ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その12)

2013-11-30 13:54:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
この日は陸前高田市の「産業まつり」が第一中学校の校庭にて開かれていました。じつは今回の活動はこのイベントに出演するのが唯一の目標でありました。先日「奇跡の一本松」の前で能『羽衣』を奉納させて頂きましたが、これからは市民に能について親しんで頂き、今後の活動に繋げていきたい、というJIN'S PROJECTさんの要望に沿う形で ぬえたちプロジェクトが協力させて頂きました。もとより陸前高田市は震災の年の暮れ頃に視察に訪れて以来、ご縁がなくてまったく活動の実績がありませんでしたので、これは私どもプロジェクトにとっても願ってもない計画でした。

「産業まつり」は、広い会場に所狭しとテントが張られて、その下にいろんなお店がひきめきあって、じつに賑やかでした。イベント会場はステージ・トラックです。ああ、去年の夏に石巻市・雄勝の花火大会イベントに出演した時以来だな。あのときはステージへ上る階段もなくて、ビールケースをどんっ!と置いて、よっこらしょとケースを踏み台にしてステージに上ったっけ。今回はちゃあんとステージ脇に、パレット(フォークリフトで荷物を運ぶための木製の台)を積み重ねたものとはいえ、ちゃんと階段がついていました! よしっ、今回は装束を着たままお客さんにお尻を向けて「よっこらしょ」とステージに上らなくていいんだ。

午前10時前には会場に到着していた ぬえらは、「産業まつり」の開会式から見ることができました。市長さんや実行委員長さんの挨拶、テープカットなどの一連の行事が進行して、さて ぬえたちは上演の準備を進めました。控室はテントのほんの小さなスペースのみ。。これは仕方のないことですけれど、装束が土ぼこりで汚れることがないよう、細心の注意を払いながら準備をするのは、狭いスペースでは本当に大変です。しかもこの日は控室に陸前高田の ゆるキャラ「たかたのゆめちゃん」まで一緒だったもんだから、ほんの3畳少々のスペースに4人がひしめき合い、そのうえ装束やらキャラクターの着ぐるみやら荷物まで。。譲り合いながらなんとか準備を進めました。



大船渡市出身の歌手 濱守栄子さんも登場、復興ソングのひとつである『国道45号線』を歌うのを聞いて、これは ぬえの心にも響きました。国道45号線は三陸の沿岸部に沿って仙台から青森までをずっと500kmに渡り南北に走る幹線道路のことです。石巻~志津川~歌津~大谷~階上~気仙沼~陸前高田~大船渡~釜石。。ぬえたちプロジェクトが過去に活動した街はすべてこの国道によって縫い繋がれて結ばれています。すべての被災地を結んでいることからも分かるように、震災時には大変なダメージを受けました。この国道に平行して南北を貫く道路は60kmも内陸にあって一関や花巻、盛岡などの都市を結ぶ国道4号線と東北自動車道しかなく、震災時はこの45号線が寸断されたために陸の孤島となってしまった街がいくつもあったのです。45号線は、そのようなこの地域の幹線道路であると同時に沿岸の市民にとって身近だったです。濱守栄子さんの『国道45号線』は、そんなこの道路にまつわる思い出を綴った歌でした。

それから高田のゆるキャラ「たかたのゆめちゃん」も登場。控室では中の人も(あ、これ言っちゃいけない? えと、ゆめちゃんも。。そうです、ゆめちゃんご本人も)ちとお疲れ気味ではありましたが~。(^◇^;)

ぬえたちの出番となり、ステージトラックの上で能『羽衣』を上演させて頂きました。





そのステージ。。なぜか目で確認したときには気づかなかった段差があって、前に出ていくたびにこの段差に足先が触れて「!!」と思います。落ちるんじゃないか。。? と思って。。面の眼の穴から見ている限り、それから舞っている広さの感覚からいってもステージの先までまだ数十cmはあるはずなのですが。でも万が一ステージから落ちるような事があったら。。と思うと、その恐怖心との戦いになります。どうやら段差は数cmの「溝」らしい、と舞いながら考えて、途中からは「ままよっ!」とその段差を踏み越えてみました。。落ちなかった。。(^_^;)

終演後、お手伝い頂いたみなさんと記念撮影。



それから着替えて、ようやく「産業まつり」のブースを見て回りました!

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その11)

2013-11-23 01:02:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
夜行バスが気仙沼市役所前に到着して、ほどなくこの起業家の方と、そのご友人で ぬえたちを休憩させて頂けるおうちの方が車でお迎えに来てくださいました。

Oさんとおっしゃるこの方のおうちは、ぬえたちが気仙沼で活動する際にいつも泊まる常宿にも ほど近く。。ということは大川を隔てて甚大被災地区のすぐ陸地側ということになります。このあたりも大川を遡った津波で被害があったはずだが。。

お邪魔したお家は大きな邸宅で、この家にはOさんとそのお嬢さんのお2人だけでお住まいとのこと。ぬえたちはお邪魔させて頂いた立場とは思えぬ歓待を受けまして、豪華な朝食のご相伴に預かっちゃいました。よくよく伺えば、Oさんのご主人は遠洋漁業の漁師さんとのことで、いまは遠い海にいらっしゃって不在だそうですが、震災の時もご主人は外洋にいらっしゃったのだそうです。。こういう話、以前にも伺ったことがあるな。

そうそう、それはこの5月にネットワークオレンジさんの東新城の新事務所の落成式のときで、式典終了後の会食の際にお隣りに座った、その時は初対面だった千葉さんから伺ったお話でした。千葉さんが遠洋に出ておられるご主人と衛星電話でようやく話したのは、震災の数日後だったそうで、そうしてご主人は それだからと言って船から下りて帰ることもできず。。気仙沼に戻ったのは震災の半年後だったのだそうです。

