ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その7)

2006-03-29 22:35:23 | 雑談
来日された大学の先生と会食をして再度の渡航を依頼されてから数週間、突然ニューヨークでの同時多発テロ事件が起こりました。みなさんの多くもそうであったと思いますが、ぬえも深夜のテレビ中継でこの事件をリアルタイムで見てしまいました。ひたすら驚愕。。

偶然だったのは、ぬえはこの事件の翌朝に米国人の留学生に稽古をつける約束をしていたのです。でも今考えてみれば、テレビで事件を知って驚いたけれども、やはりどこまでいっても「遠い国で起こった事件」としてよそ事のように見ていたのだと思います。翌日に稽古をした米国人も同じように実感がない様子でした。この時 ぬえは、むしろつい先日始動したばかりの米国訪問の計画にどのような悪い影響が及ぶかを心配した程度。しかしその後米国は次々に戦争を始めてゆき。。

ぬえは米国にチャンスをもらった者として大きな恩恵を感じているのですが、また一方、この頃 ぬえは米国に対してちょっと複雑な感情も持っていました。ぬえは能の世界に身を投じてから、日本の文化がどれほど精緻に考え抜かれ、深い精神性と見識を兼ね備えたものかを発見する事ばかりでした。でもそれだからこそ、それまでの ぬえ自身と同じように、日本人がいかに自分の文化を省みない、極言すれば捨ててしまったも同然の状態になってしまったのか、を同時に考えないわけにはいきませんでした。。いろいろな要因は考えられるんだれど、やっぱり。。戦争の影響を無視するわけにはいかないのですよね。。 日本が引き起こした戦争について語るのは本当に難しい事だけれど、ぬえは米国が日本に残していった「自由」というものについても複雑な思いを持っています。

米国がテロ事件のあとに起こした戦争によってみずからも苦しんでいるのを見るにつけて、ぬえは「どんな事があっても必ず渡航しよう」と固く決意しました。ぬえの渡航先はまさにニューヨーク州の大学だったし、すでに現地の友人からは「どんな小さな商店にさえ星条旗が掲げられ、みんなが Remember Pearl Harbor! と口々に言っていて、私は気分が悪くなっている」と報告も入っていました。日本の文化が戦争を境に、それまでとまったく違う方向に進んでいった現実を知ってしまった ぬえはどうしても若い人たちと話をしてみたいと思ったのです。

渡航についての様々な交渉を進めて、ついに米国に渡航したのは、しかし事件から3年が経過した2004年の事でした。大学との交渉のほかにも、米国大使館でのビザの取得にかなり苦労したり、また実際に渡航してみると空港でのチェック体制も以前とは比べものにならない厳しさになっているなど、以前とは明らかに違う事も多かったけれど、それでも大きく見れば以前友人から報告があったような興奮状態の時期はすでに過ぎ去ったようでした。

このたびの渡航では20日間の滞在で3都市の大学で講義や公演を行う予定になっていました。久しぶりで会う米国の学生たちは相変わらず生き生きとして、稽古さえ楽しみに変えてしまう陽気さも失ってはいなかったのは ぬえにとっても救いでした。本当に何事もなかったかのよう。しかし。。多忙なスケジュールの中で、折を見て学生とも話す機会を見つけたのですが。。でも彼らにとってテロ事件後の現実はあまりにも重い心の重荷であるようでした。日本が戦争で失ったものについての話をしようとしても。。戦争の話題は彼らにはとてもつらそう。それまで楽しそうにしていた彼らがみんな押し黙ってしまう。。 ひょっとしてぬえは彼らの神経の最も微妙な部分に土足で踏み込むようなマネをしてしまったんじゃないか? 稽古は順調に進める事ができても、ぬえは段々と心細さが増していきました。

いろんな事を考えながら、ぬえも悩みながら、講義や公演自体は成果を残すことができて、最終公演地となるニューヨーク州の小さな小さな街に着きました。ここではもう ぬえは学生には楽しんでもらえるように、それだけを望んで稽古や講義を始め、学生たちも心から喜んでいたようです。これで良かったのかなあ。

何日かの講義を終えて、この街の滞在の最終日には、やはりテープを使った略式の公演を行いました。この公演が20日間に及ぶ米国滞在の最後の仕事となります。小さな街ながら歴史を持つ古い劇場があって、そこが公演の会場でした。チケットはすでに完売、と事前に伺っていましたが、先生がおっしゃるには「遠くカナダから申し込んで来たお客さんもあるんですよ」との事。ここで力いっぱい、出来るだけの公演をして、無事に能は終了しました。そして海外公演では必ずやらなければならない「カーテンコール」で再び舞台に出て観客に挨拶をしました。。すると。。信じられない事が。

ぬえが挨拶の礼をして顔を上げると、なんとお客さんが立ち上がってスタンディング・オベーションをしてくださっている(!)これには驚きました。もちろん ぬえにとっても自分の舞台がこれほど好意的に迎えられた事ははじめての経験です。この小さな街は、ぬえにとって忘れられない場所になりました。

。。さてすべての公演を終えて、日本に帰国する前に、一日だけニューヨーク・シティに立ち寄って宿泊して、オフを取りました。もう三度目のニューヨークだったのであまり観光する、という感じでもなく、本当にオフ。それでも今回の公演のもう一つの目的~~グラウンド・ゼロへの訪問を果たす事にしました。今回 ぬえがアメリカでついに得られなかった事。。形さえも定かでない漠然としたものが、そこでは別の異形の姿となっているのです。

前回ここに建っていたビルが、今は跡形もなく。。おそらく感慨というほどのものもあるか、と予想していた ぬえでしたが、実際そこに立ったとき、涙があふれ出てきてどうしようもなかった。違う文化や価値観が出会った、という同じスタート地点に立ちながら、昨日はスタンディング・オベーションとなり、どうしてここではこうなるのか。。

いろいろな事を思うけれど、ぬえとってはやはり、ぬえにチャンスをくれた国 アメリカは大切な国です。だからこそ今のアメリカを見るのはつらい。やっぱり ぬえは「そこにいた」のだからね。
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そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その6)

2006-03-28 01:17:31 | 雑談
近所の小学校で しだれ桜が満開になりました。は~春だねえ。
マリカ姫がベッドにもぐり込んで来る楽しい冬はもう終わりなんだねえ。。

前回の話題の続きですが、とっても話がずれたのでこれから修正して行こうと思います。。(;_:)

