曲ですね。こりゃ。

そんな事を考えているうちに、考察が遅れてしまいました。催しの当日までに考察しきれるのか、少し不安はあるのですが、取りあえずこの場でこの作品を少しずつ繙いてゆきたいと思います。

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大臣・藤原の房前(子方)が、自分の出生の秘密を知って、亡き母の追善供養のために従者(ワキ・ワキツレ)とともに讃岐国の志度浦を訪れると、そこに一人の海女(前シテ)が現れる。海女は問われてこの浦で亡くなった海女について物語る~

藤原不比等(淡海公)の妹が唐の高宗皇帝の后の位に上った縁で、唐廷から藤原の氏寺である興福寺に三つの宝(華原磬・四濱石・面向不背の珠)が贈られた。ところがこの宝珠を惜しんだ龍王によって宝物を運ぶ船がこの志度浦の沖で襲われ、珠は龍宮へ取られてしまう。淡海公は大いに嘆き、これを取り返すための一策を講じた。公は身をやつして密かにこの浦に下り、卑しい海女乙女と契りを結び、やがて一子を儲けた。その時公は自らの身分を明かし、海女に海中に赴いて龍宮から宝珠を取り返す事を頼む。海女は驚いたが、自らの子を淡海公の世継ぎとする約束を得ると、腰に千尋の縄を結びつけると龍宮に赴くのだった。

はたして龍宮では三十丈の玉塔に宝珠を安置し、龍神がそれを守護していた。命は遁れがたいと覚悟した海女は志度寺の観音に祈りを籠めると一気に龍宮に飛び込み、宝珠を奪い取った。逃げる海女の後を守護の龍神が追いかける。逃げられぬと見た海女は剣でみずからの左の乳の下を切るとその中に宝珠を押し籠め、剣を捨ててその場に伏して死者を装った。龍宮では死人を忌むため、海女のそばへ寄る龍神とていない。そのとき海女は縄を引いて海上に合図を送り、人々は海女を引き上げたのだった。

すでに五体も身に続かず、血に染まった海女を見て大臣は計画の失敗を嘆いたが、海女は息の下より自分の体内に宝珠を籠めて帰還した事を告げ、絶命する。かくて宝珠は事故なく都に収まり、海女の子は淡海公の後を襲って房前大臣となったのだった。~ここまで語った海女は、じつは自分こそその亡くなった海女、房前の母であると明かして手跡を房前に渡すと海中に姿を消した。

房前がかの手跡を開き見ると、死後13年を経て、なお我が跡を弔う人とてない嘆きが認めてあり、房前はさっそく母のための追善供養を営む。するとそこに法華経を手にした龍女(後シテ)が現れ、供養の孝養と法華経の功徳によって成仏できた喜びを述べ、法華経の経巻を房前に授けると舞<早舞>を見せる。志度寺は仏法繁昌の霊地として栄えたのだった。

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う~む、こうやって あらすじを書いただけで、じつは舞台面の華やかさとは裏腹に、この曲には大きな背景がある事が見え隠れしている様子が伺えます。そして、その背景に縁取られているこの曲のテーマという難しい問題もさることながら、この曲には戯曲の構造とか演出などの面でも、ほかの能とはかなり違った特色が多い能なのです。
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秋。。隣りは何を喰ふ人ぞ

2006-10-16 00:47:15 | 能楽

今日は喜多能楽堂での催しに参加していました。

終演後に能楽堂を出たら。。なんて美しい秋雲。

もう。。秋なんですね~。なんだか しんみりしてしまった。

紋付は袷になったけれど、なんだか暑い日も続いたりして、本当に秋の実感がない十月です。なんだか一年が経つのがどんどん早まってる。

またまた『平家物語』を読み直してみたくなる、こんな季節。
電車に乗れば。。隣りは何を喰ふ人。。ぞ? あ、お化粧かい。
電車でお化粧はやめようよ~~(/_;)


