ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その4)

2011-04-30 00:58:54 | 能楽
前シテの装束は いわゆる山伏出で立ちで、直面、兜巾、襟=紺または縹色、着付=無紅厚板または大格子厚板、白大口または色大口、水衣(縞水衣にも)、縫紋腰帯、篠懸、小刀、山伏扇、刺高数珠…というもの。

ちなみに観世流では山伏姿の時には左手を左腰にて…ちょうど小刀のあたりにあてる独特の構エをすることになっています。なぜ山伏だけがそういう特殊な構エをするのかわかりませんが、たしかに山伏の持つ武張った感じが出る構エです。

シテは地謡を聞きながら橋掛リを歩み行き、ちょうど終わるところで舞台の常座にてサシ込ヒラキをしてトメます。

シテ「月は古殿の燈火を挑げ。風は空廊の箒となつて。石上に塵なく滑らかなる。苔路を歩み寄辺の水。あら心すごの山洞やな。

「古殿」は「古びた建物」で、甍が破れているため月が燈火のように部屋の中に射し込む様子。「空廊」は細殿または渡殿をさす「廊」に人気のないこと。風が吹き渡るのを箒に例えて荒れ果てた草庵を表します。「石上」は意味を解しかねますが、普通に考えて「石畳」「敷石」で良いかも。…いずれにしても「僧正」のおわする所とは思われない草庵のイメージですから、やはりこのワキは修行三昧の僧と考えた方がよいと思います。

こうして前シテが草庵を訪れて、以下ワキとの問答になります。

シテ「いかにこの庵室の内へ案内申し候。
ワキ「我禅観の窓に向ひ。心を澄ます所に。案内申さんとは如何なる者ぞ。
シテ「これはこのあたりに住居する客僧にて候。我すでに身まかるべきを。御憐みにより命助かり申す事。返すがへすもありがたう候。この事申さん為にこれまで参りて候。
ワキ「これは思ひも寄らぬ事を承り候ものかな。命を助け申すとは更に思ひも寄らず候。
シテ「都東北院の辺にての御事なり。定めて思し召し合はすべし。かばかりの御志。などかは申し上げざらん。この報恩に何事にてもあれ。御望みの事候はゞ。刹那に叶へ申すべし。


この問答は面白いですね。シテはワキに命を助けてもらったことを謝していますが、その事件そのものについてはまったく触れられていません。そうして、その事件についてはついに明かされることなく中入になってしまうので、これだけを見たお客さまは「?」と思ってしまうはず。

ちなみに、謡本の中ではついに明かされないその事件ですが、能では間狂言がしっかり解説をする(→間狂言の内容については後述します)ので、能の舞台ではお客さまは「ああ、そういうことだったのか」と納得されるはずです。

このような展開は、能の中では稀ですね。ぬえはこの『大会』という曲を見て、能と間狂言との関係についていろいろと思うところがあります。…というのも、多くの能で前シテと後シテとの間をつなぐ間狂言ですが、そのお言葉を舞台で聞いていて、「はて?」と思う事が多いのです。

能のひとつの到達点…『大会』(その3)

2011-04-28 02:20:28 | 能楽
どうにも難解なワキのサシの文句ですが、このあたり『現在七面』とよく似ていますね。舞台づらも、構成も、そして内容も。

『現在七面』ワキのサシ
ワキ「それ世尊の教法は。五時八教に配立し。権実二教に分てり。さる程に滅後の弘経も正像末に次第して。今後五百歳の時なれば。時機に適ふこの妙経を弘めつゝ。国土安全の勧めをなせしその甲斐の。身延の山に引き籠り。寂寞無人の樞の内には。読誦此経の声絶えず。一心三観の窓の前には。第一義天の月まとかなり。

『大会』のワキは比叡山延暦寺の「僧正」…まあ以後は「僧」ということにしておきましょう…ですから天台宗ですね。『現在七面』は日蓮その人が登場するので法華宗なのですが、この2曲のサシの様子が似ているのは、ともに「法華経」を重視する点で一致しているからかもしれませんね。なお天台宗は密教の宗派として名高いですが、この点、釈迦の法話である「法華経」を教典に用いるのが ぬえにはよくわからなかったのですが、真言宗では諸仏の根元を大日如来…「遮那教主」…毘盧遮那仏さんですな…と考えて釈迦如来はその化身と考えるのに対して、天台宗では両者を同一の人物(?)と考えて、顕教と密教の中での立場の違い、としているのだそうです。密教としての天台宗で両者は並存するので、まあ能を解釈するうえではあまり深く掘り下げるよりも、「大日如来」=お釈迦さまと考えておいてよろしいのではないかと。

さてこのワキのサシを受けて地謡が謡い出します。

地謡「鷲の御山を移すなる。鷲の御山を移すなる。一仏乗の嶺には。真如の彗日圓かなり。鳥三宝を念じて。風常楽と訪づるゝ。げに類ひなき。深山かな、げに類ひなき深山かな。

