えと、「延命冠者」の面についての話題から『鷺』の上演に関する「決マリ」についてこれまで考えてきたわけですが、ぬえの所蔵資料を念のため当たったところ、ほかにもいくつか、公開された「決マリ」があるようです。なんだか能『鷺』の研究のページと化してきました。。すんません、簡単に書き込みます。。
※ まず、先日話題に出た、「鷺乱」の譜を笛方は老い鷺と若鷺とで吹き分けている、ということについて、『森田流奥義緑』に次のような記載があります。
「トメは打上げであるが、笛の打上の譜をヒシギで留めるときは若鷺であり、呂(低音)で留めるときは老鷺とする」
同書には ほかにも「もし中年の者が勤める場合は邯鄲男か延命冠者の神格化された面をつけ写実をさけたものである」「また往時は老人が舞うときは増の面をかけたという。「鷺」の能を一名増鷺とも称し、鷺には雄がいなくて雌ばかりだといい伝えられた俗説によるものである。」と、興味深い記事が載せられています。今日では老人が直面で勤めるのを本義とするかのような常識を根底から覆すような記事で、『鷺』を老人が勤める場合は女面である「増」で素顔を隠すのだそう!。。どのシテ方の流儀の伝承なのかについて言及がなく、限定的な演出である可能性もあるにしろ、寂昭さんのご指摘の通りかつてはそういう「決マリ」も存在したということが裏付けられた格好です。
また ぬえ所蔵の資料の中に金剛巌師の「延命冠者をつけるきまり」という文章がありました。ここに記された『鷺』に関する記述がまた、興味を引きます。いわく「結婚披露能(昭和二十五年十月)先代の発意に因り この度限りの試みとしまして童子をつけてみました」とのこと。。「童子」とは。。これはどうやらこれは廃絶した坂戸金剛家に伝わっていた伝承であるらしいのですが、これは「鷺には雌しかいない」という理由で女面を使うのとは対極的な扱いです。またその点を無視して考えてみても、「増」を掛けるのであれば鷺の神性を考慮しての選択とも考えられるのですが、「童子」であれば、ちょっとそれとは意味合いが違うように感じられます。
「増」は能ではあくまでも人間ではなく神仙の女性の面と考えられているのに対して、「童子」面には神性がもう一つ希薄であるようにも感じられます。すなわち『菊慈童』で「童子」面が使われる場合は、これは明らかに神仙の者であるわけなのですが、一方 童子は『田村』などの前シテにも、また亡霊である『天鼓』の後シテにも、そればかりか鬼神の化身である『大江山』の前シテにさえ使うわけで、ようするに少年の役に幅広く使われているからなのです。
もっとも、これは能面の種類に鑑みて気づく、ある種の「偏り」が原因であるかもしれません。実際のところ、女面というのは非常に種類が多く、その役の年齢、性格、彼女をめぐる事件の内容によって、面を慎重に選んで上演することになります。ところが男面には、女面ほどのバリエーションがなく、たとえば少年の役のための面としては わずかに「童子」「慈童」の二面がある程度で、この二面で「聖」も「俗」も、その役割を演じ分けているのです。
いずれにせよ『鷺』に使う面にはこれほどのバリエーションがあるとは考えてもみませんでした。それほど流儀による解釈の幅を大きく許す曲なのでしょう。現代では(と、一応限定しておきます)直面で演じるのが当たり前の曲の『鷺』であるから気づきにくいのですが、いざその代用としてどの面を使うのか、その選択には流儀によってこれほど差があり、それはすなわち流儀それぞれの『鷺』という曲の解釈を反映しているのでしょう。
※ まず、先日話題に出た、「鷺乱」の譜を笛方は老い鷺と若鷺とで吹き分けている、ということについて、『森田流奥義緑』に次のような記載があります。
「トメは打上げであるが、笛の打上の譜をヒシギで留めるときは若鷺であり、呂(低音)で留めるときは老鷺とする」
同書には ほかにも「もし中年の者が勤める場合は邯鄲男か延命冠者の神格化された面をつけ写実をさけたものである」「また往時は老人が舞うときは増の面をかけたという。「鷺」の能を一名増鷺とも称し、鷺には雄がいなくて雌ばかりだといい伝えられた俗説によるものである。」と、興味深い記事が載せられています。今日では老人が直面で勤めるのを本義とするかのような常識を根底から覆すような記事で、『鷺』を老人が勤める場合は女面である「増」で素顔を隠すのだそう!。。どのシテ方の流儀の伝承なのかについて言及がなく、限定的な演出である可能性もあるにしろ、寂昭さんのご指摘の通りかつてはそういう「決マリ」も存在したということが裏付けられた格好です。
また ぬえ所蔵の資料の中に金剛巌師の「延命冠者をつけるきまり」という文章がありました。ここに記された『鷺』に関する記述がまた、興味を引きます。いわく「結婚披露能(昭和二十五年十月)先代の発意に因り この度限りの試みとしまして童子をつけてみました」とのこと。。「童子」とは。。これはどうやらこれは廃絶した坂戸金剛家に伝わっていた伝承であるらしいのですが、これは「鷺には雌しかいない」という理由で女面を使うのとは対極的な扱いです。またその点を無視して考えてみても、「増」を掛けるのであれば鷺の神性を考慮しての選択とも考えられるのですが、「童子」であれば、ちょっとそれとは意味合いが違うように感じられます。
「増」は能ではあくまでも人間ではなく神仙の女性の面と考えられているのに対して、「童子」面には神性がもう一つ希薄であるようにも感じられます。すなわち『菊慈童』で「童子」面が使われる場合は、これは明らかに神仙の者であるわけなのですが、一方 童子は『田村』などの前シテにも、また亡霊である『天鼓』の後シテにも、そればかりか鬼神の化身である『大江山』の前シテにさえ使うわけで、ようするに少年の役に幅広く使われているからなのです。
もっとも、これは能面の種類に鑑みて気づく、ある種の「偏り」が原因であるかもしれません。実際のところ、女面というのは非常に種類が多く、その役の年齢、性格、彼女をめぐる事件の内容によって、面を慎重に選んで上演することになります。ところが男面には、女面ほどのバリエーションがなく、たとえば少年の役のための面としては わずかに「童子」「慈童」の二面がある程度で、この二面で「聖」も「俗」も、その役割を演じ分けているのです。
いずれにせよ『鷺』に使う面にはこれほどのバリエーションがあるとは考えてもみませんでした。それほど流儀による解釈の幅を大きく許す曲なのでしょう。現代では(と、一応限定しておきます)直面で演じるのが当たり前の曲の『鷺』であるから気づきにくいのですが、いざその代用としてどの面を使うのか、その選択には流儀によってこれほど差があり、それはすなわち流儀それぞれの『鷺』という曲の解釈を反映しているのでしょう。