そんな秋の夜長に月を愛でながら。

次回から、ようやく、というかあまりに遅きに失した感はありますが、能『海士』についての考察を始めたいと存じます。どうぞよろしくおつき合いくださいまし~~m(__)m
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それは小謡

2006-10-14 23:33:33 | 能楽
>Kさん

コメントありがとうございます。コメントにぶら下がるつもりだったのですが、やっぱり長文になってしまったので、またしても本文でお返事させて頂きます。。

観世寿夫師の「祝言小謡集」。。能楽音源の隠れたベストセラーですよね。死後これだけ時間を経て、なおこれだけの人の心をつかむとは。。すごい人だったのでしょう(ぬえは寿夫師を拝見しそびれた世代)。

さて、このCDにある謡ですが、これは「小謡」です。

能のそれぞれの曲の中には、たとえば上歌まるまる一つとか、クセならば(長すぎるので)後半部分とかが「小謡」と称して定められていて、これは。。そうだなあ、能の会で謡われるため、というよりは、かつて宴席などプライベートな空間で謡われたものとお考え頂ければよいでしょうか。

江戸時代に、庶民はなかなか能を見る機会が少なかったのですが、逆に謡は大流行していました。西洋で言ったら聖書のような普及率だった、とも言われていて、主にワキ方が素人弟子を取って教えていたようです。そんな中で寺子屋などでも子どもに謡を教えたそうですが、どうやらこれはこの「小謡」を教えたらしい。

このように「小謡」は能とは関係なく庶民の間にも広く知れ渡っていました。結婚式で『高砂』を謡う習慣も、こういう流行がなければ考えられないでしょう。一曲まるまるが収録された謡本とは別に「小謡集」という本もあって、これはいまでも出版されていますが、かつては大量に出回っていたようで、ヤフオクなんかでも時折古い「小謡集」を見かけますね。江戸時代は版本が容易に作れるようになった時代で、この技術革新も謡の流行に一役を買ったでしょう。謡本というものは、能楽師の上演台本であると同時に、不謹慎かもしれませんが宴席での余興にまでも活用できる、卓越した機能を持っていました。ぬえもよく思うのですが、謡本というのはプロもアマチュアも「それぞれ違う目的で」活用しているんだから、不思議な本だと思います。

さてその「小謡」の箇所は現在の謡本(観世流大成版)でも本文の上部の余白に「小謡○○○ヨリ○○○マデ」と明記されていて、これは1曲あたり数カ所に及ぶこともあります。ちなみに『高砂』の場合、寿夫師のCDに収録されている4箇所(四海波、クセ上羽、待謡、千秋楽)のほかに、前シテの上歌「所は高砂の~それも久しき名所かな」の部分も小謡に指定されています。

また、やはりCDには納められていないものの、『羅生門』の初同(しょどう=地謡がはじめて謡う部分)は有名。

「つくづくと、春の長雨の淋しきは。春の長雨の淋しきは。忍ぶに伝ふ、軒の玉水音すごく。ひとり眺むる夕まぐれ。ともなひ語らふ諸人に、御酒を勧めて盃を、とりどりなれや梓弓。弥猛心の一つなる。武士の交はり頼みある仲の酒宴かな」

この部分は、今でこそ謡われる事はなくなってしまったけれど、「武士(もののふ)の交わり」と呼ばれて、かつては武士の間で盛んに謡われたのだそうです。どうです? なんだか武士同士が酒を酌み交わし、唱和しながら友情を温めている、とっても風流な姿が目に見えるようです。同僚とカラオケを歌うよりずうっと風情がありますよね~。

このように、なんというか、小謡というのは能楽師が舞台上で行っていることとは、ちょっと距離があるように ぬえは思っています。というか、能楽師は「小謡」なんて謡ったことがない。

