ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第19次支援活動<気仙沼市>(その4)~気仙沼内湾のクリスマスイルミネーション

2014-01-30 10:08:15 | 能楽の心と癒しプロジェクト
陸前高田の仮設商店街で夕食を摂ってから、ふと思いついた ぬえは 気仙沼に行ってみることにしました。それはちょうどこの時期 気仙沼の内湾地区で実行委員会「ONE-LINE」の主催によりクリスマスの時期からのイルミネーションが灯されていたからなのです。じつは今回の活動では気仙沼市に入る前に、ちょうどよい時間に仙台を通過する予定だったので、有名な仙台のイルミネーション「光のページェント」を見に行こうか、という計画も考えていました。ところがスケジュールを立てているうちに、未明に東京を出発して、仙台の通過は昼頃、という予定に変わってしまって。。これまた東北地方で活動を始めて3度目の冬になるのに、「光のページェント」はまたしても見ることができない、ということに。。考えてみれば、これまた有名な仙台の七夕まつりも見ていないな~。

そんなワケで、陸前高田市からは30分以上かかる道のりですけれども気仙沼内湾に行ってみることにしました。笛のTさんはお疲れで休みたい、とのことで一人で運転して気仙沼へ。連絡を取り合って、翌日の活動のお手伝いをしてくださる気仙沼市民の村上緑さんがご案内くださる、とのこと。あらうれしい。

緑さんをご自宅までお迎えに行き、オススメの場所、というので港のすぐそばの高台に建つ気仙沼プラザホテルのエントランスに行ってみました。ををっ、聞きしに勝る美しい眺め。

これは、港の岸壁に沿ってずうっとLEDランプを張り巡らせただけではなくて、目立ついくつかの建物もイルミネーションで飾り立てているようでした。付近の商店ビルなど自主的にこの時期に合わせて飾る方もあるのでしょう(実際、被災地区の中に派手な電飾をすることで有名になっている商店がありました)。



暗くてピンぼけでごめんなさい。これは教会。。というよりチャペルですね。気仙沼の被災地区から大川を渡ったすぐ川のほとりにある「ゲストハウスアーバン」という結婚式場の施設らしい。大川は震災のときに津波が遡上して氾濫、付近では相当な被害が出ましたから、この結婚式場も無傷ではないはずですが、このときは豪勢にイルミネーションで飾り立てられていました。チャペルはこの結婚式場とはちょっと離れている、気仙沼女子高やホテル望洋の付近の高台に建っていますが、輪郭だけを品良くLEDランプで浮かび上がらせていました。

イルミネーションの資金は募金によって支えられているそうですが、それにしても照明の総延長はどれくらいになるんだろう。飾り付けを考えても気の遠くなるような作業だったはずで、なんだか気仙沼の市民の勢い(これは折に触れ良く感じることです)が身近に感じられるような気分でした。次の年末はこのイルミネーションを背景にして能を舞いたいな。

さて緑さんをご自宅まで送って、すでに陸前高田の宿の入浴時間は過ぎていたので、気仙沼の銭湯「亀の湯」に行こうと思ったのですが、残念ながら休業でした。代わって、こちらも日帰り温泉のサービスを何度か利用させて頂いているホテル観洋に行きました。フロントで聞けば日帰り入浴の時間は過ぎている、ということでしたが、ご親切にして頂いて、入浴させて頂くことができました。

ここで考えて、翌日。。大晦日の仮設での活動の終了後も、やはり宿では入浴できないので、このホテル観洋さんに相談してみることにしました。お風呂から上がって、再びフロントに行き、プロジェクトの活動についてお話しして翌日の入浴についてお願いしてみると、協力して頂ける旨大変心強いお言葉を頂きました。とはいえ翌日の活動は唐桑地区で、ホテル観洋さんがある気仙沼内湾地区は陸前高田の宿とは正反対の方角。。しかも活動の疲れもあるだろうから、メンバーは入浴はあきらめてすぐに宿に直行して眠りたい、と考えるかも。ですから、お願いしておいて甚だ失礼なのだけれども、そのような事情も説明申し上げて、翌日の活動終了の時点でメンバーの意向も聞いて、改めてホテルにご相談させて頂くことに致しました。

宿に帰るともう深夜近く。東京で用意しそこねた、装束の着付けに使う糸針を宿の部屋で作って就寝しました~。



第19次支援活動<気仙沼市>(その3)~陸前高田市に宿泊

2014-01-27 01:45:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
この日から2泊させて頂く陸前高田市・矢作にある鈴木旅館さんは、あとで聞けばこのあたり。。のみならず気仙沼でも有名な温泉旅館さんでした。到着したときにも駐車場には車がいっぱい。

でも、宿泊客は少ないようでした。日帰り温泉として人気があるのかも。奇跡の一本松がある「高田松原」は気仙沼市民の海水浴場として人気があったとも聞きましたし、高田というところは気仙沼から見るとちょっとしたリゾートのような街だったのかも。

ところで今回は大晦日~元日にかけての活動ですが、活動スケジュールが固まってきたところで宿泊の予約を始めたところ、これが大苦戦で、かなり困りました。まず気仙沼市内の旅館はどこも満室で宿泊は不可。。どうも復興のための土木業者さんの宿舎として使われているようなのですが、まさか大晦日まで満室とは。そのうえ、いつも気仙沼での活動の際に泊まっている常宿さんに連絡を取ったところ「年末年始は休業です」とのこと。ああなるほど、せっかくのお正月ですもんね~。。(×_×;)

そんな事で、宿が決まらない最悪の状況の中、11月の ぬえのスケジュールは、師家の学校公演の出演で平日はほとんど東京にいない有様。公演地に滞在中にホテルからネットに繋いで、活動の関係者との交渉も進めながら宿の手配に奔走しました。忘れもしない、11ももう下旬になって、学校公演の公演地の北海道から東京に帰る飛行機便を待つ時間に、帯広空港の出発ロビーの片隅に旅客に解放されているLAN端子を発見して。。もうこの頃は宿泊予約サイトに登録している宿は全滅でして、気仙沼の観光協会などのサイトから旅館の一覧を調べて直接宿に電話して予約の可能性を尋ねて。。それも空振りに終わって八方ふさがりの状態でした。ところがこの空港でネットに繋げることがわかったところで、なんとなく気分も切り替わって、気仙沼を離れて近隣の市町村の宿泊施設の検索を開始することに。

一関市。。いやいやどう考えても距離が遠すぎる。。大晦日の活動が夜通しになる可能性があるので、宿は宿泊というよりはむしろ仮眠を取るべき場所だと考えると、気仙沼市内により近い場所でなければ。。ということで陸前高田市に的を絞って検索を開始しました。検索している場所が空港の出発ロビーという公共の場所なので、PCでひとつ宿を見つけては携帯を持って1階に駆け下りて空港の外に出て電話を掛け。。その宿が不可とわかると、また2階ロビーに上がって次の宿を検索。。これが数件も続いて、ついに宿泊OKというお返事を頂いたのが鈴木旅館さんでした。もう、ぬえ、泣きそう。

