ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

乱能の申合

2009-01-29 00:50:05 | 能楽
今日は朝から稽古が続き、そのうえ夜には乱能の申合に行って参りました。あ~、長い一日だった。

今日は乱能の上演曲目のうち、能3番の申合が行われました。やはり大勢の能楽師が出演する催しですから、みなさんのスケジュールを合わせるのは本当に大変で、乱能の主催者はとんでもないご苦労だと思います。シテ・ワキ・ワキツレ・間・囃子・地謡・後見。。どの役をとっても専門外の仕事を見よう見まねでやるのですから、少なくとも主要な演者だけは全員顔を合わせないと申合になりませんし。。

それでも どうしても主要演者のスケジュールが合わない曲もあるようで、最後の手段というか、乱能当日に申合をする曲もあるようです。そこで問題が起きるともう本番までに修正が間に合わない可能性もあるのですが、そこはそれ、どうも少なくとも囃子だけはウデに自信のある方が揃っている曲が当日申合になっているようですから、安心して見ていられるようです。

さて ぬえが鼓を打つ能『邯鄲』ですが、楽(がく=シテが一畳台の上で舞う舞)を少し短縮し、また地謡どころもシテに型のないところは少々省略する、という約束だったのですが、この日申合に行ってみると、どうも地謡どころは省略せずにすべて演奏しよう、という話が持ち上がっていました。おいおいっ

まあ。。普通、ホール能などの公演でどこか地謡を省略する、と決まっても、ぬえは万が一の用心のために全曲覚えて申合には臨むようにはしておりますが、今回は。。鼓の手を覚えるのが大変で、お言葉に甘えて省略箇所として指定された部分の鼓の手は覚えなかったのです。。でも申合の楽屋で言われたことには「なんでも、大小鼓が本気モードだからキチンと全部やろうか、って話になったらしいよ」。。ぬえのせいなのかいっ

で、しばらくしたら大鼓でお相手してくださる関根祥人さんがお見えになって。「こういう機会もなかなかないから全曲覚えてきました」。。本気モードの人。。見つけました。

仕方がないので、恥ずかしながら ぬえは申合では省略箇所だけ本をカンニングしながら打ちました。。当日までには覚えて臨みます。。(×_×;)

で、申合の状況ですが、もうすでに爆笑の連続で。。いや、『邯鄲』に限って言えば、みなさん ふざけて舞台に立っている人はいないのですが、それでも普段と勝手が違って 決まり悪そうなシテやワキの姿を見るだけで、本職の人がそれを見ると。。いや、一生懸命やっている方には悪いんだけれども、ついつい。。一人がプッと吹きだしてしまうと、もういけません。(^◇^;)

ぬえに関して言うと、あれだけ一生懸命覚えたつもりなのに、今日も2箇所間違えました。。あ~ん、もうっ! (`´メ)そのうえ申合が終わった頃には、またしても左腕が痛い~~。それでも久しぶりに小鼓を囃子のアンサンブルの中で打つのはと~~っても楽しかったです! それにしても囃子方は毎日、今日はこの催しであの曲、明日は別の舞台でこの曲、と打ち分けているわけでしょう? それでもメチャクチャに破綻することなんて、まず見たことがありません。ぬえにとって囃子を能一番キチンと打つのがこれほど大変なのに、彼らの記憶力ってのはどうなっているんでしょう??

また今回は、ぬえと同じシテ方の中にも、これほど囃子に詳しい人がいるのか~、と感心しました。ぬえの囃子オタクは有名なのですが、今回の乱能では囃子にとって至難の曲が並んでいます。囃子は主にシテ方が担当する事が多いのですが、今日の申合を見る限り、破綻はほぼ皆無の状態でした。ということは、ぬえ以上に囃子を打つのが大好き! というシテ方が多くいて、こういう機会を千載一遇!とばかりにしっかり研究して来る人が多い、ということを物語っています。笛を担当して、本職であるかのように指が自在に動く人。自分が楽器を打つのに手一杯ではなく、ちゃあんとアンサンブルを奏でたり、さらにはリードまでできる人。

もう次の月曜日が乱能の当日なのですね~。ところが聞けば、この乱能の翌日から海外公演に出かける人がいたり、また乱能の前日に新作能の本番を迎える人もおられるそうです。ひゃ~~、そんな過密スケジュールの中で、よくまあ乱能のお誘いに名乗りを上げたものだ。。それでも申合で頂いたお役の最低限のレベルはきちんと習得してくるんだから。。やっぱりプロだね~、みなさん。

久しぶりに『葵上』のツレを。

2009-01-27 03:59:39 | 能楽
先週末も地方公演が続きましたがこの週末もあちらこちらと移動しておりました。

土曜日は群馬県・伊勢崎市で先輩の主催する能楽公演。ぬえは『葵上・梓之出』のツレ・巫女さんのお役を頂いて、無事に勤めて参りました。

ぬえはこの『葵上』の巫女の役は一番の当たり役ではないかな~? もうかれこれ10数回は勤めていると思います。と言ってもその大半は書生時代に勤めたもので、ツレ役自体が久しぶり~の舞台でした。

しかし『葵上』という能は本当によく出来ている曲だな~、と思います。ツレの巫女はワキツレの左大臣家の臣下に促されて「天清浄地清浄、六根清浄」と謡い、これは梓弓をつま弾きながら謡っているという設定で、この謡の間小鼓が静かにプ。。ポ。。プ。。ポ。。と梓弓の擬音の心で打ってくださいます。ツレというのは助演者ですから、シテと比べれば軽く謡うのが基本ですが、『葵上』の巫女はシテを導き出す役目なので、常のツレよりは少し静かに謡ってもよいとされていますね。この小鼓も、ツレ相手の囃子でここまで静かに打つということは少ないのではないかと思います。

小書「梓之出」の時はここでツレは謡うのを止めて、大小鼓だけが打ち続け、笛のアシライも加わって、その神秘的な雰囲気の中で前シテが登場します。シテは幕際三之松まで出ると足を止め、梓弓の音を聞き入る体で立ち居。ツレは大小鼓が3クサリ(3小節)を打つまで待って、それから「寄り人は今ぞ寄り来る長浜の。葦毛の駒に手綱揺りかけ」と調子を張って謡います。このところ、とっても美しい節付けがなされていて、ツレの謡の独壇場ですね。この謡の中でシテはシオリをし、左に歩み出して、ツレの謡いっぱいに一之松に到着して正面に向きます。このときツレからはシテの姿は見えませんが、シテが三之松から一之松まで位を保って歩めるように気を付けながら謡います。そして大小鼓のコイ合の手を聞きながら、うまく囃子の手の合間にシテに謡を渡すように気を配るのです。

じつは3クサリの謡の休止のときも、その前にツレがうまくクサリの終わりに合わせて「六根清浄」と謡い切らないとなりませんで、ツレが謡い切って次のクサリ(小節)が始まり、さてそれから「1クサリ目。。いま2クサリ目。。」と、幕内にいて いよいよ登場するシテも、ツレ自身も、ツレが謡い止めている間だけアシライを吹く笛方も、み~んな大小鼓が打つ3クサリを心の内で数えながら舞台は進行しているのです。ですからこの3クサリになる前にツレが「六根清浄」の謡を大小の手組の中のとんでもない中途半端な拍数のところで謡い止めたら、みなさん大混乱に陥るわけなのです。こういうわけでこの曲のツレには心得や大小鼓についての知識がある程度なければ役は勤まらないのです。書生時代にもかなり早い時点で ぬえはこのお役を頂いておりましたが、ああ。。その頃はずいぶんみなさんにご迷惑をお掛けしていたんだろうなあ。。

