ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ワキ方の流儀について(その7)

2006-08-17 23:27:09 | 能楽
装束の虫干しが終わり、いくつかの装束は来年の虫干しに廻され、いくつかは補修が出来上がり、またいくつかは装束屋さんに修理や裏地の取り替えに廻されることになりました。

ホッとしたのもつかの間、その翌日には師匠がこの11月に勤められる『檜垣・蘭拍子』の稽古が行われ、お囃子方も勢揃いしての初の本格的な稽古で、ぬえも地謡を勤めました。『檜垣』の地謡は ぬえは初めてで、囃子の手は大体は知っているのですが、囃子の手も間も非常に難しいですね。。ただ、老女物の中ではもっとも観念的な『檜垣』という曲に乱拍子は良くイメージが合っているように思います。今回は「老女之舞」にも工夫があって、興味深い舞台になる期待がいまからふくらみます。それにしても催しの3ヶ月前からすでに囃子方を揃えての稽古。。やはり大変な曲なのだと思います。

さて、ワキの流儀の違いについて考えてきましたが、少し補足しておきます。
ワキのお流儀によりこんな違いもあります。

『桜川』 観世流の謡本にある「里人」の役のワキツレは福王流にはあるのですが、宝生流のおワキの場合はこのワキツレの役は登場しません。この曲ではワキツレの役は人商人、磯部寺の従僧がありますから、福王流の場合はさらにもう一人の役者が必要になります。軽い曲の割にはかなり人数ものの曲と言えるでしょう。

『鳥追船』 これは面白い曲で、ワキ方の流儀によって、またシテ方の流儀によってもワキの役とワキツレの役が逆転します。訴訟のため長く在所を留守にしていた日暮殿の家では、家臣の左近尉が日暮殿の妻子の面倒を見ていたが、召し使う家人も足りず、ついに妻子を鳥追船に乗せて田の鳥を追わせる。そこに十数年ぶりに日暮殿が帰郷して左近尉の仕打ちが露見し、左近尉は手討ちになろうとするが、妻の取りなしによって許されて再び平安な日々が戻る。。だいたいこういう筋書きで、シテの日暮殿の妻と子方に付き添って、舞台上に登場している時間も仕事も、左近尉の方が日暮殿よりもずっと多くを占めているのですが、シテ方観世流と金春流、そしてワキ方の福王流だけがワキ=日暮殿、ワキツレ=左近尉としていて、そのほかの流儀ではすべてそれとは逆でワキ=左近尉、ワキツレ=日暮殿とされています。これは舞台上での仕事の軽重を取るか、役割としての格を重んじるか、で判断が分かれているのですね。この判断は難しいところで、たしかに舞台上では左近尉の役割の方がずっと重いのですが、能が終わる場面では再び日暮殿の家臣としての契りを固めて、左近尉は日暮殿の太刀を捧げ持って、日暮殿の後に続いて引くのです。左近尉をワキツレとすると、これは非常に混乱した場面になってしまいます。まあ、これだけの場面をもってどうこう言うべきではないかも知れないけれど。。

『正尊』 「読物」という重い謡の習いがある『安宅』『木曽』『正尊』の一曲で、この曲には「起請文」という「読物」があります。複雑なのは、これら、能の中の聴かせどころである「読物」が現行ではすべて「小書」扱いになっている事で、よほどの事がない限り、この三曲は『正尊・起請文』のように小書つきで演じられ、それに従ってはじめて「読物」が演じられるキマリになっています。ところでこの三曲ともその肝心の「読物」はシテが謡う事になっているのですが、この『正尊』だけは古くからワキが「起請文」を読み上げる演出となっていました。京都にいる義経のもとに、兄・頼朝から土佐正尊が派遣されて京都に到着したとの知らせが届きます。義経はすぐに弁慶を正尊の宿所に派遣してこれを義経の御所に連行します。義経を討つために上京したのではないか、との詰問に正尊はこれを否定し、神仏に誓う起請文を書き上げます。。ここで「起請文」を読む事になるのですが、現行の演出では(「起請文」の小書によって)シテがこれを謡うのです。観世流の場合は書き上げた正尊その人がその場で朗読する、という演出ですが、どうやら古くは正尊から起請文を受け取ったワキの弁慶がそれを読み上げる、という演出であったらしい。これはシテ方のどの流儀でも古くは同じ演出だったのが、現在ではシテがすべて「起請文」を謡うように改められました。ところが、その改変のしかたが各流で違うところが面白い。観世流や、ほかにも宝生流・喜多流では上記のように正尊みずからが読み上げる方法をとったのに対して、金剛流と金春流では弁慶をシテ、正尊をツレとして、古い本文は改変せずに弁慶が起請文を読む形式にしたのです。ワキの「読物」か。。一度拝聴してみたいものですね~~