ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『朝長』について(その29=舞台の実際その11)

2006-05-31 23:26:29 | 能楽
申合の前日の今日はずっと師家におりました。どうしても ぬえの普段の稽古場=自宅の近所の地区集会施設=では様子がつかめない場面があって、師家のお舞台を拝借して稽古するためと、もしもお装束の準備が始まったならば、そのお手伝いをするためです。

師家のお舞台で自分の型のチェックをして、それから後輩が装束の着付けの稽古をしていたので助言してあげているとやはり師匠は装束の準備を始められました。『朝長』の装束については ぬえも希望を出し、師匠もお考えがあって、結局今日中に装束の取り合わせはすべて決定することができました。

あまり全部をお話してもネタバレになってしまいますので一部だけご紹介すると、前シテは段の無紅唐織になりました。ぬえは『朝長』の前の唐織の地色は段ではなく一色、という印象がありましたが、今回の唐織の選択は師匠のお考えに従うことにしました。面は当初 ぬえから、以前『隅田川』で拝借した出目栄満の作の「曲見」を拝借するつもりで希望を出し、師匠もそれを出してくださいました。ところが ぬえが再び舞台で稽古を始めたところ師匠に呼ばれて。。 師匠は「これを使っても良いぞ。ゆっくり考えて自分で決めなさい」とおっしゃってまた一面を出して下さいました。これを拝見したところ、無銘ながらとても深い陰影を持った「深井」で。。

なるほど、どちらかと言えば「曲見」は若くて美人系の面で、「深井」はもうすこし年齢を重ねて陰鬱な表情を持った面が多いと一般的には言えると思いますが、たしかにこの栄満の「曲見」は『隅田川』には良かったけれど、『朝長』の前シテにはより複雑な表情を持った「深井」が似合うでしょう。二面を並べて比べてみて、すぐに師匠のお見立てに従う事にしました。その旨を申し上げ、お礼を申し上げると、師匠も「やはりそうか。それは河内と言われているんだよ」とのこと。。伝・河内作! またまた分不相応のナマイキ度があがりました。。なんだか当日の鏡の間でこの面から「朝長はいいんだけど。。お前、できるの?」と言われそう。(T.T)

後シテは ぬえの希望がほぼ通って、金春縞の厚板に白地模様大口、そして紺地に鎧蝶の単法被です。全体的にはちょっと派手すぎる取り合わせかなあ、とも思いますが、今回の「橘香会」ではこの後シテだけが明るい色づかいをするシテの役ですので、少々行き過ぎるぐらいが丁度よいかも。。さてこの紺地の鎧蝶の文様の単法被は『朝長』のお役をつけて頂いた時から念頭に置いて考えていました。『朝長』には紺地の法被が似つかわしい。蝶々は「平家」の文様なのですが、今回はそれにはこだわりません。女性的でもあり、また夜の闇に飛ぶ蛾のような怪しさも秘めたこの法被は、朝長の決意に通じるものが感じられます。そして源氏である事は白地腰帯に源氏を表す「笹竜胆」のものを選ぶことで表現します。蝶の法被と笹竜胆の腰帯。。ケンカしなきゃいいですが。。(^◇^;)

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『朝長』について(その28=舞台の実際その10)

2006-05-30 01:21:03 | 能楽
「十六」の画像をアップしたら、後シテの装束の事を書き忘れていたことに気づいた。。(--;)

後シテの扮装は 面=十六(型付には中将・今若とあり)、黒垂、梨子打烏帽子、白鉢巻、襟=白・浅黄、着付=紅入縫箔または紅入唐織、白大口または色大口、模様大口、単法被または長絹、縫紋腰帯、太刀、修羅扇。具体的にどんな装束を選ぶのかについては ぬえも少々考えを持っていますが、今回はほとんど師家のお装束を拝借することになるので申合の頃に師匠と相談して決定、となります。どちらかといえば『朝長』はあまり装束の選択の違いによってそれほど大きく印象は変わらない曲だとは言えると思いますが。。なお床几は ぬえが骨董市で手に入れた蒔絵入りのものを今回使います。

シテはクリを謡いながら大小前へ行き、正面に出ながら左袖を返し、正中にて床几に掛かる。

【クリ】シテ「それ朝に紅顔あつて。世路にほこるといへども。
地謡「夕べには白骨となつて郊原に朽ちぬ。
【サシ】シテ「昔は源平左右にして。朝家を守護し奉り。
地謡「御代を治め国家を鎮めて。万機の政すなほなりしに。保元平治の世の乱。いかなる時か来りけん。
シテ「思はざりにし。弓馬の騒ぎ。
地謡「ひとへに時節到来なり。

サシのトメにワキと向き合います。

【クセ】地謡「さる程に嫡子悪源太義平は石山寺に籠りしを。多勢に無勢かなはねば。力なく生捕られて終に誅せられにけり。三男兵衛の佐をば弥平兵衛が手に渡りこれも都へぞ捕られける。父義朝はこれよりも。野間の内海に落ちゆき長田を頼み給へども。頼む木のもとに雨もりて闇やみと討たれ給ひぬ。いかなれば長田は云ひかひなくて主君をば討ち奉るぞや。如何なれば此宿の。あるじはしかも女人の。甲斐がひしくも頼まれて。一夜の情のみか。かやうに跡までも。御弔ひになる事は。とワキと向き合い
シテ「そもそもいつの世の契りぞや。と正面へ直し
地謡「一切の男子をば生々の父と頼み。万の女人を生々の母と思へとは今身の上に知られたり。さながら親子の如くに御嘆きあれば弔ひも。誠に深き志 請け喜び申すなり。朝長の後生をも御心安く思し召せ。

クセのトメにワキと向き合います。

【ロンギ】地謡「げに頼むべき一乗の。功力ながらになどされば。いまだ瞋恚の甲冑の。御有様ぞいたはしき。
シテ「梓弓。もとの身ながら玉きはる。魂は善所におもむけども。魄は。修羅道に残つてしばし苦を受くるなり。とワキヘ向き
地謡「そもそも修羅の苦患とは。いかなる敵に合竹の。と正へ直し
シテ「この世にて見しありさまの。と扇を開き
地謡「源平両家。
シテ「入り乱るゝ。と扇にて正へサシ
「旗は白雲紅葉の。と右まで扇にて見廻し散り交じり戦ふに。と左右に見廻し運の極めの悲しさは。と七ツ拍子大崩れにて朝長が。と扇を左手に持ち膝の口をのぶかに射させて。と左袖を巻き上げ扇を強く左膝に突き立て馬の太腹に射つけらるれば。馬は頻りに跳ねあがれば。と右下を見込み足拍子鐙を越して下り立たんとすれどもと腰を浮かせ左足を力を入れて前へ出し難儀の手なれば。一足も引かれざりしを。と床几に掛かり乗り替へにかきのせられて。と扇を右手に持ち直し立ち上がり、右トリ常座へ行き憂き近江路を凌ぎ来て此の青墓に下りしが。と正へ向き雑兵の手にかゝらんよりはとと心持し、正へ出ながら左袖を返し安座思ひ定めて腹一文字に。かき切つて其まゝに。と扇を腹に突き立て右へ引き切り修羅道にをちこちの。と居立ち左袖を返しワキヘ向き土となりぬる青野が原の。と立ち扇を開きサシ、角より常座へ到り亡き跡弔ひて。たび給へと小廻りワキヘ向きヒラキながら合掌亡き跡を弔ひてたび給へ。と右ウケ左袖返し留拍子 合頭を聞き扇をたたみ幕へ引く

