ちょっと時間が経ってしまいましたが、一昨日 師家の月例会にて能『通盛』を無事勤めて参りました~
小さな会場とはいえ当日は ほぼ満席の状態で、まことにありがたい事でした。ご来場頂きました皆さまには改めまして御礼申し上げます。
私としても、自分が考えていた通りに、まずはなんとか上手く出来たのではないかと思います。少なくともお目汚しにはならなかったと思うので、その点はひと安心でした。あ、一か所だけ ちょっと謡を間違えかかったところがありました~~反省。
今回使った面は、後シテの「中将」とツレの「小面」が ぬえの所蔵品で、どちらも現代の作です。「中将」については師家から「今若」を拝借するかずいぶん迷っていたのですが、申合の日に師匠から「今若」を見せて頂いて、年齢が ぬえが考えているより少し行き過ぎていた感じでしたので、ぬえ所蔵の「中将」。。これは「中将」としては若い感じのものですけれども、こちらを使うことにしました。この面は作者の方が当日お客さまとしてお見えになっていました。見所からはどう見えていたのか。。後日感想も頂けるのではないかと思います。
「小面」もひょんな事から昨年 入手した面ですが、少し年かさの感じはしますけれども良い面です。これは上演が無事に終了したら、ツレで今回「初面」を迎えた長男に ご褒美として、記念として譲ることになっていました。実際終わったところで彼の所蔵品になったのですが、まずは舞台に傷がつくような事がなくて安心しました。もちろん、彼の所蔵品になった、と言っても勝手にどこかに持ち出したりする事はできません。普段はほかの面と一緒にしまってあって、あくまで舞台や稽古の時だけ許されて持ち出すのです。
面白かったのは前シテの「三光尉」で、これは師家から拝借したもので、古元休という江戸時代前期の頃の面打師の作になる面です。これを見立ててくださったのも師匠で、申合で手に取って拝見したときは、あまり特徴のない。。いや、どちらかと言うと ちょっと弱い感じに思えたのですが、当日鏡の間で面を着けさせて頂くと、あら不思議。装束と合った途端にガラッと雰囲気を変えて、厳しい表情になりました。舞台に出る直前の事ではありましたが、これで一挙に舞台に向かう心構えが出来上がったような気がします。
手に取ったときと顔に掛けたときとガラッと雰囲気が変わる。。こういう事は尉面ならでは、ではないかと ぬえは考えています。以前にも『春日龍神』の前シテの名前のない尉面。。「小尉」と「阿古父尉」との中間的な表情の面で、同じように舞台で急に表情を変えた面と出会って驚いたことがありました。
終演後、師匠にこの面についての感想を申し上げたのですが、「そうなんだ。それでいて目は優しいんだよ。修羅能には持ってこいの面だね」とおっしゃいました。そうそう、『春日龍神』の時は終演後、師家に戻ってから師匠にお願いして改めて尉面を手に取らせて頂いたのですが、そのときはまた、普通のおじいさんに戻っていました。尉面って不思議。
さて舞台ですが、声が響かず足拍子の音が籠もる。。毎度 難しさを感じる舞台ですが、ツレも良く声を出してくれて(謡に関しては今回ツレは、ぬえや師匠から徹底的にダメ出しをされて、苦労して作り上げていました)、まあまあ傷もなく済ませる事ができました。『通盛』は動作が少ない能なので、謡の比重に圧倒的な要求が突きつけられますね。もとより古来 能は「謡七分、型三分」と言って、謡の方が重要度が高いのですけれども、『通盛』は謡が九分くらいになっちゃうかも。
型については、じつは今回は(というか今回も)、かなり工夫を加えておりまして、前シテではツレが着座するところ、シテがツレに手を掛けるところ、入水の場面の処理、後シテでは酌の場面、最後の合掌。。と、大きいところで数カ所、細かい工夫まで入れると20か所くらいの工夫を凝らしていました。加えて、今回は先輩の青木一郎師からかなり懇切丁寧なアドバイスを頂きました。この曲を上演した経験から、ぬえと同じようにこの能に対して思い入れがあるのでしょう。ありがたいことで、これも ほとんど頂いたアドバイスは舞台に反映させて頂きました。
稽古を始めた当初は、動作が少なくてやりがいのない曲だと思っていたのですが、終えてみると『通盛』というのは良い曲ですね。『平家物語』を知っていないと面白みを理解するのは難しいかもしれないけれども、ひたすら情緒で演じる「大人の能」なんだなあ、と思いました。小書もない能で、まあ、何度も演じる能ではないとは思います。ぬえもこれが最初で最後になる可能性が高い能ですけれども、通盛と小宰相の物語に共感できたし、かわいそうな二人に思いをはせることができました。
そうそう、後シテの装束をモノトーンに見えるようにしたのも、お弔いというか、彼ら二人への ぬえの気持ちです。話は変わるけれど、修羅能の、梨子打烏帽子に長絹、大口袴で太刀を佩いた姿で着座して、唐織姿のツレと向き合っている、というのは風情のある姿ですね。同じ場面でも映画やテレビの時代劇のように甲冑と十二単の姿では、それが有職として正しいのでしょうけれども、能の風情にはかなわないでしょう。