。。ところがOさんから伺った話も凄まじくて、震災の少し前に出航したご主人が気仙沼に帰宅したのは、じつに震災から1年を迎えようとした頃だったのだそうです。ご主人は、もちろん震災のニュースは伝えられたし、奥様であるOさんとも衛星電話で何度となくお話をしたでしょうから、気仙沼の被害についても知っておられたのですが、いざ気仙沼に帰ってくると、海岸の地形が変わってしまっていてビックリなさったのだそうです。

Oさんのおうちも やはり震災時には1階は津波による被害を受け、それを修理して再び住めるようにされたとのこと。話題は震災の年の夏、巨大なハエが大発生した経験の話になりました。ぬえもこのハエにはずいぶん苦しめられましたが、ここで伺った話はまたちょっと ぬえの経験とは違うものでした。こちらでは、ハエも大発生しましたが、それを狙ってスズメが同じように大発生したのだそうです。被災しなかった2階から朝起きて1階に下りてくると、壁が抜けて開け放たれてしまい、ヘドロもまだ残る部屋の中には、たくさんのスズメがいたのだとか。。

しかし ぬえが驚いたのは、この家。。Oさんのおうちは津波により建物も被害も受けたそうですが。。それ以上に。。犠牲者が出たのだそうでした。。なんと。。これまでも ぬえたちは被災家屋に何度となく泊めて頂く機会がありました。当然その中には犠牲者のあったおうちもあったのだろうと思います。しかし、そういう事情はこちらからは聞きませんし、その家の主もあえてそのような話はしません。ぬえたちは自分たちの活動のために、協力してくださる方のおうちに泊めて頂く立場で、わざわざそのご家庭の事情に立ち入って伺うことは遠慮しなければなりません。。ときには家屋に被害があればその話題から震災当時の経験を教えて頂くこともないわけではありませんが、やはりその時でもあまり詳しい事情をこちらから伺うようなことはしたことがなく。。

そうして、じつはOさんご自身も震災のときは壮絶な体験をされたのだそうで。。津波から避難した中央公民館で火の海に囲まれ、同じように公民館に避難した400名以上の市民とともに孤立して、救助を呼ぶ術がなくなりました。。ところがその避難者の中にロンドンに留学していたご子息に「火の海 ダメかも がんばる」と携帯でメールを送り、これを見たロンドンの子息はツイッターで救助を求めました。「拡散お願いします。障害児児童施設の園長である私の母がその子供たち十数人と一緒に避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の3階にまだ取り残されています。下の階や外は津波で浸水し地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば子供たちだけでも助けてあげられませんでしょうか」

リツイートは瞬く間に拡散、これを見た、当時東京都副知事だった猪瀬直樹さんが東京の消防庁の幹部に相談を持ちかけ、すでに仙台まで行っていたヘリコプターを気仙沼に急行させることになり、翌朝全員が救助されることになった。。おそらく このブログを読んでくださっている方の中にもこの出来事を覚えておられる方もあろうと思いますが、この時 公民館に避難して、猪瀬氏によって差し向けられたヘリコプターによって救助された方の中に、このOさんも含まれていたのでした。

ちなみにOさんを紹介してくださった起業家の方もご実家がこのすぐ近くで。。このご実家も被災されて、取り壊し処分の対象となりました。ご実家が取り壊されるとき、カメラで毎日記録を残されたそうですが、建物がとうとう引き倒されたとき、この方は泣きじゃくりながら帰ったのだと、ぬえに教えてくれました。

このおうちは気仙沼南小学校のすぐそばで、その小学校もいまは取り壊されて更地になっています。このあたりから港の方面に行くには必要不可欠な、大川にかかる橋がありますが、じつは南小の前にも小さな橋があったのだそう。南気仙沼駅の方向から南小に通う小学生の通学路となっていたその橋は。。津波で流されてしまったのだそうです。何度となくこのあたりに通い続けている ぬえにもその橋の話は初めて聞いたもので、そっとOさんのおうちを出て大川に向かってみると、堤防に小さな小さな、3段ばかりの階段が残っていました。。

季節の「戻り鰹」や当地の名物「もうかの星」も並んだ豪華な朝食を頂き、早朝に到着した夜行バスの疲れを癒す場のはずでしたが、なんとも重い気持ちにもなり。。それでも明るいOさんたちと談笑しているうちにもう陸前高田へ出かける時間が近づき。。ぬえたちはOさんのお宅の一室に飾られた遺影にご焼香させて頂き、陸前高田に向けてOさんの運転で出発しました。

猪瀬直樹氏のブログ

気仙沼→ロンドン→猪瀬副知事 ツイッターによる救出劇

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その10)

2013-11-20 00:39:06 | 能楽の心と癒しプロジェクト
陸前高田の「奇跡の一本松」の前での奉納を終えて東京に帰りましたが、その10日後に再び高田へ。。

もとより陸前高田での活動はJIN'S PROJECTさんの企画で、ぬえたちはJINSさんがすっかりお膳立てを整えてくださった舞台で舞うことができるのです。。活動を始めた頃は、まさかこんな日が来るとは思わなかったな~。ありがたいことです。

ところが、自分たちで企画をするのではなかったからか、ぬえはこの時とんでもないミスを犯してしまいました。。陸前高田での1日だけの活動の日取りをJINSさんから知らされて、その日はスケジュールが空いていたのでお引き受けをしたのですが。。

この翌日は伊豆で子ども創作能の公演日。そのうえ そのまた翌日は東京で師家の大きな催しがあり、ぬえも大役を頂いていたのでした。ちゃんと手帳でスケジュールの前後関係を確かめずに引き受けてしまい、どれも失敗は許されない舞台。。それが連続してしまっただけでなく、まさか岩手県~静岡県~東京都という遠隔地にまたがる催しになってしまったとは。。