キリは「乗り替へにかきのせられて」までの型をずっと床几に掛けたまま行います。馬上の心でしょうね。同じように馬上での事件を語るために床几に掛かったまま型をする修羅能としては『巴』がありますが、『朝長』と比べればずっと短い場面です。そもそも修羅能では後シテは多く床几に腰掛けて戦語りをするのですが、掛かったままで多くの型をする曲は少なく、有名なのは『頼政』ですが、これは馬上での型ではなく老武者としての威厳が演出されているのでしょう。『頼政』と同じ「三修羅」と称される『朝長』ですが、やはり床几の型は『頼政』に匹敵するほど重要なポイントを占めていて、『巴』と比べて、馬上だからというだけにとどまらず、ここでもシテが若いからといって「動き廻らない」よう徹底された演出なのかもしれません。

これにて舞台での演出についてのご紹介が終わりました。申合まではすぐそこで、当日までも1週間を切り、ぬえはもう稽古のほかには一切スケジュールを入れていません。あとは毎日のスクワットと。。今回は整体に行けなかった事が心残りだな。う~~~~みゅ、いよいよ緊張が高まってきました。(;_:)

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伊東薪能

2006-05-29 00:05:11 | 能楽

昨日は伊豆の「伊東薪能」に出勤してきました。

この薪能、なんといっても舞台のロケーションが最高に良いのです。仮設舞台が設えられる場所は。。なんと「川の上」(!)。伊東市の中心街を貫いて流れる松川がちょうど相模湾へ注ぎ込む河口の近くの水面の上に、鉄パイプの足場を縦横に組み上げ、そのうえに舞台も、見所も組み立てる、という驚異的な労力がつぎ込まれて舞台が作られます。演者も観客も、川のせせらぎを足下に聞きながらの観能はまことに風情がありますし、そのうえその舞台は「東海館」という昭和初期に建てられた、それはそれは見事な温泉旅館(現在は廃業して建物は市に寄贈され、伊東市の温泉文化を伝える博物館として解放されています)を背景にして演じられるのです。その趣のあること。ま、万が一、地謡が舞台から転落でもしたら、薪能は一瞬にして鮎のつかみ取り大会になってしまう、という危険性もはらんではおりますが。

東海館は松川の石積みの護岸(コンクリートじゃありませんよ)の直上に建てられていて、館内に掲げられているモノクロの写真を見ると、新婚さんがこの護岸のところどころに設けられた石段を下りて、浴衣姿で松川に釣り糸を垂れていたりしています。熱海や伊東、そして ぬえが毎年子ども能の指導をしている大仁など、伊豆の各地はかつて新婚旅行のあこがれの目的地だったんですよねー。現在の新婚旅行はほとんど海外だと思うけれど、なんかとってものんびりしていて、これはこれで捨てがたい風情です。

で。。昨日はご存じの通りあいにくの雨模様のお天気でした。しかも伊豆地方では一時横なぐりの強い雨。残念ながら今年の「伊東薪能」は雨天会場のホールに変更となりました。毎年この薪能ではお世話になっていますが、雨にたたられたのは初めて。昨日の上演曲目が師匠の『隅田川』だったので、ぬえは本当に残念でした。あの風情のある舞台で川風に吹かれながらの『隅田川』はどんなに良かっただろう。

それでもホールで上演された「薪能」は盛況で、『隅田川』の終盤で子方が作物から登場したときにはお客さまは本当に驚かれたようでした。それはそうでしょう。能の冒頭に舞台に据えられた作物の中で子方は1時間半ちかくを黙ってじっと座って出番を待っているのですから。子方が登場した時には、まさか最初から作物の中に子どもがいたとは思わなかったお客さまは、不意をつかれて驚かれる。。『隅田川』はよく舞台に掛けられる曲目だけれど、やはり地方都市では能をご覧になる機会も少ないでしょうから、そのような場面でのお客さまの驚きは地謡に座っていてもよく伝わってきます。こういう時にこそ、あらためてこの曲の演出がとんでもなく優れているのだ、と認識を新たにする事ができます。やっぱり元雅ってすごい人だと思う。。

もっともこの曲の子方は、当然だけれど大変な辛抱役で、稽古の際もともかく「動くな」と命じられて、自分が謡う箇所の直前のシテやワキのセリフだけを教えられて、ただひたすらその文句が聞こえてくるのを作物の中でじっと待っているのです。それなのに舞台上に登場しているのは ほんの2~3分というところでしょう。そのうえこの子方の謡は、節も難関だし、拍子当たりも難しい。。さらにさらに、この子方は、脚本では「十二歳」という設定になっているけれど、小さければ小さいほど「哀れさ」が増して舞台効果が大きいので、幼い子どもが大変な稽古を経てこの役を勤める事になります。そして作物。これも小さいほどその中に子どもが入っているとは想像しにくくなるので、やはりできるだけ小さく作ります。子方は窮屈な作物の中で、照明で外からあぶられて、通気も悪く、蒸し暑い状況のなか、白装束と黒頭を着込んで耐えているのです。

初役としてこの子方を演じる時には緊張もするけれど、何度か勤めてくるうちに「慣れ」も出てくるようで、暑い作物の中で意識が朦朧としてきて、眠くなってくる事もあるようですね。もちろん居眠りなどをしたら後見は気づくので、あとで大目玉をくらう羽目になりますし、謡う箇所を間違えたら、こういう静かな曲ではこっぴどく叱られる事になります。。(T.T)

大雨の薪能。しかし翌日の日曜日は朝には雨もあがり、昼からは快晴になって日差しが暑いほどになりました。今年は川の上の舞台に出演できなかった事は返すがえすも残念。来年は再びあのお舞台で薪能ができるよう、いまから てるてる坊主を作っておこうっと。



それから、この伊東薪能では ぬえの同門のKくんの指導によって地元の子どもたちによる仕舞も披露されました。地謡まで彼らが勤めて、みんなよくがんばりましたね。おめでとう~~ (^。^)

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『朝長』について(その27=舞台の実際その9)

2006-05-27 01:11:53 | 能楽
今日は師匠に『朝長』の2度目のお稽古をつけて頂きました。一曲の能で2度もお稽古を受けたのは『道成寺』の披キ以来です。師匠もご多忙なのに、ぬえの2度の稽古の申し出を快く引き受けてくださり、今日もたくさんご注意を頂きました。

ことに「後シテがよくないなあ。。」とのご注意があって、ええっ? 後シテ。。? それでも後シテの床几の型「鐙を越して下り立たんと」のところの型(ここ。。どうも ぬえの師家だけがここに思い切った型が伝えられているように思います。。真偽のほどはわからないけれど、ほかのおシテで拝見していて、見た事がない型。。)について、そんで、ついでに「切腹のしかた」もよ~~~く教えて頂きました。(^^;)

前は。。前回の稽古と違って今日はあまりこっぴどく直される事はなかったのですけれども「謡」についてご指摘を頂きました。ネタバレになってしまうのであまり詳しくは申しませんが、要するにここのところ話題になっている「前シテの年齢(すくなくとも精神的加齢)」について ぬえが考えすぎてしまったようです。師匠からは「謡の調子の高低」とか、ましてや「年齢」についてなどというご注意はなく、その代わりに「コトバの抑揚をハッキリ謡え」というような、もっと基本的な点を直されました。。あ。。ぬえって本末転倒だったんね。。(T.T) あと1週間しかないのだけれど、でもなんだか師匠にこのお言葉を頂いて、吹っ切れた。やはり最初に ぬえが信じた方向に従おう。

さて、このブログなんですが、なんだか最近アクセス数がかなり多くなっていてビックリしています。。一昨日は150、昨日は180アクセス。。ええええぇぇぇ?
なんだかコメントもつけにくい内容の、言ってみれば独りよがりのブログなのにみなさんに見て頂いて。。恐縮しております。もうちょっと面白い事でも書いた方がよいのだろうけれど。。すみません『朝長』が終わるまでしばらくご辛抱ください~~ (;_:)

最後に、今日アップしたこの画像は『朝長』の後シテに使用する面「十六」です。これは ぬえが数年前に購入したもので、『敦盛』か何かで使う機会があろうと思って手に入れたのですが、まさか『朝長』で使う事になろうとは。この面を当日も使用します。