まあ、ともかくこのように最初は師匠に連れられて海外公演のお手伝いに参加するようになり、現地での質疑応答とか、地元の演劇学校の学生との交流などの役割を師匠の代理として勤めたのがキッカケで ぬえは能について、日本にいては思いつかないような発見する事ができたのです。海外公演では本公演のほかにこのようこまごまとした(失礼)交流の要望が出される事も多く、驚いたのは英国のどこか小さな街で「演劇を志す学生と話をしてほしい」と主催者に言われて赴いたその会場が「本屋さん」だった、ってことまでありました。このような要望まですべて師匠が対応するのは不可能なのでぬえなどの若手能楽師が起用されたわけですが、理由はともあれ若手の演者が同じく現地の若者と一つの話題について徹底的に討論するのは、本当に ぬえには勉強になりました。

そしてその後、ぬえにも海外で講義や公演をしてほしい、という依頼が個人的に舞い込むようにもなりました。ぬえはスウェーデンと米国の大学で講義を行い、テープを使った略式の公演を行った経験がありますが、中でもこれまでに四度訪れた米国が ぬえを育ててくれたのです。

最近渡航したのは一昨年になりますが、その折は20日間も滞在していました。それも忘れ得ぬ経験となったけれど、米国の大学が ぬえを招聘して頂くのがもうすでに四度目に及んでいるのは、大学も ぬえの行う講義や稽古のやり方をとても評価してくださっているからで、ぬえも米国の大学に育てて頂いた、と思っているので、お互いの相乗効果でより良いものが築き上げられてきたのだと思います。

さて2004年に ぬえが米国に招聘されたのは、その3年前に米国の大学の先生がわざわざ来日してくださって、直接 ぬえに招待の依頼をされたのが始まりでした。

そのとき先生がおっしゃった事には「前回の ぬえさんの講義はとても大学で評判がよく、あなたが帰ってから大学には『東洋演劇コース』というものが新設された」という事でした。これには驚いた。ところが。。その後香港やインドから演劇家を招聘して、ぬえと同じようなスケジュールで講義をしたのだけれど。。これらはあまりうまく行かなかったらしい。そこで初心に戻って ぬえに再度の渡航依頼がされたそうです。

。。そういう事もあるかもしれない。たしかに前回、はじめてその大学に行く事が決まってからの交渉は本当に大変だったから。大学が考えている講義スケジュールに ぬえが反対して、交渉は一年間に及んでいました。なんせ大学の当初の要求は「既存のクラスを毎日3~4カ所廻って、そこで能の話をしてほしい」というものだったのです。

ぬえは強硬に反発して「600年の歴史を持つ芸能を1時間程度のクラスで講義しても何の成果もない。しかも一つのクラスを終えたら次のクラスに移動して、また最初から同じ事を話すのは ぬえには苦痛だ。ぬえは役者であって教師ではない事を理解してほしい。ぬえが希望するのは、同じメンバーに数日間レッスンを続ける事だ。その稽古は毎回3時間は必要だ。そして彼らには毎回の稽古のあとで必ず舞台の雑巾がけを課す。技術を学ぶだけではなくて、自分が稽古する場所に敬意を払う態度まで教えなくては日本の文化を教えた事にはならない。ぬえが内弟子として学んだ事は技術だけではない。それを教えたいという事を理解してほしい」と要求しました。

この要求を勝ち取るための交渉は一年間に及びましたが、結局大学からは「それでは演劇科とダンス科の生徒を対象にした特別クラスをその期間だけ新設しよう。このクラスに参加を希望した学生は、既存のクラスと時程が重なっても、どちらのクラスにも出席扱いとする事にすべての教授が同意した。特別クラスが成果を上げる事を期待する」という返事を頂きました。(゜-゜)v

この特別クラスの講義・稽古は本当に楽しかったし、学生も能をよく理解してくれたようです。彼らの中からやる気のある者を選抜して、滞在の最終日に行われた能の公演では後見までさせた。もちろん装束の着付けの手伝いまで、後見の仕事のすべてをやらせました。またある時は「日本語クラスの生徒が一日だけオブザーバーとして見学したいと言ってきているがどうしたらよいか」と先生に聞かれて快諾はしましたが、もちろん座席で見ているだけ、なんてのは ぬえは許さず、全員を舞台に上げて一日だけのレッスンをしてあげ、当然 終了後には全員に雑巾がけも課しました。

こういう稽古のやり方が教授たちに受け入れられるのか、ぬえ自身にはとても不安はあったのですが、結果的に教師と生徒の垣根を超えた連帯感は生まれました。その後の「東洋演劇コース」があまり成功しなかったとの事だけれど、そりゃ香港やインドにはレッスンの終わりにみんなで雑巾がけをする習慣はないでしょう。(^^;)

わざわざ来日してくださった先生とは新宿の高層ビルで会食しまして、その折に先生はこのような事情を話して下さって、再度の渡航を ぬえに依頼されました。ぬえは感激して、もちろん渡航を約束しました。これが渡航の3年前、2001年の夏。

。。そう、同時多発テロが起こるほんの数週間前の事だったのです。
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そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その5)

2006-03-27 01:29:44 | 雑談
まずは本日のお題ね。(^^;) 「ふた子の玉子の目玉焼き」

今日は先輩の催しに出勤して参りました。会主の『大原御幸』とその子息で書生のKくん『小鍛冶』の地謡と、ぬえも仕舞『屋島』のお役を頂きました。やはり『大原御幸』は名曲だなあ、とつくづくと思いましたね。その反面、花帽子で一曲を勤めるおシテは息が苦しいのですが、なるほど今回もいかにも苦しそうでお気の毒でしたが。後輩のKくんの『小鍛冶』は若々しさにあふれていて、昔の ぬえを見るよう。運ビも謡もまだまだこれから長い時間を掛けて勉強するのでしょうが、とりあえず若手が勤めるお舞台では ぬえは全力でぶつからない、気合の足りない舞台だけは認めないから、その意味では及第点をあげましょう。

さてご好評を頂いている「ぬえが通った道には屍が累々」「ぬえの後には草木も生えない」シリーズの最終回として今回取り上げる事件は、ほかでもない「9・11米国同時多発テロ事件」です。これは「番外編」で、ぬえは事件そのものに接したわけではありませんが。

ぬえは米国には非情に複雑な感情を抱いていまして。まず、ぬえが外国で教えたり、師家の海外公演でも現地の若者とすぐに仲良くなって芸術論を闘わせたりできるようになったのは。。米国のおかげなのです。事情は長くなるので割愛しますが、ぬえが単独で海外に出るようになったのは今から8年ほど昔の事で、中でも米国から ぬえに招聘を頂いて渡航したときの経験が、いろんな意味で今の ぬえを作り上げています。

外国で能のワークショップをすると、たとえば質問には絶対に答えられなければならない。「わかりません」とか「そう習ったからやっているだけです」という答えは許されないのです。そんな事を言ったら「じゃ、アナタはサルなんですね?」と言われてしまう。(ーー;) だからこのような外国でのワークショップの経験を積むうちに、能について勉強するようになるのです。これは ぬえには大きかった。