そこで今回は、公演以外の場面。。要するに移動の際にできるかぎり体力を温存する作戦を取ることになりました。ぬえが自分の体力を心配するのは よほどの事です。普段はほとんど疲れというものを感じないもので。。\(^。^)/ゲンキ

まずはすべての移動は公共交通機関を利用して、自分で車を運転しないこと。なんせ移動が長距離ですので。。またそれぞれの公演地への移動は単純に距離の問題だけでなく、公演準備の時間も考慮して余裕を持って行われなければなりません。各地への到着は早め早めでないと。。

こうして、ボランティアとしては贅沢ながら、今回は新幹線も利用しての移動をすることになりました。もちろんそれは最終的な手段で。。まずは東京から陸前高田へ向かう手段は。。夜行バスを利用。。やっぱりね。

人生最初の経験だった夜行バスは今年の5月の末でしたっけ。睡眠障害の ぬえにとっては音楽を聴く以外の過ごし方がない夜行バスは恐怖の対象でさえあったけれど。。まあまあ苦痛は感じずに乗り切りました。今回は笛のTさんと一緒に出かけるのですが。。なんと別々にチケットを取ったのに席は隣り同士。。(^◇^;) それでも消灯となってしまえば会話さえできないのでした。

【11月2日(土)】

早朝6時、夜行バスは気仙沼に到着しました。この日はたった1日だけの陸前高田での活動、それも上演は正午頃なので時間の余裕はありそうなものですが、その開演時間であれば新幹線では始発で東京を出ても間に合わないのです。そうして1日だけの活動のために車を運転して往復するのは体力的に問題もあるし、危険でさえある。。東京でのスケジュールから言って前日の早い時間に高田か気仙沼に到着しておいて宿泊することもできない。。こうして夜行バスの利用となったわけです。

当然ながら夜行バスの利用にもリスクはありまして、それは現地への到着が早朝になって、出演時刻までの間に体を休める場所が必要になること。。その場所を東京に住みながら探すのは大変でした。。カラオケ屋、スーパー銭湯、ネットカフェ。。陸前高田にも、夜行バスの終着点である大船渡にも、様子がわかっている気仙沼にもうまく該当する施設は見つけられず、夜行バスを途中下車する覚悟で一関でも探したのですが、それも徒労に終わり。。気仙沼には知人も多いのですが、さすがに早朝6時にお邪魔することもできず。。

こうして万策尽きて、これはやはり現地事情に通じている気仙沼の人に相談するほかあるまい、ということになり、8月に気仙沼の仮設での活動に協力してくださった起業家の方に相談したところ、これが大変親身になって ぬえらの受け入れの方法を探ってくださって、ついにこの方の知人のお宅にお邪魔させて頂けることになったのでした。

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その9)

2013-11-15 01:42:14 | 能楽の心と癒しプロジェクト
こうして日暮れが迫り、雲も切れ間が多く、なんだか幻想的な雰囲気に。

陸前高田の「奇跡の一本松」は、ご存じの通り震災前には2kmに渡って7万本のクロマツが生えていた「高田松原」の中にあります。震災に遭いながら、その中で倒壊を免れた たった1本の松。それは、その松よりも海側に建っていたユースホステルが防波堤となって、その背後にあった松を守ったのでした。もともと一本松は高田松原の中では海から見ると最も奥まったところにありまして、その位置関係とユースホステルの存在が、まさに「奇跡」を呼んだのでしょう。

もとよりここには一本の松がひっそりと立っていたわけではなく、ユースホステルも松林の中に建っている、という様子だったようです。だからユースホステルが津波を遮ったと言っても、周囲には何百本の松は立っていたわけで、その中で倒壊しなかった一本の松は、まさに奇跡としか言いようがありません。

しかしながら、一本松は倒壊は免れたけれども、潮はかぶってしまったわけで。。こうして震災から1年を経た昨年5月に、とうとう枯死が確認されました。一方、震災直後からこの一本松を保存する「奇跡の一本松保存プロジェクト」が発足し、延命のための処置が施されていましたが、枯死の事実を受けて一本松の再現が試みられることになりました。昨年9月から一本松の伐採が始まり、幹は中をくりぬいて防腐処置が施され、上部の枝や葉はレプリカを作って。。こうして再現工事が完了したのは今年の6月です。

詳しくは→l陸前高田市HP

約2年ぶりに当地を訪れた ぬえとしては、生きている頃の一本松と、それから再現された松と、その両方の完全な姿を、間の伐採された姿は知らずに見ることになりました。

そうして二度目に見た一本松の印象は、まったく生前の姿と変わらなかったです。いや実際のところ、正直に言わせて頂ければ、もっとニセモノっぽいものになっているのかと思っていました。ここまで生き生きと再現できるとは。。やはりこの一本松を残したい、という市民の、それだけでなく全国の人々の熱い思いが結集した形だと思います。その意味で、この松には能舞台の陽向の松のように、人々の思いによって神が宿りましたね。

なお松の向こう側には破壊されたユースホステルがそのまま残されています。陸前高田市では一本松と一緒ににこのユースホステルも保存する意向とのこと。ユースホステルには人的被害はなかったようですし、震災遺構の消滅が進むいま、破壊と再生の両方が見えるこの場所の保存は何としても実現してほしい、と ぬえは願っております。

さて、そんな一本松の前での奉納ですが、日暮れの頃に行われました。気仙沼の「ともしびプロジェクト」さんの協力を頂いたというキャンドルを並べて舞台の形に区切って。下は砂利でしたけれども、もう ぬえは砂利の上での上演は慣れてしまっていて、あまり問題はありませんでした。砂利の上でハコビが出来るようになるとは、2年前には考えもつかなかった。

