ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『隅田川』について(その2)

2007-04-30 16:07:21 | 能楽
数年ぶりにパソコンを買い換えて、や~~~~っとXPになりまひたっ(←いまさら。。)。(~o~)/
それまでずっとMeだったんだもん。いやいや おっさんには新しいキカイはよくわからんわい。


さて『隅田川』。実際の舞台面を見てみましょう。

囃子方のお調べが終わり、橋掛りからお囃子方が、切戸口より地謡が登場してそれぞれ所定の位置に着くと、後見によって小さな塚の作物が幕の中から運び出され、大小前に据えられます。塚の上は榊の枝で葺き、正面と側面には柳の枝が何本か下がっています。

この作物を舞台に出すという演出は本当にうまいと思いますね。『隅田川』という題名の能なのに、最初に舞台に登場するのは陸にあるべき塚。それもワキの渡守が登場するところから舞台は川岸になり、その後の展開で川の上を渡る船中になり。その間、舞台にいる誰もがこの塚を無視し続けます。舞台をご覧になっているお客さまにとっては、「あれは何だろう?」という疑問がずうっとついてまわる事になります。それは渡守の、その役柄に似合わない重厚な名宣リや、その中で述べられる「この土地で大念仏が行われている」という、春うららの季節に似つかわしくない説明(ただし下掛り宝生流のおワキでは名宣リの中で大念仏には触れない)、そして登場する狂女という、どうも ちぐはぐなもの、この能に横溢している不安定さと相俟って、お客さまに言い知れない不安感を与える事になります。

余談ながら、東京に生まれ育った ぬえは、母がこの能の舞台になった隅田川の近所の出身だったり、その関係で現在も親戚がそこに住んでいたり、と、子どもの頃から隅田川には慣れ親しんでいました。だから ぬえ自身はあまり感じないのですが、東京や関東以外の人にとっては、分けてもこの能が作られ、演じられた昔の京都やその周辺の人々にとっては、この能の題名の『隅田川』という名前も何というか不吉、とは言わないまでも、聞き慣れない不安定な響きだったのではないかなぁ? と思ったりしています。

もちろん、当時の能の観客にとって「隅田川」は『伊勢物語』によって知られていた地名だとは思いますが、『伊勢』に登場する隅田川は、地の果ての いわば異境のような場所で、ここで見つけた鳥を「都鳥」と呼ぶと知った業平一行は望郷の念にむせび泣くのです。そういう「負」のイメージも「隅田川」にはあっただろうし、その語感も「鴨川」や「桂川」などという、趣のある名前とはちょっと異質。そして当時の観客がまったくストーリーを知らされないでこの能を見たのだとしたら、これはその内容を『伊勢』と結びつける以外にイメージの持ちようがないでしょう。そこに登場するのは、その期待感をまるっきり裏切るような「笠をかぶった女」。。

「笠」については後に詳しく触れたいと思いますが、ぬえはこの能にはいろんな「仕掛け」が施されていると思います。

あるいは十郎元雅はそこまでの舞台効果を意図してこの川の名前をタイトルにつけた訳ではないかも知れないけれど、この曲の題名は『百万』や『班女』のように、登場するシテの母の名前でもよかったはずだし、あるいは彼女が探し求める子の名前でも差し支えはなかったはず。そして作物が能の脚本の中で必要になる後半ではなく、能の冒頭に出されるのも、それが後半になってから(舞台が隅田川の対岸に移ってから)出したのでは舞台の進行が途切れてしまうから、という現実的な理由も考えられるのだけれど、あえて冒頭に出しておいて、能の結末で観客を驚かせるように最初から仕組まれてこの曲は書かれたのだと思います。だって、母親の眼に子どもの姿が映る、という演出ならば、ほかにもいろいろな方法はあったはずだと思うから。。

【注】今回は6月3日の建長寺・巨福能での上演に際して『隅田川』という曲を考えてみたいと思います。読者の方の中には建長寺で初めて『隅田川』をご覧になる方もあろうかと思いますので、あまり事前に「ネタバレ」な事は書かないようにしたいと思います。もしもコメントをされる方がありましたら、やはりその辺はご注意願いたいと存じます~

『隅田川』について(その1)

2007-04-29 02:03:34 | 能楽

『隅田川』。。もう何も余計な事を語る必要がない能の最高の名曲でしょう。はじめて ぬえがこの曲を拝見したのは学生時代ですが、そのとき受けた衝撃は忘れられません。世阿弥の「優秀すぎる」長男・観世十郎元雅の作になるこの曲、『申楽談儀』に載せられた、作者・元雅と その父・世阿弥との『隅田川』の演出についての、あまりにも有名な議論。あの舞台人同士だからできる会話は 同じく実演者である ぬえにはとってもよく分かります。あの会話の様子を想像すると、一挙に室町時代の世阿弥の屋敷の中にタイムトリップしちゃう。(^◇^;)

その後、作者の十郎元雅が30歳代で亡くなった可能性が高い事を知って(生年に確証がないので確実ではない)、そうなると、これだけ人間を細やかに見つめた能『隅田川』が、30歳代、ひょっとすると20代という若い眼が捉えた人間像であった事になり、これまた ぬえは驚愕したのでした。何という鋭敏な神経をもって生きた人なのだろう。同じく十郎元雅の作品には『弱法師』もあり、これも深く深く人間を凝視した曲です。

一方では元雅は、世阿弥の長男でありながら政治戦略に敗れて父とともに観世座を離れ、伊勢で客死した不遇の人。吉野の天河弁財天社に現存する、彼が奉納した「阿古父尉」の面。その面裏に書かれた「心中所願円満成就也」の文字。ぬえは縁あってこの面を手に触れた事がありますが、元雅は何を心中に祈念して、「円満成就」したのか、その面の、とても現代の舞台には耐えられないであろう不思議な相貌と相まって。。混乱しました。そして将来を嘱望する嫡男の急逝を惜しんで、68歳になる父が記した『夢跡一紙』が今に伝える悲痛な叫び。

さるにても善春 子ながらも類なき達人……又祖父にも越えたる勘能と見えしほどに……道の奥義秘伝、ことごとく記し伝える数々、一炊の夢となりて、無主無益の塵煙となさんのみ也……善春 幻に来たって仮の親子の離別の思ひに枝葉の乱墨を付くること まことに思ひの余なるべし

十郎元雅は彼の死後575年を経た現代の我々の心の中にも深く、深く浸透して来ます。ぬえはこの人には本当に思い入れが強くて。

さて『隅田川』という名曲には当然ながら古今に名演もたくさん残されています。こういう、演者にもお客さまにも思い入れがある曲を演じるのは、だからこそ本当に難しい。ぬえもこの曲の地謡に出ていて、涙を流してしまった事もあります。。

そういえば。。 ぬえは京都の浦田保利先生を尊敬してやまないのですが、それも先生が勤められた『隅田川』を拝見してからでした。しかもその『隅田川』は海外で演じられたものだったのです。もうずいぶん以前になりますが、浦田先生とドイツ公演をご一緒させて頂いた事があって、その時に先生が演じられ、ぬえも地謡を勤めた『隅田川』は、これまた ぬえには衝撃的でした。生きることのつらさ。汗まみれ、泥まみれになっても貫かれる執念。これだけ象徴的・抽象的な演技技法の上に立脚する能に、あれほど直截的に人間の存在感を表現できるなんて。。

その旅行では ぬえは浦田先生の門下のF師とホテルで同室だったのですが、ああ、その夜浦田先生の『隅田川』を拝見して興奮した ぬえは、F師の肩をつかんで揺さぶるようにして「今日の『隅田川』は良かったですねぇぇ!!!!!」と連発していたのでした。(^^;) ぬえからは父ほど年の離れたF師にこんな失礼もないはずなのですが、なんだかF師には気に入って頂いちゃったようで、その後F師とは親交を深めさせて頂くことになりました。毎年F師も ぬえを京都の催しにお呼び下さるし、ぬえも東京での自分の会にF師にお手伝いをお願いしたり、ぬえの海外での催しにも、必ずF師にご同行を願っています。これもみ~んな、出発点は『隅田川』だったりするのですよねー。

