数年ぶりにパソコンを買い換えて、や~~~~っとXPになりまひたっ(←いまさら。。)。(~o~)/
それまでずっとMeだったんだもん。いやいや おっさんには新しいキカイはよくわからんわい。
さて『隅田川』。実際の舞台面を見てみましょう。
囃子方のお調べが終わり、橋掛りからお囃子方が、切戸口より地謡が登場してそれぞれ所定の位置に着くと、後見によって小さな塚の作物が幕の中から運び出され、大小前に据えられます。塚の上は榊の枝で葺き、正面と側面には柳の枝が何本か下がっています。
この作物を舞台に出すという演出は本当にうまいと思いますね。『隅田川』という題名の能なのに、最初に舞台に登場するのは陸にあるべき塚。それもワキの渡守が登場するところから舞台は川岸になり、その後の展開で川の上を渡る船中になり。その間、舞台にいる誰もがこの塚を無視し続けます。舞台をご覧になっているお客さまにとっては、「あれは何だろう?」という疑問がずうっとついてまわる事になります。それは渡守の、その役柄に似合わない重厚な名宣リや、その中で述べられる「この土地で大念仏が行われている」という、春うららの季節に似つかわしくない説明(ただし下掛り宝生流のおワキでは名宣リの中で大念仏には触れない)、そして登場する狂女という、どうも ちぐはぐなもの、この能に横溢している不安定さと相俟って、お客さまに言い知れない不安感を与える事になります。
余談ながら、東京に生まれ育った ぬえは、母がこの能の舞台になった隅田川の近所の出身だったり、その関係で現在も親戚がそこに住んでいたり、と、子どもの頃から隅田川には慣れ親しんでいました。だから ぬえ自身はあまり感じないのですが、東京や関東以外の人にとっては、分けてもこの能が作られ、演じられた昔の京都やその周辺の人々にとっては、この能の題名の『隅田川』という名前も何というか不吉、とは言わないまでも、聞き慣れない不安定な響きだったのではないかなぁ? と思ったりしています。
もちろん、当時の能の観客にとって「隅田川」は『伊勢物語』によって知られていた地名だとは思いますが、『伊勢』に登場する隅田川は、地の果ての いわば異境のような場所で、ここで見つけた鳥を「都鳥」と呼ぶと知った業平一行は望郷の念にむせび泣くのです。そういう「負」のイメージも「隅田川」にはあっただろうし、その語感も「鴨川」や「桂川」などという、趣のある名前とはちょっと異質。そして当時の観客がまったくストーリーを知らされないでこの能を見たのだとしたら、これはその内容を『伊勢』と結びつける以外にイメージの持ちようがないでしょう。そこに登場するのは、その期待感をまるっきり裏切るような「笠をかぶった女」。。
「笠」については後に詳しく触れたいと思いますが、ぬえはこの能にはいろんな「仕掛け」が施されていると思います。
あるいは十郎元雅はそこまでの舞台効果を意図してこの川の名前をタイトルにつけた訳ではないかも知れないけれど、この曲の題名は『百万』や『班女』のように、登場するシテの母の名前でもよかったはずだし、あるいは彼女が探し求める子の名前でも差し支えはなかったはず。そして作物が能の脚本の中で必要になる後半ではなく、能の冒頭に出されるのも、それが後半になってから(舞台が隅田川の対岸に移ってから)出したのでは舞台の進行が途切れてしまうから、という現実的な理由も考えられるのだけれど、あえて冒頭に出しておいて、能の結末で観客を驚かせるように最初から仕組まれてこの曲は書かれたのだと思います。だって、母親の眼に子どもの姿が映る、という演出ならば、ほかにもいろいろな方法はあったはずだと思うから。。
【注】今回は6月3日の建長寺・巨福能での上演に際して『隅田川』という曲を考えてみたいと思います。読者の方の中には建長寺で初めて『隅田川』をご覧になる方もあろうかと思いますので、あまり事前に「ネタバレ」な事は書かないようにしたいと思います。もしもコメントをされる方がありましたら、やはりその辺はご注意願いたいと存じます~