それとは逆に、附祝言はかなりしっかりした理由があって現在の形になっています。

附祝言は現在では地謡がめでたい曲を謡っていますが、かつては半能を演じていました。ちゃんと装束を着けて『高砂』などの後シテだけを上演していたのが本来の姿で、これを「祝言能」と言いました。『土蜘蛛』などの殺伐とした鬼退治の能でで一日の演能を終えるのが不吉だったのですね。この名残はいまも残っていて、『猩々』などは「祝言能」専用曲として改作されたために現行本文では意味の通りにくいところがあるし、観世流ではいくつかの脇能に「祝言之式」という小書がありますが、これこそ「祝言能」として上演するときの演式で、装束も囃子も常の脇能としての上演の場合とは少し異なっています。

附祝言というのは「祝言能」を省略して代わりに地謡が謡うものですから、脇能の、後シテの場面の、それも最後の箇所を謡うのが原則なのです。その箇所はもちろんめでたい文句なのですから、当然「小謡」とも重複してくる事が多い、とは言えると思いますが。。

なおご指摘の通り「附祝言」と書くのが普通ですね。ぬえはうっかり「付祝言」で単語登録しちゃっていました。。反省。
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「追加」というのも

2006-10-13 15:05:24 | 能楽

Kさん、コメント頂きましてありがとうございます。レスを書いていたら長文になったのでブログ本文の方に書かせて頂きます。

この「明日は青い猩々」には ぬえもブッ飛びました。観世流のような大所帯の流儀では家によって謡い方や舞の型が微妙に異なっていたりするもので、今回京都にひとり飛び込んでいった孤立無援の ぬえは、謡い方を合わせる、という以上に発声をマネするところから始めなければ、地謡の中で一人でハズレてしまうので、もう一日中気を抜くことができませんでした。

ところがそういうマジメな話とは別に、こんなところに家。。というか地域、かも知れませんが、ぬえが知らない「常識」があったとは。

東京では、少なくとも ぬえの周囲ではこういった覚え方は聞いたことがなく、付祝言をする場合には、その日の番組と重複をしていない曲を、楽屋で相談して決めるのです。まあ『高砂』を謡ったり、その日の番組にそれがあれば『老松』にしたり春の盛りなら『嵐山』にしたり年末ならば『猩々』にするとか、おのずと出される曲は決まってきていますね。

ですから以前にやはり京都で、最後の番組の地謡に出る直前の切戸で、地頭から「じゃ、今日の付祝言は『岩船』で」と言われて真っ青になった覚えがあります。当時東京で ぬえは久しく『岩船』を謡う機会がなかったから。。で、地頭に「い。。『岩船』って。。どんなのでしたけっけ。。(T.T)」と伺いました。地頭はけげんな顔をされて「金銀珠玉は降り満ちて。。」と文句を言ってくださり、それを聞いた ぬえは「あっそうか! 山の如く、津森の浦に。。」と付祝言となる全文を思い出すことができ、大過なく勤める事ができました。あのやり取りは本当に切戸を出る直前だったから、冷や汗が出ました~。もちろん地謡は大勢なので、文句を思い出せなければ、付祝言程度の分量の謡ならば黙ってしまっても舞台にキズはつかない、とは思いますが、そこはそれ、自分だけ黙っているのでは能楽師としてのコケンに関わりますからね…

しかし、上記のリストを見て思うけれど、さすがに京都でも付祝言としてそう簡単には選ばれない曲もあるでしょうね。「じゃ、今日の付祝言は『志賀』で」とか「『淡路』で」という事は、そうそうはない、と思うのですが。。あまりに珍しい曲なので、これを即座に謡える能楽師はそんなには居ないでしょう。。ぬえはこの2曲は一句たりとも知らない。。まあ、この覚え方を知ってしまった以上、付祝言の部分だけでも覚えておかなければ。次回にはこういう可能性だってあるワケだから。。「じゃ、今日は『淡路』で」「ええ~~~っ」「あれ?だって ぬえ君、前回付祝言の曲目を教えてあげたでしょ?覚えてきていないの?」。。(/_;)

