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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

鹿行水郷子ども創作能が始動!

2025-05-12 10:02:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
茨城県鹿嶋市に毎月1週間ほど滞在している ぬえですが、当地でいよいよ子ども創作能が始動しました!

コロナ禍から当地で運動を続けて、小さなデモンストレーションなどもいましたが、献身的に協力してくださる方もできて、そのご尽力を頂き、Workshopを何度か行いましたところ。、意外にも多くの子どもたちも参加してくれ、これがまた日本の伝統芸能にとても興味を持ってくれました。

それでは!というので子ども稽古を開始したのですが、これまたよく覚える優秀な子どもばかり。保護者さまからも教示を頂き、この土地の民話も収集できて、急に予定が入った昆劇の役者さんへのWorkshopなどかなり忙しいスケジュールでしたが、急遽その民話を元にした大蛇退治の物語を描く「子ども創作能」の動作を完成させました。

昨日は子どもたちにいきなりその稽古。あれあれ?みんなすぐにできるようになってるぞ?急ごしらえなので台本はプラン程度しかなく、これから細かく作っていきますか、伊豆の子ども能の経験があるから自信はあり。そのうえ第一回目の稽古でこの出来栄えならすでに上演の成功は予感できています。





まだまだ、20年間教えたあの伊豆の子どもたちのレベルには遠く、今年は数分程度の、仕舞に毛が生えた程度のものになるでしょうが、見応えは十分にあると思います。

当地では「東国三社」といって、鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を網羅した観光事業も予定されているそうで、子ども創作能もその地域を見据えて「鹿行水郷子ども創作能」としました。子どもたちにも故郷のことを知る絶好の機会。ぬえもすでに二つの市の市長さまにお話する機会を得て、能楽のミニ公演からはじめて、当地で能の活動や公演を展開していきたい、と考えております!
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昆劇の団員さんへのWorkshop

2025-05-10 02:18:21 | 能楽の心と癒しプロジェクト
突然のことでありました。

今ぬえはひと月のうち1週間程度を東京を離れて茨城県の鹿嶋市にある別荘で過ごし、ここでも教室やデモンストレーションなどの活動を展開しているのですが、昨日ここで受けた知らない携帯電話の番号からのお電話。

流暢な日本語ではありますが明らかにアジア系の外国人からのお電話だとわかりました。聞けば能楽のWorkshopをして欲しい、とのこと。ああ、たまにそういう依頼はあるけれとも、外国人からの依頼はないなあ。まして ぬえは東京を離れていて、こちらには面も装束も持ってきていないのです。。

その旨をお伝えしたのですが、是非ともお願いしたい、と仰る。そうしてお相手は旅行中の少人数のグループで、演劇をやっているから滞在中に能を学びたい、それもあさってには帰国するから明日お願いできないか?とのこと。ああ、演劇家なら面や装束なしでも能の世界の中でも独特の方法論を話せますし、それはかなり興味を持って頂けると思う。やはり滞在は東京とのことなので、鹿嶋市まで遥々来て頂くんだから、それでは無料でWorkshopをやってあげますよ、と答えました。

さあ大変。さすがにこの別荘では手狭なので会場を借りたり、ほんの2時間くらいしか時間が割けないから資料を揃えたり、体験して頂く簡略版の仕舞のプリントを探し出したり。

こうして今日、わざわざ茨城県まで来て頂いて初めてお会いしたのですが、なんと!
中国の世界文化遺産、昆劇の役者さんでした!

ぬえも中国では北京と香港では能楽の公演に出演したこともあり、北京では京劇も拝見しました。また、じつは先週は鎌倉能舞台さまのお誘いで韓国公演に参加させて頂き、このときも文化交流で中国の南方の同じ感じの芸能団体とも交流があったのです。ぬえは勉強不足で京劇と昆劇、また韓国で拝見した劇との違いがまだよくわかっていないのですが、昆劇が世界文化遺産だということは知っていました。今回は大学の招聘を受けて来日され、滞在中に日本の伝統芸能を学びたかった模様。

短い時間ではありましたが、羽衣のキリのダイジェスト版を体験頂き、ビジュアルとして能の上演の様子を見て頂くために能の動画をお見せすることにしたのですが、こういう人たちなら理解が得られるだろう、と思って、あえて「隅田川」の動画をお見せしました。

韓国公演でも思ったのですが、アジアの伝統芸能はアクロバティックな物が多いです。そんな中で静謐を尊ぶ能はアジアではかなり異質と思うのです。動画を見せながら、シテが笠をいつまでも脱がない「隅田川」は、最後に悲劇で終わるこの曲にあって、観客に不安感を抱かせる演出なのだ、とか、ワキやワキツレとともに舟に乗る場面では舟は舞台に出さない、観客のイマジネーションに訴えいるんです、とか、その舟は客席側に向かって進んでいるはずなのに、舞台の奥にはシテの息子である子どもが埋められている墓が見えていて、観客は対岸に向かう一行の表情と、彼らが向かう目的地の両方が見える仕掛けなのだとか、女性の役なのに声色を使わず男たる役者の声で演じるのは役者が女性を演じているのではなくて、彼女の「悲しみ」や慟哭を表現するのに主眼を置いていて、声色ではなく男の役者の生の声だからこそ深刻さをリアルに表現できるのだとか。こんなことを説明しましたが、かなりインパクトはあった模様。

終わってからとても意義深かった、と感謝されました。

一方、京劇や昆劇では長い袖の衣装を着て、その袖を床まで垂らしたり、またヒラヒラ、と上手にまくり上げたりしますよね。そのことをこちらから聞いたら、なんと彼らは衣装を持参してきて、ぬえにその演技を見せてくれました。いや伸ばした袖を優雅に巻き上げるもんだ。聞けば、ただまくり上げるのではなくて、ほんの指先だけが見えるようにするのだそうです。それは高難度!