ぬえも心を込めて合掌の型をしたので、あの世で二人が幸せになっている事を祈ります。
小さな会場とはいえ当日は ほぼ満席の状態で、まことにありがたい事でした。ご来場頂きました皆さまには改めまして御礼申し上げます。
私としても、自分が考えていた通りに、まずはなんとか上手く出来たのではないかと思います。少なくともお目汚しにはならなかったと思うので、その点はひと安心でした。あ、一か所だけ ちょっと謡を間違えかかったところがありました~~反省。
今回使った面は、後シテの「中将」とツレの「小面」が ぬえの所蔵品で、どちらも現代の作です。「中将」については師家から「今若」を拝借するかずいぶん迷っていたのですが、申合の日に師匠から「今若」を見せて頂いて、年齢が ぬえが考えているより少し行き過ぎていた感じでしたので、ぬえ所蔵の「中将」。。これは「中将」としては若い感じのものですけれども、こちらを使うことにしました。この面は作者の方が当日お客さまとしてお見えになっていました。見所からはどう見えていたのか。。後日感想も頂けるのではないかと思います。
「小面」もひょんな事から昨年 入手した面ですが、少し年かさの感じはしますけれども良い面です。これは上演が無事に終了したら、ツレで今回「初面」を迎えた長男に ご褒美として、記念として譲ることになっていました。実際終わったところで彼の所蔵品になったのですが、まずは舞台に傷がつくような事がなくて安心しました。もちろん、彼の所蔵品になった、と言っても勝手にどこかに持ち出したりする事はできません。普段はほかの面と一緒にしまってあって、あくまで舞台や稽古の時だけ許されて持ち出すのです。
面白かったのは前シテの「三光尉」で、これは師家から拝借したもので、古元休という江戸時代前期の頃の面打師の作になる面です。これを見立ててくださったのも師匠で、申合で手に取って拝見したときは、あまり特徴のない。。いや、どちらかと言うと ちょっと弱い感じに思えたのですが、当日鏡の間で面を着けさせて頂くと、あら不思議。装束と合った途端にガラッと雰囲気を変えて、厳しい表情になりました。舞台に出る直前の事ではありましたが、これで一挙に舞台に向かう心構えが出来上がったような気がします。
手に取ったときと顔に掛けたときとガラッと雰囲気が変わる。。こういう事は尉面ならでは、ではないかと ぬえは考えています。以前にも『春日龍神』の前シテの名前のない尉面。。「小尉」と「阿古父尉」との中間的な表情の面で、同じように舞台で急に表情を変えた面と出会って驚いたことがありました。
終演後、師匠にこの面についての感想を申し上げたのですが、「そうなんだ。それでいて目は優しいんだよ。修羅能には持ってこいの面だね」とおっしゃいました。そうそう、『春日龍神』の時は終演後、師家に戻ってから師匠にお願いして改めて尉面を手に取らせて頂いたのですが、そのときはまた、普通のおじいさんに戻っていました。尉面って不思議。
さて舞台ですが、声が響かず足拍子の音が籠もる。。毎度 難しさを感じる舞台ですが、ツレも良く声を出してくれて(謡に関しては今回ツレは、ぬえや師匠から徹底的にダメ出しをされて、苦労して作り上げていました)、まあまあ傷もなく済ませる事ができました。『通盛』は動作が少ない能なので、謡の比重に圧倒的な要求が突きつけられますね。もとより古来 能は「謡七分、型三分」と言って、謡の方が重要度が高いのですけれども、『通盛』は謡が九分くらいになっちゃうかも。
型については、じつは今回は(というか今回も)、かなり工夫を加えておりまして、前シテではツレが着座するところ、シテがツレに手を掛けるところ、入水の場面の処理、後シテでは酌の場面、最後の合掌。。と、大きいところで数カ所、細かい工夫まで入れると20か所くらいの工夫を凝らしていました。加えて、今回は先輩の青木一郎師からかなり懇切丁寧なアドバイスを頂きました。この曲を上演した経験から、ぬえと同じようにこの能に対して思い入れがあるのでしょう。ありがたいことで、これも ほとんど頂いたアドバイスは舞台に反映させて頂きました。
稽古を始めた当初は、動作が少なくてやりがいのない曲だと思っていたのですが、終えてみると『通盛』というのは良い曲ですね。『平家物語』を知っていないと面白みを理解するのは難しいかもしれないけれども、ひたすら情緒で演じる「大人の能」なんだなあ、と思いました。小書もない能で、まあ、何度も演じる能ではないとは思います。ぬえもこれが最初で最後になる可能性が高い能ですけれども、通盛と小宰相の物語に共感できたし、かわいそうな二人に思いをはせることができました。
そうそう、後シテの装束をモノトーンに見えるようにしたのも、お弔いというか、彼ら二人への ぬえの気持ちです。話は変わるけれど、修羅能の、梨子打烏帽子に長絹、大口袴で太刀を佩いた姿で着座して、唐織姿のツレと向き合っている、というのは風情のある姿ですね。同じ場面でも映画やテレビの時代劇のように甲冑と十二単の姿では、それが有職として正しいのでしょうけれども、能の風情にはかなわないでしょう。
ぬえも心を込めて合掌の型をしたので、あの世で二人が幸せになっている事を祈ります。