ところで、めでたくない催し=すなわち追善能で最後に「付祝言」のように、故人の冥福を祈るために謡われる小謡を「追加」と言います。

よく出されるのは

卒都婆小町  花を仏に捧げつつ悟りの道に入らうよ、悟りの道に入らうよ
海士     仏法繁昌の霊地となるもこの孝養と承る
融      この光陰に誘われて月の都に入り給ふよそおひ あら名残惜しの面影や名残惜しの面影

。。これぐらいかなあ。これに対して『江口』はお葬式で謡われることはあっても、追加ではほとんど謡われることはありません。追加にしない特別な理由がある、というよりは、追加としては少々時間が掛かりすぎる、という実利的なことが理由ではないでしょうか。

で、京都で「明日は青い猩々」という言い方を聞いた ぬえはすぐに、この追加についても同じような覚え方があるのか伺ってみました。答えは「追加は。。ないなあ」。ふ~ん、そうなのか。

そこから話題はなぜ『卒都婆小町』と似通った終わり方をする『砧』が「追加」として選ばれないのか、ということに移りました。「開くる法の花心。菩提の種となりにけり、菩提の種となりにけり」。いかにも「追加」にふさわしいようですが。。これはおそらく曲目の内容によるのでしょうね。『卒都婆小町』が、老いてなお自由奔放に生きる小町に、彼女に心を寄せる深草少将の霊が取り憑く、という、あまり小町自身には非は少ないような内容であるのに対して、『砧』は夫の不実を恨んで現れる亡霊です。ここのところが追善能という催しの性格とは相容れないのでしょう。

そういえば。。いま気がついたんだけど「明日は青い猩々」には『難波』が含まれていないようですが。。これは「付祝言」として何度か謡ったような記憶が。。ホントは「明日は青い猩々な?」なんかな。

画像は ぬえの秘密兵器。ようやくその全貌が白日のもとに。
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「明日は青い猩々」

2006-10-12 01:34:09 | 能楽
こっ! これは知らんかった! 「明日は青い猩々」とは。。

。。パソコンの前で「青い猩々!!!????」とビックリなさっているアナタ。いやいや、そうではないんです。

京都から帰ったそのまま ぬえは東京で帰宅前に済ませる用事があって、翌日は千葉県・松戸でのお稽古。さらにその翌日にあたる今日はとくにスケジュールは入っていなかったのですが、これまた そういう日こそ最も忙しくなるものでして。。朝から近所の公民館の和室を借りて来月に迫った『海士』の稽古、それから近所の小学校に行って、来週 ぬえがこの学校で行うデモンストレーションの際に、特別出演して頂く副校長先生に仕舞の稽古をつけて、帰宅してからは溜まりにたまった事務仕事をこなし、夕方からは再び自分の稽古。。旅行の前は体調が悪くてホント、どうしようかなと思いましたが、なんとか京都の催しまでには復調させました。そしたら やっぱり四日間も東京を留守にしていると、その間にやらなければイケナイ事が積み重なっていて、復調して帰宅したとたんに それらを端からこなしていかなければならない、という。

あ~あ、旅行の思い出も台無しだな。。と思っていたら、京都の楽屋で知ったこの「青い猩々」の話を思い出した。

これは「付け祝言」として使用するのが可能な曲目のリストなんです。

。。と言うのも、京都で ぬえがお手伝いさせて頂いた催しでは、最後の演目が仕舞『国栖』でした。終演が近づいた楽屋で誰ともなく「今日は付祝言はなくていいのかな?番組には記載されていないけれど」と言い出して、さて『国栖』が付祝言に代用されると考えて良いものか、が議論になったのです。