研能会初会(その36)

2007-04-26 12:52:15 | 能楽
「真之一声」で幕を出た前シテとツレは橋掛りで向き合って、「静メ頭」という大小鼓の手を聞いてツメ足をし、やがて謡い出します。「真之一声」は脇能の際のワキの登場に演奏される「真之次第」と対をなし、「静メ頭」も「早メ頭」と好対称の関係にありますね。

しかし「翁付」であっても、シテが登場する「真之一声」以下、普段の脇能とまったく替わるところはないのです。おワキが「礼脇」という重々しい特別の登場の仕方をする事を考えるとなんだか不思議ですが、前述のように「礼脇」は『翁』の延長上にある印象で、それをもって『翁』が完結するように作られているように見えますから、シテが登場するところから、『翁』を離れて「脇能」としての独立した上演が始まるのかも知れません。

中入まで別段、特別な変化もなく脇能の上演は進行して、前シテは幕に入ります。シテは『翁』の大夫役を勤めてから脇能の前シテを勤め、今度は後シテの装束に着替えるのです。いやはや、何とも体力勝負。ツレはここで「千歳」から引き続いて勤めてきた大任を終える事になります。(本来の通り、「千歳」が脇能のツレも勤める場合。もっともその場合も『高砂』や『養老』『弓八幡』のように前場にしかツレが登場しない場合はこのように「千歳」が前ツレを勤めますが、『賀茂』のように前後にツレが出る曲の場合は、「千歳」はやはり役として格式の重い後ツレを勤める事になろうかと思います)。

中入で間狂言の語リがありますが、これが「翁付」の場合に何か替わるところがあるのか。。不勉強にして ぬえは存じません。今度機会を見て狂言方に聞いてみましょう。

さて後シテの登場ですが、ここは「翁付」の場合は普段の脇能とはガラッと変わります。具体的には、脇能の後シテが登場する場合に最も多く使われる囃子「出端」。これが「真之出端」と称される特殊な「出端」に替わるのです。

この「真之出端」は「翁付脇能」に限って演奏される特殊な出端で、全体で五部構成となる長大なものです。

最初に「掛カリ」の段があり、この段のトメには太鼓は常の「出端」の時に打つ区切りの手「打切」ではなく、「打切」よりももっとハッキリした区切りに打つ手である「本打込」を打ちます。次の段は「越ノ段」と呼ばれ、笛は演奏を控えて大小・太鼓だけで演奏する段。これ以降は太鼓も区切りの手は通常の「打切」を打ちます。笛が再び加わって「二段」となり、さらに区切りがあって「三段」。この時にようやくシテが橋掛りに登場します。もっともこのときシテは幕際の「三之松」に登場して正面に向く、すなわち姿を見せるだけで、ここに太鼓が「スリ付け」という、今度はハッキリした区切りにはならない区切りの手を打って、これより「四段」。ここを別名「幕放レ」と言いますが、その名の通りシテはこれより橋掛りを歩み始め、橋掛り一之松なり舞台常座なり、所定の位置に進んで謡い始めることになります。なお「三段」と「四段」との間は区切りをハッキリさせない打ち方をするため、前者を「空段(そらだん)」と呼ぶこともあります。「段」とは公式にはカウントしない、という意味なのでしょう。

この「真之出端」は別名「七五三の出端」とも言います。太鼓は普段の能でも、その演奏の区切りにはよく「頭(かしら)」という、撥を肩に担ぐ印象的な打ち方をします。「真之出端」では「掛カリ」の段の冒頭に太鼓がその「頭」を七つ打ち、「越ノ段」では五つ、「二段」で三つ打つので「七五三」。ちなみに残る段では「三段」で二つ、「幕放レ」では一つの「頭」を「スリ付け」という変化を持たせて打ちます。常の「出端」では「段」の構成も二つか三つ、その中で打たれる「頭」の数も二~三ですから、「真之出端」は相当に重大な格式をもって演奏されている、と言えるでしょう。

思えば「翁付」の場合は、太鼓方は常には登場も演奏もしない『翁』から参加し、当然開演前に楽屋内で行われる盃事にも、お調べにも参加しています。しかしもちろん『翁』の中では太鼓方は演奏はせず、ずっと着座したまま。そしてほとんどの脇能でも太鼓方が演奏を開始するのは、この後シテの「出端」からなのです。とすれば、太鼓方にとってこの「出端」は、「翁付」である特別な脇能の演奏の最初であって、さてこそ常の「出端」とは大きく異なる重厚な「真之出端」を打つのでしょう。先におワキの登場をもって『翁』が完結する趣がある、と書きましたが、それとは少し違う意味で「翁付」という演式の重大さを、この「真之出端」が物語っているようです。

ちなみに「翁付脇能」で後ツレが「出端」で出る場合は、「真之出端」より少し格式を落とした「草之出端」が演奏されます(「行之出端」とも言う)。別名「五三二の出端」と言い、頭の数も、段の数も「真之出端」よりも短縮されて、「本打切」も「幕放れ」もありません。

さて、一月から36回に渡って「翁付脇能」について解説を続けてきました。自分でもまさかこの解説がこれだけ長大になって、4ヶ月近くも費やすとは思ってもいませんでしたが、それほど『翁』や「翁付脇能」の演式には特徴的な演出が用意されていたのですね。自分でもいろいろな発見もあって驚いております。これにてひとまず「翁付」の解説を終わりにして、次回からはいよいよ1ヶ月後に迫った鎌倉・建長寺の巨福能の演目『隅田川』について考えてみたいと思います。

研能会初会(その35)

2007-04-24 23:59:26 | 能楽
そう言えば ぬえは昨年の正月の研能会で、師匠がおシテを勤められた「翁付」『賀茂・素働』でツレを勤めさせて頂きました。この時も師匠は『翁』の大夫を勤め、「三番叟」の間に装束を替えて『賀茂』の前シテを勤め、萬斎さんの替間『御田』の間に後シテの装束を着け。。と、はたから見ていても大変なお役でしたね。装束を替える時間は十分にあるのですが、いちいち気持ちを切り替えなければならないのと、やはり緊張が途切れない心労、そして体力のうえでも三つの役をこなすのは大変でしょう。

ぬえはこの時は「千歳」と『賀茂』の後ツレの「天女」の役を頂戴致しました。3時間に迫る長大な演能時間の中で、ところが ぬえの出番としては『翁』では「翁渡り」から「翁帰り」までの30分間、そして『賀茂』の後半、これは20分、といったところでしょうか。そのくせ2つの役のどちらにも舞があって。舞台に居る時間は短いわ、目立つ舞は舞わせて頂けるわ、で、この番組の中では最も楽チンで、それなのに目立つ、一番「徳」な役だと言われました。。が、実際はそんなに楽チンでもなかったのです。

なんせ開演の1時間前から「千歳」の装束を着けはじめ(!)、「翁帰り」で幕に引いて、「千歳」のお装束を脱いでから、その5分後には『賀茂』の「天女」のお装束を着け始めました。

「千歳」の装束着付け開始
 ↓(1時間)
『翁』(登場時間30分)
 ↓(翁帰り)
すぐに「天女」の着付け
 ↓この間「三番叟」(30分)
『賀茂』開演(前シテ1時間)
 ↓中入後に替間『御田』(30分)
『賀茂』後。(天女の登場)(後場全体で20分)

