ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その11)

2007-11-29 02:29:06 | 能楽
ワキの文句を受けて舞台に入る前シテですが、このところ、能の中でも珍しいほど長い時間無音の場面ですね。シーンとしてしまった中を歩むのはシテにとっても気を遣うところでしょう。なんせ通常であればお囃子のアシライがあったり、誰かほかの演者や地謡が謡ってくださっている中を歩む事が多いのですが、『山姥』はまったく音がありません。シテの歩む姿をお客さまに じいっと見つめられてしまうわけで、こういう曲はあまりほかに例が少ないように思います。ちょっと考えて思いつくのは『恋重荷』ぐらいかなあ。。

さてシテが舞台に入り、ツレに向かって正中に着座すると、ツレ・ワキ・ワキツレも同時に着座します。扉を開けるでもなく、家に上がるのをシテが勧めるでもなく、この着座をもって一同はシテの住処である小屋(なのでしょう)の室に車座になって(なのでしょう。。)、落ち着いた事を表現します。

このところ、ぬえが小鼓をお習いした故・穂高光晴先生は「ここは長いねえ。。20分は待たされるな」とおっしゃっておられましたが、なるほど、ここからのシテとワキ、ツレとの会話は本当に長いですね。よく上演される『山姥』なので、地謡に座って聞いていたりで自然に謡は耳に入っていますが、いざ実際にきちんと覚えようとすると、その長大な会話に驚かされます。謡を間違えないようにしなくちゃ。。

シテ「今宵のお宿参らすること、とりわき思ふ子細あり、山姥の歌の一節謡ひて聞かさせ給へ、年月の望みなり鄙の思ひ出と思ふべし、そのためにこそ日を暮らし、御宿をも参らせて候へ、いかさまにも謡はせ給ひ候へ。

さて着座した前シテは、いきなり こう切り出します。このセリフ、ふだん地謡に座って聞いている時にはあまり気に留めなかったのですが、じつはかなり考えられて作られた文章だと今回、気がつきました。

初対面であるシテとツレ一行。ツレやワキにとっては、突然日が暮れたところに 渡りに舟で宿を貸す事を申し出たシテの出現は、そのタイミングがあまりに良すぎる事を除けば、親切な里女の登場にしか過ぎないはずで、ところが彼女の家に到着したところ、開口一番シテが申し出たことは、ツレ百万山姥の持ち芸の披露であったのです。

これは、まあ良い。現代でも人気タレントであれば、プライベートな旅行中に正体を看破されてサインを求められるなどは日常茶飯事でしょう。テレビもなく、遠方ではタレントの顔さえ知る手段がない時代であっても、その高名がこのような山中にまで響いていたとしても それほど驚くには当たらないでしょう。ましてやツレ百万山姥は遊女でありながら自らの足では歩かずに「乗物」に乗り、あまつさえ従者を伴うほどの人気者で、おのずからその行列は目を引いたはずです。

問題はシテの言う「そのためにこそ日を暮らし、御宿をも参らせて候へ」という文句で、型どおりに読めば「山姥の歌を聴くことをただ一つの願いとして、都からは遠く離れたこんな辺鄙な片田舎ながら日を送っていた。それだからこそいま偶然にも難儀しておられる姿をお見かけして、急いで宿を貸したのです」と読めるはずで、少なくとも山中で助けられたツレやワキの耳にはそのような意味に響いたはず。

ところが、よくこの文章を読んでみると。。「山姥の歌を聴くために天空を操って日暮れにし、それにより あなた方一行が困ったところにタイミング良く現れて、この宿に誘導したのです」と読む方がむしろ自然であるはずです。おっかないけど。。

しかしシテのセリフを聞いて直感的にそのようには聞こえないのは、そのまま読んだこの内容があまりに非現実的で、実生活とはかけ離れた言動だからでしょう。しかもシテはその前に「年月の望みなり鄙の思ひ出と思ふべし」と言っていて、彼女は都で高名な百万山姥の熱烈なファンで、百万山姥の謡う「山姥の歌」を聞くチャンスが訪れる、という絶望的な可能性を、長い年月の間信じ続けていた事を想像させます。それだからこそツレもワキもシテの言葉を、疑うことなく前者の意味に理解したのです。

ところが山姥の化身である前シテの発言の真意はそうではなくて後者の意味だったはずで、しかし初対面のツレやワキに対しては警戒や畏怖をされないよう二つの意味に解せるように言ったのです。その意味でのこのセリフは、この前シテが山姥の化身だと すでに気づいているお客さまに対して、シテ山姥の真意をくみ取って頂くよう『山姥』の作者から投げかけられた仕掛けにほかなりません。

これほどの知的な、二重の意味構造を持ったセリフが数百年前に練り上げられていたのです。作者の意図は ぬえは本当には理解していないのかも知れませんが、ぬえが正しいとしたら、この作者はとんでもない才能を持ってこの戯曲を書いたのだと言うことができるのではないかと考えさせるのです。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その10)

2007-11-27 01:32:59 | 能楽
『山姥』の前シテの面装束は次の通りです。面=深井、鬘、無紅鬘帯、摺箔(白地。文様は銀のもの)、無紅唐織。至って普通の中年女性の扮装で、『山姥』だから、という特別な装束が用いられるわけではありません。それだからこそ、装束の文様を選ぶときには工夫が必要になります。もちろん美しい草花の優美な装束では困るので、黒船文様と呼ばれる濃い紺地に細かい横段の文様が入った唐織とか、やや厚板がかったような大柄な文様のものなどが選ばれたりします。

これほど没個性的というか、平凡というか、中年女性の役としての典型にはまりこんだ装束を着るのですから、役者としてはその文様に気を配らなければならないのは当然ですが、それ以上に『山姥』の前シテとしての扮装が成立するかどうかは、面の選択によって決定すると言えると思います。逆に言えば、個性的な面を役者が選ぶために、あえて装束に奇をてらう事を避けているのではないか、と思わせるほどで、じつは『山姥』の前シテの面は深井のほかにも「近江女」や、変わったところでは「霊女」を使う事も選択肢に加えられています。

「霊女」(「りょうのおんな」。。ぬえの師家では「れいじょ」と読んでおりますが。。)は女面でありながらいかにも怨霊のような表情の面で、う~ん、これは ちょっとあまりにも手の内を見せすぎかな? と ぬえは思いますが。。また「近江女」は『道成寺』の専用面のように思われがちですが、意外に前シテの「替エ」として選択肢の一つに加えられている曲がいくつかあります。面白いのは「近江女」という面は「紅入」にも「無紅」にも扱われる面で、観世流の主張では『道成寺』は紅入であるのに、同じ観世流が無紅の『山姥』にも使う事を許容しているのが良い例でしょう。ほかにも「泥眼」など、紅入にも無紅にも用いられる面はありますが。。

いま、ここまで書いて思い当たったのですが、「霊女」にもいろいろなタイプがあって、中には『山姥』の後シテの専用面「山姥」に似た相貌の「霊女」がありますね。あれって。。あの型の面の最初の作者は、あるいは『山姥』の前シテに使う事を想定して創作したのかも知れない。。

そして最後の選択肢である「深井」。やはり『山姥』の前シテにはこれを選ぶ演者が多いのではないかと思います。これまた「霊女」と同様に「深井」にもいろいろなタイプ。。「型」がありまして、千差万別。。というか、これほどいろんな表情を持った、印象の異なる面も少ないのでは? と思います。

