ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

扇の話(その17) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<8>

2008-02-28 00:49:47 | 能楽
それで、扇。(;^_^A

。。でも、ぬえはここに至って、扇や装束の解説の例に『葵上』を選んだのは失敗だったかなあ。。と思っていたりします。『葵上』でシテが使うのは「鬼扇」と決まっていて、ぬえが言いたい「シテが使う扇も、じつはそれほど厳密に決められているわけではない」という趣旨の例題としては不適切だったんです。。

ま、今回は『葵上』の話題のついでに鬼扇にも言及して、それからほかの扇について考えてみることにしましょう。。

鬼扇というのは赤地に大きな一輪牡丹の図を描いた扇で、「鬼」と言っても鬼女専用、それも事実上『葵上』と『道成寺』の前シテにしか用いられません。曲目の選択肢が狭いことでは扇の中でも屈指でしょう。ああ、やっぱり『葵上』を選ぶんじゃなかった。ちなみに『道成寺』ではご存じの通り前シテの間だけこの鬼扇を使い、後シテは打杖を持っていて扇は使いません。また『葵上』ではやはり後シテは打杖を使うのですが、ワキに調伏されたあとのキリの部分で再び鬼扇を持ちます。もっとも『葵上』のキリでは扇は使わずに打杖のままでも良いことになっていますし、また小書がついた場合は打杖のままで扇は使いません。

それと、鬼扇には「替エの鬼扇」というものがある、のだそうです。赤地に金の座をいくつも置いて、その中に草花の図を描いたものなのですが。。ぬえはこれは本に載った写真を見ただけで、実際に使われているのを見たこともないし、師家にもあえて「替エの鬼扇」とされた扇もありません。そういう扇がある、という事を ぬえは本で読み、写真でその扇を見ただけだから、決定的なことは言えないのですが、その図柄の扇といったら。。それは『猩々乱』だけに用いられる「乱扇(みだれおうぎ)」にしか。。ぬえには見えなかった。いや実物があるとすれば、実際には「乱扇」とは細かい点で違いがあるのかも知れませんが。。ナゾがナゾを呼ぶ。

なお、やはり「鬼扇の替エ」と言ってよいのでしょうね。『道成寺扇』というものがあります。もちろん『道成寺』の前シテで使う専用の扇ですが、何のことはない、表側は普通の鬼扇とまったく同じ赤地一輪牡丹図で、裏面が一輪牡丹の図は同じながら、赤地ではなく金地で作った扇を言うのです(これも ぬえのサイトに→画像を載せてありますのでご覧下さい)。

この扇、『道成寺扇』と呼ばない能楽師も多いかもしれません。。やはり鬼扇の図柄の替エ、バリエーションと言った方が内容としても近いかもしれませんですね。いずれにしても『葵上』で使うのは ちょっと仰々しすぎる、というか、やはり『道成寺』で使うのが適当だと思います。

ちなみに上記の ぬえのサイトに載せた画像は、ぬえが『道成寺』を披いた時に自分で新調した扇なのですが、上演の際に使う時にはちょっとした苦労がありました。扇って、閉じた状態で右手に持つと、その外側。。つまり見所から見えるのは扇の裏面の部分なんです。わかりますでしょうか。。仕舞などで使う鎮メ扇ならばそれほど気を遣わなくてもよいのでしょうが、能で使う中啓は閉じていても末広がりに造られているため、裏面の、まあ描かれている図柄は定かには見えないでしょうが、地色だけはハッキリとわかります。そのため、この「道成寺扇」を右手に普通に握ると、扇の裏面の金色の地紙が見所から丸見えになってしまうのです。「あ、扇が金色だ」というように。。

やはり「鬼扇」は赤地に見えないと。『道成寺』で扇を拡げるのは急之舞の途中からですから、それまでずうっと金色の地紙を見所に晒しておくのは、ぬえには違和感がありました。鬼扇はいつものように赤地に見える。ところが急之舞の中で扇をパッと拡げると、片面が赤地、もう片面が金地の対照的な扇だったことが初めてお客さまの目に入る。。こういう演出があってはじめて地色変わりの扇も生きてくる、というものでしょう。

そこで ぬえは、前シテの登場から扇を裏返しに持って出たのです。赤地が外側に見えるように。そして、急之舞の中で、サッと一瞬で扇の裏表を返して持ち直して、そして扇を拡げました。ヘタをすれば扇を裏がえしのまま舞う事になってしまうのですが、当日は無事に持ち直すことができました。急之舞の、あの怒濤の速さの舞の中で扇を持ち直すのは とっても心配でしたが。。『道成寺』は「百日稽古」と言われますが、扇を拡げる場面でも失敗は万が一にもないように、それはもう何度も、何十回も、稽古はしました。あ~結果が出せてよかった~(T.T)

扇の話(その16) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<7>

2008-02-27 01:20:24 | 能楽
次は腰帯ですね。。大成版謡本に載っている腰帯の項には「紅入腰帯」としか書いてありませんが、まあ、普通腰帯を選ぶときは鬘帯とのバランスを考えて決めることが多く、『葵上』の場合は鬘帯と同じ胴箔の鱗文様の腰帯を使うことが多いと思います。ぬえも『葵上』用にお揃いの鬘帯と腰帯を持っていますよ。

で、ようやくたどりつきました。次は唐織。今回『葵上』の装束附について細かく解説しておりますのも、じつはこの唐織について話したかったからなのです。いや、ホントは扇の話のはずなんですけども。。

もう一度『葵上』の装束附を見てみると。。「長鬘(翼元結) 紅入鱗箔鬘帯 襟—白二 着附—鱗箔 黒地紋尽腰巻 紅入腰帯 紅入唐織壺折」となっています。これって、簡単に書いているように見えながら、じつは装束の選択肢はあまり広くありません。鬘は「長鬘」でなきゃいけないし、鬘帯は紅入で胴箔の鱗文様のもの。襟はまあ、1曲1曲すべての曲に個別に指定されているから別格として、着付は女性役なのだから摺箔は当然として、それは鱗箔でなければならない。しかも前述したように、『葵上』では『道成寺』に遠慮して白地銀鱗文様の摺箔に限定されています。腰巻。。つまり縫箔は黒地。。いや実演上は納戸地で紋尽しのもの。油煙は『道成寺』に似合うから『葵上』には好まれない。そして腰帯も鬘帯とのバランスで紅入胴箔鱗文様のもの。。もう、こうなってくると『葵上』にはシテの装束の好みなんて入り込む余地がないように見えます。

しかし実際にはそうではないのです。「紅入唐織壺折」とは。。前回お話ししたように、壺折りとは着付け方の名称ですから、ここでは唐織については「紅入」という以外、つまりどのような文様の唐織を着るべきか、などはまったく決められていないのです。すべて演者の選択に任されている。『葵上』の前シテの装束の中で、もっとも目立つ装束が唐織でしょう。もちろん上着であるワケですから目立つのは当然ながら、『葵上』では中入の直前にその唐織をシテ自身で引き抜くというアクロバティックな型まであるのですから。考えてみると不思議です。ほかの装束について少々ウルサイほどの指定がなされているのに、その一方 ここまで目立つ、『葵上』の前シテの印象を決定づけると言ってよいはずの唐織については何の指定もないとは。。