ああ~、また難しい文句です~。
「鷲の御山」…すなわち釈迦が法会を開いた「霊鷲山」を日本に招来したこの比叡山、という意味ですが、『春日龍神』に「今は春日の御山こそ。即ち霊鷲山なるべけれ…天台山を拝むべくは、比叡山に参るべし。五台山の望みあらば、吉野筑波を拝すべし。昔は霊鷲山、今は衆生を度せんとて、大明神と示現しこの山に宮居し給へば、即ち鷲の御山とも春日のお山を拝むべし」とあるように、唐天竺の聖地を日本の道場の地に見立てるのは当然で、それが宗派の立場によっていろいろと違う、ということでしょう。まして霊鷲山は釈迦が「法華経」を講じた場所とされているので、天台宗や法華宗では本寺のある山をそこに見立てて、先学として釈迦の行いを追体験することが修行につながるのでしょう。

「一仏乗」は正覚に到るための唯一の乗り物で、天台宗では「法華経」を指すようです。ここでは「一仏乗の嶺」ですから、「法華経」と釈迦がそれを講じた霊鷲山を同一視して、それが比叡山に仮託されている、ということでしょう。

「真如」は真実・真理、「彗日」は日光に例えられた仏の「智慧」。この比叡山に差す陽も仏の十全の智慧を表し、鳥の鳴く声も衆生が帰依すべき「三宝」…すなわち「仏法僧」と言っている。ブッポーソー♪ 吹く風も仏の境涯である「常楽我浄」を示している…これ、いまだに意味をつかみかねています。能にはよく出てくる文言ながら、風と常楽を結びつける言葉が『梁塵秘抄』以外に見つからないので…

この地謡の間にシテは幕を揚げて登場し、常座に立ちます。

伊豆・子ども能打ち上げ+進学・進級お祝いパーティー

2011-04-26 08:41:28 | 能楽


週末に伊豆で子ども能のパーティーがありました!

いや、ホントは3月に行う予定の「子ども能打ち上げパーティー」だったのですが、震災の影響で予約した会場が当面貸し出し中止になってしまって…ついに年度を越して4月の開催になってしまいました。あ~、その間に主役を勤めた6年生は中学生になり、地謡に端座して耐えた幼稚園生はいちねんせいになり、そのほかの子もみ~んな学年がひとつ上がってお兄さん・お姉さんになって。
そんなワケで「打ち上げ+進学・進級お祝いパーティー」になったのでした。

以前に子ども能のクリスマス・パーティーをやった時はレストランを会場にしたのでしたが、今回はもっとリーズナブルに、ということで市民会館の会議室を借りました。集まった子どもたちやご家族は総勢25名! 相変わらずの大賑わいですね~。 ぬえがパソコンやプロジェクターを持ち込んで、まずは2月に神社の「梅まつり」で上演した子ども能のビデオや、それが地元のケーブルテレビで放映された映像を見て。ん~さすがにプロが撮った映像は違うなあ。武士役の子どもたちが戦う場面は迫力で、そのうえ地謡の子どもたちまで まんべんなくカメラがフォローしてくれていて、子どもたちは大喜び。

そうして、ぬえが編集した去年1年間の子ども能公演のビデオのダイジェスト版を順番に見ました。9月の地区敬老会への出演…11月の神社の秋祭りでの公演…日を追い、上演を重ねるごとに あきらかに技術レベルが上がっていることが一目瞭然。毎回、上演そのものは成功だった、と言えるのですが、こうやって並べて見ると、へえ、こんなに違うものかね~。

むしろ上演を重ねるごとに稽古の回数は段々と減っていったと思うのですが、それは次第に手直しの必要がなくなっていったからで、だからと言ってマンネリになって行ったわけではなく、やっぱり子どもたちにも自信と責任感が芽生えて行って、習熟度とやる気が増していったのだと思います。

さてさてお次は恒例のビンゴゲーム大会~! 毎回この景品を買うので ぬえは散財してしまいまするが…。それぞれのご家庭からも景品を募ったのですが、予想を遙かにしのぐ品数が集まって山積み状態。ビンゴゲームはみんな景品をゲットしてもなお景品が余って、2巡目のゲームを行うことになりました。さすが当地は農家の方もあって、テーブルにはイチゴが並んだり、ビンゴの景品にも山菜まであっていや~バラエティ豊かです。ぬえもこの日のためにフライドポテトを卓上で揚げる器具を用意しましたが、これも正解だったかも~。

今年の子ども能の始動はもう1ヶ月ほど待たねばなりませんので、この日をもってしばらくみんなともお別れ。でも今年も一生懸命に稽古し、楽しく遊び、それから史跡を巡って郷土の歴史を勉強したり、ついでに今年は清掃など奉仕活動も1~2回はやりたいと思っています。県内外からも少しずつ注目はされているようなので、いずれは市外にも進出できればいいなあ。

さてその夜は高校に進学した子ども能OGたちと会食。うわあ、あのとき6年生だった子がもう高校生かあ。この日はエリカ・アリサ・アスカの3人が集まってくれましたが、みんなそれぞれの高校の制服で登場! へええ、なんだかそれぞれの子のキャラに合った、とってもお似合いの制服ですな~。彼女たちは子ども能から卒業したあとみんな同じ中学校で同じ吹奏楽部の仲良し同士。高校は別々になったけれど、やっぱり今でもみ~んな吹奏楽部なんですって。今でも子ども能を手伝ったりしてくれている子もあります!



