ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その7)

2010-06-30 08:10:56 | 能楽
間狂言からの報告を聞いた居士は、事情を察知して少女を救出しに向かうことになります。

シテ「あら曲もなや候。始めより彼の女は様ありげに見えて候。その上諷誦を上げ候にも。ただ小袖とも書かず。蓑代衣と書いて候よりちと不審に候ひしが。居士が推量申すは。かの者は親の追善の為に。我が身をこの小袖に替へて諷誦を上げたると思ひ候。さあらばただ今の者は人商人にて候べし。彼は道理こなたは僻事にて候程に。御身の留めたる分にてはなり候まじ。
間「さやうの者ならば。大津松本のあたりへ参らうずる間。某追っつき止め申さう。
シテ「暫く。御出で候分にてはなり候まじ。居士この小袖を持ちて行き。彼の女に代へて連れて帰らうずるにて候。
間「さやうに候はば。七日の説法が無になり候べし。
シテ「いやいや説法は百日千日聞し召されても。善悪の二つを弁へん為ぞかし。今の女は善人。商人は悪人。善悪の二道こゝに極つて候は如何に。今日の説法はこれまでなり。願以此功徳普及於一切。我等与衆生皆共成。


七日間も続けた説法を無にしても、少女を救出しようとする居士。まさに少年活劇の世界ですね。
舞台上ではまたしても間狂言の仕事が大変なところで、シテが「今日の説法はこれまでなり」と謡い出すと、シテの前に展べられた縫箔を三つ折りに畳んで、「我等与衆生皆共成」までにシテの後ろからマフラーのように首に掛けるのです。シテは「願以此功徳普及於一切」と謡いながら合掌しますが、間狂言が縫箔を首に掛けると合掌の手をほどいて左手でそれを押さえます。

この縫箔ですが、裾の方がシテの右肩から胸の前に、そのうえから襟の方をシテの右肩から胸の前にかぶせるようにして前で合わせるように掛けて頂くよう、間狂言にお願いしておきます。これは後でこの縫箔を左手だけでワキの方へ投げつける型があるための便宜なのですが、こういう細かい打合せを事前にきちんとしておかないと、舞台の上で失敗につながることもありますので要注意ですね。

ちなみに「願以此功徳普及於一切。我等与衆生皆共成」というのは、次に続くシテの謡「仏道修行の為なれば」と掛詞になっています。「仏道修行の為なれば」からの部分は章句の構成や節付けから「一セイ」と呼ばれる小段になりますが、このように小段にまたがって、しかもすべてシテが謡う文句の中で掛詞があるのは珍しい例だと思います。「願以此功徳普及於一切。我等与衆生皆共成仏道」とは音読して「がんにしくどくふぎゅうおいっさい。がとうよしゅじょうかいぐじょうぶつどう」と読みます。「願わくはこの功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道成らんことを」というような意味で、本文は「法華経」にあり、読経の終わりに読み上げる常套の文句らしいです。いや、白状しちまいましょう。信心はあっても特定の宗派の信仰は持っていない ぬえにとって、この回向文は覚えるのが大変でした。いまでもまだ、つっかえずにスラスラと謡うところまで到達していましぇ~ん。(×_×;)

シテ「仏道修行の為なれば。
地謡「身を捨て人を助くべし。
ワキ/ワキツレ「今出でて。そこともいさや白波の。この舟路をや。急ぐらん。
シテ「舟無くとても説く法の。
地謡「道に心を。留めよかし。


一セイの「仏道修行の為なれば」でシテは立ち上がり、大津へ追い向かう心で橋掛リへ行きます。間狂言はシテの床几を引き、これにて舞台より退場します。またワキとワキツレは、少女を同道して大津に到着して船を出す心で、脇座にて左肩を脱ぎ、竹棹を持って立ちます。シテは地謡「道に心を。留めよかし」で大津に着いた心で三之松より見回し、ワキを発見すると、囃子の手をよく聞いて「打上」という終止の手にかぶせるように謡い掛けて呼び止めます。

シテ「なうなうその御舟へ物申さう。

いよいよこれより少女をめぐってシテとワキの丁々発止の駆け引きが始まります。

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その6)

2010-06-28 11:53:09 | 能楽
上記ワキの詞章は、今回の ぬえの所演の際のお相手である、下懸リ宝生流に拠りました。観世流の謡本に掲載されている詞章は観世座付きだった福王流のそれが ほぼ踏襲されているのですが、流儀によって詞章には多少の異同があります。『自然居士』の場合は、もともと劇的な能ですので、こういった詞章の違いは舞台上に割と大きな変化をもたらしますね。

いま観世流の謡本にある同じ箇所のワキの詞章を掲出します。

ワキ「かやうに候者は。東国方の人商人にて候。我この度都に上り。数多人を買ひ取りて候。また十四五ばかりなる女を買ひ取りて候が。昨日少しの間暇を乞ひて候ほどに遣りて候が。未だ帰らず候。なう渡り候か。昨日の幼き者は。親の追善とやらん申して候ひつる程に。説法の座敷にあらうずると存じ候。自然居士の雲居寺に御座候ほどに。立ち越え見うずるにて候。ワキツレ「然るべう候

二つの流儀の詞章を比べてみるに、最も大きな違いは、観世流の詞章では、ワキは子方が暇を乞いて向かった先の見当がついていることでしょう。亡くなった両親の追善のために暇を得たのですから、彼女が自らを売った理由も同じだろうことは類推できると思います。一方下懸リ宝生流の詞章では、ワキは彼女について、自ら身を売ったこと、昨日暇を乞うたこと、以上の情報を持っていません。

両親を亡くして孤児となった少女が、自らの未来に絶望を感じ、人生を捨てて、それでも両親の追善供養を営もうとする姿は、あまりに美しく、はかない…この事情を知っても意に留めずに彼女を商売道具としてしか認めない、観世流の詞章によるワキは冷酷に見える効果が高いかもしれません…が、まあ、この場面では伏線としての効果以上の違いはないかも。このあとの場面では、割と二つの詞章の違いによる効果が鮮明になってきます。

さて雲居寺に向かったワキとワキツレは案の定そこに少女の姿を見つけ、荒けなく引き立ててゆきます。この場面、この能の最初のクライマックスで、間狂言が活躍する場面です。

ワキ「や。さればこそこれに候。あの高座近き幼き者にて候。急ぎ引き立てて来り候へ。
ワキツレ「心得申し候。立てとこそ。
間「やるまいぞやるまいぞ。
ワキ「用がある。
間「用があるともやるまいぞ。
ワキ「用がある
間「用があらば連れて行かうまでよ。これは如何なこと、ただ今の幼き人を荒けなき男の二人して引っ立てて参った。まずこの由居士へ申さう。


橋掛リでワキと入れ替わったワキツレは子方のもとへ走り行き子方を引き立てて脇座の方へ連れて行きます。これにワキは悠々と続くのですが、橋掛リ一之松に立った間狂言に欄干越しに「やるまいぞ」と制止されると、はじめは、これも悠々と「用がある」と相手にせず歩み行きます。なおも間狂言に制止されると、今度はワキは気色ばんで間狂言に向き直り、腰の小刀に手を掛けて「用がある」と威嚇し、さすがに身の危険を感じた間狂言は仕方なく二人が子方を連れて行くのを見送ります。しかし、これは一大事と、事の成り行きを居士に報告することになります。