とは言っても時にはツレの謡の速度と大小鼓の速度とが微妙にかみ合わない場合もありまして、そんな時のために、事前に楽屋の中で打ち合せはしておきます。「もしも謡が半端になったら、そのクサリは捨てて あと3クサリで。。都合3クサリ半で」というように、これは謡い切る責任はツレにあるので、ツレの方からシテの了解を得たうえで囃子方にもよくお願いしておきます。誰かが数え損なったり、勘違いしてツレが間違った間で謡い出してしまったら、これまた大混乱なのです。ははあ、考えてみれば書生の頃はシテ。。ほとんどの場合は師匠でしたが、そのおシテから「半端になったらそのクサリは捨てて、あと3クサリ数えてから謡い出せ」と指示を頂いていました。未熟な ぬえが謡い出すタイミングは、師匠としては毎回冷や汗ものだったことでありましょう。。

こうして難関のシテの登場の場面が済んでも、『葵上』のツレは割と謡いどころもたくさんあるし、このあとにはもっと重要な場面もある。シテの相手役としてはかなり重要な役目ですね。。久しぶりに勤めてみて、あらためてそれを感じました。

翁の異式~父尉延命冠者(その8)

2009-01-24 01:49:07 | 能楽
「翁之舞」が終わると、父尉は面箱の方へ歩み行き、着座すると常の通り父尉の面を外して面を面箱に収め、これにて再び神である父尉から、人間である大夫へと戻ります。今回の「父尉延命冠者」では、このとき延命冠者も立ち上がって面箱の側に行き、父尉と並んで着座すると延命冠者の面を外して面箱に収めていました。

それより千歳は再び面箱の隣の座に戻って正面へ向き端座するわけですが、面を外して直面となった千歳は、冒頭の場面でまだ延命冠者の面を掛ける以前のように両手を床につけて平伏することになります。

面を外した大夫は常の『翁』の通り立ち上がって正先へ出、正面に深く平伏して拝をし、それが済むと着座のまま幕の方へ向き直ります。このとき千歳も幕に向いて二人一緒に立ち上がり、幕へ引きます。

こうして「父尉延命冠者」の異式での『翁』が終わります。大夫と千歳が幕に入ると小鼓は一端打ち止め、改めて「揉み出し」と呼ばれる三番三の登場を告げる演奏を打ち始めます。

このときの三番三ですが、ぬえの拝見した限りでは常の『翁』の場合の三番三と変わるところはありませんでした。まあ、それでもお狂言方の実技の細かい点までは さすがに ぬえも存じませんので、お狂言方の友人に楽屋で聞いてみたのですが、やはり何も変わるところはないようでした。

昨年でしたか、ぬえの師家の正月初会で、やはり『翁』の異式の「法会之式」が上演されたのですが、このときは翁や千歳は常の『翁』と比べると詞章に変化がある程度で、演出としては ほとんど変化はありませんでしたが、ところがこの時は三番叟が「鈴之段」で、鈴ではなく短い錫杖を持って勤めておられ、これには驚きました。たしかに鈴は神道に属する祭祀の道具でしょうから、「法会之式」の名の通り、この異式演出が仏式であるのならば、三番叟が鈴ではなく錫杖を手にするのは理に叶っていると思います。が、実際には「法会之式」の詞章を見る限り、仏教色はまったく感じられませんでしたが。

しかし「法会」と言うからには仏式、と考えるのは現代人の錯誤であるかもしれません。明治になるまでは日本の宗教は「神仏混淆」で、仏教と神道は共存関係にありましたから、「法会」と名が付けられているからと言って、神道色が全く排除される理由はないのです。また「法会之式」は奈良の多武峰だけで上演されてきた個性的な『翁』で、神仏混淆の時代にあえて「法会」と呼ばれているこの『翁』の異式の意味は、そういう地域の独自性も考慮して考えなければならないでしょう。そのうえ、この「法会之式」は江戸期に成立した演出で、多武峰の古態をそのまま保存したとは必ずしも言えない、という問題もあります(ちなみに観世流の「父尉延命冠者」も同時期の成立です)。「法会之式」は追善能などで稀に上演されますが、これも「法会」という言葉が「法要」を連想させるから、という誤解だという指摘もあって、「法会之式」の三番叟に仏教色の強い錫杖を使うようになった歴史は、この異式の成立事情の検討の材料として吟味されるべきでしょうね。

ちなみに上記で ぬえは「三番三」「三番叟」と書き分けていますが、前者は大蔵流の表記で今回の「父尉延命冠者」は大蔵流の所演、後者は和泉流の表記で、「法会之式」の上演時は和泉流だったので、このように区別しておきました。

大蔵流の演者に伺ってみたところ、前述のように「父尉延命冠者」のときにも三番三には演出の変化はないらしいのですが、同じく「法会之式」であっても錫杖を使うことはなく、やはり演出に大きな変化はないようです。こうなると、『翁』の異式というものは そもそもどのような意味や意図が込められているのか。このあたりを解明するのは困難ではありましょうが、江戸期の成立になる『翁』の異式について考えてみたいと思います。

翁の異式~父尉延命冠者(その7)

2009-01-23 00:48:28 | 能楽
まずは前回のご報告の訂正から~。。(..;)

<<面を掛け、父尉となった大夫は、「揚巻や とんどや」と謡い出し、やがて「座していたれども、参らうれげりや とんどや」と、常の『翁』と同じ型ではありますが、扇を開いて立ち上がり、両腕をひろげて千歳と向き合います。>>

と前回書いたのですが、「父尉延命冠者」の場合、千歳の二度目の舞のあとの文句が次のように替わるのでした。

父尉「あれはなぞの小冠者ぞや」地謡「釈迦牟尼仏の小冠者ぞや。生まれし所は忉利天」父尉「育つ所は花が」地謡「園ましまさば。疾くしてましませ父の尉。親子と共に連れて御祈祷申さん」

この父尉がはじめて立ち上がるところ、型としては常の『翁』と変わりはありません。違うところは、まず大夫が「白式尉」などの いわゆる「翁面」ではなく、「父尉」の面を掛けていること、千歳に替わる「延命冠者」が脇座に控えずに大鼓前あたりに立ち居て、この場面で父尉と向き合うことです。

ところがこの場面、それでは常の『翁』では千歳はこの場にはいないとなると、翁大夫は誰と向き合っているのかと言うと、それは三番三なのです。常の『翁』の上演の冒頭、囃子方や地謡が座に着くとき、三番三は舞台に入り、常座で両手をついて控えますが、この場面で翁が立ち上がると三番三も立ち上がり、翁と向き合って、それから翁は正面に向いて「ちはやぶる。。」と謡い出し、この時三番三は後見座にクツロいで、狂言方後見によって装束を改められて、後に三番三を踏むのに備えるのです。