この面、女流の能面師の方が打ったものなのですよ。この人は面白い人で、「写し」すなわち言葉は悪いけれど本面を「コピー」するのが常識であって基本的に創作は許されない能面打ちの世界の中で、ある程度までは本面を写していながら、割と意図的に、途中から本面を離れてご自分の個性を主張して、それを面に込める、という事をする方です。この「十六」も、能楽師の誰が見ても「十六」である事には異議はないのですが、これまた誰しもが「ちょっと見たことのない顔だね。。」と思うような面です。こういう作者の意図的な主張というのは少なくとも能面を打つ、という世界の中では昔は考えられない事なのでしょうが、この方とお話をする機会があって、そのへんの事を伺ってみたところ「写すべきなのは形じゃなくて心でしょ?」と明解にお返事されました。

この面、美しいけれど、ちょっと艶めかしいでしょう? なんだか『敦盛』よりもかえって一途な思いで死を選んだ朝長の「生々しさ」に迫るものがあるのではないかしら。この面はまた、遠くで見るとずいぶん印象が違う面で、鉢巻きを着けた姿を見所から見ると、ずっと凛々しく、すこしキツく見えるかも。頼りにしてるよ、キミ。(^ヘ^)v

以前の記事の「深井」の画像も更新しておきました。

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『朝長』について(その26=舞台の実際その8)

2006-05-26 01:49:47 | 能楽
ここで ぬえは、かなり以前に太鼓方の某氏と『当麻』の話をしていたときの事を思い出しました。ちょっと長くなるのでかいつまんで結果だけ申せば、その先輩がおっしゃるには「当麻の後シテは舞ってはいけない」のだ、という事だったのです。これには若い ぬえはビックリしました。早舞を舞うのに「舞ってはいけない」。。これはもちろん舞を省略せよ、という事ではなくて、『当麻』の早舞は『融』や『玄象』とはまったく違っていて、仏教の哲理の象徴として機能しているのだから、「動作としては舞の型をしていても、舞(=ダンス)になってしまってはいけない」という事でした。型は普通の早舞と同じでありながら、どこかノリを殺して、舞の動作を「語り」として位置づける、とでも言うか。。

『朝長』の後シテは、その本人がそう思っていなくても、成仏を謝する、という行為そのものが前シテやワキ僧の心の傷を回復する「赦し」になっている、と ぬえは捉えました。その意味において、少なくとも戯曲上は後シテは自分の成仏の喜びを満面に表して喜びを表現する立場であってはならないのではないか。型付けはそのところを「動きを減らす」事で表現しようとしているのではないか? ぬえは今、そう考えています。

後シテは「出端」の囃子で登場して舞台に入り、ヒラいて謡い出します。

【サシ】後シテ「あらありがたの懺法やな。昔在霊山名法華。今在西方名阿弥陀。娑婆示現観世音。三世利益同一体。まことなるかな。誠なるかな。(とワキヘ向き)

【一セイ】頼もしや。(と正へ直し)きけば妙なる法の御声。(と面を伏せて聞き) 地謡「吾今三点。(と右へウケ) シテ「楊枝浄水唯願薩埵と。(と拍子を踏み正へノリ込)
地謡「心耳を澄ませる。玉文の瑞諷。(と角へ行き直し)感応肝に銘ずる折から。(と脇座より常座へ到り) シテ「あら尊の弔ひやな。(と小廻りワキヘ向き合掌)

ワキ「不思議やな観音懺法声澄みて。灯の影ほのかなるに。見ればまさしく見れば朝長の。影の如くに見え給ふは。若しもし夢か幻か。
シテ「もとよりも夢幻の仮の世なり。その疑ひを止め給ひて。なほなほ御法を講じ給へ。
ワキ「げにげにかやうにま見え給ふも。偏へに法の力ぞと。念ひの珠の数繰りて。
シテ「声を力に頼り来るは。
ワキ「まことの姿か。シテ「幻かと。ワキ「見えつ。シテ「隠れつ。ワキ「面影の。(とワキヘ二足ツメ)

【上歌】地謡「あれはとも。言はゞ形や消えなまし。(と正へヒラキ据拍子)言はゞ形や消えなまし。消えずはいかで灯を。背くなよ朝長を共にあはれみて。(と正へ出ヒラキ)深夜の月も影そひて光陰を惜しみ給へや。(とワキの前へ行き左袖を返しワキを見込み)げにや時人を。待たぬ浮世の習ひなり。(と左へ廻り常座へ行き)唯何事もうち捨てゝ。御法を説かせ給へや。御法を説かせ給へや。(と小廻りワキヘ向きヒラキ)

う~~ん、やはりなんとも普通の修羅能と比べると型が少ない印象ですね。

地謡【上歌】の「光陰を惜しみ給へや」のところ、脇正のあたりで右へウケて左袖を出し、そのままワキの方へ出て、ワキの前で止まりながら左袖を返し、左を引いてワキの方へ見込む型は、修羅能には必ずある、定型の型です。しかし問題はそのあとで、曲によってそのあとに続く詞章の多少によって少し型が変わるのです。すなわち文章がまだ続くのであればシテは袖を払って角へ行き、正へ直してから左へ廻り、大きく舞台を廻って常座へ到って小廻り、ワキヘ向いてヒラキ(合掌する事も)。詞章が短ければ角へは行かず、袖を払ってすぐに左へ廻り、ただちに常座に到って小廻りの型につなげていくのです。

『朝長』の場合、ワキヘキメたあとに続く文句の長さを考えると、当然 角へ行く型になるはずなのですが。。稽古を始めてすぐに、この曲に型が少ない事には気づいたのですが、その理由にまでは思い至らなかった。もちろん意図的に型が少なくしてある、とも当初は感じなかったのですが、だんだんと稽古を重ねていくうちに、どうも意図的な力が働いていて、わざと型を少なくしてあるのではないか、と考えるようになりました。

この思いを決定的にしたのが先日拝見した「懺法」のお舞台で、なんとそこではさらに型が少なくなっていたのです。そのお舞台では、この【上歌】の部分では、シテはほとんど常座から動くことなく型をしておられました。シテを若武者、と捉えるだけならば、これはまことに不自然な演出でしょう。確証はないけれども、これは「懺法」という重厚無比な小書で登場をした後シテに釣り合うように、演技を動作ではなく「内面」で行うように仕組まれているのだと強く感じました。

『朝長』の後シテは若武者ではあるけれども、そのような内面の演技を許容するような幅がある役なのでしょう。そもそも「懺法」という重厚な小書が成立するところに、この曲の後シテが『敦盛』や『経正』などとは一線を画した心理劇の主役としての位置づけがあると思います。

演技として難しいのは、この後シテがあくまで若武者の姿であるところで、その若々しい姿と動かない、という演技が舞台のうえで整合させられないと、役者はただ「身体のキレが悪い」としか見てもらえないでしょう。ぬえはいまいろいろ工夫をしていますが、こんな難解な曲がある事にいまさらながら驚かされます。。

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『朝長』について(その25=舞台の実際その7)

2006-05-23 12:35:43 | 能楽
機会を見つけては ぬえの『朝長』に共演してくださるお囃子方の何人かとお話をしたのですが、少なくとも ぬえのほかに二人も今回『朝長』を初めて勤める、という方がある事が判明。。やはり。またまた分不相応感が濃厚に漂ってきましたが、今回は師匠のお勧めを頂いて勤めるのだから遠慮はいらないでしょう。出来る限りの事をしたいと思っているし、初役の人が多い舞台には「慣れ」というものが入り込まないから、手探りではあっても案外 緊張感だけは充実するかも。。