間「いかに居士へ申し候。
シテ「何事にて候ぞ。
間「ただ今の幼き人を。荒けなき男の二人して引っ立てて参りて候間。某やるまいぞと申して候へば。用があると申す程に遣って候。


【追悼】関根祥人師 急逝…

2010-06-24 00:38:48 | 能楽

まさか…祥人さんが…

師家を通じて能楽協会から各能楽師に送られたファクスを見て愕然…

22日深夜、「急性大動脈解離」という病気で関根祥人さんが急逝されたそうです。

祥人さんは流儀の中では ぬえより少し先輩に当たる(芸歴で言えば大先輩)方で、ぬえは書生修業時代が おおよそ重なります。お家が違いますので催しでご一緒する機会こそほとんどありませんでしたが、流儀主催の若手能楽師の研鑽会のような場ではよくご一緒させて頂きました。

正直、当時は「おっかない先輩」という印象が強かったですね。ぬえは まだまだ学生気分が抜けていないナマクラ書生でしたのに対して、祥人さんをはじめとしてその世代の先輩方は、みなさん競い合うようにご自分の舞台に厳しく向き合っておられたからでしょう。

その後 それぞれ書生の立場から独立して、先輩後輩の立場こそ違え、同じ一人前(?)の能楽師同士、という関係となりまして、なぜかそれから祥人さんと楽屋でご一緒する機会も増えてきたように思います。書生時代とは もうお互いに立場も変わりましたし、祥人さんは能楽協会の公的な立場でも活躍されていましたし、頼れる先輩、という感じでした。

そして今年。2月に行われた鎌倉能舞台さん主催の「乱能」(能楽師がそれぞれの専門の役割を取り替えて演じる催し)で ぬえは能『邯鄲』の小鼓のお役を頂きましたが、そのお相手の大鼓が、なんと関根祥人さんでした(!)

乱能というのは、専門のお役では達人であっても、それ以外の分野の役を勤めることによって、勝手が違って 思わぬ失敗が飛び出したりで、お客さまにとっても抱腹絶倒の能です(中には意図的に ふざける人もいますけれども)。しかしまた一方では、専門ではないはずのお役でも専門家並…あるいはそれ以上? という技量を示す方もおられまして、そういう方は「いっぺんこの役を舞台の上でやってみたいな~」などと考えていたり。かく言う ぬえもその一人で、ぬえの場合は長く習った小鼓が得意ですし、打つのも好きなので、こういう乱能の機会はとってもうれしかったりします。

そうして出来上がってきた番組を拝見して、能のお相手が祥人さんと知ってびっくり。そして実際にお舞台でお手合わせをしてみて、祥人さんの大鼓の技量にこれまたびっくり。これは主催者の中森貫太さんの采配で、マジメに役を勤めたい人を集めて囃子方を編成したのでしょう。とは言えそれだけではマジメ一方すぎて舞台におもしろみがないので、シテや子方、ワキなどの立ち方の配役を工夫したり…これは番組を作るのは大変だったことでしょう。ぬえとしても囃子の面白さを満喫させて頂いた、幸福な催しでした。

もうひとつ、祥人さんについては変わったエピソードを知っています。もう、今から10年ほど以前になるでしょうか、流儀の機関誌のような存在の月刊誌『観世』の中に、「能楽クロスワード」が連載されていました。問題が出されて、その解答をマスに埋めると、新たな字句が浮かび出てくる、というアレですが、問題は能楽に関するものに限られていました。これがまた、ぬえなど能楽師にとってさえ激ムズの難問揃いで、ものすごい知識量で問題が作られているな…と感じてはいたのですが、あるとき楽屋でその話題になって、関根祥人さんが設問を作られている、と聞きました。関根祥人さんは、身体の利く舞台でも知られていましたが、知識としても相当な勉強家だったのですね。

真摯に、能に一途に生きた関根祥人さん。間違いなく現代の観世流を代表する演者だっただけに、急逝は本当に惜しまれます。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。         合掌


『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その5)

2010-06-23 01:57:44 | 能楽
諷誦文(ふじゅもん)とは死者の供養のために施主がその目的や布施の内容を書き、経や偈を唱える(=諷誦)よう僧に依頼する文で、供養の際に僧によって読み上げられるものだそうです。

この諷誦文の文章は、おそらく一定の形式があっただろうとはいえ、非常によく書かれていますね。まだ幼い少女が書いたという設定と違和感もないではないですが、賢い少女だったのでしょう。両親ともに亡くした少女が、その追善供養のために「蓑代衣(みのしろごろも)」を一襲(ひとかさね)、自然居士に布施として捧げた、というのです。ちなみにこのところ、古い金春流の本文には「蓑代衣ひとかさね三宝に供養し奉る」のあとに「あら面白や身の代衣と書いたるよな」という居士の言葉が挿入されています。現行でもそうなのかは知りませんが、次の言葉「かの西天の…」という居士の詠嘆にうまく繋がる言葉ですね。

今も記しました通り「かの西天の貧女が。一衣を僧に供ぜしは。身の後の世の逆縁」というのは諷誦文の本文ではなく、自然居士の詠嘆です。「西天の貧女」云々は『賢愚経』という経の中に出てくる、夫婦で一枚の衣しか持たないほどの貧家から聖者にその衣が供養として捧げられた話をアレンジしたもの、と言われていますが、この話は『沙石集』にも引用されているので、出典はそちらかも。

ちなみに『賢愚経』は東京国立博物館、東大寺ほかに伝わって国宝となっています(!)。伝えるところによれば天皇の宸筆だったり、料紙に釈迦の骨粉が漉き込まれていたり、とまことしやかな伝説まで付属して、大切に扱われていたのでしょう。そして、なんと今年の4月~つい今月まで、神戸にある白鶴美術館(「白鶴酒造」が運営する美術館)の「春期展」で館蔵品が公開されていたようです(!)。

舞台に戻って、これにて地謡が謡を引き取ります。

地謡「身の代衣恨めしき。身の代衣恨めしき。浮世の中をとく出でて。先考先妣諸共に。同じ台に生れんと読み上げ給ふ自然居士墨染の袖を濡らせば。数の聴衆も色々の袖を濡らさぬ。人はなし袖を濡らさぬ人はなし。

わかりにくい内容ですが、じつはこの部分、「身の代衣恨めしき」から「同じ台に生れん」までは少女が書いた諷誦文の続きです。「身の代衣」の「衣」から縁語の「裏」を引き出して「恨めしき」に続け、そうした浮き世から早く離れて「先考先妣」…つまり亡き父母が待つ蓮の台の上にともに生まれ変わりたい、という切実で、絶望的な言葉。これを見た居士も、それを聞いた聴衆も、袖を涙に濡らしたのでした。

このところ、本来の型は「同じ台に生まれん」まで文を読んだシテは、これを深く戴き、二つ折りにして左膝の上に持ち、右手でシオリをします。ちょいと忙しい型ですので、演者によっては「生まれん」よりもずっと前に文をたたむなどの工夫を(それでは詞章と合わないのですけれどもね…)しています。そうしてこの地謡の最後のあたりでシテは文を目立たぬように左下に捨て、後見がこれを引き取って下げます。