大晦日の宿泊だからか、食事の支度はできませんよ、とは言われましたが、大晦日には5名にふくれあがる今回の活動の出演者全員の宿泊が可能とのこと。しかも、なんとすべて個室を用意頂けるという、予想以上の好条件で宿を確保することができたのでした。

さてこの日 旅館に到着して、早速宿泊の手続きを進めて。ところが肝心の温泉。。大浴場は夜は21:30までしか利用できないそう。朝は早朝5:30頃から入浴できるのですが、今回の活動は大晦日の深夜におよび、その疲れもあって翌朝は早起きはできないだろうから、どうもこの条件では入浴は厳しいようです。。もちろん募金で活動するボランティアとしてはお部屋にお風呂がついているような高級な宿には泊まりませんので。。

お部屋はきれいでしたが、ゴミ箱もティッシュも、浴衣もタオルもありません。テレビは100円玉入れて2時間ほど見れるヤツ。いや、まあ、宿泊ができただけでも ぬえたちにとっては救世主のような宿なのです。それにこちらの旅館さんは震災後ボランティアを受け入れたり、現在でも近隣にある仮設住宅の住民さんには無料でお風呂を解放していたり、復興に向けて重要な役割を果たしておられるのでした。

夕食をまだ食べていないので、ちょっと休息を取ってから笛のTさんとともに陸前高田の仮庁舎のそばの仮設商店街「希望商店街」に行って食事をし、そこから出演者に宿の設備の状況を知らせました。

第19次支援活動<気仙沼市>(その2)~白鳥うじゃうじゃと幽玄洞と、やっぱり白鳥

2014-01-25 00:10:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
。。そういえば。この11月に陸前高田市ではじめて白鳥を見ました。車で走っていて、後部座席にいた ぬえが、なにやら大きな白い影が車の真上に近づいてくるのを感じて見上げると、巨大な鳥が3羽、車の上を通り過ぎるところでした。

ぬえ「??」。。「ああ。白鳥ですね」と気仙沼市民の運転者。白鳥!?

白鳥って、アレですか? 白くて大きい。。それはもう言ったか。ええと、あの、『みにくいアヒルの子』の、あのグレーの、それは雛か。その、オデット姫が出てきて毒リンゴを食べてジークフリートがキスして。。なんか違うな。。 ともあれ、白鳥って動物園にいる、という理解しかなかった ぬえは野生の白鳥をはじめて見て興奮気味でした。「え? 珍しいですか?白鳥。。フツーに居るし」。。考えてみれば動物園で見るのが普通、野生を見てびっくり、っていう ぬえの方が間違っているのだらう。

。。そうなのか。2年半も東北に通っていながら。。震災から3度も冬を当地で迎えていながら、身近に白鳥がいるのに気づかなかったなんて。。「明け方とか、うるさいんですよー。白鳥」。。そうなのか。

さてこの日、はっと専門店「あらい」さんを出て、笛のTさんと ぬえは一路陸前高田市の宿に向かうだけしか予定がなかったので、「あらい」の美智子ママに付近で白鳥が見れる場所はないか、聞いてみました。「あー、はいはい、ありますよ。その信号を右に曲がって、あとはずうっと真っ直ぐ。すぐに田園地帯になりますから、この時間ならそのあたりにたくさんいますよ」。。というわけで行ってみた。

。。いました。しかも うじゃうじゃと。。白鳥だ。ホントに言われた場所にいましたね。美智子ママが放し飼いにしてるのか?



車から降りて田圃のふちからカメラを向けると。。ぬえを警戒して微妙に後ろ向きに、じりじりと離れて行く様子がかわいい。ちょっと羽ばたいて見せたりしてサービス精神もあるようで。



さてそこから走り出して一関市を通りますが、たまたま猊鼻渓のそばを通ることがわかって、そのまた近所にある鍾乳洞の「幽玄洞」をちょっと見に行きました。前回塩竃や多賀城を見たのと同じように、とうとう活動の空き時間に観光する余裕が!





画像ではよくわかりませんね。地底湖もあったのですが。



こちらは猊鼻渓。この秋に学校公演で訪れた厳美渓と違って、こちらは舟に乗って川下りをしないと渓谷美は見ることができないそうですが、なるほど舟の乗り場には何にもない。。じゃ、いったい何をしに来たのか。

そゆわけで、悔しいのでカーナビを頼りに狭い道を渓谷を下ってみました。





う。。む。。やっぱり北国だな。
なぜか横倒しになったまま放置された車もあり。もう、こういうのはたくさん見てきたから、津波の被害か? とつい思っちゃうのですが、もちろんこちらは海とはまったく離れた山間です。どうしちゃったんでしょうね。

さて段々と日も傾いてきたので宿に向かうことにしました。

でも、いったん気がつくと、あちらの平原、こちらの川の中のあちこちに白鳥が群れているのが目に入ります。ぬえが見ただけでも何十羽。。じゃ済まないだろうな。百羽以上は見たのではなかろうか。



やがて暗くなってきた山道を走って、無事に陸前高田の矢作地区にある温泉旅館に到着しました。


第19次支援活動<気仙沼市>(その1)~登米市で「はっと」と白鳥を。

2014-01-23 22:49:43 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去る12月末、プロジェクトでは年越しの支援活動を気仙沼市にて行って参りました。震災の年の暮れは石巻の仮設で年越しイベントに参加しましたが、翌年末は師家の恒例行事、兵庫県・丹波篠山での大晦日深夜の翁神事に出勤しておりました。今回は2年ぶりの東北での活動として、気仙沼市で受け入れを頂くことができました。初の炊き出し支援を主催して行う、ということで、いろいろな経験も出来ましたし、問題点もわかる活動でした。炊き出しって、本当に大変なのね~。

それから、仮設での活動では初めてピアニストの高橋日出子さんにご出演願って、こちらは同じく10月に東松島の仮設での活動にご一緒願った内野浩乃ちゃんのフルートとともにコンサートを盛り上げて頂きました。おばあちゃんたちに日出子さん、大受けでした~。

翌・2014年の元朝には気仙沼の2つの神社で舞囃子を奉納させて頂きました。初めて訪れた、「お神明さま」として市民に親しまれている、気仙沼内湾を見下ろし、やはり震災の被害を受けた五十鈴神社さま。そうしていつもお世話になっている気仙沼大島の大島神社さまでも宮司さまと旧交を温めさせて頂くことができました。印象深い活動だったと思います~!