さて後シテの登場音楽「出端」は、囃子方にとっても位どりが難しいところでしょう。そしてまた太鼓が主導権を握るものであるからにさらに。。なにせ太鼓方にはこの部分に極重習いの小書「懺法」があって、どうしても『朝長』の上演にはそれを意識しないわけにはいかないでしょう。「懺法」を演奏しない『朝長』。それがスタンダードであるはずなのに、太鼓方にとっては常に目標でありあこがれでもあるだろう「懺法」の呪縛。。それが全く念頭にないとは言えますまい。。実際、ぬえの『朝長』の上演が決まった時、何人から「朝長! 懺法で?」と冷やかし半分に言われた事か。

「懺法」の事は今回は関係ないし、ぬえのような身には一生縁がない小書ですけれども、『朝長』を語るうえでは避けて通れないものでもあるでしょう。この稿の最後にでも、この小書についてはすこし触れておきたいと思っています。

ともあれ、今回は常の「出端」で登場します。しかし、その「出端」の位。。すなわち後シテの登場の印象というものについて ぬえもかなり悩んでいました。よく言われるように、この曲は前シテが命なのであって、陰鬱な前シテは重厚に勤め、後シテは一転して若武者なので、サラリと演じるのだと。ぬえもずっとそう思っていました。ところが型付けを精査していると、どうも後シテがそのように工まれて作られているとは到底思えない。

この稿の冒頭にも書いたと思いますが、稽古を始めてすぐに気がついたのですが、この曲の後シテは、同じ若武者の『敦盛』や『経正』などと比べると、どうもあちらこちら一つずつ型が少ないように感じます。すなわち『経正』と同じようなつもりで、そのような速度で演じてしまうと、たちまち地謡の文句を追い越してしまうのです。もちろん前シテから導き出される『朝長』の後シテは単純に『経正』と同じ気持ちで演じてよいはずもないのですが、それを差し引いても。。型付けが「動くな」と言っている。。(!)

この齟齬にはじつは ぬえは相当参りまして、この疑問を解消しようにも、それをぶつける相手さえもいないのですよね。。説明は難しいが、この疑問にぶち当たった当時は、まだ師匠に伺う段階でもなかった。そして先輩にも。。上演した人がいないのです。これはちょっと。。選曲がヤバかったか。。? と真剣に思った時期もありました。こういう時に、師匠よりももっと身近な。。親に聞ければどんなに楽か。。ヘンな話かも知れないが、一代目というのはこういう時に苦労しますね。『道成寺』の披キの時にそれは身にしみて感じたのですが、今また、こういう場面で同じ思いをするとは思わなかった。

そのため、自分で『朝長』という曲を徹底的に分析して、この型付けの指示する意味を自分なりに探ってみようと思い立ちました。その結果が まさにこのブログで書いている この稿そのものでして、なんとも曖昧な部分も多くてお恥ずかしい限りですが。。さて以前の稿にも書いたように、この曲は前シテと後シテがあまりにも違う印象の曲と思われがちなのですが、この曲について考えるうちに ぬえはそうではないと考えるようになりました。後シテの朝長は、僧ワキの回向によって成仏し、それを謝する立場でありながら、同時にワキや前シテの心の傷を癒す存在でもある。。

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代田インターナショナル長唄会

2006-05-22 03:17:04 | 日本文化

今日は「代田インターナショナル長唄会」の主宰者・西村真琴さんからお招きを受けて、生徒さんのパーティーに出席してきました。

西村さんはアマチュアの邦楽家なのですが、日本に滞在し、日本文化を知りたいと思っている外国人のために邦楽(主に長唄の三味線)をほとんど無報酬で教授しておられる篤志家で、ぬえは西村さんを知っておつきあいを始めさせて頂いて、もう5年になりますが、ぬえが自分の主催会「ぬえの会」の第一回で『道成寺』を披かせて頂いた時に西村さんが外国人の生徒さんと一緒に舞台にお出でになったのが そもそもの始まりでした。

その後、ある日西村さんから突然お電話を頂いて、はじめて西村さんが外国人を相手にボランティアで長唄の稽古をしている事をお聞きし、この秋にコンサートを予定している旨を伺いました。この時のお電話では、よろしければその発表会を見に来ませんか? というような内容だったのですが、もとより ぬえも外国に教えに出たりしていたので、こういう活動にはとても興味があるので、もしも生徒さんの中で希望者があれば ぬえもボランティアで仕舞を教えたい、と申し出ました。

この申し出は歓迎して頂くことができて、その秋のコンサート「インターナショナル邦楽の集い」には長唄の発表に交じって数名の外国人の仕舞の発表が行われました。そしてその後、生徒の増減によって一時中断する事もありながら、連綿とコンサートは行われていて、ぬえも仕舞の地謡として、また番外仕舞などで出演もしております。いや、それどころかこのコンサートがキッカケになって、外国での公演ではここで教えた生徒さんに公演のアシスタントをしてもらった事もありますね。出会いというのは本当に不思議なものです。

ところが、どうしても外国人の留学生や赴任者は短期の滞在になることが多くて、西村さんのご自宅のお稽古場もにぎわっていたり、閑散としていたりといろいろあるようで。今年は生徒さんが少なかったそうなのですが、この時期になぜか多くの生徒さんが集まって、その顔合わせも兼ねて今日パーティーが行われたのでした。

久しぶりに西村さんのご自宅にお邪魔すると、まあ相変わらず国際色豊かで、生徒さんの出身国もイギリス・アメリカ・ニュージーランド・ロシア。。と多彩。もちろんこの生徒さんの中には去年のコンサートで ぬえにしごかれながら仕舞を披露した人も何人か含まれています。彼らとは久しぶりの邂逅となりました。パーティーは昼間だったのでデモンストレーションのような様相にもなり、ぬえも扇や装束を見せてあげたし、ロシア人の生徒さんはバラライカを演奏してくれました。ちょっとした邦楽器のセッションもあって、ぬえも参加させて頂きました。

うん、とっても有意義なパーティーでしたね。
こういう国際交流はとっても意義が深いと思います。
今年はこの時期に多くの生徒さんが集まったのだけれど、いかんせん初心者が多いので、今年にコンサートが開けるかどうかはまだまだ未知数のようですが。。

もしもまたコンサートが開けるようであれば、またこのブログでお知らせしたいと存じます。


【追記】
この日のパーティーのあと三味線の稽古が行われたのですが、そこに日本テレビの取材が入っていました。どうやら水曜日の深夜番組『Gの嵐!』の取材だったらしい。放映日は未定のようですが、ありのままの姿で放送されるのであれば、こうした形で西村さんの苦労が少しでも広く知られるのは良いことだと思いますね。
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『朝長』について(その24=舞台の実際その6)

2006-05-20 01:40:42 | 能楽
最近このブログについて考える事があります。

演者が公演の事前に作品を研究して、発見したことや解釈のようなものを発信したり、稽古の状況や演じ方について書き込みをする。ここまでは良いのです。

。。でも演者のこういう発信の仕方は、大変危険でもあります。「こういうように演じるつもり」と書いているつもりが、いつの間にか「こういうように見てください」と舞台への接し方をお客さんに指示するようになってしまう可能性がある。

舞台人としては舞台での結果がすべてなのであって、舞台以外での場所での「言い訳」は絶対に許されないでしょう。ぬえもそのあたりは重々承知しているつもりだし、 ぬえの友人の某能楽師の中にも、公演当日の見所に自分の「抱負」を書いたプリントを配ったところ、一部の人から「潔くない」と不評が出た場面も見ているので、気を付けなければならないのですが。

このブログではこれまで『朝長』の人物像や作品の研究をとりあげてきましたが、いざ実演上の演出について語るとき、ぬえは、つい書きすぎてしまって無意識のうちに「こう演じますのでお楽しみに」という書き方に陥ってしまうのを恐れます。