この度の公演では「父尉延命冠者」の場合も三番三の型は常の『翁』と同じでした。つまりこの場面、千歳に替わる延命冠者が大夫の父尉と向き合うのと同時に、常の通り三番三も立ち上がって大夫と向き合うことになり、父尉に対して大鼓前の延命冠者、常座の三番三の二人が向き合う形になります。やがて三番三は後見座にクツロギ、父尉と延命冠者の二人は正面に向き、常とは違う次の文句を連吟します。

父尉・延命冠者「一天収まって日月の影明かし。雨潤し風穏やかに吹いて。時に随って干魃水損の恐れ更になし。人は家々に楽しみの声絶ゆる事なく。徳は四海に余り。喜びは日々に増し。上は五徳の歌を謡ひ舞ひ遊ぶ。そよや喜びにまた喜びを重ぬれば。共に嬉しく」地謡「物見ざりけり ありうとうとう」父尉「そよや」

連吟が済むと延命冠者は父尉の後ろを通って、先ほど控えていた位置。。面箱持が居る脇座の一つ下に着座します。父尉は「そよや」と謡ってから「翁之舞」。。かつて「神楽(かみがく)」と呼ばれていた舞を舞います。

「翁之舞」ですが、これまた常の『翁』とは変わったところはないようでした。「翁之舞」は、大夫が両腕を拡げたまま鼓の打つ粒(一つ一つの打音)に合わせて一歩ずつ進み、まず角柱まで行って足を止め(両腕も下ろし)、やはり鼓に合わせて足拍子を踏み、これを「天の拍子」と称しています。ついで再び両腕を拡げ、鼓に合わせて歩を進め、脇座前で足を止めて「地の拍子」。ここから鼓は位を早めて打ち進み、大夫は大小前から正先へ出て左の袖を巻き上げ、これを下ろしたところで鼓も位を緩めて打って「人の拍子」となります。今回も ぬえの拝見した限りでは「翁之舞」はこれと全く同じで、とくに変わるところはないようでした。

「翁之舞」が済むと大夫は再び袖を拡げて「千秋万歳の喜びの舞なれば。ひと舞舞はう万歳楽」地謡「万歳楽」大夫「万歳楽」地謡「万歳楽」と祝詞を重ねて、これにてひと通りの式が終わり、大夫は面を外して楽屋に退場する「翁帰り」となります。

ところが「父尉延命冠者」ではこの最後の大夫と地謡が掛け合いに謡う詞章に小異があります。すなわち大夫が常は「千秋万歳の<喜びの舞>なれば」と謡うところを「<祝ひの舞>なれば」と替えて謡うので、これはやはり『翁』の異式のひとつである「十二月往来」や、「初日之式」「二日之式」の場合に用いる詞章です。「父尉延命冠者」では千歳之舞のあたりの詞章にも「十二月往来」(と「初日之式」)に使われる詞章が用いられていますから、理由はわかりませんが「父尉延命冠者」の作者は「十二月往来」に対して強く関心が向けられているような感じを受けます。

乱能の準備(その2)附・うさぎに芸を仕込んだ囃子方

2009-01-22 00:36:27 | 能楽
今日は乱能で小鼓を打つために、小鼓方の先生に稽古をつけて頂きました。

ぬえが小鼓の稽古を受けた、尊敬する穂高光晴先生はすでに他界。。そこで同じお流儀の先生に無理をお願いして稽古をつけて頂いたのです。中森さんの主催される乱能は5年毎に開催されていまして、前回の乱能でも ぬえは能『土蜘蛛』の小鼓のお役を頂戴し、同じ先生にお稽古をつけていただきました。あ~あれからもう5年も経っているのねえ。。

今回の ぬえのお役は能『邯鄲』の、やはり小鼓のお役です。そして小鼓の手付け(=譜面)は ぬえはもとより所蔵しておりますので、自宅ですぐに予習はすることはできるのです。がしかし。。。『土蜘蛛』と『邯鄲』とでは やはり難易度にとんでもない開きがありました。まずは手組を覚えるのにひと苦労。。穂高先生のもとで『邯鄲』の小鼓は稽古したはずなのですが、そしてその当時よりも、その後地謡に何度も出て経験を積んでいる分だけ謡は隅々まで覚えているはずなのですが。。それでも『邯鄲』は地謡の拍子当たりも、囃子の手組も、ややこしいところがたくさんあって。

そのうえシテが舞う「楽」の小鼓の手組が。。ああああぁぁぁ、こんなに複雑だったっけ??? 毎週のように小鼓の稽古に通っていた書生時代は苦もなく覚えたのに、今回久しぶりに覚え直したら、今回は「楽」も少し短くなるっていうのに、もうその手組の複雑さに翻弄されっぱなしでした。

そんなわけで、今日の稽古はあっちで蜘蛛の巣に引っかかり、こっちでラビリンスに迷い込み。。4回? いや5回は間違ったのではなかろうか。。こんなはずではなかった。。やはり稽古というものは、止めてしまうと確実に腕が落ちるものですね~。。

さらにさらに。能一番の鼓の稽古を受けたら、もう左腕が痛くて痛くて。。書生時代は鼓も楽に打てたけれど、もう身体までついていかないのかい。あ~~情けない。。まだ乱能当日までは2週間近くありますんで、もうちょっと身を入れて稽古しよう。。(・_・、)

しかしまあ、やはり囃子は面白いです。ぬえはシテ方の中でも囃子にはオタクの方だと思うけれど、今日は鼓の「手放れ」(革を打つためにどういうタイミングで手を下ろすか)のお話とか、替エの手組のこと、それから大鼓や太鼓の流儀によっての手組の合わせ方など、興味深いお話をたくさん伺うことができましたし、何といっても四拍子のアンサンブルの中で鼓を打つのは、やはり楽しいですねっ

閑話休題。

じつは囃子方の友人の一人が うさぎさんを飼い始めまして。しかも耳が垂れたロップイヤーなんですって。(*^。^*) これを聞いたのが昨年の暮れあたり。ところが先日ある楽屋で彼とまた会いまして、そしたら、なんと! うさぎさんに芸を教えたんですって。(#^.^#)

「え?え? 芸? なにができるようになったの???」
「バンザイです」
「ええええぇぇぇぇ、バンザイ??」(O.O;)
「はい。一緒にやるんですよ。バイザ~~イって」Y(^^)ピース!
「。。。。」(´。`)

そしたらもう、ぬえの頭の中にはバンザ~イって両手を上げてる うさぎさんの想像図がグ~~ルグルまわっちゃって。。(×_×)(*^。^*)(゜_゜;)(^o^)
このまま引きずって、地謡に出ていてニヤけてしまったらどうしよう (ノ><)ノ ヒィ ってぐらい困りました。。

ふ~~ん、芸ってできるんだあ。。いいこと聞いた。。ヘ(;^^)ノ

乱能の準備

2009-01-21 01:21:01 | 能楽
最近はどこの楽屋に行っても、ちょいと楽屋の片隅に人が集まると、来月の乱能の情報収集の話題で持ちきりですね~(^_^;)

「まだぜ~んぜん調べてないんだよね。。今忙しくて。。」(・_・、) と稽古不足に悩む人があったり、自分につけられたお役の稽古の中でわからないところを「ね、ね、ここんとこ、どうやるの?」と専門職の友人に聞いてみたり。ぬえも囃子方の友人に仕舞の型を教えたり、反対に鼓を打つうえでの注意点を囃子方に教えてもらったりしています。