それもそのはずで、男面と比べても格段に種類が多い女面でも、中年女性の役のための面は、特殊な面を除いては意外に「深井」と「曲見」に限られてしまうのです。一方、中年の女性の役というのは能の中で かなり大きなウェイトを占めていると思います。そしてその役の性格もまた、千差万別と言わざるを得ないでしょう。同じ「深井」を用いる曲にしても、『山姥』と『隅田川』では全く描いている人物像が違うし、さらに『隅田川』と同じく子を追い求める狂女物にしても『桜川』と『柏崎』では同じ面では勤めることは難しいでしょう。『朝長』では さらに演者の面に対する要求は大きくなる。。 『山姥』にはそれにふさわしい「深井」が掛けられるべきで、『朝長』のような理知的な面でも、『桜川』の、やや可憐な面ともまた違う。。(いや、理知的・可憐は ぬえの思い込みですけれども。。)もっと直情的で、品格は微妙に劣る感じ。。『安達原』より少し品良く、という感じが理想でしょうか。

面白いもので、同じ「鬼女」(とりあえず『山姥』のワキのセリフにそう書かれてあるので、この場ではそういう事にしておきます)の化身であるのに、『山姥』と『安達原』では微妙に違いますね。これを説明するのは難しいですけれども、たとえば『安達原』では小書がある場合に前シテは縷水衣を着るのに、『山姥』の前シテに水衣を着る事は想像できない。。そんな違いです。。うう。。説明が難しい。。

伊豆・天城で結婚式に出演(その後)

2007-11-25 23:44:33 | 能楽
伊豆・天城ではからずも結婚式への出演の機会を得た ぬえでしたが、その夜は伊豆の国市へ移動して、狩野川薪能に出演した子どもたちと旧交を温める機会に恵まれました。

天城での結婚式への出演が決まったところから、その情報を得た子どもたちから連絡もあり、じゃあその日に会おうか~? と、まあ軽いつもりで ぬえも考えていたのですが、どうやら知らぬ間に情報が広がったらいく、結婚式の前日に ぬえに入った連絡では「その日は子どもたちのお母さんやお父さんも含めて30人が集まる事になりました」とのこと。。30人!? 意外な展開だ。。

まあ、半年も伊豆にお稽古に通っていて、薪能の当日には終演後はあたふたと片づけをして東京に帰ったわけですから、その日は子どもたちとも「解団式」のような正式なお別れは、とても出来る状態ではありませんでした。まあ、これは毎年のことで、薪能の終演後は ぬえは毎回後ろ髪を引かれるような思いで伊豆を後にするのです。ああ、また半年はこの景色を見ることもないんだなあ。。なんて思いながら。それでまた、ぬえがそう思う時刻。。薪能が終演して片づけも終わった頃というのは。。すでに午後9時を廻っていて、「この景色」と言っても、もうなあんにも見えないんですよね~。

今年の狩野川薪能は、例年と比べて子どもたちの団結力も特段良いとは思えなかったんだけれども、なんというか。。いろんな意味で ぬえの心に残った催しでした。キラリと光る子が発見できたり、ぬえの見えないところで努力を重ねている子がいたり(やっぱり、こういうのは ぬえ、一応プロの端くれですからすぐにわかります)。悩んでいる子がいたり、能の稽古を通じて成長した子がいたり。

ぬえがこう思うくらいだから、子どもたちにも薪能に思い入れがある子がいるとは思ったけれど、まさか30人が集まるとは思いも寄りませんでした。うう~~、またまた ぬえ、本気で伊豆に住みたくなっちゃうじゃないか~。

でも、ぬえが伊豆の国市に到着できるのはようやく夜7時半で、その時間にその人数が入れるお店というものがなく。。まあ、子どもたちもいるから さすがに居酒屋というわけにもいかず。。それで、結局子どもたちと会った会場は。。いつも ぬえが子どもたちの稽古をつけている「市民会館」の真向かいのマクドナルドでした。え~と ぬえはビールね? 「ありません」。。(T.T) そうですか。。じゃあ。。コーラで。。

久しぶりに会った子どもたちは、なんだか背が伸びたような。もう来年の薪能への出演の抱負が飛び出したり、あの役をやりた~い、という希望が出たり、いや頼もしい限りです。もっとお稽古を続けたいという子どもたち希望も聞いたし、薪能も再来年に第10回を数えるので、そのときを目指して少し稽古を充実させたい、と ぬえの希望もあるので、あるいは何らかの形で結実できれば良いな~と思います。

コーラで乾杯して歓談したあと、ぬえは大仁の行きつけのお店でやっとビールにありつき、そこも終電の時間に追い立てられるようにして電車に乗り、ようやく三島に予約した宿に落ち着きました。もう深夜だったので、やっぱり別れ際の伊豆の景色は見られずじまい。

でも翌朝は快晴で、三島駅からもくっきり富士山が見えました。あ~また早くここに来れたらいいな~

伊豆・天城で結婚式に出演

2007-11-24 01:58:18 | 能楽

以前にご紹介しました通り、今日は伊豆・天城の温泉旅館「落合楼村上」での和式の結婚式に出演して参りました。ま~~お嫁さんのキレイだったこと。

いまどき、古式ゆかしい昔ながらの結婚式を望まれ、それが ぬえのところにまで出演依頼につながったのは、まさに偶然の産物と言えるでしょう。また ぬえも披露宴には何度も出演したことがありますが、三々九度で謡を謡ったのははじめてでした。考えてみれば和式の結婚式で三々九度などの儀式は神式あるいは仏式で行われるので、この儀式を司るのは神官かお坊さんなんですよね。今回は人前式だったので、儀式の部分から ぬえのような能楽師が関わらせて頂けることになったわけです。

さて順を追ってお話すれば、ぬえにとって通い慣れた伊豆であっても大仁から先というのは ほとんど足を踏み入れた事がありません。今回は修善寺からさらに車で30分程度入った先でした。天城峠に近い標高の高い所で、大仁よりもずっと寒かった~。でも紅葉がいくぶん始まった頃の深山の谷川の景色は。。あら、これは『山姥』のお里? と、つい思ってしまいました。



さて挙式の前にはリハーサルが行われますが、ぬえはそれに間に合ったのでリハーサルから参加させて頂きました。ん~~ ぬえが思っていたよりはずっと進行は速そうだ。。急遽新郎新婦の入場の場面で『高砂』の待謡を、三々九度では『井筒』のクセの上羽からトメまでと、『皇帝』を謡うことに改めました。結果的にこれでピッタリ新郎新婦の動作と合ったので、いや、リハーサルから出席してよかった。

さて本番のお式が始まると、段取りがうまくかみ合ってスムーズに進行しました。はじめての結婚式での上演に緊張してお宿に入った ぬえでしたが 人前式ということで、厳粛ながらもアットホーム、そんな感じのお式で、ぬえも気持ちがラクでしたし、ご親族も喜ばれたのではないかと思います。良いお式でした。結局 鵺が謡ったのは入場の『高砂』待謡~『老松』キリ、三々九度の『井筒』クセ後半と『皇帝』。それからお式のお開きの場面での 仕舞『羽衣』キリと、さらにご披露宴にも ぬえは招いて頂いたので、そこで舞った『高砂』といったところがすべての上演曲です。