ただ、ぬえは こういう場面にでくわすと「ああ、能らしいなあ」と思うんです。

能は「決マリ」も多いけれど、演者の自由に任せられているところも とっても広くあるのです。たとえば型を考えるとき、「ここは三足」と歩数まで指定されている事が 能にはままあります。そして、何故かそういう部分ばかりがクローズアップされて、世間では 時には口さがなく「化石」呼ばわりされることもありますが、実際には歩数まで指定されている演技は むしろ稀だと思います。「角へ行く」「左へ廻って大小前に行く」と、位置関係を指定する型の方が断然多いでしょう。ぬえが思うに、能には具体的な演技や位置の移動といった、まあ「劇」というものすべてに共通する「演技」というもののほかに、能に独特の「定型の型」というもの、たとえば左右~打込~ヒラキのような、それ自体は意味を持たない「器」としてだけ存在していて、それに演者が意味を付与していくような定型の型があります。これは「器」ですから歩数まで決められてコンパクトに作られていて、仕舞などでは こういう定型の型が目立つから「動作まですべてがんじがらめ」という間違った理解が蔓延してしまうのではないでしょうか。また、定型の型でなくても歩数が指定されている場合もありますが、それはすべて、その曲の中で ある重要な演技をする場合であって、三間四方という限定された空間の中で、その演技が最も効果を出す歩数、というものが長い上演の歴史の中で取捨選択されて、先人によって あえて指定された場合ばかりだと、ぬえは経験上、そう思っています。

ちょうど『葵上』で唐織だけが文様さえ指定されていないのは、これとまったく同じ意味なのではないでしょうか。。すなわち役の個性を表現する最大の効果を持つ上着としての唐織という装束の選択は演者に任せておいて、その下から見え隠れする摺箔とか腰巻に、観客が自然に納得できる文化史的なコードとしての鬼女のイメージ。。それは極端としても、「嫉妬の炎が彼女の心の中で大きくふくらんでいる」という、劇のプロットとして外せない部分のイメージだけは しっかりと指定してある。このように ぬえは思うのです。

つまり「がんじがらめの指定の中に演者の自由も少し残してある」のではなくて、それとは逆に、「自由な選択はあくまで実演者であるシテに任せておいて、それでも外されては困る部分だけは ちゃんと指定しておく」こういうスタンスで装束附は作られているのではあるまいか。

扇の話(その15) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<6>

2008-02-26 00:24:16 | 能楽
え~、ところが。「壺折り」というのにはまた種類がありまして。。これまで説明しましたような縫箔の腰巻の上に着付ける場合のほかに、大口の上に唐織や舞衣を着付ける場合もあって、これまた「壺折り」と呼んでいます。大口の上に唐織を壺折りに着付けた例は『山姥』や『江口』『楊貴妃』などがあり、舞衣ですと『当麻』や『海士』がその例になります。で、さらに壺折りには「大壺折り」と「小壺折り」という着付方の違いがあって、腰巻の上に着付ける壺折りの着付け方は「小壺折り」一種だけですが、大口の上に付ける壺折りには大・小二つのやり方があり、それも舞衣ならばやはり「小壺折り」の着付け方だけしかできないが、唐織を着付ける場合には「小壺折り」も「大壺折り」も、どちらも用いられる、と。。だんだん複雑になってきました。このへんで「裳着胴」「壺折り」の話は はしょって、縫箔に話を戻しましょう。。

『葵上』でシテが腰巻に着付ける縫箔の文様は、黒地紋尽し、と決められています。紋尽しの文様というのは、丸紋を散りばめた文様で、よく舞台写真などでもおなじみだと思います。この文様は『葵上』に限らず、『道成寺』にも用いられますし、ときには『鉄輪』の後シテにも使われます。要するに鬼女のトレードマークの一つなんですね(でも『安達原』には紋尽し縫箔は使われず、腰巻にするのはもっぱら無紅厚板です。紋尽し縫箔は、鬼女というよりも「嫉妬」の象徴として使われているのかも)。なぜ紋尽しが鬼女の象徴として、その役に限って使われるのか。。不勉強で申し訳ありませんが、これについて ぬえはまだ解答を持っていません。。なぜだろう。。なにか、能装束に使われる前に鬼女=紋尽し、という図式が、鱗文様のようになんらかの先行例があって、能装束はそれを踏襲しているだけなのか、あるいは舞台での中の約束事として能が独自に開発したものなのか。。そういえばお狂言の括り袴にも、時折 丸紋尽しの文様が用いられていることがありますね。これとの関連はどうなのだろう。。? すみません、これは宿題ということにさせて頂きたいと思います~

ちなみにあの紋は家紋ではないんです。いろいろな意匠。。たとえば波の丸だとか少し強い感じの草花を丸の中に刺繍したものとか。。家紋ではなくそういった「図案」がたくさん施されています。でも。。ぬえがこの紋尽し縫箔を作ったときには装束屋さんから「家紋もそっと一つ、入れておく?」なんて聞かれました。そういう事もあるのねえ。そういえば師家蔵の紋尽し縫箔にも、さりげなく師家の家紋が一つだけ入れられていたっけ。ぬえの場合は 結局、ぬえの家の家紋があまり紋尽しの中ではそぐわなく感じたので、家紋は入れませんでした。でも ちょっと ぬえもアイデアを出しまして、紋を少し減らして、その代わりに金箔・銀箔で鱗文様を重ねた意匠を組み込んでみました。ちょっとした文様だけれど、おそらく紋尽縫箔の中にそれ以外の文様を組み合わせた縫箔はほとんどほかに例がないのではないかと思います。これは ぬえのオリジナルデザインで、割と成功した装束になりました。→画像

さて装束附では『葵上』のシテが腰巻として用いる縫箔は「黒地紋尽し」と決められているようですが、実際には、ぬえの師家だけ、かもしれませんですが、黒地は『葵上』には用いられません。(!)

黒地は。。おそらく『葵上』にはキツ過ぎるのです。そこで『葵上』では納戸地。。つまり紺色の地色の紋尽し縫箔をもっぱら使っています。やはり『葵上』は品がよくないと。そして黒地の縫箔は、これまた もっぱら『道成寺』に専用に使っております。

なお、紋尽し文様の替エとして、「油煙形(ゆえんがた)」という文様があります。紋尽しが丸紋を集めた文様なのに対して油煙形は、なんというか唐花(からはな)のようなワクの「紋」で、これもまた『道成寺』に専用のように使われていますですね。

扇の話(その14) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<5>

2008-02-22 19:00:04 | 能楽
摺箔はインナーウェア、というお話をしましたが、だから『羽衣』で最初にシテが登場するときに縫箔を腰巻に着付けて上半身は摺箔がむき出しの、いわゆる裳着胴の姿になっているのは、いわばセミヌードなわけですね。『班女』や『浮舟』のような狂女の後シテがしばしば唐織の右肩を脱いでいる(脱下ゲ、と言います)のも、狂った女性が肌を露わにしている、という意味で、まあセミヌードの一種と言えるかも。『江口』の後ツレの一人、船の棹を持つ者はやはり右肩を脱ぎ下げていますけれども、これはその作業のためで、セミヌードではないのでしょう。。

『安達原』の後シテや、同じく鬼女である『葵上』や『道成寺』の後シテが『羽衣』のように裳着胴であるのは、これは全く違った意味で、怒りに狂った鬼女が上着。。つまり理性を脱ぎ捨てた姿、と ぬえは解釈しています。もっとも『道成寺』の場合は、それよりも もっと激しい。。獣性をむき出しにしたような感じにも思えますですね。

ただ、『道成寺』と『葵上』は後シテは唐織(小書がつけば白練)を最初は身に巻き付けていて、途中で「鱗落とし」と言って橋掛りに行く途中で唐織を脱ぎ捨てます。蛇が脱皮するような感覚の名称ですが、それじゃ脱皮する前の後シテはまだ子どものヘビなのかしらん? いやいや、やはり ここは理性をかなぐり捨てた瞬間と捉えた方がよいのでしょう。『道成寺』『葵上』の二番はシテは本来は人間だったのです。ですから後シテも「恥じらい」。。というか理性として唐織(前シテが着ていた装束ですから「人間」のカケラ、でしょう)を身にまとっているわけで、ワキと対峙する間に次第に怒りがシテを本性からの鬼に変えてしまう。。そう考えれば理屈が合うように思います。そして生来の鬼女であり、前シテはその化身に過ぎない『安達原』では、後シテは前シテの装束を身に巻き付けることはしません(前シテが唐織であっても水衣を着ている場合でも、その装束は後シテでも一応は登場します。もっともそれは薪をまとめるために用いられているだけで、後シテは橋掛りに登場するとすぐに背負っていた薪を捨ててしまいます)。