「まさか全曲やらないよね?」「そうそう、上歌を省略するって言ってたよ」という会話もあります。乱能で長い曲が上演される場合は、やはり型のないところなどを一部省略することもあります。ぬえも年末に、小鼓のお役を頂いた能『邯鄲』でおシテを勤められる太鼓方の観世元伯さんに会ったので、省略箇所や上演のやり方で注意すべき点を聞いておきました。やはり多少の省略と、楽の段数の省略があるそうでしたが、もうすでに気分はあちらがおシテでこちらは囃子方だったり。(^_^;)

それから「あの人って太鼓は何流なの?」「ん~と、たしか○×流で稽古していたんじゃなかったっけな」と囃子のお役がついた人がお相手の流儀を調べたりするのは必須の準備ですね。乱能では普段の自分の専門職を離れて別のお役を勤めるわけなのですが、そうすると いろいろと相手をして頂く方の流儀の特徴も知っておかく必要があって、これを知らなければ上演は不可能だし、その前に自分の稽古もできないのです。

たとえば囃子の場合、お笛が一噌流であるのか、あるいは森田流であるのかによって、同じ曲であっても太鼓も大小鼓も打つ手が変わってきます。また太鼓の流儀によっても、とくに大小鼓はその太鼓の流儀によって手を変えて打たなければなりません。大鼓の流儀、小鼓の流儀の相違が全体に大きく影響することは比較的少ないのですが、それでもそのお流儀の特徴もありますので、やはり相手がどのお流儀であるかを知っておくのは演奏の上で大前提になるのですね。

で、これが通常のお能の上演であれば、誰がどのお流儀に属しておられるのかは自明なので、これは問題がない。番組を見れば、今回はどのお流儀の組み合わせで演奏されるのかは一目瞭然で、それに従ってそれぞれのお役は公演前に準備や稽古をしておくのです。

余談ですが、考えてみれば、シテ方だって流儀によって詞章も異同があるし、舞の寸法にも違いがあります。シテ方には5つの流儀があってワキ方には3流。そして囃子では笛方が3流、小鼓が4流、大鼓は5流、太鼓が2流。間狂言として能に登場する狂言方にも2流あります。そうすると、同じ曲であっても流儀の組み合わせの違いによって、上演の内容には3,600通りのバリエーションがあるということになります。まあ、都市によっては在住の演者がいない流儀がある、という事もありますが、それを差し引いて、さらに演者の個性や家による違い、また実演上では装束や面の選択による演出効果の違いなどをすべて無視しても、やはり全く同じ状態での能の上演というのは、事実上あり得ない確率になるのですね~。

さて乱能に戻って、乱能では たとえばシテ方が囃子を勤めたりするわけで、その場合、あるシテ方が鼓を担当するとすると、それはその人が書生時代に習った鼓の技術を思い出して、それを舞台で披露することになるわけです。つまり、その人が乱能で鼓を打つ場合、その人が書生時代に習った小鼓の先生の流儀で打つことになるのが一般的で、ぬえの場合は小鼓は幸流で習いましたし、今回も幸流の手を打ちます。

ところが、お相手の方が書生時代にどなたについて小鼓を習ったのかは、そりゃ、知るよしもありませんです。そこで、お相手の方と楽屋で会う機会でもあればご本人に直接尋ねますし、あるいは四方八方に情報を集めることになります。こういう情報は、いろいろな会の楽屋に出入りされるお囃子方がよくご存じですね~。おかげさまで ぬえもお相手の流儀をすべて知ることができ、ようやく鼓の稽古が本格的に始動しました。

翁の異式~父尉延命冠者(その6)

2009-01-19 07:30:41 | 能楽
常の『翁』の場合「千歳之舞」の終わり方は、千歳が大鼓の前のあたりで右袖を巻き上げ、開いた扇を左手で顔の前に出して足拍子を踏むところで終わりになります。この後『翁』では千歳は元の座~すなわち脇座に戻って前の通り両手を床について平伏し、以下大夫が舞い終えるまでそのまま控えています。

「父尉延命冠者」では型は常の『翁』の通りながら、延命冠者はこのあと脇座へ控えることはなくて、大鼓前で右袖を払って扇をたたみ、そのままその場に立ち居ます。

大夫は、常の『翁』の場合と同じですが、この間に。。千歳之舞の間に面箱から面。。この場合は「父尉」面を取り出し、面に拝礼してから顔に掛け、後見が面紐を結びます。あ、書き損じましたが、千歳も延命冠者の面を掛ける前には面に拝礼しております。これは『翁』だから特別に神体である面に敬意を払うのではなくて、すべての能では役者は面を掛ける際には必ず面に対して拝をしてから顔に掛ける決まりになっていまして、また能が終わって面を外した際も、やはり面に対して拝をしてから後見に手渡すことになっております。これらはいずれも普段は楽屋の鏡之間で行われるのでお客さまの目に触れないのですが、『翁』の場合だけは役者が舞台上で面を掛け、また外しますので、お客さまにその様子がよく見えるのですね。

ちなみに『翁』では大夫も千歳も、面を掛ける際には役者の後頭部で直接 面紐を結びますね。じつはこれが後見にとっては なかなか厄介なのです。普通の能の場合では、たいていの場合面を結ぶ面紐は、直接役者の頭に結びつけるということはなくて、女性の役であれば鬘の上、尉の役であれば尉髪の上から面紐を結びます。また男の役とか鬼神、また天女の役などでは「垂れ」や「頭(かしら)」という、結うことをしないで、役者の頭にすっぽりとかぶる鬘を用いますが、この場合はそれらの鬘の下に役者は水泳キャップのような小さくてぴったりとした頭巾をかぶっていまして、その上から面紐を結んでいるのです。

鬘類や頭巾の上から面紐を結ぶのは造作もないのですが、役者の頭髪に面紐を結ぶのは意外にコツが要ります。やはり頭髪の上からだと面紐がすべりやすくて、また縛った紐も緩みやすいのです。じつは常の能の中にも、いくつか直接 役者の頭に面紐を結ぶ曲はありまして、『雲林院』『小塩』『玄象』『須磨源氏』、また小書がない場合の『融』など、男役の後シテで初冠をかぶる場合がそれに当たります。

ただこれらの曲の場合は面紐を結ぶのは鏡之間で行われますから、後見は役者に締め加減とか具合を確かめながら面紐を結ぶことができます。これが『翁』では、お客さまの目の前で行われるので、そういうわけにもいかないのです。鏡之間では役者と言葉を交わしなら、後見はその注文に応えていけば良いのですし、また具合が悪ければやり直す事もできます。しかし舞台上では もたもたと手間を掛けるわけにはいきませんで、ひと息で面が着けられなくてはならないですね。面を掛けるのも演技のうちになってしまうわけです。

ぬえも一度だけ『翁』の後見を仰せつかって、大夫の面紐を舞台上で結んだことがありますが、この時はひと息で面紐を結ぶことはできたのですが。。まあ。。冷や汗が出ました。大夫にとってもここで具合が悪い後見では、その後の演技に対する気持ちが壊されてしまうでしょうし、どうしても とくに『翁』では後見は普段から手腕が信頼されている演者が勤めることが多くなりますね。