お式と披露宴の間には、新郎新婦より ぜひ温泉に入っていってください、とのご好意を頂いてお風呂にも入らせて頂きました~。考えてみれば、催しの前に温泉に入ったのも、これまた初めてだなあ。(^◇^;)

こちらからの御礼じゃないけれども、新郎新婦には、12月の研能会で ぬえが上演する『山姥』の ご招待券をプレゼントさせて頂きました。

さらにその上、新郎新婦は東京にお住まいになるそうで、それでは、ってんで12月には今回 ぬえにこの結婚式の出演を依頼されたコーディネーターさんもお呼びして焼肉パーティーを催す事になりました。なんでやねん。

ともあれ、美しく感動的な結婚式は無事にお開きになりました。新郎さん新婦さんは、どうぞお幸せに暮らせますように。


巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その9)

2007-11-22 01:38:59 | 能楽
シテ「なうなう旅人お宿参らしようのう
アイ「や、お宿参らしせうずる由申し候

ワキの文句を見計らってシテは後見に幕を揚げさせ、静かに右ウケてツレの方を見て声を掛けます。「呼び掛け」と呼ばれる前シテの登場の演出のパターンの一つです。これは役者の登場のやり方としては非常に印象的で、しかも能舞台に特徴的な橋掛りという構造があるからこそ行える演出です。お客さまにはほど近い位置にある本舞台に登場して演技しているワキやツレなどの役者に対して、いきなり遙か遠くから呼び止める声だけが響いてくる。。その声のする方角を見ると細長い通路~橋掛り~の薄暗い奥から、まっすぐにこちらに歩んでくる者の姿が見えてくる。。橋掛りの揚幕の奥はまさしく「異界」のイメージで、幽霊やら鬼やらが舞台に現れる能にはまことに似つかわしい登場の演出だと思います。

ちなみに「呼び掛け」でシテが登場する場合は、ワキが「なほなほ奥深く分け入らばやと存じ候」などと言って、さらにその場から移動して行こうとするところを呼び止める形になる場合がほとんどです。『山姥』では日が暮れて進むことができずに立ち往生して困惑する一行に声を掛けるのですが、これは「呼び掛け」としては珍しい例と言えるでしょう。ところが同じ理由で、なのですが、『山姥』の「呼び掛け」はシテにとって楽なのではないかなあ、と ぬえは考えています。すなわち、その場から脇座の方へ歩いてゆくワキを橋掛りの奥から認めて、程良いところで呼び止めるのは、シテにとって気を遣うところなのです。おワキの演技の都合を考えれば、あまり早く呼び止めてしまっても、また呼び掛けるのが遅れても、おワキは困るのです。ちょうど良い地点にワキが差し掛かったところで呼び止めたいところですが、シテの位置からは相当に距離があるうえに、シテは面を掛けていて視界が狭められていますから。。また、能楽師の中には目の悪い人もいて、中には地謡に出ていて、脇正面の最前列のお客さまが見えない方もあるのです。こういう方はどうやって呼び掛けをしておられるのか。。汗をかいて流れ出てしまうから、シテはコンタクトレンズも使えないし。。

また一方、「呼び掛け」という演出の成立についても ぬえは興味があります。橋掛りがなければ「呼び掛け」という演出も生まれなかったであろうと思われるのに、能舞台そのものも、ましてやその中の部分である橋掛りは能の歴史の中でずっと定まった規格を持たずに来たのです。現代でさえ、新しい能舞台を建てる時にも橋掛りの幅や長さ、そして本舞台との取り付け角度といったものは全く決まった規格がありません。そして絵図などではかつて橋掛りが舞台の真後ろについているものさえあって。。一方、能の台本は時代によって大きく変わる事は稀で、細かい点を除けば、台本は成立当初の姿を比較的よく留めているものです。「橋掛り」と「呼び掛け」の演出のどちらが先に成立したのか。。ぬえは興味がありますね~

ともあれ、シテは呼び掛けを謡ったあと、ワキの応対の文句の間に橋掛りの方へ向き直り、歩み出します。

シテ「これは上路の山とて人里遠き所なり、日の暮れて候へば、わらはが庵にて一夜を明かさせ給ひ候へ
ワキ「これは始めて善光寺へ参る者にて候が、行き暮れ前後を忘じて候ところに、嬉しくも承り候ものかな、さらばこれへ参り候べし

これよりシテは無言で橋掛りを歩み、舞台に入ります。

ところで観世流の『山姥』の前シテの「呼び掛け」の、その常套文句「なうなう」には特殊な節が付けられています。普通ならば「詞」のバリエーションであるはずの「なうなう」が、『山姥』は節の「カカル」の扱いで、しかも最初の「なう」には深い「小節」が付けられています。まことに珍しい節ですが、さらに語尾の「参らせうなう」には「イロ」の節まであって。この呼び掛けの節付けは本当に特殊で、習物の能としての面目はここにある、という感じが出ますね。深山幽谷の中、日が暮れたところにイキナリ聞こえてくる、彼らを呼び止める声。。そんな不気味さをうまく表現している節だと思います。

シテは舞台に入り、ツレへ向かって舞台の中央で着座します。ツレやワキも同時に着座し、すでに一行は彼女が住む小屋に到着した事を意味し、とりあえず一同腰を下ろして、シテとツレ・ワキとの会話が始まります。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その8)

2007-11-21 00:28:18 | 能楽
ワキ「善光寺への路次の様体尋ねて候へば、上道下道上路越、この上路越と申すは、已身の弥陀唯心の浄土に喩へられたる道にて候が、ただし御乗物の叶はぬ由申し候
ツレ「げにや常に承る、西方の浄土は十万億土とかや、これはまた弥陀来迎の直路なれば、上路の山とやらんに参り候べし、とても修行の旅なれば、乗物をばこれに留め置き、徒歩跣足にて参り候べし、道しるべして賜び候ヘ
ワキ「さらばその由申し候べし

ワキ「最前の人のわたり候か アイ「これに候
ワキ「御申しの通りを女性に申して候へば。乗物をばこれに留め置き、徒歩跣足にて参らうずるとの御事にて候。とてもの事に案内者あって賜り候へ
アイ「もっとも御不知案内にてござあらうずる間、案内者申したくは候へども、かなはざる用の事候程に、なるまじく候
ワキ「仰せはさる事にて候へども、ひらに案内者あって賜り候へ
アイ「さあらば用を欠いて参らうずる間、やがて御立ち候へ ワキ「心得申し候

ワキ「さあらばやがて御立ちあらうずるにて候

このおワキの言葉によって、ツレ百万山姥が都からこれまでの道中を ずっと乗物に揺られて旅をしてきた事がわかります。こういうところも能の特徴的な面白いところですね。舞台上ではツレはワキの前に立ってずっと歩いて登場してきたのに、じつは彼女は徒歩旅行ではなかった、という設定になっていたのです。