『国栖』は切能ですけども、非常に祝言性には満ちた曲です。でも「付祝言」というのは曲の内容ばかりによって選ばれるのでなくて、あくまで実際に謡う「キリの最後の文句」が祝言性を持っているか、が「付祝言」となり得るかの最大の判断基準。『国栖』の場合は「天武の聖代かしこき恵み、新たなりける例かな」で、これは あまねく御代を言祝ぐと言うには微妙な表現ですね。

結局、会主であるF師に伺って「付祝言はナシ」ということに決まったのですが、そこで楽屋では「じゃ、どの曲が付祝言になり得るのか」が議論になりました。その場で某師が言ったのがこれ。「明日は青い猩々」。

 あ 淡路  「千秋の秋津島。治まる国ぞ久しき、治まる国ぞ久しき」
 し 志賀  「拍子を揃えて神かぐら、げに面白き奏でかな げに面白き奏でかな」
 た 高砂  「千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ。相生の松風颯々の声ぞ
          楽しむ。颯々の声ぞ楽しむ」
 は 白楽天 「げに有難や神と君。げに有難や神と君が代の動かぬ国ぞ久しき、
          動かぬ国ぞ久しき」
 あ 嵐山  「光も輝く千本の桜。光も輝く千本の桜の栄ゆく春こそ久しけれ」
 お 老松  「齢を授くるこの君の。行く末守れと我が神託の告げを知らする
          松風も梅も久しき春こそめでたけれ」
 い 岩船  「金銀珠玉は降り満ちて、山のごとく津守の浦に、君を守りの神は
          千代まで栄うる御代とぞなりにける」
 猩々    「尽きせぬ宿こそめでたけれ」

ふうん。こういう覚え方があったのか~~。勉強のタネは尽きないね~~

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京都での催し

2006-10-10 11:09:19 | 能楽

広島から京都に移り、わざわざお招き頂きましたF師のお弟子さんの発表会も無事に終わりました。気にしていた体調もうまく回復してきて、まだちょっと自分の声ではないですけれども、なんとかご助力になれたかな? と思っています。いまは東京に帰って、昨夜は泥のように眠りました。。

この催しではいろいろな事を感じました。アマチュアのお弟子さんの発表会であっても囃子方や地謡として参加した能楽師は力を抜いたりすることは一切なく、力一杯の全力投入のままプロの芸を見せていて、他門からのゲスト参加だった ぬえにはよい勉強になりました。また生徒さんたちはいろんな意味で先生を愛して止まないご様子。地謡を謡っていた ぬえにとっては、やはり師家の型や謡とは違いがあることにビックリはしつつ、一生懸命に稽古の成果を発揮しようとする生徒さんに大変好感を持って参加させて頂きました。

また囃子方についても、東京ではお相手する機会のないお流儀の方があって、やはり東京では聞いたことのない手を打たれていました。これについてはあとでご本人に楽屋で詳しくお伺いして、メモを取らせて頂きました。京都という街は、ぬえの師家の中からは ぬえだけが一人でお招き頂いて参上する事が多いのですけれども、だんだんとF師のご同門の方々や、ぬえが尊敬するF師のお師匠さま、そしてお囃子方ともうち解けて、舞台に関すること、お流儀の違いのこと、またもっとくだけた普段の面白い話を聞かせて頂くことができました。

終演後の宴会では、はからずも「あの。。ひょっとして あなたが ぬえさん?」と、インターネットで情報を収集しているF師のお弟子さんから図星で ぬえにご質問があって、これまたびっくり。どうも宴会の場でF師のサイトがある、という話題がでて、「ええっ?だってF師、パソコン使えないでしょ?」「いえ、私がサイトを作って差し上げたんです」という話題になり(F師も「ええ、私自身も自分のサイトを見たことがないんです」なんておっしゃってた。)、それから ぬえも自分のサイトやブログの話をしながら、「きのうは広島で。。」「今日は京都で。。」「ちょっと体調が悪かったんだけど」と言ってたら、「えっ!それは ぬえさんのブログに書いてあったことでは。。」「見てらっしゃる!? 私が ぬえです」「ええ~~~っ」。。と、まあ、こんな感じの展開でした。ぬえも「あなたが ぬえさんなの!?」と言われたのは初めてでして、これはちょっとビックリでした。