え~と次は黒地紋尽腰巻。いつになったら扇の話に戻るのやら。。

腰巻、という装束はありません。腰巻とは着付方の一種で、下半身にだけ装束を着付けて、上半身は両肩とも脱いで腰の後ろに垂らすのです。そして、腰巻という着付け方をする装束はただ一つ、縫箔だけです。上に書いた『羽衣』も縫箔を腰巻に着付けていて、この曲では上半身は摺箔だけですが、摺箔を着ている上半身の上にはさらに何かの装束を着ているのが普通で、その場合は縫箔は、見所からはシテの腿のあたりから下しか見ることが出来ません。腰巻の上に着る装束としては水衣(『隅田川』『松風』『三井寺』など)や長絹(『羽衣』の物着のあと、『杜若』『井筒』など)、唐織(『葵上』『鉄輪』の前シテ、『花筐』で小書がついた場合など)、舞衣(『富士太鼓』『梅枝』『羽衣』で小書がついた場合など)。。と、およそ女性の役が上着に着る装束はほとんど着付けることが可能です。

で、『羽衣』のように下半身に腰巻の着付をしているのに上半身がインナーウェアである摺箔だけしか着ていない状態を、全身の着付の総称として「裳着胴」(もぎどう)と呼んでいます。この呼称は女性の役に限らず、『野守』や『小鍛冶』などの切能で、小書がついた場合に上半身が厚板、下半身が半切という装束の取り合わせになる場合も、やはり同じく裳着胴と呼んでいます。本来は上半身には厚板の上に法被や狩衣を着ているのに、インナーとしての厚板だけの姿になっているからで、裳着胴とは役の種類によらず装束の取り合わせに対する呼び方なのですね。

ついでに言えば、上記『富士太鼓』や『葵上』の前シテなど、腰巻の上に舞衣や唐織を着る場合に、その舞衣や唐織を、何というか、上半身に三つ折りに折り込んで着付ける場合(わかります? おおまかに言えば首から下が唐織・唐織・縫箔のように三等分に見える着付の方法を言いたいのですが。。)、その舞衣や唐織を「壺折り」に着付ける、と言います。

扇の話(その13) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<4>

2008-02-19 22:21:54 | 能楽
摺箔は女性の役専用のインナーウェアといった感じの小袖の装束で、多くは白地の繻子地の生地に金銀箔で文様を摺ってあるところから「摺箔」と呼ばれます。インナーウェアですから文様としてはあまり奇抜なものはなく、また白地に金銀箔では遠目では文様は定かには見えないせいか、いくつかの例外を除いてはそれほど役柄によって合う・合わないという うるさい決マリもありません。多く見かける文様としては金銀露芝文様、小葵文様、麻の葉文様、観世水文様。。といった感じでしょうか。白地でない摺箔もあり、たとえば赤地に紗綾形(さやがた)という雷紋か卍字繋ぎに似た文様を焼いて青くした銀で摺った摺箔はもっぱら『鉄輪』の後シテ専用に使いますし、『羽衣』には鬱金地に金で枝垂れ桜を摺ったものなどが使われることがあります。また稀にところどころに刺繍の施された豪勢な摺箔もありますね。こういうのは「縫い入り摺箔」なんて呼ばれたりしています。

ぬえが面白いなあ、と思うのは、摺箔には「紅入・無紅」の区別がない。。どころか、年齢不詳の装束ですね。これは能装束の中では、わけても女性の役に使う装束としてはとっても珍しいと思います。もちろん役によって区別が全くないわけではなく、まずシテは金の文様の摺箔、ツレは銀の文様のそれを使う、というような決マリはあります。前述の『熊野』の場合などがまさにこれに当たるのですが、シテであっても無紅であれば、やはり金の文様は避けて銀の文様の摺箔を使います。だから、やや困ったことも起きることがある。『富士太鼓』などはシテが無紅ですから銀の文様の摺箔を使うのですが、この曲ではシテは子方を伴っています。この曲の子方は女の子という設定で、唐織を着流しに着ているので、やはり胸元から見える摺箔を着ます。この子方に銀の文様を使うと、これほど年格好が違うシテと子方が同じ銀の摺箔を着ることになってしまうのです。こういう場合、この重複を避けるために、シテは金銀の摺箔を着たりしますね。

そういえば去年 ぬえは建長寺で催された巨福能で『隅田川』のシテのお役を頂きましたが、そんな名刹での演能は ぬえにとって名誉で、記念に香色地金銀露芝文様の摺箔を新調しました。「香色」というのは、いわば乳白色で、とってもキレイな色です。白地の摺箔を作ろうと、ぬえは当初は思ったのですが、装束屋さんに「白地で」と注文すると、まあ何と言うことか純白に染め上がってしまうのです。そこで我々は白地でも「少し汚してください」とお願いして注文するのです。汚す、と言っても純白でなくて地色を薄くつける、という意味で、そうしたら今回は装束屋さんが気を利かしてくださって、美しい香色の摺箔が出来上がりました。

今書いたように、ぬえはこの摺箔を建長寺での『隅田川』のために作ったのですが、同じ装束を秋に自分の主宰会「ぬえの会」で勤めた『井筒』でも使いました。せっかく作ったのですから、『隅田川』一番ではもったいないと考えたからですが、考えてもみてください。『隅田川』は失った我が子を求めて遍歴の旅を続ける中年の女性。かたや『井筒』は初恋の思い出を語る、三番目能のシテの中でもかなり年齢は若い設定となっています。このように金銀の摺箔は年齢不詳。。『富士太鼓』にも、『隅田川』にも『井筒』にも似合ってしまう。。これはほかの装束ではあり得ない例だと思います。

また逆に『海士』で小書がついて前シテが裳着胴になる場合などは、浅黄と白の段に染められた生地に銀の箔で文様を置いた摺箔を着ることもありますが、これは完全に無紅というイメージですから、若い役には使えない。。こういう事もあります。

さて『葵上』では白地に銀の鱗文様を置く摺箔を着ることが決マリになっています。前述のように、これも鬘帯や腰帯のように「銀鱗箔摺箔」と呼びます。。が、摺箔は胴箔の技法で作った装束ではないから、おのずと用法は鬘帯・腰帯とは違います。同じ「鱗箔」という呼び名ですが、ようするに「鱗文様を銀箔で摺った摺箔」という意味でしょう。

ここでまた興味深いのは、『葵上』は若い女性の役なのに「銀」の鱗文様摺箔を着ることです。これはかなり特殊な例ですが、銀を着る理由はシテの役の年齢とか性格によるものではありません。じつはこれ。。『道成寺』に遠慮しているのです。『道成寺』では白地に金鱗の摺箔を着るので、『葵上』はそれに位を譲って銀鱗を用いるのです。同じく鱗箔を着るほかの能のシテも『道成寺』に遠慮して、『葵上』と同じく白地銀鱗だったり(ぬえは12月の『山姥』の後シテはこの白地銀鱗文様摺箔を着ました)、はたまた『紅葉狩』では赤地に金鱗の文様の摺箔を着たりしますね。

では三鬼女の もう一曲『安達原』は。。? なんとこれは摺箔を着ないことも多いのです。女性の役なのに。やはり山奥に住む鬼婆ですから、なんと無地熨斗目とか厚板を着る。これはまたこれで、シテの性格によく似合っています。

“イクストリーム・タコアギング”に ぬえの魂は燃えた

2008-02-18 00:17:21 | 雑談
今日は外国人への仕舞のお稽古の予定だったのですが、生徒さんの都合で急遽キャンセルになってしまい、突然 ヒマになってしまいました。あ~どうしよう。。

急な休みなので稽古に使える場所もないし~。舞台もこのところ ちょっとひと休みなので、公演に向けて勉強する事もないし~。確定申告の計算もしなきゃいけないけど面倒くさくてやる気が起きないし~。伊豆の子どもたちのために、彼らが薪能で勤めるための資料を、このところずう~っと作っていたので、事務仕事もちょっと休憩したいし~。工作は今のところ自作が必要なものもないし~。

巷では今日は東京マラソンの日で、スポーツに大盛り上がりの日ですね~。。あっ、そうだ!!