お客さまはこのセリフでその設定に初めて気づいて「ええっ?そうだったの?」と驚かれるでしょう。じつは演劇の脚本を作る上で、お客さまに疑問を持たせる事はもっともイケナイ事なのです。ぬえも何度か新作能の台本を書いたり、その手助けをしたことがあるのでよくわかるのですが、推理小説を舞台化した作品とか、よほど考え抜かれて敷かれた伏線ならばともかく、お客さまが脚本に矛盾を感じたら、もうその先は見て頂くことができません。正確に言えば、見て頂く事は物理的にはそのまま続行するでしょうが、誰もついてきて下さらなくなっちゃう。脚本への共感とか、そもそも鑑賞して頂く、ということも、すべてそこで不可能になってしまうのです。舞台の失敗は疑うべくもなく、こういう脚本が書かれてしまったところからそれは始まっているのです。

ところが能『山姥』のこの場面でお客さまの思考が中断されてしまわないのは、能の象徴主義的な演出の姿勢によるところが大きいでしょう。能の場合の象徴主義とは、扇や型で品物の代用をしてしまうとか、主人公の心理を表現することばかりではなく、「その場にはない物」を、あたかも存在するかのように役者が扱う演技をする事で実在させてしまう事も含まれるでしょう。旅行が一段落して、もう着座してしまったツレが「(これまで乗ってきた)乗物をばこれに留め置き、徒歩跣足にて参り候べし」と言ったところで、お客さまの中に齟齬が起こったとしても、それは すでに過ぎてしまった場面の話なのであり、しかもそれは能の進行や脚本の本質的なところと比べればほんの些細な事にしか過ぎないのです。大体、ここはまだシテさえ登場していない場面で、場面設定を構築している段階。お客さんの期待感も、これから登場してくるシテの登場に向けて次第に高められてゆく最中なのです。

ちょっと違った例ですが、『隅田川』で出される塚の作物が舞台に違和感を与えないのも、能の演出の姿勢が一貫しているからにほかならないでしょうね。よく考えてみれば最後の場面にしか使われない塚の作物が、狂女が舟に乗るこちらの岸の場面にもあり、舟中のおワキの語リで何と川の中に塚があって、舟を追いかけて移動しているかのよう。それでも舞台に違和感がないのは、役者がみんな揃ってその塚を無視して演技し、また塚のある舞台後方を誰も演技スペースとして使おうとしないからでしょう。これは役者が「あたかも存在するように」演技するのとは反対の、それでいて演技の質としてはそれとまったく同質の、一貫した演技の姿勢があるからなのだと思います。そうなってくるとこの「見えるはずのない塚」が、戯曲の中の無言の伏線に見えてくるから不思議。

ついでながら「乗物」について。能の中に説明はありませんが、『山姥』のツレが乗っている乗物、とは、おそらく「輿」の類でしょう。ところが『山姥』では省略されるこの輿の作物、先日 ぬえが勤めた『一角仙人』では堂々と登場するのですよねえ。

これは、『一角仙人』ではツレ旋陀夫人が皇帝の官女という高貴な立場である事を説明するために輿がわざわざ出されてツレの頭上に差しかけられます。輿が登場する場合にはそれを支えるために二人の役者(ワキツレ)が必要になるので、ツレの豪華な装束と相俟って旋陀夫人の高貴な性格づけがなされるのです。また『一角仙人』では、そんな彼女が山奥の仙境に向かうのですから、そのミスマッチを強調するのにも輿を登場させるのは効果的。そしてあまりにも場違いなこのツレの登場によって、シテ一角仙人が不思議に思って姿を見せる、という台本も「輿」が登場するからこそ違和感なくスムーズに舞台が進行するのだと思います。

さらに輿といえば。。『盛久』でしょう。この曲は平家の武士で囚われの身となった盛久が都から鎌倉まで護送される場面で「輿」が使われます。この場合の「輿」は罪人を乗せる唐丸駕籠のようなもので、ほかの能に登場する「輿」とは全く違うものです。それでも形状は通常の「輿」とほとんど同じで、ただ違う点は常の「輿」が竹の骨組みに紅緞を巻いて作るのに対して『盛久』の輿は無紅紅緞を巻き、しかもその紅緞を骨組みに千鳥掛けにしません。つまり装飾がない「輿」で、無紅紅緞は常の「輿」の華やかさとは違って陰気な印象をお客さまに与えます。輿を支えるワキツレも『盛久』では警護の武士で、大口裳着胴姿である事はほかの曲の「輿舁」の場合と同じですが(おワキ方に伺ったことがありませんが、おそらく厚板などは『盛久』とほかの能とでは区別があるのではないかと思います)、後ろにつき従うのは直垂上下に梨打烏帽子をかぶり、太刀持ちを従えた武士の姿のおワキ。この大人数であっても、華やかさではなくて「厳めしさ」や「物々しさ」が漂います。

ちょっとした違いで舞台効果には歴然とした差が出る。。やはり能の演出は、とっても深く考えられて、計算し尽くされていると思います。

さて、おワキに促されて立ち上がったツレは、これから登山する体で正面へ受けて立ち居ます。アイは道案内をするために常座に立ち、すると。。俄かに日が暮れてしまいます。

アイ「何と最前申したるよりも険難なる道にてはなく候か
ワキ「げにげに承り及びたるよりは険難にて候
アイ「かやうに候へばこそ御乗物などはかなはぬよし申して候。や。何とやらん日の暮るるやうになりて候
ワキ「げにげに俄に日の暮るるやうに候。このあたりに泊りはなく候か
アイ「なかなか泊りはなき所にて候
ワキ「あら不思議や。暮れまじき日にて候が、俄に暮れて候よ。さて何と仕り候べき

これにて いよいよ前シテが登場します。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その7)

2007-11-20 12:58:34 | 能楽
いま『山姥』の上演に向けて、後シテが突いて出る「鹿背杖」を作っています。鹿背杖は『山姥』のほか『恋重荷』『玉井』『鞍馬天狗・白頭』など、老体で超人的な役の後シテが持つ杖で、杖の上部に横向きに握りの部分をつけた撞木杖の形の杖です。杖の素材は竹で、径は一寸弱、およそ2.5cmぐらい、握りの径は一寸程度で、こちらは木を使って作ります。大成版の謡本には「乳の高さの竹に三寸程の握りをとり付け無紅紅緞にて巻き、之を鹿背杖とす」と書かれていますが、高さはそれよりやや低い感じ、握りの長さはやや長めに作る方が姿はよいと思います。今回は握りを五寸強(16cmぐらい)に、杖自体は高さは少し変えたものを二本作ってみました。

いえ、鹿背杖ぐらい師家にも何本もあるのですが、これ、不思議と演者の体格に似合うのがなかったりします。演者に合わせてそれぞれ作るのが一番。師家の鹿背杖を使って稽古していたら、先輩からも「君にはもう少し長い方がいいかもね」と言われ、また別の先輩に伺ってみても「ああ、僕が『山姥』をやったときは、自分に合わせた鹿背杖を作ったよ」と言われたので、ぬえも作ることにしたわけです。それにしても『隅田川』の塚、『一角仙人』の剣、『井筒』のススキ、そして鹿背杖。。ぬえも道具を作るのは好きだけれど、今年はまあ、よくいろんな物を作ったもんです。

