ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『通盛』終わりました~

2016-05-21 22:20:18 | 能楽
ちょっと時間が経ってしまいましたが、一昨日 師家の月例会にて能『通盛』を無事勤めて参りました~

小さな会場とはいえ当日は ほぼ満席の状態で、まことにありがたい事でした。ご来場頂きました皆さまには改めまして御礼申し上げます。

私としても、自分が考えていた通りに、まずはなんとか上手く出来たのではないかと思います。少なくともお目汚しにはならなかったと思うので、その点はひと安心でした。あ、一か所だけ ちょっと謡を間違えかかったところがありました~~反省。

今回使った面は、後シテの「中将」とツレの「小面」が ぬえの所蔵品で、どちらも現代の作です。「中将」については師家から「今若」を拝借するかずいぶん迷っていたのですが、申合の日に師匠から「今若」を見せて頂いて、年齢が ぬえが考えているより少し行き過ぎていた感じでしたので、ぬえ所蔵の「中将」。。これは「中将」としては若い感じのものですけれども、こちらを使うことにしました。この面は作者の方が当日お客さまとしてお見えになっていました。見所からはどう見えていたのか。。後日感想も頂けるのではないかと思います。

「小面」もひょんな事から昨年 入手した面ですが、少し年かさの感じはしますけれども良い面です。これは上演が無事に終了したら、ツレで今回「初面」を迎えた長男に ご褒美として、記念として譲ることになっていました。実際終わったところで彼の所蔵品になったのですが、まずは舞台に傷がつくような事がなくて安心しました。もちろん、彼の所蔵品になった、と言っても勝手にどこかに持ち出したりする事はできません。普段はほかの面と一緒にしまってあって、あくまで舞台や稽古の時だけ許されて持ち出すのです。

面白かったのは前シテの「三光尉」で、これは師家から拝借したもので、古元休という江戸時代前期の頃の面打師の作になる面です。これを見立ててくださったのも師匠で、申合で手に取って拝見したときは、あまり特徴のない。。いや、どちらかと言うと ちょっと弱い感じに思えたのですが、当日鏡の間で面を着けさせて頂くと、あら不思議。装束と合った途端にガラッと雰囲気を変えて、厳しい表情になりました。舞台に出る直前の事ではありましたが、これで一挙に舞台に向かう心構えが出来上がったような気がします。

手に取ったときと顔に掛けたときとガラッと雰囲気が変わる。。こういう事は尉面ならでは、ではないかと ぬえは考えています。以前にも『春日龍神』の前シテの名前のない尉面。。「小尉」と「阿古父尉」との中間的な表情の面で、同じように舞台で急に表情を変えた面と出会って驚いたことがありました。

終演後、師匠にこの面についての感想を申し上げたのですが、「そうなんだ。それでいて目は優しいんだよ。修羅能には持ってこいの面だね」とおっしゃいました。そうそう、『春日龍神』の時は終演後、師家に戻ってから師匠にお願いして改めて尉面を手に取らせて頂いたのですが、そのときはまた、普通のおじいさんに戻っていました。尉面って不思議。

さて舞台ですが、声が響かず足拍子の音が籠もる。。毎度 難しさを感じる舞台ですが、ツレも良く声を出してくれて(謡に関しては今回ツレは、ぬえや師匠から徹底的にダメ出しをされて、苦労して作り上げていました)、まあまあ傷もなく済ませる事ができました。『通盛』は動作が少ない能なので、謡の比重に圧倒的な要求が突きつけられますね。もとより古来 能は「謡七分、型三分」と言って、謡の方が重要度が高いのですけれども、『通盛』は謡が九分くらいになっちゃうかも。

型については、じつは今回は(というか今回も)、かなり工夫を加えておりまして、前シテではツレが着座するところ、シテがツレに手を掛けるところ、入水の場面の処理、後シテでは酌の場面、最後の合掌。。と、大きいところで数カ所、細かい工夫まで入れると20か所くらいの工夫を凝らしていました。加えて、今回は先輩の青木一郎師からかなり懇切丁寧なアドバイスを頂きました。この曲を上演した経験から、ぬえと同じようにこの能に対して思い入れがあるのでしょう。ありがたいことで、これも ほとんど頂いたアドバイスは舞台に反映させて頂きました。

稽古を始めた当初は、動作が少なくてやりがいのない曲だと思っていたのですが、終えてみると『通盛』というのは良い曲ですね。『平家物語』を知っていないと面白みを理解するのは難しいかもしれないけれども、ひたすら情緒で演じる「大人の能」なんだなあ、と思いました。小書もない能で、まあ、何度も演じる能ではないとは思います。ぬえもこれが最初で最後になる可能性が高い能ですけれども、通盛と小宰相の物語に共感できたし、かわいそうな二人に思いをはせることができました。

そうそう、後シテの装束をモノトーンに見えるようにしたのも、お弔いというか、彼ら二人への ぬえの気持ちです。話は変わるけれど、修羅能の、梨子打烏帽子に長絹、大口袴で太刀を佩いた姿で着座して、唐織姿のツレと向き合っている、というのは風情のある姿ですね。同じ場面でも映画やテレビの時代劇のように甲冑と十二単の姿では、それが有職として正しいのでしょうけれども、能の風情にはかなわないでしょう。

ぬえも心を込めて合掌の型をしたので、あの世で二人が幸せになっている事を祈ります。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その10)

2016-05-18 22:50:28 | 能楽
とか言っているうちに、ついに明日が『通盛』公演の当日になりました。
おかげさまでチケットもかなり売れ行きが良いようで。。ありがたいことです。
動かない能だから、そういうときは舞台で役者が何を演じているのか、このブログでお伝えすることができたら本望です。

で、今日は最後の話題。。表題にもした「直ぐなる能」について考えてみたいと思います。

『通盛』について、世阿弥よりも時代が遡る古作の能であることは前述しました。その多くは作者も不明なのですが、じつは『通盛』は作者が判明している数少ない能です。

いわく世阿弥の伝書『申楽談儀』に、

静 通盛 丹後物狂 以上、井阿作。

とあるからです。
が、「井阿弥」は詳細が不明の人物で、世阿弥と同時代か少しだけ遡る時代の人であるらしいこと、能の作者であり役者でもあったろう、と推測されるほかは、読みさえ「いあみ」なのか「せいあみ」なのかさえ判明していません。

ところが同じ『申楽談儀』の別の箇所では

道盛、言葉多きを、切り除け切り除けして能になす。

と、その井阿弥の原作を世阿弥が大幅に改作したことが記されています。
これらの事実は大変有名で、同じく『申楽談儀』の中で『通盛』に言及している次の記事もよく知られています。

祝言の外には、井筒・道盛など、直ぐなる能也

偶然にもどちらも今回の梅若研能会での上演曲だ。。(汗)

『通盛』を世阿弥は「直ぐなる能」と評しているわけですが、「直ぐなる」の意味は、その直前に、

先、祝言の、かゝり直なる能より書き習ふべし。直なる能は弓八幡也。曲もなく、真直成る能也

と書かれていて、これを「能の台本を書くには神をあがめる脇能から学び始めるべきだ、『弓八幡』などは好例で、複雑な変化もなく、素直な能である」と解すれば、『通盛』も『弓八幡』のように素直な能だ、という事になるのですが。。本当にそうでしょうか。

今回『通盛』の稽古をしてきて、前シテが「主役」ではあっても「主人公」ではないのだ、という事を経験しました。現在まで、それほど多くの能を演じてきたわけではないけれども、これは ぬえにとって初めての出来事でしたね。

それから、この能は面白いことに台本に時間軸の逆転が組み込まれていますね。

前シテでは入水するに到る小宰相の心理を描いているのに対して、後場では通盛と小宰相の逢瀬から通盛の戦死に到るまで。。彼女の入水事件からは数日遡った一ノ谷の合戦の前後が描かれるのです。世阿弥が確立したとされる複式夢幻能では、前シテがある事件について述べ、後場ではその同じ物語を本性を現した後シテが語る、という事が多いですが、『通盛』はそれとも違う、前後の場面で別々の事件を描いています。

極論してしまえば、前場では小宰相(の化身)がシテなのであり、後場では通盛がシテであるような複雑な構成を持った能だとも考えられるのです。

少々異端な構成とはいえ『通盛』は複式夢幻能として台本が形作られていますから、その形式を創造したとされる世阿弥によって、『通盛』は井阿弥の原作からは根本的な変更が行われているとも考えられるし、そうなると、ここまで複雑で精巧な演出を持った『通盛』を「直ぐなる能」と言うことはできるのでしょうか。

また一方、世阿弥の『三道』では

一、軍体の能姿。仮令、源平の名将の本説ならば、ことにことに平家の物語のまゝに書くべし。

とあって、『通盛』はこれにも違反しているように思えます。通盛は「生田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れを」得た人物ではなかったし、この能の舞台となっている鳴門は「平家の一門果て給ひたる所」でもなければ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈」んだという場所でもありませんし。。