。。思い返してみると、この時 ぬえが装束を着ていた時間は『翁』『賀茂』を合わせた上演時間2時間50分よりも1時間長い3時間50分に渡りました。そしてこの間、楽屋にいる間さえも ぬえはほとんど立ったままでした。そして、ひたすら出番を待ち続けていたのです。『翁』の前に1時間。『賀茂』の「天女」のお装束を着けてから1時間30分。その間を気持ちを弛緩させないで保っておいて、そうしてパッと出て舞う。。テンションを持続させるのにも苦労がありました。往時は催しの冒頭には必ず『翁』が演じられ、脇能は「翁付」になる頻度が大変高かったはず。『翁』と「翁付脇能」が同じシテ・ツレの配役で演じられるのが当然だった時代は演能も大変な、体力比べの様相を呈していたのでしょうね。。

さて「翁付脇能」の解説に話を戻して。

ワキの登場には前述のように「礼脇」という特別な演奏がなされるのですが、前シテの登場には「翁付」だからと言って特別な演出や演奏はない、と思います。常の通り「真之一声」で前シテはツレとともに登場し、中入まで、とくに替わるところはない、というのが ぬえの認識です(不勉強にして ぬえが知らないだけ、という事もあるかも知れませんが。。)。前シテの登場の囃子が「真之。。」という名称だし、すでに「脇能」は、その存在だけで、そのほかの能とは一線を画して尊重されているのです。もっとも常の「脇能」のおワキの登場の囃子も「真之次第」ですが、これが「翁付」の時の「礼脇」よりも一段低い位置にある略式の囃子であるわけではなく、前述のように「翁付」の場合は『翁』に登場しなかったおワキが拝をする事によって、ここを以て『翁』が「完了」するように作られているのだと思います。

研能会初会(その34)

2007-04-22 01:14:49 | 能楽
さておワキが橋掛りに登場すると、大鼓方も床几に掛けて素袍の両肩を脱ぎます。これは「礼脇」は笛と小鼓の演奏に終始するのではなく、途中から大鼓も演奏に加わるからです。笛と小鼓を聞きながら舞台常座に入ったおワキは、ここで両袖をさばいて下居、ワキツレは橋掛りに控えます。そして「置鼓」の手が終わると笛はヒシギを吹き、このときに両手をついて正面に拝をするのです。さてこそ「礼脇」という言葉はこの型によく表されています。

思えば「翁付脇能」の上演では、『翁』を勤めたすべての役者は(脇鼓二名を除いて)、その終演後も引き続いて舞台に居残って脇能を勤めるわけで、この場合『翁』では演奏しない太鼓方さえもが素袍を着て『翁』に参加はしています。そしてこれらの演者はすべて舞台への登場の際に拝をするのです(もっとも囃子方・地謡・後見の拝は近来は省略される事が多いですが。。)。『翁』と、それに引き続いて上演される「脇能」は、もちろん内容の上では繋がりがないのだけれども、『翁』をある種の祝祷の「儀式」と捉えた場合、「翁付脇能」として上演される脇能はこの儀式の延長にあるわけで、『翁』にはまったく関与しなかったおワキが、その登場の際に『翁』の演者と同様の拝をする事で、儀式は完成されるのでしょう。

さて笛の「ヒシギ」を聞いて、大鼓が打ち出し、中略・上略という手を大小鼓が打って(これを「本頭(ほんがしら)」とも言う)ここから普段の脇能のワキの登場の際に演奏される「真之次第」のクライマックスである「早メ頭(はやめがしら)」が演奏されます。おワキの型は、拝見した限りでは両袖の露を取り、立ち上がってこれを放して脇座の方へ行き、これより常の型で、橋掛りに登場した時のように正面に向いて両手を拡げてつま立ち、立ち戻って 舞台に入ったワキツレと向き合い、大小鼓の打切謡頭(うちきりうたいがしら)を聞いて「次第」を謡います。

脇能の場合は「次第」を「三遍返し」に謡います。すなわち、脇能以外の能ではワキが「次第」三句を謡い、次いで地謡が低い声でワキが謡った「次第」のうち繰り返しを省いた二句を拍子に合わせずに謡って(これを「地取(じとり)」と言う)、これにて おワキは「これは諸国一見の僧にて候」などと名宣リを謡うところ、脇能の場合は ワキ「次第」三句=地謡「地取」二句を拍子に合わせて謡う=ワキ再び「次第」二句を謡い、それより名宣リとなります。なお「三遍返し」は「翁付」でなくても、脇能であれば行う演式です(例外あり)。

おワキは名宣リが済むとワキツレと一緒に「道行」を謡います。またしても「翁付」だから、ではなく脇能であれば演じられる演式ですが、この道行の型にも独特なものがありますね。すなわち脇能以外の能の「道行」では、その後半、おワキは正面に向いて少し出て、また後ろに向いて立ち戻り、これをもって旅行をした事を型で表すのです(一人ワキの場合は常座より脇正の方へ斜めに出て立ち戻る)。これが脇能の場合は、正面に出たところで、三たび両手を拡げてつま立ち、また立ち戻ったところでも同じ型をするのです。

「道行」が終わると おワキは「着きゼリフ」を謡い、ワキツレとともに脇座に控えて、これより囃子方は荘重な「真之一声(しんのいっせい)」を打ち出して、前シテとツレが登場します。

ところで「翁付脇能」の場合、脇能のシテは『翁』の大夫と同じ演者が演じるのが本来で、ツレも『翁』で「千歳」を勤めた役者が勤めます。近来は「翁付脇能」でも『翁』と脇能の おシテを別の役者が勤める事が多くなりましたが、ぬえの師家では、もうこれで三年連続で、『翁』と脇能のシテを同じ役者(=ぬえの師匠)が勤める、正式のやり方での上演が続いています。

研能会初会(その34)

2007-04-20 00:41:05 | 能楽
通例の「翁付脇能」の上演は次のような順番で上演されます。

「三番叟」が幕に入って、囃子方は床几を下りてクツログと、ここで大小鼓はいったん素袍の両肩を入れます。そして小鼓のうち脇鼓の二人が常の能の終わりのように道具と床几を持って立ち上がり、橋掛りを歩んで幕に入ります。この頃、シテ方の後見は面箱を持って切戸に引き、狂言方の後見も引きます。シテ方の後見が引いて地謡座にスペースができると、『翁』の間 囃子方の後ろに着座していた地謡は立ち上がり、常の能の地謡座に移動して着座します。「翁付脇能」となると、上演時間は2時間半前後になるので、ここで いったん立ち上がる事は地謡には非常に助かります。。と言っても笛方と太鼓方は『翁』~脇能~さらに脇狂言と、場合によっては3時間ずっと正座のままなのですから、脇狂言の上演前に退場するうえに、この場面で立ち上がる地謡は申し訳なく思わなくてはいけませんね。そして迅速に移動しましょう。(←自戒)

地謡が着座したところで、常の能の上演開始と同じ状態になりました。作物がある曲の場合は、ここで後見が作物を出します。

後見が切戸に引くと、再び小鼓だけが床几に掛かり、素袍の両肩を脱ぎます。さっき素袍を着直したばかりなのですが、『翁』と「脇能」は連続して上演はするものの、内容が連続しているわけではないから、ここでひと区切りをつけるのでしょう。『翁』で「翁帰り」のあと小鼓方はいったん鼓を膝に下ろしますが、床几には掛かったまま、素袍も方を脱いだままで、再び鼓を肩に構えると「三番叟」の「揉出し」を打ち始めます。この「翁帰り」と「揉出し」との間はごく短い時間なので、床几から下りるほどの余裕がない、という事もありますが、「三番叟」の「揉之段」と「鈴之段」との間の、「三番叟」が後見座で「黒式尉」の面を掛ける長い間でも、やはり小鼓方は床几から下りることはありません。『翁』の中で「翁」と「三番叟」が不可分な事をこの作法は示していて、『翁』と「脇能」との間の作法と好対照です。