そう考えてくると、日本にいれば自分の舞台について ほとんど説明する機会はありません。いやむしろ、舞台人が自分の舞台の事を説明する、という行為はそのものが、本来は良い事ではないのです。舞台人にとっては舞台の成果がすべてなのであって、それ以上の説明は「言い訳」になってしまうか、「こういうつもりで演じるので、そのつもりで見てください」と観客に事前に先入観を持たせるか、どちらかになってしまう。これは舞台人として潔い事ではないでしょう。

それに永い歴史を持つ能の演技の中には、「理由がわからない」演技、というものも皆無ではないのです。広い意味では演劇でありながら能には「儀式」としての要素もある。これはまた日本の文化の興味深い側面でもあると ぬえは考えているのですが、能に限らずたとえば茶道などでも同じような側面があると思います。その「儀式」については、意味は分からなくても演者は現実的には盲目的に従わなければならない事も多くあります。

たとえば能では「次第」で登場した役者は、それが一人で登場する場合には必ず観客に背を向けて「次第」の三句を謡うキマリがありますが、この動作の演出的な意味はわからない。能の入門書などには「鏡板に描かれた向陽の松に向かって謡っている」なんて説明してあるのを散見するけれど、なぜ「次第」だけがそのようにするのか、の説明はないから説得力には欠けるでしょう。

そのように不分明な点が多々あるのに、日本で「なぜか」が問題にならないのは、それが能一曲の舞台の成果の中では些末な問題だからです。はじめて能を見る方が後ろを向いて謡う役者を見て「?」と思っても、舞台が進行してくるにつれて、その不可解な役者の行動は舞台の成否とは無関係になってくるでしょう。そしてまた、役者にとってもそれは演技の成否にとっては些末にしか過ぎない場合がほとんどなのです。古語であっても日本語で演じる能を日本人の観客が見る場合、「不分明」はそのままで成立する、と言えるかもしれません。

ところが舞台上で話すセリフひとつさえ観客に理解できない外国での演能では、そのような些末な演技であっても、能全体に対する「不可解」を増幅する場合が多い。だから外国での公演では「なぜか」が大変重要な問題になってくるのです。

「次第」について ぬえは、先人が能の中にある種の「神秘性」を持ち込む「仕掛け」のひとつだと理解していますが、そのような説明も外国人の観客を納得させる事はできません。このような質問を外国で受けるたびに ぬえは答えに窮して、言い逃れをして、そのうちに発見をしました。

すなわち この「次第」に限らず、「不可解」な演技が型付に記載されていた場合、それが「本来どのような意味でこのように演じるのか」を調べていく作業も大切でしょうが、それはむしろ学者のする事であって、役者にとっては「その演技をどういう意味だと解釈しているのか」という認識を持っているか否かの方がずっと重要だと気づいたのです。

役者には「証拠」はいらない。「信念」を持って観客の前で演技をしているかどうかが問われるべきでしょう。だから外国での演能、そしてまたその後の質疑応答で ぬえは段々と(本当の理由はよくわかっていないが)「私はこう信じて演じた」と答えられるようになりました。そうすると、その解釈を説明するために、理論武装のつもりでまた調査したりもするようになる。

。。そうすると、かえって真実が見えてきたりするんですよねえ。。

ぬえはこのような外国でのワークショップや質疑応答の経験で、また能を知ることができました。そして中でも ぬえにチャンスをくれたのは、米国だったのです。同時テロ以前の。。
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そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その4)

2006-03-26 02:10:23 | 雑談
いや、これは正確には「その場にいなくて良かった~ ぬえ」のお話です。

もうこれも10年前になってしまったんですねー。。月日の経つのは早いもので。

1996年、ペルーのリマで起こった日本大使公邸占拠事件を覚えてお出ででしょうか。12月の天皇誕生日の祝賀レセプションを狙って、左翼武装組織トゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバーが日本大使公邸を襲撃、青木大使をはじめ外国要人ら約600名を人質にして占拠した事件で、約四ヶ月間の睨み合いの末、ペルー国軍の特殊部隊の突入によって解決を見た、あの事件です。

じつは ぬえ、この事件の勃発の直後にリマでの公演に参加する予定だったのです。しかも会場はなんと! ズバリこの事件の舞台となった大使公邸だったという。。

順を追って話せば、この公演は ぬえの師家の主催ではありませんで、観世流のある能楽師の方の企画だったのです。その方から ぬえにご連絡を頂いて、地謡として公演のお手伝いをお願いされました。

公演の計画はとっても魅力的なもので、リマ市内の劇場で一度、そしてこの日本大使公邸で一度の能楽公演を行い、せっかく遠方まで渡航するのだから、と演者をねぎらってくださって、公演後にはクスコに移動してマチュピチュ遺跡の観光まで計画されていました。もちろん ぬえもとっても楽しみにしていました。

。。ところが渡航の日程も近づいて来たある日、突然この事件のニュースが飛び込んできたのです。これには ぬえも本当に驚いた。もちろんそのような緊迫した情勢では現地で能楽公演する、という雰囲気は霧散するのは明白で、主催者から連絡を頂く前に、やっぱり ぬえは考えました。「またか。。」

でも、この事件が ぬえが渡航すると流血事件が起こる「いつものパターン」と決定的に違っていたのは、一歩間違っていたら ぬえら能楽師が人質になっていた可能性があった、という事なんです。

それは、もう10年前の話なので具体的な理由は忘れてしまいましたが、そもそもこの能楽公演自体がペルーでの日本の何かの祝賀行事に付随して企画されたものだったのです。日本大使公邸が公演会場のひとつに選ばれたのも日本の祝賀行事だったからで、市内の劇場でのもうひとつの公演はむしろレセプションでの上演のついでに一般市民に公開する、という、公的公演の付属的な公演でした。

また会場に大使公邸が選ばれたのも、要人が観覧するレセプション会場としては警備が最も行き届いた建物である、という判断があったのだそうで、なんせフジモリ大統領も来臨して能楽公演を観覧する可能性がある、と ぬえら公演に参加する予定の演者には知らされていました。

大使公邸占拠事件を起こしたテロリストグループは、12月の天皇誕生日の祝賀レセプションを狙って犯行を行いましたが、ぬえらの渡航公演の予定はは2月か3月だったので、もしもまだ昭和が続いていたならば、昭和天皇の天皇誕生日(4月)の祝賀レセプションよりも、ぬえらがこの公邸で行うレセプションの方が早く行われる計算になります。テロリストグループが犯行を実行する機運が熟したのがたまたまこの年のこの時期であったなら、そして時代がまだ昭和であったなら、確実に この公演が行われる予定の祝賀レセプションが狙われたはずなのです。。

ああ、どうして ぬえの師家が関係する海外公演っていつも。。

。。あれ?