ぬえの結論なのですが、ぬえはこの能は、少なくとも井阿弥の原作の当初には「修羅能」として作られた能ではなかったのではないか、と考えています。

もちろん井阿弥の原作は伝わらず、世阿弥がどこまで原作に手を入れたのかも不明ではありますが、「源平の名将の本説」を描くのが「修羅能」であるならば、『通盛』は武将である通盛だけが主人公ではありません。ツレ小宰相は前場ではシテと同じような地位を与えられ、後場でもこの二人の逢瀬が重要な場面であるし、この二人の法華経による救済がテーマと考えられます。この能は武将の活躍や悲哀を描く能、というよりは、戦乱によって運命を狂わされた男女の愛と悲劇の物語と捉えるべきでしょう。

世阿弥が原作を改変し、その方法が「言葉多きを、切り除け切り除けして能になす」であったのならば、原作は二人の関係をより濃密に描いていたのかもしれないし、ぬえは世阿弥がそれを小宰相の入水事件と、一ノ谷での二人の逢瀬と通盛の戦死、という二つの物語に整理して、それをみずからが開発した「複式夢幻能」の形式にまとめたのではないか、などと想像を逞しくしています。

こして考えたとき、とくに後場でのシテとツレとの登場場面に、ぬえはほかの修羅能よりも『女郎花』や『船橋』『錦木』といった、やはり仲を引き裂かれた男女の愛欲を描いた能との近親を感じます。修羅能には珍しく『通盛』に太鼓が入るのも、それによって夫婦がそろってワキ僧の前に本性を現すのも、これらの3曲と共通の演出です。そうしてまた、世阿弥作とされてる『錦木』を除けば、『船橋』も『女郎花』も、『通盛』と同じく古作の能と考えられているのです。

『通盛』の最後の場面。。ようやくシテが活発に動作をする場面。。では典型的な「修羅能」としての型がつけられていますし、これをもって『通盛』は修羅能というジャンルに属する曲だと考えられていますが、ぬえにはむしろ、この場面こそ「修羅能」という範疇に括るために、世阿弥によって追加された場面なのではないか、とさえ思います。

派手な斬り合いなどの場面よりも、むしろ男女の気持ちの機微を描く能。。それが『通盛』の本質なのではないか、と考えております。

(この項 了)

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その9)

2016-05-18 02:37:29 | 能楽
最後の場面、「読誦の声を聞く時は」以降は、シテの頼みを受けてワキが読誦した法華経の功徳によってシテが成仏したことを表します。この部分、能『葵上』の最後の場面とまったく同文であることは有名ですね。同じ催しに『通盛』と『葵上』が上演されるときは(いや、重複を嫌う能ではそんな番組が組まれる事はあり得ないのですけれども)、『通盛』の方がこの重複している文句を替えるように、わざわざ次のような詞章さえ用意されています。

読誦の声を聞く時は。読誦の声を聞く時は。修羅の苦患を滅して。弘誓の舟にのりの道。彼岸に早く到りつつ。成仏得脱の身となり行くぞありがたき。身となり行くぞありがたき。

『通盛』も能の中では古作に属する曲ですが、『葵上』も同じく古い時代に作られた能です。同じ文句を共有している、という事は、どちらかが詞章をパクったのかも知れません。そうであればオリジナルなのは『葵上』の方でしょう。同じ日に上演が重なったときは『通盛』が譲って詞章を替えるから、というのが理由ではなくて、「心を和らげ」たのが「悪鬼」だ、と詞章にあるからです。平通盛は「亡者」ではあっても「悪鬼」ではありませんね。この表現は般若の面を掛ける『葵上』の後シテにこそふさわしいです。

が、どちらが詞章をパクったか? という観点ではなくて、ここは「どちらがより古作の能なのか」の証左としてこの詞章が参考になる、と考えておきたいと思います。世阿弥よりも前の時代の能については分かっていない事も多く、作者さえ判然としないのですから(能の作者が不明である点については世阿弥以降も事情は同じですが)。ですからたとえば、観阿弥・世阿弥ら、後に現代にまで継承されている能楽の家の系譜とは違った方法論に拠って上演していた「座」(能の劇団)もあったかも知れないのです。その集団が、たとえば、必ず同じ文句「読誦の声を聞くときは。。」で終止する台本ばかりを書く伝統だって、あったかも知れない。そうであれば『葵上』が『通盛』より古く成立した曲だとも言えない事になります。これは証拠となる資料も伝わらないので荒唐無稽で極論でしょうが、同じくそんな伝統はなかった、という証拠も、これまたないのです。こう考えるときには「悪鬼」という表現も判断材料のひとつにはなり得る。。

ちょっと脱線したので話を戻して。。

こうして能『通盛』を読み解いてきましたが、ぬえがどうしても気になるのは、能『通盛』の後場のクセで描かれている合戦前夜の小宰相との逢瀬です。

能ではここは妻との仲睦まじい語らいの場面なのであって、それを弟の教経が割って入ったために通盛は合戦の場に身を投じ、これが小宰相との最期の別れとなりました。

が、『平家物語』を読むとき、二人の逢瀬は必ずしも「仲睦まじい逢瀬」だったとは言い難いのではないでしょうか。通盛は翌日に自らの戦死を予感して、想像をたくましくして考えれば、妻・小宰相との最期の別れのために彼女を陣屋に呼び寄せたのです。一方、呼び出しを受けた小宰相は通盛に会って、みずからの懐妊を告げました。

通盛は妻の懐妊を喜びましたが、それは彼がこの世の形見として子を残す事を喜んだのであって、やはりみずからの死が厳然として心を独占していたからです。一方の小宰相は、通盛が「いつもより心細げに打ち嘆きて」戦死の予感を語ったのにもかかわらず、「軍はいつもの事なれば」と、通盛の悲壮な思いに気づきませんでした。

ぬえが考えるに。。この夜の逢瀬で、二人の気持ちはすれ違っていました。みずからの死を予感した通盛は悲しかったのです。だから小宰相にもうひと目会って、自分が亡き後の彼女の生活について心配をしていました。

でも、小宰相は、それとは逆に、この夜の逢瀬が嬉しかったのではないでしょうか。まずは都落ちをしてから戦乱に明け暮れる生活の中で、夫・通盛とゆっくり語り合う時間がなかったこと。これが叶えられたのがこの夜の逢瀬なのであって、しかも彼女はその場で懐妊を通盛に告げることができたのです。二人の愛の証しが新しい生命となって結実した。。彼女にとってこの夜は二人の希望のある未来を確認しあう場だったのです。

悲しいかな、この二人の気持ちの齟齬が悲劇を生んだという事でしょう。通盛は自分が亡きあと、小宰相が形見の子を育て、自分の後を弔ってくれることを願っていました。ところが小宰相には通盛の死は予想できなかった。いつしか二人には平和な世の到来と、楽しい家庭生活が訪れるであろうと、懐妊した彼女はそう思ったのです。

だからこそ、通盛の戦死を聞いた小宰相は動揺し、乳母の制止も振り切って夫の後を追ったのでした。

このところ、『平家物語』では乳母の切実な説得が胸を打ちます。いわく、幼い子や老いた父母を残して小宰相さまに従ったこの乳母の気持ちを何とお心得なさりますか。通盛さまの御子を出産なさって養育する事こそが供養でありましょう。また冥土では六道と言って行き場はひとつではありません。後を追われても通盛さまに会う保証はないのです。ただお心を静めて。。

能では、こう説得する乳母の制止を振り切って小宰相は入水するのですが、『平家物語』では乳母の制止を聞いた小宰相は 乳母に入水するつもりだと告げた事を後悔して、その場をなんとか取り繕い、その夜みなが寝静まった頃に一人で身を投げました。お腹の子どもは、もし「十に九は必ず死ぬるもの」と言われた出産を無事に済ませても、生まれてくる我が子を見るたびに、夫・通盛の面影をそこに見てしまい、心の安住はない、と 彼女は思い定めていました。

結局。。通盛と小宰相は、相思相愛だったのに、最期はあらゆる面で違う道を歩んでしまいました。死んだ場所も通盛が摂津国一ノ谷に対して小宰相は阿波国鳴門。死亡の原因も通盛の討ち死にに対して小宰相の入水。。

死後、二人は成仏できていないようですが、死亡の理由が仏教的な解釈によれば通盛が戦乱で殺生戒を冒したのに対して、小宰相は通盛に対しての妄執が止みがたかったための死、と捉えられるかもしれません。乳母が小宰相に言ったように、このような心のすれ違いが、彼らを六道の別々の道に向かわせてしまったのかもしれない。

だから、ぬえはこう考えています。能『通盛』の前場で夫婦は仲良く釣舟に乗って登場しているように見えるけれども、じつは冥土ではあい見える事ができていないのではないか。同じ釣舟に同乗しているように、お互いの姿は見えていても、触れあうことはできない。。二人の気持ちの齟齬から生まれた死の位相の違いが、死後にも二人には壁となって立ちはだかり、その苦しみから僧に回向を求めて二人は現れたのではないか。

そう考えるとき、前場の終わりにシテがツレに手を掛けて制止する事にもう一つの意味が生まれてきます。

ぬえは以前にこのツレを制止するシテの行動を、小宰相の入水のときに通盛はすでにこの世にいなかった事から、入水しようとする乳母の「行動」だけを抽出して、小宰相がそれを振り切る決意の現れとして表現しているのだ、と解しました。この行動を起こしたのは通盛の霊でもなく、ましてや乳母の霊でもなく、つまり人物ではなく、小宰相の入水という行為の強さを表現する手段なのだと。