かと言って、現代社会の中に暮らす人間として、『朝長』のような動きの少ない能は、よほど能楽に親しんでおられるお客さまを除けば、なんの情報もなしに見るにはあまりに退屈でもあるでしょう。前場で地謡が謡う【上歌】の中で「荻の焼原の跡までも げに北邙の夕煙」とシテが右へウケて静かに見廻すところ、動作はほとんどなく、謡でシテの心情を表現する前シテの【語リ】。このような場面は、シテの微妙な演技にお客さまも心を添わせて見て頂かない事には、単純に「役者が全然動かない。。」と思われてしまう。これがまたを現代演劇や映画などの方が身近な現代人にとっては非常に特異な世界なので、このようなブログなどで解説をしておく事はあながち無謀でもないとも信じています。

要するにバランスの問題でしょうね。このブログで『朝長』という作品について論じますが、役者として卑怯な態度に陥る事は慎まなければならない。舞台について先入観を植え付けるように誘導したり、舞台の言い訳をこの場に持ち込まない。このようなスタンスでこのブログを進めて行こうと思っておりますので、どうぞ読者の方々も ぬえが「どう演じたいのか」は舞台上の ぬえをご覧になってご判断頂きたいと存じます。

※このような事は「舞台の実際」の項の冒頭に書いておくべきだったかも知れません。。反省。数日中にこれまでの記事を整理して再アップしておきます。。

さて、そのうえで。。続きです。(^^;)

間狂言が橋掛りに退くと、ワキとワキツレは後シテを待ち受ける【待謡】を謡います。内容は夜更けに「観音懺法」を読誦して朝長の霊を弔う、というもの。

ワキ「さても幽霊朝長の。仏事は様々多けれども。
ワキツレ「とりわき亡者の尊み給ひし。観音懺法読みたてまつり。
ワキ「声仏事をもなすとかや
【待謡】三人「声満つや。法の山風月ふけて。法の山風月ふけて。光和らぐ春の夜の。眠りを覚ます鈸鼓。時も移るや初夜の鐘。音澄み渡る折からの。御法の夜声感涙も浮むばかりの気色かな。浮むばかりの気色かな。

この【待謡】の終わりに笛が甲高い「ヒシギ」を吹き、太鼓が打ち出して後シテの登場音楽である「出端(では)」が奏され、やがて後シテが登場します。

→次の記事 『朝長』について(その25=舞台の実際その7)
→前の記事 『朝長』について(その23=舞台の実際その5)

→このトピックの先頭 『朝長』について(その19=舞台の実際その1)
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『朝長』について(その23=舞台の実際その5)

2006-05-18 03:00:07 | 能楽
昨日は催しの申合の終了後に地謡の方々にもお手伝い願って『朝長』の稽古をしました。と言っても師家の舞台の空き時間を狙って稽古をするので、昨日できたのはようやく前場だけ。。

ぬえは以前から地謡にも参加して頂いて稽古をしたい、と希望を出していたのですが、地謡のみなさんもなかなか忙しいので、これがまた、時間を合わせてみんなで集合して稽古する、という機会がまったく取れない。。申合のあとに稽古をする、というのは、必ず同門のみなさんが集まる機会なので名案でしたが、今度はみんなが集まった師家のお舞台のスケジュールが混み合っていて。。(/_;)

しかし、昨日の稽古はやってみて良かった! いろいろと示唆に富んだ稽古となりました。分けても印象的だったのは、ある先輩から「もう少し歳を取った方がいいんじゃないか?」というものでした。「歳をとる」。。その先輩の言によれば、それまでの舞台経験から『朝長』の前シテの女長者はずっと年輩の女性、という印象をお持ちだそうで、おそらくその経験値から考えて ぬえの謡を聞いて違和感を持たれたのでしょう。

ぬえは『朝長』の前シテの年齢について、漠然としか考えを持っていなかったので、この指摘は新鮮でした。前シテが年輩なのかどうか。。『平治物語』の中の大炊が前シテであるとすれば、その娘・延寿と義朝との間の子・夜叉御前がすでに十歳なのですから、ある程度の年齢である事は確かでしょう。しかし、先輩が ぬえに言ったのはそういう史実の問題ではなくて、『朝長』の前シテは、もっとずっと沈潜した、ある種の諦観のような雰囲気を漂わせた演じ方をするべきなのではないか、という事なのだと思います。

実際のところ、たとえばこの前シテの演技の一番の眼目である「語リ」は、淡々と語る演者が多いのもまた事実。でも、ぬえはまた「そういう演じ方をしなかった」演者の『朝長』も拝見していて、それに非常に共感を持っていたりするのです。

いろいろな演者がいて、それぞれの演じ方を工夫する。。でも能が伝統芸能である以上、「創作」である事はよほどの大家ででもない限り、簡単に許される事ではないでしょう。では ぬえが書生時代に師匠から『朝長』の謡をどう習ったかというと。。最初の1~2句を謡っただけで散々に直されました。(~~;) そしてそのまま稽古はどうにかこうにか進行して行って。。「語リ」の部分が終わったとき、師匠が ぬえに言ったひと言は。。「まあ、難しいからな、この語リは」。。見捨てられた。。(;_:)

当時二十歳そこそこの ぬえには『朝長』の前シテの稽古は無理だったのです。だからこの曲について、師伝というものが ぬえの中には確固としたものがない。ぬえにとって『朝長』という曲はそういう、なんと言うかトラウマのようなものがつきまとっている曲でして、今回のこの曲への挑戦は、その克服もひそかに意図しています。そのためにずっと以前から他門の大先輩の舞台があればほとんど欠かさず参上して拝見しましたし、昨年暮れから今年の春にかけて、ぬえの自分の上演が決まってからの『朝長』の上演には、演技を「盗み取る」目的で拝見していました。

。。今回 ぬえがどのように「語リ」を処理するつもりなのか。。それは当日のお楽しみにしたいと存じます。舞台人がこれから勤める曲について事前に「このようなつもりで演じる」と書く事は、「そのように見てください」と観客に先入観を吹き込んでしまう事に他ならないので。。

ただ、昨日の稽古で先輩から頂戴した「歳を取る」というご意見は ぬえにはなかった発想なので、これからまた考えていかなければならない問題ですし、来週には再度、師匠に稽古をつけて頂ける事にもなっているので、その時の師匠の指導もあります。それやこれや、ぬえが考えた結果を舞台に出してみたいと考えています。その「考えている事」を舞台に出せる技術があるかどうか、 ぬえに求められるのはそこのところなのでしょう。。(;_:)

→次の記事 『朝長』について(その24=舞台の実際その6)
→前の記事 『朝長』について(その22=舞台の実際その4)

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『朝長』について(その22=舞台の実際その4)

2006-05-16 02:23:09 | 能楽
ワキ「さてさて朝長の御最期の仕儀、何とかござ候ひつる。委しく語つて御聞かせ候へ。

シテはワキの方へ向き出、正中に座して正面に向き「語リ」を謡う

【語リ】シテ「申すにつけて痛はしや。暮れし年の八日の夜に入りて。門を荒けなく敲く音す。誰なるらんと尋ねしに。鎌田殿と仰せられしほどに門を開かすれば。武具したる人四五人内に入り給ふ。(とワキへ向く)義朝御親子。鎌田、金王丸とやらん。わらはを頼み思し召す。明けなば川船にめされ。野間の内海へ御落ちあるべきとなり。(とワキへ向く)また朝長は。都大崩れにて膝の口を射させ。とかく煩ひ給ひしが。夜更け人静まつて後。朝長の御声にて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と二声のたまふ。鎌田殿まゐり。こはいかに朝長の御自害候と申させ候へば。義朝驚き御覧ずれば。はや御肌衣も紅に染みて。目もあてられぬ有様なり。その時義朝。何とて自害しけるぞと仰せられしかば。朝長息の下より。(とワキへ向く)さん候都大崩れにて膝の口を射させ。すでに難儀に候ひしを。馬にかゝりこれまでは参り候へども。今は一足も引かれ候はず。路次にて捨てられ申すならば。犬死すべく候。唯返すがへす御先途をも見届け申さで。かやうになりゆき候ふ事。さこそ言ひ甲斐なき者と。思し召され候はんずれども。道にて敵に逢ふならば。雑兵の手にかゝらん事。あまりに口惜しう候へば。是にてお暇たまはらんと。