よく考えてみると、このペルーでの公演は師家の主催じゃないな。。そして。。この公演のお手伝いを依頼されたのは。。師家の門下の中では ぬえだけ。。

。。あれ? あれ? あれ? ?(゜_。)?(。_゜)?

ひょっとして流血騒ぎがつきまとっているのは師家ではなくて。。??? (ーー;)



本日のお題はこちら↓

先日 玉子を買ったら、なんと1パックぜ~んぶ「ふた子のタマゴ」でした。
うどんに入れたらこんな感じ。
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そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その3)

2006-03-23 01:03:34 | 能楽
いや、これは正確には「その場にはいなかった ぬえ」のお話です。

前述のソ連公演の直前に行っていたイギリス公演での話。

この頃はバブルの時代でもあり、「冠コンサート」など企業も「メセナ」に力を入れていた時期でした。今じゃ「セーブ・ジ・アース」が合い言葉なので、なかなか能楽の海外公演などに企業の協賛は頂きにくい時代ですけども。

このときはロンドン公演から始まってスコットランドの方まで廻って公演をしたのですが、当時の海外での公演地は首都などの大都市での公演のほかに、協賛してくださる企業の現地工場がある土地での公演、という場合も多かったのです。企業としても「私たちは営利を追求するばかりではなくて、このように文化の育成や紹介にも努力を惜しみません」という経営の姿勢をアピールする事ができる良い機会でしょうし、能楽師にとっても外国の小さな街で公演する事はとても刺激的な事でした。

さて、イギリス公演も中盤に差しかかった頃、スコットランドのヘクサムという小さな街で公演がありました。ここにはスポンサー企業の工場があり、街には小さな劇場があるのでイギリスでの公演地の一つとして選ばれたのです。

ところが。。この街には劇場はあってもホテルがない。。(;_:)
やむなく演者は隣町のダンブレンというところのホテルに宿泊し、そこから劇場へバスで移動して公演する、という計画になりました。

ぬえも渡航前の正直な気持ちは「ひゃ~~なんて田舎町なんだろう」とは思ったのですが、ところが どうしてどうして。投宿したホテルは古城ホテルで、外壁にある正門からホテルの建物までは芝生の中のゆるやかな上り坂を徒歩5分上る広大さで、その広い前庭?ではパターゴルフやアーチェリーなんかできる優雅さ。ぬえの海外公演歴の中でも屈指のゆったりした滞在でした。

それでもここが田舎町なのは確かで、公演が夜であるために、昼間ホテルで遊ぶほかにはする事もなあんにもない。ぶらぶら散歩に出かけてみても、そもそもホテルでもらった周辺の地図を見ても見るべき所はなあんにもない。じゃ駅にでも行ってみようか、と歩き出して駅まで徒歩10分の距離の間にも、やっぱりなあんにもない。(^^;)

で、駅まで行きましたが「駅前商店街」が数軒(!)あって、やや離れて小さな教会があって。。それで終わり。まあ、のどかに小鳥のさえずりでも聞きながら散歩をする、って事が最上の過ごし方なんでしょうね。。

。。で、この街での公演は無事に終えて、このあと戦々恐々とモスクワに移動して、公演旅行は続いてゆき、無事に日本に帰り着きました。

本題はこのあと。

それからしばらくした ある日、ふとテレビのニュースを見ていると、あれ? どこかで見たような光景が。。それは、あの小さな街の、ホテルから駅まで続く道沿いにある小さな小さな教会なのです。イギリス国教会の教会でもあり、内部も質素な印象の教会でしたが、ニュースではその教会にキャンドルをともした人々が一様にうなだれて列をなして向かっている。。何事かと思いました。

ニュースキャスターいわく「精神異常の男がイギリスの小さな街の小学校で銃を乱射して子どもたち10数名と先生が犠牲になりました。。」

。。(@_@;)

1~2分の短いニュースでしたが、ぬえは固まりました。「またか。。」
どうして ぬえたちが通ったあとにはこんな事件ばかりが。。正直そう思います。

最近、日本で外国人に稽古をつけているのですが、ある日発表会を終えてからの宴会の席で、その生徒の中にイギリス人の若者がいたので、この体験を話してみました。日本人ならすでに忘れてしまっているような遠い国の事件だったのですが、彼らはこの話題を出したとたんに黙り込みました。10年以上前の事件なのに、それは彼らには触れてほしくない話題だったのです。

「それは。。私たちのみんなが忘れられない事件です。私たちが心に負っている傷なのです」

。。申し訳ない。m(__)m
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そのとき ぬえは。。そこにいた。。(その2)

2006-03-22 23:09:25 | 雑談
やっぱり、そこにいたんです ぬえ。

もうずいぶん古い話になりますが、1991年の8月に、その前年にソ連最初の(そして最後の)大統領に就任したばかりのゴルバチョフ氏が、黒海に突き出たクリミア半島の大統領別荘に休暇滞在中にクーデターで軟禁状態におかれた事件を覚えておいででしょうか。結局クーデターはたった3日間で失敗に終わり、砲弾を撃ち込まれながらもロシア連邦議会ビルの前で抵抗を続けたエリツィン・ロシア大統領が一人で目立ったような終結を見ました。クーデターを起こしたのは副大統領以下ゴルバチョフの側近ばかりだったため共産党の権威は失墜して、クーデター翌日にはロシアでは共産党は活動停止、機関紙は発行停止に追い込まれたし、さらにその翌日にはバルト三国が独立したり。もうムチャクチャ。

。。この「8月クーデター」事件の時、ぬえは内弟子の事務仕事の一環として師家の「モスクワ公演」のためにずうっとあちこちの企業や国際交流基金と折衝をしていたところだったのです。それもほぼ公演の概要はとっくに固まっていて、なんせ渡航はこの翌月の9月末の予定でした。(ーー;)

事件の報を聞いてすぐに国際交流基金に伺って「もうダメでしょ?」と聞いてみたところ、やはり「そうですね。。まだこちらでも検討中なのですが。。」というお返事で、ぬえももう半分以上は諦めていました。こちらはイギリスからモスクワへ廻る計画だったので、もう計画全体が音を立てて崩れる状態で ぬえはもう泣きそう。

ところが数日したところで国際交流基金から電話を頂きました。「じつは加藤登紀子さんがやはりこの時期にソ連で公演をされる予定があるのです。加藤さんは『ぜひ実行したい』と強い希望を持っておられますので、それならば能楽の公演もがんばって実施しよう、という事に決定しました」

。。そうですか (@_@;)

結局モスクワ公演は無事に終わりました。観客はとても反応がよくて感激しましたし、商店やレストランもすでに平常に営業していましたが、街中はさすがに争乱の直後だったので暗いイメージでしたね。翌年ソ連が解体しちゃったので、能楽公演としては これがソ連時代には最初で最後の公演となったようです。。でも後日になって分かったのですが、この混乱の時期に決行された加藤登紀子さんのコンサートの計画、というのは、じつはモスクワではなくてウラジオストックだったのだそうです。おいおいっ