。。そう言えば ぬえの師匠も以前こんなことを言っておられました。「若い頃、海外公演で美術学校でワークショップをやる事になって。。カチカチに固まった油絵の具がびっしり こびりついた画板をつなぎ合わせた”舞台”で舞わされて。。あれから どこででも舞えるようになったな」。。で、これと全く同じ状況で師匠が舞う場面を、ぬえはミラノで拝見した事があります。軽々と、不安もなさげに舞われる師匠を見たその時の衝撃と言ったら。。 まさか ぬえも同じような経験をするとは思いませんでしたが、ぬえにとっては東北での活動が、舞台人としての経験値を増す絶好の機会に、知らず知らずなっていた、ということですかね。。

「ともしびプロジェクト」さんが並べてくださったキャンドルは そよ風に揺らめいて。。視界が限られているとはいえ ぬえの目からもその美しさは心に響きます。この日上演したのは『羽衣』。太鼓のSさんもこの日のために駆けつけてくださいました。







ぬえの目からは、正面の目安としていた山が。。日暮れとともに見えなくなり、それじゃ、と次に目標にした被災ビルも、これも見えなくなって。。最後は狭い視野の中でキャンドルの灯りを頼りに舞うことになりました。。と、工事現場の方も協力頂いて、投光器を運び込んでくださり。これは終演後、撤収まで照らして頂きました。もとより野天での着替えも致し方ない状況で、これは本当にありがたかったです。

そうして、前述のようにこの日は朝日新聞の記者さんが同行してくださっていました。終演後、一ノ関駅までこの記者さんと太鼓のSさんをお届けしたのですが、駅前に停めた車の中で ちょっとしたインタビューをされまして。そのあと ぬえらは車で東京に帰ったのですが、翌日(10月22日)の朝日新聞夕刊に写真入りで報道されたほか、後日「朝日新聞デジタル」に、このインタビューも含めた動画が、上手に編集されてアップされました。



この動画が、あまりに美しくて ぬえはビックリ。ぬえの視界からは限られた様子しか見通せませんでしたが、まさかこんなに美しい舞台になっているとは。。

。。こうして今回の活動は、あまりに美しい動画という果実を得ることができました。2日間という短い時間に、たった2回の公演ではありましたが、東松島も陸前高田も、どちらも満足のいく活動になったと思います。

l朝日新聞デジタル「奇跡の一本松で能奉納 復興支援NPO、文化庁に提案」

。。これでいつもなら「ミッション・コンプリート」のはずなのですが。。
この数日後に、ぬえらは再び陸前高田での活動を行いました。間にいっぺん東京に帰っているので、ふたつの活動は別にカウントした方が良いかもしれませんが、後者の活動がやはり陸前高田市でのものだったし、それも たった1回だけの活動でしたので、引き続き第17次支援活動の一環として、次回にご報告させて頂きたいと考えております。

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その8)

2013-11-12 08:16:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さてこの日は陸前高田市のシンボルのようになっている「奇跡の一本松」での奉納上演の日です。

そうして特筆すべきは、この日の活動が、ぬえたちのプロジェクトではなく、JIN'S PROJECTの主催・プロデュースにお任せして、こちらは提供された場で活動させて頂く、という初めての試みだったことです。

これは相互に信頼関係があって初めて行えることでしょう。JIN'Sさんとは今年の春から ぬえらプロジェクトの活動の支援を頂いておりますが、ともに協調して活動をする方法を模索していました。ぬえらプロジェクトの活動と比べてもJIN'Sさんの活動はその規模は比較にならないほど大きくて、最初に過去の被災地での活動を聞いた ぬえはビックリ。まあ、仮設住宅などを地道に廻っている ぬえたちの活動も、それはそれで意味があるとは思いますが、企業や行政とともに行うJIN'Sさんの活動は、ぬえたちにはとても真似のできないものでした。

ぬえらにとってもJIN'Sさんの活動には見習うべきことが多く、プロジェクトの活動の方針についてアドバイスも頂くことがあって、そういった経緯から、この夏頃からJIN'S代表の折尾仁さんからこの陸前高田での活動。。わけても「奇跡の一本松」での奉納上演の計画の相談を頂いていまして、10月の活動のスケジュールのうち、たまたま空いたこの日の活動を、そのプロデュースのすべてを折尾さんに委ねてみることにしたのでした。



「奇跡の一本松」は今では数少ない震災遺構です。そこで、期間は限定されてはいますが、「奇跡の一本松駅」も作られていました。もともと陸前高田市にはJR大船渡線が通っていましたが、津波によって気仙沼駅から先。。終点である大船渡市の盛駅の間が被害を受けて不通となり、今年の3月より気仙沼線と同じようにBRT(バス高速輸送システム)による運行が行われています(ちなみに大船渡市の盛駅から先は三陸鉄道の南リアス線が釜石までを結んでいますが、そのうち盛駅から大船渡市内にある吉浜駅までが今年の4月に鉄道が復旧、吉浜~釜石間は代行バスによる運行ですが、こちらも来年には鉄路の復旧予定なのだそうです)。



BRTの駅。。は、要するにバス停なのですが、JR大船渡線の「奇跡の一本松駅」は、もちろん震災前にはなかった駅でした。ここに限らず元は沿岸に近い場所にあった陸前高田駅前が、BRTでは高台に移転した陸前高田市役所の仮庁舎の前に移動するなど、市民生活の現状に即した柔軟な運用がされています。「奇跡の一本松駅」は、その「陸前高田駅」が移転したため、そこから一本松までは徒歩で30分かかるようになってしまい、訪れる人の便宜のためにとして新設された駅なのでした。「臨時駅」としての扱いなので、当初は夏休みの土日の日中だけBRTが停車するだけだったようですが、需要が大きかったのでしょう、9月からは毎日停車するようになりました。しかしこれも期間限定で、駅の設置は11月下旬まで、ということになっているようです。

この日も一本松を訪れる方は、交通の便から考えると かなり多いと ぬえは感じました。もちろん乗用車で来られる方も多いのですが、BRT利用の方もあるでしょう。臨時駅はおそらく来年も設置されるのでしょうが、とりあえず寒さの厳しい冬季の間は休業、といった感じでしょうか。