こちらも運ビ。。すり足を体験して頂き、頭の上に扇を乗せてもスラスラ動けるように体幹がブレないようにします、と言ったら、なんと若い美形の役者さんが私たちも同じことをします、と言ってたまたまあった板?を頭に乗せて優雅に、そして速く動いて見せてくれました。それが出来るのならば?と足元をよく見ると、ああ、やはりすり足に近い動きです。先方も ぬえも、なんか似ているところがありますねえ!とお互いに驚きました。

終わってからまた東京までのバスターミナルまで送迎しましたが、本当に喜んでくれて、扇をプレゼントして頂きました。




なんとも面白い体験でした。北京に来たらぜひまたお会いしたい、と言われましたが、さてそれは何時になることか。。
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14年目の震災の日(その2)

2025-03-26 17:05:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今回の上山八幡宮での奉納曲は「羽衣」で、これは初めて訪れる土地、はじめて上演する場所では必ず「羽衣」とプロジェクトで決めているからです。理由は長くなるので割愛しますが、かなり深い意味を持っています。以前このブログでご説明したことがありますので興味のある方は調べてみてください。

ところがこのお宿でご主人から驚くべきお話を伺いました。いわく当地(津の宮地区)にも羽衣伝説があり、それはこういうもの。

土御門帝の延徳の頃(室町時代)、艶宮(現・津の宮)の島守が翠竹島(現・竹島)から楽曲が聞こえてくるのを不思議に思い舟で近づいて見ると、大勢の羽衣を着た天女が舞い踊っていた。天女は島守の姿を認めると驚いて天の彼方へ飛び去ってしまったが、見ると白い子犬と十五六歳ばかりのこの世のものとも思われない美しい天女がうずくまって取り残されていた。病のため起き上がれず怯える天女を哀れに思った島守は彼女を村に連れ帰り介護したが、天女は人の作る食物は食べられず、干し柿や木の実を口にするばかりで、それから七日ほどでとうとう亡くなり、白犬も後を追うように死んでしまった。村人は哀れに思い塚を築いて弔った。(天女塚・狗塚の案内板より要約)


天女塚
ペットの(?)ワンちゃんを連れた天女!! 羽衣伝説は日本各地に残り、その内容も多岐に渡った展開をするので興味深いのですが、まさかこの南三陸町のそれも限られた小さな地区に、ほかの羽衣伝説とは明らかに異質の独自の伝承があるとは。。


竹島

「羽衣」を舞う直前にとても興味深い発見があったのを喜び、翌朝に天女塚と狗塚(いぬづか)に詣でてきました。天気も東京では曇りや雨の予報でしたが当地は快晴でした!

さて上山八幡宮に参り、午前中に正式参拝をして神様に奉納上演の成功や旅の安全、そしてもちろん当地に幸せが訪れるよう祈願しました。

14:15、社務所にて着付け開始。奉納場所は、神社にも立派な神楽殿もあるのですが小高い山の上に鎮座されている関係上ご覧になる参詣者は限られてしまうので、近くの「さんさん商店街」(元は仮設商店街だったのが移転しながら常設の商店エリアとなったもの)から近い神社の駐車場で奉納することにしました。この「さんさん商店街」のすぐ裏手の川(八幡川、または志津川)の向こう側に有名な震災遺構の「旧防災対策庁舎」があり、そこから復興祈念公園が広がっています。





ぬえは震災三カ月後に志津川を訪れ、その後も気仙沼に向かう際に何度も通ったのですが、志津川ではこの川を遡上した津波の被害がかなり山の奥深くにまで及んでいるのが印象的でした。また、震災直後にこの上山八幡宮での奉納が実現しなかったそれ以来、プロジェクトとして南三陸町では活動していないと思い込んでいたのですが、今回上演記録を調べたところ、2011年に泊浜、2016年に志津川、2018年に歌津と3回も活動していました。さすがに今回が160回目で記憶が定かでないところも。。

16:46、発災時刻のサイレンと黙祷。ぬえは毎度この時間を、装束を着たまま楽屋となった部屋の片隅で黙祷を捧げることになります。今回は黙祷しながら ふと、「14年、かあ。。」とつぶやいていました。

その後駐車場に移動して、階段があるので面はお客さまの前で着けることにしました。行ってみると大勢のお客さまが! 商店街からは道路を隔てているし、10名様くらい見えれば十分かな? と思っていたのですが、後で聞けば30名様ほどがお集まり頂いたそうです。感激。

この日の奉納はプロジェクトのYouTubeチャンネルでご視聴になれます。



駐車場は大きな尖った砕石が敷かれていて足の裏が痛かった。。

これにてミッション・コンプリート。志津川のみなさまの幸せを祈りながら帰途につきました。

あーレンタカーと新幹線で楽チン。10年以上車で東京から往復してきたけど、さすがに14年経って自分の体力を気遣うようにもなりました。(-_-;)
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14年目の震災の日(その1)

2025-03-26 03:23:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去る3月11日の東日本大震災の日、ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」では宮城県南三陸町志津川の上山八幡宮(かみのやまはちまんぐう)にて奉納上演を行って参りました。

被災地での慰問上演もすでに14年目になり、今回で支援上演も160回目に達しました。震災三カ月後に石巻市の湊小学校避難所でスタートさせた活動も、すでに避難所もその後の仮設住宅も仮設商店街もすべて解消され、いまはほとんど現地で活動する機会もありませんが、それでも3.11の震災の日だけは欠かさずに被災地に足を運んでおります。

もともと3.11の日は追悼の日なのでイベントは出来にくい状況で、我々プロジェクトは現地で活動される団体の追悼行事の中にゲストのような形で参加させて頂いておりますが、いつも追悼行事の主催者様には能楽の奉納上演の意味に深くご理解を頂き、これまでの13回の震災の日には欠かさず上演させて頂けることができました。

今回は志津川の上山八幡宮の工藤真弓さんのご厚意で、おそらく3.11の日では初めて、プロジェクトが主体となって八幡宮様との共催の形で奉納上演させて頂くこととなりました。じつは上山八幡宮様では震災の翌年だったかお邪魔させて頂き、神社での奉納の計画について話し合った経緯があります。そのときは能楽師のスケジュールと神社の行事とが合わず実現しませんでした。今回は満を持して、12年ぶりに計画が実現できたことになります。

今回の出演者はプロジェクトメンバーの ぬえ、寺井宏明さんに加えて、梅若会の土田英貴氏が地謡で参加してくれました。土田氏はある催しの楽屋で話して、最近山火事でも話題になった被災地・岩手県大船渡市に震災前からお稽古に通っておられるそう。それで今回はお手伝いに参加して頂き、今年中にも大船渡市で慰問上演を行おう、ということになりました。

しかしプロジェクトの被災地での上演といえば、なにせ囃子方は笛だけだったり時々は太鼓が入るのみ、地謡も後見もおらず上演場所も集会所のような屋内ならまだ幸い。多くは駐車場であったり神社の境内であったり、と 能楽の上演としてはかなりイレギュラーな条件なので、まずは今回の志津川で様子を見て頂き、それから大船渡での上演について考えてもらうことにしました。