しかし、やはり通盛は彼女に自分の後を追ってほしくなかったのです。やはり小宰相を制止したのは、自分の後を追ってほしくない通盛の心であったかもしれません。

通盛は合戦前夜の逢瀬で小宰相に、自分が死んだら、我が子を形見として育て、自分の後を弔ってほしい、と頼んでいます。しかし小宰相は、そのいずれの頼みも実現することなく、愛する夫の許に向かおうとしたのでした。この二つの気持ちのズレが、結果的に二つの死を導き出してしまい、それは死後も二人を苦しめる、永劫の悲劇に繋がってしまったのでしょう。

ぬえはこの能を修羅能として捉えるよりは、やはり男女の愛の、悲劇的な物語として作られた能なのではないかと考えています。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その8)

2016-05-17 22:02:35 | 能楽
先ほど”前場では『主役』ではあるけれども『主人公』はなかったシテが、後場ではそれを取り返すかのように。。”なんて、まるでシテが後場で大活躍するかのように書いてしまいましたが、実際の舞台では、前述のように修羅能の常套として床几に掛かって戦語りはするけれどお、それは ほんの2~3分のことで、そのあとは小宰相との合戦前夜の仲睦まじい語らいの場面になる。。つまり、後場でもシテは、やはり動かないんですよね。

『通盛』という曲。。本当に「修羅能」という括りで考えてよい曲なんでしょうか。

ともあれ、舞台は合戦前夜の夫婦の語らいの場面。
ここは能では通盛が自分の亡きあと頼りとする人がない小宰相の行く末を心配したこと、自分が死んだら都に帰って跡を弔ってほしいと頼んだこと、などが語られていますが、じつは『平家物語』ではそれだけではない、かなり深い内容が夫婦の間で語られています。

まず、通盛は翌日の合戦を前にして、明日には戦死する、とう予感がありました。小宰相が乳母に語ったその夜の通盛の有様は、「いつもより心細げに打ち嘆きて『明日の軍には、一定討たれなんずと覚ゆるはとよ。吾いかにもなりなん後、人は如何し給ふべき』」と語ったとのこと。これに対して小宰相は「軍はいつもの事なれば」通盛が感じていた予感も気にはとめませんでした。

それどころか小宰相は逆に、これまで通盛に隠して言わなかった重大な事件を告げたのでした。

それが小宰相の懐妊で、これを聞いた通盛は「斜めならずうれしげにて」、私は三十歳になる今まで、子というものがなかった。同じくは男子であってほしいな、などと語りますが、一方ではやはり自分の死の予感が頭から離れないのでしょう、この世の形見に残しておく子なのだ、などとも語ります。

通盛は小宰相の身体もいたわって、もう何ヶ月になるのだ、気分はどうだ、この波の上、船の内の住まいがいつまで続くかわからないので、無事に身ふたつになってから後のことも気がかりだ、と細々と妻のことを気に掛けています。

能の舞台にこれらの夫婦の語らいの内容は描かれていませんが、先日、仙台での能楽ワークショップで能『通盛』のビデオを見せながら、『平家物語』に書かれているこの夫婦の語らいの内容をお知らせしたら、参加者から「それを知るとこの場面はまったく違った感じに見えてくる」という感想が出ていました。能『通盛』が作られた当時『平家物語』は、少なくとも現代よりはずっと人口に膾炙していたでしょうから、能の作者はそういう『平家物語』の中の通盛と小宰相の夫婦の物語が観客の中でイメージされることを予想して台本を簡素なままにしておいたのかも。

また『平家物語』では小宰相は後に乳母に、女は出産のときに「十に九は必ず死ぬるもの」とも語っています。当時の産科医療の現状というものはそんなものだったのでしょうが、夫婦の会話にそういう話題も出たかもしれません。こういう事も現代人の目から見えているものと、能『通盛』が作られた当時とではずいぶん印象が違う点なのかもしれません。

。。でもこの『平家物語』に書かれている内容を知ると、能では通盛は妊娠を知った妻に飲酒を勧めていることに。。ま、これはいいか。(汗)

ぬえがここで問題にしたいのは、合戦の前夜に、やっと逢瀬の機会を得た二人ですが、じつはこのときの二人の思いがまったく違う方向を向いていたのではないか、という点です。この曲のテーマにも関わる重要な問題だと思いますが、それは後ほど。。

さて勇猛で知られた通盛の弟の能登守教経が見咎めたことで、夫婦の逢瀬は破綻を迎え、通盛は戦場へと赴きました。

シテはツレの前から立ち上がり、常座に至りますが、なおもここで後ろ髪を引かれる思いで二足下がり、それからガラッと雰囲気を変えて器楽演奏による短い舞「翔」(かけり)となります。

「翔」は実際には舞と呼ぶべきかどうか疑問もあります。ほんの3~4分の短い間に囃子はかなり急激にテンポを速め、また緩め、と変化に富み、シテもそれにつれて動作しますが、動作、と言うよりはむしろ感情の起伏を表現していると言うべきで、だからこそ「翔」は修羅能の闘争の場面に使われるほか、狂女能に頻出して行方の知れない我が子や恋人の姿を求める女性のシテの狂おしい感情を表現したりします。

能『通盛』の中で「翔」はそれらとはちょっと違う、もう少し直裁的な使われ方をしています。
小宰相の前から立ち上がって合戦の場に向かった通盛。短い「翔」のあとにはシテは「さる程に合戦も半ばなりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ」と言っていて、すなわちここでの「翔」は、一ノ谷での両軍入り交じっての合戦そのものを表している、と言えると思います。ツレとの逢瀬の場面から3~4分後には、おそらく妻と別れて半日後の通盛の、まさに戦場に屹立する姿を描き出すわけで、こういうところに能の場面転換の鮮やかさを見る思いです。

シテ「さる程に合戦も半ばなりしかば。但馬の守経政も早討たれぬと聞ゆ〈とワキヘ向き〉
ワキ「さて薩摩の守忠度の果はいかに。
シテ「岡部の六弥太。忠澄と組んで討たれしかば。あつぱれ通盛も名ある侍もがな。討死せんと待つ所に。すはあれを見よ好き敵に
〈と脇正の方へ出ヒラキ〉
地謡「近江の国の住人に。近江の国の住人に
〈と数拍子踏み〉。木村の源吾重章が鞭を上げて駈け来る〈扇高く上げ向こうを見〉。通盛少しも騒がず。抜き設けたる太刀なれば〈太刀を抜き正中へ行き〉。兜の。真向ちやうと打ち〈と一つ切りつけ〉返す太刀にてさし違へ〈と両腕組み左へそり返り安座〉共に修羅道の苦を受くる。憐みを垂れ給ひ。よく弔ひてたび給へ〈と左袖を掛けワキへキメ〉
地謡「読誦の声を聞く時は。読誦の声を聞く時は
〈と正へ向き面伏せ聞き〉。悪鬼心を和らげ。忍辱慈悲の姿にて〈と勇健扇仕ながら立〉。菩薩もこゝに来迎す〈と正先に胸ザシ仕て行き右拍子〉。成仏得脱の〈とフミビラキにて右へ廻り〉。身となり行くぞ有難き〈とワキへ向き合掌〉身となり行くぞ有難き〈と右ウケ左袖返しトメ拍子〉

ここは修羅能らしい場面で、シテは太刀を抜いて奮戦する有様を見せ(この能の中で唯一の多くの動作がある場面でしょう)、やがて(彼の予感通りに)通盛は討ち死にをすると、さてワキ僧に向かって弔いを頼みます。すなわち奮戦の場面は、その前夜の小宰相との逢瀬の場面などと ともどもに、観客は過去に遡ってそういう事件を目の当たりに見ているのではなく、これはシテによるワキ僧への懺悔のための仕方話だということになります。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その7)

2016-05-16 13:13:20 | 能楽

シテが幕を揚げて登場し橋掛リを歩んで、やがて舞台に入るとき、『通盛』ではワキから先に謡いかける演出です。能『鵺』も同じ演出ですが、謡い出しの間合いは決まっているのでワキ方は囃子に精通していなければならず、難しいところです。意味としては亡者であるシテやツレのために法華経を手向けてやっている、ということで、これを聞いてシテは「今者已満足」(今こそ私も満ち足りている)と答えてワキに向かって合掌します。

ワキ「如我昔所願。後シテ「今者已満足〈とワキヘ合掌〉。ワキ「化一切衆生。シテ「皆令入仏道の。
地謡「通盛夫婦。御経に引かれて
〈と角にて袖をかけ〉。立ち帰る波の。シテ「あら有難の。御法やな〈と合掌〉。

ところでこの場面も破格なのです。修羅能の中でシテの武将の妻が登場するのは『清経』とこの『通盛』だけですが、『清経』は妻の夢枕に平清経の霊が現れるという設定で、ツレの清経の妻は生きている人間です。これに対して『通盛』ではツレ小宰相もこの世には亡い人で、シテの通盛とともに僧の弔いを受けて冥界から現れた、という設定なのです。

この場面を見るとき、修羅能のほかの曲というよりは、むしろ『船橋』『女郎花』『錦木』と似ている事に気がつきます。ぬえは、じつは『通盛』は修羅能として作られた曲ではないのではないか、と考えていまして。。今挙げた3曲はすべて男女間の妄執による堕罪を描いた曲で、『通盛』はこれらの曲と系統を同じくする曲なのではないかと思っています。