申し添えておきますと、臨時駅から「奇跡の一本松」までは、それでも徒歩で10分以上掛かります。一本松の周辺はすべて工事現場で、駅から松は見えていても、定められた通路を通ってぐるっと工事地域を迂回して行かなければならないからです。そうしてトイレも駅のそばに設置された仮設の駐車場の中に仮設トイレが数基あるのみ。駐車場には小さな露店もありましたが、あくまで一本松や、前述した道の駅、その敷地内にある追悼施設を訪れる人のために市や工事関係者が協力して便宜を計ったのだと解して、工事の邪魔にならないように見学すべきでしょうね。

この日は仁さんの活躍で市からも多大な協力を頂きまして、担当者の方の先導で工事車両の搬入路から車を乗り入れさせて頂くことができました。駅や駐車場から一本松まで装束を手で運ぶのは大変な労力を要するので、これは大変に助かりました!

やがて装束を着付けましたが、もとより一帯は工事現場ということで、地面にビニールシートを拡げ、そのうえに畳紙を敷いて着替える有様。。一本松を見学に来られたお客さまから丸見え状態での着替えは、ぬえにとっても初めての経験でした~。ま、こういう場所だから仕方がないことですけれども。

天候は前日の大雨からうって変わって、少々雲は多いけれども まずまずの天気だったのは幸いでした。仁さんいわく、JIN'Sさんの企画は いつもほぼすべて晴天に恵まれるとのこと。。ん~? この日もぬえらプロジェクトの企画では大雨、翌日のJIN'Sの企画は晴れ。。そういえば気仙沼での ぬえらプロジェクトの活動でも過去しばしば雨が降って、ぬえは「嵐を呼ぶ男」と陰で言われていましたが。。舞台人がそれで良いのか。。??

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その7)

2013-11-08 20:29:32 | 能楽の心と癒しプロジェクト
急いでいる、という割にはあちこち定点観測とご挨拶をしながら、ようやく陸前高田へ。JIN'S PROJECTの仁さんは ただいま市役所で打合せ中というので、早速にそこへ。

陸前高田市役所は小山の上に建つプレハブの仮庁舎でした。もとはもっと海に近い低地にあったものが。。街並みとともに津波によって破壊されてしまい、いまは現在の場所に仮住まいをしているのです。



。。考えてみれば、ぬえたちが初めて陸前高田を訪れたのは、震災の年の年末。。12月27日のことでした。そして、それも視察をしただけで、ここに一人の知人もいない ぬえたちにとってはその後も活動を行う足がかりはなく、陸前高田を訪れたのは、なんとそれ以来約1年10ヶ月ぶりのことでした。気仙沼からはたった30分の距離ですのに。。

しかし、約2年ぶりだというのに、高田の印象はあまり変わりませんでした。というのも、2年前から高田は見渡す限りの平原、という有様だったのです。こちらがその時の画像。



当時、瓦礫というものはほとんど高田では見かけませんでした。。これは後日気仙沼の人に聞いたのですが、このあたりは木造の家が多かったのだそうで、重機で取り壊すしかない鉄筋造りの建物が少なかったため瓦礫の撤去も早いうちに行われたのだそうです。そのため2年前から高田はどこまでも続く平原に、ぬえの目には映りました。いまはあちこちで かさ上げのための工事が行われていて、さながら街中が工事現場のよう。

こちらは2年前の「一本松」で、まだ枯れる前で、「希望の一本松」という呼び方がされていたように思います。保護のためか幹の下の方が緑色に塗られていて、周囲には少数でしたが建物の残骸も残っていました(現在でもこの近くに「道の駅 高田松原」が被災した状態のまま残されていて、やはり震災遺構として保存するかどうか検討されているほか、敷地内に慰霊碑を含む小さな追悼施設が建てられました)。







さて仁さんと合流してから向かった「奇跡の一本松」。いつの間にか呼称も「奇跡」で統一されたようですが、それより驚いたのは、2年前には大きな土盛りがあって、それをぐるっと迂回しないと見えなかった「一本松」が、市内のどこからでも眺められるほど、松の周囲が整理されてしまったこと。そのうえなにやら巨大な建造物が、気仙川をまたいで建てられていました。橋? 鉄道のための陸橋? それにしちゃ壮大すぎるかも。だいたい、わざわざこんな大きな橋を通す必要がいまあるのだろうか。。?

どうやら正解は一帯のかさ上げをするため付近の山を削って、その土砂を運ぶ巨大なベルトコンベアを作っているんですって(!)。。これはプロジェクトの事情通、笛のTさんがすでに情報を取得済みだったのですが、なんでも後ろの山を削って、そこは高台の宅地とし、土砂は平地部分のかさ上げに使うのだそうです。そうしてそのその土砂を運ぶのにダンプを使う代わりに考え出されたのがベルトコンベア。土砂を山からダンプで平地に運ぶには間に気仙川があって交通の妨げにもなり、交通事故の恐れも高まる。それを回避する作戦ですが、どうやらこれほど大がかりな装置を建設しても、ダンプより経費のうえでは有利、ということもあるらしいです。

この事情がわからず、巨大建造物の画像は撮っていないのですが、周囲の工事現場の様子から察してくだされ。この状態の中で装束を車から降ろして上演準備をするのはかなりの慎重さと覚悟が同時に必要。。





かさ上げ工事 ダンプ200万台分の土を運ぶ計画 - UR都市機構

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その6)

2013-11-07 01:09:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて緑さんと別れて内湾地区に向かい、魚市場のそばでM島さんを拾って一路陸前高田市をめざすことに。