前日の3月10日にぬえは仙台で土田氏と合流、レンタカーを借りて石巻の復興状況の定点観測をしがてら志津川に向かいました。
(画像がんばろう大看板)
最初に向かった石巻ではお世話になっている観光協会にご挨拶したり、石巻のおみやげでいつも大人気になる「とろろ昆布」を大人買いしたり。しかし石巻の震災遺構である「門脇小学校」や震災のあと整備された復興祈念公園は、この日が月曜のため閉館していました。公共施設は多く月曜休館なわけですが、震災の日の前日、いまはそれぞれの土地に戻ったボランティアさんなども集結するこの時期にも休館とは、14年の月日の経過を考えてしまいます。ちなみに被災地では3月11日は学校も休校日になっていますが、すでにそれを解除した自治体もあると仄聞しました。



ぬえが震災後最初にお手伝いに伺い、その後の活動の拠点にもなった湊小学校。当時は避難所でしたがいまは学童が元気に通っています。この子たちは震災を知らないんだよなあ。。



続いて訪れた女川では震災遺構の「女川交番」が当時のまま残されていました。





こちらも整備されて、海風による風化を避けるためかコンクリートの壁に囲まれていましたが、あの小さな交番が大きな壁に囲われて大きく見えて、壁に背後を遮られてカメラには収まり切れない感じ。

女川から志津川に向かう途中再び石巻市に入り、大川小学校を通ることになります。



こちらも震災遺構として残されています。ぬえたちは早くから大川小学校の遺族会と連絡を取っていて、何度かこの場所での能楽の奉納上演をお願いしたのですが認められることはありませんでした。





しかし14年が経った今になって考えると、この場所だけは静かに追悼をするべき場所だと感じられるようになりました。あまりにも大きな悲劇。ぬえは大川小学校に限らず被災地で「追悼」を掲げて当事者に無断でイベントを行い、遺族会や現地の住民さんと諍いが起こったことを何度か聞いていますが、この場所だけは能楽といえども、奉納するには細心の注意が必要だと考えます。いつの日か平安が訪れるよう祈るのがいまはまだ必要でしょう。

志津川に到着してすでに夕暮れ近く。寺井さん推薦の民宿「津の宮荘」では驚くほど豪華な夕食を頂けてびっくり。



意外に思われることが多いのですが、ぬえたちプロジェクトが被災地支援活動を行っているなかで、さぞや沿岸の豪華な海産物ばかり食べているとばかり思われがちなのですが、実際にはコンビニ弁当ばかり食べていました。活動初期の頃は、それこそ一日に2か所で奉納することもよくあって移動の時間に追われていたり、当時は募金を資金に活動していたので酒食の区別を明確にするため、また費用節約のため、宿泊は素泊まり、それも宿泊費は5千円まで、と上限を決めていました。

さらには、ぬえたちプロジェクトではなんと去年まで、いまや皆無になった募金の残額を節約して活動資金としていました。震災の翌年にすでに ぬえは他のボランティア団体から「今どき募金で活動している団体なんてありませんよ。これからは被災地といえども正当な対価を頂いて活動すべきです」なんて言われたけれど、ぬえはそれを潔しとはせず、なんと13年も細々と活動を続けてきました。

昨年、ついに資金も底を尽き、寺井さんとも 今後は自分たちで負担して続けることになるね、なんて話していたのですが、まさかのその時期にプロジェクトの活動を援助したい、という篤志家が現れて、プロジェクトは活動を続けることができたのですが。



それにしてもこれは豪華すぎるなあ。これも14年の歳月による変化か。。いや、我々が高級旅館で贅沢をしているのではなくて、漁師さんが経営する民宿だから。これも復興の現れのひとつかも。ちなみにプロジェクトでは今回も、そして今後も出演者には謝礼はなくただ働きです。せめて食事がよいと とっても嬉しい。。(翌日の昼食はやっぱり「たこ焼き」だったから貧乏な活動は変わらないのかも。。)
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三位一体の舞…『杜若』(その13)

2024-06-28 14:45:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今月はじめに研能会で「杜若」のシテを舞わせて頂きましたか、なんと同じ月の間に公演で三河に行くことになり、空き時間もあったので「三河の国八橋」にある「かきつばた園」に行って参りました!



さすがに杜若の盛りの時期は過ぎてしまったので、まあ、花の名残の茎や葉だけでも眺めてくるか、と思い、また先輩からも「現地に行った、ということが大切なんだよ」と勧められて、せっかくの機会だから行ってみたわけですが、案の定、タイトル画像のように一面の草ばかり。。と思ったのですが。。



よく見るとなんと! まだ遅咲きの杜若が咲き残っているではありませんか!!!

これは驚いた。じつはこの「かきつばた園」に到着してすぐ、現地の観光ボランティアガイドさんに声を掛けられ、東京から来ました、先日能の「杜若」を舞わせて頂いたのでひと目現地に行って見ようと思い立ったのです、とお答えしたところ、「まだ咲いていますよ」と教えて頂き、その後1時間に渡って園内をご案内して頂きました。





本当に咲いていた! それに「これが杜若」と意識してこの花を見たのは初めてでした。無事に能を舞えた事を感謝して、手の届くところに咲いていた1輪をそっと撫でてきました〜






最近作られたという業平像。

ここは知立市の無量寿寺というお寺の境内にあたり、境内に16もの池を持って、そこで杜若を育てているそうです。「伊勢物語」の業平の「東下り」史実ではないと思われますし、「杜若」に「水行く川の蜘蛛手なれば橋を八つ渡せるなり」とあるように古来増水などあって時代により地形も変わりやすかったとのことですが、やはり「伊勢物語」の世界に想いを馳せるのにこういう場所が整備されているのは素晴らしいことです。

ボランティアガイドさんは戸田勝士さんとおっしゃる方で、興味深いお話をたくさん伺いました。

いわく
・杜若の群生地は珍しく、愛知県刈谷市、京都府北区、鳥取県岩美町などにあり国の天然記念物に指定されているとのこと。

・尾形光琳の国宝「燕子花図屏風」はこの八橋の無量寿寺のもので、尾形光琳は何度か都と江戸を往復しているが、そのうち2度は5月・6月の杜若の季節に知立市を通ったということが記録から確認されているのでここに立ち寄った可能性は高い。

・杜若はどちらかというと弱く、ここでも一時は絶滅する寸前にまでなったことがあるが、保存会の努力によってまた勢いを取り戻しつつある。

戸田さんに「いまの五千円札の裏側に描かれている杜若はもちろん尾形光琳の絵で、すなわちこの八橋の杜若なんですよ。」と言われてはじめて、ぬえは五千円札に杜若が描いてあることを思い出しました。




戸田さんいわく、この五千円札も7月のはじめには新しいデザインのものと切り替えになってしまうのです。

そうだたのか。。たまたま今年の杜若の季節にシテを舞わせて頂き、また偶然にも同じ月に八橋を訪れるとができたのも驚きででしたが、まさか咲いている杜若を見ることができ、さらには杜若が描かれている五千円札の流通が終わる、その最後のタイミングだったとは。。