そういえば正月は舞台が多かったので ついつい先延ばしにしていた ぬえ家の恒例行事をせねば。名付けて「イクストリーム・タコアギング」!!  いえ。。ただの「凧揚げ」なんですけどね。。そんなワケで近所の巨大公園に行きました。

いやしかし。ぬえ家の凧揚げは毎年恒例で、高々度を目指すのです。。でも残念ながら今年は正月の多忙で準備が整わず、しかも今日急に思い立って行ったので、糸の用意がなかったのであまり高度は出ませんでした。今年は 200mといったところでしょうか。

その勇姿を見よ!



200mの高度ってのは都内では大丈夫なのかしらん。。条例に引っかかるとか。。? 無知な ぬえはちょっと不安ではありますが、まあ毎年凧揚げは高々度を目指しております。凧自体は市販のものですが、高々度を目指すとさすがにそれについてくる凧糸では間に合いません。画像でもわかる通り、安直ですが荷造り用のビニール紐を継ぎ足しています。これも いろいろ考えたんですよね~。おそらく200mでは凧糸では耐久性の面で無理があるでしょう。釣り糸のテグスも考えた事があるんですが、これは切れて地上に落ちたときにまったく見えないから、通行人などに思わぬケガを負わせる可能性もあるので却下。ホームセンターなどでナイロンの細紐なども売っているでしょうが、コスト面で厳しいかもしれないし、重量オーバーの可能性が高い。結局、自宅に常備している荷造り用ビニール紐が毎年登場するのですが、じつはこれさえも重量オーバーなんです。

凧揚げに「重量オーバー」とはどういうこと? つまりですね、凧を揚げるのに、それを繋ぐ糸が長大になってくると、糸自体に風の負荷が掛かってくるのです。凧糸の細さならば、風の抵抗は小さいので、凧は引き手からほぼ真っ直ぐに揚がります。ところがビニール紐となると、その重量。。さらには表面積の問題というか、紐そのものが風をまともに受けてしまい、地上と凧との間で大きく紐がたわんでしまうのですよね~。ちょうど強風の日に投げ釣りをすると海面からの釣糸が大きく風に流される。。あんな感じ。

凧は上空に揚がれば気流にうまく乗って安定して飛んでくれるんですが、それでも 風が弱いと糸を「チョンチョン」と引いてやらねばなりません。しかし糸が長くなると、上空の凧との間の糸が風に流されるので、糸を引く力にもロスが生じてきて、結果かなり大きな動作で「グイグイ」と引かないと凧に力が伝わりません。風の圧力で引き手に掛かる力も大きいので、手袋は必需品。これでも「タコアギング・アスリート」は頭脳派なのです。えっへん。

そんなこんなで、熱中していた ぬえですが、公園で遊んでいた小学生は寄ってくるし、いろんな人が話し掛けてこられて、楽しい休日となりました。

来年は今年の倍の500mを目指したい(条例違反でなければ)。糸の素材を吟味し、いま検討している釣り竿のリールの導入とか、研究の余地はまだまだあるでしょう。よし! 今年の工作の目標は決まった。(あ。。あれ?)



※ えっ!? 「凧揚げ」は「カイト・フライング」って英語がちゃんとあるんですかっ!!!???

扇の話(その12) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<3>

2008-02-16 23:53:10 | 能楽
前回の補足ですが、紅入鱗箔鬘帯という名称のうち「鱗箔」という言葉について ちょっと説明が足りませんでした。

鬘帯には「紅入(いろいり)」「無紅(いろなし)」という、ほかの多くの(すべての、ではない)装束に共通して、それを着る役の個性。。とくに年齢を表す区別があって、それは紅色がその装束に入っているか否か、という区別であることは以前にも簡単に触れました。また鱗文様も、織りであったり刺繍であったり、摺箔であったり、と様々な技法を駆使しながら、嫉妬の炎を燃やす女性の役(と、それにイメージが似た役にも流用しますが)に共通して用いられる文様です。

ところが、ほかの装束には用いられず、鬘帯と腰帯に限って用いられる製作技法。。それによる名称があるのです。それが「胴箔」(どうはく)で、前にも説明した合引以外の箇所~鬘帯であれば頭に巻き付けるところと、後頭部から背中に垂らす部分。腰帯であれば腰の前に垂らす箇所と、腰のうしろの、ちょうど袴の腰板にあたる部分~一面に金泥が塗ってあるものをこう呼びます。

胴箔の鬘帯や腰帯は非常に豪華で、もちろんシテ専用です。とくに本三番目のシテではまず間違いなく胴箔の鬘帯と腰帯が選ばれると考えてよろしいかと思います(ですから『熊野』などではシテが胴箔、ツレが紅地の鬘帯を締め、また同じ唐織でもシテが段のもの、ツレはやはり紅地のものを使い、さらにその下に見える摺箔もシテは金の文様、ツレは銀の文様、そして襟もシテは白を二枚、ツレは赤を一枚着る、と、こういうところで役の「位」の表現に差をつけています=もちろん一番大きな違いは掛ける面ですけれども)。

この胴箔、見所からは金地に刺繍で文様を施してあるように見えると思いますが、生地に先に金を置いてしまうと、もう地が堅くなってしまって刺繍の針が通らないので、実際には刺繍をしてから、その余白にすべて金を置くのです。で、ホントに胴箔の部分はカチンカチンでして、頭に巻き付ける程度はできるのですが、もうそれ以上折り曲げたら。。パチンと金の塗りが折れてしまうか、ヒビが入ってしまうでしょう。もっとも、それは最近の品物の場合で、昔の鬘帯を見ると非常に薄く生地のうえに金が載せられています。これなら金の上から刺繍ができるかもしれない。。今度機会があったらよく見てみよう。それに、刺繍も昔のものは良いですね。。むやみに時代があった方が すべからく良い、というものでもなく、大正から戦前の昭和の頃の品物というのは華奢で繊細。心がこもって作られています。現代のようにベタッと塗られた金の鬘帯ばかりをふだんは見馴れてしまっているけれども。。古いものを見ると、あ~あ、ホントに戦争で何もかも失ってしまったんだなあ。。と思ったりします。

え~、話は飛びましたが(またか。。)、紅入鱗箔鬘帯、と言った場合、鱗箔とは「鱗文様の入った胴箔」の鬘帯、という意味なんです。胴箔という技法を説明しないと鬘帯の説明は片手落ちなので、遅ればせながら申し添えておきました。

もっとも、同じ「鱗箔」と言っても、次回に説明しようと思っている「摺箔」ではまたちょっと違った意味で使われている呼び名ですね。これはまた次回に。。

扇の話(その11) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<2>

2008-02-15 04:04:08 | 能楽
次は紅入鱗箔鬘帯。いろいりうろこはくかつらおびと読みます。鬘帯は頭に締めるヘアバンド。。ってのも死語だね、こりゃ。最近はこれに該当するものを見ませんです。敢えて言えば。。ハチマキでしょうか。これまた運動会が連想されてしまって ちょっと。。ですが。