しかし…写真を撮る時って、Vサイン以外の決めポーズを、そろそろ誰か発明してくれまへんかね~

能のひとつの到達点…『大会』(その2)

2011-04-23 00:38:57 | 能楽
それに対して何らの「活動」をしていない役…多くの場合は閑居している、といった風情の役の登場に、この「出し置き」と呼ばれる手法が使われます。緞帳のない能舞台に、「あらかじめそこに居た」という印象で登場する、という感じでしょうか。

この登場の仕方、ワキでは珍しいのではないかと思います。ほかにも『西行桜』とか前述の『現在七面』など、類例はないわけではないのですが、あまり多くの例はないのではないかと思います。逆に、この「出し置き」で登場するのは、多くはツレであるように感じます。『清経』とか『葵上』『善知鳥』など、ぬえも何度も「出し置き」のツレをやった事がありますが…それだからツレが「出し置き」で出る事が多いように思うのかなあ。

ちなみに「出し置き」で登場する役は、幕から登場して着座するまで…正確にはその役が謡い出したり、他の役から声を掛けられるまでの間、お客さまの目には見えない、というか開演準備の範囲にある、というか、能の進行とは切り離して考えられているようです。その証拠には、この「出し置き」の役が着座するまでの間、囃子方は床几に掛けず、地謡も扇を前へ出しません。作物を冒頭に出すのと同じ扱い、とも言えますね。もっとも、だからと言って無頓着な登場は許されず、その役の「位」を考えて橋掛リを運ビます。こういうところは日本人的な発想ですね~

さて、そのようにあまり人格も認めてもらえないような登場をする「出し置き」ですが、実はシテの登場にも使われる事があります。それが『柏崎』で、やはり閑居の態で能が始まり、そこに夫の死と一人息子の出奔という悲報を携えたワキが訪れる場面から能は始まるのです。あとは…『二人静』の「立出之一声」の小書の時かなあ…この小書にはいろいろな演出があるのですが、ぬえの師家では常のシテとツレが逆転して菜摘女がシテ、静の霊がツレになり、能の冒頭では菜摘女(=シテ)が「出し置き」で登場する事もあります。

…話がそれましたが、『大会』では比叡山の庵で一人修行を続ける僧というのがワキの役です…もっとも『大会』の後場ではワキはみずから「僧正その時たちまちに」とみずから「僧正」と名乗っていますから、それによればかなり高位の僧…比叡山の座主である可能性がありますが。(僧正は僧の最高位で、上代では朝廷の任命により国家にただ1人、平安期でも3人しかいませんでした。後には増えたのですが、鎌倉期には10人程度と、それでもかなりの重職であることは確か。)…もっとも『大会』のワキはそこまで高位の僧ではなく、身の回りの世話をする小坊主が1人いるかどうか、の、清貧な僧が孤独に草庵を営んでいる、という感じでしょう。「僧正その時…」は語調を整えるための修飾と解しておきます。

静寂の中を歩んだワキはやがて脇座に着座し、サシを謡い始めます。

ワキ「それ一代の教法は。五時八教をけづり。教内教外を分たれたり。五時と云つぱ華厳阿含方等般若法華。四教とはこれ蔵通別円たり。遮那教主の秘蔵を受け。五相成身の峯を開きしよりこの方。誰か仏法を崇敬せざらん。げにありがたき。御法とかや。

ああ…『現在七面』と同じような大変難解な法語・仏語の数々…現代語に訳してみれば次のような感じでしょうか。

「そもそも釈尊一代の教えというものは五つの時、八つの内容に配分され、仏の教えに触れて悟りを開くことと、自らの仏性をもって悟ることとを区別された。五時とは華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時であり、化法四教とは蔵教・通教・別教・円教である。大日如来の秘法を伝え、五相の観法を通じて如来身を成就する如くにこの比叡山が開山されて仏法が広められて以来、仏法を崇めぬ人とていない。まことにありがたい教えであることよ」

能のひとつの到達点…『大会』(その1)

2011-04-22 02:46:15 | 能楽
またまた勤めさせて頂きます特殊な能『大会』。

一昨年に ぬえは能『現在七面』を勤めさせて頂きましたが、あのときは師匠より ぬえにこの曲を舞うよう仰せつかったのですが…あれが ぬえに火を点けてしまいました。近年 師家では月例公演で自分が勤める希望曲を申告できるようになって、昨年 ぬえが勤めた『敦盛』も『自然居士』も、ともに ぬえ自らが選んで師匠にお伺いをし、お許しを頂いて勤めた曲です。そうしてこの度も、『現在七面』を勤めたのだから、と、同じく面を二重に掛ける、という、ちょっと反則技のような演出をもった『大会』を、あえて希望曲に出してみて…やはりお許しを頂くことができました。

もともと切能が好きな ぬえではありますが、能を舞うことを一生の仕事と決めた以上は、こういう演出を許してしまう能の懐の深さ、というかなあ、幅を知っておきたい、という気持ちもありまして。そうして、何と言っても古人のユーモアが感じられる作品が ぬえは好きですね~。現代でこそ能は「難しい」とか「敷居が高い」と言われがちなのですが、ぬえは学生時代に初めて能に触れてこの道を志したときに、まあ、確かに人生の悲喜を描き込んだシリアスな能にも魅せられましたけれども、やっぱり能を見ていた ぬえは「楽しかった」のでありました。その、能が持つ「幅」に ぬえは魅せられたのではないかと思いますね~