当日ご案内頂いた知立市ガイドボランティアの会の戸田勝士さん。感謝です!
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震災13年・石巻

2024-03-10 21:05:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ご無沙汰しております、ぬえです。

今年も東日本大震災の起こった日、3月11日が近づいてきました。去年が犠牲になった方の13回忌となる12年目で今年が13年目になります。

ぬえたち「能楽の心と癒やしプロジェクト」は震災3か月後から避難所や仮設住宅、仮設商店街、復興住宅などで能楽の慰問上演を続けて参り、上演回数は140回を超えておりますが、い仮設住宅も仮設商店街も解消された現在ではもっぱら3.11の日に奉納上演をさせて頂いております。

思えば3.11の日は追悼のためにある日で、追悼式以外のイベントには向いていない日と思いますが、幸いに現地の皆様には能楽に対して理解を頂くことができ、これまでの12年間では必ず3.11の追悼行事に参加を許して頂くことができました。

今年は宮城県石巻市にある「がんばろう!石巻」の大看板の前で初めて奉納上演をさせて頂きます。

「がんばろう!石巻」大看板は津波が襲った地区に震災直後に住民さんの手によって建てられたもので、ぬえたちは震災直後からずっとこの看板を見守り続けてきました。これまで各地の震災遺構の前で奉納上演をしてきたプロジェクトにとってもこの大看板の前での奉納は以前から考えていたのですが、報道などで広く知られていわば石巻の被災地を象徴するような物になってしまい、とくに3.11の日にはこの前では多くの行事が行われるので難しい様子でした。

実際、今回も石巻市民の友人に伺ったところ、やはりスケジュールがタイトで難しいのではないか、というご意見もあったのですが、以前この大看板と同じ地区の門脇町内会の追悼行事に参加させて頂いた関係からお願いしたところ、ご親切にも関係者の方から快く受け入れをお許し頂きました。

我々プロジェクトにとってもこの場所での奉納上演は「悲願」でしたので、関係者のご厚志に大変感謝しており、明日は心を込めて勤めさせて頂きます。

下の画像はプロジェクトの活動の原点となった石巻市立湊小学校。当時避難所だったこの場所で震災3か月後から活動をはじめ、何度となく泊まり込んで石巻市内の仮設住宅での慰問活動の拠点とさせて頂きました。もう13年も前のことになるのか。。





今回は発災時刻の14:46の直後、15:00頃に「かわまち交流センター」で、また16:30に「がんばろう!石巻」大看板前で奉納上演させて頂きます。

大看板の前での行事は以下の「がんばろう!石巻の会」様のサイトにて14:00からオンライン配信されるそうです。よろしければご覧戴ければありがたく存じます。

https://gannbarouishinomaki.jimdofree.com/
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東日本大震災3.11 追悼の集い 気仙沼(その3)

2023-03-18 20:09:47 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去年の3.11から1年ぶりの気仙沼再訪でしたが、今回は東京から車で行くのではなく列車で仙台に入り、そこからレンタカーを借りて、途中12年間ずっと見続けてきた震災被災地の定点観測を続けながら気仙沼に向かいました。

震災当初は笛の寺井宏明や臨時に活動を手伝ってくれる能楽師の友人と東京で待ち合わせて、運転を交代しながら東北に向かったものでしたが、今は現地集合・解散が普通になってきていて、気仙沼となると片道6時間を一人で運転するのが そろそろしんどくなってきまして。。

いや、正解だったかも。新幹線を使わず特急電車とレンタカーの費用を合わせても、東京からの高速道路の通行料やガソリン代とほとんど変わらないかもしれません。レンタカーを借りるまでは徒歩での移動があるので荷物をひとつにまとめる必要があり、また運ぶことができない物もあるのがネックですが、長距離運転のリスクを考えれば体力的にもこの方法がベストかなあ。年を取ったのね~

さてこうして訪ねた石巻と志津川のご報告を致しましたが、本日はその補遺です。

石巻では ぬえの活動の原点となった湊小学校をのぞいてみました。



当時は避難所となった湊小学校もいまは学校本来の役割を果たしています。住民さんの減少に伴って、より海に近いところにあってやはり被災した湊第二小学校はすでに閉校となり、この湊小学校に統合されました。



よく見るといつの頃からか屋上への避難階段が増設されていました。石巻では旧北上川の河口に位置する日和大橋の少し上流に新しい橋も架けられていましたし、少しづつ変わっていきますね。





こちらは児童の被害が甚大だった石巻市の大川小学校。こちらも震災遺構となってビジターセンターが新しく建てられ、案内板や柵が整備されて以前より校舎にも近づくことができたようです。

じつは今回気仙沼でご一緒した「えほん楽団」のみなさんは大川小学校で演奏した経験がおあり、と聞いて驚きました。ぬえたちプロジェクトとしてもここでの奉納上演を希望していた事があって、遺族会の方々とも交流を持ってはいるのですが。。これまで3回奉納をお願いしてその都度お断りになっております。

「えほん楽団」さんの場合はかなり複雑で特別な事情と、ぬえたちより長く濃密に関係者の方々と交流を深めておられたために実現したようですが、それもたまたま様々なタイミングがうまく合って実現したようで、その後別の音楽家の演奏に遺族の方々から異論が出されたりした事情もあって、受け入れは停止されたようです。

ぬえが聞いたところでは大川小学校では清掃のボランティアさんが唯一の受け入れ団体ですが、それも関西方面からずっと継続して支援を続ける方々だそうで、そういった努力と誠意によって信頼を得られたのですね。

さて気仙沼に戻って、もう少し前になってしまいましたがNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」の舞台ということで、それを示す看板があちこちにありました!





「橋を渡って来ましたぁ」



最後に気仙沼大島の「浦の浜」。以前は気仙沼本土から唯一の交通手段のフェリーが到着する場所で、このフェリー乗り場でも「羽衣」を上演したことがあります。上演当時お世話になった商店「グリーンアイランドおおしま」さんもすぐそばの高台の上に新築されていました!



大島大橋が架かってフェリーは廃止されたはずですが、気仙沼本土にもこの大島の浦の浜にもフェリーが停泊していました。あとで聞いたところによれば土日だけ営業する気仙沼湾内をめぐる遊覧船として就航しているのだそうです。

フェリーで大島に渡るときは船上でウミネコにエサをあげたりしましたが、あれ、今でもできるんですねっ!
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東日本大震災3.11 追悼の集い 気仙沼(その2)

2023-03-15 15:11:32 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼から帰って参りました!