紅入は鬘帯に限らず装束全般に言う言葉で、文様や生地に紅色の入ったものを呼び、役柄が若いことを表します。鬘帯の場合は紅入といったら普通は合引(あいびき)の部分が紅色である事が多いです。鬘帯は額から両側のコメカミあたりまでと、それから後頭部から背中に垂らす部分が堅く織られていて、それを繋ぐ薄い生地の部分を頭に結んで着付けることになりますが、その薄いつなぎの部分を合引と呼んでいます。鱗箔の「鱗」は三角形を組み合わせて蛇の鱗を表現する日本古来の文様で、嫉妬した女性が蛇に変身して復讐する、という、これまた日本古来のイメージを投影したもの。鱗箔という場合は、三角形の鱗文様そのものを金箔や銀箔で表したり、あるいは鱗文様は色糸で表して、その隙間を金箔で埋めることを指します。般若の面を掛ける場合は必ず装束のどこかに鱗文様を入れるのが決マリで、鬘帯を締める場合は鱗箔の鬘帯を締めるわけです。もっとも『葵上』の場合は「泥眼」を掛けている。。まだ人間性も保った前シテが鱗箔の鬘帯を締めることで、心の中は嫉妬の炎が燃えさかり、いわば蛇に変身する直前、という心情を表現します。

襟--白二は着付(女性の役の場合はほとんどの場合摺箔)の襟元から数ミリだけ顔を覗かせている襟のことで、その色によってその役の性格を表現しています。『葵上』の場合はその色が 能の中でもっとも高位とされる白で、それをさらに二枚重ねて着ける、ということです。白の襟を二枚というのは本三番目の能のシテとか、るいは『翁』が着ける場合に限られていて、四番目、または略切能という扱いであるはずの『葵上』は破格だといえます。これは役柄こそ生霊となって恋敵の命を狙う者ながら、本説は『源氏物語』で、シテは東宮妃でもあった上臈だからでしょう。この襟と鱗箔の鬘帯とのミスマッチが『葵上』の前シテのミステリアスな人物像を形作っています。ところで能の役が着ているものの中で襟だけは装束と言えるかどうか。。

能の役が使う襟は麻か綿のちょっとした台にその色の羽二重の襟を縫いつけただけのもので、ちょうど和服の襦袢に縫いつける半襟を想像して頂けるとイメージとしては似ていると思います。半襟は襦袢に縫いつけてありますが、襦袢を洗うときには外して、そして改めて縫いつけますよね? 能の場合、襦袢にあたるのが厚い綿入れの「胴着」と呼ばれるもので、これは洗いません。というか、能装束というものはすべて洗わない。それは生地が絹だからです。だから胴着に綿を入れて、演者の汗が装束に染みないように配慮しています。それこそ装束の中で演者の肌に直接触れる部分と言ったら。。袖口だけじゃないでしょうか。一方、胴着は汗だらけになりますが、これまた羽二重の生地で出来ているので洗いません。だから公演が終わるとすぐに胴着は(少し霧吹きをして)陰干しをして汗を乾かします。そうすると汗くさい、という事はありませんね。もっとも胴着は使い込むと汗染みだけは目立ってきますが、前述の霧吹きをキチンとやっていれば全体的には色あせて来るけれども、輪染みみたいなことにはなりません。

そんなわけで襟は、洗わない胴着に付けるわけですし、また中入で装束を着替えたときに役の性格が全く変わってくる場合(『船弁慶』とか『殺生石』とか。。でもまあ、化身である前シテと本性を現した後シテとの性格が一致しないのは当たり前でもありますが。)には胴着はそのままに襟だけを替えるので、襟は着脱可能になっています。女性の和服の場合、襟にあたる部分を巻き込んで着付けますね? ちょうどあのように、胴着に襟を重ねて一緒に巻き込んで、その上に着付となる摺箔などを着込むことで、襟はちょっとだけ襟元から見える程度に着付けられています。

そんでもって、胴着と同じく演者の肌に直接触れる襟は、どうしても汗によるダメージがあるので、これは公演が終了すると洗います。台は麻か綿とはいえ、襟自体は羽二重なのに。。洗います。もちろん絹なので多少縮むのですが、これはアイロンをかけてしっかり伸ばして。。どう考えても「酷使」と言うよりほかはない。。だから状態が悪くなれば襟を台から外して付け替える事も必要になってきます。

結局、襟は「消耗品」の部類に入るのではないかと思います。下着として演者の汗をそのまま受け止める胴着だってあんまりヨレヨレになってくれば買い換えるしかないし、その仲間。一方 装束は100年間は持ちこたえて立派に舞台に光彩を放つわけですから、ほんの少しとはいえ襟元から露出してその役の性格を物語る襟は、意味としては装束の仲間であるのに、やはり演者の肌に触れて酷使される、という点で下着の同類。ですから、襟は演者それぞれが自前のものを胴着と一緒に用意して楽屋入りします。師匠に装束を拝借しても、胴着と襟は演者個人のものを用意するのです。

あ。。扇の話に戻るまで先が長そうだが。。なんだか こういう説明も面白くなってきた。。

扇の話(その10) ~どの鬘扇? なぜ修羅扇?<1>

2008-02-13 01:23:52 | 能楽
能ではその曲に使う面や装束に いろんな約束事があるように思われています。もちろん約束事も多いのですが、意外に決められていない、演者の選択に任されている部分も多いのです。もう少し正確に言えば「形状の上でこういう基準を満たしていれば、文様はとくに指定はない」という場合が、むしろ多いと言えるでしょう。

その代表例が装束で、たとえば『葵上』のシテでは装束付け(装束の選択の規定を記した台本の一種。観世流の大成版謡本には前付に転載されて公開されている)にはこのように書かれています。

面—泥眼 長鬘(翼元結) 紅入鱗箔鬘帯 襟—白二 着附—鱗箔 黒地紋尽腰巻 紅入腰帯 紅入唐織壺折 鬼扇 物着ニ 面—般若 赤打杖

『葵上』を演じるときに面装束を選ぶ際の常識であることなのに、ここには省略されている情報もいくつかありますが、まあ大体のところは詳細に書かれています。前シテの面の「泥眼」についての説明は不要と思いますが、それ以下の装束・小物類について概説すれば次の通りです。

長鬘は鬘の中でも寸法の長めのものです。鬘を使うとき、多くの場合では鬘は上着となる装束の下に隠れてしまって、見所からは頭頂・頬・後頭部ぐらいしか見えないと思います。こういう場合は鬘はそれほど長さを必要とせず、こういう着付方をする役の方が多いので「常の」鬘と言えば やや寸が短い鬘を指して言うのです。ところが稀にはわざわざ上着の外に鬘を出して着付ける役もあって、この場合は長鬘を使います。長鬘を着ける役としては狂女とか天人とか、普通の女性の役よりも個性的。特徴のある役が多いように思いますが。。

たとえば唐織の右肩を脱いで着付ける(脱ぎ下げ、と言います)『班女』や『玉鬘』のような狂女の役は必然的に鬘を唐織の外に出すことになりますが、一方 長絹を着る役の『井筒』や『野宮』では鬘は長絹の下である事が多いように思います。それでも天女である『羽衣』や、やはり狂女の『百万』は長鬘を長絹の外に垂らしますね。また同じ狂女であるのに『隅田川』や『桜川』のシテが鬘を装束の外に出さないのは、これらの役が水衣を上着として着ているから、という理由のように思います。水衣はそういう性格を持った装束なのか、例外として今 ぬえが思いつくのは『巻絹』ぐらいのものです(いや、きちんと調査したワケではないのでほかにも例外があるかも、ですが。。)。

同じく唐織という装束も鬘は内側にしまっておく性格があるようです。これまたこの世を去って神仙の身へと戻った『楊貴妃』などの例外もありますし、『山姥』の後シテや『恋重荷』のツレなどは鬘を外に出したり、内側に隠したり、両様に演じられていると思いますが。そしてどの装束の場合でも、鬘を外に出す場合は長鬘を用い、それを束ねる元結を隠すように、奉書などで作った「羽元結」(ぬえの師家ではこういう表記です)という飾りを付けます(『羽衣』や『恋重荷』のように天仙や上臈の役の場合は「バサラ」というリボンを付ける)。