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そのとき ぬえは。。そこにいた。。

2006-03-20 02:04:20 | 雑談
師家で催しがあって、一泊で鹿児島へ行ってきました。

公演の日はあいにくの雨でしたが、翌日は雨も上がり、桜島がぼんやりと見えました。久しぶりの鹿児島でしたが、やはり海が美しい。そして鹿児島の人は桜島を本当に愛してもいるし誇りにも思っているのですね。いろいろな方と話をしていて、そう感じました。

さて、この鹿児島公演に参加したメンバーの多くが、囃子方やワキ・狂言方も含めて、昨年の師家のヨーロッパ公演のメンバーと一致していて、公演が終わった夜に何人かと飲みに行ったところ、必然的に海外公演の思い出話になりました。そこで話題にもなり、また思い出しもしたのですが、昨年のヨーロッパ公演に限らずぬえたちが海外公演に行くと、よく「事件」が起こるのです。それも「大事件」の事が多い。(ーー;)

昨年の秋にパリで暴動が起こった事をご記憶の方も多いでしょうが、ぬえたちはなんとそのときパリにいたのです。それも、直前の訪問地ラトビアのリガからパリへ移動するために空港に行ったところ、そこではじめてテレビで報道されているのを見て「おいおい、これから行く目的地が大変な事になってるぞ。。」と。。しかも報道されている争乱の現場がモンマルトルで、ええっ? そこは ぬえたちの宿泊地。。

実際には争乱はホテルよりももう少し郊外で起こっていたらしく、公演も滞在もとくに問題はなかったんですが、正直言って ぬえは「またか。。」と思いました。

そのまた一年前、クリスマスに起こったスマトラ沖大津波は記憶に新しいですが、これまた20万人を超える死者を出す大惨事となってしまったのが。。なんと ぬえ、その現場にもいたのです。(ーー;)

ぬえたちが公演のために行っていたのはインドだったのですが、それも最南端で海の近く、トリバンドラムという街でした。クリスマスイブの夜中に到着して、その日はホテルに投宿してすぐに眠ったのですが、翌朝テレビをつけてみると、BBCではすでにその朝起こった地震のニュース一色。どうやらインドネシアの沖が震源地らしいが、正直 ぬえたちは「よそ事」のようにそのニュースを見ていました。当地ではまったく地震の揺れは感じなかったから。。

それでも午前中には「津波が起こった」「甚大な被害が出ている」「この街でも100人の死者が出た」と、ちょっとにわかには信じられないような情報が我々には入ってきました。半信半疑で街を歩いてみたのですが、ひたすら喧噪の混沌のインドの街にはそのような緊迫感はやはりまるでありませんでした。今考えてみれば、その街は海までは少し距離があったので実害がその場所には及ばなかった事と、市民の自宅には電話回線も整備されていないほどの情報の不足(=市内のあちこちに「電話屋」があった)から、まだ被害の深刻さが伝わっていなかったのでしょう。

ぬえたちのインド滞在はスケジュールの都合からわずか三日間で、その短時間の中で現地の芸能「クーリヤッタム」の役者との交流やお互いの公演の鑑賞・ワークショップまで行いました。かなり多忙なスケジュールだったので、地震や津波の事などすっかり忘れてしまいましたが、それでもメールをチェックすると、日本でも大きく報道されているらしい事がわかって、これまた 当地にいる身としては意外な感じでしたね。大急ぎのスケジュールをこなして帰国してみて、はじめて大事件だった事がわかり、公演関係者や出演者の家族にもかなり心配があったようです。

あのインド公演が三日間でなく、もう少し長い日程だったならば大混乱に巻き込まれていたでしょうね。。

でも、帰国して津波被害の実態がわかった時にも ぬえはなんだか「またか。。」と思ったものです。それぐらい ぬえらが海外公演に行くと大事件の証人になってしまう事が多い。これ、ちょっと偶然じゃ説明できないかも。。

次回もこの話題の続きをお知らせしてみましょう。


※パリでは雇用についての新法に反対する学生らによって再び暴動騒ぎがあるよう
 ですね。穏便に収束する事を祈っております。
※インド洋大津波の犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。
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『朝長』について(その2=さっそく脱線)

2006-03-18 00:11:40 | 能楽
ところで、すでに見てきた『保元物語』の冒頭で、『平家物語』にまでつながる天皇たちが登場しています。すなわち白河院、堀河院、鳥羽院、崇徳院、後白河院、近衛院の四世代 六人です。さすがに保元の乱は源平の争乱の時代より20年ほど遡るので、『平家物語』重要な役割を持つ高倉院とか安徳帝は登場していませんが、それでもなんだか ぬえにとってはこの六人の名前には聞き覚えが。。

( ゜o゜)ノハッ
。。そうか、能の本文に出てくる天皇の名前だ。

いわく『殺生石』に出てくる玉藻の前の伝説は鳥羽院に仕える女房の話だし、『鵺』は近衛院を悩ませた怪物。『恋重荷』は白河院の御所での話です。

。。こう考えてきたら能がその事件が起こった舞台として設定している時代について興味を持ったので、ちょっと調べてみました。ちょっと急いで調べたので遺漏や間違いがあるかも。。

【注】能の舞台上でリアルタイムで展開される事件の時代設定、という意味で調べ
 ました。たとえば「一ノ谷合戦」という事件は「文治元年」だけれど、『忠度』では
 ワキである「蓮生法師=熊谷次郎」が体験した事件なので、その生涯のうちの
 いつか、となり、『屋島』ではワキが「諸国一見の僧」なので能としては時代設定
 は「不明」となります。