去年の3.11の日に久しぶりに訪れて、その変貌ぶりに目を見張った気仙沼ですが、今回は前泊したこともあって時間をかけて見て回ることができました。

まずは気仙沼大橋、通称「鶴亀大橋」。本土と気仙沼大島を結ぶ2019年に開通したのですが、2021年のNHKの朝の連続テレビ小説「おかえりモネ」でも「橋を渡ってきた」という主人公のセリフにあるように、気仙沼大島の住民さんにとって悲願の橋だったのです。この橋は建設している段階から ぬえも見ていまして、陸上での組み立て工事が住民に公開された時期にはその見学にも行きました。



上の画像は ぬえが大島の亀山の頂上から撮影したのですけれども、左下に小さく見えるのが本当は巨大な気仙沼大橋。その向こうの正面に平らに見えるのが南気仙沼とか内ノ脇と呼ばれる地区をを抱える地域で、気仙沼の漁業や水産加工の中心地でもありますが、近世からの埋め立て地で、周囲の高台には限られた橋を渡って行くより方法がなく、震災時には大きな被害を出してしまいました。震災後は災害危険区域として住宅などの建設には制限を加えながら、それでも魚市場をはじめ水産加工場の建物が復興されて昔と変わらぬ気仙沼の経済の中心地となりました。

この右奥が「内湾」と呼ばれるエリアで、もとの大島へのフェリー埠頭を中心に次々と新しい建物が立ち並ぶ先進的な場所となりました。



半島状の埋立地の上を、これは去年はじめて見て驚いたのですが、三陸道の大きな橋がまたいで通りました。気仙沼もまるで近未来都市のようになりましたねー! 今回ようやくこの橋も渡ってみることができました!

さて ぬえは午前中に今回の会場の「すがとよ酒店」さんに楽屋入り、ついで昨晩ちょっと挨拶できた「えほん楽団」のクラリネットアンサンブルのみなさん、いつもお世話になっていて今回のコーディネートをしてくださった住民ボランティアの村上充さんも到着していろいろ情報交換を兼ねて、ご近所の仮設商店街時代からお世話になっている「団平」さんで昼食。
寺井さんも到着して音響機器の設置があり、やがて14:46の発災時のサイレン、黙祷のあとに上演となりました。



黙祷に先だって地元・気仙沼鹿折の浄念寺さんによる十三回忌の法要があり、黙祷のあと「えほん楽団」さんのクラリネットアンサンブルの奉納演奏。


撮影:米倉三喜子さん

「えほん楽団」さんはなんと九州・福岡を本拠地として被災地の復興へ音楽を通じて貢献する団体で、石巻や気仙沼で何度も支援活動をされているとか。思えばその間に九州では災害が相次ぎ、ぬえも地震被害が起こった前後に熊本を訪れて様子は見ておりましたから、九州と東北と、両方に対応されるのは大変なことでしょう。

ぬえたちプロジェクトは前述の通り能「松風」のダイジェスト版を奉納上演させて頂きました。13回忌を迎えて、ようやくこの曲も普通に演じることができるようになったと思います。思えば当地で140回以上も上演させて頂いておりますが、能ではよく出てくる泣く演技。。「シオリ」の型を被災地でしたのはこれでやっと数回目。


撮影:米倉三喜子さん

よく能は「鎮魂の芸能」などとも言われたりしますが、ぬえ自身にはそんな大それた役割が果たせる自信もなく、この12年、もっぱら震災のあともこの世に残された住民さんの幸せを祈って舞うことにしておりますから、選ぶ曲も当然のように希望に満ちた曲ばかりを選んできました。

が、これまた前述のように「愛する人を待ち続ける」その姿もまた純粋で美しい、と賛美するつもりで「松風」を選びましたが、この曲が違和感なく受け入れられたことがまた、復興のひとつの証しなのかもしれません。
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3.11追悼の集い 気仙沼(その1)

2023-03-11 08:48:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3.11追悼の集いのために気仙沼に向かう途中、被災地の定点観測に。

去年3.11の日に立ち寄りながら開館には間に合わなかった石巻の震災遺構・旧門脇小学校をようやく見学できました!


震災直後は簡単に近づけましたがほどなく立入禁止になり、保存するか解体するか長く議論された末に震災遺構となりました。ずっと立入禁止、清掃もほとんど行われなかった校舎内は当時を伝える凄まじい有様。









よそ者だから言えるのかも知れませんが、当時の状況を震災を知らない世代に伝えるのにはこれほど悲惨な状態を見てもらうのはとても重要だと思います。
それにしても。。多くが取り壊された「遺構候補」の建物は、みなそこで人的被害が出た場所だからだったのです。ここ門脇小学校は避難訓練が行き届いていて児童のほとんどは裏の日和山に避難して無事だったものの、それより遅れて学校に避難してきたご近所の住民さんは津波と火災により犠牲者が出ています。門脇小学校を震災遺構とするには大きな葛藤もあったでしょうに。。英断に感謝致します。これが防災意識の糧になりますように。



同じく遺構として残された志津川の防災庁舎は、きれいに整備されて、当時の状況をうかがい知るのは難しくなってしまいましたね。
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東日本大震災3.11 追悼の集い

2023-03-09 02:26:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
なんとも長い間書き込みしないで申し訳ありません。

さて来る3月11日の震災の日に恒例となりましたが能楽の心と癒やしプロジェクトとして宮城県・気仙沼市で奉納上演をさせて頂きます。

世間では震災から12年目と言われていますが、じつは今年は13回忌として現地では重い日、節目の年に当たります。

会場は昨年と同じ「すがとよ酒店」さん前の駐車場です。
すがとよさんは現・当主の菅原文子さんが経営されていますが、震災で被災されて店舗とともにご主人も流されてしまいました。その後ご主人は見つかり、文子さんはその見つかった場所に現店舗を再建されました。

その後文子さんは経営の傍ら復興への様々な取り組みを行われ、店舗にも演奏ホールを設けてイベントを行うなどの活動も行っておられます。去年に引き続き、現地住民ボランティアの村上充さんのご助力を得ましてこの場で再び上演させて頂きます。

当日は14;20頃から地元の浄念寺さまによる法要が執り行われ、発災時刻の14:46に自治体による1分間のサイレンに合わせて各地で各々 犠牲者に思いを寄せて黙祷が捧げられます。その後今回は ぬえたちと同じく被災地にて活動を続けれらる「えほん楽団」のみなさんによるクラリネット・アンサンブルの演奏があり、最後に ぬえら「能楽の心と癒やしプロジェクト」により能「松風」を部分上演させて頂きます。

当日の出演者は ぬえと笛の寺井宏明さんの二人だけ。上演所要時間も10分少々というところでしょうか。しかしずっと体調不良だった寺井さんも13回忌ということで今回はあえて弟子に任せずご自身で笛を吹かれるとのこと!