さて小鼓方が床几に掛かると、いよいよ「翁付脇能」の最初の「習い事」である「礼脇」が始まります。「礼脇」は前回の記事でも触れたように「置鼓」の一種で、「翁付脇能」の冒頭、ワキの登場の場面に限って上演されるものです。ぬえが小鼓の師匠から頂いた手付けでは「礼脇置鼓」と表記されていました。

実際の上演方法は、少なくとも前半の囃子方(笛と小鼓のみ)の演奏はほかの「置鼓」とほとんど替わらず、まず笛方が「呂」、続いて「干カン」の手を吹き(おそらく「礼脇」のための専用の譜。笛の譜は ぬえも所持してはいますが、ほかの「置鼓」の譜と比較したことがないので。。機会をみて比較調査してみます。。)、それが終わると小鼓が置鼓特有の手を打ち、再び笛の独奏、またそれが終わると小鼓の独奏。この後は笛が吹く演奏の中に小鼓も加わって、二人の演奏が続き、笛が「ユリ」の手を吹くところでおワキは幕を上げて橋掛りに登場します。

拝見した限りでは、おワキは常の脇能の際の「真之次第」と同じ型をなさっておられるようですね。幕際の三之松に登場すると両袖を拡げてつま先立ち、かかとを下ろしてから右手で正面をサシ、その手を下ろして橋掛りを歩み行き、ワキツレもそれに続きます。もっともおワキは笛と小鼓の手を聞きながら、ほど良く舞台に入れるように橋掛りを歩まなければならないのですから、やはり「置鼓」での登場はおワキにとっても難しい役ですね。

研能会初会(その33)

2007-04-16 11:58:51 | 能楽
『翁』の上演が終わると、引き続いて脇能が上演されます。今回は脇能ではなく本三番目物の『楊貴妃』が上演される、という、大変珍しいことになった訳ですが。。「翁付鬘能」となった理由は ぬえにはよくわかりません。。番組を初めて見た ぬえもとってもビックリしましたくらいで。後日聞いたところでは、『翁』に引き続いて脇能以外の曲を演じるのは まったく伝承がないわけではないらしいのですが、それも ぬえ自身が伝書類を拝見したワケでもないので、あえて ぬえはコメントする立場にはありません。

ともあれ、今回の『楊貴妃』では、ワキが唐冠をかぶり、鬘置鼓で登場した、という点だけが普段の『楊貴妃』との違いでした。唐冠はおシテがおワキにお願いしてかぶって頂いたもので、あの唐冠は師家の所蔵になるものです。すこし小振りで、なんと唐冠を納めた箱に「ワキ用」と書かれていました。まあ、おワキのためにわざわざ作られたもの、というより、小振りな唐冠でシテ用にはやや不向きだったために、箱に注記されたのでしょう。時代はある唐冠なので、詳しい由緒まではわからないのですが。。

鬘置鼓は、現在では重い本三番目の曲、わけても老女物の上演のときに、曲を尊重して打たれるくらいで、めっきり上演の機会は少なくなりましたが、本来は本三番目の能であれば打ってよいものなのだそうです。「置鼓」にはいろいろな種類があって、「翁付脇能」の際に演奏される「礼脇」、シテ方のそれぞれの流儀に独自に定められた特定の曲の上演の際に(たとえば観世流では『白楽天』『玉井』の2曲)演奏される「半開口」、一子相伝で、よほどの記念的な催しの際に(将軍宣下能とか大舞台の舞台披キとか)演奏される「開口」、『朝長』の重い小書「懺法」の上演の際などに演奏される「修羅置鼓」(=ただ、ぬえは「懺法」の上演でこれが演奏されたのは未見)、観世流小鼓が『道成寺』の上演の際に演奏するなどの例がある「見掛けの置鼓」などがあります。「置鼓」は笛方の立場からは「鬘ノ音取」とも呼び慣わしていて、「開口」「半開口」以外の「置鼓」は、まとめて「音取置鼓」と略称される事も多いようです。

「置鼓」は、まず笛方が低い調子の「呂リョ」で吹き出し、小鼓だけが床几に掛かります。続いて笛が高い調子の「干カン」の手を吹き、それが終わると小鼓が置鼓特有の手を打ち出します。およそ2クサリの手を打ち終わると、再び笛の独奏となり、またそれが終わると小鼓の独奏。この後は笛が吹く演奏の中に小鼓も加わって、二人の演奏が続きます。おワキが本来「名宣リ笛」で登場する曲の場合は、この演奏の中の特定の手を聞いておワキは幕を上げて登場します。橋掛りを歩んで舞台に入り、謡い出すまでの間を、おワキは笛と小鼓の手を聞きながらそれに合うように歩み方を配慮しなければならず、技術上も至難ですし、大変な習い事であるそうです。

本来「次第」や「一声」など、おワキが大小鼓の演奏に乗って登場する曲の場合は、「置鼓」の演奏が終わったところですぐに笛が「ヒシギ」を吹き、常の「次第」や「一声」の演奏に移ります。この場合は「置鼓」の間はおワキは幕の中でその演奏を聞いていて、「次第」「一声」になってから、常の場合と同じように登場する事になります。今回の『楊貴妃』は本来おワキは「次第」で登場する曲でしたので、このやり方での登場となりました。

今回の「翁付」の『楊貴妃』は本当に特殊な上演の例ですし、また「鬘置鼓」の演奏以外には常の『楊貴妃』とは替わった部分がないので、このブログでの『楊貴妃』の解説はここまでと致します。次回からは「翁付脇能」の作法について、少し解説してみたいと思います。

明野薪能(。。と「狩野川薪能」の関係)

2007-04-13 22:32:00 | 能楽

先週の土曜日、茨城県の筑西市で催された恒例の「明野薪能」(あけのたきぎのう)に地謡としてお手伝いに伺って参りました。雨の予報があったので、残念ながら雨天会場に変更となりましたが、野村万蔵さんの狂言『棒縛』と清水寛二さんの能『巴』そして最後に素囃子『獅子』が上演され、催しの冒頭に地元の子どもたちによる狂言小舞『七つ子』、狂言『しびり』を披露しました。

ぬえが子どもたちを指導する伊豆の国市の「狩野川薪能」と同様、ここも大倉正之助氏が最初に企画を起こし、その後狂言方の野村万蔵さんやそのお弟子の吉住講さんが子どもの狂言を指導して、毎年発表しています。ぬえはほぼ毎年この薪能にお手伝いに参加させて頂いておりますが、薪能はもうじき15周年を迎えるそうで、ありゃ、そんなに長く続いていたのか。月日の経つのは早いもので。。現在は市町村合併で「筑西市」となりましたが、かつては「明野町」という町で、その頃からの長い歴史を誇る薪能です。

そして、この薪能は「狩野川薪能」と同じように地元の子どもたちが参加する薪能であるのみならず、仮設舞台も自前で持っていて、1996年には住民参加の薪能などが評価されて「自治大臣賞」を受賞しています。

そしてなんと言ってもこの薪能は ぬえに関係が深く、毎年夏に行われる「狩野川薪能」の際に、この仮設舞台の提供・設営のすべてを、この「明野薪能」の実行委員会の方々が、茨城県からはるばる伊豆までお出でになって行ってくださっているのです。

「狩野川薪能」が始まった当初、8年前から、ぬえはその事実だけは知っていたのですが、伊豆の薪能では ぬえは前日から伊豆の国市に入っていても、舞台に出演する子どもたちの世話や稽古の仕上げをしたり、公演当日も準備に忙しく、明野町のみなさんとは毎年、ちょっと挨拶を交わす程度でした。ところが去年は能楽師のスケジュールが合わず、たまたま ぬえはたった一人で薪能の前日に現地に入り、その夜に明野のみなさんの宿舎に表敬訪問(?)をして、親しくお話を伺う機会を得ました。