さて鹿背杖ですが、竹を切って節を目立たぬように落とし、握りを取り付けるまではよいのですが、問題はこれに巻く無紅紅緞。これは作物を揃えている能楽堂とか、薪能など地方の公演でも自前で作物を揃えなければならない職分家などでなければ持っていないでしょう。紅緞はじつはかなり高価なものですし、鹿背杖を作るためだけに能装束屋さんに1本や2本だけを注文するわけにもいかないし。。でも東京には「ユザワヤ」という強い味方があるのです。「ユザワヤ」は東京だけではなく関東近郊や関西にも店があるらしいですが、言うなれば手芸材料や生地の巨大デパートです。この夏に『一角仙人』の剣を作ったときも、柄に巻く金襴はこのお店で探し出しましたし、ぬえは「ユザワヤ」にはずいぶん助けられていますね~。今回も「藍染め風」の、まあ無紅紅緞に見えなくもない、という感じの綿の生地を発見して、これを使う事にしました。

なお『山姥』だけは、鹿背杖に木葉を付けるのです。これは榊の生木を使う場合も多いですが、今回は「100円ショップ」で造花の榊を買って使う予定。九月の「ぬえの会」で上演した『井筒』でも、前シテが持って出た木葉は「100円ショップ」製でしたが(笑)、いや、なかなかどうして、良いできばえの造花があるのです。まあ、とは言っても大量生産の品ですから、枝ぶりが左右シンメトリーであったり、少し手を加えなければならない部分もあって、『井筒』のときはライターで少しあぶって葉の向きを調整したりしました。

さて、前回『山姥』の舞台とされた越後の現地に残っている地名をご紹介しましたが、これから見ても、どうやら越後・越中では「山姥」は人を取って食うような恐ろしげな化け物とは思われていないようですね。そしてそれは能『山姥』の後シテの造形と相通ずる性格を持っているように思います。じつは、どうやら日本人の「山姥」像は時代によって変遷を遂げているらしく、現代人が普通に「山姥」に持つイメージは、どちらかといえば『安達原』の後シテの鬼女のような人間に害を及ぼすような怪物に近いものだと思いますが、それ以前には能『山姥』に描かれ、また現地に伝説として伝わり、地名にその片鱗を残すような、「山」そのものの化身のような大きさと、人間の生活を手助けするような身近な存在であったようなのです。高村光雲の彫刻の中にパリ万博に出品されたという傑作「山霊訶護」がありますが、これは光雲の大正期の作品で、猛禽が空から狙うウサギを山姥が守っているところの像です。これを見ると、少なくとも大正期の頃までは山姥は心優しい超自然的な存在、というように、日本人にとって共通認識が残っていたのかなあ、なんて想像してみました。

「道行」が終わると一行は境川に到着し、しばらく休憩を取ります。ツレとワキツレは脇座以下に居並んで着座し、ワキはアイを呼び出して善光寺へ至る道について尋ねます。

この部分、および前シテが中入してからワキとアイが問答をされる部分は、通常は謡本にも記載がなく、また演者もあえて公開しない定めとされています。。のですが、現代では研究の要請などもあって、従来秘公開とされていたような事もいろいろな場所や場面で事実上公開されていたりしますね。今回の ぬえが勤めさせて頂く『山姥』は、おワキが下掛り宝生流、お狂言が大蔵流山本師のお家という組み合わせですが、小学館から刊行された『日本文学全集』の「謡曲集(2)」に、同じ組み合わせで翻刻されていますのでご紹介させて頂きます。(ただし底本の本文と現行の上演詞章に小異がある場合もある事をお断りさせて頂きます。

ワキ「御急ぎ候ほどに。越後越中の境川に御着きにて候。しばらくこれに御座候ひて、なほなほ道の様体を御尋ねあらうずるにて候
ワキツレ「もっともにて候
ワキ「まづかうかう御座候へ
ワキ「境川在所の人のわたり候か
アイ「境川在所の人とお尋ねは。いかやうなる御用にて候ぞ
ワキ「これは都方の者にて候。これより善光寺への道の様体、教へて賜り候へ
アイ「さん候これより善光寺への道あまた御座候。なかにも上道下道上路越と申して御座候が、すなはち上路越と申すは如来の踏み分け給ふ道にて候。さりながら険難さがしき道にて候。見申せば女性上臈を御供と見え申して候が、なかなか御乗物などはかなはぬ道にて候
ワキ「ねんごろに御教へ祝着申して候。御覧候如く女性を伴ひ申して候間、そのよし申し候べし。しばらくそれに御待ち候へ
アイ「心得申して候

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その6)

2007-11-19 01:49:21 | 能楽
これは余談になりますが、前掲の『山姥』のおワキの名宣リの文章によれば、ツレ「百万山姥」が都での上演活動を一時停止してまではるばると善光寺まで詣でる理由は、彼女の親の十三回忌だからだ、と説明されます。この故でしょうかね? 『山姥』は追善能でも好んで上演されます。しかし十三回忌を表す「また当年は御親の、十三年に当たらせ給ひて候程に」という文句は、下掛り宝生流のおワキの詞章で、福王流のおワキでは「又この頃は善光寺へ御参りありたき由承り候程に」と、善光寺詣での理由はハッキリしていません。

ともあれ、おワキの名宣リの最後の文句、下掛り宝生流の場合は「ただ今信濃の国へと急ぎ候」と、おワキは両手を前で合わせる「掻合せ」もしくは「立拝」と呼ばれる型をして、次いで「サシ」と呼ばれる拍子に合わない詞章を、ツレの方へ向いて謡い出します。このときツレもワキツレも、一同が向かい合います。

ワキ「都を出でてさざ波や。志賀の浦舟焦がれ行く、末は愛発の山越えて、袖に露散る玉江の橋、かけて末ある越路の旅、思ひやるこそ遥かなれ。

「サシ」とは、いわば詠吟といいますか、拍子には合わせないで謡うけれどもこれは完全に歌ですね。この意味で「セリフに音楽的な要素が交じった」といえる「カカル」とは性格を全く異にしています。謡のお稽古をされているお弟子さんに、このへんを説明して理解して頂くのは本当に難しいですけれども、これを心得て謡って頂けると ぐっと上達が早くなるのではないかなあ、と、いつも思います。「サシは歌。カカルはセリフ。」こういう風に覚えて頂けると、テキストの全体像が見えやすくなるのではなかろうか。

あ、お稽古の教授のことはこの際措いといて。f(^―^;

この「サシ」ですが、観世流の大成版謡本では全文をおワキが独吟することになっていますね。観世流の謡本は、かつての座付流儀であった福王流のおワキの本文を反映しているのですが、しかし実際には福王流でもこの部分は実演上ではほとんどの場合、おワキが終始独吟しておられるわけではないように思います。二句ばかりをおワキが独吟してから、ワキツレも謡い出して連吟しておられるように記憶しているのですが。。さらに ぬえが拝見している限り、少なくとも下掛り宝生流ではワキツレの方が先に「サシ」を謡い出して、それからおワキが唱和する形を取っておられるように思います。いずれにしても ぬえはおワキの実演上の約束までは詳しく存じませんので、なんらかの「決リ」があるのかもしれません。

さてサシの止まりで大小鼓が打切を打って区切りをつけて、今度は拍子に合った謡の「道行」が謡われます。

ワキ/ワキツレ「梢波立つ汐越の、梢波立つ汐越の、安宅の松の夕煙、消えぬ憂き身の罪を切る、弥陀の剣の砥波山。雲路うながす三越路の、国の末なる里問へば、いとど都は遠ざかる、境川にも着きにけり、境川にも着きにけり。