そういうわけで、『現在七面』と『大会』をこの時期にあまり間をおかずに舞うことで、能のひとつの目指す形というものを実感したかった、というのが今回の目的でもあるのです。

それでは例によって舞台進行に即しながら、『大会』という曲を考えていきたいと思います~

囃子方と地謡が登場すると、何事もなくワキが幕から登場し、これを見て囃子方…大小鼓は床几に掛けます。

『現在七面』の解説でも触れましたが、「出し置き」と呼ばれる登場の仕方です。ワキが能の冒頭に登場する場合…ほとんどの能はその形ですが…には、「次第」や「名乗り笛」、そしてどちらかというと稀かもしれないですが「一声」という登場音楽が演奏されるのが常ですが、それはアクティブに行動している、というワキの性格を同時に表現しています。

能にはよく登場する旅の僧でも、たとえば「名乗り笛」の囃子…といってもこれは笛のソロ演奏ですが、に乗って登場したワキは、まさに「名乗り笛」の名の如く、自己紹介の文言、それから彼がこれから何をしようとしているのか、を謡います。「次第」や「一声」で登場したワキは、それぞれの囃子の形式によって導き出される、登場音楽と同じ名前を持った「次第」とか「一セイ」といった「歌」を冒頭に謡いますが、それでもすぐにその後には「名乗り笛」の場合と同じ文言を述べる事になります。

これらワキの所作が「アクティブ」かと言われると、現代的な意味においてはそうではないかもしれませんが、ワキはこれに続けて「道行」と呼ばれる紀行文を謡って旅という「行動」を示すのであってみれば、「次第」や「一声」…そうして それより少しパッシブな印象を持つ「名乗り笛」での登場であっても、ワキはこれから能の中において起きる「事件」の場に、自分から進み行く、という意味において ぬえは、これをアクティブな行動と捉えることができると思います。

ちょっとこれに反するような能もないではないように思える方もあるかと思います。たとえば『三輪』や『通小町』。ともに名乗り笛で登場するワキではありますが、彼らは旅行はしません。従って「道行」の小段もないのですが、がしかし、彼らに共通するのは、前シテ(『通小町』では前ツレ)に出会っているのです。そうしてその素性を見極めようとする「意図」が、彼らの「名乗り」の中で見受けられます。すなわち「意図」という行動が、彼らの登場の前提になっているのですよね。この意味で、やはり彼らはアクティブな存在であるはずなのです。

梅若研能会5月公演

2011-04-20 00:42:02 | 能楽
もう来月に迫っておりますが…来る5月19日、師家の月例会「梅若研能会5月公演」にて ぬえは能『大会(だいえ)』を勤めさせて頂きます。一昨年に勤めました『現在七面』に引き続いて、面を二重に掛ける、という能では反則技のような奇抜な演出がある、まさにショー的な面白さがある曲。

鳶に化けて物見遊山をしていたところ京わらんべに捕まり、あやうく命を落としそうになったところを僧正に助けられた天狗。後日山伏に化けて僧正を訪れて恩返しを申し出、その所望によって釈迦に扮して霊鷲山での説法(偉大な説法…大会)の様子を再現する、という、どうにもユーモアがあふれた、一種のメルヘンのような能です。

奥深さがある能も好きではありますが、もともと切能が好きな ぬえ。意味を追い求めずに単純に楽しめる曲はもっと好きなんです。舞台づらも相当派手ですので、今から上演を楽しみにしております。平日の昼間の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 5月公演

【日時】 2011年5月19日(木・午後2時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

    仕舞 嵐  山   遠田 修
       俊成忠度キリ 伊藤嘉章
       江  口キリ 加藤眞悟
       龍  虎   長谷川晴彦/梅若泰志

 能  富士太鼓(ふじだいこ)
     シテ(富士の妻) 梅若紀長
     子方(富士の娘) 梅若志長
     ワ キ(臣下)宝生欣哉/間狂言(太刀持)善竹大二郎
     笛 藤田次郎/小鼓 観世新九郎/大鼓 大倉三忠
後見 中村裕ほか/地謡 梅若万三郎ほか