やがて僧は現前に現れた通盛と小宰相の霊と言葉を交わします。

ワキ「不思議やなさも艶めける御姿の。波に浮みて見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
ツレ「名ばかりはまだ消え果てぬあだ波の。阿波の鳴門に沈み果てし。小宰相の局の幽霊なり
〈ツレは脇座に下居〉
ワキ「今一人は甲胃を帯し。兵具いみじく見え給ふは。いかなる人にてましますぞ。
シテ「これは生田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れを。越前の三位通盛。昔を語らんその為に。これまで現れ出でたるなり。
とワキに向かってサシ込 ヒラキ

ツレは登場したのもつかの間、そそくさと脇座に着座して(このとき、それまで脇座に着座していたワキとワキツレは座ったまま右にいざり寄って場所をツレのために空けます)、以後シテに注目が集まります。この能は前場ではシテは「主役」ではあるけれども「主人公」はツレでしたが、今度はそれを取り返すかのように、僧の弔いを受けているのは夫婦二人であるはずなのに、シテ通盛が二人を代表する形で僧に感謝を述べ、またその後は通盛の武将としての姿が描かれ、また通盛の視点から 合戦前夜の小宰相との語らいの場面が語られます。

地謡「そもそもこの一の谷と申すに。前は海。上は険しき鵯越〈と床几にかかり〉。まことに鳥ならでは翔り難く獣も。足を立つべき地にあらず。
シテ「唯幾度も追手の陣を心もとなきぞとて。
地謡「宗徒の一門さし遣はさる。通盛もその随一たりしが。忍んで我が陣に帰り。小宰相の局に向ひ
〈とツレの前に下居〉
地謡「既に軍。明日にきはまりぬ。痛はしや御身は通盛ならでこのうちに頼むべき人なし。我ともかくもなるならば。都に帰り忘れずは。亡き跡弔ひてたび給へ。名残をしみの御盃
〈と通盛は扇を拡げツレノ前にて下居〉。通盛酌を取り。指す盃の宵の間も。うたた寝なりし睦言は。たとえば唐土の。項羽高祖の攻めを受け。数行虞氏が涙も是にはいかで増るべき。燈火暗うして。月の光にさし向ひ。語り慰む所に。
シテ「舎弟の能登の守。
地謡「早甲胃をよろひつゝ。通盛は何くにぞ。など遅なはり給ふぞと
〈と幕の方へ向き見〉。呼ばはりしその声の。あら恥かしや能登の守。我が弟といひながら。他人より猶恥かしや。暇申してさらばとて。行くも行かれぬ一の谷の。所から須磨の山の。後髪ぞ引かるゝ〈とシテ柱まで行き正へ向き〉 翔

能『通盛』では平家の武将としての彼を「田の森の合戦に於て。名を天下に上げ。武将たつし誉れ」「宗徒の一門さし遣はさる。通盛もその随一たり」と美化して描いていますが、じつは平通盛は『平家物語』によればほとんど戦陣での勲功というものはなく、かえって負け戦の方が先に目につく程度。それも敦盛や忠度のように負け戦ではあってもその敗死が美談として人口に膾炙するような人ではなかったらしく、戦場での様子の描写はなく、わずかに『源平盛衰記』に彼の最期の様子が描かれているものの、『平家物語』では、いわば「合戦の勝敗のまとめ」のようにその戦死が紹介されている程度です。

だからこそ通盛は『平家物語』の中でもほとんど無名に近く、もっぱら能によってその名が知られている人物、と言ってよいでしょう。その能が彼をシテとして取り上げたのも、ここでは名将として描かれているけれども、むしろ武将としての彼よりも小宰相も巻き込んで夫婦ともに命を落とすことになった悲劇を描く能なのだという事がわかります。

実際のところ、修羅能では常套である演出。。本性を現した武将のシテが床几に腰を掛けて合戦の様子を語る。。という場面は用意されていますけれども、ここに座っているのは ほんの2~3分にしか過ぎないのではないでしょうか。すぐにシテは立って小宰相と向き合って舞台に直接座り、二人で語り合った合戦前夜の再現の場面となります。ここで床几を離れて舞台に着座するのは、夫婦の語らいの親密を表すためでしょうね。

この場面では、『平家物語』に描かれているように、通盛が自分の亡きあと頼りとする人がない小宰相の行く末を心配したこと、自分が死んだら都に帰って跡を弔ってほしいと頼んだこと、などが描かれていますが、じつは原拠は『平家物語』というよりは『源平盛衰記』に近く、二人の語らいを通盛の弟・能登守教経が見咎めた、という話は『盛衰記』に描かれています。また通盛が小宰相に酌をして二人で酒を飲みながら話をした、というのは『平家』『盛衰記』の異本に出ているのかもしれませんが、今回はこの記事を見つけだすことができませんでした。

しかしこの場面、じつは『平家物語』には二人の語り合った内容が細々と記されています。これを事前に知っていると、能『通盛』での二人の様子を、より共感を持って見ることができるのです。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その6)

2016-05-16 12:02:37 | 能楽
僧は海岸の岩の上に着座したままで(この曲では場面設定が終始 鳴門の海岸なので、ワキは能の冒頭で着座すると最後までそのまま着座し続けます)、読経の体で「待謡」を謡います。

ワキ/ワキツレ「この八軸の誓ひにて。この八軸の誓ひにて。一人も洩らさじの。方便品を読誦する。
ワキ「如我昔所願。


この「待謡」の終わりに太鼓が打ち出して「出端」と呼ばれる登場音楽が奏されます。
源平の武将をシテとする「修羅能」の中で太鼓が登場するのはこの『通盛』のほかには『実盛』『朝長』がありますが、『通盛』以外の2曲はいずれも後シテが重厚な登場をする曲で、『通盛』の後シテに「出端」が奏されるのは、それとはちょっと違った意味合いであろうと思います。

やがて後シテ・平通盛が若々しい武者の姿で現れ、それと同時に後見座に後ろ向きに着座していたツレも立ち上がり、舞台に入ると大小前(大鼓と小鼓の前。。舞台奥の中央部分)に立ちます。

ツレは前場のままの姿で扮装を替えないわけですが、もちろん前場では前シテの連れ合いのような登場ですので、違和感はあるものの「漁師の女」、というような役回りで、これは化身としての姿。ここで登場したのは、小宰相の在りし日の姿、という意味になり、また通盛と小宰相はともに連れ立って一緒に登場した、という意味です。

このへん、それならば前場の終わりでツレもシテと一緒に中入して、扮装を替えた方が化身から小宰相の本来の姿への変身が より強く印象づけられる、とは思います。

また一方、前場の本文中に「竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす」という文句があるので、古い時代の本来の演出では前ツレは若い女ではなく姥(老婆)だっったのではないか? という意見も提出されています。同じような例は『通小町』にもあって、『通盛』も『通小町』も、前ツレを姥の姿で舞台に登場させる実験的な試みも行われているようです。

なぜ前ツレが若い女で、シテのように後場で扮装を改めないのでしょうか?
能楽師としては、単純に考えればシテとツレのヒエラルキーの差が理由かな? とも考えられなくもないのですが。。つまりツレという助演者の分際では主役たるシテと同じように扮装を替える地位を与えず、それによってシテの変身に観客の注目を集める目的がある、とかです。また楽屋内でも二人の装束を替えるのは大変なので、助演者は最初から若い女で登場させておいて、中入でもツレは舞台に残しておくことで後見の仕事を軽減する、という意味も考えられなくはないです。

が、ぬえはそれとは少し違う考えを持っています。
いわく、作者が能『通盛』を作った当初から、現在の通りツレは若い女のままの扮装であって、それにはちゃんと意味があるのではないかと。

まずは前ツレですが、若い女の姿で登場させていますが、これが最初から「姥」なのである、という設定なのではないか、と ぬえは考えています。

釣舟に乗って登場するのが年老いた漁師と若い女、というカップルはかなり不自然ですね。夫婦。。ではなさそうだし、そうであれば父と娘? それでも夜釣りの労働に娘を従事させている父、というのも不自然です。が、この「不自然さ」にこそ意味があるのではないかと ぬえは思うのです。

これ、実際にはやはり前場に登場するのは「老人」と「老婆」の夫婦なのではないでしょうか。
前掲の「竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす」という文言がまさにそれを表しているわけで、それはそのまま、この二人が後場で通盛と小宰相という「夫婦」の姿で登場する伏線でもあります。

が、実際には前場に登場しているのは姥ではなく若い女であるわけですが、ぬえには、古来このツレの役は老婆の扮装ではなく「若い女」だったのだと思います。この能は、その若い姿のままで「姥」と見立てているのではないかと思うのです。能には見立てはつきものですが、こうなるとかなり高級というか難解です。

しかし、こうした「不自然さ」が作者の意図なのではないかと ぬえは考えます。その「不自然さ」は、シテがツレに向かって「や。もろともに御物語り候へ」と小宰相の最期の有様を語るよう促し、ツレがその当人の小宰相であるかのように語るあたりから、混迷の度合いを深めてゆきます。観客は前シテとツレが登場した場面ですぐに、この二人の関係はどうなっているのだろうか? という疑問を感じるはずです。そうして地謡は躊躇なく「姥も頼もしや」とツレは老婆なのだ、と断言しています。それなのにツレは「若い」小宰相の事を自分の事のように語り出す。。