明野のみなさんは、毎年伊豆の薪能の舞台設営のために、公演の前々日の真夜中から仮設舞台の積み込みを始め、明け方に はるばる茨城県から伊豆に向けてマイクロバスで移動されるのだそうで、いやはや、とんでもない大旅行です。しかも到着して舞台設営をするのですから。。

去年の「狩野川薪能」では、公演前日にはじめてこの大変なご苦労を聞いて、公演会場で当日行われる子どもたちの最終稽古の場で、伊豆の子どもたちに明野のスタッフのみなさんに「ありがとうございました。今日はろしくお願いしま~す」と挨拶をさせました。8年も続いてきた「狩野川薪能」で、この挨拶を一度もしたことがなかったのは、事情をよく知らなかった ぬえの責任ですね。遅ればせながら、このご挨拶は毎年続けなければなるまい。

そして今年の「明野薪能」。公演終了後のパーティーで、久しぶりにお会いした明野のスタッフのみなさんと親しくお話することができました。伺えば、スタッフはみなさん、大工さんや設備屋さん、測量士さん、左官屋さん、鉄骨屋さんなど技術者集団なのだそうで、ははあ、それでスタッフの方が舞台設営までなさるのね。いや、普通は薪能の実行委員会というものは主に経理や宣伝、能楽師や関係者との交渉などの事務仕事をして、舞台の設営は専門の舞台美術の業者にお願いするのが普通。。というか、そういう例しか ぬえは知りません。ところが「明野薪能」は事務も、舞台設営も、すべてスタッフの手作りなのそうで。それは素晴らしい事だと思うけれど、苦労も並大抵ではありませんですね。。

今年の伊豆でも、どうぞよろしくお願い申し上げます~。m(__)m

研能会初会(その32)

2007-04-12 00:01:27 | 能楽
『翁』についての説明【補遺】

※上記は ぬえが所属する観世流の上演の形式を記したもので、流儀により上演の演式は異なる場合があります。とくに下掛リのお流儀(金春・金剛・喜多)では、「千歳」を狂言方が勤め、この「千歳」が「面箱持ち」の役を兼ねます。

※「千歳之舞」のうち最初の舞(「一之舞」とも称する事がある由)は、小鼓が三拍子で打ち続ける、とっても特殊な手配りの舞です。
 ヤ ● ハ ○ 、 ヤ ● ハ ○ …

「三拍子」と言うと分かりやすいのですが、ぬえは小鼓で『翁』を習ったときに「…それではここは三拍子で打つのですね?」と小鼓の先生に聞いて、叱られた事があります。「三拍子じゃないっ」…すなわち「三拍子」というのは西洋音楽のリズムの捉え方で、小鼓の稽古ではあくまで、どのように打ち、どのように間を空けるのかを口伝として習うのです。事実上、やっぱりこの舞の手配りは「三拍子」に違いないとは思うのですが、「三拍子」と言ってしまった途端に、心で間を取るその「呼吸」という、最も大切なことから離れて行ってしまうのですね。

そう言えば、小鼓の大倉流だけはこの最初の「千歳之舞」の手配りは特殊な間合いで打たれます。あれはまさに口伝でしか伝えられない間でしょう。あえて記せば「三拍子より長く、四拍子よりも短い」という、本当に特殊な間で、あの間合いで長い時間、三人の小鼓が息を合わせて打たれているのは驚き。まさに稽古の賜でしょう。

※三番叟の直垂の袖について。これはあまり注目されていない事かもしれません。三番叟が舞う「揉之段」と「鈴之段」には、前者が直面で舞われ、後者が黒式尉の面を掛けて鈴を持って舞う、という大きな違いがありますが、そのほかにもこの二つの舞には対照的な違いがあるのです。

たとえば「三番叟」は「揉之段」では直垂の袖を返し、巻き上げて勇壮に舞いながら、囃子の掛け声に合わせるような声を掛けながら舞う、というのが一つの特長でしょう。この掛け声にもお流儀による違いがあって、和泉流では「ヤ、ハン、ハ」と囃子の掛け声に近い感じの掛け声をかけ、大蔵流では「イヨーーー、ハ」と声を引き、どちらのお流儀でも要所要所で少し掛け声を変えます。

また「鈴之段」では、「揉之段」とは対照的に、「三番叟」は無言で舞います。さらに特徴的なのは、「鈴之段」の間は「三番叟」は両袖の露を取ったまま舞うのです。シテ方の舞でも「天女之舞」や「千歳之舞」など最初に袖の露を取って舞い始める舞はあるのですが、舞の間中ずっと、というのはほかに例がありません。

※さらに対照的なのは「三番叟」の扇で、「揉之段」では扇は開かれる事はなく、「三番叟」はずっと扇を閉じたまま舞っていますが、反対に「鈴之段」では「三番叟」は拡げた扇を左手に持ち、右手で鈴を振りながら舞うのです。閉じた扇と拡げた扇。袖を返して舞われる舞と露を取ったまま舞う舞。掛け声を掛ける舞と無言の舞。「三番叟」の二つの舞は、様々な点で対照的になるように作られてあるような気がします。

ところで、ずいぶん以前に狂言方の某と話をしていて、「三番叟」が持つ扇の話題になった事があります。彼が言うには、「三番叟」の扇は「翁」と同じ「蓬莱山図」なのだそうで、ところがただ一箇所、「翁扇」とは大きな違いがある、と言うのです。「蓬莱山図」とは、大海に浮かんだ亀が島となって、その背からは老松が生え、鶴がその上空を舞い遊んでいる図柄で、仙境を表す吉祥の図です。「翁扇」では海に浮かんでいる亀をちょうど真横から眺めた図で、頭は左側にあるのが普通。ところが彼が言うには「三番叟」が使う扇は、その亀が「タテに描かれている」と言うのです。「え。。?タテ?」と ぬえは疑いましたが、彼は「三番叟」の扇を見せてくれました。いやびっくり!本当に亀がタテに描かれている。。ちょっと想像しにくいかも知れませんが、その扇は「翁扇」とほとんど同一の図柄で、褄は紺、大海に亀がいて、そして老松も鶴も描かれてありました。ただ、海に浮かんでいるべき亀だけが甲羅をこちらに向けて、まるで海から天に上って行こうとしているかのような姿勢で描かれていたのでした。あるいは老松の幹によじ上ろうとしているのか。。こんなところにも「翁」と少しだけ異なる「三番叟」の姿を垣間見ることができたのでした。ううむ。不思議だ。。

研能会初会(その31)

2007-04-09 01:17:18 | 能楽
「三番叟」と「面箱持ち」との問答が済み、「三番叟」が鈴を受け取ると「鈴之段」となります。今回は『翁』に「法会之式」の小書がついたため、「三番叟」も「陰陽之式」となり、「三番叟」は鈴の替わりに錫杖を受け取って、これを持って「鈴之段」を舞っておられました。鈴を使わないのだから、厳密には「鈴之段」とは言いにくいですけれどもね。しかし、拝聴していた限りでは囃子は常の「鈴之段」と変わらないように思いましたので、「陰陽之式」はお狂言方が独自に習いとする替えの演出なのかも知れません。(もちろん ぬえが聞き逃しただけで、「陰陽之式」独特の替えの手配りや譜があるのかもしれませんが。。

「鈴之段」についても、あまり ぬえには専門的な知識がありませんのですが。。「三番叟」が舞う型には「種下ろし」「種蒔き」「鞭打ちの型」「面返り」といった名称があります。これらの型の名称にも現れていますし、また実際、鈴を振って舞う姿には、たしかに作物の種を蒔く動作を彷彿とさせる部分もあって、「鈴之段」には農耕作業と切れない関係がある事は事実でしょう。「揉之段」にはその名称から想像させるような農耕の印象を受ける型はないので、「揉之段」の「揉」は「籾」の字が変化したのではなさそうです。それでは「揉」の語が意味するのは何なのか。これは今回は調べる事ができませんでした。今後の宿題とさせて頂きます。