地謡「これを最期のお言葉にて。(とワキへ向く)こときれさせ給へば。義朝正清とりつきて。嘆かせ給ふ御有様は。よその見る目も哀れさをいつか忘れん。(とワキへ向きシオリ)
【上歌】地謡「悲しきかなや。形をもとむれば。苔底が朽骨見ゆるもの今は更になし。さてその声を尋ぬれば。草径が亡骨となつて答ふるものも更になし。三世十方の。仏陀の聖衆も哀れむ心あるならば。亡魂幽霊もさこそ嬉しと思ふべき。(とワキへ向く)
【下歌】地謡「かくて夕陽影うつる。(と幕の方を見やる)かくて夕陽影うつる。(と立ち上がり常座へ行き)雲たえだえに行く空の。青野が原の露分けて。かの旅人を伴ひ(とワキと向き合い)青墓の宿に。帰りけり(と大小前の方へ少し歩み)青墓の宿に帰りけり。(とワキヘ向く)

シテ「御僧に申し候。見苦しく候へども。暫くこれに御逗留候ひて。朝長の御跡を御心静かに弔ひ参らせられ候へ。
ワキ「心得申し候。
シテ(幕の方へ向いて)「誰かある罷り出でて御僧に宮仕へ申し候へ。

中入(シテとツレ・トモは幕へ引く)

間狂言が再び登場し、長者に僧の世話を言いつけられた、と言ってワキと対面し、さきほど朝長の墓所の在処を教えた僧だった事を驚く。ワキの所望によって義朝や朝長の最期の様子を語り、ワキが「観音懺法」の法会を執り行って朝長の跡を弔うと聞き、客席の方へ向いてその旨を触れて退場する。

【語釈】
  暮れし年の八日の夜に入りて = 『平治物語』では師走二十八日。
  都大崩れにて = 「大崩れ」は「総崩れ」の意。
       朝長が膝を射られたのは「竜華越」という場所で、
      「大崩」は地名ではない。
  苔底が朽骨 = 墓の下に埋もれた遺骨
  草径が亡骨 = 草が茂った小道の遺骸
  三世十方  = 前世・現世・来世、四方四隅(を司る仏や菩薩)

→次の記事 『朝長』について(その23)
→前の記事 『朝長』について(その21=舞台の実際その3)

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『朝長』について(その21=舞台の実際その3)

2006-05-14 22:49:57 | 能楽
さてこの稿では能『朝長』の本文をご紹介していますが、前述の通り底本を観世流大成版謡本に拠っています。今回の『朝長』の上演ではワキが宝生流の役者であるため、底本とは言い回しが微妙に異なる箇所があります。上演の参考のためにこの稿を書いているのならば、セリフの異同があれば、そのお流儀の本に当たって本文を掲出するべきなのでしょうが、どうも能楽師の性か、自分の流儀に伝わる本とほかのお流儀の本とを掛け合わせる事に抵抗がありまして。。

ところが、国立能楽堂の主催公演の際に頒布される冊子『国立能楽堂』では、実際の上演に則した本文を掲載している事に気がつきまして。。ぬえのスタンスも、このように今回はあくまで実際の上演の参考として、おワキの本文もそのお流儀の本文を掲載する事にしたいと思います。すでに掲載ずみの分につきましても順次直しておきますので、どうぞご承知おき下さいませ~

シテは上歌のおわりで常座に着き、ふとワキの姿を認めた体でワキヘ向き、問答となります。

シテ「不思議やなこの御墓所へ我ならでは。七日々々に参り。御跡弔ふ者もなきに。旅人と見えさせ給ふ御僧の。涙を流し懇ろに弔ひ給ふは。如何なる人にてましますぞ。
ワキ「げによくご覧ぜられて候ものかな。これは朝長のゆかりの僧にて候が。この青墓の宿にて果て給ひたる由承り及び候ほどに。御跡弔ひ申さんためこれまで参りて候。
シテ「御ゆかりとは懐かしや。さて朝長の御ため如何なる人にてましますぞ。
ワキ「これは朝長の御めのと子。何某と申しし者なるが、さる事有りて御暇たまはり。はや十箇年に及び候。疾くにも参りたくは候ひしかども、今ほどの事は怨敵のゆかりをば。出家の身をも許さず候ほどに。抖藪行脚に身をやつし。忍びて下向仕りて候。
シテ「さては取り分きたる御なじみ。さこそは思し召すらめ。わらはも一夜の御宿りに。あへなく自害し果て給へば。たゞ身の嘆きの如くにて。かやうに弔ひ参らせ候。
ワキ「さては不思議や我とても。もと主従の御名残り。是も三世の御値遇。
シテ「わらはも一樹の蔭の宿り。他生の縁と聞く時は。げにこれとても二世の契りの。
ワキ「今日しも互ひにこゝに来て。
シテ「弔ふ我も。ワキ「朝長も。

地謡が謡い出すとシテはそれにつれて少々型があります。しかしこの場面は本当に静かで、型もとっても微妙なものに終始し、シテは舞台を一巡する常の初同の型さえもしません。動作、というよりは心の動きを表現する場面といえ、大変難しい型どころでもあります。ちょっとした面の動きに神経を集中してご覧頂きたいと存じます。

【上歌】地謡「死の縁の。処も逢ひに青墓の(と正面へ向く)。処も逢ひに青墓の。跡のしるしか草の蔭の(右へウケる)。青野が原は名のみして古葉のみの春草は(正面へ直し少し出)。さながら秋の浅茅原(ヒラキ)。荻の焼原の跡までも げに北邙の夕煙(右へウケて見廻し)。一片の雲となり消えし空は色も形も(遠くを見やって正面へ直し)。なき跡ぞあはれなりけるなき跡ぞあはれなりける(面を伏せながら常座まで下がる)。

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国立能楽堂展示室「平家物語と能」(その2)

2006-05-13 22:27:30 | 日本文化
もう一つの注目すべき展示品「平家納経」は言わずと知れた装飾経中の白眉で、「国宝中の国宝」と呼ばれる美麗で荘厳な美しさは、見る人の目を釘付けにします。平家一門の繁栄を願って清盛が厳島神社に奉納したもので、奉納されたのは長寛二年(1164)、平治の乱の5年後で、まさに平家の全盛期。清盛はこの奉納の3年後には太政大臣の位に上り詰めました。清盛の発願による奉納に名を連ねたのは重盛・宗盛・知盛・重衡の四人の清盛の子どもたち、頼盛・教盛・経盛の三人の清盛の弟たち、そしてそのほかの親族・郎等総勢32名でした。

しかしその後経巻は長い年月のうちに少しずつ破損の度合いを高め、ついに大正時代に「副本」(複製)が作られる事となりました。副本を手がけたのは、当時すでに「紫式部日記絵巻」や「源氏物語絵巻」「本願寺本三十六人家集」の模写を務めていた田中親美とその一門。資金は実業家で茶人の高橋箒庵と益田鈍翁の呼びかけで各界から寄付が集められ、その資金をもとに発足された「厳島経副本調整会」の指揮のもと、五年の歳月と大変な労力をかけて大正十四年に完成しました。この完成後、副本はいろいろな機会に展示されているので、ご覧になった方も多いかも。今回の展示もこの副本です。