しかし、前ツレが舟から下りて小宰相の入水の有様を表すところで、このツレは小宰相の化身であり、漁翁は通盛の化身であることは疑いがなくなります。言うなれば、最初「姥」として登場したツレが、舞台の進行につれて次第に若やいでゆき、いつの間にか若い小宰相その人の姿と重なってゆく、という仕掛けなのではないかと思うのです。

実際のところ、前ツレの小宰相の語りの場面から入水の場面では、これが老婆の扮装では 小宰相の化身である、という現実味が沸いてきませんね。シテとツレの年齢差という不自然な前場の印象も、中入の場面で二人が通盛と小宰相の化身だと明らかになったとたんに整合が取れるのだと思います。


私たちは初演から数百年を経た能を見て、こういう「不自然さ」に行き当たったとき、長い上演の歴史の中での改変なのではないか? と考えがちですが、室町時代の観客は自分たちに提示されたそのままに舞台を鑑賞していたはずで、現代人である私たちはこういう「不自然さ」をそのままに受け止めて意味を探る事も必要ではないかと思います。

ぬえも最初は「姥」という文言に、古典文学の用法として「老婆」という以外にほかの意味があるのではないか? などとも考えたりしましたが、「姥」という字が「女偏」に「老」である以上、若い女の意味もあるのではないか? などという期待は あまりに無謀でした(笑)。そこから視覚的には若い女を舞台に登場させ、聴覚的には「姥」という文言で表されるこのツレの役に、作者の特別な意味が隠されているのではないか? という発想に繋げることができました。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その5)

2016-05-13 12:59:54 | 能楽
シテが幕に中入すると、まずは後見によって舟の作物が幕に片づけられます。次いで、この少し前に目立たぬように橋掛リに登場して狂言座(一之松の裏欄干のあたり)に着座していた鳴門の浦人(間狂言)が おもむろに立ち上がり、この夏の間逗留している僧が経文を読誦するのを拝聴しよう、と言って舞台に入り、僧と問答を交わします。

僧は小宰相について知っている事を聞かせてくれるよう浦人に頼み、浦人はそれに応じて物語をします。このあたり、現行の詞章も持っていたのですが資料が見つからず、古い文献から詞章をご紹介させて頂きます。明らかな誤写などは訂正し、また読みやすいように適宜漢字表記や送りがな、句読点等も改めてあります。

さる程にこの浦にて御身を投げ給ひし小宰相と申したる御方は。頭の行部卿と申す人の御息女にてましましたると申す。通盛の卿と夫婦にならせられたる様躰は。小宰相の局十五六の春の頃。通盛御覧じて思し召惑われ。文玉づさを贈られ侯へども取り入れ給ふ事もなく。御返事も御座なく候間。通盛はなを悶へ焦がれ給ひ。また細々と書き遣わされ侯処に。御ゑんも通じけるか。小宰相の局 女院の御前へ参られしに。道にて彼の使ひ参り会ひ。通盛の御文を。小宰相の召したる御車の内へ投げ入れ侯へば。何者ぞと思し召し開ひて御覧じければ通盛の御文なり。さすが捨て給ふにもあらざれば御袂に押し入れ。女院の御前に参られしに。所こそ多けれどもその文を女院の御前にて落し給ふ。女院御覧じて。女房達に何方の文ばし得給ひたる。人々や有ると御尋ね侯へば。何も知らざる由を申すその内に。小宰相の御顔あかく成り侯間、是こそと思し召し開ひて御覧じければ。案の如く通盛の御文なり。細々と書き、奥に一首の歌御座有りたると申すその御歌は、

 我が恋は。細谷川の丸木橋。踏み返されて濡るゝ袖かな。

と。御座候を御覧じて。是は如何様にも御返事有るべしとて。かたじけなくもみづから御返事を遊ばし其の時の御返歌に、

 たゞ頼め。細谷川の丸木橋。文返しては落ざらめや

と。か様に御返歌を遊ばし。それより夫婦の語らひを成されたると申す。又小宰相の御身を投げ給ひたる様躰は。平家は一ノ谷の合戦に打負け給ひ。散り散りに御成りあつて御一門なお舟に召し。四国へ落ち給ふ処に。小宰相の召したる御舟は。折節なん風荒くしてこの阿波の鳴門へ吹き寄せよせ候処に。是にて小宰相は。通盛の御事をいかゞと案じ思し召すところに。通盛の郎党この鳴門へ落ち来り小宰相に申す様は。「道盛は討ち死に成され侯 御供申すべきを。通盛かねてより御申し有りたるは。小宰相の御行方を尋ね申せとの御事により はかなき命を生き延びこれ迄参りて侯」と申せば。小宰相は驚き給ひ この上は命有りてもせんなしとて其のまゝ御身を投げ空しく成り給ひたると申す。なんばう傷わしき事にて侯ぞ。まづ我等の聞き及びたるはかくの如くにて侯。


ほぼ『平家物語』に出てくる小宰相と通盛のなれそめをそのまま紹介している形ですが、一ノ谷の合戦の前夜に通盛が陣屋に小宰相を呼び寄せて語り合ったことや、通盛が討ち死にしたことを知った小宰相が入水を決意したときにそれを制止しようとした乳母との鬼気迫る会話は、少なくともこの古い資料には登場していないようです。

いずれにせよ僧はこれで、先ほど出会った漁翁と若い女が通盛と小宰相の霊であったことを確信し、浦人に勧められるままに夜もすがら法華経を読誦し、二人の霊を弔うことになります。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その4)

2016-05-11 11:59:47 | 能楽
ぬえの解釈。。これは能楽師だから考えること、かもしれませんが、稽古をしてみて実際の舞台進行に即して持った印象なのですが。

つまり、この場面。。というよりこの能の前半部分はツレ小宰相の物語なのであって、いうなればツレが主人公であって、漁翁のシテは、「主役」ではあっても「主人公」ではないのではないか、というものです。

ぬえの解釈によれば、入水の場面で小宰相の袖にすがって止めるのは、通盛の化身ではなく、やはり乳母なのです。

それは例えば、次のような、舞台に現れる小さな事象を積み重ねてきたときに考えられるのではないかと思います。いわく、入水を止める場面での言葉。。「この時の物思ひ君一人に限らず。思し召し止り給へ」が、夫の遺言を背いてまで彼の後を追おうとする妻の決意を翻すには、あまりに薄っぺらな説得であること。。これは小宰相の入水に対する通盛思いではなく、やはり乳母の言葉と解すべきでしょう。

そもそも、すでに先に討ち死にしている通盛が、同じく入水自殺を遂げた妻を 今さら引き止める、という構図そのものに違和感があります。僧に対して懺悔のために自分たちの死の有様を仕方話に演じているのだとしても、妻の死に夫の動作は介在できないはずですし。

それから、もしこの能の前場での主人公がシテではなくツレだと考えると、正面に向けて出された舟の先の方にツレが立ち、シテはその後ろに立つことでツレの陰に隠されて客席から見えにくい事も説明がつきます。もちろん、舟を漕ぐのは後ろに乗る人の役目ですし、そこに男性のシテが立ち、女性であるツレがお客さんのようにその前に立つのは当たり前のことです。そうして、もしもシテが前に立ってしまったら、それこそ主役に隠されたツレはまったく舞台に登場した存在意義がなくなってしまう。さらにはそのような位置関係では小宰相が死去したこの場所で彼女の最期を物語るには圧倒的に不利。。というか不可能でしょう。

そんな事からシテが後ろに、ツレが前に立つのは当然なのですが、これによって終始、シテの姿は正面から見えづらい事になります。ところが、この前場の核心となる部分は小宰相の最期です。そうであれば物語はその化身であるツレの口から語られるのが自然ですし、最も効果的であります。そのためにはツレ一人に観客の注目が集まる方が、その効果を最大に高めることができるのです。

現に、ワキ僧から鳴門で死亡した平家の事を問われたシテは「中にも小宰相の局こそ。。」と言いかけて、あえてツレに「もろともに御物語り候へ」と発言を求めます。そうしてこれ以後、ずっとシテとツレとの連吟になるのですが、その中でシテは「こゝだにも都の遠き須磨の浦」の1句を謡うのみで、これに対してツ
ツレは「さる程に平家の一門。。」「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。。」「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ。。」と、多くの説明をみずからの口によって行います。

この場面で語り手は明らかにツレ小宰相なのであって、シテは「主役」という立場上、連吟の主導を執るけれども、内容としてはむしろ「もろともに」と言うよりはツレの一人語りと考えるべきでしょう。シテは、舞台への登場からワキ僧との問答など、舟の所有者として、ツレよりも年長者として、一定の主導権は執るけれども、ワキに問われて「鳴門で死去した平家一門」を物語るとき、その話題はおのずから小宰相の悲劇にならざるを得ないです。ですから「や。もろともに御物語り候へ」とシテが言うとき、物語の「主人公」はシテの手を離れてツレに移った、と考えることができると思います。

そうであれば、「乳母泣く泣く取り付きて」と地謡が謡うときにツレの袖にすがって引き止めたのは、やはり通盛の霊ではなくて、「乳母」であったのだと思います。それは、乳母の霊が登場したのでも、また通盛が乳母の役を演じたのでもなく、ただ、そういう光景がその夜に繰り広げられた、ということを視覚的に説明する、演出上の方便として行われるのであろうと考えています。この場面。。ツレが入水を決意するところから、それを乳母が引き止めようとする場面、そしてツレの入水までは、シテは「主人公」であることをツレに譲って、その演技の補助的な役割を勤めているのだと思います。