【12月30日(月)】

早朝、笛のTさんとフルートの浩乃ちゃんを都内でピックアップ、一路東北へ向け出発。いつもは高速道路の通行料を節約するため深夜に走行することが多いのですが、真冬は路面の凍結が心配なことと、今回は夜行列車で静岡から参戦の浩乃ちゃんをピックアップする必要があったため、早朝の出発となりました。走るほどに明けてゆく空。やっぱり景色を見ながら走るのは良いですね~。

まずは登米市にあるピアニスト・高橋日出子さんのお宅に浩乃ちゃんを届けるのが最初のミッションです。よくご一緒に演奏しているお二人ですが、今回はスケジュールが合わず、翌日の仮設でのコンサートの練習はこの日に日出子さんのお宅で行うことになっていました。

日出子さん宅では、前夜は旧友が集まっての忘年会だったそうで。ハプニングもあったようですが日出子さんはいたって元気。今回の活動のスケジュール表を渡したり、浩乃ちゃんには10月の東松島の仮設での活動をまとめたDVDを渡したり、と事務作業と打合せを済ませて、ちょうどお昼時になったので近所に昼食を摂りに向かうことになりました。

そして連れて行って頂いたのが、登米市の郷土料理である「はっと」の専門店「あらい」さん。



車を停めて店内に入ったとたん、まずは気仙沼でこれまた仮設での活動に協力願った起業家の米倉さんがお食事中なのに出くわしてびっくり!米倉さんは今回もお仕事の都合がつけばご協力願うことになっております。

さて、店内では女将さんと みなさんが顔馴染みのようで。。って、あれ? でも ぬえも、女将さん、どこかで見た方のような。。それは某SNSで登米市のみなさんが画像に写っているのを ぬえも何回か見ているからなんですね~。



元はといえば、笛のTさんが以前に子どもに笛の稽古をつけていたことがあって、その生徒のママさんが、じつは登米市出身の方だった、という経緯があります。去年の2月、気仙沼の「リアスアーク美術館」でプロジェクトの催し「星と能楽の夕べ」公演を行った際に、スタッフとしてこのママさん方や登米市のお友達が多数協力してくださいまして、それはそれは素晴らしい活躍で、公演も大成功に終わりました。こんな事からTさんは登米市でお友達をどんどん増やしていって、ぬえも遅ればせながら。昨年8月にはこのような登米市とのご縁によって、同市にある立派なお舞台での催しも行わせて頂くことができました。

そんなこんなで、ぬえにはSNSを通じて顔だけは知っている、名前だけは存じ上げている、という方がたくさんおられます。「あらい」の美智子ママさんもその一人で、どこかで見た。。どこだっけ。。なんで ぬえ、この方を知っているんだろう。。あああ~~~わかったぁ! という感じでご挨拶。美智子ママも ぬえの事は知っていましたが、それは ぬえと同じくSNSの画像を通してのことで、ぬえはその画像ではたいがい面を掛けているので、名前だけしかご存じなかったらしい。



あー、どうも女将さんの画像は面白いのしか撮れないな。

え~、それやこれやで面白いお姉さん、の美智子ママでしたが、頂いた「はっと」は噂に違わぬ美味でびっくり。小麦粉を練った、要するに「ほうとう」や「すいとん」の仲間だと思うのですが、醤油仕立ての汁仕立ての「はっと」は登米市特産品の「油麩」も入って本当においしかったです。



登米市にはこの「はっと」をモデルにした ゆるキャラ「はっとン」がいまして、かわいいのだろうけども、ちょっとシュールなキャラクターかも。。と ぬえは思いました。



「あらい」さんに「はっとン」の説明が貼り出されているのを発見して、よく読んでみると。。ははあ、帽子は「はっと汁」のお椀、赤いほっぺはニンジン、足はネギだったんですね。。誕生日が8月10日、まではフツーだったけど「体重・・8トン」には笑った。

あれ? くちばしがあるな、と思っていたら、「登米市の鳥=白鳥」からなんですって。 白鳥?

決算報告書(12/9~10)

2014-01-19 00:05:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
第18次被災地支援活動(2013年12月09日~10日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 228,137円
     前回活動繰越金(ギエ扱い) 32,500円
     直接頂戴した募金3件(ボラ扱い) 25,000円        収入計  285,637円
                           内訳:ボラ 253,137円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉
    ◎交通費        45,270円
     (スタッドレスタイヤレンタル代  14,150円)
     (ガソリン代            8,475円)
     (ガソリン代            8,095円)
     (高速道路通行料         14,550円)
    ◎宿泊費    3,000円
     (2人×1泊            3,000円)       支出計   48,270円

 【収支差引残額】                         残額    237,367円
                          内訳:ボラ 204,867円 ギエ 32,500円

※注※
・今回活動前後に「ハシモト」さまより2件、「Pao」さまより1件計25,000円の募金を頂いた。プロジェクトの活動にかかる資金は主に募金によって賄われている。プロジェクトの活動にご理解を頂き、ご支援を頂いた諸兄には、改めて深謝申し上げます。
・「ボラ」とはプロジェクトの活動費用に充てる事ができる資金。「ギエ」は募金者希望により被災地への直接的支援のために使途を限定する資金。ただし「ギエ」についてはすでに一定の役目を終えた段階と考え、現在はプロジェクトからとくに「ギエ」の呼びかけはせず、チャリティ公演等の際は使途を「ボラ」と明言して募金をつのっている。なお「ギエ」については、被災地で継続的に活動を続ける信頼すべき支援団体に寄付する予定である。
・今回はプロジェクト単独の活動である。よって支援企業さまよりの助成金の提供はなかった。
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約するが、継続して活動を続けるボランティア団体が減少し、また市民生活も通常の落ち着きを取り戻しつつあることから、現状では旅館等の宿泊施設を利用する機会が増えた。その場合の宿泊費の基準としては、素泊まりとし、おおよそ5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・近来銀行口座へ継続的に活動資金を募金してくださる方も複数あり、またボランティア団体JIN'S PROJECTさまのご厚意により、活動によっては同団体との共催の形を取ることによって支援企業さまからの補助金を頂ける機会も増えてきた。しかしながら今後も息長い支援活動を続けてゆくために、今後も変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。


 【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

                                           以上

  平成25年12月24日






                           「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com



↓領収証は次頁以下に添付





活動報告書(12/9~10)

2014-01-18 15:40:41 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒やしプロジェクト
第18次被災地支援活動(2013年12月09日~10日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒やしプロジェクト」の4名(※注1)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに16度に渡り岩手県釜石市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、および福島県双葉町の住民が避難している旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびメンバーの八田、寺井は、去る12月9日~10日の2日間に渡り宮城県・石巻市にて計2回の能楽の上演および奉納を行いました(※注2)。

今回の活動はずっとお世話になっている石巻市の仮設商店街「立町復興ふれい商店街」さまが開設2周年を迎えられるということを仄聞してお祝いのイベントに急遽出演させて頂くことになりました。あまり準備期間もなかったために活動は短期間に終始しましたが、商店街での上演のほか、市民の崇敬を集める羽黒山鳥屋神社さまにて舞囃子の奉納をさせて頂きました。鳥屋神社の宮司さまは何度も奉納でお邪魔させて頂いております住吉大島神社の宮司を兼任しておられ、その関係で今回の奉納を受け入れて頂きました。