また、能の冒頭にワキ・ワキツレが登場しない場合(観世流の台本もこの形です)、この地謡の間にワキとワキツレは登場して橋掛リにて正面を向いています。

やがて諷誦文の朗読が終わり、橋掛リではワキ・ワキツレが名乗ります。

ワキ「これは東国方の人商人にて候。我このほどは都に上り。幼き者を一人買い取って候が。片時の暇と申して今朝より罷り出でいまだ帰らず候。承り候へば。東山雲居寺に。自然居士の説法の由申し候。もしもしさやうの所へ行きてや候らん。罷り出で尋ねばやと存じ候。

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その4)

2010-06-21 01:51:31 | 能楽
ところで、この子方が登場する前に話を戻して、自然居士が高座で説法をする様子について、世阿弥が書き残した有名な言葉があります。

先祖観阿。(中略)大男にていられしが、女能などのは細々となり、自然居士などに、黒髪着、高座に直られし、十二三斗に見ゆ。「それ一代の教法」より、移り移り申されしを、鹿苑院、世子に御向かい有て「児は小股を掬かうと思ふ共、こゝはかなふまじき」など、御感のあまり御利口有し也。何にもなれ、音曲をし替へられしこと、神変也(『申楽談儀』)

「それ一代の教法」という文句は現行の『自然居士』には見えませんが、同じく世阿弥の『五音』に同じ章句からはじまるかなり長文の詞章が記されてあり、この部分は『自然居士』上演史の中でいつの間にか割愛されてしまったものだと思われます。『五音』のこの部分には「自然居士 亡父曲」とあって本曲は観阿弥作と考えられるのですが、『申楽談儀』の上に掲げた記事によれば観阿弥は自作の『自然居士』を得意曲としていた様子が伺えます。

ここでは鹿苑院…足利義満が観阿弥の芸に感心して、横に侍らせていた世阿弥に向かって「おチビさんは小技を駆使して父の芸を超えようと思っているようだが、こういうところはとても叶わないな」と利口=軽口をきいた、というのです。義満のナマの声が聞こえてくるような、公文書や公卿の日記などとはまた違った風情のこの部分は ぬえも大好き。義満や世阿弥が生きていた時代に、ふと呼び込まれてしまうような、そんな文章ですね。

一方 ぬえは、これら世阿弥伝書に書かれている内容に、演者として考えるところがあります。あ、これは一種の職業病みたいなものですが…

まず『五音』に出てくる、現行では割愛されてしまった詞章ですが、あまりに長文で、どうも曲の中にウエイトを占めすぎるように思います。これが割愛された現行の『自然居士』の方が はるかにスッキリして、ストーリーの流れがわかりやすいかもしれませんね。

…と思っていたら、この部分は高座での説法ではなく、その前、狂言に呼び出されたシテが橋掛リで独白のように謡ったものではないか、という論考があることを知りました。

なるほど、ちょうど『歌占』のような感じでしょうか。物語の現場となる場所に到着する前にシテが長く謡うこの場面は、独白でもあり、お客さまに主人公の経験や立場、それに心理状態などを説明をする機能もあり、はたまた職業としての占いの呼び声をしている現実的な場面でもある…こうして能の舞台はお客さまの理解を得て、はじめて速い物語展開をも可能にするわけです。これと同じ仕掛けでしょうか…それにしても『五音』に見える詞章は、あまりに長大に過ぎますけれどね。

『申楽談儀』ではこの所を高座の上での謡と読んでしまいがちではありますが、「移り移り申されしを」というところを、あとに出てくる「音曲をし替へられしこと」に通じるような千変万化の声の出しよう、という意味でもありましょうが、そのほかに「橋掛リから高座のある舞台へ移動しながら」という意味も同時に持ち合わせている、と考えれば、この考え方は成り立つでしょう。


次に『申楽談儀』の義満の言葉ですが、ぬえは実演者として、ちょっと違和感を感じるのです。
世阿弥は父が能を勤めている時に、楽屋ではなく見所にいたのですね…。

つまり、観阿弥の芸に感心し、美童だった世阿弥に魅了された義満は、その両方に対する欲求を満たすために、観阿弥を舞台に、世阿弥を自らの傍らに置いたのでしょう。父・観阿弥にとっては複雑な気持ちだったに違いありません。時の最高権力者である将軍に贔屓され、傍らに置かれる我が子は誇らしかったでしょうが、反面、自分の芸を我が子に伝えたい、楽屋から自分の側に置いて舞台の勉強をさせたい、と願っていたことでしょう。少年期の世阿弥のように容貌の秀麗さではなく、芸という実力で将軍の後援を勝ち取った観阿弥にしてみれば、美貌なんて移ろい去っていく物に過ぎません。実力を磨く努力を続けることこそが、自らに反映と安定をもたらすのだ、という事は痛感もしていた信念だったに違いないのです。

結局 世阿弥は父の心配はよそに、権力者の贔屓のうえに あぐらをかく事なく努力を重ね、能の芸や作能に革新的な変革をもたらしました。…こうして考えると、『風姿花伝』の「年来稽古条々」などに見える「時分の花」などの文言は、父・観阿弥の教えでもあったろうし、また世阿弥自身が冷静沈着に貴人に能を好んでもらう方法を考えていた、その結実でもあるのかもしれません。

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その4)

2010-06-19 00:26:58 | 能楽
シテ「夕べの空の雲居寺。月待つほどの慰めに。説法一座述べんとて。導師高座にあがり。発願の鉦打ち鳴らし。謹み敬つて白す。一代教主釈迦牟尼宝号。三世の諸仏十方の薩陀に申して白さく。総神分に般若心経。

シテは「謹み敬って白す」から合掌します。その前、「夕べの空の」と謡い出すと、すぐに子方が幕を揚げ橋掛リに登場します。子方は観世流の場合女児で、直面であるほかは唐織着流のシテやツレと同装で、左手には縫箔を肘に掛け、文を手にして登場します。文は両親の追善のための諷誦文(ふじゅもん=死者の追善供養のため施主が仏事の趣旨や供物の内容を述べて僧に読誦を請う文)で、縫箔は寄進する布施です。

…ところがこの子方、シテ方の流儀によっては男児なんですってね! 思うに、狂女物の能で親子が邂逅するストーリーの場合は、ほとんど男児です。『自然居士』は狂女物ではないけれども、四番目という曲籍は同じ。類型化の意識が働いてこうなったのでしょうか。ぬえは個人的には女児である方が、それを救出する自然居士の活躍が引き立つように思いますけれども…

子方が一之松の近くまで歩み出ると(シテが謡っているのにかぶせながら)間狂言が次のように言い、子方から文と縫箔を受け取ると、子方を連れてシテの前に行きます。

間「あらいたいけや。これなる幼き人の諷誦文を上げられて候。此方へ賜り候へ。

シテの前に子方を着座させると間狂言は縫箔をシテの前の床に延べます。これまでの一連の作業を間狂言は上記の短いシテの謡の間に完了しなければならないので大変です。こちら(シテ)も謡の速度を加減してあげないといけないですね。