被災地での上演する曲は「羽衣」や「猩々」など、いわゆるめでたい曲が多いのですが、これは ぬえらプロジェクトの活動が、犠牲者への追悼というよりは残された人々の幸せを願う活動だからです。これは震災当初から活動場所が被災した現場ではなく避難所や仮設住宅などであったからで、住民さんの幸せを願う上演の方針は、事実上ぬえとたった二人で活動を続けるプロジェクトメンバーの寺井宏明さんとの暗黙の了解があって続けてきたものだと思います。

しかるに「松風」は。。 亡くなった恋人の帰りを永遠に待ち続ける女性のお話です。

この曲の選曲はかなり微妙です。現実に、現地では流されて行方不明となった家族の帰りを今も待ち続けている人が大勢おらるのに。。

それでも ぬえは、じつはずっとこの曲を被災地で上演したいと考えておりました。ずっと、ずっと考えて、そうして、震災の数年後かな、はじめて「松風」を上演したのです。お客さま。。被災者さんの心情を考えると こちらもかなり心揺れる上演でしたが。。そして、実際にお客さまの反応も。。微妙であったことは否めません。

でも、ぬえは「松風」には、人を愛する心の純真が描かれていると思うのです。「松風」のシテは、自分の死後もなお愛する人が残した言葉を信じている。。立場は逆であっても、懸命に愛する人の、はかなく報われないけれども その美しさを、この曲は同情を込めて賛美していると ぬえは思うのです。

震災から12年。。13回忌を経て、ぬえは犠牲者に思いをはせる、そのお心の美しさを讃えたいと思い、今回あえて「松風」を選びました。

こういう美しい心を持った方に幸せが訪れないはずはない。それを信じて上演したいと思っております。
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11年目の3.11 4年ぶりの気仙沼で追悼式典に参加してきました!(その3)

2022-03-31 02:07:01 | 能楽の心と癒しプロジェクト
すがとよ酒店さんでの発災時刻の奉納上演を終えて、気仙沼の鹿折地区では仮設商店街時代からお世話になっている うどん屋の「団平」さんで昼食。うどん屋さんなのに、ここでは中華そばしか食べたことがないですが、安定の美味!



一度はうどんを食べてみたいけど。。美味しいんだもん! この日はまだ開店時間前でしたが、すがとよさんのお客さんが店主の塩田賢一さんに電話してくださり、ぬえたちのためにわざわざ早めに出勤頂きました! 貸し切り団平!

団平さんは被災後、重機の免許を取って瓦礫の撤去をしたり、行政と交渉して仮設商店街の発足のため、まその運営のために尽力なさった方です。以前の滞在中には仮設商店街の入口をふさぐような かさ上げ工事の業者と対決したりも見ていましたが、その後なんとニューヨークに出かけて出店したり、東京・東日本橋に出店したり、と、気仙沼での再建のための資金調達に臨む姿勢とバイタリティーは常人の及ぶところではございませぬ。そしてついに念願の気仙沼に店舗を再建しました。東日本橋の店舗は今年3月いっぱいで閉店だそうです。本日まで!

太鼓の大川典良さんはスケジュールの都合でこれにて帰京、その後 ぬえたちは南町にある「キャンドル工房」に向かいました。

こちらは震災後に気仙沼に移住している杉浦恵一さんが代表を務める「ともしびプロジェクト」の本拠地であり、本日の2度目の上演場所でもあります。「ともしびプロジェクト」さんは震災の月命日である毎月11日にキャンドルを灯そう、という運動をSMS等で全国に呼びかけていて、気仙沼市内でも折にふれキャンドルを灯すイベントを開いています。ぬえたちも過去に何回かお盆の精霊送りの夕にお寺の枯山水庭園でクラシック音楽と能楽のイベントを企画して、その際には「ともしびプロジェクト」さんがたくさんのキャンドルを飾ってくださり、大変に幻想的で美しい舞台となりました。

杉浦さんも震災10年を経て、この災害を伝えるためにいろいろな模索をなさっていて、この日の出演を電話で相談したところ、まあ30分は語り合いました(笑)。この日のコンセプトはいろいろな形での「祈り」ということで、空と海を表現する青いキャンドルを全国で灯し、本拠地・気仙沼では宗教を超えた祈りを捧げたい、とのことでした。

カトリックの神父さん、真宗のお坊さんがそれぞれのやり方で犠牲者に祈りを捧げるので(!)、ぬえさんも何か能楽のやり方で「祈り」の形を取れないだろうか、という相変わらずアイデア満載のこの方らしく興味深いもので、ぬえはこの日は能『葛城』を舞うことにしました。『葛城』は「祈り」とはちょっとイメージが違う曲かもしれませんが、それでもシテがキリスト教と仏教の祈りに対して神道の女神であり、なんといっても純白の雪山が舞台なので、震災の日の夜の出演には好んで選んでいる曲です。震災の当日には雪が降っていました。。



この日も各地から集まったお手伝いボランティアさんが集い、生配信も行われました。会場が狭いのは仕方ないのですが(舞いながら扇で一度。。お客さんを殴った感触が。。)ん-、ただ、被災者。。というか市民の前での上演ではなかったのがちょっと残念かな。ぬえたちプロジェクトはずっと被災者や傷ついた街の市民に寄り添って活動を続けてきたので。とは言えボランティアさんが灯したキャンドルは気仙沼の夜に美しく映えていました。「ともしびプロジェクト」さんでは全国で青いキャンドルを灯してもらうために、キャンドル自体は無料で、送料のみで全国にキャンドルを届けておられるそうです。



今回昼間の追悼式典をコーディネートしてくださった村上充さんといい、移住して活動を続けている杉浦恵一さんといい、長い長い、無報酬での活動が11年目を迎えました。こういう人たちがいることを知ったのも ぬえたちプロジェクトが(これらの人々から比べたらほんの少ない回数ですけれども)活動を続けていくうちの出会いで、そう考えると 11年前のあのとき、被災地に行けて幸せだったんだな、と思います。

とりあえず今回もこれにてミッション・コンプリート♪
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11年目の3.11 4年ぶりの気仙沼で追悼式典に参加してきました!(その2)

2022-03-28 10:34:36 | 能楽の心と癒しプロジェクト
久しぶりの気仙沼は、知らぬ間に大きな橋が二つも架かっていて、ちょっとした近未来都市みたいになっていました。