面を掛け、父尉となった大夫は、「揚巻や とんどや」と謡い出し、やがて「座していたれども、参らうれげりや とんどや」と、常の『翁』と同じ型ではありますが、扇を開いて立ち上がり、両腕をひろげて千歳と向き合います。

翁の異式~父尉延命冠者(その5)

2009-01-18 03:06:58 | 能楽
さて大夫は まだ直面のまま「とうとうたらりたらりら。。」と謡い出します。このあたりは詞章もすべて常の通りで、ただ通常の『翁』と違うのは、大夫の隣に面を掛けた延命冠者が着座し、面箱持は常の千歳の居所である脇座に着座している、という点だけです。

やがて延命冠者が立ち上がって舞う場面となります。これまた型は常の千歳が舞う「千歳之舞」と全く同一のものでした。常と異なる点としては、千歳之舞を舞う役者が延命冠者の面を掛けていること、そして総体に常の『翁』の千歳よりも ゆったりと舞っているようでした。

千歳之舞。。これも常の『翁』の千歳が舞う舞と型は変わらないけれども、「父尉延命冠者」ではこの舞を舞うのは千歳ではないのですから、厳密には「延命冠者之舞」と呼ぶべきでしょうが、ともあれこの舞は型としては舞台の四方を廻って型をキメるのが主体のように見えます。さればこそ型も颯爽としていますし、神体である翁面を掛けた大夫に神が影向するその前に舞台を清め邪気を払う「露払い」としての役割が期待されているのだと思います。そしてこの千歳之舞? の面白いところは、ほぼ同じ型の舞を二度舞う、というところなのです。

すなわち「鳴るは瀧の水」と延命冠者が謡い出しながら両袖の露を取って立ち上がり、地謡を聞きながら大小前より正先に至り、「絶えずとうたり、常にとうたり」と延命冠者が謡い切ると一番目の「千歳之舞」となります。大小前まで下がった延命冠者は、まず脇座、次に常座、最後に角 と、舞台の三方向の隅に向かって気を込めて型をキメ、最後に大鼓前にて正面に向き、左手に扇を横握りに持って前へ出して「所千代までおはしませ」と謡い、さて右後ろに小さく廻りながら扇を右手に持ち直し、再び大小前から正先へ出て、再び大小前まで下がりながら両袖を巻き上げて足拍子を踏むところから二度目の「千歳之舞」となります。

これまた先ほどと同じように、舞台の三方向の隅をキメる型が連続するのですが、最初の「千歳之舞」と違うのは、この度は扇を広げて舞うことと、先ほどの舞よりも急調に舞うことになっています。小鼓の手も最初の舞と比べると二度目の舞の方が打ち方も急調ですし、拍子を刻むように打つ手に変わります。

ところで「父尉延命冠者」ではこの最初と二度目の「千歳之舞」に挟まれた部分で延命冠者と地謡が謡う詞章が常の『翁』。。つまり「四日之式」とは異なっていますね。

◆四日之式
千歳「君の千歳を経んことも。天つ御空の羽衣よ、鳴るは瀧の水日は照るとも」地謡「絶えずとうたりありうとうとうとう」

◆ 父尉延命冠者
延命冠者「所千代までおはしませ」地謡「我らも千秋さむらはう」延命冠者「鶴と亀との齢にて。所は久しく栄え給ふべしや鶴は千代経る君はいかが経る」地謡「萬代こそ経れありうとうとうとう」

ちなみにこの詞章は「父尉延命冠者」独特の詞章ではなく、『翁』の異式演出の一つ「十二月往来(じうにつきおうらい)」と同一の詞章となっています。余談ですが、『翁』の異式では、この千歳之舞のあたりの詞章は異同のあるところで、「父尉延命冠者」と比べると、「初日之式」「法会之式」が地謡が謡う部分に小異があるけれどもほぼ同文(「さむらほう」が「さむらはん」と謡われる程度)なのに対して「二日之式」「三日之式」では かなり異同がある本文となっています。

翁の異式~父尉延命冠者(その4)

2009-01-17 00:13:02 | 能楽
さて幕が揚がり役者が橋掛りを歩み、やがて面箱持は舞台に入り角柱の下に下居ます。次いで大夫が舞台正中に入り、このとき千歳も舞台常座に斜に入り、大夫が正先に出て両袖をさばいて下居ると千歳も舞台常座で両手を床について控えます。三番三以下は橋掛りに居並んで下居、やがて大夫は正面に向かって深く平伏します。このとき大夫は口中で祝祷の詞を唱えるのが『翁』の習いとされています。

正面への拝が済むと大夫は地謡座の方へ向き直って立ち上がり、地謡座に行くと右に振り向き、両袖を返して指貫を両手で取り、安座します。このとき大夫は膝で音を立てて安座し、これを合図に面箱持は大夫の方へ向き直り、面箱を高く捧げ持って立ち上がり、大夫の前に進むと面箱を下に置きます。これより面箱持は面箱をさばきます。まず面箱の紐を解き、蓋を開けるとそれを裏返して、面箱の中より面を取り出して、裏返した面箱の蓋に置きます。通常はこのときに取り出されるのは翁の「白式尉」だけなのですが、「父尉延命冠者」の時は父尉と延命冠者の二つの面を取り出して蓋に載せます。

面箱のさばきがおわると面箱持は立ち上がり、これを合図に千歳も、また橋掛りの諸役も立ち上がって所定の位置に進みます。すなわち千歳は脇座に行き、角かけて下居て再び両手を床について控え、面箱持は千歳の下に着座します。三番三はさきほど千歳が控えていた舞台常座に下居、次いで囃子方、シテ方後見、狂言後見、地謡がそれぞれの位置につきます。なおこのとき囃子方以下は橋掛りから舞台の後座にかかるときに一人ずつ正面に向いて片膝をついて拝をし、それからそれぞれの所定の位置に向かうのが本来なのですが、最近はこの拝は略される事が多くなってきました。

囃子方の先頭の笛方は、笛座に着座するとすぐに扇を置いて笛を取り出し、「座付キ」と呼ばれる譜を吹き出します。大小鼓はこれに続きますが、ことに小鼓の三人は大変で、着座する頃にはすでに笛が吹き出していますので、扇を抜くと急いで床几に掛け、素袍の両肩を脱いで道具(楽器)を取り上げ、小鼓の締緒を解いて構えなければなりません。笛は「座着キ」を吹き終えるとすぐに「ヒーー、ヤーーアーー、ヒーー」とヒシギを吹き出し、すぐに小鼓三挺が打出します。

さて「父尉延命冠者」では千歳の役が「延命冠者」となり、同じ名前の面を掛けて舞を舞うのですが、大夫と同じくやはり舞台上で面を掛け、しかも小鼓が打出し、大夫が「とうとうたらり。。」と謡い出すと、いくばくもなく千歳之舞になってしまいます。そこで今回は、小鼓が打ち出すと、千歳はすぐに立ち上がって面箱の傍らに行き、下居して延命冠者の面を取り上げ、後見の介錯によって面を掛けました。