「なんだ本物じゃないのか」と思うなかれ、これはとんでもない美しさで、厳島神社の地元・広島で育った人に聞いたところ、さすがに「平家納経」はなじみ深いようで、「本物はくすんだ色で、副本の方がずうっとキレイ」との事でした。で、じつは ぬえは「平家納経」が大好きでして。。そんでもって、じつは ぬえ、さらにそのレプリカを持っているのだった。(~~;) 昭和60年に出版社の企画で、写真製版によって数巻のみ複製が作られて発売されたのですが、その売れ残りを数年前に入手しました。驚いたのは発売当時の価格。ぬえの手元にあるそれの外函を見ると「135,000円+税」と書いてあります。。う~ん、バブルだねえ。。(もちろん ぬえはそれよりずうっっっっと安く買いました。デフレの時代でしたもんねー。。)



なお国立能楽堂でのこの展示は「橘香会」の日も期間中なので、お出ましになる方はご覧になる事ができます。ただし展示品には一部入れ替えがあって、上記「竹屋町単法被」の展示は5月17日までだそうです。もうすぐ終わってしまうので、興味のある方はお早めにお出かけ下さい。

ついでながら、今日 ぬえは今回展示されている謡本や写本で、拡げてある部分を読んで来ました。内容はだいたい次の通り。鑑賞のご参考にどうぞ。

平家納経     「厳王品」、「法師品」、「序品」の見返しと本文、
           「提婆品」の紙背、「湧出品」
光悦流観世流謡本 題箋が見える本=「通盛」、拡げてある本=「忠度」
源平盛衰記    「大原御幸」の場面
元和卯月本    題箋が見える本=「千手重衡」「小原御幸」「兼平」
           拡げてある本=「通盛」「忠度」
平家正節     「敦盛最期」の場面
平家譜本     「経正都落」の場面。三面の琵琶のうち獅子丸が
           龍宮へ取られた、という能『玄象』にも見える話
八坂流 平家物語 「経正都落」の場面
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国立能楽堂展示室「平家物語と能」(その1)

2006-05-13 21:49:39 | 能楽
今日は国立能楽堂の「普及公演」で『朝長』を拝見して来ました。それほど上演頻度の高くない『朝長』ですが、昨年末から東京では何度か舞台に掛けられる珍しい事態となりました。12月には浅見真州師がご自身の会で、4月には先代宗家・観世左近師の追善能で関根祥六師(このときは「懺法」の小書つき)、そして今日は大阪から来演された大槻文蔵師が『朝長』を勤められ、さらに6月に ぬえ自身がこの大曲を勤めさせて頂きます。『朝長』は、このように大先輩が勤めるような曲なので、ぬえにとっては非常にナマイキなのですが。。

ともあれ ぬえにとっては、自分の上演の前に何度かそのような大先輩の舞台があるのは大変に幸運な事で、ぬえはそのすべての公演を拝見する事ができました。型や謡についてのそれぞれの先輩演者の解釈が、舞台にこれほど幅広い「幅」を持たせる事に今さらながら感嘆もしましたし、微妙な演技の違いが大きな効果の違いとなって現れてくるのを見るとき、このような大曲に限らず、やはり役者というものは、舞台での一挙手一投足、呼吸にまで神経を費やさなければならない、と痛感します。

。。閑話休題。

今日、国立能楽堂に到着して気づいたのですが、能楽堂の展示室でなんとも大変贅沢な展示が開催されています。あまり大仰な宣伝もされていなかったようでしたが、展示品はとんでもない一級品。

能楽入門Ⅰ『平家物語と能』   会期   4月29日~6月25日
                開室時間 午前10時~午後5時
                休室日  毎週月曜日
【主な展示品】(●印は今日展示されていたもの)
●平家納経(大正期=田中親美復元)
       ●金銀荘雲龍文銅製経箱(同)
        平家琵琶 銘「大滝」(江戸時代前期)
       ●楽琵琶  銘「青山」(九条家伝来)
       ●龍笛   銘「青龍」(紀州徳川家伝来)
        高麗笛       (江戸時代後期)
        和琴        (江戸時代後期)
        楽箏   銘「玉川」(桃山時代)
       ●俊成忠度 伝沢庵和尚筆(江戸時代初期)(掛軸)
       ●一の谷合戦絵巻   (江戸時代前期)
       ●光悦流書体観世流謡本(江戸時代初期)
       ●平家物語 灌頂巻  (江戸時代初期写本)
       ●源平盛衰記     (江戸時代前期古活字本)
       ●元和卯月本     (江戸時代前期)(観世流謡本)
       ●平家物語 八坂流「文禄本」写本(現代=復刻版)
        能装束 ●紅白段腰替桐巴格子模様厚板
            ●竹屋町単法被(懺法法被)
        能面  ●小面●十六●頼政●万媚●中将●泣増●平太
       ●能之図 狩野柳雪筆 (江戸時代後期)
       ●能絵鑑       (江戸時代中期)

特筆すべきは、なんたる偶然か、観世宗家に伝わる「竹屋町懺法法被」が展示されている事と、それと平家納経が同時に見られる珍しい企画だという事でしょう。

「竹屋町懺法法被」は観世宗家の家宝ともいうべき装束で、歴史資料としても大変貴重な装束です。製作されたのはなんと室町時代で、世阿弥の甥で世阿弥の跡を継ぎ三世観世太夫となった音阿弥が将軍・足利義政から拝領した、というものすごい来歴を持った装束で、おそらく現存する能装束としては最古のものではないでしょうか。しかもすごい事にはこの装束はいまだに現役で、観世宗家が『朝長』の重い重い小書「懺法」を勤めるときのみ着用されます。ぬえはこの「懺法法被」が展示されているのを見るのはこれが二度目か三度目になりますが、まさかこのタイミングで拝見するとは思いも寄らなかった。。

一見したところ紺地に見えますが、じつはかなり濃い萌黄色で、古い装束なのにかなり大ぶりなのが印象的です。単の法被なのですが、補強のために紗の裏地が付けられていて、また法被には本来ないはずの袵が付けられているのも珍しい事です。着付けのための折り切れもほとんどなく、保存状態は申し分ないと言えるのですが、さすがに前身頃は共布を接いであって(共布が、残されていたんですね。。驚異)、また能楽師の性分として ぬえは左の首のあたりを見てしまうのですが。。やはりそこは少し傷んでいるようです。修羅能の定型として、法被や長絹を着付ける場合は右肩を脱いで着付けるのですが、左側の肩がずり落ちてこないように、法被の襟のあたりを左肩のところで着付けに縫いつけるのです。そこだけはどうじても傷んでしまうので、これは修羅能に使う装束の宿命なのですね。

竹屋町単法被(懺法法被)の実物の画像は観世文庫のサイトでご覧になる事ができます。
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『朝長』について(その20=舞台の実際その2)

2006-05-12 11:19:04 | 能楽
シテ(およびツレ・トモ)の登場音楽である「次第」が演奏され、シテ・女ツレ・トモの順に登場します。シテの扮装は面は「深井」、着付けは襟=白二枚(または白・浅黄)、摺箔(白地・銀小模様の類)、無紅唐織、鬘、無紅鬘帯で、右手に水晶数珠、左手に木の葉を持って出ます(今回は木の葉の代わりに水桶を持って出ます)。またツレは面「小面」、着付け=赤襟・摺箔(白地銀小模様の類)、紅入唐織、鬘、紅入鬘帯。トモは襟は萌黄(近来は浅黄)、無地熨斗目の着付けに素袍上下、小さ刀、鎮メ扇で持ち太刀を右手に抱え持って出ます。

上記の画像は ぬえ所蔵の「深井」の面。能面師の故・入江美法氏の作です。今回はこれは使わず、師家から同じく「深井」の面を拝借するつもりでおりますが。。

「次第」の囃子はごく静かに奏され、登場人物が沈鬱な思いでこの場所にやってきた事を象徴します。

宿場の女長者という身分のシテがツレ・トモの二人もの同伴者を伴って登場するのは、非常に仰々しい雰囲気です。まして身分が高いながら市井の女性として太刀持ちを従える、というのは実際にある事なのでしょうか。そうだとすれば太刀持ちは長者のボディガードといった役割の人間でしょうし、捧げ持った太刀は長者の家に伝わる重代の太刀、といった趣なのでしょう。また、シテは自分の名前を名乗りませんが、『平治物語』に登場する大炊であるとしたら、連れている女ツレはその娘で義朝の愛妾だった延寿(後日義朝の後を追って入水自殺を遂げる)なのではないか、という見解があるようです。