あ、その図星の質問をされた、F師サイトの管理人の きょうこさん。コメントをつけて頂いたようでありがとうございます。さっそく ぬえの会のサイトの方に、F師のサイトのリンクを張らせて頂きました~~

さて、今回 ぬえが京都にお邪魔したのは、F師のお招きを頂いたから、というのが最も大きな理由ですけれども、もう一つ ぬえにはF師に相談すべき別の大きな目的があって、これはちょうど良い機会でしたので、この催し~宴会のあと、さらにF師と飲みながらご相談させて頂きました。これについてはまた後日お知らせしたいと思います。

翌日、少々痛い頭をおさえながら、そして4日間の旅行のトランクを引きずりながら、京都駅まで行きました。ん~とても観光するような雰囲気の人混みじゃないな。。こりゃ。もう駅前のバス停から長蛇の列で、すでに殺伐とした空気。この時期の連休の京都ってのはこんなに混んでいるものなのか。。そういえば昨日の催しがあった観世会館から宴会場がある円山公園の裏に移動するにも、東山通りは大混雑で、しかもその渋滞がすべて他府県ナンバーの車ばかり。。これじゃ市民生活も大変だ。

もう東京に直帰で帰ろうかな、とも思ったのですが、そうでした!忘れてた!
このブログを愛読しておられている ぐりこさんとの会話で、「東寺の立体曼陀羅の中で ぬえが好きな仏像」が話題に出ていたのに、それがどれであるのかがナゾのまま残されていたっけ。。



で、行ってきました。東寺。ははあ、さすがにこの寺はあまり観光客がいないな。ああ、でもやっぱり一箇所とはいえお寺に来てよかった。やっぱりすごいなあ。。で、タイトルにある画像が講堂にある立体曼陀羅の中の ぬえの推薦「帝釈天像」です>ぐりこさん。

白象に乗っているから普賢菩薩かと思ったのですが、これは何と帝釈天。ずいぶんハンサムな帝釈さまだね、こりゃ。ぬえは平安時代の仏像にはあまり心引かれないのだけれど、でもこれは別格でしょう。白象の上の半跏の姿に右手には独鈷杵。左手は腰に置いて、法衣の下には甲冑が見えるけれども余裕の表情。なんだか象が身体を揺らして帝釈さまを振り落としそうにしたら、帝釈さまは独鈷で象をブッ刺しちゃいそうね。象さんもなんだか暗い目をしてます。帝釈さんがこわいんだろうか。



         東寺講堂

(文化財保護法によって堂内の撮影が禁止されていたので、タイトルの画像はやむなくその場で購入した絵はがきから転載しました。しばらくしたら削除します。。)
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満潮の! 厳島神社(憧れ。。)

2006-10-07 23:09:23 | 能楽

広島での結婚式は無事に終わり、ぬえも体調を復しつつあって、なんとか無難に『高砂』を勤めることができ、いまは京都に移動しました。あ~楽しい披露宴だった。

さて、自分ではちっとも知らなかったのですが、昨日は中秋の名月だと広島に着いてから知って、月下の広島城を見に行ったのですが。。ということは今日は大潮。。これは厳島神社に行かなければ。。というか、厳島神社には時間が許せば行こうと考えていたので、今回は潮位表のコピーまで持参していたのです。大潮だということは知っていたけれど、中秋の名月だという事を知らなかった、という。。どっちにしても間抜けな話ですけども。。