この、シテの前に拡げられた縫箔ですが、ご存じの『葵上』と同じ感じになるのですが、面白いのは、ぬえの師家の形付けでは「葵上とは逆に置く」と書いてあるのです。

どういう事かというと、『葵上』では半身になるように拡げた縫箔は、頭(襟の方)をシテから見て右(=見所からは左)に置くのですが、『自然居士』では反対にシテの左側になるように置くのです。理由は不明ですが、あとでこの装束の前をワキが通るので、その邪魔にならないようにしたのか、あるいは これまた後でシテがこの縫箔をスカーフのように首に巻くのですが、間狂言が行うその作業の便のためでしょうか。

読経の最後に、自分の前に延べられた縫箔に目をやり、女児に尋ねます。

シテ「や。これは諷誦を御上げ候か。
間「なかなかの事これなる幼き人の。諷誦文を上げられて候。急いでご覧候へ。


間狂言は文をシテに渡すと橋掛リの狂言座につきます。シテはその文を開いて…

シテ「敬つて申し受くる諷誦のこと。三宝衆僧の御布施一裹。右志す所は。二親精霊頓証仏果の為。箕代衣一襲。三宝に供養し奉る。かの西天の貧女が。一衣を僧に供ぜしは。身の後の世の逆縁。今の貧女は親の為。

この地謡の間にシテは目立たぬように文を左後に捨てます。

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その3)

2010-06-18 01:19:55 | 能楽
雲居寺造営の札…まず以てこの言葉に引っかかりを覚えますね。

自然居士が七日の説法を行っている場所が雲居寺で、その門前に住む間狂言がいる。つまり雲居寺はすでに「造営が成っている」わけではあるまいか? これについて調べたところ、そもそも今はなき雲居寺の場所の特定がかなり詳細に研究されていることがわかりました。有力な説は現在の高台寺(豊臣秀吉の正室 ねねが秀吉の冥福を祈るために建てた寺。東山にある)の場所にあった、というものですが、これは実在の人物らしい自然居士在世のとき(鎌倉時代)には現存していた事がわかっています。ほかにも自然居士の法系をたどって、東福寺(京都駅から見て東南)の塔頭の一つではないか、とか、出身地ではないかと疑われる和泉国の故郷にあった、とか百論があって、この言葉の意味するところは明らかではありません。ここでは「堂塔の修理もしくは拡張」程度に考えておきたいと思います。

ところが。

この、シテが登場して橋掛リ一之松で止まってお客さまに呼び掛けるように、すなわちお客さまを説法の聴衆にすりかえてしまうような斬新な演出は、じつは観世流だけのものなのです。

観世流以外では、同じ上懸リである宝生流も含めて、狂言に呼び出されたシテは、まず狂言に対して 今日が結願の日と触れてあるか、と問い、狂言もそれに答えて説法を勧める、という段取りになります。雰囲気はずいぶん違いますが、『砧』の後ワキの登場場面と共通する演出ですね。観世流だけが違う演出ですので、おそらく観世流がいつの時代にか改変を加えたものだと感じられますが、さりとて、観世流のこの演出は面白いと思います(言葉自体に不審は残るとしても)。

そういえば書き損じていましたが、下懸リでは舞台の冒頭に登場するのは間狂言ではなく、ワキとワキツレです。最初に買い取った子に暇をやったがいまだに帰らないので探しに行く、という布石を敷いて後見座にクツロいで、それから狂言、さらにシテの順番に登場することになります。

ともあれ登場したシテは舞台の中央よりも常座寄りのあたり、太鼓座前などと言い習わしている場所に立ち、間狂言は後見座から床几を持ち出してシテを座らせます。

シテの装束付けは次の通りです。

面=喝食、喝食鬘、襟=白または白・浅黄、着付=白練(または無紅縫箔)、白大口または色大口(師家付ケには浅黄の類とあり)、黒水衣(または紫水衣)、無紅縫入腰帯、掛絡、黒骨金無地扇(師家付ケには無紅扇にもとあり)、水晶数珠

う~ん、着ているもの全体を見れば喝食の面を掛けるシテの類型の扮装とほぼ同じですが…『自然居士』で黒や紫の水衣を着たシテというのは…見たことがありませんね~。この曲のシテは、割と高僧然とした印象があって、着付が白練というのも そういう位の高さを表しているのだと思いますが、その上に黒や、ましてや紫の水衣となると、遊狂の芸尽くしの曲という気分からはかなり逸脱してきます。最初の説法の場面には似つかわしいかも知れませんが…。

これも考えようによっては、そういう真面目な禅僧が、人商人から女児を取り返すために 嫌々ながら芸を見せる、というこの能の台本に添って、わざわざ高い位の僧としての印象をお客さまに与えているのかも知れません。それが烏帽子を着けて鞨鼓を打ち鳴らして舞う違和感を狙っているのかも。しかし実際には『自然居士』ではシテは青色系の水衣を着ているのが実演上は多いように思います。

舞台で床几に掛かり、お客さまに向かって説法を始めると、すぐに子方が橋掛リから登場します。

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その2)

2010-06-16 00:18:49 | 能楽
この、後者の意味の申合は近代になって行われるようになりました。座付きと言って近世まではシテ方の座(流儀)におつきあいする三役(ワキ方・囃子方・狂言方)が定められていたのが、近代になって、どのお流儀同士でも自由に一緒に上演するように変わった際に、それぞれの伝承の違いが実演上に大きな問題となったために流儀の代表者が集って 摺り合わせ…つまり申合がなされたのです。

それでも、なんせ200番を超えるレパートリーの、その細部に渡って、能楽に関わるすべてのお流儀の代表者が取り決めをする、なんて そもそも不可能に近いことだと思います。舞の寸法、詞章の大幅な相違、謡の緩急、そして小書による異同…それらのすべての違いを摺り合わせるのは気の遠くなるような作業のはずで…。そこで寺の名前の読みの清濁の違いまでは いまだに相違があるままなのですね。…いやむしろ、ぬえは、それほど演出や詞章に違いがある流儀が一堂に会して上演しているのに、現代では申合(前者の、リハーサルの意味での)1度だけで齟齬なく上演当日を迎えられる事実の方が驚異的だと思います。それほど先人…と言っても近代初期の、さほど古くない時代の先人たちの努力があったという証左ですね。

そして、申合(後者の意味の摺り合わせ)は現代でも続いています。この忙しい現代ですし、すでに先人が大きな努力を傾注して申合は済まされていますので、現代では細々と、ときおり、という感じですが、それでも円滑な舞台進行のために努力は続けられています。

それでも、現代でも大きな齟齬もまだいくつかありますね。ぬえが知っている中では『小督』に面白い例があります。この曲のシテは源仲国という人ですが、謡曲本文に記されている彼の官職が、シテ方の流儀によって違っているのです。ところがその彼の官職について言及するのは、能の冒頭に登場するワキだけなんですよね。そうして、この官職名の異同については現代でも申合がなされていません。シテは自分の官職について語らないので、結局 ワキがそのお流儀に伝わる本文を謡ってしまうことで、シテは自動的に舞台の上ではその官職に定まってしまい、シテ方の流儀によっては、その謡本に記されている官職としての仲国は、ついに舞台に登場しないことになってしまいます。