M島さんは東京の某郵便局長さんで、やはり被災地支援活動を続けておられる方です。石巻で活動され ぬえたちがお世話になっている神戸のボランティア団体「チーム神戸」さんとも繋がりが深く、ぬえたちもそこでM島さんを知ったのですが、M島さんの活動はむしろ気仙沼に比重が置かれているようで、鹿折の復幸マルシェさんなどで多くの活動をしておられます。ぬえから見ても、よくまああれほど頻繁に。。と思うくらい、週末ともなれば気仙沼にいるらしい。

そうして最近では「東北ひとめぐりツアー」という企画を立ち上げて、首都圏などの人を被災地にお連れして体験談を聞いてもらったり、名物料理を堪能してもらうなどの旅行を主催しておられます。この日も偶然にも前日までがそのツアーがあり、M島さんは忙しくしておられたのですが、この日はもうツアーの終了後ということで、1日を ぬえたちと行動をともにすることになっていました。

それから何と言ってもM島さんは ぬえたちにとっては今年の3月に気仙沼で上演した『星と能楽の夕べ』公演で有能な機材オペレーターとして八面六臂の大活躍をして頂いた恩義があります。そこで ぬえとしても気仙沼にほど近い陸前高田での活動には今後ともM島さんも巻き込んで、ご一緒に活動できたらいいなあ、と考えていました。

陸前高田での活動は ぬえたちプロジェクトが上演するのですけれども、計画はすべて いつもお世話になっているボラ団体の「JIN'S PROJECT」さんの企画・主催になるものですから、そちらの賛同は必要ですけれども、まあ同じボラ仲間ということで ぬえの気持ちはわかってもらえるだろうと考えて。

こうして、少し急いで来てください、とはJINSさんから言われていたのですけれども、ちょっと時間が掛かりながら陸前高田に向かいました。

。。と思ったら、そうだった! 高田への通り道には鹿折の復幸マルシェさんと、解体が始まったという「第十八共徳丸」があるではありませんか。

というわけで やっぱり寄り道してマルシェへ。(^_^;)

これまたお世話になりっぱなしの小野寺由美子しゃんとも久しぶりに顔を合わせることができました。この日は高田へ急がなければならないので滞在はほんの数分でしたけれども。。





こちら第十八共徳丸。防塵・防音壁によって中を窺い知ることはできませんが、すでにあの巨体はこの壁の影に隠れてしまうほど小さくなって。。震災遺構として保存するかどうか、賛否の論争がずっとずっと続いていた共徳丸もすでに解体が進んでいるようでした。



つい先日。。夏に訪れた際にはまだ2年前と同じようにここにあった共徳丸。震災遺構を残すことに当初は反対の立場だった ぬえではありますが、その後は複雑な思いを抱いていました。そうして、いざなくなってしまうと、また一つ、震災の記憶が風化してゆくのを感じざるを得ません。保存された震災遺構が観光名所のようになってしまうのも具合が悪いですが、解体撤去されたために誰もその土地に目を向けなくなるのもまた、さらに大きな問題ですね。。

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その5)

2013-11-06 02:32:14 | 能楽の心と癒しプロジェクト
大雨の中、一路気仙沼へ。翌日は陸前高田市の「奇跡の一本松」の前で奉納する予定でしたので、東松島市からは100kmほども離れているため、少しでも近いところに投宿するのがよかろう、ということになり、気仙沼の常宿に宿泊することにしてありました。ボランティアとしては立派なホテルに泊まるわけではないので、宿の方が眠る前に到着しないと。。(^◇^;) で、気仙沼に向かいまして、無事チェックイン。それから、夏の活動でご一緒した市民の協力者・緑さんと再開し、10日ほど後に再び当地を訪れる際に休憩させて頂くことになっているOさんのお宅にご挨拶を済ませまして、ようやく夕食にありつくことができました~。なんか緑さんにはお世話になりっぱなしで、「能楽の心と癒やしプロジェクト」の気仙沼リーダーということになっておりまする!

この頃にはもう雨もほとんどやんでいまして、緑さんと笛のTさんと一緒に、気仙沼ホルモンのお店へ~。そろそろサンマのシーズンも終わりに近づき、気仙沼では あの! 戻りガツオの季節になりつつあるのですが、この時間と天候では行き先も限られて、常宿に近いホルモン屋さんに行きました。やっぱウマ~。ぬえたちはもうこのお店も常連さんやね~。

【10月21日(月)】

例によって早起きした ぬえでしたが、このところは早朝から車であちこち見に行くことは少なくなりました。歳かしらん。。 それでも朝食はガッツリと。。この常宿の向かいは仮設商店街の「復幸小町」さん。



それからBRTになってからの「南気仙沼」駅がすぐそばにあります。本来はJR気仙沼線の南気仙沼駅はもっと海に近い場所にあったのですが、駅は津波で壊滅しまして、そうしてその地域全体が機能しなくなっている現在では、市街の中にBRT駅が設けられています。



これが朝食の弁当~。常宿のすぐ向かいには「ほっとべんとう」というお店があって、このハンバーグ弁当が290円(だったかな)だ!



やがて10:00にチェックアウト。まずは「復幸小町」さんの中にあるカフェ「エスポアール」さんで緑さんと合流。この時は緑さんのお友達のお店、というくらいの認識しかなかったのですが、緑さんも被災者のお一人で、エスポアールさんはご近所さんだったのです。いずれもここからほんの少し海。。ここからは海に繋がる大川という川に近い場所に緑さんのご実家があり、エスポアールさんが店を構え、そうして10日後に休憩場所を提供してくださり、その事前のご挨拶に昨夜お伺いしたOさんのお宅もそこに。そうして津波はすべてを洗い流し、Oさんのお宅だけが修繕されてかつての姿を取り戻したのでした。。これらの事情がわかったのは、10日後にOさんのお宅に再度お邪魔させて頂いてはじめて知ったのですが。。