また「鈴之段」には「天地人の型」という「翁之舞」の型と似た名称の型があり、さらに「三番叟」は「翁之舞」と同じように「天の拍子」「地の拍子」「人の拍子」を踏みます。面白いのは、(流儀や家によっても違いがあるのでしょうが)「翁」とは逆の足から拍子を踏む「逆天地人の拍子」というものまであり、足拍子にも「ヌキ拍子」など技術的に特殊なものまであるようです。「逆天地人の拍子」というのは「三番叟」が「翁」の「モドキ」としての意味も持つ、ひとつの証左でもあるでしょうか。

「鈴之段」は非常に緩やかなリズムから始まり、それが次第に高潮していきます。笛は「ホン、ホヒ トウロ」という独特な譜を繰り返し繰り返して吹き(ところどころに手もあります)、これがまた「鈴之段」を印象づけています。「鈴之段」の後半はかなり急調になりますが、なんと言ってもクライマックスは、「三番叟」が両手を大きく拡げて鈴を振り、笛方も「ヒ、ヒーウーー、リウヒ」と甲高いヒシギ系の譜を吹く場面でしょう。これを「鈴クダキ」と言います(流儀によってはとくに名称をて呼ばない場合もあるらしい)。ここは本当に拝見していても心が躍るような気持ちになりますね。祝言性も溢れて、まさに『翁』一番を締めくくるのにふさわしい、躍動感溢れるクライマックスと言えます。

「鈴クダキ」が済むと「鈴之段」は終わりで、囃子方もリズムを崩して「三番叟」も鈴を細かく振って、そして笛のヒシギで「鈴之段」は終わります。「三番叟」は面箱の前に進んで、「翁」と同じように「黒式尉」の面を自分で紐を解いて面箱に納め、立ち上がって(「翁」のような「拝」はしない)幕に引き、これで『翁』の上演はすべて終わることになります。

『翁』だけが単独で上演される場合(現在はほとんどの場合はこれ)は、これにて囃子方は床几より下りてクツロギ、素袍の肩を入れ、常のように笛から先に立ち上がって幕に引きます。この時に同時に地謡も切戸に引くのが本来なのですが、『翁』だけの上演の際は、後半の「三番叟」では地謡の出番がないので、「翁帰り」が済み囃子方が「揉出し」を打ち始めると、すぐに切戸に引いてしまう事も多いです。シテ方は次の能の準備に取りかからなければなりませんので。。

ただ、今回のように「翁付」と言って、『翁』のあとに引き続いて脇能を上演する場合は、囃子方のうち脇鼓の二人だけが幕に引き、地謡は囃子方の後ろから本来の地謡座に移動して着座して、服装こそ素袍だけれども、常の能と同じ作法で脇能を上演することになります。

研能会初会(その30)

2007-04-06 10:43:28 | 能楽
「三番叟」と「面箱持ち」との問答は、現在の通常の『翁』(観世流では「四日之式」)では「三番叟」が舞を舞うのと、「アドの大夫殿」すなわち「面箱持ち」が「元の座敷に直る」事の順序を譲り合う、という内容のもので、現在はこの演式を何と呼ぶのか ぬえは不勉強にして知らないのですが、古い伝書類には「本座」という名称で記されています。そしてこの演式は、かつて何日間かに渡る日数能の各日の冒頭に勤められる『翁』では初日に演じられる決まりになっていたようです。

二日目以降は問答の内容が替わり、二日目には「烏帽子の祝儀」、三日目に「子徳人」、四日目に「田歌節」という演式の問答が行われていました。それぞれの問答の内容は以下の通り。

二日目の「烏帽子の祝儀」は「烏帽子」とも言われ、「三番叟」と「面箱持ち」が「翁」「千歳(と囃子方)」「三番叟」がそれぞれ着ている烏帽子の名について問答を交わす、というもの。

三日目の「子徳人」は別名「子宝」と言い、「三番叟」が「自分は十人の子を持ち、その区別のために名をつけた」と、面白い名を次々に述べるもの。その部分は囃子掛かりだったらしく、拍子に乗って面白く名前を連呼したのでしょう。

四日目の「田歌節」は「田歌」とも言われ、「三番叟」が「面箱持ち」を呼び出すのに拍子にかかって呼び出す、という演出。狂言の『呼声』などに「平家節」「小唄節」などという拍子掛かりの種類が出てくるから、「田歌節」もその一種なのでしょう。

ただし「四日目には初日と同じになる」と記す伝書も多く、これは観世流が日数能で「初日之式」「二日之式」「三日之式」「四日之式」と少しずつ演出を替えて上演される『翁』が五日目以降は「四日之式」を繰り返し演じた、という事実とほぼ符合します。

ところが問題なのは、歴史的にこの問答の演式が演じられる順番が変動してきた、という点なのです。

四日目に演じられる「田歌節」は、江戸期以前には二日目に演じられていたが、比較的新しい成立と考えられる「烏帽子の祝儀」が二日目に演じられるようになると、次第に上演される日が後退していった事がわかってきています。また江戸初期までは「鏡宿」「作り道」など、上記とはまた違った様々な問答が上演されていました。かつて「三番叟」が「翁」のモドキとして祝言とともに滑稽味を舞台に加える役割も果たしていた頃には問答の形式も もっと流動的で自由なものだったのが、江戸時代に『翁』自体が儀式性を増し、儀礼的になるにつれて、「三番叟」も滑稽味を排して祝言性を増していった結果と考えられています。

世阿弥も『申楽談儀』に「三番申楽、をかしにはすまじきものなり。近年人を笑はする、あるまじきこと也」と書いていますが、これは足利義満に見いだされ、庶民が楽しむ芸能だった能を貴人の鑑賞に耐えるレベルに改革することを目指して連歌などを学び、能の芸術性を高めた世阿弥の立場としての発言である事を考えれば、大いに吟味すべき発言でしょう。

研能会初会(その29)

2007-04-05 01:06:50 | 能楽
今日は朝から薪能の申合と新作能の稽古に参加し、午後からは国立能楽堂の地下の図書室に行って資料調べをしておりました。うう~、コピー代が1,500円になっちゃったい。今どきコピー1枚20円は高いな~。。もう少し安くなりませんかね~。。(;_:) 。。と言っても20年前からこの値段なワケだが。

で、だいたい欲しい資料のコピーを取りそろえた夕方5時。図書室が閉まる前に、何気なく開架の雑誌(最新号)を手にとって眺めていたら。『金春月報』の最新号に『翁』についての記事が載っていました。はじめは「ををっ、ブログに連載している話題にちょうどリンクして、なんてタイムリーな記事を見つけたんだろう」と思った程度だったのですが、読んでみるとこれがまた。独自の視点と調査を行っていて、とっても興味深い内容でした。ちょうどこのブログでも前々回に黒式尉の面や「モドキ」について考えてみたところでしたが、この記事はそれとも関係して、しかもとっても刺激的。今回はこの記事をご紹介させて頂きます。

拝見したのは「願掛けの翁舞(二)」という記事で、著者は宮本圭造氏(大阪学院大学助教授)です。

内容はこんな感じ。。

金春家にはかつて「おそろし殿」と呼ばれる面があった(注・現在の所在については言及なし)。各家に伝わる伝書によれば、この面は聖徳太子が天より降らせ、金春家に賜った面と伝えられ、様々な神変奇特を起こす不思議の面であった。金春家では「天之面」と呼び、箱に厳重に収め、〆縄を張って丁重にお祀りしていた。かつては金春屋敷の土蔵の三階に祀られ、百日の精進潔斎を経て<翁>の伝授を受けた金春大夫のみが、一代に一度だけ拝見することを許された。