境川はその名の通り今でも富山県と新潟県との県境で、『山姥』の道行のあとに現れる「上路=あげろ=」の村も、現在は新潟県糸魚川市の一部として現存しているそう。当地には「山姥の里」「山姥の洞」があり、また山姥の子どもが坂田金時という伝説があって、「金太郎がブランコをした藤」とか「金太郎がお手玉をした石」、さらに「山姥が日向ぼっこをした岩」というのもあるのだそうです。

伊豆・天城で結婚式に出演します(続)

2007-11-18 07:35:20 | 能楽
ところで今回の ぬえの結婚式への出演で、特筆しておきたいのは ぬえに出演の依頼をしてくださったコーディネーターさん。ぬえよりちょっとお若い女性の方でしたが、メールで何度もやりとりを繰り返しているうちに、だんだんと「活きの良さ」が ぬえにも伝わってきました。

この方との交渉で話はとんとん拍子に進んで、新郎新婦も ぬえの提案に喜んでくださって。ついには結婚式だけではなくご披露宴でも祝福の舞を披露させて頂くことになりました。さっき『羽衣』を舞ったばかりだから、ここはやっぱり『高砂』だなあ。MDに録音した神舞の音を流して、それに合わせて舞うことにしたのですが、『高砂』の後シテの若い神の激しい舞は。。場所が旅館なだけに、ちょっと気を付けないと。。足拍子で床を踏み抜いたりしたら、ぬえは一生出入り禁止になってしまいます~~(・_・、) 当日は早めに会場入りして舞台の様子をさぐっておかないと。

さて、先日の事になりますが、このコーディネーターさんからのメールで、「突然ですが、明日東京に行きますので打ち合わせが出来たら。。」というお申し出がありました。その日が、たまたま ぬえの師家・梅若研能会の月例の能楽公演の日でして、しかもこの日 ぬえは能の地謡のほかに仕舞『融』を勤める事になっていました。これはコーディネーターさんにとっても またとない機会でしょう。ぬえは早速コーディネーターさんを研能会にご招待し、終演後にお会いして打合せをする事にしました。

会ってみればこの方、ほとんど家族経営のような小さな会社で結婚のプランニングをしておられるのですが、ギスギスした、プロフェッショナル風でシビアな物言いをする方とはまた違った、とっても気さくなコーディネーターさんでした。ぬえのような、芸術家。。という言葉で表現されるのは好きではないけれど、舞台人としての能楽師にとって、「ビジネス」という歯車に巻き込ませようとするでもない こういう姿勢が如何にありがたいことか。

ぬえは公演の終了後で疲れもあったでしょうが、こういう元気な方とお会いすると、そんな疲れもどこかへ霧散してしまいますね。初対面であったのに意気投合、ぬえも日本文化について力説して(またか)。。結局駅前でお別れしたときには最終電車にはもう間に合わない状態に(またか)。。(T.T) でも ぬえはこういう「活きの良い」行動力には敬意を表しますよん。

ところが!新たな展開もあったのです。 ぬえが伊豆でこの結婚式に出演する事を聞きつけた「狩野川薪能」に出演した子どもたちから ぬえに連絡がありまして。「え~~、先生、また伊豆に来るの~?」となって、結局 ぬえは結婚式のあと何人かの子どもたちと大仁で会うことになったのです。考えてみれば薪能の終演を最後に みんなと正式に会って慰労しあう事もなかったですね。翌日には東京で、舞台ではないけれどもスケジュールの予定があった ぬえは、結婚式のあとは東京に帰るつもりだったのですが、結局 彼らと、またその親御さんたちも含めて旧交を温めることになり、その日は三島に宿をとりました。。

この、子どもたちとの再会では、旧交を温めるだけではなくて、来年の薪能に向けて団結するよい機会となるでしょう。このような機会を得られたのも、結婚式に謡を導入する決断をした新郎新婦さんのおかげですし、またこのお話を ぬえに持ちかけて頂いたコーディネーターさんのお陰です。この場を使って、あらためまして御礼申し上げます。そして、新郎新婦のお二人はお幸せに~~(^.^)

伊豆・天城で結婚式に出演します

2007-11-17 01:27:40 | 能楽
突然、降って湧いたようなお誘いでした。

「結婚式に出演してもらえませんか?」というメールが ぬえの元に届いたのは、今から1ヶ月ほど前の事です。メールを送ってくださったのは、結婚式のコーディネーターの方で、このブログをお読みになって、コンタクトを取ってくださったのです。へ~~、そんな事もあるんだね~。意外な展開だ。。

ところがお話を伺ってみると、新郎新婦は古式ゆかしい結婚式を望んでおられ、三々九度で祝言謡を披露願いたいのこと。ええ~っ、それはまた現代では珍しい、頼もしいカップルですね~。そして結婚式が行われるのは伊豆・天城の老舗旅館だそうで。。えっ、伊豆。。!?

生まれも育ちも東京で、故郷というものを持っていない ぬえにとって、狩野川薪能での子どもたちとの触れあいを通して、いつのまにか伊豆。。わけても中伊豆は心の中で第二のふる里となってしまっているのに。。今年の薪能が終わって、またちょっと縁が遠くなっていた、そんな伊豆から、またお誘いが来た。。おそらく、このコーディネーターの方が ぬえのブログを読んで、伊豆を想う ぬえの気持ちを感じ取ってくださったのでしょうが、なんだかもっと大きな力が働いているような。。そんな気がしてきました。

そんなわけで、来週の金曜日、23日に ぬえは伊豆・天城の老舗旅館・落合楼村上で行われる挙式に出席させて頂き、祝言の謡と仕舞を勤めさせて頂きます。

この日、晴れて挙式され、新しいご夫婦となるのは高松 崇さん伊藤 舞さん。おめでとう~~ (^.^) このブログでご紹介したい、という ぬえの申し出にもご快諾頂いたお二人は、新郎の特技が空手、中学時代には剣道も嗜まれ、ホノルルマラソンにも出場されたというスポーツマン。新婦はピアノや日本舞踊が特技で東邦音楽短大ご卒業という芸術系の方かと思いきや、中学・高校時代はソフトボール、テニス部でご活躍、という、やっぱりスポーツウーマンで、お二人の出会いも会社の一部の社員がなさっていた草野球に新婦が参加されたのがキッカケなのだそうです。女性選手は新婦お一人だった、と言いますから、やっぱり身体に流れている血は文武両道。日本人ですね~

それにしても、披露宴で『高砂』の仕舞を披露するような事は何度も経験がありますが、結婚式というのは ぬえは初めて。。じつはとっても緊張していて、当日に何を謡うか、ずいぶん考えましたし、自分で謡いながらストップウオッチで計測してみたり。。