さて緑さんと合流して、ちょうど季節だ、というんでサンマを買いに出かけましたよ~。こちら、田中前の付近、ちょっと奥まって解りづらい場所にある「さかなの駅」。



いや、あまりにも豊富な魚の品揃えにただビックリ。さすが地元市民の緑さんは「これは高いなあ」なんて言いながら品定めをしてくださいました。



そうこうしているうちにキハダマグロが運び込まれてきましたよ! そうして早速に解体ショー。いや、ショーではなかったですが。緑さんはお父さんが漁師さんで、お母さんはマグロをさばくのも上手だったそう。。こういうのは港町ならではですね。





。。と、ここで、先に陸前高田に行っているJIN'S PROJECT代表の折尾仁さんから連絡があり、午後に到着予定だった奇跡の一本松に、少し早めに来てくれませんか、と。わかりました! 。。が、まだサンマを買ってない。。ので、急いで緑さんお勧めの「磯屋水産」さんにお邪魔して、無事 お世話になっている伊豆の子ども能関係者の方々にサンマを送る手配をしました。このお店はボラさんの間でも有名です。



さて陸前高田に向かう予定のところ、緑さんを経営するお店にお送りし。。ところがここで緑さんのお店の看板が「ネットワークオレンジ」さんの事務所に置き忘れてあったことが判明、たいした距離ではないのですぐにそれを取りに行くお手伝いをすることにしました。

ををっ、5月以来の「東新城オレンジ」。内装もすっかり事務所兼作業所の様子になっているな~、と思って、看板だけを頂いて去ろうとしたとき!





ネットワークオレンジさんが支援する障害児童たち。。キッズの面々がお散歩? から戻ってきました。を~、ゆかぽんも厚子先生も、千葉さんもおるではないかっ! 懐かしいメンバーと、ほんの少しの時間旧交を温めました。

さて緑さんのお店の看板を運んで、ここで緑さんとは別れ、今度は別の人を拾って陸前高田に向かうことになります。

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その4)

2013-11-02 00:10:19 | 能楽の心と癒しプロジェクト
定刻16:30より「能とピアノの夕べ」公演開始。ホントはピアノを弾いて頂いている30分後に日没時刻を迎えて、次第に暮れてゆく空の下で公演は進行するつもりだったのですが。。外は大雨。くやしい~

でも集会所の電灯を消して持ち込みのスポットライトを灯すと、不思議となかなか良い雰囲気になりました。40個灯したLEDキャンドルも なかなかのもの。。ほとんど見えないか。それでも大勢の住民さんが雨の中集まってくださいまして、御子柴さんが司会を兼ねてピアノ演奏を始めました。

ここ東松島市の「グリーンタウンやもと」住宅は250世帯の住民さんが暮らす大きな仮設住宅で、その中に今回の会場となった「ひまわり集会所」はあります。面白いのは仮設住宅の自治会のほかに、この集会所にもまた「ひまわり自治会」があること。どういうわけで集会所に自治会組織があるのか、よくわかりませんのですが、ともかくこの集会所、とっても活気がありました。ぬえたちが到着したときも住民さんたちが盛んに作業をしておられ、やがて御子柴さんと内野さんが開演前のリハーサルを始めると、早速作業の手を止めて歓声を上げられました。

今回は東松島市のサポートセンターよりこちらの仮設を紹介して頂きましたため、受け入れは市ということになっていまして、担当者さまと自治会長さんのご挨拶を頂いての開演となり、雰囲気を大切にしたいため、司会の御子柴さんに我々の活動の内容の説明などを少々アナウンスして頂いたほかは、とくに能は無言で上演するようにしました。

控室としてご用意頂いた部屋は子どもの遊び場として集会所に併設された建物で、まるでオモチャの家のようなメルヘンチックな外観です。本来ならばこの「こどものみんなの家」をバックに屋外で上演し、この家をライトアップする予定だったのですが。。それよりも、この控室と上演会場の集会所との間が、併設されているとはいえ2mほど離れていて、渡り廊下で繋げられています。上にはなんとかビニールシートが掛けられていたのですが、この大雨でどうしても雨が漏る。。とくに面は水に弱いので かなり心配したのですが、登場の直前に渡り廊下を拭いて頂き、そこを通るときに傘をさしかけてもらって、無事 上演会場に出ることができました。

。。このとき。姿を現した ぬえ。。『羽衣』の天女の姿を見て、最前列に座っていた おばあちゃんがニッコリと、音のしないように指先だけを打ち合わせて拍手してくださったのを見て、ぬえもようやく安心。『羽衣』を舞い終えて、この日は仮設住宅での活動ですけれどもロマンチックなコンサートを行う催しなので、装束の着付け体験コーナーはナシ。引き続いて再び御子柴さんのピアノ演奏になりますが、こちらにはじめて内野さんのフルートも参加します。リハーサルを見ていた ぬえは、この2人のコラボを見て公演の成功を確信しました。いつもはクラシックの曲だけですが、今回は演奏者が2人ということで新しい展開も見せ、ピアソラの曲なども演奏されました。フルートでピアソラ! でもとっても美しい曲でしたね~

ぬえは控室で面と鬘だけをはずして待機、やがて『花は咲く』の演奏となって、その終わる頃を見計らって笛のTさんと一緒に再び登場、用意してあった花束を住民さんの代表に捧げました。ぬえはもちろん、ぬえが登場したときに小さく拍手をくださった、あの おばあちゃんに。

これで終わろう。。としたのですが、思わず住民さんからアンコールの要望が出ました。え~、もちろん ぬえたちに、ではなく、御子柴さんと内野さんへ。「え~、どうしよう」とちょっと困る2人。そりゃそうでしょう、おふたりは東京と茨城と離れて住んでいて、今回は ぬえの所望で初めて顔を合わせて練習して、そしてこの日の上演を迎えたのですから。。

ところが住民さんから「じゃ、ふるさと やってよ」という声が掛かり。。するとお二人はすぐさまそのリクエストに応えて演奏を始めたのでした。んん~~、いくら『ふるさと』だとはいえ、キーも何も決めないで こんなに即座に演奏できるものかしらん??