で、『葵上』の場合、前シテでは鬘は唐織の下に隠すのですが、やはり長鬘に羽元結を用います。ちょっと例外的な着付方法かも知れませんが、これは前シテがクライマックスで唐織を引き抜いて脱いでしまうし、さらに後シテは裳着胴と言って上着を着ないからで、あとで鬘が露わになるために、最初から長鬘を着け、羽元結を附けておくのです。

(す、すみません。。いずれ扇の話にたどりつきます。。)

演劇人交流パーティー

2008-02-10 11:15:04 | 能楽
先日、ある演劇サイトが主催する演劇人交流パーティーというものに参加してきました。

こういうところに参加するのは初めての経験だったので緊張しましたが、参加者は300数十人という かなり大規模なもので、これまた ぬえはどうして良いものやら。。

演劇人。。つまり役者や制作者、スタッフなどが大勢集って、お互いに名刺を交換し、チラシなどを配って宣伝、情報交換をする、という企画で、参加者は演劇人限定のパーティーでした。ぬえも能楽堂の中で能楽師とばかり お付き合いしているのも能があるまい、と思って参加してみました。ん~、演劇人という集まりの中では ぬえはかなり異質ではあったと思いますけれども。。

それにしても、世の中には こんなに大勢の役者さんがいらっしゃるんだ。。参加者は首から名札を下げて、そのストラップの色で その人がスタッフか役者さんかが分かるようになっています。若い役者さんは ほとんど20歳代でしょうか。役者だけで生計を立てている方はむしろ少なかったのかもしれませんが、それでもお話をしていると、あるいは熱く、あるいは面白おかしく、自分たちの芝居のアピールをされて、とっても興味深いパーティーだったと思います。能楽師だというので ぬえには興味を持ってくださった方も多かったですけれども、公演チラシを持っていかなかった ぬえ。後悔しました~。

でも。。参加者に「へええ~~、それでは ぬえもお舞台を拝見に行こうかな。。現代演劇というのは ほとんど見たことがないので。。それで次の公演はいつなんですか? 公演チラシを頂けます?」と聞いたところ、お答えは。。「次の公演は。。12月なんです。まだチラシも出来ていなくて。。」という方が何人もおられて。。やはり公演を企画する、というのは大変なことなのでしょう。そりゃ能楽師だって自分だけの催しをするのは大変だけれど。この方に聞いてみれば、年に1度か2度本格的な公演があって、そのほかに いくつかの小さな催しが単発的にある、という感じでした。これほど多くの劇団や役者さんがいらっしゃるのだから、その中でいかに自分たちを宣伝して公演を進めるのは本当に大変なことでしょう。

しかしまた思ったのですが、そういう厳しい競争の中での公演ですから、上演が近い方が持っておられたチラシを見ると、デザインといい、アピールといい、とってもよく考えられていますね。デザインは誰がされているのだろう。能のチラシも最近は だいぶデザインも良くなってきたけれど、いまだに文字だけの番組も多いです。やはりこのパーティーでも「能はいつ、どこでやっているかわからない」という声も聞かれました。まだ能を見たことのない若い観客に能楽堂に足を運んで頂くために、宣伝方法を工夫するほかに、こういうように目に訴えて、それこそ競争力を持った現代演劇のチラシに負けないチラシを作ることも必要で、こういう点は まだまだ考えていかなければいけないことだなあ、と思いました。

このパーティーには ぬえ、一人で出かけたこともあって、ちょっと気後れしてしまって あまり名刺交換もできませんでしたが、ある参加者から突然「ぬえさんですよね?」と呼び止められたのにはビックリ。聞けばお若いのに劇団を主宰されておられる方で、ぬえを知っているのはある能楽師の友人だからなのだそうで、ご自身も狂言を習ったりされておられるそうです。ええ~~?でも ぬえはさすがに能の公演では ぬえとは名乗らずに本名で出演している(当たり前)んですが。。

それと、パーティーでお近づきになったまた別の方は、大きな公演のほかに一人芝居をされておられるそうで、時には能に取材した芝居もされる事があるそう。話がはずんで次回、3月に表参道で行われる小さな公演を ぬえも拝見に伺うことにしました。

ちょっと普段の ぬえの生活とは違う場ではありましたが、いろいろ考えさせられる事も多く、熱気にあふれたパーティーでした。来年もまた行ってみようかな。

扇の話(その9)

2008-02-08 01:48:15 | 能楽
藤原氏は前述の道長よりも さらにさらに6代下ったときに近衛家と九条家に分裂し、さらにその後近衛家から鷹司家、九条家から一条家と二条家が誕生して「五摂家」と呼ばれる摂政・関白を出す五つの家柄が並立するようになり、近衛家はこの五摂家の筆頭という格式を得ました。ちなみに初代 関白の基経ですが、仕える陽成天皇との仲が険悪になったとき、ところが彼は罰せられるどことろか、逆に天皇を退位にまで追い込んでいます。この時に限らず公卿のトップたる藤原氏は、ある意味では国家元首である天皇の生殺与奪権をさえも握っていました。

今日世界の中で「エンペラー」。。つまり「皇帝」と称される元首は日本の天皇ただ一人なのだそうですが、こう考えてくると、本当の意味で天皇が国政の実権を握っていた時期というものは、日本の長い歴史の中では ほとんど無視できるぐらい短い期間しかなかったのではあるまいか。。平安末期~鎌倉時代~室町時代~安土桃山時代~江戸時代に渡り、その間 建武の新政の時期(でもわずか3年間。。)や、それをはじめた当人である後醍醐天皇が京都を脱出して吉野に建てた南朝に理想だけは残されたりしたものの、政権は事実上ずうっと武家にあったのですし、天皇が政治の中心にいた如くに見える平安時代でさえも、かなり初期の段階から こちらは武家ではなくて藤原氏という公家によって皇室は利用されてきた憾みはぬぐえないでしょう。。明治維新以後は明治天皇の強いキャラクターのおかげで王政復古を果たしたものの、その後昭和に入った頃には事実上軍政になったのは周知の通りですし。。飛鳥時代~奈良時代~平安時代の初期、そして明治時代ぐらいしか天皇の親政の時代はなかったかも。。

そして皇室とは逆に、奈良時代のはじめに興り、平安時代の初期にはじめて関白に就任した藤原基経以後、藤原氏は天皇をも凌駕する強大な権力を得たのでした。藤原氏は家の分立によって苗字こそ様々に増やしながら、千年以上、名目上とはいいながら日本の元首である天皇をも動かし、中枢の実権を握っていたのです。なんせ近代にあっても王政復古を成し遂げた明治天皇の皇后(昭憲皇太后)でさえ一条家、大正天皇の皇后(貞明皇后)は九条家の出身で、ともに藤原氏の出身ですし、その後も近衛文麿が首相に立ったりしました。

天皇家が世界で唯一「皇帝」と称されるほど長い歴史を持っていたとしても、その側近としてたった一つの一族が千年以上政治の中枢にいるのは、これまた世界に例がないそうです。もっとも近代に至るとだいぶ様相は変わってきています。近衛文麿は太平洋戦争開戦の時の首相で、日本の文化を壊滅させた責任の一端はあるのですが。。日本文化を創ったのも藤原なら、壊したのもやはり藤原か。。という気が ぬえはしますけれども。。

ところで藤原氏だけで独占していた摂政・関白の系譜の歴史のなかで、唯一の例外は豊臣秀吉とその養子だった秀次が関白になったことなのですが、面白いのは、秀吉は足軽の出自のままでは関白になれず、前関白の近衛前久の養子となって藤原秀吉と名を改めていることです。やはり史上初の武家政権である鎌倉幕府が成立して400年近くが経過していても、朝廷の重職である関白に就任するには藤原氏の血縁は欠くことができなかったのですね。。しかし秀吉の甥で養子の秀次は豊臣姓のまま関白職を秀吉から譲られて就任しています。。もっとも、その4年後には秀吉の命によって関白の身ながら切腹させられていますけれども。。そして摂政は明治時代の皇室典範で皇族から選ばれる事に決まるまで、ついに藤原氏以外の者がその任に就くことはありませんでした。