まず新郎新婦のご入場を謡でお迎えします。ここは老神が影向する能で、荘重な雰囲気がある『老松』を謡う事にしました。次いで、最も重要な三々九度で謡を勤めるのですが、この所要時間がおよそ10分程度掛かる、とのことで、ぬえ、だいぶ悩みました。もとより小謡でそれほど長いものはないので、いくつかの曲を連続して謡うことにしました。まずは定番の『高砂』の待謡。「高砂や~」ですね。時代劇などで俳優が謡う、まるでお経のような無表情の謡ではなくて、脇能の発声のダイナミズムを聴かせたいところですが。。やはり場面にそぐわないので、重く、静かに謡うようにしてみようかと思います。本来の待謡ならば1分も掛からないところですが、謡い方を変えて。。それでもせいぜい1分半。(^◇^;) 考えた末、成就する恋の物語である『井筒』のクセを謡うことにしました。『井筒』は先日の自分の催し「ぬえの会」で勤めたばかりで、思い入れもある曲です。「そのとき女も比べこし振分髪も方過ぎぬ。君ならずして誰か上ぐべきと互ひに詠みし故なれや。。」。。ああ、やっぱり恋って美しい。そして仕上げは『皇帝』のクセの末尾の三句「寿なれやこの契り 天長く地久しくて尽くる時もあるまじ」。。このクセの詞章は決してめでたい文章ではないのだけれど。。この三句があるためにこのクセは恋の物語として成就しています。このストレートな文章は ぬえはとっても好き。

これにて一時能楽師は座を控えて、お開きの場面で祝言舞を披露します。ここはやはり『羽衣』でしょう。優雅で品位があり、それに、何と言っても伊豆にふさわしい。富士の高嶺の、そのさらに上空に舞う天女は、新郎新婦を見守る守護神のよう。う~ん、能の作者は想定していなかっただろうけれど、先人は良い曲を残してくれました。これほど有名な曲なんだけれども、何度演じてもちっとも手垢にまみれた感じがしない。作者がわからないだけに、これほど非凡な才能を持ち合わせた人って。。名前を残そうとしなかったこの先人には ぬえは本当に敬意を表します。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その5)

2007-11-15 02:12:41 | 能楽
女曲舞で観阿弥の師匠筋の祖先たる百万が能『山姥』のツレ「百万山姥」に投影されているのではないか、と思わせるのには もうひとつの理由があります。それはツレが参詣に向かう目的地が信濃の善光寺だということで、都からはるばると浄土宗の寺である善光寺に詣でる「百万山姥」の姿には、能『百万』で清涼寺の大念仏に加わって「わらは音頭を取り候べし」と言って「南無阿弥陀仏」を唱える姿ととっても符合するように思えます。

能『山姥』が、とくにそのクセの文章が非常に難解で「禅宗的」と評されている事を考えれば、この曲が世阿弥が傾倒したとされる禅宗の影響下にあるとすれば、わざわざ善光寺詣でをする浄土信徒の者をこの場に登場させるのは いささかそこには一貫性を欠く態度も感じられるように思います。

もともと、山姥伝説は日本中にあるはずで、この能の舞台設定が越後と越中の国境とされるのは、ツレの目的地が善光寺であるから、にほかなりません。こう考えてみると、舞台設定がこの地であるのはツレが「百万山姥」だから、と言え、ここにも宗派の違いによって脚本の一貫性が多少失われるにしても、ツレを彼女に限定したかった作者・世阿弥の欲求があったのではないか、と ぬえは感じるのです。

もっとも、ぬえの説にも少々弱点はあります。

まず善光寺は有名な古刹で、宗派の垣根を超えて古来信仰が集まっていたこと。ぬえもかつて善光寺での催しに参加したことがあって、そのとき楽屋となった、大きな寺務所の一室には、この寺の創建が飛鳥時代とされているにもかかわらず、境内から出土した白鳳時代の屋根瓦が展示されてありました。白鳳時代! 仏教が伝来して間もないそんな時期に、信濃の、都から見れば辺境のこの地に、少なくとも善光寺の前身となる寺があったなんて。。ともあれ、それほどの古刹ですから崇敬を集めるのは自然なことで、『山姥』の禅宗の影響と、舞台設定たる善光寺とが齟齬を起こす事はないとも言えるようです。

次に作者と考えられる世阿弥について。世阿弥が禅宗の信徒であったことは資料からも窺えるのですが、どうも ぬえは世阿弥が生来の門徒であったとは思えないのです。このへんはすでに先学によって解明されているのかもしれませんが、ぬえは不勉強なもので、その研究成果はよく知らないのですが、世阿弥自身、その名に「阿弥陀仏」を背負っているわけで。。

浄土系の「阿弥陀号」をなぜ世阿弥が称しているのか? 尊敬する父・観阿弥の名を世阿弥が踏襲しただけなのかもしれないし、また足利義満の子で禅宗に傾倒していた四代将軍・義持の影響で世阿弥が後年禅宗に改宗したのかもしれません。世阿弥を含め、当時の信仰のありかたとして、あまり厳格に個別の宗派の信徒という枠組みに捉われずに のびのびと暮らしていたのかもしれませんし。。

しかし、それとは別に『山姥』には世阿弥らしさ、というものが少々希薄なように ぬえは感じています。『高砂』や『敦盛』のような、世阿弥に特有の素直で平易な詞章が『山姥』では影を潜めていて、難解な仏教用語を散りばめたクセを持つ『山姥』という曲。ぬえは、この理知的な詞章を見て、おそらく世阿弥の晩年。。とは言えないまでも、おそらく彼がかなり後代になって書いたのがこの能ではないかとも思っています。

もしそうであるとするならば、舞台での上演も円熟を増してきた頃、また元重の聞き書きによってまとめられた芸談『申楽談儀』が書かれた頃、父・観阿弥へのオマージュとして、わざわざツレを「百万山姥」として登場させたのではないか、とも感じています。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その4)

2007-11-13 23:37:01 | 能楽
説明し忘れましたが、今回ご紹介している詞章は、梅若研能会12月例会で ぬえが勤めさせて頂く『山姥』の鑑賞頂くための参考という意味がありますので、その際に実演される詞章、すなわちシテの文句は観世流、おワキの文句は下掛り宝生流で表記してございます。予めご承知おき下さい。

さて「名宣リ」は言葉通り自己紹介の文章であるとともに、その後に続く「道行」に話題を自然に繋げる役目を持っています。この曲の場合はツレが「百万山姥」と呼ばれる遊女であること、その名は「異名」で、山姥の山廻りする事を曲舞に作って謡ったことで評判になったために京童がつけたこと、またこの年は彼女の親の十三回忌に当たるため、善光寺詣でを志して、ただいまその道を急いでいるのだ、という事が説明されます。

おワキが説明するこの「名宣リ」ですが、おワキ自身は自分の事を「これは都方に住まひする者にて候」としか言っていませんね。そして彼がこの場にいる理由も、彼女の善光寺詣でに「伴ひ申し」、としか説明しておらず、甚だ曖昧な役どころ と言えるかも知れません。もちろん彼女に無関係の人物ではないのですが、ぬえはこのブログでこのおワキの事を彼女の「ボディガード」と書きましたが、正確に言えば「マネージャー(兼ボディガード)」といった役割の人物でしょう。

ともあれ、この「名宣リ」の文句、じつはいろいろな問題をはらんでいます。

まず「百万山姥」と呼ばれるツレの人物像。能楽ファンの方であれば、このツレの名前を聞いて、能『百万』との関連にすぐ気づかれると思います。これは同一人物の事を指しているのでしょうか。。? 結論から先に言わせて頂ければ、証拠は全くない、ということになろうかと思いますが、ぬえは同一人物ではないかと思っていて、彼女を連れに据える事がこの能の隠された目的なのではないかと思っています。