そしてツレの入水の場面にはまた特筆すべき演出が施されてあります。

それは、ツレが乳母の制止を振り切って、舟から<左側>に下りて膝をつくのに対して、シテは反対側。。<右側>に向いて、ツレの姿を見失った体で海面を見回して呆然とした表情を見せるのです。(注:右・左は演者から見た方向ですので、客席からは逆に。。ツレは向かって右側の舞台中央の方向に舟を下りて膝をつき、シテは向かって左側。。脇正面の客席の方にその姿を探す型をします)

一瞬のことではありますが、シテとツレが あべこべの方向を向いて演技をするので、お客さまには混乱があるかもしれませんね。

これは、舟の作物がシテ柱の先、舞台の右側いっぱいに出されているので、ツレは物理的に舟の右側には下りられない(舞台から落ちてしまう)、という理由もあります。けれどもこの動作の理由はそれだけではないのです。

現に、ツレは入水する直前に「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ」と謡うとき、その後に実際に舟を下りる方向ではなく、やはり<右側>に向くのです。この曲では阿弥陀如来がおわす西方浄土を、ツレから見て<右側>に設定しているのは明らかで、入水した後にシテがツレの姿を探す方向とも一致しています。

それなのにツレはそれとは反対側の<左側>に向かって入水する型を見せるわけですが、つまりこれは、小宰相が入水した、という「事実」あるいは「動作」だけを抽出して見せているのだと思います。「こうして海に飛び込んだ」という動作が観客の目に入れるのが目的で、ツレは舟から下りて膝をつくと、すぐに立ち上がって、後見座に後ろ向きに着座してしまいます。能では常套手段の演出で、この役者はもう舞台上には存在しない、という事を意味する約束事です。そうして、ツレに袖を振りきられたシテ。。乳母は、あわてて「小宰相が飛び込んだ方角」である<右側>の海面を目で探し、それが得られないと分かると呆然と中空を見上げます。このとき、シテ。。乳母が探す方向にツレの役者の身体があってはならないはずです。

ずっと動作が少ない能であるからこそ、この一瞬の動きはとても目に鮮やかに飛び込んできますね。一瞬のうちに観客は舟の<左側>に小宰相が入水した、という「事実」を見、すぐさまその姿を見失った「残された者」。。乳母の悲嘆を<右側>に見るのです。これに気づいた ぬえは、大変優れた演出だと感嘆しました。

付け加えて言えば、ツレを見失ったシテは激しく右左に面を動かして(これを「面を切ル)と言います)海面にツレの姿を求めますが、このとき(役はあくまで乳母であるけれども)、シテが掛けている老人の面。。わけても『通盛』の前シテに使う「笑尉」や「朝倉尉」という面は、面を切ルと大変効果が出る面なのです。ほかにも面を切ルのが利く面には「泥眼」や「般若」がありますが、作者がその効果まで計算に入れて、『通盛』の前シテを、通盛本人が若くして死んだにもかかわらず、あえて老人に設定したのだとしたら。。

先ほど「シテは『主人公』であることをツレに譲って、その演技の補助的な役割を勤めている」と書きましたが、もちろんそのまま「主人公」であることを放棄したままでは終わりません。

ツレの姿を見失って呆然とした有様は、それを制止し得なかった乳母の心でもありましょうし、同時に愛妻を失った(ことを冥土で知った)通盛の悲しみでもあります。シテは自然に乳母から通盛本人へとその主体を移し、喪失感を漂わせたまま、ツレと同じように舟から下りると、正面を向いたまま力なく後ろに下がると、やはり膝をついて座ります。

ツレが一瞬で海に飛び込んだ様子とは対照的に、シテは静かに 静かに膝をつくことで、ずぶずぶと海の中に姿を消した事を表現します。

かくしてワキ僧はここに至って、はじめてこの漁師たちが生きた人間でないことを悟ったでしょう。そうしてシテが再び立ち上がって、これも静かに幕に姿を消したとき、舞台上には二人が登場する前と同じように舟がポツンと取り残されるのです。誰も乗っていないままに波間を漂う舟。。ちょっと怖いですね。

今回は笛が森田流のため、シテが橋掛リを歩んで幕に向かうとき、彩りの笛を吹いてくださいません。無音の中を歩むのはなかなか難しいですが、緊張の糸がとぎれる事がないように歩みたいです。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その3)

2016-05-11 09:34:34 | 能楽
昔物語をしているうちに夫である通盛の死亡を受けて、妻は「主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み」と立ち上がり、入水の決意を語り、涙します。もう完全にツレは小宰相その人であることは疑いなく、続く入水の場面を予感させます。

地謡「西はと問へば月の入る。西はと問へば月の入る。其方も見えず大方の。春の夜や霞むらん涙もともに曇るらん。乳母泣く泣く取り付きて。この時の物思ひ君一人に限らず。思し召し止り給へと御衣の袖に取り付くを〈とツレの右袖に両手をかけ〉。振り切り海に入ると見て〈ツレは左の方へ作物を下り下居〉老人も同じ満汐の。底の水屑となりにけり底の水屑となりにけり〈とシテも作物より下り下居〉。〈中入:シテは幕へ入り、ツレは後見座に下居〉

前半部分の最後の場面です。まずは素晴らしい名文なのですが、演出はそれを上回る素晴らしさです。

ツレは入水の決意を固めると阿弥陀如来のおわす西方浄土を希求し、されども季節は春。夜の霞があたりに立ちこめ、月が没するあたりもおろに霞んで見え分かない。いや、決意はしたけれど、自らの命を絶とうとする悲しみの涙は押さえようもなく溢れて、そのために景色が見えないのかもしれない。。シテは「泣く泣く取り付き」、同じように愛する人を亡くした悲嘆は平家の舟の中に満ちあふれている、あなた一人ばかりではないのだから、どうか思いとどまってください、とすがりつきますが、ツレはそれを振り切って海中に没します。。と。シテも同じように舟から下りると、海中に姿を消すのでした。

シテは(扮装を変えるために)幕の方へ静かに消え行き、ツレは後見座に後ろ向きに座します。これは舞台上から消え失せたことを表し、ただし扮装は変えないため舞台に居残っているので、観客はこの役を舞台にいないもの、として無視しなければなりません。

ところで、このツレの入水の場面、ほんの10秒くらいの間にめまぐるしく動作が続くところなので、よくご覧頂きたいところです。

シテがツレを止めようと袖に両手を掛けますが、ツレはそれを振り切り、<左>の方へ作物の舟を下りて座ります。一方シテは振り切られて、あっという心で<右>の下の海面を面を切り(鋭く面を動かして見回す)、ツレの行方を目で捜しますが得られず、呆然と面を上げます。この間にツレは立ち上がって、すでに姿は舞台上から消えた心で後見座に行きます。シテは心ここにあらずという風情で、やはり<左>に舟を下り、静かに正面を向くと、そのまま 少し下がって座りこみます。やはり水中に没した体ですが、ツレのように飛び込んだ、という感じではなく、ズブズブと水の中に姿を沈めてゆく風情です。

さて、この場面の理解のために、通盛と小宰相について おさらいしておきましょう。

平通盛は、清盛の弟で「門脇中納言」と呼ばれた教盛(のりもり)の長男で、清盛からは甥に当たります。幼い頃から順調な昇進を続けましたが、一ノ谷の合戦で敗死しました。その妻・小宰相局(こざいしょうのつぼね)は後白河法皇の姉である上西門院に仕えた女房で、宮中一の美人と言われた人です。あるとき女院の花見の供のときに通盛に見初められましたが3年の間返事もせず、あるきっかけから通盛の恋文を女院が見る事となり、女院の仲介で二人は結ばれることとなりました。

それからの二人の仲は睦まじく、平家が都落ちをする際も、多くの公達が戦乱を避けて妻を都に止めて一人都落ちしたのに対して、通盛は小宰相を同伴して都を後にしました。が、結果としてこれが二人とも命を落とす、という悲劇を生むことになります。

一ノ谷の合戦の前夜、女房たちは海に浮かぶ舟に残して男たちは陸に陣を張っていましたが、通盛は小宰相を幕屋に呼び寄せ、二人きりで別れを惜しみました。ところが通盛の弟で勇猛で知られた平教経がこれを見とがめて叱責したので通盛は妻を舟に帰し、翌日の合戦に臨みましたが討ち取られてしまいました。

一ノ谷の合戦に破れると、平家は軍船に乗って対岸の讃岐の屋島に退くために出帆します。その夜、夫が戦死したとの報がもたらされ、小宰相は嘆き悲しみます。やがて夫の後を追って入水する覚悟を決めて、その旨を乳母の老女に告げると乳母は嘆いて小宰相に取りすがりますが、夜が更けると小宰相は、鳴門に停泊している舟の中からひとり船端に臨んで、ついに自らの命を絶って夫の後を追ったのでした。

。。と、ここで能の舞台に戻ると、不思議な事実に行き当たりますね。

つまり、中入の前にツレの袖にシテが取り付いて、自殺を思い止めようとしますが、現実には彼女が自殺を考えたとき、夫の通盛はすでに戦死しているのです。その化身たる前シテ漁翁がツレを思い止まらせようと袖に取り付くの事はあり得ない。。彼女を引き止めようとするのは老女である「乳母」であるはずです。