   ~~~休憩 20分~~~

狂言 清 水(しみず)
     シテ(太郎冠者) 善竹十郎
     アド(主何某)  善竹富太郎

能  大 会(だいえ)
前シテ(山伏)/後シテ(天狗) ぬ え
ツレ(帝釈天) 梅若久紀
     ワキ(比叡山僧正)梅村昌功/間狂言(能力)大蔵吉次郎ほか
笛 小野寺竜一/小鼓 鵜澤洋太郎/大鼓 原岡一之/太鼓 吉谷潔
後見 梅若万佐晴ほか/地謡 伊藤嘉章ほか

                     (終演予定午後5時25分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その13)

2011-04-19 02:23:14 | 能楽
すみません、更新が滞りまして…ええと、エレーヌが採譜したSP盤について、の続きです。

清水中央図書館に展示されているエレーヌ自筆の『羽衣』の採譜の譜面と、それに並べられた宝生流の『羽衣』のSP盤。これらエレーヌの旧蔵品は、夫君マルセルをはじめすべて関係者による寄贈品ですから、このSP盤がエレーヌの所蔵になっていた事は間違いないでしょう。

それなので、展示されてあったエレーヌ自筆の『羽衣』の譜面は、このSP盤から採譜されたものだとすぐに信じたのですが… どうもそうとばかりは言い切れないようです。

この件について鮒さんと話し合ったのですが、そこで重大な見落としがあったことに ぬえは気がついたのでした。

すなわち、SP盤というのは、アナログ盤の30cmLPレコードと同じ大きさではありますが、収録時間はたったの数分なのですよね。何度となくSP盤のデジタル化作業のお手伝いをしているので、わかりきったはずだったのですが、ついつい、盤面の大きさに惑わされて、収録時間のことを忘れていました。

…つまり、ぬえが何を言いたいのかというと、エレーヌが採譜した楽譜が「風早の~」とワキの登場の場面から始まっている、というのが問題で、この部分が収録されたSP盤をエレーヌが聞いたのであるならば、そのSP盤はダイジェスト版ではなく、素謡全曲を収録したレコードであるはずだ、ということです。

SP盤全盛の当時は、その収録時間の制限や販売価格の問題から、謡曲の録音盤も、素謡であっても全曲を収録するのは大変で、たとえばクセやキリなどの部分謡として発売された場合が数多くあります。『羽衣』の素謡は35分くらい掛かると思いますが、SP盤の収録時間が数分であることを考えると、素謡の全曲を収録するとなると、SP盤にして7~8枚のセットの企画盤であったはずなのです。

そうであるならば、そのセット盤の盤面には『羽衣』という曲名のほかに「一声~呼び掛けまで」のようなクレジットが記されていたり、(一)~(七)~のように連番号が付されているのが普通です。実際にユーザーが盤を掛けて再生する場面では、数枚に分かれた盤を蓄音機に掛ける順番が容易にわからなければなりませんからね。

ところがこの、清水中央図書館に展示されているSP盤にはそういったクレジットはなく、ただ『羽衣』と書かれれているだけです。普通に考えればこのSP盤が素謡の全曲を収録したセット盤の1枚とは考えにくく、部分謡を収録した盤である可能性もある、ということなのです。その場合、曲の冒頭のワキの登場場面だけが選ばれて収録されている事は…ちょっと考えにくいです。…こうしたことから、エレーヌが採譜した『羽衣』のSP盤は、これとはまた別の、セット版のレコードである可能性が出てきました。

…いずれにせよ、まずはこの展示されているSP盤に何が収録されているのか、それを調べなければなりませんね。展示品であるこの盤を再生するのは難しいでしょうが、同じ盤が資料として国会図書館に所蔵されているわけですし、実際に再生しなくても綿密に調査すれば収録内容はどこかに記録されているかもしれません。

もうひとつ、鮒さんは現在、当時までに発売されてエレーヌが入手することができた可能性のある、セット版のSPレコードの記録を調べておられます。これらの調査の結果によって、エレーヌがどの盤を聴いてインスピレーションを得、採譜した音を頼りにエレーヌ版の『羽衣』を作り上げるに到ったか、その道のりを解明することができるかもしれません。

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その12)

2011-04-09 21:17:05 | 能楽
で、今回の展示品の中で注目すべきはこれ! エレーヌ自筆の「羽衣」の譜面です。

エレーヌは、戦争直後の乏しい情報の中から能について独学で学び、彼女なりの「羽衣」を舞台化して1947年に初演に漕ぎつけました。そうして、その同じ年の6月には白血病のため舞台上で倒れ、2年後の51年に35歳の若さで他界しました。

その「羽衣」の台本の第一歩が、おそらくこの譜面であるのでしょう。横にSP盤の「羽衣」が並べて展示してありましたが、おそらくこういう資料を入手して、謡曲のメロディを採譜していったものでしょう。そこから出発して、今度は能の演技を舞台に写していく作業をしていったものと思われますが、この譜面は純粋に声楽として能を捉えようと研究したものでしょう。

譜面の拡大図。





譜面の1枚目には「風早の…」以下、ワキが登場する冒頭部分から、ワキのサシのトメ「心空なる気色かな」までが採譜されています。五線譜上に謡のメロディが記され、当該の部分を謡う役…ワキ・ワキツレの区分が記されていて、五線譜の下にはローマ字で日本語の詞章が、されにその下にフランス語の訳が書かれています。