宮本氏は金春禅竹の『明宿集』に“翁面と鬼面を一対に祀るべき”と記されている記事に言及されて、この面は追儺面に近い「鬼の面」であろう、と推測され、「丁重にお祀りすれば人々に現世利益をもたらす大慈大悲の神も、ひとたび疎かにすればたちまち障碍をなす荒ぶる神へと変成する。そうした翁の二面性は、(中略)猿楽者の共通理解であった。ゆえに猿楽者は翁面を御神体として丁重に祀り、翁を舞う時にも精進潔斎を怠らなかったのである」と考察されます。(国立能楽堂の図書室の規定で雑誌の最新号はコピーが取れないため、ぬえは閉館時刻と戦いながら、筆写しました。。誤写があったらゴメンなさい)

このほかにも翁面が起こす奇特の伝承を、宮本氏は次々に紹介されます。

夜な夜な光を放ち、どこからともなく翁の謡の声が聞こえる春日作の翁面。
一向一揆の際に農民によって掠奪されたが、村人が粗末に扱うと村に疫病が流行り、これを恐れて川に流したところ、下流の民が拾い上げて丁重に祀ったところ、疫病は止み瑞祥が起こった、といわれる越前国の寺の什宝だった翁面の話。

来歴についても、『申楽談儀』に見える、カラスが上空から落とした事により近江猿楽山科座に伝えられた翁面の話。
夢の告げによって干上がった池の中から拾い上げられて紀伊猿楽貴志大夫の所伝となった翁面の話。

元暦年中の干ばつの際に金春座の年預の幸王大夫が翁面を鬚を海水に漬けたところたちまち大雨が降り、帝から「王」の一字を賜って幸王大夫と名乗るようになった、という話。
開けると洪水になるから、という理由で箱から出されず、現代に至るまで誰もその中身を知らない「ぐり面」と呼ばれる、滋賀県の元・猿楽者の家に伝わる面。。。

ちょっとホラーでもありますが、こんなに興味深い伝承が各地に伝えられていたとは。。『翁』の別の側面を垣間見た気分です。興味がおありの方はぜひご一読をお勧め致します。

研能会初会(その28)

2007-04-03 15:39:51 | 能楽
現在通常行う『翁』(観世流では「四日之式」ですね)の場合、「三番叟」と「面箱持ち」との問答は、「色の黒い尉」が「アドの大夫」に挨拶をし、めでたく舞を所望されると、舞を見せることと「アドの大夫」が座敷に直る事との順序を譲り合い、座敷に直る事が先に決すると「アドの大夫」は「三番叟」に「さあらば鈴を参らせ候」と鈴を手渡す、というものです。「アドの大夫」という言葉には引っかかるものの、脚本としての意味は取り立てて重要なやりとりではなく、「三番叟」が舞を舞うこと、三番叟が鈴を持つことが説明される程度です。どちらが先に何かの仕事を行うか、と順序を言いたてるのは狂言にはよくある例で、『道成寺』の間なども同じ趣向ですね。

ところが今回は『翁』に「法会之式」の小書が付いたため、「三番叟」は鈴ではなく短い錫杖を持って舞い、この部分の問答も「さあらば錫杖を参らせ候」と替わりました。しかし、狂言方の古い伝書を調べてみたところ、「法会之式」以外の『翁』の小書「初日之式」「二日之式」「三日之式」の場合であっても問答の内容が替わる事がわかりました。そしてまた、その替わる文句も時代によって異同があるのです。

まずは今回の研能会初会の「法会之式」で錫杖が使われた事について。

じつは先日、某囃子方から教示を受けまして、それによれば、あの「三番叟」の演式は「陰陽之式」と言うものなのだそうで、やはり『翁』が「法会之式」で演じられる場合に行われる演式なのだそうです。そしてそれを裏付ける伝書をいくつか発見できました。「法会之式」は前述のように多武峰猿楽独自の『翁』の演出だったもので、これを観世流の現行演出に取り入れたのは観世元章です。そして、調べたところ元章の伝書『九番習』の「法会之式」には注記として「三番叟ハ錫杖之式也」という記事がありました。

また廃絶した狂言鷺流の伝書には「陰陽三番三」として、「法会之式」の際に「三番三」が錫杖を持って舞う際の「三番叟」と「面箱持ち」との問答が記載されてあり、そこには「三番三」がなぜ錫杖を持つのか、その由来を「三番叟」が語リを謡う演出が載っています。興味深い記事なので以下に掲出します。

陰陽三番三 〔錫杖ニテ舞フ。法会杯ノ時相勤ル〕

(前略)
三番三「今日の御祝儀の鈴の段を、珍らしう錫杖にて舞ふと存るが、いかにと候べし」
千歳「夫ハ兎も角もにて候。夫ながら錫杖にて御舞有ても苦しからぬ謂バし候か」
三番三「御不審尤もにて候。夫に付目出たき子細の候。語て聞せ申さふずる。
「先我朝ハ天地開闢より神国なり。夫に付、神道と仏道とハ車の輪のごとし。去れバ神躰様々有る中に、中にも神楽を奏する事ハ天の細女の尊の舞初て、日月明に納る御代となし給ふ。其猿女君の鈴は十二輪なり。又仏法には六輪なり。此六輪とは錫杖なれバ、是に依て鈴も錫杖も同前なり。又錫杖は虚空を形どりて大輪とし、杖をもって定とす。彼六輪と申ハ仏の六波羅密を表し給ふ。故に鈴を振り錫杖を振ならし振ならし、御祈祷あれバ、上は梵天帝釈四大天王、焔魔法王五道の冥官、山野江河の鱗までも、錫杖の音を聞、悦勇ミ申さずと云事なし。殊に悪魔外道も納受たれし故、災難さり、一段目出度御祈祷なれバ、今日の鈴の段を錫杖にて舞ふずる間、先雇の大夫殿ハ、元の座敷へおもおもと御直り候へ」
千歳「左あらば旁の仰に任せ、元の座しきに直らふずる間、急で御舞候へ
三番三「心得申候
〔此時後見ヨリ錫杖ヲ渡スナリ〕

誤解のないよう申しておきますが、先日 ぬえが拝見した「陰陽之式」ではこのような語リは入らず、「三番叟」と「面箱持ち」との問答は普段の『翁』で聞かれる問答とほとんど同じで、ただ一句「さあらば鈴を参らせ候」だけが「さあらば錫杖を…」と替わったのです。

鷺流のこの「陰陽三番三」では「三番三」が錫杖で舞う事を提案して、「千歳」にその謂われを尋ねられるもので、錫杖も「千歳」が渡すのではなく後見から。つまり「三番三」があらかじめ錫杖を用意していた、と思われます。鷺流は観世流の座付きの狂言方であり、この「陰陽三番三」が多武峰猿楽の古態をとどめているかどうかは不明で、あるいは元章によって「法会之式」が観世流に導入された際に新作されたとも考えられます。「陰陽之式」といってもいろいろなやり方があるのですね。

研能会初会(その27)

2007-04-02 00:15:33 | 能楽
「千歳」と「揉之段」、「翁之舞」と「鈴之段」。それぞれまったく異なった印象の舞ではありますが、それらが戯曲。。というか『翁』という「儀式」の中で、それぞれ呼応した存在だ、と捉えられるのは、なんだか不思議。

ここで考えるべきなのは、「三番叟」は「翁」の「モドキ」である、という考え方なのです。これについて ぬえは聞きかじりの事しか書けませんですけれども。。

「モドキ」なんて言うと、なんだか「似非ごと」「マネ」のようにネガティブなイメージを我々はつい思いがちですが、じつは日本では本来「モドキ」というのは決してマイナスなイメージのものではなく、かつ日本文化を特徴づける重要な要素であるらしい。このへん、ぬえも傍証を提出できれば良いんですけれども、たとえば現代に受け継がれている能も、そもそもは興福寺などの寺社で行われていた「翁猿楽」に引き続いて演じられた、物まね芸としての猿楽が発展した、という能の歴史からも「モドキ」の一つの例が窺えるかも知れません。