まあ。。この場面は、小宰相が入水自殺を遂げた「その当夜」の出来事ではなく、小宰相の霊の化身による「再現」であるので、このときに運命を共にしたわけではない乳母が登場しないのは不自然ではありません。

ただ、理詰めで考えれば、小宰相の入水事件が起こったとき、夫の通盛もその現場にはいませんでした。彼はその何日か前の一ノ谷の合戦で すでに落命していたのですから。。

この場面で、なぜ通盛の化身である漁翁が小宰相の入水を引き止めようとするのか? と考えるとき、いろいろな解釈が可能だと思います。

素直に考えれば、夫の死の後を追って小宰相も命を落とすことを、通盛自身が望んでいなかったこと。。これは能の中でも後半の場面に出てきますが、合戦の前夜の夫婦の語らいで通盛は、自分が戦死したらあなたは都に帰って私の後を弔ってほしい、と頼んでいます。つまり小宰相は通盛のこの「遺言」に背いて自ら死を選んでいるのです。

こう考えれば、この場面で通盛の霊が妻の入水を止めようとするのは、自分の後を追って死んで欲しくなかった、という通盛の思いがそのまま投影されているのだ、と解釈することができます。これが最も自然な解釈ですが、しかし、そうだとするとこの場面に描かれる「悲しみ」はいったいどういう事でしょう。通盛と小宰相の夫婦は死後も仲睦まじく冥土で再会したとは ちょっと考えにくいです。おそらく、それぞれ別の場所で落命した二人の魂は、その事実によって永久に離ればなれになっているのでしょう。形ばかりは ひとつの釣り舟に乗っているとしても、です。これはこれで救われない、重い運命を背負い込んでしまった、二人。。

でも、ぬえはこれとは異なる、独自の解釈を持っております。

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その2)

2016-05-10 23:41:08 | 能楽
ワキの読経に耳を傾けるシテとツレの二人。風情のある場面ですが、ここでツレが着座するまで、ずっと二人は立ったまま。しかも正面から見るとシテの姿はツレの後ろに隠れてしまって、地謡の中であたりを見回す型さえ見えにくい事になってしまいます。『通盛』という曲は正面席で見るのはやや不利になりますね。中正面の脇正面席寄りのお席の方がシテの姿はよく見えます。

そこで、演者もいろいろ工夫はしておりまして、いわく、周囲を見渡す型の足遣いに注意して、少しだけツレの真後ろに立つのを避けるとか、今回は先輩のアドバイスも受け、師匠のお許しも頂きましたので、定められた型とは少し変えて、早めにツレに着座させようと考えております。

さて経を読む声に心を静めて聞き入る二人にワキ僧も気づき、声を掛けます。

ワキ「誰そやこの鳴門の沖に音するは。
シテ「泊り定めぬ海士の釣舟候よ。
ワキ「さもあらば思ふ子細あり。この磯近く寄せ給へ。
シテ「仰せに随ひさし寄せ見れば
〈と棹に右手をかける〉。ワキ「二人の僧は巖の上。シテ「漁の舟は岸の陰。
ワキ「芦火の影を仮初に。御経を開き読誦する。シテ「有難や漁する。業は芦火と思ひしに。
ワキ「善き燈火に。シテ「鳴門の海の
〈と下居て合掌〉。
シテ/ワキ「弘誓深如海歴劫不思議の機縁によりて。五十展転の随喜功徳品。


先ほど「楫音を静め唐櫓を抑へて」と棹に右手を掛けたシテは、ここでも再び棹に手を掛けながら二足だけ前へ出ます。先ほどの型は、経を聞くために舟が流れないように棹で舟を固定したのであり、こちらはワキに「この磯近く寄せ給へ」と乞われたシテが「仰せに随ひ」舟を「さし寄せ」たのです。本当に舟の作物をワキのそばに移動させるのではなく、二足出ることで舟が「移動した」ということを表現します。能らしい表現方法ですが、やはり型を注視し、台詞を聞き取りながら、でないとすぐに理解するのは難しいですね。

ところでここ。。ちょっと ぬえは違和感を持っています。海に出る「釣り舟」という設定ですが、棹をさしてそれを操縦するのは「川船」の方法ですよね。川船というのは、水底までが浅い川に適した舟で、舟の底が平らなのです。そうして長い竹竿で川底を突くことによって、川の流れに流されずに進むことができるのです。また舟を止めるときも(まさに『通盛』のシテがここでしている型のように)、竹竿を川底に突いて、船頭さんが自分の足を踏ん張ることで舟を固定するのです。

底までが深い海では棹で舟を操縦するのは無理で、海舟の場合は「帆」で進むのでなければ「櫨」を漕ぎながら進むはずですね。舟を止める場合は碇などを海に投げ込むのかな?
まあ、このあたりの齟齬は京都を中心に発達した能では致し方のないところかもしれません。

しかしながら経を読む僧が海岸の岩の上に座し、その下に舟を漕ぎ寄せた漁翁と若い女の二人が殊勝そうに僧の声に聞き入る、というのは風情の良い場面です。僧は日が暮れてあたりが暗くなってきたので、釣り舟の篝火の火を借りて、それを頼りに経を読もうとしたのであり、一方のシテの言葉は、これはちょっとわかりにくいですが、「ありがたや漁する。業は芦火と思ひしに。善き燈火に鳴門の海の」とは、漁という殺生を生業としている身は罪深く心憂いのであり、篝火さえその殺生のための道具であると思っていたのに、僧に乞われて読経の手助けをすることになるとは ありがたいことだ、というような意味です。

地謡「実にありがたやこの経の〈と立ち上がり扇を開き〉。面ぞ暗き浦風も。芦火の影を吹き立てゝ〈と扇にて篝火をあおぐ〉。聴聞するぞありがたき〈と下居〉
地謡「竜女変成と聞く時は。竜女変成と聞く時は。姥も頼もしや祖父は言ふに及ばす。願ひも三つの車の芦火は清く明かすべしなほなほお経。遊ばせなほなほお経あそばせ。


かくしてシテは地謡の文句の中で立ち上がり、腰に挿していた扇を取り出して開き、篝火をあおぐ型をします。僧と漁師たちはこの鳴門の海を介して心を通わせたのでした。

ワキ「あら嬉しや候。火の光にて心静かに御経を読み奉りて候。先々この浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば。毎夜この磯辺に出でて御経を読み奉り候。取り分き如何なる人この浦にて果て給ひて候ぞ委しく御物語り候へ。

さて読経も一段落したところで、ワキはシテに声を掛け、この鳴門で命を失った平家の人々について尋ねます。ワキの僧はこの鳴門に住む人ではなく、平家を弔うためにひと夏の間、この所に逗留している、と冒頭に言っていますね。ここはその土地に住む漁師であろうと推測されるシテとツレに、鳴門での合戦の模様を尋ねたのです。

シテ「仰せの如く或ひは討たれ。又は海にも沈み給ひて候。中にも小宰相の局こそ。や。〈とツレを見て〉もろともに御物語り候へ。

シテは当たり前のように鳴門で命を落とした平家の人々のことを語り、その中でもことに哀れな物語として小宰相が入水自殺を遂げた事を語り出そうとしたところで、それまで押し黙っていたツレにも声を掛けて、ともに物語るように促します。

もうほとんど自明の事だと思いますが、もちろんこれはツレが、この海に身を投げた小宰相だからシテはツレに声を掛けたのです。シテはツレが自らの声で僧へ語ることを促すことで、僧に懺悔をし、罪障を晴らそうとしてやったのかもしれません。

ところで…ここで「源平の鳴門の合戦?」と疑問を感じた方もあるかもしれません。じつはその疑問は正解で、阿波の国で源平の合戦はありませんでした。それどころか『平家物語』によれば、この鳴門で命を落としたのは、みずから海に身を投げた、小宰相ただ一人なのです。

このへんは演出上のトリックのようなものかもしれません。この地で命を失ったのが小宰相一人だ、としておくとワキは彼女一人を弔うために鳴門にやって来た事になるのですが、それよりも、平家一門の跡を弔う僧の前に、彼の知らない小宰相の悲しい物語が提示される方が、その悲劇を知って重ねて僧が弔う意識が鮮明になりますし、そうなれば後場でシテの通盛とツレの小宰相の二人が登場するのに必然性が生まれるからです。

もっとも。。この地で誰が亡くなったのかも知らずに、鳴門にやって来て、漠然と平家を弔うワキ僧、というのも うかつな事ではありますけれどね。

いずれにしても、シテとツレによる小宰相の入水自殺の物語は、土地の伝承のような他人事の物語から、次第に自らの身の上を語るように迫真を増してゆきます。

ツレ「さる程に平家の一門。馬上を改め。海士の小船に乗りうつり。月に棹さす時もあり。
シテ「こゝだにも都の遠き須磨の浦。シテ/ツレ「思はぬ敵に落されて。実に名を惜む武士の。おのころ島や淡路潟。阿波の鳴門に着きにけり。
ツレ「さる程に小宰相の局乳母を近づけ。
シテ/ツレ「いかに何とか思ふ。我頼もしき人々は都に留まり。通盛は討たれぬ。誰を頼みてながらふべき。この海に沈まんとて。主従泣く泣く手を取り組み舟端に臨み
〈と二人立ち上がり〉
ツレ「さるにてもあの海にこそ沈まうずらめ
〈ツレは右の遠くを見る〉
地謡「沈むべき身の心にや。涙の兼ねて浮むらん
〈ツレはシオリ〉