ところが、岩波講座『能・狂言』(Ⅳ能鑑賞案内)を見たところ、どうやら下掛リの諸流(金春・金剛・喜多流)では前シテは一人で登場し、ツレ・トモは登場しないのだそうです(!)。この場合は登場してすぐに謡われる【次第】【サシ】【下歌】【上歌】はシテ一人で謡うことになるので、この本に解説されているように哀傷の気分がより強くなり、前シテは化身のような趣で、全体的に複式夢幻能のような雰囲気となるでしょう。

また上掛リ(観世・宝生流)でもトモの太刀持ちは出さずに、前シテと女ツレの二人だけが登場する事もあります。この場合は身分に上下はありながら女性だけによって朝長の墓がずっと守られていた、という印象になり、戦乱がうち続く殺伐とした世相の中で、ひっそりと弔いを続けるこの女性の哀感が強調されるでしょう。なお ぬえの師家では女ツレを略して前シテが太刀持ちだけを連れて登場した事もありました。

ぬえは、どうもこの前シテが、この悲しい場面にこれほどの大人数で登場するのは、前シテにあえて複式夢幻能のような化身としての印象を持たせないように作者が工夫してあるのではないかと思っています。たしかに前シテが一人で登場すれば、その登場の場面では亡くなった朝長を追慕する孤独な女長者の悲しみが強調されるのですが、同時にどうしてもこの前シテが、朝長の死後もここに留まって亡き若武者の後を弔う「現実の」女性としての存在感が薄れてしまって、『巴』の前シテのように「幽霊」に見えてしまうと思うのです。【語リ】は、朝長の死を目前にしながら後に残された現実の人間の悲しみの吐露であるからこそ意味があるので、上掛リのこの登場人物の多さも優れた演出だと考えています。いずれにせよ、大人数で謡うのですから賑やかにならないように工夫しなければなりませんですけれども。。(/_;)

一同は舞台に入り、向き合って謡い出します。

【次第】シテ・ツレ「花の跡訪ふ松風や。花の跡訪ふ松風や。雪にも恨みなるらん。
【地取リ】地謡「花の跡訪ふ松風や。雪にも恨みなるらん。

ここでシテは正面に向き名宣リ(自己紹介)をします。ツレ・トモはシテへ向いたまま下居し、再び同吟するところで立ち上がり、一同はまた向かい合って謡います。

【サシ】シテ「これは青墓の長者にて候。
シテ・ツレ「それ草の露水の泡。はかなき心のたぐひにも。哀れを知るは習ひなるに。これは殊更思はずも。人の嘆きを身のうへに。かゝる涙の雨とのみ。しをるゝ袖の花薄。穂に出すべき言の葉も。なくばかりなる。ありさまかな。
【下歌】「光の陰を惜しめども。月日の数は程ふりて。
【上歌】「雪の中。春は来にけりうぐひすの。春は来にけりうぐひすの。氷れる涙今ははや。解けても寝ざれば夢にだに御面影の見えもせで。痛はしかりし有様を。思ひ出づるもあさましや。思ひ出づるもあさましや。

この上歌の中で少々型があり、シテは謡いながら舞台常座へ行き、ツレとトモは地謡の前に行き着座します(本来の型はツレとトモは地謡の前に立ち並んで、ずっと後の【語リ】の場面までそのまま立っています。この曲の太刀持ちの役が辛抱役と言われる所以ですが、今回は「替エ」の型で上記の通りツレ・トモには早めに着座してもらいます。

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『朝長』について(その19=舞台の実際その1)

2006-05-10 02:06:04 | 能楽
今回より実際の舞台の進行に即して能『朝長』の演技について解説を行っていこうと思います。

【注意】
◎ 本来、能の振り付け(型付け、といいます)は非公開が原則で、ぬえが師家から写させて頂いた型付けにもしっかり「他見不許」の文字が。。しかし過去には、おおまかながら型付けの概要がいくつかの書籍に紹介されてきたのも事実。そこで今回の解説は、師家から頂戴した型付けを ぬえが勝手に開陳したのではなくて、あくまでそのような書籍の類にすでに公開された部分を再紹介する、というスタンスで臨みたいと思います。諸事情ご賢察くださいましー (~~;)

◎ 同じく、ときには囃子やワキなど他の役の実技についても言及する場合もあるかと思いますが、それらについても「習い」に関する事などは ぬえが楽屋で友人の囃子方などに聞いた事をみだりに公開してはならない、とされていますので、ここで ぬえが言及する実技についての話題はすべて過去に公開された情報だとお考え下さい。

◎ 以下に掲出した謡曲(能の謡の本文)の底本は観世流大成版謡本に拠ります。このうちワキの謡の部分は、今回の橘香会での能『朝長』のワキが宝生流の演者であるため、下記の本文とは小異があります。

◎ 間狂言の詞章は割愛させて頂きました。

能『朝 長』

幕内で囃子方の「お調べ」が終わると、囃子方が笛・小鼓・大鼓・太鼓の順で橋掛りから登場し、舞台後座の所定の位置に着座します。同じく地謡も切戸口から登場して地謡座に横向きに着座します。今回は ぬえが所属する梅若研能会の「別会」の扱いの催しですので、囃子方・地謡とも威儀を正して裃を着用しています。

やがて笛が一管で独奏を始めます。「名宣リ笛」と呼ばれるワキの登場音楽で、幕を揚げてワキ・ワキツレ、そしてそれに続いて間狂言が登場します。ワキの姿を見て、着座していた小鼓・大鼓は床几に掛かり、地謡も扇を膝の前に置いて、すべての役者が能の上演に臨む体勢を取ります。

ワキは舞台に入り、シテ柱のあたりで「名宣リ」を謡います。ワキツレと間狂言は橋掛りに控えます。

ワキ「これは嵯峨清凉寺より出でたる僧にて候。さてもこの度平治の乱れに。義朝都を御ひらき候。中にも大夫進朝長は。美濃の国青墓の宿にて自害し果て給ひたる由承り候。我等も朝長の御ゆかりの者にて候ほどに。急ぎ彼の所に下り。御跡をも弔ひ申さんと思ひ立ちて候。

囃子方が打ち出し、ワキは脇座の方へ行き、ワキツレは舞台に入ってワキに向き合います。間狂言は橋掛りの狂言座に控えます。

【道行】ワキ・ワキツレ「近江路や。瀬田の長橋うち渡り。瀬田の長橋うち渡り。なほ行くすゑは鏡山。老曽の森を打ち過ぎて。末に伊吹の山風の。不破の関路を過ぎ行き。青墓の宿に着きにけり。青墓の宿に着きにけり。

【道行】とは紀行文を謡いながら旅行を体を示す小段で、このおわりにワキは正面に向き少し出、振り返って元の座に戻る事によって一行が青墓の宿に到着した事を示します。ワキは嵯峨・清涼寺から旅を始め、大津の名所「瀬田の橋」を渡り、歌枕の鏡山、老曽の森を過ぎて、岐阜との県境の伊吹山を望みながら不破の関を通って青墓(いまの大垣市内)に到着した事を示します。

ワキはこのところで朝長の墓を尋ねよう、と言い、ワキツレは脇座に着座します。ワキはシテ柱のあたりで橋掛りに向き、在所の人を呼び出します。間狂言は呼ばれて立ち上がり、ワキに乞われて朝長の墓の在処を教え、ワキは礼を言って舞台の真ん中あたりに行き、正面を向いて着座して、墓に詣で(朝長の墓は舞台の正面にある、という心)、やがて脇座に退いて着座します。

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