【時代設定がハッキリしている曲】
1)登場人物が実在するか、そう信じられているので時代が自動的に設定される曲
(伝説的な事件も含む)
 安宅(文治3) 敦盛(熊谷次郎の生年中) 蟻通(貫之の生年中) 海士(房前の
 生年中) 雨月(貫之の生年中) 烏帽子折(治承4) 鸚鵡小町(小町99歳と
 すれば延喜頃) 大江山(頼光生年中) 大原御幸(文治2) 景清(文治1以降) 
 春日龍神(明恵生年中) 鉄輪(安倍清明の生年中) 咸陽宮(前2世紀、秦始
 皇帝在位中) 木曽(寿永2) 清経(治承4) 国栖(壬申) 楠露(元弘1) 
 鞍馬天狗(嘉応頃?) 現在七面(文永11~) 玄象(師長の生年中) 皇帝
 (唐代) 小鍛治(永延頃) 小督(治承1以前) 小袖曽我(建久4) 西行桜  
 (保延6~) 鷺(延喜) 三笑(東晋代、虎渓三笑) 七騎落(治承4) 石橋
 (長保5以降) 俊寛(治承2) 俊成忠度(俊成の生年中) 春栄(文治1?) 
 昭君(前漢代) 正尊(文治1) 誓願寺(一遍の生年中) 関寺小町(鸚鵡小町
 に同) 殺生石(建徳頃) 摂待(文治3) 蝉丸(源博雅の生年中) 禅師曽我
 (建久4) 千手(元暦1) 卒都婆小町(鸚鵡小町に同) 大仏供養(文治1)
 第六天(解脱上人生年中) 忠信(文治1) 張良(秦代) 経正(文治頃) 土
 蜘蛛(頼光生年中)東方朔(漢武帝) 朝長(平治2) 仲光(源仲光の生年中) 
 錦戸(文治5) 白楽天(唐代) 橋弁慶(嘉応頃?) 鉢木(北条時頼の生年中) 
 花筐(6世紀、継体天皇在位中) 雲雀山(天平宝宇頃?) 藤戸(文治1以降) 
 船弁慶(文治1) 身延(文永11~) 紅葉狩(平安中期) 盛久(文治2) 
 熊野(平治頃) 夜討曽我(建久4) 吉野静(文治1) 雷電(延喜~延長) 
 羅生門(渡辺綱の生年中)

2)架空の説話を典拠としながら、本説の時代背景が特定されている曲
 葵上(朱雀院) 安達原(神亀3との伝承) 住吉詣(『源氏』澪標巻) 玉井(神話
 時代) 楊貴妃(唐代)
3)登場人物が時代背景に言及している曲
 生田敦盛(法然の生年中前後) 江野島(6世紀、欽明帝) 菊慈童(魏) 金札
 (延暦) 恋重荷(白河院) 西王母(周穆王) 高砂(延喜=醍醐帝) 忠度(定家
 生年中) 竹生島(延喜) 鶴亀(唐代) 天鼓(後漢代) 寝覚(延喜) 氷室
 (建治以降) 富士太鼓(文保2以降、花園院) 弓八幡(後宇多院、正応以降) 
 養老(5世紀、雄略帝)
4)そのほかの理由で時代背景が特定される曲
 草子洗小町(ただし登場人物の時代考証はめちゃくちゃ)

【登場人物の氏名が特定されているが不詳な曲】
 一角仙人(天竺羅那国の臣下) 鵜飼(身延山から出た僧) 梅枝(身延山から出
 た僧) 雲林院(芦屋の某) 老松(梅津の某) 女郎花(小野頼風)柏崎(柏崎殿)
 高野物狂(高師四郎) 自然居士(自然居士)須磨源氏(藤原興範の人物が不審) 
 谷行(師の阿闇梨) 東岸居士(東岸居士) 唐船(祖慶官人) 道明寺(尊性)
 鳥追舟(日暮殿) 班女(吉田の少将) 放生川(筑波の某) 望月(望月秋長)

【時代設定が明示されていない曲】(五番立によって区分しました)
〈脇能〉
 嵐山 淡路 岩船 絵馬 大社 賀茂 九世戸 呉服 逆矛 志賀 白鬚 代主 
 難波 輪蔵 和布刈
〈修羅能〉
 箙 兼平 実盛 田村 知章 巴 通盛 屋島 頼政
〈鬘物〉
 井筒 右近 采女 梅 江口 姨捨 杜若 源氏供養 胡蝶 定家 東北 野宮 羽衣
 半蔀 芭蕉 藤 二人静 檜垣 仏原 松風 六浦 夕顔 吉野天人
〈四番目能〉
 藍染川 阿漕 芦刈 浮舟 歌占 善知鳥 小塩 花月 葛城 通小町 邯鄲 砧 
 熊坂 項羽 桜川 隅田川 当麻 龍田 玉鬘 木賊 錦木 百万 船橋 放下僧
 巻絹 枕慈童 松虫 三井寺 水無月祓 三輪 室君 遊行柳 弱法師 籠太鼓
〈切能〉
 碇潜 車僧 舎利 鍾馗 猩々 善界 大会 大瓶猩々 道成寺 融 鵺 野守
 飛雲 松山鏡 山姥 龍虎
 
 
んん~ちょっと大変だった割には成果が出たのかよくわからないけど、今まで知らなかった事をいろいろ知った。勉強のタネは尽きないです。

→次の記事 『朝長』について(その3=保元の乱の推移)
→前の記事 『朝長』について(その1の2)
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6月3日橘香会番組ができました(裏面)

2006-03-17 09:47:55 | 能楽
同じく 橘香会のチラシ番組の裏面です。

あちこちの公演情報サイトを見つけては この催しの宣伝をしているのですが、もしもご存じのサイトなどあれば教えて頂けると幸甚です。。m(__)m
コメント (3)
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6月3日橘香会番組ができました

2006-03-17 09:41:18 | 能楽
かねてお知らせしております
橘香会 (6月3日(土)午後1時開演 於・国立能楽堂)

の番組が出来上がってきました!
ははあ、これまでモノクロだったチラシ番組がカラーになったのね。

これはとっても美しいチラシになりました!
【注】この写真は ぬえが勤める『朝長』ではありませんで、師匠が舞うもう一番の能『遊行柳』です。『朝長』は若武者だいっ

既出ですが催しについての詳細はこのブログの3/11の項

PR/『橘香会』6月3日(土)

をご覧くださいましー
どうぞよろしくお願い申し上げます~ m(__)m
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『朝長』について(その1の2)

2006-03-15 01:44:21 | 能楽
前回の補足です。

>>後白河天皇側には 源義朝、平清盛、源頼政、源(足利)義康らがつき、
>>崇徳上皇側には  源為義、源為朝、源頼賢、平忠正らがつきました。

と前回書いたのですが、よく見るとこのとき後白河法皇側に後の宿敵同士の源平両家が加勢しているんです。すなわち源義朝(つまり頼朝・義経の父)と平清盛なのですが、『朝長』のサシに見える「昔は源平 左右(そう)にして、朝家(ちょうか)を守護し奉り。。」という文句は、まさにこの状態の事です。
(もっとも、このサシの部分の文句が指す本来の意味は保元の乱より以前の平時からの事を含んでおりましょうが。。)

話題はズレますが、修羅物の曲を上演するときに、源氏の武者の役(『屋島』『箙』『巴』のシテ、子方を含めて義経の役など)は梨打烏帽子の先端を左側に折り曲げて着け、平家は逆の右側に折ります。

この役割による烏帽子の折り方の違いは、慣れるまでは混乱するんです。これらの役は後シテである場合が多くて、前シテが中入して大忙しで後シテの装束を着けるときに、さて最後に烏帽子を着ける場面になって。。はて、どっちだったっけ。。? 修業時代にはよくある失敗です。もちろん装束の着付けは後見がなさるので、内弟子などはお手伝いしかしませんが、烏帽子を後見に渡す際にこんなところで手間取っていると。。 軽くても舌打ちをされて後見に烏帽子を引ったくられるか、場合によっては蹴り、という事も。。(>_<) 