。。こうして公演は、かなり良いレベルで終えることができ、住民さんにも喜んで頂けたと思います。でもなあ、なんかフルートの内野さん人気に能が負けた、というか。。微妙に「能とピアノの夕べ」、というよりは「フルートとピアノと、そいからちょっと能もね、の夕べ」みたいになったのは気のせいか。。

終演後、大雨の中装束や機材を撤収。集会所では住民さんの宴会が始まるみたいで、お誘いも頂いたのですが、今夜の宿泊地。。80km離れた気仙沼に行かなきゃならんとです! もう全身ずぶ濡れ状態で、でも荷物は濡らさずに出発することができました。(今回は写真撮れませんでした。。)

第17次支援活動<東松島市・陸前高田市>(その3)

2013-11-01 01:42:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
やがて会場の「ひまわり集会所」にピアニストの御子柴聖子さん、今回はじめて共演をお願いしたフルートの内野浩乃ちゃんが到着。大雨の中、まずは上演準備を進めて、それから上演時間も迫ったところでミーティング。

本当は星降る空の下で上演したかった「能とピアノの夕べ」公演ですが、仮設住宅の集会所に会場が変更になったことで、少しく計画を変更することとしました。。その前に、ピアニストの御子柴さんとフルートの内野さんが事前に会ってこの日の演奏曲の選定と練習をしてくださった際に、御子柴さんから「今回は最後に復興ソングの『花は咲く』を入れてもいいですか?」と、わざわざ ぬえに問い合わせを頂きました。

いえ~? 「星と能楽の夕べ」公演でもこの「能とピアノの夕べ」公演でも、ぬえから選曲の指定をしたことはなく、ぬえは上演の全体のイメージを伝える程度で、あとは御子柴さんにお任せしています。ぬえにはそれほどクラシックの曲について知識があるわけでもないし、まして公演のプロデュースのようなことはしても、ぬえは自分が出演していない部分の細部にまで口を出すような立場でもありませんし。だから毎度 御子柴さんから「こういう曲をやろうと思っています」と言われても ぬえは口をポカンと開けたまま、ただ「ロマンチックにお願いします。。」と言うばかり。。(^◇^;) でもこの度は、『花は咲く』を演っても良いですか? と御子柴さんから珍しく相談のような連絡が来て、ぬえはそこから どんどん夢が膨らんできました。

ぬえはねえ、本音を言わせて頂ければ、震災の年に生まれたこういうもの。。「絆」という言葉とか復興ソングの類には どうもずっと違和感を持っていて。。好きになれずにいました。なんだか現実に起こっている惨状とはまったく別の次元の。。机の上だけで生み出された物のような気がして。それは、当時すでに自分が身体を動かして活動していたから そう思った、というような虚栄心ではなくて、ぬえたちの活動がまったく手探り状態で、活動の受け入れ先を探すだけでも大変だった時期があったからかもしれません。当時は東京のスケジュールを やり繰りして1週間東北に滞在する予定を立てたのに、出発3日前になっても活動の受け入れが決まったのは1カ所の避難所だけ。。という事もありました。この時はホント、泣きそうでした。笛のTさんに少し早めに現地入りしてもらって直接交渉をしたり、ぬえが到着してから飛び込みで出演のお願いをしたり。。こうして活動スケジュールを埋めることが出来、そこから活動はどんどんと広がりを見せて行ったし、そのときの受け入れ先の方々とは現在でも交流が続いております。

こういう、何かをしたい、という思いひとつで手探りで単身被災地入りをしたボランティアさんは当時たくさんいましたね。ぬえたちは自分たちの活動の内容には自信はあったから、余計受け入れて頂けなかったのはつらかった。そんな時にテレビから流れるキャッチフレーズや復興ソングには、ぬえたちでは到底できない財力や人脈の豊富さが垣間見えるような気がして。。たぶんその「豊かさ」が ぬえの心に違和感。。いやむしろ反発のような感情を呼び起こしたのかも。。ただの嫉妬でしかなかったのかもしれません。

「絆」という言葉は、いつの間にか色褪せてしまったようですね。最近はちっとも聞かなくなった。でも『花は咲く』の方は、今でもよく耳にするし、いろいろな人がカバーするようになって。。定着するに従って ぬえの耳にあった違和感もいつの間にか消えてしまいました。そこで、御子柴さんからの提案を聞いた ぬえは即座に反応することができました。

なるほど「能とピアノの夕べ」公演は仮設住宅や仮設商店街で行う催しとは別のもの。。もっとフォーマルでロマンチックな「公演」として ぬえは捉えていました。今回の活動場所は仮設住宅ではありましたが、ここには子どもたちの遊び場として建てられたメルヘンチックな建物があり、そうして開演は夕暮れ時で、上演会場は野外。だからプラネタリウムを現出させてその下で能を舞う「星と能楽の夕べ」と同じ次元で考えていたのですが、やはり仮設住宅での公演では住民さんと触れあう楽しい時間を共有するのが良いです。御子柴さんの提案はその視点に立ったもので、アットホームな雰囲気のコンサートを目指していました。これに ぬえはすぐに飛びついて、『花は咲く』の演奏をフィナーレに、という提案に賛成しました。

で、ぬえは夢をふくらませて、事前に花屋さんに寄って花束をいくつか作って頂いて、これを、そのフィナーレの『花は咲く』の最後に出演者から住民さんに配る、という計画を立てました。

この打合せ、照明や楽器、音響の設営までをすべて終えると、もう開演は目の前。。大雨の中、住民さんは集まってくださるかな~? という不安を感じる時間もなく、上演時間が迫ったので ぬえも装束を着ることにしました。