えと、話はどう脱線してきたんだっけ。。? あ、そうそう近衛引の文様の扇の話でした。。ま、その文様の出自が近衛家にあるのならば、これほど大きな背景があるんですよ、って事でご理解頂ければ幸甚でございます~ (T.T)

扇の話(その8)

2008-02-06 03:52:47 | 能楽
さて近衛家に話を戻す。。のですが、まずは近衛家が属する藤原氏についての解説を完結させておかねば。。

藤原氏では藤原房前を祖とする藤原北家だけが繁栄したのですが、房前より5代目の子孫である藤原基経に至って日本史上はじめての関白の位に上り、以後基経の子孫が関白あるいは摂政の位を独占するようになりました。藤原氏の栄華を象徴する歌「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」を詠んだ藤原道長は基経よりもさらに4代あとの人。時代としてはちょうど今から千年前の平安時代中期頃にあたります。能『東北』の後シテ(和泉式部)が「御堂関白」と言っているのは道長のことで、彼が法成寺を建立したことに由来して、当時そのようにも呼ばれていました。

同じく『東北』に出てくる「上東門院」は道長の娘で一条帝の中宮(皇后)の彰子(しょうし=あきこ)のことで、彼女は法成寺の東北に位置する場所に東北院を建てた、とも言われていますから、あるいは紫式部や和泉式部が集った彰子の文芸サロンの一部がそこに置かれていて(当時彰子は宮廷内で道長の兄・道隆の娘の定子<ていし>とライバル関係にありました。定子もまた文芸サロンを持っていて、このライバル関係の競争心のゆえか、彰子に仕える紫式部が『源氏物語』を著し、同じく和泉式部が歌人としての才能を開花させた一方、定子に仕えた女房の清少納言が『枕草子』を記すなど、文芸が大いに発展した時代でもありました)、娘に会いに来た父・道長が牛車の中で法華経を読誦したときの様子が能に描かれているのかもしれませんね。もっとも『東北』に描かれるこの小さな挿話も、和泉式部作とされる和歌も、どの古典文学作品に取材したものなのか。。今に至るまで ぬえには見つけられません。これは能の作者の創作かもしれません。。なおついでながら道長の日記『御堂関白記』は子孫である近衛家の「陽明文庫」に伝存していて国宝となっています。

能『土蜘蛛』のツレである源頼光もまたこの時代の人で、道長の側近だったと言われています。頼光は能『仲光』にツレの役として登場する多田(源)満仲の長男で、歴とした清和源氏の三代目。能の中では『大江山』などにも登場する頼光が脚光を浴びていますが、じつはその父 多田満仲もまた、後の世の日本史を動かした様々な人物の源流として日本史の中で特筆すべき人です。満仲の三人の子のそれぞれの子孫は、本拠地の名を冠して摂津源氏・大和源氏・河内源氏へと枝分かれして行き、摂津からは『頼政』のシテの源頼政や後世には明智光秀なども出ましたが、なんと言っても河内源氏は八幡太郎義家や源義朝、頼朝、朝長、義経、木曽義仲が出、頼朝により鎌倉幕府が、それに続いてさらに河内源氏の足利氏が室町幕府を興したことで武家の棟梁と目されることになりました。木曽義仲や頼朝の時代から、それまで忘れ去られていた過去の官職である「征夷大将軍」への任命を朝廷から受けるのが武家の棟梁のあかしとして慣例化しました。例外はありますが征夷大将軍の官職は清和源氏、わけても河内源氏から出るのが常識とされるようにもなり、その始祖が多田満仲なのです。後世では、出自がハッキリしない徳川家康が、自分は河内源氏の新田氏の子孫であると主張してこれを朝廷に認めさせて征夷大将軍の宣旨を受けたりしています。そして家康以後の江戸幕府の総督は世襲で征夷大将軍の地位を保証されました。歴代の徳川の当主を「将軍」と呼ぶのは、これをさしているワケなのですね。

鎌倉時代以降、日本の政治を司ったのは実質的に武家なのですが、それでも武家は「朝廷の臣下」という建前上の立場は堅持しなければなりませんでした。そのように実権はなくなっていたものの、京都では依然として天皇が国の元首であり、摂政・関白はそれを補佐するナンバーツーの役職でした。そして摂政・関白の地位は藤原基経の関白就任以後、藤原氏の末裔の最高位の者と規定されました。征夷大将軍と同じように、摂政・関白という公家のトップの地位は藤原氏が独占して「摂関家」と呼ばれました。そしてそれは。。なんと明治になるまで千年も続いたのです。

扇の話(その7)

2008-02-05 01:18:25 | 能楽
さて世阿弥が自分の祖先とした秦河勝ですが、聖徳太子に仕え現在の広隆寺を創建した人です。聖徳太子の臣下ならば、以下のような『風姿花伝』の中の世阿弥の言葉の意図も納得できるのではないでしょうか。

「推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝におほせて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮って、この遊びのなかだちとせり。そののち、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて、和州・江州のともがら、両社の神事に従うこと、今に盛んなり」

「欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲客この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人なるがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これなり。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治まり国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり」

聖人のように考えられていた聖徳太子と、それに付き従う秦河勝。どちらにも神通力のような神に通じる不思議な力が宿り、いま我々が演じる能は神楽(かぐら、ではなくて「かみがく」という感じなのでしょう)として天下泰平を実現する祈祷でもあるのだ、と。現実性の有無は別として、跡を継いで芸道に進む子孫や後進に対して、これほど勇気づけられる言葉もなかったでしょう。「秦」姓を名乗ることは、世阿弥にとって能楽の伝承や発展のためにもっとも有用な、もう一つの発明だったのだと思います。

ここで面白いのは、この世阿弥の主張が、現代でも別な場所で脈々と息づいていること。たとえば現代の観世流のご宗家は26世を名乗っておられますが、これは観阿弥を初世として数えておられます。一方能楽のご宗家の中で、最も長い世代を数えておられるのが金春流で、こちらは現ご宗家で80世を数えておられます。そして。。その初世こそが。。秦河勝なのです。

将来を嘱望した長男・元雅を亡くし、また観世座の実権も弟・四郎に移ってゆき、さらには自身も佐渡へ配流されるなど晩年は不遇だった世阿弥が自分の愛弟子として信頼を深めたのが娘婿の金春禅竹で、世阿弥は元雅の生前から『六義』『拾玉得花』などの自著の伝書や能の台本を禅竹に相伝し、晩年配流後の佐渡からも書状での通信がありました。禅竹は世阿弥のことを「師家」と記し、世阿弥もまた禅竹のことを「芸風の性位も正しく、道をも守るべき人」と評しています。

さらに上記 禅竹に相伝された伝書にしても『六義』は昭和16年に宝山寺で「金春家旧蔵」伝書として発見され、内容も世阿弥自筆の奥書と花押があるものの、本文は別人の筆で、これは相伝を受けた禅竹に本文を書写させ、世阿弥が相伝のしるしとして奥書を書き添えたと考えられています。『拾玉得花』もまた、写本ながら世阿弥伝書の中では最も新しく発見された(昭和31年)もので、しかもその発見の場所がまた、ほかならぬ金春流のご宗家なのです。これほど世阿弥と金春禅竹は深い師弟愛で結ばれていました。世阿弥が秦河勝を祖と仰ぎ、尊敬する世阿弥と血縁関係を持った禅竹が、世阿弥の思いを一身に受けてひとつに結ばれようと思ったその敬愛の情が、現在にまで脈々と金春流のご宗家の世代の数え方に受け継がれているのです。美しい。。

扇の話(その6)