今回の活動では滞在期間も短かったですが、支出も大変コンパクトな活動となりました。また後述しますが仮設商店街の店舗から活動資金の提供を頂いたり、当地を取り巻く状況も少しずつ変化しているように思われます(一方では営業不振から仮設商店街撤退している店舗もある、という話もこの頃から耳にするようになってきました)。仮設商店街ではもう顔馴染みであることもあって大変歓迎頂きました。関係各位のご協力に深謝申し上げたいと思います。

それと特筆すべきは、今回はスケジュールに余裕があったため、帰途に塩釜市の「籬が島」、塩竃神社、多賀城市にある歌枕「末の松山」「沖の石」、そして「東北歴史博物館」の特別展「神さま仏さまの復興」を見ることができたことでしょうか。支援活動も2年半を迎えながら、ほとんど観光としうものをした事がないのですが、視察ではなく純然たる観光ができたのは新鮮な感覚でした。我々の活動は市民とともに文化の復興を目指していますので、支援する土地の風土というものを感じながら活動することは大切かもしれません。活動費が募金を基本としていますため、どうしても一度の滞在で活動を欲張りがちですが、時間のある場合はその土地の文化に触れて行きたいという気持ちも持っております。

※注1 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。うち今回の活動は能チームの八田・寺井の2名。
※注2 今回の上演場所は①石巻市・立町復興ふれあい商店街②石巻市・羽黒山鳥屋神社の2箇所。

【出演者】
八田達弥、寺井宏明(能楽の心と癒やしプロジェクト)
【協力者】
 石巻商工会/石巻立町復興ふれあい商店街/羽黒山鳥屋神社/石巻観光協会
【主催】
 能楽の心と癒やしプロジェクト

【活動記録】
 12月9日(月)
未明に東京を出発、朝、偶然この日チーム神戸代表・金田真須美氏も石巻市に入るとのことだったので連絡を取り合い仙台空港にて金田氏をピックアップ、そのまま石巻へ向かう。いつもお世話になっている観光協会さんにてしばらく休憩させて頂いたのちに立町商店街の控室へ。

13:30より「能楽の心と癒やしをあなたに」公演。能『石橋』。ところが会場に到着してみると上演時間は1時間を予定してあった。もとよりシテと笛だけの上演は毎度せいぜい10分~15分程度しか上演できず、また今回は商店街の2周年記念イベントということで多くの出し物の中のひとつとしての出演を想定していたが、実際にはステージイベントは少なかった。1時間を告知してあれば、終了時間までには到着できるという判断で集まるお客さまもあるだろうと考えて、上演予定時間の大半を笛の独奏に充て、能の上演は最後にしたのであるが、結果的にこれは正しい選択ではなかった。

終演後に聞いたところでは、開演当初は大勢のお客さまがいらっしゃったが、あまりの寒気のため、能の上演を待たずにお帰りになった方も多かったとのこと。我々も楽屋入りした当初は身体を動かして準備に当たっていたため寒気はそれほど感じなかったが、椅子に座ってご覧になるには12月の石巻は厳しい環境であった。天候や見所の条件に配慮できていいなかった事は大きな反省点であろう。告知されていた上演時間にこだわる事なく、早々にシテも出演する上演をするなり、能の上演を最初と最後の2回に配するなど臨機応変に上演に工夫を加えることが必要。

 12月10日(火)
朝より羽黒山鳥屋神社へ。今回は突然決まった活動だったので石巻市民の協力者にも事前の告知はほとんどできていなかったが、石巻に到着してからようやくご連絡差し上げた相澤利喜子さんは、この日鳥屋神社にわざわざご足労くださった。また湊小学校避難所時代からの住民さんのリーダーである佐藤哲美さんもこの日お出ましくださった。

羽黒山からは八田が震災前に学校公演で伺った「石巻小学校」が見えた。現在の被災地心活動の原点であり、感慨深く思う。午前10時よりお祓いを受けたのち舞囃子『融』を奉納。宮司さまには大変ご懇意にして頂き、コーヒーなど控室にお振る舞い頂き、神酒を頂戴した。奉納後、佐藤さんにお誘いを受けて日和山のカフェにて懇談。震災当時のお話を伺う。

その後石巻を離れ、途中で昼食を摂りつつ塩釜市へ。能『融』にも登場する籬が島を見、塩竃神社に参拝してから多賀城市へ。歌枕の「末の松山」「沖の石」を見てから「東北歴史博物館」にて開催されていた東日本大震災復興祈念特別展「神さま仏さまの復興 ~文化財の修復と継承~」を見学。気仙沼の地福寺さまのご本尊「地蔵菩薩坐像」および修復が成ったばかりの登米市の大徳寺さまの「不動明王坐像」(通称:横山不動尊)などを拝観。夕刻になり出発、深夜に帰京。


【収入・支出】

  プロジェクトの活動は基本的に募金によって行われております。近来JIN'S PROJECTさまとの共催の形を取り、同団体の斡旋により企業より活動資金の一部を補助頂くことができておりますが、今回はプロジェクトのみの主催にて活動資金の提供は受けておりません。

  募金は基本的にプロジェクトのボランティア活動資金(以下「ボラ」)として使わせて頂きますが、とくに被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)はプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体に寄付させて頂きます。

  プロジェクトの活動資金としては、前回活動繰越金として 260,637円(内訳:ギエ228,137 円ギエ32,500円)があるほか、今回の活動の前後に1名の個人(ハシモトさま)より活動資金として2度に渡り計20,000円を頂戴致し、また活動中に支援活動場所である「石巻立町復興ふれあい商店街」の店舗さまより活動資金5,000円を頂戴致しました。よって計285,637円(内訳:ボラ 253,137円 ギエ32,500円)が今次活動の前に計上されております。

これに対して今回の活動による支出の内訳は別紙決算報告書にある通りで、今回の活動終了時の残額は 237,367円(内訳:ボラ204,867円 ギエ32,500円)となっております。これらは今回の活動繰越金として計上し次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。

  プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。宿泊につきましては、従来は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊ができましたが、街が落ち着きを取り戻しつつある昨今では旅館などに宿泊する機会も増えてきました。この場合にも宿泊費はおおよそ5,000円まで、素泊まりを旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

【成果と感想・今後の展望】
今回の活動は仮設商店街の開設2周年のお祝いイベントと神社への奉納ということで、短時間での駆け足の活動ではありましたが、思うところも大きかったと思います。仮設商店街では店舗さまより活動資金を頂戴致しましたが、仮設商店街でのご商売が好調で、次第に自立する道も見え始めてきた、というお話でした。これは大変喜ぶべきことでありましょうが、その一方で同じ石巻市内の別の仮設商店街で撤退する店舗があった、という話を聞いたのも同じ滞在中のことです。その後年末にかけて撤退の話を聞くこともあり、まだまだ現状は流動的と言えそうです。