よく読んでみたのですが、ぬえが属する観世流の本文と一致していますし、また節も観世流の謡本に出てくる節はすべて捉えられていますので、当初は「ををっ、エレーヌは観世流の羽衣を聴いて台本に生かしたのかな?」とも思ったのですが、ぬえは他のお流儀の節や詞章の異同を知らないので、比較のしようもない…そもそもこの部分はツヨ吟ですから、流儀による節の違いもあまり明確には出ないです… そのうえ外国人の耳で聞いた日本語の謡ですから、実際の節付けと記譜との間に多少の誤差が生じるのは致し方のないところでしょう。

ただ、何カ所か、「白龍と申す漁夫にて候」の「漁夫にて」が…ハッキリしないですが「Ghio O Ni TE…」と「漁翁」? とも読める様子なのと、「これは三保の松原に」の「松原に」が「Ma Tsu Ba Ra N Ni=松原ンに」、同じく「一楼の名月に」の「名月に」が「MeI Ghe Tsu N Ni=名月ンに」、「月も残りの天の原」の「月も」が「Tsu Ki N Mo=月ンも」と、観世流にはない「呑ミ廻シ」の節があるように見えること…これらもまた「誤差」の範囲内かもしれませんが、さらに全体の音の流れの雰囲気が、どちらかというと宝生流に近いような印象も感じないではありません…このへんはよく校合してみないといけないですね。

譜面に並べて展示されていたSP盤…おそらくこれを資料音源として採譜が行われたのではないか、と疑われるレコード盤ですが、どうもレーベルがよく読めません。あとで撮影した画像を拡大してみて、ようやくレコード会社や品番、そして内容がわかりました。

コロムビア●●<難読>レコード A1012 羽衣 故 宝生九郎 野口政吉

…やはり宝生流でしたか。「故」という表示がなんとも気になりますが…。また「野口政吉」は「野口兼資」の本名です。レコードの内容について品番から国会図書館のオンライン検索してみたところ…ヒットはしたものの、ほとんど意味をなさない情報しか得られませんでした。

http://opac.ndl.go.jp/recordid/000008872506/jpn

国会図書館に行って実物を見て、また試聴させてもらえればよいのですが…それは大変だなあ…

で、鮒さんとこのレコードとエレーヌ自筆譜面との関係について話し合ったところ、重要な事実を見落としていることが判明しました!

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その11)

2011-04-08 01:13:06 | 能楽
静岡市清水区はかつては清水市として独立した地方自治体でしたから、行政機関や図書館なども今でも当地の情報を濃密に残しています。今回の取材は静岡市役所から始まったのですが、そこでも清水区の区役所や、清水の事情に詳しい方をご紹介頂きました。なるほど、やはり詳細な調査は地元に足を向けるに限りますね。

その中でも今回特筆すべきは静岡市立清水中央図書館に展示されているエレーヌの遺品の数々です。…どうもエレーヌの遺品がどこぞに展示されているらしい、という情報は ぬえも以前に耳にした気はするのですが、ついに現物に巡り会うことができました。

こちらが展示の全貌です(許可を得て撮影させて頂きました)



以下、各展示品について見てみましょう。
こちらはエレーヌ手製の長絹。



これは「羽衣」専用の長絹を写したものと思われます。これと同じような文様の長絹もないではないですが、本来は鳳凰の「背中」を金地の長絹いっぱいに織り出したもので、鳳凰の頭はないのです。この長絹を羽織ったシテの頭が、そのまま鳳凰の頭に見立てられる、という凝った趣向の長絹で、両袖に鳳凰の翼がいっぱいに表わされます。金剛家の所蔵になる長絹が著名ですが、ぬえの師家にも同じ文様の古い長絹があります。

この長絹…だいぶ厚い生地で作られていまして…ぬえの推測では、おそらく厚手のカーテンではないかと思います。袖露にあたる部分に「房」がつけられていますが、これもカーテンをまとめるためのものを転用したのではないかと思います。平絽に織られた長絹の軽やかさは出しにくいでしょうが、おそらく素材まではわかりにくかったであろう写真を参考にしたもので、そのうえ鳳凰の図はエレーヌが自ら描いたのだそう(!) …展示こそされていませんでしたが、ほかにも天冠もエレーヌの手製で、かなり驚異的な才能と情熱によって作られたものだということは すぐに胸に迫ってきます。

さてこちらはエレーヌが所蔵した面。





面裏に「春若」と記されているそうです。春若(しゅんわか)は室町時代の面打ちで「六作」と数えられた人ですが、おそらく女面は残されている例はないと思います。確かに古面ではあるようですが、春若の真作であるかは…ちょっとわかりません。作としてはあまり優品とはいえないと思いますが、戦争直後のフランスでこういう時代のある面が手に入った、ということの方を驚くべきでしょう。…ただ、残念なことに剥落が多くて、エレーヌが愛用した時代から比べて見てもあまり保存状態はよくないようです。

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その10)

2011-04-06 02:35:14 | 能楽
さて清水市…現・静岡市清水区に向かった 鮒さんと ぬえ。すでに時間も残り少なかったので、観阿弥の終焉の地である浅間神社はまたしても見ずじまいでしたが…市役所でご紹介頂いた清水区の方にお会いすることができました。この方は地域振興に長く尽力しておられる方で、ここではエレーヌ夫人の事績や当地・清水での「羽衣の碑」をめぐるその後の動静、さらに夫君マルセル氏との交流がその後も続いていたことを知ることができました。

中でも驚いたのは、今から25年以上前に、静岡県のテレビ局がエレーヌ夫人の特集のドキュメンタリー番組を放送していたことです。その録画を見せて頂いたのですが、なんと師家の協力によってその番組は作られていたのでした。…ぬえはこの事実を知りませんでしたが、当時 ぬえはまだ、師家に入門していたか、その直前、といった頃ですね。