それまでずっとMeだったんだもん。いやいや おっさんには新しいキカイはよくわからんわい。
さて『隅田川』。実際の舞台面を見てみましょう。
囃子方のお調べが終わり、橋掛りからお囃子方が、切戸口より地謡が登場してそれぞれ所定の位置に着くと、後見によって小さな塚の作物が幕の中から運び出され、大小前に据えられます。塚の上は榊の枝で葺き、正面と側面には柳の枝が何本か下がっています。
この作物を舞台に出すという演出は本当にうまいと思いますね。『隅田川』という題名の能なのに、最初に舞台に登場するのは陸にあるべき塚。それもワキの渡守が登場するところから舞台は川岸になり、その後の展開で川の上を渡る船中になり。その間、舞台にいる誰もがこの塚を無視し続けます。舞台をご覧になっているお客さまにとっては、「あれは何だろう?」という疑問がずうっとついてまわる事になります。それは渡守の、その役柄に似合わない重厚な名宣リや、その中で述べられる「この土地で大念仏が行われている」という、春うららの季節に似つかわしくない説明(ただし下掛り宝生流のおワキでは名宣リの中で大念仏には触れない)、そして登場する狂女という、どうも ちぐはぐなもの、この能に横溢している不安定さと相俟って、お客さまに言い知れない不安感を与える事になります。
余談ながら、東京に生まれ育った ぬえは、母がこの能の舞台になった隅田川の近所の出身だったり、その関係で現在も親戚がそこに住んでいたり、と、子どもの頃から隅田川には慣れ親しんでいました。だから ぬえ自身はあまり感じないのですが、東京や関東以外の人にとっては、分けてもこの能が作られ、演じられた昔の京都やその周辺の人々にとっては、この能の題名の『隅田川』という名前も何というか不吉、とは言わないまでも、聞き慣れない不安定な響きだったのではないかなぁ? と思ったりしています。
もちろん、当時の能の観客にとって「隅田川」は『伊勢物語』によって知られていた地名だとは思いますが、『伊勢』に登場する隅田川は、地の果ての いわば異境のような場所で、ここで見つけた鳥を「都鳥」と呼ぶと知った業平一行は望郷の念にむせび泣くのです。そういう「負」のイメージも「隅田川」にはあっただろうし、その語感も「鴨川」や「桂川」などという、趣のある名前とはちょっと異質。そして当時の観客がまったくストーリーを知らされないでこの能を見たのだとしたら、これはその内容を『伊勢』と結びつける以外にイメージの持ちようがないでしょう。そこに登場するのは、その期待感をまるっきり裏切るような「笠をかぶった女」。。
「笠」については後に詳しく触れたいと思いますが、ぬえはこの能にはいろんな「仕掛け」が施されていると思います。
あるいは十郎元雅はそこまでの舞台効果を意図してこの川の名前をタイトルにつけた訳ではないかも知れないけれど、この曲の題名は『百万』や『班女』のように、登場するシテの母の名前でもよかったはずだし、あるいは彼女が探し求める子の名前でも差し支えはなかったはず。そして作物が能の脚本の中で必要になる後半ではなく、能の冒頭に出されるのも、それが後半になってから(舞台が隅田川の対岸に移ってから)出したのでは舞台の進行が途切れてしまうから、という現実的な理由も考えられるのだけれど、あえて冒頭に出しておいて、能の結末で観客を驚かせるように最初から仕組まれてこの曲は書かれたのだと思います。だって、母親の眼に子どもの姿が映る、という演出ならば、ほかにもいろいろな方法はあったはずだと思うから。。
【注】今回は6月3日の建長寺・巨福能での上演に際して『隅田川』という曲を考えてみたいと思います。読者の方の中には建長寺で初めて『隅田川』をご覧になる方もあろうかと思いますので、あまり事前に「ネタバレ」な事は書かないようにしたいと思います。もしもコメントをされる方がありましたら、やはりその辺はご注意願いたいと存じます~