ま、でも どの曲であっても、それが演じられる事は少なくとも数ヶ月も前から分かっている事だし、自分が地謡の役についていなければ、必然的に中入のお手伝いをすることは自明なんだから、こんなところで あたふたするのは事前のシミュレーションの不足です。しかしながら、悲しいかな新米のうちはそこまで考えが及ばないのです。。

だから新米の能楽師は数々の失敗を経て、こういう場面でとっさに正確に動けるよう自分なりの暗記方法を見つけだします。

で、聞いてみると能楽師の多くはこういう時に『烏帽子折』を思い浮かべるんだそうですね。この曲は義経の元服の前後を描いた能で、平家全盛の世の中で牛若が元服の印の烏帽子を「左折り」で注文する、というのが前半のストーリーなのです。文句にも「左折りの烏帽子」という表現がたくさん出てきて、子方を経て能楽師になったみなさんは『烏帽子折』の子方を経て、「源氏は左折りなんだな」と覚えてしまうようです。

ところが子方の経験がない ぬえは、稀にしか上演されない『烏帽子折』に出演する機会は修業時代にはなく、このような覚え方をしませんでした。そこで ぬえは、修羅物の烏帽子、というと、むしろこの『朝長』のサシの文句「昔は源平左右にして。。」で暗記しました。「源、平」→「左、右」という。。(^^;)
いまでも修羅物、というとすぐにこの文句が連想されます。なんだか面白いですね。

。。で話題を元に戻して、

上記のように「昔は源平左右にして 朝家を守護し奉」っていた両家が、おなじみのように袂を分かつのは『保元物語』ではなくて『平治物語』の方です。

前回 保元の乱が肉親同士の戦い、と書きましたが、これがまた、それ故に凄惨な結末を迎えるんですよね。。これについては『保元物語』のあらすじの中で触れると思います。


それにしても保元の乱の顛末を描く『保元物語』の結末が、源為朝(義朝の弟=朝長や頼朝・義経の叔父)が鬼ヶ島に渡って鬼退治をする話だとはまさか思わなかった。。(^◇^;)

→次の記事 『朝長』について(その2=さっそく脱線)
→前の記事 『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
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『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)

2006-03-14 01:06:14 | 能楽
6月3日(土)の「橘香会」で ぬえが上演する『朝長』に向けて、考えている事などをつれづれに書いていこうかと思います。

能としては大変な大曲な『朝長』なわけですが、人物としてはほとんど無名でしょう。実際 ぬえも、朝長は義朝の子で、頼朝や義経の兄弟、ていう程度以上にはほとんど知りませんで、そんでこの機会に『保元物語』と『平治物語』をはじめて読んでみました。ううむ、こちらにも能でおなじみの人物がそのまま大勢登場してきます。修羅物の能の曲といえば、ほぼ全曲が資材として『平家物語』を本説にしているのですが、保元の乱・平治の乱はの時代はそのまま源平の合戦の時代にリンクしていくワケで、この二つの争乱は源平合戦の遠因とか伏線と言うよりは、引き続いた一つの争乱。。というか壮大な人間模様の絵巻に見えてきました。

まだ6月まで日もありますので『保元』『平治』のあらすじを追っていきながら、能の『朝長』に近づいて行ってみようと思います。

 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇との皇位継承をめぐる争いという政争が発端の戦乱で、摂関家・武家がそれぞれの側について戦いました。でも。。戦ったのはほとんど肉親同士なんですよねえ。。

まず後白河天皇と崇徳上皇は実の兄弟。兄の崇徳は曾祖父・白河院に推されて天皇になったものの父・鳥羽院には疎んじられていて、白河院が崩御して鳥羽院が実権を握ると退位させられ、幼い弟が近衛天皇として即位しました。ところが近衛は17歳で病没。崇徳上皇は自分の子の親王が皇位を継ぐものと信じていたところが鳥羽院は再び近衛の兄(崇徳の弟)を後白河天皇として即位させてしまいました。

崇徳と後白河の母は幼少より曾祖父の白河院の養女として育てられていて、鳥羽院の后となったときに白河の子を身籠もっていたと噂され、そして生まれた子が崇徳。鳥羽院にとっては祖父の子を自分の子として育てる事に。。そりゃ疎むのも無理はないわな。

元号を保元と改めた1156年、鳥羽院は崩御、この時から御所では不穏な空気が流れ始めます。ときに崇徳上皇38歳、後白河天皇30歳。う~ん、年齢としてもだいぶヤバい年頃ですな。崇徳上皇には謀反の噂がしきりに立ち始めます。

一方、同じ頃 摂関家でも対立がありました。左大臣藤原頼長(よりなが)と関白藤原忠道(ただみち)の二人がそれで、これまた弟と兄の関係。。官位や性分、才能などが複雑に絡みあって兄弟仲が悪くなるのはいつの世でも同じようで、頼長は憤懣を持つ崇徳上皇に、忠通は後白河天皇に接近してゆきます。

後白河と崇徳の対立はエスカレートして、崇徳の謀反は疑いなくなり、それぞれが武士を集め始めます。
後白河天皇側には 源義朝、平清盛、源頼政、源(足利)義康らがつき、
崇徳上皇側には  源為義、源為朝、源頼賢、平忠正らがつきました。
ここでもまた、源義朝にとって為義は父、為朝は弟だし、平清盛にとって忠正は叔父。。
どうしてこうなるん?

でもまあ、ここですでに能でおなじみの名前が登場しておりますな。少しは能に話が戻ったところで、本日はおしまい。次回をお楽しみに~

→次の記事 『朝長』について(その1の2)
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伊豆の国市で子ども能の稽古 三回目

2006-03-13 01:36:09 | 能楽
今日は伊豆の国市での子ども能の稽古の第三回目でした。

相変わらず創作子ども能『江間の小四郎』のシテ・ワキ・ワキツレの稽古、地謡の稽古、子ども仕舞四番の稽古、さらに ぬえがシテを勤める玄人の能『船弁慶』前後之替の子方の稽古、と息つく暇もない稽古の嵐にたった一人で立ち向かう ぬえ。。

このような厳しいスケジュールの稽古では、少しでも覚えが悪い子がいると全体の稽古進度に影響してしまうものだけれど、その危惧はほとんどありませんでしたね。どうしても演技をする子どもたちの稽古に時間を取られてしまうのだけれど、地謡を謡う子どもたちが前回の稽古よりさらにパワーアップしてやって来ました。

子ども創作能の稽古では、ようやく型の稽古を終えてすでに予定時間をオーバー気味だったのに、地謡はただいっぺんの稽古でクリア。もうほとんどの子は謡本さえ持ってきていない、すでに暗記している状態です。

これで一挙に稽古スケジュールを挽回して、なんと初めての「通し稽古」まで行うことができた! しかも型が不安な子につきっきりになって、横で一緒に動いてあげなければいけない場面でも、地謡の子どもたちは ぬえが居なくてもどんどん謡ってる!