石巻は駅前付近ではもともと中心街だった駅前周辺の商店街は津波の被害も比較的甚大ではなく、そこから早く復興が進んでいったように思います。一方川沿いの地域、内海橋を超えた湊地区、渡波などの復興は遅々として進まず、さらに広大な面積を持つ石巻市のほかの沿岸地域を考えると、復興の地域格差も顕著になってきたように感じます。一方では復興住宅の建設も始まり、その工事現場を遠望することもできました。石巻駅前は大規模な整理が行われるそうです。

これから震災3年目を迎え、仮設住宅や仮設商店街もいずれは解消されて、いずれは次の段階へと進んでいくことになりますが、我々の活動もその時々の状況に応じて形を変えていくなりの工夫が迫られる日も来るとは思っています。石巻や気仙沼では友人や協力してくれる方も多いので、いろいろと面白いイベントが開けるといいな、と考えております。




平成26年1月18日




                             「能楽の心と癒やしプロジェクト」

                               代表   八田 達弥

                             (住所)
                             (電話)
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第18次支援活動<石巻市>(その6)~東北歴史博物館…旅の終わり

2014-01-16 01:44:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
塩釜市の「籬島」、多賀城市の「末の松山」「沖の石」の2つの歌枕をようやく見ることができました。
せっかくだから、ということで、同じ多賀城市にある「東北歴史博物館」で開かされていた特別展示「神さま仏さまの復興 ~被災文化財の修復と継承~」を見に行ってきました。

震災時の地震と津波によって、東北地方の沿岸地域では文化財も多く被害を受けました。もっとも人命の被害や生活の復興など、差し迫った課題が多かった震災の年には、文化財レスキューの話題はほとんど ぬえの耳には入ってきませんでした。唯一、南三陸町の歌津にあった「魚竜館」の話が印象的でしたかね。

歌津、といえば世界最古の魚竜の化石が発見されたところとして全国的な知名度を持っているわけですが、「魚竜館」はその化石の採集現場のうえに建てられていたのだそうです。巨大な歌津魚竜の化石が展示され、物産店やレストランも備えて往時は結構な賑わいがあったのだとか。しかし津波は2階建てのこの建物を完全に水没させてしまいました。頑丈な外壁は壊れないで残ったため、展示標本の多くは流失を免れたようですが、それでも洗浄や補修など必要な作業が行われました。このときは東北大学が中心になって任に当たったと記憶しますが、はじめて「文化財レスキュー」という語を耳にしたように思います。ちなみに「魚竜館」の建物は後日取り壊され、標本は現在東北大学の博物館で保管されているそうです。

→ボランティアによる 魚竜館の片づけの様子
→現在の「魚竜館跡」
→日本地質学会「東日本大震災で被災した南三陸地域の自然史標本と「歌津魚竜館化石標本レスキュー事業」

で、こちら「東北歴史博物館」で開かれていたのは、被災した寺社のご本尊、神体、神宝等の修復についての網羅的な展覧会でした。



昨年3月に気仙沼の「リアスアーク美術館」で行ったプロジェクトの催し「星と能楽の夕べ」にお手伝い頂いたスタッフさんのご縁で、それから次第にお付き合いを深めさせて頂いた登米市の大徳寺さまのご本尊。。いや正式な寺号よりも、「横山不動尊」というこのご本尊さまのお名前そのものの方がずっと昔から有名だった「不動明王坐像」。それから、こちらも気仙沼で一昨年の2月以来ずっとお世話になっています階上の地福寺さまのご本尊の「地蔵菩薩坐像」。この2躯の仏像が一堂に展示される、というので、これは見に行かねば、と思って参上したのでした。

思ってもみよ。。これは空前絶後の機会なのでした。ともに地震や津波による衝撃や流出という苦難をともにされた経験を持ち、職人や学者の努力によって緻密に修復の手が差し伸べられ。。そうしてこの展覧会が終われば各寺社に戻って、その土地の檀家さん、氏子さんをお護りする神仏像たち。。まずは震災という事がなければこのように一堂に会する機会はなかったでしょう。そうして修復の完了時期をうまく勘案して、各寺社の協力を整えて、それぞれの像が鎮座する元の場所に戻られるその前に、または一度還座した寺社から再度魂を抜く儀式を経てこの会場に集めるとは。。展覧会を企画し、実現にこぎ着けたのは、並大抵の努力ではなかったはず。これまた修復が復興のひとつの形であるとそれぞれの寺社の理解がなければ到底叶わなかったはずなのです。

さて今回は地福寺さまのご本尊のお地蔵様と、横山不動様を目当てに博物館に伺った ぬえでしたが、なるほど、この2躯のみ仏は展示の最初と最後を飾るような位置で拝見できるようです。地福寺のお地蔵さまは江戸期の作とて、さほど時代を経ているわけでもないのですが、なんといっても そのお顔の崇高で、そして美しいこと! まさに衆生済度の誓願について思惟を深めておられるお姿。。あ! 地福寺さまは臨済宗だった。これはお姿こそ衆生に身近なお地蔵さまですけれども、お釈迦様のお姿も投影されているのかもしれませんね。

地福寺さまのご本尊の画像はなかなか見つけられませんでした。これが唯一の例かも。

→山形新聞「「心癒やす一助に」被災の仏像修復へ 気仙沼・元芸工大教授の牧野さん」

そして横山のお不動さま。。最初にそれを見つけたとき ぬえは「あっ」と声を上げてしまいました。それほどのインパクト。それほどの力強さ。大胆。放埒。平安時代の作で重要文化財指定を受けている像ですが、3m弱という像高は、これを彫り上げた仏師と帰依者の篤い信仰の力がなければ到底なし得ない偉業でしょう。それに、これほどの巨像を火災など度重なる災禍から守り抜いたのも、信徒の篤い思いによってのことでしょう。現に不動像が鎮座する大徳寺の不動堂は昭和初期の建立なのですから。。

大徳寺サイト
不動明王坐像

今回の展示で、じつは ぬえは諸仏神のみ姿にも感動しましたけれども、もっとも心動いたのは『御領内名所図絵』『伊達慶邦巡見図巻』と題されたふたつの絵巻でした。気仙沼、唐桑、鹿折。。は言うに及ばず大島亀ヶ森、神明社、岩井崎噴潮、波路上、本吉三本松、小泉川、歌津村泊崎。。活動で訪れてよく知っている地名もあり、あのへんだ、とは解るんだけどちょっと細部までは? という地名もあり。。もちろん往古の絵図とて ぬえが知る街並みではないけれども、その背後の山々などいかにも ぬえも見知ったその姿です。あとで調べれば、これは伊達のお殿様の領内検分の時にご覧になった風景を絵師がまとめたもので、時代は嘉永5年とのこと。。明治天皇の生年ですね。幕末か。。なんだか不思議なタイムスリップ感を味わいました。