『通盛』…「直ぐなる能」とは(その1)

2016-05-10 20:39:05 | 能楽
もう時間がないので、とりあえず詞章と型の説明を進めながら能『通盛』をひもといて参ります。
今回の考察の出発点は、修羅能にしては あまりに動作が少ないことで、まあ前半部分は仕方のない面もありますが、後半に至っても。。

こんな事から、せっかくお出まし頂けるお客さまに、「動かない場面」で役者が何を演じているのかを解説する必要があると考えて、機会あるごとに実演の舞台の映像をお見せしながら解説をして参りました。もとより役者は舞台以外の場面で自分の上演の解説をするのは本道ではありませんけれども、今回は長男が「初面」を勤める、ということで、初めて能楽堂に足を運んでくださるお客さまも多く、解説なしでは共感頂けるのは難しい面もありまして。

ところが、この能について 考えを巡らしているうちに、演出の上でかなり工夫が凝らされている曲だということに気が付きました。「動かない」ことを意識して作られている形跡があるし、だからこそ「動く」場面が活きるように作られていますね。現代人の時間感覚からは、その「動かない」場面がどうしても苦痛になってしまうけれども、「溜め」に気を配った作品だと思います。そして、何と言っても『通盛』は詞章が素晴らしいですね。『葵上』と同じく作者も不明な古作の能ではありますが、当時まだ能役者が貴族社会と縁がなかった時代に、この2曲は美辞麗句を駆使して、作者の非凡を窺わせます。この2曲の終末部分の詞章が同文なのも、何か関係があるのかも。

それでは詞章を見ながら舞台進行を見ていきたいと思います。

囃子方、地謡が座付くと、すぐにワキは幕を上げ、笛が名宣笛を吹いてワキの登場を彩ります。

ワキ「これは阿波の鳴門に一夏を送る僧にて候。扨もこの浦は。平家の一門果て給ひたる所なれば痛はしく存じ。毎夜この磯辺に出でて御経を読み奉り候。唯今も出でて弔ひ申さばやと思ひ候。

登場するのは僧で、従僧(ワキツレ)を1人伴っています。
二人はやがて脇座に行き着座して上歌を謡います。

ワキ/ワキツレ「磯山に。暫し岩根のまつ程に。暫し岩根のまつ程に。誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。浦静かなる。今宵かな。

これに続けて<一声>の囃子が始まると、後見が舟の作物を出します。骨組みだけの簡素な舟ですが、立派に舟に見えます。特徴的なのはその舟に篝火がつけられていることで、これは『通盛』だけにしか使いません。

舟の作物を出して後見が退くと、若い女(ツレ)を先立てて漁翁(前シテ)が登場し、舟に乗り込むとシテは後見により差し出された竹棹を左手に持ちます。

これにより夜が迫っている鳴門の海岸の岩の上に座して亡き平家の公達たちを弔う僧の姿と、そこに ふと現れた老人と若い女という、やや不自然な二人が乗った舟が現れた、という構図が出来上がります。

シテとツレは舟を自分たちで持ち運んで舞台に据えることは不可能なので、後見によって先に持ち出されるわけで、これは能の常道ではありますが、ワキはすでに「誰が夜舟とは白波に。楫音ばかり鳴門の。。」と謡っていますから、どこからか自分たちに近づいてくる舟の気配は感じています。そこにまず舟が出され、続いてシテとツレが乗船することで、おぼろに、うっすらと舟の姿が海上に現れてくる風情を表すのでしょう。

ツレ「すは遠山寺の鐘の声。この磯辺近く聞え候。
シテ「入相ごさめれ急が給へ。
ツレ「程なく暮るゝ日の数かな。
シテ「昨日過ぎ。ツレ「今日と暮れ。シテ「明日またかくこそ有るべけれ。
ツレ「されども老に頼まぬは。シテ「身のゆくすゑの日数なり。
シテ/ツレ「いつまで世をばわたづみの。あまりに隙も波小舟。
ツレ「何を頼に老の身の。シテ「命のために。シテ/ツレ「使ふべき。
地謡「憂きながら。心の少し慰むは。心の少し慰むは。月の出汐の海士小舟。さも面白き浦の秋の景色かな。
〈と右の方へ見回す〉所は夕浪の。鳴門の沖に雲つゞく。淡路の島や離れ得ぬ浮世の業ぞ悲しき浮世の業ぞ悲しき。〈と面を伏せる〉

。。動かないです。シテもツレも。要するに二人が舟に乗っているのがその原因で、前場の最後にツレが入水する有様を見せるまで、二人はずっと舟の中にいるため、動作をする場所がその舟の上に限られてしまうのです。後述するように、演技がないわけではない。それが限られた場所で小さく行われているため目立たないのです。

そうして、この場面ではシテとツレの二人が登場して、地謡は鳴門の景色を描写していますね。まだシテとワキは出会ってもいないのですが、この景色の描写の場面だけで10分くらは掛かるのではないでしょうか。ストーリーの展開としては甚だゆったりとしたものですが、能はこういう場面を大切にしています。何もない舞台ではありますが、場面の状況をゆったりと地謡が描写し、シテが静かにそれを眺める型をすることによって、鳴門の海に観客を誘導しようとしているのです。

シテ「暗濤月を埋んで清光なし。ツレ「舟に焚く海士の篝火更け過ぎて。
シテ/ツレ「苫よりくゞる夜の雨の。芦間に通ふ風ならでは。音する物も波枕に。夢か現か御経の声の。嵐につれて聞ゆるぞや。楫音を静め唐櫓を抑へて
〈と棹に右手をかけ〉。聴聞せばやと思ひ候〈と面を伏せる〉。

シテとツレの登場の冒頭に、ツレは「遠山寺の鐘の声」を聞いています。そうして ここでワキが経を読む声が二人の耳に響いてくるのです。「遠山寺の鐘の声」は言うなれば伏線で、ワキの経を読む声に、じつはシテとツレの二人は引き寄せられてやって来たのでしょう。もちろん、このシテが平通盛の、ツレはその妻・小宰相局の霊の化身だという事はここでは明かされていませんので、観客はそれが明かされた時点で、最初の場面から、この曲が仏教の。。というか、とりわき法華経の功徳が中心に据えられて構成されていることが理解されることになります。

梅若研能会5月公演

2016-05-10 02:13:29 | 能楽
あっという間にもう来週に迫ってしまいました。ぬえがシテを勤めさせて頂く能『通盛』…来る5月19日の「梅若研能会5月公演」にて この曲を上演させて頂きます。

稽古を始めた当初は「動きが少なくて見せ場がない能だなあ。。」と嘆息していたのですが、意外や大きな発見をしてしまいました。

この度の『通盛』では ぬえの長男がツレとして登場させて頂きます。…かつて子方を勤めていた頃は「チビぬえ」として このブログでもご紹介させて頂いた事もありましたが、彼もいつの間にか高校3年生! そうしてこの日、舞台で初めて面を掛ける「初面(はつおもて)」という、能楽師の生涯の中でもちょっとしたお祝い事を迎える事となりました。

そんな事から今回の公演はチケットの売れ行きが好調でして、だからこそ、動きが少ないこの能について、お客さまが退屈しないように、舞台で役者が何を演じているのか、どうして動きが少ないのか、を機会あるごとに解説するようにしております。ぬえの生徒さんの稽古場でも、時間を見つけて映像を流しながら解説したり。

こうしているうちに、能『通盛』で見落とされている、作者の思い、というような物が見えてきたように感じてきました。古曲とされるこの能を「改作」して現在の形にした、とされる世阿弥が、みずからこの能を「直ぐなる能」と評価していますが、この言葉は単純に言葉通りに解釈してはならないのではないか? という印象も持っています。

残された時間は わずかではありますが、せっかくの機会なので、『通盛』についての ぬえの考えをしばらく述べさせて頂きたいと存じます。

まずは公演の宣伝から! 平日の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 5月公演

【日時】 2016年5月19日(木・午後2時開演)
【会場】 セルリアンタワー能楽堂 <東京・渋谷>

 能  通 盛(みちもり)
     前シテ(漁翁)/後シテ(平通盛) ぬえ
     前ツレ(女)/後ツレ(小宰相局) 八田和弥(チビぬえ)
     ワ キ(僧)野口 能弘/間狂言(浦人)大蔵 教義
     笛 寺井 義明/小鼓 田邊恭資/大鼓 高野彰/太鼓 大川典良
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 青木一郎ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 狐塚 小唄入(きつねづか・こうたいり)
     シテ(太郎冠者)  大蔵彌太郎
     アド(主 人)   大蔵 基誠
     アド(次郎冠者)  吉田 信海

能  井 筒 物着(いづつ・ものぎ)
     前シテ(里女)/後シテ(紀有常女) 梅若 泰志
     ワキ(旅僧)宝生欣哉
     笛 松田弘之/小鼓 古賀裕己/大鼓 柿原弘和
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 伊藤嘉章ほか
                     (終演予定午後5時50分頃)


【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com