通し稽古が終わって、一度解散を宣言してから、さて シテなどに個別に指導を始めると、地謡の子どもたちは帰り支度をしながら、シテの型に合わせて文句を謡いかけてくる!

これほどハードな条件の下、とくに会場を予約してある時間内で消化しなければならない、という条件の下での稽古なので、進行の手際の良さが問題になるのだけれど、正直に言って、子どもたちに救われながら稽古をしている、ってのが実情ではないだろうか。
今回はこれまでの狩野川薪能の稽古の中でも、本当に彼らに感謝を送りたい。


。。で、今日の画像のお題はこちら。

「本物はどれだ」


狩野川薪能→ 次の記事
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PR/橘香会『朝長』6月3日(土)

2006-03-11 23:52:43 | 能楽
師家の梅もすっかり満開で、いよいよ春本番になりました。
今日は ぬえは国立能楽堂で催された定例公演、野村四郎師の『櫻川』を拝見に行ってきました。

さて ぬえの今年の最大の舞台、『朝長』の番組が公表されました。
メールでのお申し込みは1割引させて頂きます。どうぞご知友お誘い合わせのうえご来場賜りたく、よろしくお願い申し上げますーm(__)m

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
橘香会(きっこうかい)
                       平成18年6月3日(土)午後1時開演
                       於・国立能楽堂(東京・千駄ヶ谷)
   連 吟 鞍馬天狗

 能 朝 長  前シテ(青墓ノ長者)   
              後シテ(源 朝長) ぬ  え
                 ツレ(侍女)      青木 健一
                 トモ(従者)      古室 知也
                 ワキ(旅僧)      工藤 和哉
                 アイ(下人)      山本 則重
                    笛        槻宅  聡
                    小鼓       曽和 正博
                    大鼓       柿原 弘和
                    太鼓       小寺真佐人
                    地謡       伊藤 嘉章ほか

   仕 舞  小袖曽我  梅若 紀長 梅若 久紀
        西行桜キリ 青木 一郎
        夕 顔    中村  裕
        当 麻    梅若万佐晴

 狂言 昆布売  シテ(昆布売) 山本 則直
               アド(大名)     山本 則重

   仕 舞  二人静キリ 伊藤 嘉章 長谷川晴彦
        半 蔀キリ 遠田  修
        龍 虎    加藤 眞悟 梅若 泰志

 能 遊行柳  前シテ(尉)   
              後シテ(老柳ノ精) 梅若万三郎
                 ワキ(遊行上人)   安田  登
                 アイ(所ノ者)     山本 則直
                    笛        一噌 幸弘
                    小鼓       幸 清次郎
                    大鼓       亀井 忠雄
                    太鼓       金春 国和
                    地謡       浅井 文義ほか
                          (終演予定 6時20分頃)

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 ◆入場料◆ S指定席 8,000円 A指定席 7,000円 B指定席 6,000円
       自由席 5,000円 学生 2,500円
 ◇お申込・お問合◇ ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com
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チラシ番組の画像はこちら↓ このブログの別ページですが。。(^^;)
6月3日橘香会番組ができました
6月3日橘香会番組ができました(裏面)

いま ぬえは稽古のかたわら、『平治物語』を読んで『保元物語』に戻っているところ。なんと言っても『平治』の巻之二の冒頭に出てくる平重盛と源義平の一騎打ちがカッコいいですねー。『平家物語』では、賞賛されていながら源平の合戦の時にはすでに没後であるために影の薄い平家の御曹司・重盛と、源氏の嫡男・義平(朝長の兄)。二人が御所の庭の右近の橘・左近の桜の間を追いかけ回して組まんとする描写は手に汗握ります。このとき重盛は23歳、義平は19歳。んー若いねえ!

公演に向けての ぬえの作品研究・稽古状況のご報告はこちらの記事以下↓
『朝長』について(その1=朝長って。。誰?)
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骨董市に。。行きそびれた

2006-03-10 11:06:15 | 雑談
もう先週になりますが。。週末に平○島で行われていた骨董市に行くつもりだったのが。。ついに行きそびれた。

ぬえは知る人ぞ知る「骨董屋の鬼」でして、もう20年間も各地で骨董屋を見つけては舞台に使える道具類を探しています。

もともと ぬえは一代目の能楽師なので、内弟子修行を始めた頃は、面やお装束は言うに及ばず、小道具類にいたっても本当になあんにも持っていませんでした。かと言って新しいものを買うのではとても生活が成り立たず。。それでも内弟子の頃から「毎年ひとつは必ず舞台に使えるものを買いそろえていく」という目標を立てて、それは今でも守っています。お金がない年は「鬘帯一本」って事もありましたが。。

そんなわけで東京都内はもちろん、地方に出かける場合でも時間があれば骨董屋には出来る限り立ち寄って物色する、もうこれはクセのような習慣ができました。骨董屋に行って名刺を渡して「なにか能に関係するものが出たら教えてください」と頼み込んで。。でも大概は「ええ? お能?。。。はあ、わかりました。何か出物があったらお知らせしますよ。。ふふん」なんて言われて鼻で笑われて。なんだよ その「ふふん」ってのは。(;_:)

ところが! これが時には大きな出物があるのですよ。本当に稀には、ですけども。。古い中啓。。新旧の作の面。。小刀や太刀。。先日の『鵜飼』でも前シテに使った中啓は以前に骨董屋で見つけたものの一つで、この曲では扇の地紙を持って向こうへ投げつけるようにバッと拡げる型があるので、扇の要が緩すぎても堅すぎてもダメなのです。だから中啓を選ぶのには時間を掛けました。たまたま所蔵の中啓の中に、図柄は平凡だけれど要がちょうど良いものがあって、これを使う事に決めました。

平○島の骨董市は都内でも最大規模で、年に四回程度開かれています。まあ、いつも同じ店舗が出店しているので、いつ行っても同じような物が並べられているのですが、中にはびっくりするような出物がある事も。

画像は前回の骨董市で見つけた「超!」掘り出し物の「床几(鬘桶)」です。これは「まず出る事はないだろう。。」と諦めつつも20年探していたものの一つ。なんと!3万円ちょっとで手に入れました。国立能楽堂が開場した時に新調された無地の鬘桶が「数十万円」という金額だった、と聞いた事があるので破格の掘り出し物です。見つけた時はびっくりして、値切るのさえ忘れた。(@_@;) ちょいと蒔絵が派手なので、狂言に向くかもしれないけれど、これは次回の『朝長』で使おう!
コメント (2)
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