本当は去年の11月、石巻市観光協会さんのイベントにご招待を受けたとき、東京に帰る途中に気仙沼に立ち寄った(笑) ので橋が架かったのはすでに見ているのですが。それどころか、最初の橋。。気仙沼市民の悲願で朝ドラ『おかえりモネ』(ちゃん?)でも重要なモチーフとなっていた本土と大島とを結ぶ橋。。愛称「鶴亀大橋」は本土で組み立て作業が公開された際には見学に行ったし、いざ架橋の場面はNHKのドキュメンタリー番組として放映されて、これも息をのんで見守ったものです。

それでも変わった気仙沼の様子を見て、今回は ほっとひと安心しました。不思議なもので、活動しているときだけは、ほんの1日だけ、その場所の市民になったような気持ちになるんです。だから3年かな、プロジェクトの活動で気仙沼を訪れなかったところに去年立ち寄ったときは、この変貌ぶりを見て自分が「よそ者感」がありました。今回は同じ橋を見て、ああ、悲願がかなって良かったな、と、思ったのです。

さて311の震災の日、発災時刻の14:46には被災地一帯では防災サイレンが鳴らされ、それに合わせて1分間の黙祷を犠牲者に捧げます。私どもプロジェクトでは毎年、このサイレン~黙祷の直後に、明日の幸せを願って『羽衣』を奉納上演することにしています。

。。考えてみれば、311の日というのは追悼のための日なので本来イベントが出来にくいのですが。。これも本当に幸せなことに、プロジェクトの主旨をご理解頂いて、どこかの地元の追悼行事に受け入れて頂き、この11年間、1度も欠かさず奉納させて頂くことができました。

今回も住民ボランティアの村上充さんのご紹介によって、はじめての場所となる「すがとよ酒店」さんの店舗前の駐車場で奉納上演させて頂きました。
 
「すがとよ酒店」さんは気仙沼市の「鹿折シシオリ地区」で今年でちょうど創業100年を迎える老舗です。しかし11年前のあの日。。津波によって店舗は流され、そうして。。店主のご主人も流されてしまったそうです。



ところが震災から1年も経ってからご主人は発見され。これを見た奥さんは決意されて、ご主人の発見場所に店舗を再建を果たされたのです。なんとも凄まじいお話。
がしかし、現店主である菅原文子さんは単に店舗の再建だけでなく鹿折地区を中心に気仙沼の文化の発展の本拠地となるべく次々と活動を開始されたそうで、店舗2階には音楽家から寄贈されたグランドピアノを備えた小さなホールがあって、今でもしばしばコンサートなどのイベントを企画しておられるそうです。





菅原文子さんとは電話であらかじめご挨拶と打合せはしましたが、この日初めてお目にかかりました。この方はマスコミにもしばしば取り上げられ、この日も京都放送のラジオに生出演されるとのことでしたが。。お会いしてみると意外や控え目で、能楽師の活動にも感謝のお言葉を頂き、頭が下がる思いでした。たしかに。。震災後にマスコミに取り上げられて、いつの間にか被災者というよりタレントみたいになってしまった方を何人か見てきたのですが、この方にはそんな俗っぽいイメージはまったくなく。逆境から、むしろそれを乗り越えて地域に貢献しようという希望にあふれた方でした。

さてその2階の小ホールを楽屋に使わせて頂き、こちらとしてもかなり好待遇なスタートです。

やがてサイレンが鳴り黙祷が捧げられて、いよいよ「羽衣」を奉納上演させて頂きました。今回はプロジェクト・メンバーの寺井宏明さんは舞台監督、笛の実演はそのお弟子の寺田林太郎さん、そして何度も活動に協力してくださっている太鼓の大川典良さんが今年も参加してくださいました。サイレンの前にはご近所の女性の僧侶さんが、店舗の前に備えられたお地蔵様の前で法要をされることになっていましたので、「羽衣」も最後のトメ拍子のあとにお地蔵様に向けて合掌する型を入れることに致しました。







驚くべきは、この追悼行事に、およそ30名様ほどのお客様が参加していられたことです。すがとよ酒店様にはあらかじめプロジェクトのプロフィールやら「羽衣」の画像をお送りしていたのですが、コロナ禍の中積極的な宣伝は控えておられ、店内に控え目に小さな掲示をしておられた程度とのことだったのに。

舞いはじめた ぬえはお客さまが多いのを見てびっくり。こういう時は正面を1方向に定めず、右側のお客さんを正面に見たり、左側のお客さんを正面にとったり、こうして発災時刻の奉納上演無事に終了しました。


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11年目の3.11 4年ぶりの気仙沼で追悼式典に参加してきました!(その1)

2022-03-16 18:52:35 | 能楽の心と癒しプロジェクト
すでに11年前になってしまった東日本大震災、その当日である3月11日に気仙沼市の追悼式典に出席、奉納上演させて頂くことができました。
 
1.11と言えば犠牲者を偲ぶ日で、イベントはできにくい日なわけですが、能楽の持つ追悼と、残された人々の幸せを祈る心が受け入れられて、この11年間、欠かさず追悼式典などに受け入れて頂いたことは本当に幸運だと思います。ずっとお付き合いさせて頂いた移住ボランティアさん、住民ボランティアさん、そしてもちろん住民さんの協力なくして成しえなかった事と、心より御礼申し上げます。

ぬえは前日の10日に宮城県に入り塩釜に前泊。
。。相変わらず睡眠時間が短い ぬえは長距離運転のあとなのに やっぱり5時には起きてしまいました。明けの明星。
 
それから数年前に訪れた能『融』にも登場する歌枕「籬が島」に行ってみました。
 

 

 
籬が島は岸近くに自然のままの島で残っていますが、コンクリート岸壁やそこに繋がれたプレジャーボートとの対比があまりに痛々しい。。 以前にはなかった防潮堤によって、陸からはほとんど見えない状態で、なお かわいそうな感じでした。。
 
それでも前回に訪れた時と同様、島には架け橋が掛けられ、岸からは厳重な封印が。祭りのときだけに開かれるのでしょう、この島が神の島として崇敬されている様子は変わらずに伺い知れました。
 
塩釜神社にも参詣したかったのですけれども、時間に追われて今回は断念。震災当時は1~2週間もスケジュールを空けて何度も被災地に赴いていて、国道45号線を走りながら、復興工事によって変わっていくあちこちの被災地の有様を「定点観測」なんて言って撮影していたものですけれども、今となっては限られたスケジュール、まして三陸道が整備され現在は時間に追われて細かいところまで見る余裕がありません。ゴメンなさい塩釜神社の神様、志津川、歌津、小泉、大谷、階上のみなさん。。
 
次に訪れたのは利府町の「馬の背」と呼ばれる名勝。松島の一部で、波の浸食によって小さな岬の先まで馬の背中を歩くような狭い通路を通って行く場所です。
 

 

 
少し前に石巻で熊谷町長さんに教えて頂いたので今回初めて訪れましたが、なるほど、馬の背中みたいな路を通って。。行きついた先から見た景観は、まさに「松の島」を実感させるものでした。
 
さて急いで気仙沼へ。三陸道の開通で驚くほど近くなりましたね。先行している笛の寺井さんからはすでに到着しているとの連絡が。
 
急いで気仙沼に向かいました(ここまでの投稿じゃただの観光ですね。。)
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3.11 気仙沼で追悼式典に奉納上演

2022-03-10 08:07:39 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今年も3.11の東日本大震災発災の日に気仙沼市で追悼式にて能楽の奉納上演をさせて頂けることになりました。
 
震災から11年目。欠かさず311の日に奉納上演させて頂けることのありがたさ。関係各位にお礼申し上げます!
 