さて閉館時間ぎりぎりに博物館を出た ぬえたち。もう宵の明星が輝いていました。



こうして一路東京に向かい、今回も無事に旅を終えることができました。
ちょっと急ぎ足の旅のはずでしたけれども、石巻の立町商店街の2周年という大事な節目に立ち会うことができ、また初めて鳥屋神社さまにも奉納させて頂くことができました。
そうして帰りぎわには なんと! 観光までしてしまいました。2年半も活動を続けているんだから、これぐらいは許されるかなあ? でもまあ、観光した先が歌枕の探訪と博物館ってのがなんだか ぬえらしい。。

たまには温泉つかりに行きたいな。東北。

                                     (この項 了)

第18次支援活動<石巻市>(その5)~千年前の「奇跡の一本松」。。末の松山

2014-01-08 02:27:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
多賀城市に向かう前に、まずは塩竃神社に参詣。ぬえにとって相性がよい神様、と さるところで言われたこともあって親近感を持って伺いました。拝殿はただいま補修工事の最中でした。



この神社の境内には杉の木を取り巻くように橋掛リ? のような通路が設けられた舞殿がありまして、じつはここでの奉納上演を震災の年からお願いしているのですが、時期が悪くていまだに実現せず。このときも事前に打診してみましたが、やはり年末の神社はお札を氏子さんに配ったりでご多忙の時期でした。。



(舞殿の画像は震災の年の夏に撮ったものです)

さて多賀城は奈良時代に陸奥の国府が置かれた東北のかつての中心地で、都とは最も接点が濃い場所でした。そのために歌枕となっている場所がいくつかあります。



こちらは有名な「末の松山」。百人一首にも採られた清原元輔(清少納言の父)の歌「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」で知られているわけですが、この歌には本歌があって、それが『古今和歌集』にある東歌「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」。行ってみるとこの東歌の方が大きな歌碑に刻まれていました。



いずれの歌も末の松山を決して波が超すことがない、と言われるように、変わらない永遠の愛を誓った、という意味なのですが、この「波」こそ、すなわち古来三陸地方を度々襲った津波の事を指している、と考えられています。

本当かなあ? と ぬえも思ったのですが、貞観11年(869)に、今回の震災津波とよく比較される いわゆる「貞観津波」が起こり、前掲の東歌が収められた『古今和歌集』の成立がその直後の延喜年間(910年前後?)とされること、清少納言の父である清原元輔(908~990)もそれより100年ほど後の、比較的貞観年間に近い時代の人であること、さらには「末の松山」がある場所が国府の置かれた多賀城付近である(異説もあるようですが)ことから考えると、貞観津波の中で生き残った松の話がまず「東歌」として現地で詠まれ、これが国府の役人を通じて都に伝えられ、元輔の歌に再生された可能性は十分に考えられるでしょう。ちょうど今回の震災でも津波に耐えて残った陸前高田の「奇跡の一本松」とまったく同じ現象が、今から1,100年以上前に起こっていたのです。

さて「末の松山」からわずか数十m下ったところに、もう一つの歌枕「沖の石」があります。こちらも百人一首に採られた「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」という歌で有名。この歌の作者の二條院讃岐は平安末期から鎌倉時代前期、と貞観からはやや後代の人ですが、源頼政の娘で、以仁王を奉じて乱を起こした武人でありながら歌人としても名高い頼政の血は争えない才能の持ち主ですね。



「わが袖は。。」の歌は干潮のときにさえ水面に姿を現さない石に喩えて乾くことのない我が袖の涙を詠んだ恋の歌。水面下に沈んだ石がなぜ歌に詠まれて都にまでその名声が届いたのか。。それほど印象的な奇岩だったのでしょうね。。ところが実際の「沖の石」はこのように住宅街の中に取り残された池? に囲まれた、なんとも風情のない岩の塊でした。まあ、奇岩といえばそうも言えるか。どうも江戸期にはすでに内陸に取り込まれてしまっていたようです。

さて震災でこの「波越さじ」と詠まれた「末の松山」と、「潮干に見えぬ」という「沖の石」は震災時にどうなったのか。

じつは「末の松山」は海抜10m前後のところにあり、すぐ近くの「沖の石」は同2mほどの標高なのだそうです。震災当時 多賀城市には8mの津波が襲ったそうで、このときに「末の松山」には津波は届かず、「沖の石」は水没し、瓦礫に埋まったとのことでした。

車が突っ込んだ状態の「沖の石」の画像がアップされていました。大変貴重な記録です。

わかるかしら? 上に ぬえがアップした画像とは正対した、反対側の位置からから撮影した画像ですね。2枚の画像に写った松の幹の曲がり具合を参考にしてください。

ほかにも付近に歌枕はあるのですが、ぬえがこの2つの場所にこだわる理由は。。これが能『善知鳥(うとお)』の本文に2つとも仲良く出てくるからです。

末の松山風荒れて。袖に波越す沖の石。または干潟とて、海越しなりし里までも、千賀の塩竃身を焦がす報ひをも忘れける事、業をなしゝ悔しさよ。。

この部分、ちょっと解釈が難しいところなので現代語訳しておくと、

(鳥を捕らえる猟師が死後殺生の罪で地獄に堕ち、その霊が僧の前に現れて懺悔のために狩りの様子を語る場面で)「海近くで末の松山のような松林に強風が吹き付ける日も、きっと有名な沖の石も水に沈んでいるだろう程に海が荒れて、自分の袖も濡れるような日も、または干潟や、その向こうに遠く見える里のあたりまでの距離であっても、近いと感じるほどに狩猟は心楽しく、それが知らず知らずに仏の戒めである殺生の報いで、まるで千賀の塩竃で汐を焼くように、我が身を滅ぼして地獄の業火に焼かれる運命に陥る罪業を重ねていると気づかないことを今になって悔しく思う」
。。ということになりましょうか。

第18次支援活動<石巻市>(その4)~籬が島

2014-01-07 01:35:25 | 能楽の心と癒しプロジェクト
まずは塩釜市にある籬が島へ。

能『融』の中で「千賀の浦」を代表する景観として真っ先にワキが問う島ですが、ぬえは そもそも『融』に描かれる「千賀の浦」が日本三景の松島を指していることさえ、当地を訪れるまで知りませんでした。。そしてそれが松島だとわかった後も、籬が島とは松島で一番目につく「雄島」のことだとばかり思っていました。そもそも「千賀の浦」という名称さえ当地には残っていないようでしたし、歌枕として有名な松島の致景は、都人が実際に目にしたものというよりはむしろ伝聞で知ったもので、正確であるはずもなく、また名称も時代につれて変遷していても不思議ではないのです。