2008-02-04 01:42:56 | 能楽
前述の通り藤原は氏の名前で、平安時代も半ばになると、藤原の名は公文書などに署名するときなどのとくに公的な場面で使われるだけで、それ以外の場ではそれぞれの家の名を名乗るのが普通でした。。それと似た事は世阿弥も行っています。

世阿弥の伝書の中には奥書に「秦元清」と署名してあるものがあります。「元清」は世阿弥の本名「観世三郎元清」のことですが、問題は「秦」。世阿弥は『風姿花伝』の中で自分の事を秦河勝の子孫だ、と言っていて、「秦元清」という署名はすなわち「自分は観世を苗字として普段は活動しているけれども、出自は秦氏である」と言っているわけです。

観阿弥や世阿弥には申し訳ないけれども、彼らの祖先が秦河勝であるのは信じがたいと考えられていて、実際には大和猿楽の大夫家出身以前の来歴は未詳というべきでしょう。それなのに伝書の中で世阿弥がそう主張しているのは、足利義満に見いだされて急に政治の中枢のシステムに組み込まれた当時の世阿弥ら能楽師が置かれた立場によるのでしょう。贔屓を受けた将軍その人はともかく、将軍の側近の大名や、はては将軍が交際する公家らとも交通は避けられない世阿弥は自分の家の歴とした出自を主張しなければならなかったのです。

あ、ここでまた一つ話が飛びますが、永和元年(かその前年)に観阿弥・世阿弥父子が今熊野で催した猿楽能で足利義満に見初められて、これ以後父子は義満に絶大な後援を受けるようになったのは広く知られるところですが、義満が彼らを極度に贔屓した理由としてしばしば、観阿弥の優れた芸もさることながら、義満がまだ幼い世阿弥の可憐な稚児姿に魅了され、以後その稚児趣味を満たす相手としても寵愛した、と言われています。でも、これは ぬえはどうかな~?と思っています。そう思う理由は当時の彼らの年齢。この今熊野の催しのときの世阿弥の年齢は、世阿弥自身が『申楽談儀』の中で「十二の年」と語っています。この催しが催された年代が永和元年(かその前年)とハッキリしないのは ほかに傍証資料がないからで、世阿弥の生年の推定からの逆算です(しかも多少年代が前後する可能性も残されています)。いずれにせよ当時 将軍義満は若干 十七歳か十八歳。世阿弥よりわずか数歳だけ義満は年長であるに過ぎないのです。でっぷりと肥った中年オヤジが稚児を囲い込む、というイメージは成り立たないでしょう。

義満は父義詮が死去したため、十一歳という若さで将軍職に就任した人で、当時は日野業子(この人も藤原氏だ。。)を正室として迎えた年かその翌年。将軍とは言ってもまだまだ足利氏の守護大名から帝王学を学んでいる時期ですから、若くして重責を任された青年将軍が、多忙の中でその孤独を癒す相手として「友人」のように世阿弥を見ていたのではないか、と ぬえは考えています。

で、話は戻って、世阿弥は長じて父・観阿弥が逝去した後には、一身で将軍やその政治の中枢の中で生き延びていかなければなりませんでした。将軍の寵愛という奇跡的な成功の上にもあぐらをかかず、さらに自分の芸に磨きをかけ、夥しい新作の能を作り、ついには複式夢幻能という新ジャンルまで開拓した世阿弥の努力と非凡には ぬえも感服しますが、そうでなかったら実際には彼は寵愛を失って能は廃れ、現代には生き残っていなかったでしょう。

そんな中、役者としても中堅どころの年齢になった世阿弥は、自分の成功の理由を分析して子孫のための庭訓として編んだ書。。それが世阿弥の著作になる伝書類です。そこで世阿弥は秦河勝の子孫でる事を堂々と宣言し、「秦元清」と署名している。現実にはこういった伝書類は「公文書」ではないけれども、子孫がこれを見るときは 家の憲法として目に映ったことでしょう。ここに署名された「秦」の字。「立派な出自を信ぜよ(それも芸のうちだ)。そして胸を張って私の伝える技術に導きを受けて芸道に精進せよ」と子孫に呼び掛ける世阿弥の姿が見えるようだ。

扇の話(その5)

2008-02-02 02:29:54 | 能楽
で、その近衛引と呼ばれている文様の名称が、近衛家に由来しているのかどうか。。は ぬえは知らないのですが、今日はそれと仮定して近衛家についてお話してみましょう。じつは能にもいろいろな意味で深く関係があるのです。

近衛家は藤原北家が分かれて五家となった、いわゆる「五摂家」の筆頭の家柄という立場にあります。

藤原氏についてはこのブログでも何度か触れていますが、始祖の中臣鎌足が臨終の間際に天智天皇から大織冠の官位(正一位に相当)と藤原姓を賜ったのがはじまりで、鎌足はいまの興福寺の前身となる伽藍を建立。興福寺は平城京遷都と同時に常陸の鹿島神宮を勧請して造営された春日大社とともに、藤原家の氏寺・氏社として隆盛を極め、鎌足自身ものちに大和・多武峰の談山神社に神として祀られました。

鎌足の子が淡海公と呼ばれた辣腕政治家の藤原不比等で、その子の世代から「藤原四家」が分立しましたが、結局 次男・房前を祖とする北家だけが命脈を保つこととなりました。しかし、北家は生き残った一家という零落した印象とはあまりにほど遠く、長く栄華を誇る名家となりました。

ここまで簡単に見てきただけでも観阿弥・世阿弥父子が統括する結崎座ほか現在の能楽の各流儀の前身である大和四座が出勤の義務を負っていた三つの催し(興福寺の薪御能、春日大社の若宮御祭、多武峰の八講猿楽)の上演場所が出てくるし、「大織冠」は鎌足をさす言葉として能『海士』の間狂言が語り、不比等をさす「淡海公」は『海士』の謡曲本文に見え、さらに房前は それこそ子方として『海士』に登場しますね。これほど能と藤原は縁が深く、その庇護の下で芸に磨きをかけていった、とも言えるのです。能『海士』や『采女』などの本文を読むと、能の作者が藤原に気を遣いながら作詞をした様子が手に取るようにわかります。

ところがまあ、北家以後の藤原家の栄華たるや、ほかの公家のどんな家ともくらべものにならないほどで。道長も、俊成も、定家も、その流れである現在の冷泉家も、紫式部も、『蜻蛉日記』の作者 道綱母も、み~んな藤原家の一族です。まあ、藤原家は公卿だから、誰もが名前を知っているような有名人はあまりいないのですが、それでもこれだけの人物を数え上げられるし、義経をかくまい、中尊寺の金色堂で有名な奥州藤原も遠い傍流。さらに武家も輩出していて、その中には本当に藤原の傍系なのか怪しいものも含まれますが伊達、上杉、足利、二階堂、といった東国の武家のほか、能に登場する人物が属する家柄としても佐野(『鉢木』)、富樫(『安宅』)、狩野(『千手』)、伊東・工藤(『小袖曽我』)などなど枚挙にいとまがありません(足利氏は藤原の傍流で下野を領土としていましたが、観阿弥・世阿弥が庇護を受けた室町幕府の足利氏は源氏で別系統)。

さて藤原氏は平安時代には五家に分かれて、それぞれ近衛・鷹司・二条・九条・一条と称しました。この頃から氏である藤原を名乗るのは公文書に署名するときなどの公的な場に限られて、ふだんは それぞれの家の苗字を名乗るようになり、それは後世さらに分派しました。ですから、この頃以降に「藤原」を名乗る人。。現在でもその苗字の方は大勢おられるわけですが、それらは残念ながら藤原氏の系統を汲む方ではないと考えられるのです。

ここも面白い事に、藤原の筆頭の家柄(氏の長者=本家の当主)としての近衛さんは公文書などには「藤原なにがし」と署名する、と記しましたが、それって世阿弥も同じ事をやっているのです。