前回、5年前にはじめて厳島神社を訪れたときは、潮位なんて気にして行かなかったのが失敗で、ぬえが到着してみたら、汐は引きまくっておりました。。能舞台は。。フツーに大地に建っていて、東京に帰ってから友人にそれを言ったところ「ええ~~っ、汐が引いてるんじゃただの野外の舞台じゃない」と言われた。ごもっとも。今回は潮位表まで調べて、結婚式への出席までは充分に時間があることもわかったので、朝9時にホテルを出発して宮島へ向かいました。

満潮の厳島神社は。。感動的なほど美しかった。床板の隙間を通して水面が見え隠れし、舞楽の舞台の正面の海に浮かぶ大鳥居は人の手によって造られたのが信じられないほど孤高な姿で。ああ、本当に来てよかった。。



肝心の能舞台は。。これはまた。。水の上に浮かぶ舞台は、なんだか優しい感じで、舞台が持つ、あの緊張感というようなものからは少し距離を取っているように思いました。なんだかのんびりとした気分で舞台を眺めるなんて不思議な感じ。

それにしてもこの舞台は。。干潮の時に見たときは気がつかなかったけれど、切戸口のすぐ外側は水面。。切戸口は使えないのね。切戸から地謡や後見が登場できない、となれば、こういう場合はもちろん橋掛りを通って登場するわけなので、そこまでは問題ない。でも。。もし舞台にいる後見がいつもの感覚で切戸から出ようとしたら。。考えられない事ではないので、うう。。



それでも、前回に干潮の際には砂浜に下りて舞台を間近で見ることができました。それはそれで良い経験で、いろいろわかった事もあったのです。『道成寺』に使う鐘の作物を吊すために天井に取り付けられている滑車の位置が通常の舞台よりもかなり後方で、あれでは鐘は吊せない、と思ったこととか。今回はそういう意味では遠くから眺めるだけに終始してしまいました。干潮にも満潮にも、違った趣をたたえる舞台。来週あたりでしょうか、喜多流で毎年恒例の「観月能」があるはずで、舞台を取り巻く回廊だけでは観客を収容しきれないので臨時の桟敷席が設えられ始めていました。ここで舞えるなんて、シテも幸せでしょうね。
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広島に到着

2006-10-06 22:39:57 | 能楽

広島に来ています。催しではなく、ニフティのパソコン通信時代のアクティブ、両さんとキョウコさんが結婚されるので、ぬえはわざわざ東京からお招き頂きました。あの会議室から結婚する人が出たのは初めてです。明日は裃を着て『高砂』を舞う予定。

ところで広島に来るのは二度目で、今回は原爆ドームのすぐそばに宿泊しています。東京では台風の影響で大雨でしたが、こちらは見事に晴れ渡って、中秋の名月を見る事ができました。画像は広島城の上に浮かぶ名月。この広島城も原爆の被害に遭って、爆風で天守が吹っ飛んでお堀に落ちたのだそうですね。。

平和記念公園も二度目の訪問になりました。やはり怖い。。かつてアムステルダムで公演があったときに『アンネの日記』のアンネ・フランクの隠れ家を見たときも思ったのですが、大きな損害を受けた建物の廃墟を見るよりも、人がそこに「いた」という、その痕跡を見る事の方がはるかに恐ろしい。厳島神社のあの壮麗と、この負の遺産を見るとき、やはり広島は不思議な街だと思うし、日本人にとって特別な場所だな、と思いますね。



明日の結婚式ではやはりニフ時代の友人のセミちゃんも山口県から駆けつけてくれるので旧交を温められます。と言っても8月に福岡での結婚式に出た際にも会って、終電まで飲んだんですが~ (^◇^;)

そして結婚式のあとは京都に移動して、そこでお招き頂いた会のお手伝いを致します。なんだか準備やらなにやらで忙しい1週間でしたが、これからが本番。



。。と言いたいところなのだが、じつは ぬえは2~3日前から突然体調を崩しまして。。旅行の前日はその準備をするやら病院に駆け込むやらで てんやわんやでした。。段々と復調してはきていますが、大事な催しにキズだけはつけたくない。。(/_;)
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