じつは「千賀」という地名は塩釜市の町内にその名を留めているらしい、という事は、初めて当地を ぬえが訪れた2011年の6月に投宿した塩釜駅付近のホテルで聞きました。その時にも、それでは籬が島はどこにあるのか、までは問わなかったのですが。。

籬が島が、じつは雄島や五大堂、そして瑞巌寺などが並び立つ観光地としての松島の入口である松島町の「松島海岸駅」の付近にあるのではなく、塩釜市にあるのだと知ったのは つい最近のことで、それでこの度思い立って籬が島を見に行くことにしたわけです。。もう2年半も宮城県に通っていながら、観光というものはほとんどしていない ぬえたち。食事も当地に到着してからは時間の制約があるために大半がコンビニ弁当を食べていますし。。 この塩釜も、石巻で支援活動を行うときには通り道になるわけですが、実際には仙台から三陸道を走ると塩釜の町なかは通らずに石巻に直行してしまいます。活動を終えた帰り道に塩釜に立ち寄ることも考えないではなかったですが、大概は石巻で活動を終えると夕方になってしまって、空は暗くなってきますし、そこから帰途の道のりを考えると、やはり三陸道に乗って東京に直行してしまいます。

この日はたまたま昼頃に活動を終えましたので、つい先日 東京で能『融』を勤めたことでもあり、塩釜の周辺を見に行く事にしました。昼食もファミリーレストランで摂れましたし、なんだか久しぶりに ゆったりとした旅になりました。途中で山の上に上がる小道があったので高台から松島を見下ろしてみました。



この頃はちょっと天気もよくなかったのですが、塩釜市に着く頃には晴れてきました。籬が島はずいぶん小さい島で まずは驚きましたが、塩釜は近代的な港で、あたりの岸壁はどこもコンクリート造り。その中で唯一、と言って良い自然の岩の島はなんだか奇妙に見えました。



陸地からもすぐそこで、松島の雄島のように橋が架けられていますが、かなり短い橋でした。ところが特徴的なのは、この橋の渡り口には扉がつけられていて、容易に渡れないように厳重に閉じられていることでした。



今は「曲木島(読みは まがきしま)」と呼ばれる籬が島は、じつは神の島として崇められていまして、島には神を祀る「籬(まがき)神社」と呼ばれる小さな祠があります。そして祭礼のときなど特別の場合を除いて島に上陸することが戒められているのでした。リアス式海岸の入り組んだ地形の三陸海岸では、島や山、岬そして巨石などが神が祀られているのを しばしば目にしますね。巨岩を神と祀る気仙沼大島では「こういう自然の景物を神と崇めるのは古い信仰の形なんですよ」と教えて頂きました。籬島の神は塩釜神社の末社ということになっているようですが、こちらも祠に神が宿るのではなく、島そのものがご神体なのでしょう。

現代では塩釜は港、松島海岸は観光地という位置づけでハッキリ理解が分けれていると思いますが、かつては松島よりも塩釜の方が断然 有名だったと思います。それは多賀城という政府組織の外港として塩釜が栄えた歴史があるからで、松島も歌枕としては古くから知られてはいましたが、どちらかと言えば塩釜に付属する名所、というような理解ではなかったのかもしれません。そういえば『融』にも「塩釜」は頻繁に出てくるけれど「松島」は一度も出てこないですね。

で、次はその政府組織があった多賀城市に向かいました。

第18次支援活動<石巻市>(その3)~羽黒山鳥屋神社で奉納舞囃子

2014-01-06 00:05:00 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【12月10日(火)】

翌朝、早く起きた ぬえは石巻の街の中を見て廻りました。もうこれで何回目だろう。。2年半におよぶ定点観測。

湊地区は、そろそろあきれる程の放置状態。。崩れた工場に突っ込んだままのモーターボート。第二湊小・湊中の周辺にはまだ解体されない住宅が。これは門脇地区でもいえることですね。そうして気が付きました。気仙沼ではすでに始まっている地盤沈下した土地のかさ上げ工事が、石巻ではまだ始まっている気配がないのです。

防潮堤の問題が大きく取り上げられて、反対の声を上げる人がいる気仙沼。防潮堤の建設案に対して住民さんが主体となって理想の街の構想を練って発信する人がいる志津川。それらから考えると、石巻はちょっとだけ、ぬえには動きがスローに見えますが。。

やっぱり今回もこれなのね、のコンビニ弁当を買って宿舎に帰り、起き出した笛のTさんと朝食を摂ってから宿舎を後にして、本日の活動予定のある鳥屋神社に向かいました。

鳥屋神社(とやじんじゃ)は石巻駅から正面の羽黒山の上に鎮座している社で、立町復興ふれあい商店街の裏から急坂を上ったところにあります。この山、通称は「日和山」ではありますが、より駅に近いところにこの羽黒山があり、日和山はもっと中瀬や門脇地区に寄ったところにあります。このあたりの地形は ぬえにも未だによくわかりませんが、そういう事らしい。

それから、これはこの日羽黒山の上から眺めて初めて気づいたことですが、二つの山に挟まれた盆地に「石巻小学校」は建てられていました。こんなことろにあったのか!

石巻小学校。。略して「石小(せきしょう)」は市立の小学校で、ぬえが震災前にこの小学校と気仙沼の新月中学校に学校公演で訪れ、その時の子どもたちの鑑賞態度や挨拶など礼儀正しさ、そして元気がとっても印象に残りまして。。その後震災が起こってしまった事から、この子どもたちの安否が心配になって一人で石巻と気仙沼を訪れたのが、現在の活動の原点です。

もう2年半も石巻に通っているのですから、もちろん石小の前は何度か通過してはおりますが、いつも日和山に上るつもりで道に迷った際に偶然その前を通りかかるばかりで。。未だに石小の子どもたちには再会できていませんが、去年の夏の「川開きまつり」の際に ぬえたちプロジェクトが参加させて頂きました「全国花火サミット」のレセプション会場で市長さんに石小でワークショップを行いたい由、お願いだけは申し上げることができました。

石小の校庭には驚くべきことに、「奉安殿」がいまだに残されています。奉安殿とは昭和天皇の写真を納めた小さな祠で、終戦まで日本中の小学校にあって、毎朝の朝礼で子どもたちが「現人神」であった天皇を崇めるために使われたのです。もちろん現在の石小の奉安殿の中身は空ですが、終戦後にほとんど取り壊された奉安殿が残されているだけでも奇跡的でしょう。かように歴史の長い学校で、学校公演の際にもずいぶん古びた体育館が上演会場になりましたが、この日石小の前を通ってみると、体育館はいつの間にか新築されていたようでした。

羽黒山と日和山に挟まれた狭い谷地に石小は建っているようでした。これじゃすぐには見つからないはずだ。。ところが鳥屋神社でそのお話をさせて頂くと、意外や羽黒山と日和山は石小があるこの谷をぐるっと迂回するように繋がっているのですって。そうしてその一連の山を総称して「鰐山」と呼ぶのだそうです(!) 。。鰐。。? その名前の由来や、日和山・羽黒山との関係は。。? ますます石巻について謎が深まってしまいました。