…がしかし、シテの官職名自体は、舞台の進行そのものには影響がないので、いまだに摺り合わせは行われていません。将来的に、少しずつ、時間を掛けて進められていくのでしょう。

間「いかに居士へ申し候。聴衆も群衆仕り候間。急ぎ御出であって。説法を御述べ候らへや。

さて『自然居士』に戻って、間狂言は橋掛リの入口(後見座の前)に立つと幕に向かい、自然居士を呼び出します。この間狂言ですが「門前に住居する者」と本人が言う割には、それ以上に寺に密接な関係を持った人物のようです。この場面でも説法を聞かんと聴衆が集まったところで居士を呼び出して説法を始めるよう促していますが、この後もこの間狂言は居士の秘書のような印象で、重要な役割を勤めていくことになります。

狂言の言葉を聞いてシテは幕を揚げて登場します。とくに登場の囃子などはこの曲にはありません。間狂言に呼び出されてシテが登場するのは、狂女物や遊興の性格の強いシテの場合の常套の演出ですね。『自然居士』のシテはありがたい説法をするために登場するのですが、こういうところから、シテが遊興の気分を持った人物なのだということがイメージとして提出されている、ということはあると思います。しかし、無音のところで登場するのは難しいですね。同様に無音の中で中入するのも ぬえはあまり得意ではないなあ…それほど囃子の力というのは大きいものです。

しかし『自然居士』で特徴的なのは、シテが橋掛リで歩む途中、一之松で立ち止まって正面に向き、ひと声を発することでしょうね。

シテ「雲居寺造営の札召され候へ。

『自然居士』~「劇能」のおもしろさ(その1)

2010-06-14 03:18:47 | 能楽
先日もお知らせしましたように、ぬえは来る7月17日に東京で行われる師家の月例公演「梅若研能会」にて能『自然居士』(じねんこじ)を勤めさせて頂きます。

それに先立ち、この能について思うことや発見したことなどをご紹介して参ろうと存じます。短い間ではありますが、よろしくご愛顧くださいまし~

まずは例によって舞台経過の説明からはじめたいと思います。なお、以下に掲出する詞章は、ぬえの実演に際してのそれぞれの本役のお流儀に準拠…すなわちシテ=観世流、ワキ(およびワキツレ)=下懸リ宝生流、間=大蔵流<山本家>しております。

「お調べ」が済み囃子方が幕から登場し、舞台後座にかかる頃、切戸より地謡も登場してそれぞれ所定の位置に着座します。これを「座着キ」などと言っておりますが、一同が座に着くとすぐに幕が揚げられ、間狂言が登場します。

間「かやうに候者は。東山雲居寺の門前に住居する者にて候。こゝに自然居士と申す説教者の渡り候が。雲居寺造営のため。七日の説法を御述べ候。すなはち今日結願にて。聴衆も群衆仕り候間。急ぎ居士を呼び出だし、説法を述べさせ申さばやと存ずる。

間狂言は門前の庶民という設定ですので、装束は狂言肩衣に半袴という、本狂言に登場する太郎冠者などと共通する装いです。間狂言が舞台常座に立って上記のような説明をすることによって、舞台が京都・東山の雲居寺であり、その雲居寺の造営のために自然居士という「説教者」が七日の説法をしている、という状況がわかります。…これは当然 信者の聴聞を呼び掛けたうえで、そこから布施を募るのが目的なのですね。そうして今日がその七日の説法の最終日に当たるわけです。

ちなみに雲居寺は観世流の場合シテは「ウンゴジ」と発音しますが、間狂言やワキのお流儀によって「ウンコジ」と読む場合もあって、これらは同じひとつの舞台の上でもすり合わせをして発音を統一する、ということがありません。つまりワキ方や狂言方それぞれのお流儀の定めを尊重しているわけです。能では慣習的に、舞台進行に直接影響を及ぼしてしまうような場合には申合でよく打合せをして、多くはシテ方の流儀の定めにワキや狂言がおつきあいをして舞台に齟齬が起こらないようにする、という方法をとります…たとえばシテに間狂言が小道具を渡すならば、どのタイミングで、どのような向きで手渡して頂くのかについては申合でよく打合せをしておきます。

しかし、詞章の小異などは省みられることが多いとは言い難いのが現状で、それぞれのお流儀に伝わる本文をそのまま謡うことも多いのです。『自然居士』でも「雲居寺」の読み方が役によってまちまちなのは どうも不具合にも感じないわけでもありませんが、まあ、舞台進行上に大きな矛盾を引き起こすような重大な異同ではないので、慣習的に各お流儀に伝わるそのままの詞章が舞台に出されることになります。

まあ、しかし、ひとつの寺の名前が、会話をしている役ごとに違っているのもおかしな話ではありますので、将来的には統一が図られる可能性がないわけではありません。もしそれがなされる場合には、正式には各流儀の宗家が集って相談して、たとえば観世流の『自然居士』ではシテが雲居寺を「ウンゴジ」と発音しているので、ワキ方や狂言方もそれにおつきあいして「観世流相手の場合には こう発音する」という取り決めをするわけです。これを「申合」(もうしあわせ)と言います。

ご存じの通り、能では公演の前に一度だけリハーサルを行いますが、これまた「申合」と呼ぶのは広く知られているところだと思います。これに対して、ひとつの曲の上演にあたって それぞれの役を担当する流儀がお互いの流儀の主張ややり方を押し通すと甚だしい不具合が起きる場合には、各流儀の代表者が会合を持って調整をし、お相手の流儀の組み合わせによって自分の流儀のやり方を修正し、それをその流儀の正式な定めとするわけで、これもまた「申合」と呼ばれています。

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その8)

2010-06-12 15:39:10 | 能楽
エレーヌの夫のマルセルですが…すでに故人であろうとは思っていましたが、なんと亡くなったのは今年の2月なんだそうです(!!)。

パリの新聞 OVNI(オヴニー)

おっと、この掲載記事も「HOMMAGE À MARCEL GIUGLARI=故マルセル・ジュグラリスさんに捧ぐ」とは。師家から発見された16mmフィルムが亡き妻に捧げられて つけられた題名と同じです。フランス語で常套句なのかもしれませんが、なんだか感慨深いな~。

さて、このフィルムについてのご紹介は今回が最後となろうと思いますが、最後にあたって、この除幕式に関連する補足資料を探してみました。

まずは師家に所蔵されている古い写真アルバム。それこそ大正時代(か、ひょっとすると明治も含まれているかも)からの膨大な演能記録の画像です。本当に膨大で、師家には数十冊が残されているんじゃないかしら。よくまあ、大正時代の関東大震災や戦争で失われなかったものです。

ぬえは書生時代から、こういう記録類を調べるのが好きでしたから、先代の師匠から、自由にアルバムが納められた書庫に出入りするお許しを頂いておりました。そうしていくつかの資料を師家で発行している機関誌『橘香(きっこう)』に記事として紹介したりしたものです。

その時の記憶で、たしか昭和27年の、この三保松原でのエレーヌ夫人の碑の除幕式での『羽衣』の写真も見たように思い、このたび久しぶりに書庫からアルバムを出して探してみました…ありました! …ところが見つかったのはたったの3枚の写真だけです。そうして…アルバムの当該のページには、この3枚のほかに写真をはがした跡が、さらに4枚分、残されていました…