【追悼式】14:46発災時刻のサイレン・黙祷のあと
気仙沼市・鹿折地区「すがとよ酒店」前駐車場
能楽「羽衣」シテ=ぬえ、笛=寺田林太郎、太鼓=大川典良
      後見=寺井宏明
※すがとよ酒店さんの菅原文子さんは震災で店舗とご主人を流され、1年後にご主人が発見された場所に店舗を再建されました。以後イベントを主催されたりネットで発信されたりと精力的に活動を続けておられます。
※今回は コロナ禍のためあまり宣伝はなさらないそうです。
 
【3.11 Blue Candle Night】19:00頃〜配信のみ
気仙沼市・南町「ともしびプロジェクトキャンドル工房」
能楽「葛城」シテ=ぬえ、笛=寺田林太郎
      後見=寺井宏明
 
「ともしびプロジェクト」さんは全国で毎月11日にキャンドルを灯そう、という運動を続けておられ、何度かコラボの活動をさせて頂きました。
こちらでも発災時刻の14:46のサイレン・黙祷時間にも追悼の配信イベントがあり、そこではキリスト教の牧師さん(神父さんかも)と仏教のお坊さんが宗教の垣根を超えてお祈りをされるそうです。
 
ぬえら「能楽の心と癒やしプロジェクト」が参加させて頂くのは夜の部で、10年を経て311に青いキャンドルを灯す追悼イベントを行うそうです。
能楽の上演のあとトークイベントもされるとのこと。
※この時節なので無観客・facebookでの配信のみだそうです。
 
配信url https://fb.me/e/17RqU23AW
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震災10年雑感(その17)~ボランティアさんのいろいろ(その1)

2022-01-19 15:17:22 | 能楽の心と癒しプロジェクト
あけましておめでとうございます(今さら。。)

このブログも震災10年を受けて、被災地での活動を通じてこの10年間で ぬえが感じたことを綴ってきたわけですけれども、なんせ更新が遅くて申し訳ないことです。そうこうしているうちに11年目の3.11が巡ってくるわけで、ぬえも今その準備を進めているところですが、それまでにこの記事も完結しておかないと。

そういうわけでこれが最後の話題になると思いますが、ぬえが被災地で出会った様々なボランティアさんについてお話ししておこうと思います。

ぬえが初めて被災地を訪れたのは2011年の6月のことで、震災からすでに3カ月が経過していました。当時も大勢の、個人や団体のボランティアさんが集っていて、大きな団体のメンバーはゼッケンをつけて、それこそ蟻がむらがるように被災家屋に取りついて作業をしていました。ぬえがお手伝いをした避難所ではインカムをつけて連絡を取り合いながら若者が忙しそうに支援物資を運んでいました。

ぬえが聞いたところではボランティアさんが集まった最初のピークはこの年のGWだったそうで、ぬえが訪れたときはすでにそのピークは終わっていました。避難所となった小学校のプールには車が突っ込んでいたそうですが、ぬえはそれは見ていません。が、それでも泥掻きやら家屋の片付け、避難所の運営など、ボランティアの仕事は長期間に渡って見ることができました。

それぞれ大変な力作業だと思います(ぬえは体力的な問題で泥掻きはしませんでした)が、泥掻きといえばこんな話も。。被災した魚市場や加工場の片付けでは、泥の中からたまに加工製品が詰められた袋が現れるのだとか。うっかりこれを乱暴に取り扱って袋が破れたら大変なことに。。 すでに中身の加工食品は腐敗していますので。。 こういう現場で作業するボランティアさんたちはその「危険物」の袋を「やさしーヤツ」とか呼んでいました。優しく取り扱わなければならないヤツ、って意味でしょうね(笑)

さて本題は、その年の夏頃でしょうか、こうしたボランティアの多くが役割を終えて撤退していく中で、その後も長く被災地に留まって活動を続けた個人や(小規模の)ボランティア団体がいたことです。ぬえたちは1~2カ月おきに被災地を訪れていましたから、こうした人たちと自然に交流ができあがっていきました。

石巻では避難所に常駐するボランティア団体の活動の手伝いをしながら自動車整備をしていた人が、その後適正な価格で被災者に中古車を販売するようになり、ついに石巻に住みついて自動車販売と整備工場を立ち上げました。ご本人に伺ったところ住民票どころか本籍地も石巻に移したとのこと。本気です。その後市民の女性と結婚されたそうです。

同じく石巻で避難所で自転車の整備をしていた人がいて、この人は子どもの自転車や大人でもちゃんと自転車のメンテナンスをしている人には無償で修理をしていました。面白いのはこの人はイラストを描くのが得意で、その後石巻にとどまらず被災地各地の仮設商店街などで倉庫の壁などでこの人が描いたイラストを見たこと。あ、あの人、ここまで来ていたんだー! いつか東北に自転車トレイルの道路を作るのが夢、と語っていたのが印象的です。

女川町では仮設住宅の運営をしていたボランティアさんの話を聞いて驚きました。もとよりボランティアは衣食住のすべてを自分で賄って、当時自衛隊が被災者に配布していた食料も受け取らない人が多かったのですが、この人はそれが徹底していて、災害発生直後に女川町に入って、なんとその後半年間テントで暮らしていたのだそうです。その後献身的な活動が行政の目に留まり、町の臨時職員として起用されて仮設住宅の運営に携わっているのだとか。

なぜ女川町に? とこの人に聞いたことがあるのですが、震災当時隣町の石巻市には数百人? のボランティアが集っていたのに対して女川町には数名程度しかいなかった由。「大勢がいる所に行ってもあまり意味がないと思って。。」と話されていましたが、その後この方は被災者の女性と結婚して当時その女性が住んでいた仮設住宅に住むことになったそうで、ああ、少し住環境が向上しましたね(笑)。今も女川町に住んでいて、地域振興に尽力しているお話を伝え聞いています。
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