『翁』はかつては猿楽役者ではなく「年預」と呼ばれる「翁」専門の役者によって演じられていて(奈良では明治維新まで年預が『翁』を勤める習わしだった)、猿楽の役者は長く『翁』を舞う権利を持っていなかったのです。今でも『翁』の事を「能にして能に非ず」と言ったり、番組にも『翁』だけはその前に「能」と但し書きを入れない慣習は、そんな事情から起こっている事なのかもしれません。寺社での祭礼に際して『翁』が神を勧請する儀式であるならば、それに続いて演じられる脇能は「神」の存在を祭礼に集った民衆にビジュアルとして実感させる効果があったにしても、『翁』に比べればはるかに劇的でしょう。脇能に登場する「神」は猿楽役者が扮している、という約束の下に演じられるもの、と言えるかも。

「年預」という神職に近い人々が『翁』という儀式において「翁面」に仮託した「神」、実体の見えない「神」を祭礼の場に勧請し、そのあとに「猿楽役者」が脇能という劇によって、神の存在を民衆にリアルに実感させる。。そんな構図が成り立つとすれば、脇能以下の猿楽そのものが、『翁』の一種の「モドキ」とも捉えられる可能性があります。

神体としての「面」を入れた面箱が、それについての説明がまったくなされないままに荘重に舞台に運び出されて、大夫が「翁面」を依代のように扱う『翁』に我々が感じる、言いようのない神の存在感のようなものと、前場で主に寺社の来歴や神の威光を具体的に描いていったあげくに、後シテで「神」を舞台に登場させる脇能とは対照的。『翁』を前にして、脇能には「劇」を感じるのは ぬえだけでしょうか。

そして能は、脇能に引き続いて修羅能・鬘能。。と「神」を離れて「人間」を描いてゆきます。『翁』~脇能という上演の流れの中で、その場に集った民衆は「神」を身近に感じながら、その威光に守られている、という安心感の中で祭礼を楽しむ事ができる。。言うなれば「モドキ」は実体の見えない「神」を民衆に実感させ、そして次第に一体感を持たせるための「橋」のような仕掛けなのかもしれませんね。

そしてまた、興味深い事実があるのです。これはずっと以前に能面研究家のG氏に聞いたのですが、「三番叟」が掛ける「黒式尉」の面というのは、時代が古いほど、くだけた、一種 滑稽な表情に作られているのだそうです。そして時代が新しい面ほど整った表情になっている。「これはね。三番叟というのはもともと翁のモドキだからなんですよ」。。G氏が語ったその言葉で、そのとき初めて ぬえは「もどき」という考え方がある事を知ったのです。原初の能の姿は、現在では窺うすべもありませんが、当初の能が『翁』の「モドキ」として発展していったとすれば、江戸期以降の式楽化の流れの中で次第に『翁』から「滑稽味」が排されていって、その中で「黒式尉」の面も「式楽」としての品位を求められて表情が洗練されていった。。そして『翁』と能の「モドキ」の関係、そして『翁』の中にも「翁」と「三番叟」という「モドキ」の関係があるとすれば。。「モドキ」の二重構造がある事になります。

そしてまた、『翁』が時代に従って演出面でも洗練されて行ったであろう痕跡は、「三番叟」と「面箱持ち」との問答の内容からも推察できるのです。

研能会初会(その26)

2007-04-01 01:34:09 | 能楽
それでは狂言では舞台上で面を掛ける曲はあるのでしょうか。そして、あるとするならば、どのような意味を持つのでしょうか。

じつは、お狂言では舞台の上で面を掛ける曲はたくさんあるのです。それも能とはだいぶ様子が違っていて、たとえば能では「物着」と言えば通常は後見座にクツロいで行うものですが(そして前述のように能の「物着」で面を掛ける例は絶無なのですが)、同じように後見座にクツロいで、そしてそこで面を掛ける例として『清水』が思いつきます。

『清水』のあらすじは、主に茶の湯の水を清水に汲みに行く事を命じられた太郎冠者が、それを嫌がって、鬼が出たと嘘を言って逃げ帰ったところ、主は秘蔵の桶を失ったのを惜しんで清水に様子を見に行く。困った太郎冠者は鬼に扮して先回りして主を脅して。。というもの。このときシテの太郎冠者は、アドの主が清水に向かう間に後見座にクツロいで武悪の面を掛け、その後も太郎冠者に戻るとき、再び鬼に扮装するとき、と、いずれも後見座で面を掛けたり外したりします。

この場合の「物着?」は、「変身」ではなくて「扮装」するのであって、その中身が太郎冠者であることは変化しないのだから、「三番叟」の「物着」とは大きく意味が異なる、と考えてよいでしょう。

ほかにお狂言で、舞台で面を掛ける曲は。。あとは ぬえが思いつくのは『仏師』と『六地蔵』ぐらいなもの。。勉強不足でお狂言方から怒られてしまいそうですが、ぬえ、じつはあまりお狂言のお舞台をしげしげと拝見した事がなくて。。言い訳がましいですが、お狂言がお舞台を勤められておられる時は、シテ方である ぬえは大概 次の能の準備~シテやツレの装束の着付けなど。。~をしている事が多いのです。

そこで、昨日 とある催しの楽屋でお狂言方の友人に聞いてみました。「舞台で面を掛ける曲って、ほかにどんな曲があったっけ? なかんづく後見座で面を掛けるのは?」。。いつも楽屋で三役の友だちをつかまえてはこんな事を突然聞く ぬえ。さぞかし迷惑だろうなあ。

質問された彼も、急に聞かれて「ええっと。。舞台の上で、なら。。『伯母ヶ酒』、『簸屑』『ぬけから』。。ほかには何があったかなあ。。」と。演出上の分類みたいな事なのに、とっさにこれだけ思いつくんだから彼も立派。『簸屑』は和泉流だけにある曲です。調べたところ、『伯母ヶ酒』は酒を商う伯母に振る舞い酒をするために甥が鬼に扮して脅す、という『清水』に似た趣向の曲で、『簸屑』と『ぬけから』は、どちらも眠り込んだ太郎冠者が悪戯されて武悪の面をかぶせられ、目が覚めて自分が鬼になったと勘違いする曲。『仏師』『六地蔵』は田舎者を詐欺に掛けるために すっぱが仏像になりすます、という曲です。

こう見ると、お狂言では舞台で面を掛ける際には、それはすべて「扮装」ですね。中身の本質が変わるわけではない。やはり「三番叟」の「物着」とは意味が異なるようです。

「三番叟」も一見、一人の役者が直面で「揉之段」を舞ってから、面を掛けて「鈴之段」を舞うように見えるけれど、面を掛けたあとの「三番叟」が「面箱持ち」との問答で「この色の黒い尉が、今日のご祈祷を千秋萬歳目出度いやうに舞ひ納めうずる事はやすう候」と言っているので、この二つの舞を舞う役は「別人」と考えた方がよさそうです。

そして「揉之段」を舞い終えた「三番叟」が無言で後見座にクツロいで静寂の中で黒式尉の面を掛け、そしてその後舞台に再登場すると、まるでたった今初めて登場したかのように「面箱持ち」に対面し、さらに「揉之段」をすでに舞った事への言及もまったく行われないままに「面箱持ち」に舞を所望される。。戯曲としては少々不自然とも思えるこの舞台進行は、かつて「揉之段」と「鈴之段」が二人の別の役者によって分担されて勤められた事を想像させます。

じつは学究の方面ではこの事は早くから指摘されていて、「揉之段」は「鈴之段」の「露払い」的な位置を占めて、(おそらくは)若者によって舞われたのではないか、と考えられています。ちょうど「千歳」と「翁」と呼応する構図で、言うなれば「翁」の中で行われた事が「三番叟」で舞台上に再現されている、とも考えられるのです。