これは、おそらく自然にはがれてしまったものではないでしょう。なにかしらの必要があってアルバムから写真を引きはがしたものだと思われます。必要とは、あるいは前述の『橘香』や、またほかの誰かの要請によって雑誌やパンフ、はたまた公演に必要なチラシ番組やポスター類…そういった用途に使われて…そうして、なにかの理由によって、ついに元のアルバムの定められた位置に戻されることがなかったのだろうと思います。

あまりに無責任なように思われると思いますが、多忙な公演やその準備、そうして厳重な書庫の管理の壁。そうしたことから、アルバムに戻すことが つい後回しになってしまう…そういうことなのだろうと思います。気持ちは ぬえにはよくわかります。それでも、歴史的な資料が失われたことはあまりに重大なことではありますが…師家のどこかに紛れ込んでいるかも。

鮒さんの研究に協力する形で、かつて師家所蔵のSP盤をCDにし、今回は16mmフィルムのDVD化に取り組んでいる ぬえではありますが、またこの16mmフィルムの作業と平行して、師家所蔵のオープンリールもデジタル化作業を進めておるのですが、このような写真アルバムも、時期をおかずにデジタル化していかなければならないなあ…と感慨を持った ぬえではありました。

それから、この度その事実を知ったマルセルを迎えての東京・染井能楽堂での『羽衣』ですが、こちらは ぬえの記憶にもアルバムの中にそれがあったという思いはありませんでしたが、案の定、今回の調査でも発見されませんでした。アルバムは年次順に整理されていますので、このときは写真は撮られなかったものだと思います。

今回のご報告はこれで終了させて頂きます。師家所蔵の16mmフィルムの残りの分~10本余りは、デジタル化するのに相当の費用がかかるため、少しずつ作業を進めていくことになっております。そのつどこのブログでもご紹介して参りたいと考えております。どうぞ末永くお引き立てくださいまし~(^^)V

(この項 了)

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その7)

2010-06-11 01:59:58 | 能楽
またマルセルは、日本滞在中はフランス映画の海外宣伝機関「ユニ・フランス」の極東地区代表も務め、フランス映画を日本に紹介。それのみならず日本映画をカンヌ国際映画祭に出品するのに貢献するなど、日本映画にとっても恩人にあたる活動があって、日本映画に功績のあった人に贈られる川喜多賞を受賞。そのほか日本国内でも旭日中綬章、日本映画ペンクラブ賞を受賞章、フランスでもいくつもの賞を受けたそうです。

エレーヌの死後、ずっと後年には再婚もしましたが、日本を離れて帰国したあとも自宅に日本庭園を設えるなど、知日家・親日家として広く知られていたマルセル。敏腕記者で、日本でも歴代首相ほか文化人などにも広く知己を得るに到るマルセル。しかし、後年の彼の映画の分野での活躍が、この除幕式の映像との関連を雄弁に説明するように思います。

最初の妻エレーヌの逝去に際して、若き妻の遺髪を携えて遠い異国に旅立ち、彼女の憧憬の地…エレーヌの魂が飛翔の力を得てすでに到着しているであろうその三保松原に立ちつくす…その追想の姿は純粋で美しく、まさに「絵になる」ものでありましょう。

それほどに亡きエレーヌの思いとマルセルの行動は感動的なものであったし、しかも敗戦後間もない頃という時代背景を考えれば、日本の敵対国であったフランスで、世間の混乱の中でこれほど純粋に日本を愛していてくれていた人がいた、と知った日本人にとっては、ようやくつかんだ「平和」の象徴に見えたことでしょう。彼のこの旅を知って協力を申し出た人は日本国内に大勢いたでしょうし、事実、彼の姿を見た日本人の心をも感銘させ、ついに市民の寄付によって「羽衣の碑」が建立されるに到るわけです。

そのクライマックスにあたるのがこの除幕式であってみれば、敏腕ジャーナリストのマルセルにとって、これを記録する欲求が起きるのは当然ではないでしょうか? 協力者の多い彼の環境も、その気持ちがなにかを生み出す素地に思えたろうし、さらに言えば国際ジャーナリストとしてマルセルが、疲弊しきった戦後のヨーロッパ世界へ平和のメッセージを発信する絶好の機会とも見えたのではないでしょうか。そしてその結実としてこのフィルムが存在するのではないか? と想像をたくましくした ぬえでした。

いや、ぬえは 妻の死後4ヶ月目にして来日を果たしたマルセルの純粋な心を疑うわけではありませんし、その純粋は除幕式の映像にも彼の涙として記録されているわけですが…当時まだ30歳前後という若さではあったマルセルが、自費ではなく派遣記者として日本に赴任したその交渉能力の高さを加味して考えてみるに、報道者である彼が、エレーヌのへの追想によってみずから戦後世界への平和メッセージを発信する側の人間になる可能性に気づいていないわけではないと思うのです。

そう考えてこのフィルムを改めて見てみると、除幕式という式典のドキュメンタリーでありながら、日本の習俗の紹介にも心を配っている様子が窺え、これはやはりフランスでの上映を念頭に置いた撮影であったと考えるのが自然だと思います。しかし同時に ぬえは報道としてはどうも客観性に欠けるというか…当事者が企画・製作したならではの主観性をこのフィルムには感じるのですよね。

この印象が、ぬえには相変わらず誰のために撮ったフフィルムだろう…という疑問を起こさせるのです。

おそらく鮒さんが言ったように、このフィルムを作らせたのはマルセル自身であろうと ぬえも今は考えるようになりました。その上で、その時の彼の気持ちとしては、最初こそこのフィルムは自分とエレーヌとの思い出の締めくくりとして個人的に撮影させたのだと思いますが、彼のジャーナリスト魂が、このフィルムが戦後ヨーロッパ世界で重要なメッセージを持つことを意識して、編集の手を加えたのではないか? と想像しています。

映像を再生する場がもうひとつ明快でない全体の印象。式典の音声記録が一切なく、アフレコとナレーション、BGMの追加による構成…これらの事実が どうも ぬえには私家版記録映像からドキュメンタリーに変貌した、このフィルムの性格の変化を表しているようにも思えます。

なおマルセルについて調べた ぬえですが、やがて驚愕の事実を知るに至りました…

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その6)

2010-06-09 02:00:39 | 能楽
フランス語をベースとしている点、短編ドキュメンタリー風の組み立て方、そして主要な登場人物が共通していること…この2本の16mmフィルムはおそらくひとつの統一された意志が通底して連作のように作られたのではないかとも考えられます。

それでは誰がこのフィルムを作ったのか。

鮒さんは、このフィルムに写っているエレーヌの夫君、マルセルなのではないか、という推測をかねて考えて ぬえに話してくれました。ぬえには、どうもフランスでの上映を意識して作られた映像…つまり商用として記録された映像であるように思えてならなかったのですが、いま、デジタル化された三保松原の「羽衣の碑」除幕式の映像と、東京・染井能楽堂で演じられた『羽衣』の映像とを並べて見ると、なるほど、商品として企画制作されたもの、というよりは、やはりもう少し記録映像的な性格の方が強いかな…とも思えてきました。