まずは囃子方が演奏を始めてまだ誰も動いていない状態の中で、千歳だけが面を掛けるのはどうも少し勝手が違う感じもしますね。また千歳が面を掛けているのは大夫が謡っている最中にも当たり、さらにその位置関係から、謡っている大夫の姿が千歳のために見所から見にくい、という事もあるのではないかと思います。ただ、どうしても千歳之舞になる前に延命冠者の面を掛けるためには、このタイミングで動作を行うより仕方がないでしょう。

面を掛けた千歳。。というかこれより「延命冠者」に変身した、と考えるべきですね。。は、そのまま大夫の隣の位置で向き直って下居しています(面を掛けている間は両手を床につける平伏の姿ではありませんでした)。この位置には通常では面箱持が座っているのですが、この時は千歳が立ち上がって面箱の傍らに来ると、面箱持はいざって脇座に着きました。つまり通常の場合とは千歳と面箱持の位置関係が逆になります。

翁の異式~父尉延命冠者(その3)

2009-01-16 01:00:15 | 能楽
と、ここまでは常の『翁』と「父尉延命冠者」との違いはまったくないようですが。。

このとき今回の面箱の中には、常の『翁』では翁が掛ける白色尉(または肉色尉)、三番三が掛ける黒色尉、そして同じく三番三が使う鈴が入れられているところ、このときは父尉面、延命冠者面、黒色尉、鈴が入れられています。常には直面である千歳が「延命冠者」の役となって面を掛ける、というのがこの演出の一つの大前提ですから、これも当然といえば当然ですが。。

さて舞台に向かって切り火が切られると大夫は「お幕」と声を掛けて幕を静かに揚げさせます。「翁渡り」と呼ばれる大夫を中心とした出演者の登場ですが、本当に静謐に、荘重に行われるのを旨とします。

「翁渡り」では、まず幕が揚げられると面箱持が立ち上がって面箱をうやうやしく捧げ持ち、先頭に立って登場します。神体たる面を入れた箱が最初の登場人物なのですね。面箱持がおよそ橋掛りの半分までも進んだ頃、ようやく大夫が姿を現します。その次に登場するのは千歳ですが、大夫と千歳との歩む間隔は、およそ橋掛りの柱一本分程度でしょうか。続く三番三もおおよそ千歳との間隔を柱一本分ほど取って後に続きます。

三番三に続いて笛・小鼓三人・大鼓の順で囃子方が、さらにシテ方後見、狂言方後見、地謡が登場します。三番三より後に登場する演者は、それほど間を空けずに、前の人に続いて登場します。

この登場の間隔がまちまちなのは何を表しているかと言うと、役の軽重。。と言っては語弊がありますが、神と人との分け隔て、という意味が込められていると思います。

すなわち神体たる面を収めた面箱は先頭に登場し、大夫は面を掛けるまでは人。。神職という役割なのです。それで面よりはずっと間隔を空けて。。つまり後に控えて登場するのではないか、と ぬえは考えています。その後に登場する千歳は、神体が大夫の顔に掛けられて影向するその前の露払い役であり、舞台を清める役。さらに三番三は翁が退場してから、その「もどき」として神と人との仲立ちをする役目でありましょう(「もどき」についてはこのブログで以前 ぬえが考察した「翁附き脇能」の項を参照ください)。これらの役は翁の祈祷の式の中では、実際に祭司を取り仕切る役であって、そこで舞台への登場の間隔を少し大きく取ることで役の重要度が表されるのではないかと思います。

それでは囃子方や地謡が軽い役割なのかというと、それは当然、侍烏帽子・素袍に身を包んで大夫らとともに神酒を頂き、粗塩を身にふりかけて身を清めた人々が神事に欠くことのできない重要な役である事は論を待たない事でしょう。彼らが間隔を空けずに引き続いて登場するのは、大夫らと比べての職掌の違いから来るものでしょうか。

すなわち神職たる大夫と、その露払いや三番三は、ともに神事において秘事に直接携わる人間であり、それに比べて囃子方や地謡は、神事に奉仕する神官という役割なのだと思います。神の降臨に関して、直接神体に触れる、というよりは むしろ音を鳴らし声を出すことによって「言霊」を呼び寄せ、神の来現を約束する役目なのでしょう。

そういえば、現在「翁之舞」と称される大夫の舞は、そう古くない以前までは「神楽」と書いて「かみがく」と呼んでいました。さすれば囃子方や地謡は、天鈿女命のように神楽によって神を呼び寄せる役目なのかもしれませんですね。

翁の異式~父尉延命冠者(その2)

2009-01-14 09:51:30 | 能楽
さて「父尉延命冠者」ですが、以下のような進行で上演されました。ぬえも初見なので興味津々。

まず楽屋の鏡之間には翁飾りが設えられるのですが、これは例の通りのもので、何ら変わりはありませんで、三段の八足台の上にムシロを敷き、その上に定められた通りに『翁』に使う小道具類や供物を飾り付けるのです。もっとも以前に「翁附き脇能」のレポートをしたときにも触れましたように、同じ観世流の中でも、家によってそれぞれの道具類を置く位置や供物の内容に小異があるようです。ぬえの師家では最上段に御神酒を入れた錫口(しゃっこう)と呼ばれる瓶を二つ置き、その間に面を入れた面箱を置きます。二段目には「翁」および「千歳」が使う道具類、すなわち翁烏帽子、翁扇、千歳が使う侍烏帽子、小さ刀、神扇を並べ、さらにその傍らに火打ち石を置きます。最も下の段には左右に奉書を敷いた三方を置き、片方には神への供物なのでしょう、ぬえの師家ではスルメを載せ、もう一つの三方には洗米、粗塩、そして土器(かわらけ)という素焼きの盃を三枚程度、さらに懐紙を数枚載せておきます。

以前のレポートでは、家によって道具類の置き場所が違い、そして供物が違いました。ぬえの師家では供物は上記の通りスルメですが、家によっては生の尾頭付きの鯛であったり、鰹節だったりするのですよね。ぬえはその時初めて家によってそれほど違いがあるのかと知ってびっくりしましたけれども。

「父尉延命冠者」に限ったことではないですが、『翁』が上演される際には楽屋ではふだんの能の上演よりもずっと早く準備が始まります。大夫、千歳、三番三、面箱の各役も早めに装束を着(このとき「翁飾り」に置かれた道具類には切り火が切られ、そして「翁飾り」から下ろされて翁と千歳に着付けられます)、また囃子方も道具(=楽器)の用意を早めに済ませて素袍を着、地謡や後見も素袍を着て備えます。そして開演の15分前には各役は鏡之間に集合して、お囃子方はここですぐに「お調べ」をします。

通常の能ではこの「お調べ」が開演の合図のように、「お調べ」が済むとすぐにお囃子方は橋掛りに登場しますが、このように『翁』では開演のずっと前に「お調べ」は済んでしまうのですよね。『翁』の開演は、静かにお幕が揚げられて、面箱持を先頭に各役が無言で登場しますので、お客さまにとっては「お調べ」もなく、いつの間にか開演している、という感じに映るかもしれませんですね。