がしかし、この番組の存在を知って、ようやくいくつかの疑問も氷解しました。

たとえば、今回の師家所蔵のフィルムのデジタル化について、なぜかエレーヌ夫人関係のフィルムだけ静岡県のテレビ局の封筒に納められていたこと。それから、これらのフィルムをDVDにしたところ、なぜか師匠の弟にあたる先生が、ご自宅に同じフィルムを録画したビデオテープがあったこと。

弟先生によれば、なぜそのビデオが自宅に残っているのか記憶が定かでない、とのことでしたが、事実関係をつなぎ合わせてみれば、大体の事情がわかってきました。…すなわち、この番組が作られたときに、テレビ局の調査で ぬえの師家にフィルムが残されていることが判明→それを借り出して、いまの 鮒さんや ぬえのようにビデオテープに焼き直した→放送の記念として関係者である師家にビデオが贈呈された→元のフィルムはテレビ局の封筒に入れて師家に返却され、その封筒ごと師家に残された→その後、当時の経緯は師家ではわからなくなった(おそらく静岡県内のみで放映されたため、東京在住の師家では番組そのものを見ておらず、成果についても印象が薄いのかも)→弟先生は資料などをこまめに整理する方なので、今回のデジタル化によって作られたDVDを見て、同じ内容のものがビデオテープの形で自宅に残されていることに思い当たった… おそらくこのような事情なのでしょう。

ところで、このフィルムを誰が作ったのか…商用なのか記録なのか…などと、これまでこのブログでもいろいろに推測はしていたのですが、これも結果的に鮒さんの考察の通り、マルセル自身によるものだという事が、テレビ番組の中で明らかにされました。これは番組の中で、このフィルムをマルセルに見せている場面でナレーションで言っていたのですが、その時マルセルへの取材の中でインタビューされたのでしょう。番組の中では、このフィルムは ぬえの師家に残されていたものをビデオに起こしたものだ、ということもハッキリとナレーションされていました。

興味深かったのは、このフィルムを見たマルセルの感慨深げな表情。彼の手許には、自身がプロデュースしたものではありながら、このフィルムは残されていなかったのです。…「羽衣の碑」の除幕式から60年近くが経ち、このテレビ番組の放映からも25年以上が過ぎ去り…歴史から見ればほんの些細な時間かもしれませんが、わからなくなってしまう事は多い。…ぬえも何度もこういう事に気がついて、関係者が亡くなる前に…と言っては失礼ですが、近代の師家の歴史の証言を採録したことがありましたが、こんな身近な例さえ分からなくこともあるのですね…

いま、日本は未曾有の危機に直面しており、その対策に一喜一憂している段階だと思いますが、記録しておくこともまた必要なのではないかなあ、と思ったのでした。

さて旧清水市ではさらに、エレーヌ夫人の遺品が当地に残されていることを知り、これらの取材に向かうこととしました。

これがまた…興味深かったのですよね~

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その9)

2011-04-04 02:10:33 | 能楽
ホントは久能山東照宮についてはたくさん書きたいこともあるのですが、今回の旅の目的は「羽衣の碑」ですから、このブログでのご紹介もここまでにとどめておきたいと思います。

久能山から再びロープウェイに乗って日本平に戻り、一路 鮒さんと待ち合わせの静岡市役所へ。じつは鮒さんの今回の調査の目的は、師家のフィルムに記録されている人物を特定することでした。「羽衣の碑」は、マルセル・ジュグラリス氏によって伝えられたエレーヌ夫人の能『羽衣』への、そしてその舞台となった三保の松原への想いに感動した地元・清水市の市民の力によって建てられたもので、その除幕式の様子を記録したのが師家に残されたフィルムなのです。

「羽衣の碑」は本当に市民の寄付によって建てられたようですが、映像を見る限り、除幕式はすでに市民個人の範囲を超えて、相当強力な大きな主催団体があったことを思わせます。当然除幕式の挨拶には「然るべき方々」が登場されておられるわけで、この人々を特定しよう、というのが今回の 鮒さんの調査でした。

このあたり、調査に同行した ぬえは、またしても鮒さんの研究者としての着眼点に感心しましたね~。

まず、なぜ鮒さんがこの「羽衣の碑」の除幕式に招待され、また挨拶をする人物にこだわっているのかというと、どうやら昭和27年という年代のこの催しが、今でこそ当たり前のように開催されている地方自治体主催の薪能やホール能に類する地方公演の本当に嚆矢である可能性が高いから、なのだそうです。仮設舞台での演能(←これ自体は戦前からある)であり、能楽師やその後援者ではなく、東京など常設の能舞台を持つ大都市からはずっと離れた土地の有力者…あるいは地方自治体そのものが中心となって、興行的に、と言ったら語弊があるかも、ですが、愛好家に限定されない一般の観客を対象とした能楽公演を行う、というのは、どうやらこの時期に始まった事らしい。その意味で、それが証明されれば近代能楽史のひとつの解明になる、というわけです。

鮒さんは市役所でお会いした担当の方に、除幕式の映像から切り取った何人かの人物の画像を見せて、その人物の情報を伺っておられましたが、これがまた。挨拶をしている人物だけに留まらず、映像に写った人について細かい情報を尋ねておられました。鮒さんいわく「カメラがパンしていって…ふと止まる時には、それは催しに深い関係がある人物である可能性があるんですよ…」…そんなところに着目していたのか。感心しました。