それではこれらのフィルムをマルセルが作らせたとして、目的はなんだったのでしょう。鮒さんはズバリ、亡き妻のために、その追想のために作らせたのではないか、と。なるほど…タイトル通り「Hommage à Hélène」なのですね。ぬえは先にこれを「エレーヌへのオマージュ」と直訳しましたが、この度出来上がったDVDを師家に納めるときに「エレーヌに捧ぐ」と訳を改めてみました。

そこで夫君・マルセルについて調べてみました。

エレーヌ・ジュグラリスはバレリーナで日本文化…わけても能に非常に興味を持ち、独学で能を学ぶと、とくに心酔した『羽衣』を題材に独自のバレエ作品を作って各地で公演し好評を博したこと、夫マルセルはジャーナリストで、妻が35歳の若さで亡くなったのち、わずか4ヶ月目に経済紙の記者として日本を訪れ、彼女の遺髪を携えて三保松原を訪れたこと、それが契機となって地元で運動が起こって「羽衣の碑」が建立されるに到ったこと…これらはすでにご紹介しました。

その後調べてみると、意外なことがわかってきました。

まず、エレーヌが能に関心を持ったきっかけが、そもそも夫・マルセルの影響であったらしいこと。これは確証は持てないのですが、のちに長く日本に滞在したマルセルは当時(1940年代)にすでに日本についてジャーナリストとしてかなりの知識を持っていたらしく、戦後には劇団を主宰して能の上演?を行ったこともある由。まあ、戦中戦後の頃の話ですし、ジャーナリストと実演家の若い二人が力を合わせて相乗効果として、少ない資料の上に想像力を補ってフランス人の眼から見た能というものを築き上げていった、と考えておきたいです。

この三保松原での『羽衣』の上演と、それに続いて、であろう染井能楽堂での同曲の上演以降は、とくに能と深い関係を持った形跡は ぬえには見いだせなかったマルセルですが、むしろ彼自身のその後の経歴に ぬえは興味を持ってしまいました。

マルセルは1922年生まれで、エレーヌよりも6歳年下でしたから、35歳で妻を亡くした当時はまだ30歳前後の若さです。それなのに、彼女の遺髪を携えて彼女の死後すぐに日本に駐在する記者となって来日したのですから、これは相当な敏腕であった証左なのでありましょう。

マルセルは1950年代に常駐的に日本に赴任し、以後1980年代のはじめに退職して帰国するまでの長きを日本で暮らしました。その間にベトナム戦争などの現地取材にも奔走、多くのスクープをぶちあげて、当時すでに極東地域のジャーナリストの「大物」として周知されていたようです。

伊豆・韮山~ホタルまつり

2010-06-07 07:35:06 | 能楽

昨日は伊豆での稽古のあと、韮山で行われた「ホタルまつり」に行きました。

じつは ぬえ、去年も、また一昨年もこの場所にホタルを見に行ったのですが、いやはや本当に乱舞と言ってもよいほどたくさんのホタルが飛んでいます。これがまた、すべて野生のホタルだというのですから驚きます。

場所は韮山の観光名所である「反射炉」というもののすぐそばを流れる小川…古川です。5月中旬あたりから自然にホタルの光が楽しめ、今頃がちょうど盛りになりましょうか。そして6月中旬頃にホタルは光るのを止めるのです。

ぬえも最初に見に行ったときには、それほど期待もなく、何気なく足を向けたのですが…驚きました。それ以後は毎年、当地で教えている子どもたちを誘って見に行くのが恒例になりました。去年ご一緒にホタルを見に行った子どもたちのご両親は「へええ~~っ、私、もう20年もここに住んでいますけど、こんなにホタルがいるとは知りませんでした」とおっしゃっておられましたね~

今年は、いまバスケットボールに情熱を燃やしている小4の アヤちゃんと、土曜日だっていうのに学校の宿題でお寺にインタビューに行った(なぜ?)あと、お父さんのバーベキュー同窓会につきあわされて ちょっと退屈した 同じく小4のひとちゃんとホタルを見に行くことになりました~。

ところがこの日は偶然ながら「ホタルまつり」というのが開かれていまして、ホタルが見れる期間の中でもイベントが開催される特別の日だったのでした。ハンドベルや子どもたちの合唱や、寸劇を交えながらの楽しいひとときでした。あ~市長さんもお出ましですね~。

さらにこの日は子どもたちを待っているあいだに、もう何年も前から稽古に参加してくれている、中学生の子とも会場でバッタリ出会ったので、一緒にいた友だちともどもアイスクリームをおごってあげました~。…てか、イベントで教え子の子どもたちと遭遇しすぎだと思ふ。こりゃやっぱり、こちらは能という古典芸能ではあるけれども、そのイベントに出場したいと願うような子は、そもそもイベントが好きなのかなあ。

それはともかく、もう中学生になった君は、そろそろ友だちとじゃなくて、彼氏と一緒に来るべきなんじゃないの~?? …と言ってみたら、最近失恋したんですって。あらら… まあ、キミを見る目のないような男なんて放っておきなさ~い。

さてアヤちゃんが到着したところで イベント会場から移動してみんなでホタルを見に行きました。うわ、今年も本当にたくさんのホタルが飛んでます! 見物の人もそれほど多いわけではなく、余裕を持って見られるのがよろしいね~。

で、みなさん なんとかホタルを写真に残そうとするのですが…まずホタルの光量では撮影はできないでしょう。ぬえのグループもデジカメやら携帯やら、みんなでトライしましたが、みなさん画面が真っ黒…(^◇^;) ほかの見学者の中にはフラッシュ焚いて写真撮ってみた人がいましたが…これはルール違反ですじゃ。ま、フラッシュ焚くなんてホタルの撮影の場合は勘違いも甚だしいのではありますが…

で、ぬえも がんばってホタルの写真を撮ってみました。



あ~あ、やっぱり真っ黒。
残念です。あの美しさを伝えられないなんて…
…ん?…あれは??

…ん? まてよ? …よ~くこの画像を見ると…何かが写っている。緑色の光がふたつ…右の下の方に…
ここです。



よし!引き伸ばしてみよう! …そうすれば 目の当たりに美しいホタルの光が燦然と輝いて。まさに生命を燃焼しているその輝きは、きっと ぬえの心を打つに違いない。そのとき ぬえは涙を流し、ホタル…否、いまや ぬえと心の通い合った「友」にこう叫ぶだろう。「キミの命の燃焼は、ぬえが確かに見届けたよ!」 …暗い夜道の小川のほとりで、しかも民家もあるそのそばで 大きな声を出すのは住民に迷惑だからやめてください。

よ~し! 思い切って拡大だ!!



ひえ~~っ これじゃ ひとだま です~ 。。゛(ノ><)ノ ヒィ

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その5)

2010-06-04 01:21:06 | 能楽
帰宅して師から拝借したDVDを早速再生してみると…なんということでしょう。ついこの度、師家のお蔵の中から発見され、大喜びでデジタル化した、その16mmフィルムの映像が…そこには映っていました。

どういうこと???