このように「お調べ」が早く行われるのは、開演の直前に登場する各役が楽屋で「清め」の儀式を行っているからです。すなわち「お調べ」が済むとシテ方の後見が「翁飾り」から 洗米と粗塩、そして土器を載せた三方を下ろし、また錫口を下ろして、翁、千歳、三番三、面箱、お囃子方。。と順番に各役を廻って「清め」の手伝いをします。各役は後見が来ると左手で洗米を、右手で粗塩をひとつかみ取り、洗米は口に入れ、粗塩は自分の身にふりかけます。次いで土器を一枚手に取り、後見は錫口から御神酒をその土器に少しだけ注ぎ(ぬえの師家では三度に分けて注ぐことになっています)、お役はこれを飲み干すと盃に残った滴を懐紙に空けて土器を戻します。

こうして各役がすべて「清め」を終えるのに10分程度は掛かるでしょうか。そういうわけで装束の着付も、「お調べ」も、『翁』のときはふだんよりはずっと早く準備が行われるのです。

さて開演の準備が整うと、各役は幕の前に登場の順番に立ち並びます。もっとも先頭の面箱持だけは座って、シテ方後見より面箱を受け取ります。これで完全に開演の準備が整い、シテ方後見によって各役に切り火が切られ、さらに幕の隙間から舞台に向けて切り火が切られて、いよいよお幕が揚げられます。『翁』の場合はお客さまにとっては、この舞台への切り火が開演の合図になるかもしれませんですね。

翁の異式~父尉延命冠者(その1)

2009-01-13 00:16:44 | 能楽
今日は師家の1月初会に出勤して参りました。上演中にちょっとしたアクシデントもあったようでしたが、それでも正月の初会は、舞台にも注連縄が張り巡らされ、演者も全員裃姿。やはり気持ちの良いものです。

この日『翁』の異式演出「父尉延命冠者」が上演されましたが、師家としても数十年ぶりの珍しい上演で、ぬえもこの日が初見でした。珍しい上演とあって事前に ぬえもこの小書? についていろいろ調べてみまして、これも面白い事実がわかりましたし、この機会に「父尉延命冠者」を中心に、『翁』の異式演出についてしばらく書いてみたいと思います。

まずは「父尉延命冠者」の舞台進行についてのレポートです。

そもそも『翁』の異式演出「父尉延命冠者」とは「父尉」(ちちのじょう)と「延命冠者」という二人の登場人物の名前そのものでもあり、またその役に扮するために役者(大夫と千歳)が掛ける。。ということはすなわちこの曲の「ご神体」としての二つの面の名称を並記した表記でもあります。

通常『翁』ではシテ。。というか。。ん~、どうも「シテ」という言葉は『翁』に限ってはしっくりこないな。。やっぱり「大夫」(たゆう)でしょう。。は、通例は「翁」と総称される「白色尉」もしくは「肉色尉」の面を掛け、ツレに当たる千歳は直面で演じます。ところが観世流ではことに『翁』には異式の演出が他流と比べても多くありまして、その中には使用する面にも大きく違いがある演出もあるのです。

現在 観世流では『翁』の異式演出として「初日之式」「二日之式」「三日之式」「四日之式」「法会之式」「十二月往来」「父尉延命冠者」「弓矢立合」「舟立合」の、合計九つの演出があります。で、これが通常 上演される『翁』のほかに九つの演出があるのかというと そうではなくて、通常はこのうち「四日之式」というバージョンの『翁』を上演しているのです。

かつて能は、勧進能など入場料を集める目的とか、将軍宣下能などめでたい記念の催しなどでは、数日間~十数日間に渡って演能が行われました。そのときは最初に『翁』を上演し、引き続いて脇能~修羅能~鬘能~四番目能~切能の順で曲の「カテゴリー」ごとに5番の能を演じて、ところが切能は鬼退治などの殺伐とした能が多いので、終演に際しては「祝言能」と呼ばれる めでたい短い能を追加し。。あるいはもう一度脇能(神様が登場するめでたい能)を半能形式で上演して、円満にその日の上演を終える、という形式を持って毎日 演能が続いたのです。ついでながら能と能との間には狂言が演じられましたが、狂言の曲もやはり「カテゴリー」に分類されています。たとえば脇能のあとに演じるのは、やはりめでたい結末を持つ「脇狂言」で、現代でも正月によく上演される『末広』などがそれに当たります。

さてこのように数日間を掛けて上演する能の催しを「日数能」と言い、祝言の意味を込めて「日賀寿能」などとも表記されました。そこでは毎日いろいろな能が、重複を避けながら選曲されて上演されるわけですが、それでも冒頭には必ず『翁』が上演されます。このとき連続上演される『翁』には、それぞれの日によって詞章に小異を加えて、これを以て「非同一」が図られました。「初日」~「四日」までの式は その名残を留めている、と言われています。なぜ「五日之式」以降がないのかというと、それは日数能の五日目以降は「四日之式」を繰り返して上演したから、だそうで、それだから結果的に最も上演頻度が高くなる「四日之式」が現在では『翁』の通常の上演例となって固定化された、と説明されます。(一説には日数能の五日目は「初日之式」に還って上演した、とも言われていますし、どうも『翁』の上演形態の変遷は、そう単純なものでもなさそうではありますが。。

怒られた。。(・_・、)

2009-01-12 00:39:43 | 能楽
う~~む、この乱能のアナウンスが遅い! と。。多方面からお叱りを受けてしまった。。もうチケットが買えないだと~??(`´メ)

はい。。じつは昨年の夏より以前に、早くも ぬえに乱能に出演しませんか? というお誘いの手紙が主催者から届きました。ぬえは大喜びで、すぐに希望するお役の欄に「能の小鼓のお役をくださ~~い」と書いて返信して。主催者の中森さんは、偶然にも昨年の「狩野川薪能」で能『嵐山』の地頭をお願いしてありましたので、その申合の際も、薪能の当日も、なんとなく主催者との会話の中で話題にはなっていたのですが。。

でもまあ、参加表明をした能楽師の配役の割り振りを主催者がして、仮番組が ぬえらに提示されるまでには日数も必要でしたし、また ぬえもどのようなお役が頂けるかどうかはその仮番組を待たなければわからないわけで、とてもアナウンスできる状態ではありませんでした。

ようやく仮番組が出来上がったのは秋も深まった頃だったと思います。これを見て ぬえは初めて能の『邯鄲』のお役を頂いた事を知ったのでした。でもこの頃の ぬえは、ちょうどマリカ姫が失踪したりで、なんだかトラブル続きだった頃だったので、これまた乱能のアナウンスができない状態だったですね~~

そうこうしているうちに、主催者から ぬえに乱能の宣伝チラシが送られてきました。これは年末にそろそろ近づきつつある頃で、ああ。。忘れもしない、狩野川薪能の反省会が行われて、その場で翌年は薪能中止という宣言を聞いた頃なのでした。これでまた、ぬえの気分は沈潜してゆく。。

その後 ぬえからも狩野川薪能の実行委員会にいろいろな提案も出す試みをしてみたり。。なんだか不安定な年末年始でしたですね。そして年が改まり、薪能の存続が ぬえに告げられて、そうしてようやく ぬえも安心して、乱能のことを考える余裕が生まれてきたのでした。

そんなこんなで、ぬえのお弟子さんも、チケットの購入どころか、いま現在 まったく乱能が催されることさえ知らなかったりします。

すみません、ぬえ自身楽しく心待ちにしていた乱能なのですが、こういう事情でご案内が遅れました。。

え~と。。(゜_゜;)

ぬえのサイトに「狩野川薪能」の画像をアップしました!! Y(^^;)ピース!