市役所の担当の方も、こんな年度替わりの忙しい時期ですのに相当綿密に調べてくださいまり、何人かの人物について特定する事にも成功したのですが、結局 詳細については清水区…市役所の支所に行ってさらに調べるよう勧められました…というのも、現在三保の松原がある場所は静岡市の清水区であっても、それは数年前の市町村合併の結果であって、それ以前は静岡市とは別の自治体…清水市であったからです。なるほど除幕式当時のことについての調査は、当時の資料や関係者が残っている可能性がある現地での調査が必要ですね~。

市役所では親切にも旧清水市で事情に詳しい方をご紹介頂き、早速に現地に向かうことに致しました。

この除幕式で能『羽衣』を勤めたのが ぬえの師匠(先代)であった事は ひとつの偶然でしかないでしょうが、これまた偶々縁あって師家に入門した ぬえと、鮒さんという研究者との出会いがあって、近代能楽史の一端が調査される、というのは、なんだか感慨深いものがあります。

あ、そうそう、市役所では伊豆の子ども能のこともお話してきました! とても興味を持って、喜んでくださいました~(^^)V

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(番外編)

2011-04-03 03:00:17 | 能楽
以前から名古屋の能楽研究者の「鮒さん」と共に進めている ぬえの師家所蔵の古い映像・音声のデジタル化作戦ですが、SP盤のデジタル化~16mmフィルムのデジタル化…と着々と成果を生んでおります。

今年もすでに1本のフィルムをデジタル化しているのですが、以前にご紹介した三保の松原にある「羽衣の碑」の除幕式で師家の先代の師匠が能『羽衣』を勤められた様子を記録したフィルムに関連して、鮒さんが実際に三保の松原など現地での実地踏査をされる、ということで、ぬえもお手伝いをして参りました。

ここまでの経緯については以下の記事をご覧下さい(ちと大変ですが…)

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その2)
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その3)
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その4)
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その5)
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その6)
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その7)
師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その8)

さて、この日は昼に鮒さんと静岡市役所で待ち合わせということで、早めに自宅を出発した ぬえ。というのも、伊豆にはよく出向く ぬえではありますが、静岡市まではなかなか出かける機会がないから、このチャンスにあちこち見て回ろう、と思ったのですね~。なんせ静岡市といえば、観阿弥が52歳の年、5月4日にこの場所で演能し、その2週間後に亡くなった…おそらく終焉の地と考えられる浅間神社や、久能山東照宮、登呂遺跡と、能楽や日本史にとって重要な場所がたくさんある土地なんですよね~

で、がんばって車で東京を発ち、午前中に久能山東照宮に参りました。いや~、沼津インターまでは通い慣れた道だけど、静岡インターとなると かなり遠い、と思いますね~。静岡県…広過ぎ! 年始の師家の恒例行事、丹波篠山の翁神事への通勤の時にも思うことですが、体感としては日本の国土の1/4は静岡県なんぢゃないの? と思うほど。

静岡市から海際の快適な道を走って久能山に着きましたが…事前の計画もなく行きましたので よく事情がわからず…海側から東照宮に至るのには1,000段以上の階段を登らなければならないのですね。ここから反対側…ぐる~っと久能山を迂回して、日本平の高地に行けば東照宮に通じるロープウェイがある、ということを知って、時間も限られているので急いで日本平に行きました。

ロープウェィの乗車時間はほんの5分間。あたりは崖崩れの跡があったり、山桜や河津桜との混交種の桜がとりどりに咲き頃を違えていて、なんだか居心地の悪い感じでした…が、久能山の山頂…といっても日本平から東照宮までは下りの道のりですが…に到着してみると、駿河湾を見下ろす雄大な光景。そうして日光東照宮にも匹敵するような壮麗な社殿。美麗な宝物を納めた博物館。







…でも、なんだか久能山東照宮は不思議な場所ですね。まず、どうして家康がここを埋葬の地として遺言したのか…当地に立ってみても理由が分かりませんでした。故郷・岡崎と風景が似ているのかなあ? そんな憧憬で墓所を決めるような人物とも思えないけれど…

そうして、何と言ってもこの場所には家光の存在感がなぜか希薄ですね。これは印象でしかないのだけれども…。東京に生まれ住んでいると、震災や戦災で何度も荒廃した東京には、それでも家光の影は感じざるを得ない、ということはあるのです。いや、ホント。たとえば上野東照宮や芝・増上寺を見ても、装飾の程度はずいぶん違っても、何というかな、家光の雰囲気というのがあるんですよね~。これは首都圏内でも、たとえば筑波山などでさえそれを感じる場所があるんです。

それが…ここには希薄ですね。もちろん、日光東照宮の造作にとても似ているし、ここが家康本人の遺言により急遽定めた墓所という沿革からしてみれば、この壮麗な社殿は日光東照宮と同時期かそれ以後に改・増築されたものでしょうから、当然家光が関わらなかったはずはないと思うのですけれども…それでも、どうも家光「らしさ」みたいなものがない場所だなあ…なんて考えていました。勘違いですかねえ…

ちなみに久能山東照宮の本殿は昨年の秋に国宝指定されたそうです。