そうして、そのあとに、さらにもう1本の映像が続けて記録されていました。タイトルは「HAGOROMO La robe de plumes de la fille du ciel」。内容は三保松原でのエレーヌ夫人の碑の除幕式と同じ『羽衣』ですが、今度は会場を東京の染井能楽堂に移しての上演です。こちらは式典がありませんで、やはり7分程度収録された映像のほとんどが能の上演の記録です。

…と思って見ていたら。あれ? 見所に三保松原でウルウルしていたエレーヌの夫君のマルセルさんがいるではありませんか。それどころか、演能が終わったところで、装束は着たまま、面だけを外した先代の故師が楽屋を訪問したマルセル氏に駆け寄って握手する場面も! さきほど伺った握手の場面とはこれか! おお、それのみならず、今度はマルセル氏に『羽衣』の装束を着せてあげています…

どういうことだろう…。これは推測の域を出ないのですが、この映像はおそらく三保松原での『羽衣』の上演の、東京での凱旋公演のようなものなのではないでしょうか。三保松原の「羽衣の碑」除幕式での演能というものは、当時としてもかなり大きな話題性を持ったイベントであったでしょう。戦後とはいいながら、まだまだ海外の国や人々と一般の日本人が交流する、などという機会は皆無の時代。そこに若くして世を去った薄倖の舞姫がいます。彼女は日本に、三保松原に、そして能『羽衣』に心焦がれて、独学でその世界に身を任せようと努力を重ね、そうしてまだ見ぬ日本に焦がれるような憧憬を持ったまま、志半ばにして世を去ったのでした。

彼女を愛した、これまたまだ若き夫は、せめて彼女の遺志をかなえてやろうと思い立ち、はるばると地球の反対側に、彼女の遺髪を携えてやって来ました。彼女が思い焦がれた三保松原。富士を遠く望む白い渚。まさに天女もうっとりと下界に降り立ち、水浴びをしたくなったのも頷ける美景…そこに佇み亡き美しい妻の幻を追想する若き異国の若者。をを~っ、まさに絵に描いたような美談。

…ところで、天女が水浴びをしていたって…よく考えると海水ですよねえ。髪がガビガビになってしまうんじゃ…ああ、いかん。浮き輪をもってキャッキャッとうれしそうに海水浴している天女を想像してしまった。

え~、話を戻して。σ(^◇^;)

この不幸な若者を見て、土地の古老が話しかけました。お前さん、なんだってそんなに悲しい眼をしていなさるんだ。不意に声を掛けられた失意の若者は、とまどったように答えました。…Pardon? Repetez, s’il vous plait… ああ、なんだかわからなくなってきました…

まあ、そんなこんなの経緯があって、地元ではエレーヌを顕彰するために「羽衣の碑」を建てることとなりました。その除幕式の日…彼女がひと目 見たがっていた本物の能の『羽衣』を上演することになったのです。まさに彼女が夢見ていた光景…それは能という芸能を超えて、まさに地上に、この三保松原に降り立った本物の天女の姿。碑のレリーフに能面を見つめる横顔の構図で刻まれたエレーヌ。その横顔からでも、ちょっと無理はあるかも、ですが、がんばって横目を使えば天女が舞う美しい光景を見ることができたでしょう。

この除幕式に出演し、『羽衣』を舞った先代師匠が、かどうかわかりませんが、心ある人がこの美しい話を広めるために、エレーヌを偲ぶための『羽衣』の上演を、東京で、本式の能楽堂で、再演したのではないか? その記録が三保松原とは別にフィルムに収められたのではないか? というのが ぬえの推測です。

師家所蔵 16mmフィルムのデジタル化大作戦!(その4)

2010-06-02 08:19:19 | 能楽
さてこの除幕式で ぬえの師匠(先代)が『羽衣』を勤めましたのですが、お相手は…よくわかりません。おワキや囃子方のクレジットがないのです。映像をよく見ると、小鼓は北村一郎師、大鼓は安福春雄師であるようですが、お笛と太鼓はわかりませんでした。

それどころか、『羽衣』の映像とともに流れていた音は…たしかに『羽衣』ではあるのですが、除幕式の当日の録音ではなく、囃子こそ入っているものの、故師が独吟で謡われたものでありました。総じてこのフィルムにはナゾが多いのですが、とりわけ音声については不審があります。すなわち除幕式のその場の音…能の実演の音ばかりではなく、挨拶・スピーチにいたるまですべての音がアフレコによるもので、ナレーション(フランス語)とピアノの独奏によるBGM、そうして前述のように故師の独吟+囃子による『羽衣』なのです。当時、野外という万全とは言い難い条件はあったものの、それを録音する技術がなかったとは思えず、ましてや話題性のある除幕式に思えるので、そのライブ音源を記録しなかったのはどうも不審が残ります。

ともあれ、全体で7分間という短いフィルムの中に式典がダイジェストで収録されているのですから、演能が収録されているのも わずか1分間程度です。こうして演能のあとに三保の松原から見た富士山の遠景が再び映し出され、「FIN」という文字が浮かび上がってフィルムは終了しました。

こうしたわけで、三保の松原での『羽衣』の演能、それも能や三保の松原への憧憬を持ち続けながらそれを見ぬままに若くして世を去ったフランスの舞姫を追憶するための石碑の除幕式での演能という意義深い催しであったにも関わらず、能の記録としては式典のダイジェストのほんの一部でしかなかったわけですが…それでもこのフィルムがDVDとなって師家に到着したとき、これを見た門下一同は、たいへん貴重な映像であるという感想で一致しておりました。

…それにしてもこのフィルム、ナゾは尽きないです。まず、一体 誰が何のために作ったものなのか。冒頭のテロップからして、エレーヌに捧げられたものでありながら、明らかに商用としての上映を念頭において作られていると思われます。…全編にフランス語の解説やナレーションが入っていること、三保の松原の景色をはじめ日本の習俗を写した映像も入れられていることから、本編はフランスでの上映を意識しているのは確かなのですが、唐突に冒頭に入れられた日本語のプロローグは…本編の完成後に追加されたものなのでしょうか。だとするとフランスでの上映のほかに、日本国内での上映も計画されていたわけですが、それにしては本編のフランス語のナレーションを日本語に吹き替えたり、字幕を入れるなどの処理は施されておらず、これまたナゾは深まるばかり…

ところが、このあと意外な展開がありました。

完成したDVDを師家や門下にお目に掛けたところ、ぬえの現在のもう一人の師匠…師匠の弟師から、ご自宅にこのフィルムと類する録画がある、とのお知らせを頂いたのでした(!)。

師は、フィルムで『羽衣』を舞っておられる先代師匠のご次男に当たられるのですが、ご多忙にもかかわらず、このような記録類は普段からきちんと整理・保管されておられる方。この度もDVDをご覧になってすぐ「三保の松原でのエレーヌ夫人のための羽衣…そういえば うちにもこの時の録画があるよ。このフィルムとは全く違う内容だったと思う。終わってから父が関係者と握手を交わしていたり…なにかのニュース映像だったかもしれない」と即答されました。これを聞いた ぬえは仰天!

早速、催しの合間を縫って師のお宅にお邪魔して録画を拝借して参りました。

伺ったところ、件の録画は もとはベータの時代のビデオテープに録画されたもので、最近保存のために師がみずからDVDに焼き直されたものだそうです。ダビングを重ねて画質が悪いから、とのことで、オリジナルであるベータのテープも貸して頂いたのですが…さすがに ぬえ家ではベータは再生できませんでした…(__;)