鳥屋神社の宮司さんは、北上川沿いの街の中心部にある住吉大島神社さんの宮司も兼任しておられて、住吉さんではもう2度も舞囃子を奉納させて頂いておりますので、今回もTさんより鳥屋神社さまでの奉納の申し出をさせて頂いたところ、ご快諾くださったそうです。

やがて湊小学校が避難所だった時代から住民さんの中心に立って活躍しておられた佐藤哲美さんや、石巻での活動にいつもご協力頂いている相澤利喜子さんも鳥屋神社にお見えになり、ぬえたちも裃に着替えて、拝殿に上りお祓いを受け、舞囃子『融』を奉納させて頂きました。

終演後 佐藤さんのご案内で日和山の頂上近くにあるカフェで懇談。じつは湊小学校が新年度から再開するそうで、その開校式典への能の出演について学校への仲介をお願いしておりました。しかし震災時の佐々木校長先生はすでに退任され、新しい校長先生のご意向もあり、また海の近くにあって周辺地域ごと津波の甚大な被害を受けた第二湊小学校が新年より湊小に統合されるなど事務作業も大変で、式典への出演は断念することになりました。

しかし、この夏に湊小の裏にそびえる牧山の上に鎮座する「零羊崎神社」にて奉納させて頂いた際に、この神社に法印神楽が伝えられていることがわかり、来夏には神社の祭礼などでこの神楽との競演を計画して、その調整を氏子さんである佐藤さんにお願いしているほか、湊小再開の機会に、課外活動であっても神社の協力を得て子どもたちに郷土の伝統芸能の継承を学校にお願いする事をお勧めしていまして、そんな相談をさせて頂きました。

こうして短い日程ではありましたが、2日間の石巻での活動を終えて帰途に。
しかし、まだ日も高かったため、これまた2年半も宮城県に通っていながら、そうして先日 東京で能『融』を勤めていながら ちゃんと見ていない塩竃周辺の観光地を見て帰ることにしました。




第18次支援活動<石巻市>(その2)~立町復興ふれあい商店街さんの2周年記念イベント

2014-01-05 17:27:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻観光協会で関係者にご挨拶させて頂き、少し休憩を取らせて頂いてから本日の宿舎に移動、笛のTさんはここで着替えを済ませ、昼前に再び観光協会さんの駐車場に車を停めさせて頂いて、本日の公演会場「立町復興ふれあい商店街」さんにお邪魔しました。

久しぶりの立町商店街さん~。各お店にもご挨拶させて頂いてさてチラシを見てみると。。なんと能の上演時間が1時間も取ってある。。この条件ではせいぜい10~15分しか上演できないのだが。。どうしよう。

いろいろ考えあぐねていると、ああ~いつもの事ですが商店街のお店から昼食の差し入れを頂きました~~。さらに、上演準備を進めていると、今度は笛のTさんから1通の封筒を手渡されました。聞けば 商店街のお店のひとつから、我々プロジェクトの活動資金を頂戴したのだとか。(@_@;) このところ、こういう事が増えてきました。先日も女川町の仮設住宅に住む おばあちゃんから活動資金の提供を頂いたばかりだし。。ぬえとしては、自分たちが支援している相手の仮設住宅や仮設商店街の方から活動資金を頂くのには かなり違和感があるのですが。。

が、東京でボラ団体のリーダーと話をしていたところ、この話題になって。リーダーいわく「それは正しいと思いますよ」という意外なお返事。いわく、ぬえたちに資金提供くださった住民さんは、すでに仮設を出て自活する目標に近づいておられるのでしょう、と。なるほど、確かに。。

リーダーさんはさらに、「東京でお金を集めて被災地ですべて使い果たす活動を行う時期はもう過ぎたと思っています」と言い、さらに続けて「仮設住宅の慰問公演でも、もうそろそろ住民さんから入場料を頂くべきだと思っています」とのこと。これには少なからず衝撃を受けました。リーダーさんの意見を要約すると「すでに震災の記憶は風化しつつあって、活動資金は潤沢な募金に頼ることは難しい状況。このままでは活動そのものが休止に追い込まれてしまう。」「これからはボラが現地で享受者から資金を得る方法を考えるべき」。。と。

現実的にはすべての仮設の住民さんが同じ状況ではなく、余裕がある方もあれば、生活の再建が困難な方も多くおられるはずです。住民さんの支援を目的とする ぬえたちにとっては、むしろ難しい状況にある方に寄り添いたいと考えているので、被災地での上演に対価を求めるのにはどうしても違和感があるのですが。。

しかしリーダーさんは「いや、入場料といっても100円でも千円でも良いんですよ。それほど安価に本物を見せるのだから納得頂けるでしょう。そうして仮設でも人数が集まれば交通費ぐらいは出るかもしれない。そうすると上演内容が今より良くなるのではないですか?」 。。むむ。。一理ある、と言うべきか、何と言うべきか。。

。。まだ ぬえにはそこに踏み出す気持ちがありませんが。。しかし来年頃から仮設住宅も仮設商店街も解消に向かって行きます。そのとき ぬえたちの活動も大転換を迫られることになるでしょう。その時を見越して、今から考えて行かなければなりません。その発想の転換のための材料にはなるかも。。

ともあれ準備を進めて、やがて開演時刻となりました。1時間用意されている上演時間をどうするか。。いろいろ考えましたが、やはりここは Tさんの笛のソロ・コンサートにするしかない。。そこで40分ばかり解説を交えて笛を演奏して頂き、その後 ぬえが登場。立町復興ふれあい商店街さんの2周年記念イベントですから、めでたく派手な曲目ということで『石橋』を上演致しました。

上演を終えて片づけていると、意外な感想が伝えられました。いわく「上演時間が長すぎて、しかも なかなかシテが現れず、この寒さの中で耐えきれずにお帰りになったお客さまが多かった」とのこと(!)。

確かに ぬえが出演する時刻になって控室を出てみると、装束を着ていても身にしみる寒さでした。準備している段階では動き回っているので寒さを感じなかったのでしょう。聞けば上演開始時には鈴なりにお客さまがおられた、とのこと。ぬえが登場した際は、多少席が空いているかな、と思う程度でしたが、最初はもっとずっと多くのお客さまがおられたのですか。。

1時間、とチラシで決められた上演時間を守りすぎたようです。場合によりけり、お客さまの立場に立って必要な変更はもっと柔軟に決断しなければなりませんね。。

終演後、いつもお土産を買ってはそれ以上の「おまけ」をつけて下さったり、「まあ座りなさい」とごちそうしてくださる戸田海産物店さんで遊んで、湊の東助さんで焼き鳥を食べて、この日の活動は終わりました。