許してくれない。。? (・_・、)

乱能の番組

2009-01-10 01:33:29 | 能楽
久しぶりの乱能ですが、どうやらネットでは詳細な番組が公開されていないようですね。
ぬえに届いた番組を要約すれば以下の通りになります。


鎌倉能舞台四十周年記念特別公演「乱能」
2009年2月2日(月)午前11時開演 於・国立能楽堂

能 邯鄲
 シテ=観世元伯、子方=鵜澤洋太郎、ワキ=安福光雄、間=一噌隆之
笛・中所宜夫、小鼓・ぬえ、大鼓・関根祥人、太鼓・中森貫太
舞囃子 小袖曽我
 高野和憲/深田博治
   笛・御厨誠吾、小鼓・古川充、大鼓・中森慈元
能 土蜘蛛
   シテ=善竹十郎、頼光=佃良勝、胡蝶=善竹富太郎、トモ=善竹大二郎
 ワキ=安福建雄、間=高野彰
   笛・野村小三郎、小鼓・五木田三郎、大鼓・佐久間二郎、太鼓・中森健之介
狂言 蚊相撲
   シテ=駒瀬直也、アド=奥川恒治/遠藤喜久
仕舞 高砂 河村眞之介
   三笑桜井均・梶谷英樹・大川典良
   船弁慶 吉谷潔
一調 勧進帳 謡・野村万作 小鼓・武田宗和
   西行桜 謡・柿原崇志 大鼓・関根祥六
能 猩々乱 双之舞
   シテ=野村萬斎、ツレ=亀井広忠、ワキ=古賀裕己
   笛・中森貫太、小鼓・味方玄、大鼓・森常好、太鼓・坂真太郎
舞囃子 吉野天人 飯富雅介
   笛・新井麻衣子、小鼓・弘田裕一、大鼓・桑田貴志、太鼓・墨敬子
一調 屋島 謡・久田舜一郎 小鼓・足立禮子
半能 融 十三段之舞
   シテ=一噌庸二、ワキ=白坂信行
   笛・鈴木啓吾、小鼓・河村晴道、大鼓・味方健、太鼓・小島英明
狂言 
   シテ=殿田謙吉、アド=ワキ方宝生流のみなさん
半能 石橋 大獅子
   シテ=山本東次郎、ツレ=山本泰太郎/山本則/山本則重、ワキ=山本則直
   笛・山本則秀、小鼓・味方團、大鼓・柴田稔、太鼓・山本則俊

入場料=全席自由/6,000円

うひゃ~、ホントに盛りだくさんの番組ですね~。ぬえは初番の『邯鄲』の鼓だけを打つことになっていて、今から楽しみです~~ ところが、チケットはすでに完売らしいです。。

そして今年は。。乱能だ!

2009-01-09 01:26:34 | 能楽
そういうわけで今年の予定もほぼ固まってきました。

で、まず最初の ぬえの注目の舞台は。。 乱能だったりするのでした。

乱能というのは、能楽師がふだんの専門職を離れて、たとえばシテ方が囃子や狂言を演じたり、囃子方がシテやワキなど装束を着けたお役を演じたりする、文字通りわざと「乱れた」状態で演じる能・狂言の催しのことです。誰かの年祝いなど、めでたい記念に催されることが多いですね。最近はめっきり少なくなってしまいましたが、中森貫太氏が主宰する鎌倉能舞台だけは5年ごとに記念の乱能を催されています。そして今年は来月。。2月2日に国立能楽堂で「鎌倉能舞台四十周年記念特別公演」として乱能が催されます。

ぬえも前回。。5年前に初めてこの鎌倉能舞台さんの乱能に出演させて頂きましたが、いや~~楽しかったこと! それ以来毎年指を折って5年が過ぎるのを待ち望んでおりました~ (^_^;) 昨年は中森晶三師がなくなられて、お祝いの会とはいえないけれども、故人が乱能を愛していたことから、貫太氏は今年の乱能を決行することに決められたそうです。故人へのお手向けにもなる催しなのですね。。

さて乱能では、自分の専門以外のお役でありながら得意としている分野で異彩を放つ技を見せる人もあり、また、まあ わざと舞台の上でふざける人もありで、もう何でもあり状態です。かつて ぬえが拝見した ある乱能では某シテ方が狂言を演じていて。。それが、もともと生真面目な方なので「どうしてまた狂言を。。?」と思う番組でしたが、案の定 いつものカッチリとしたシテ方の演技ではなくて、とっても困ったような。。おずおずとした狂言でした。これには見所も大爆笑で。。これは間違いなく主催者のイタズラで、ご本人に断りなく わざとお狂言のお役をつけたのでしょうね~

実際には、普通は主催者から乱能のお誘いがあるときにはお役の希望を問い合わせてくださる場合が多くて、鎌倉能舞台さんの場合もそのとおりでした。ぬえは囃子には明るい方ですが、とくに小鼓の稽古を非常に長く続けていたので、乱能では迷わず小鼓のお役を希望します。それも ぬえの場合は「舞囃子などではなく、お能の小鼓のお役をやらせてくださ~い」とお願いしています。そして当日は ふざける事は一切なくて、ふだんは人前で演奏する機会のない小鼓を囃子のアンサンブルの中の一役として打つことを楽しみます。もっとも、ぬえのような立場では、たとえ乱能でも舞台の上で羽目を外すべきではないでしょう。ぬえもそういうやり方でお客さまを楽しませる、というよりは、やはり鼓を舞台の上でちゃあんと打ってみたい、という思いが強くあります。今回は能『邯鄲』の小鼓のお役を頂きましたが、とっても楽しみにしています。いや~~実際、前回の乱能では、囃子って面白いな~と、心から思いましたね。もっとも本職の囃子方から見れば当然 下手の横好きでしたでしょうけれども。。

さて乱能のお役は上記の通り、ふだんとは違うお役を勤めるのですが、ぬえのように、修業時代に親しんだ自分の専門職以外のお役を 本職のように演じてみたい、ということもあり、また全く知らない未知の分野のお役を勤めることもあります。その場合でも、何となく、ですが番組づくりにはルールもあります。たとえばシテ方がワキを演じることは ほとんどないと思います。これはシテとワキとが芸質が似通っていて、ある程度以上の出来が最初から保証されているからで、これではお役を取り換えることから来る面白みが薄いから、なのでしょう。これも絶対ではないですが、なんとなく決められたルールの一つではないかと思います。

ではふだん装束を着ける役の人が乱能では絶対に「立ち方」をしないのか、というと、これまたそうでもないのです。多くの場合狂言方がシテを勤める場合があるし、シテ方もよく狂言を勤めます。これが何故かというと、じつは能の立ち方。。すなわちシテ方やワキ方は、修業時代に囃子は習っても狂言の実技を習うことはなく、また狂言方も同じく囃子は知っていてもシテ方の謡や型を習うことはない、という状況に端を発しているのではないかと思います。つまり能を司るシテ方およびワキ方と、狂言を司る狂言方は、お互いに実技の面では共通項を持ちながら、実際にはそれぞれの実技については ほとんど未知の分野なのです。ですから、シテ方が狂言を勤める場合、それから狂言方がシテを勤める場合は、それぞれ専門職の友人などに頼み込んで猛特訓をすることになるようですね。