ともあれ世阿弥は著書『五音・下』の中で「道ノ曲舞ト申ハ上道・下道・西岳・天竺・賀歌女也。。賀歌女ハ、南都ニ百万ト云 女曲舞ノ末ト云」と述べていて、その「賀歌女」という語の傍注に「乙鶴、此流ヲ亡父ハ習道アリシ也」と記されているので、どうやら百万は世阿弥よりもやや遡る時代の実在の人物であるようです。また『三道』に「昔の嵯峨物狂の狂女、今の百万、是也」とあって、観阿弥が得意としていて、作者とも考えられている「嵯峨の大念仏の女物狂の能」が現在の能『百万』の原曲であることはほぼ確実でしょう。

ちょっと話はずれますが、現行の『百万』は世阿弥らによってその内容が大きく改変された事でも有名です。『五音』に「地獄曲舞」として現行『歌占』のクリ・サシ・クセが載せられてあり、ここには「南阿弥曲付 是ハ哀傷ノ声懸也」、さらに傍注として「作書山本 百万能之内」と記されています。また一方同じ『五音』の別の箇所では「歌占 元雅曲」としてやはり『歌占』の、シテのサシ・下歌・上歌が紹介されているのです。

確実な証拠はないまでもこれらの記述から、また世阿弥の著述のうち作者の名が記されていないものは おおむね世阿弥自身によって作られたか改作されたと考えられているため、次のような推測がなされています。

『嵯峨物狂の狂女(嵯峨の大念仏の女物狂の能)』には、作詞=山本、作曲=南阿弥の作による「地獄曲舞」が含まれていた。これはおそらく観阿弥の手によって地獄曲舞が移植されて、新しい能として再生されたもの。
 ↓
「地獄曲舞」は『嵯峨物狂』からいつしか除外されて、おそらく世阿弥の手によって新しい曲舞と差し替えられ、現行の『百万』となった。
 ↓
残された「地獄の曲舞」を十郎元雅が脚色して『歌占』を作った。

ははあ。。「地獄曲舞」という、たった一つのモチーフが、観阿弥・世阿弥・元雅の三代に渡って手を加えられて、現行曲『百万』『歌占』という二番が成立したのですか。

ちと『山姥』から話題がズレましたが、それほど観阿弥・世阿弥父子にとって「百万」という女曲舞は気になる存在だったのです。世阿弥は「彼の一忠を観阿は 我が風体の師也と申されける也」と『申楽談儀』の中で、観阿弥自身の言葉として田楽の一忠を尊敬していた事を記していますが、曲舞を猿楽に導入した観阿弥にとって、曲舞の高名な先人「百万」は同じく師匠のように思っていた事でしょう。さきほどご紹介した『五音』の、「乙鶴、此流ヲ亡父ハ習道アリシ也」の「乙鶴」とは百万を祖とする曲舞の流派「賀歌女」の演者の一人で、観阿弥は彼女の属するこの流派の曲舞を学んだのですから、百万は観阿弥にとって「師匠の師匠」なのです。

ぬえは。。『山姥』のツレ「百万山姥」を、作者・世阿弥の分身ではないかと考えています。

展覧会「鳥獣戯画がやってきた!」(続)

2007-11-11 04:14:56 | 日本文化
でも ぬえは、じつは今回「鳥獣戯画」のホンモノの中で心惹かれたのは、有名な甲巻よりもむしろ、リアルに獣を描いた乙巻や、人間を描く事に専念している丙巻だったりします。

乙巻に出てくる牛が、やっぱりどこか人間の顔をしている様子とか、枝にとまった鷹が、立派なはずなのに妙にひしゃげた頭をしていたり。あ~~ケンカに負けて顔をかまれた(じゃれている?)ワンコの情けないお顔と言ったら。。

それに丙巻に出てくる、賭け双六に負けて身ぐるみ剥がされながらなお平然と賭け事を続ける男と、その後ろで心配そうに見守る妻子。耳引きや首引きの場面は狂言の素材にもなっているし、あ!これは「にらめっこ」だ! 一方男と稚児の将棋の対局の場面では優しい表情で稚児に指し手の助言をする法師がひとり。へ~~~、まるで今の世に普通に見かけるような光景だ。時代が変わっても、人情はちゃあんと繋がっているのね~。むしろテレビやゲームがない時代、ほんの少し前まで当たり前だった年代を超えたご近所付き合いの、羨ましいような姿がここにはあります。

もっとも、ウサギと蛙が大活躍する甲巻では、今回は有名な相撲の場面は展示されておらず、展示された前半部分のクライマックスとしては わずかに弓競べのシーンだけでした。だからこそ甲巻以外の巻に目が行ったのかもしれません。甲巻の魅力の真髄は展示後期に期待。もっとも相撲の場面ではウサギは蛙に負けてるんですけどもね。。でも、今回はそれだからこそ、「鳥獣戯画」の中で「製作された時代が遅れているはず」「技巧としては甲巻よりは拙く」などと言われて甲巻の蔭に隠れてしまっている感がある乙・丙の各巻の魅力が存分に引き出されていると思います。

でね、ぬえが今回の展覧会についてもっとも誉めたいのは、会場がすいていたこと!平日の午後という ぬえが足を運んだ時間も幸運だったのかもしれませんが、展示物をじっくり見ることができました。主催者には申し訳ないですが、国文学科出身の ぬえとしましては、古文書類の展示ではどうしてもその読解に走ってしまうので、押すな押すなの展覧会じゃ困るのです~~。過去にも、何気なく展示されていた古文書の、偶然に開かれていたページにあった記述から発見をしたことも数多くある ぬえとしましては、これは展覧会では重要なポイントなんです。

「鳥獣戯画」には詞書がないけれども、今回同じモチーフを持つということで展示された「雀の小藤太絵巻」(室町期)や「鼠草子絵巻」(桃山期)の詞書を読んで爆笑! なんせ前者は我が子がヘビに喰われた雀の小藤太が出家して諸国を行脚する、という物語で、とくに前半部分では様々な鳥たちが小藤太を弔問に訪れて和歌を交わす、という場面が描かれています。後者は清水の霊験で人間の妻を娶ったネズミの大名・権守のお話で、臣下ともども人間に化けた権守でしたが、ついに見破られて姫君は去り、失意の権守は出家して高野山にのぼるまでが描かれます。しかし出家した権守の法名が「子ん阿弥」、高野山にのぼる途次道連れになった僧はネコで、その名も「猫の坊」。。どちらの物語も登場人物はふんだんに和歌を詠み、それがまた とっても良くできた和歌だったりするので さらにおかしい。

なんだか ぬえは能の『大会』を見ている気持ちになってきました。この曲だって「鳥獣戯画」にひけは取らないユーモア精神で作られている能です。まじめくさった顔つきで威張っているばかりと落語などで思われている江戸期の武士だって楽しんで見ていたはずで、ちょっと今では想像がつきにくくなってしまったけれども、それでも ほんの百年前までは確実に日本人のユーモアのセンスは ずう~~っと、連綿と続いているんだなあ、と、なんだか あったかい気持ちになる展覧会でした。

展覧会「鳥獣戯画がやってきた!」

2007-11-09 01:13:06 | 日本文化
今日はサントリー美術館で催されている展覧会「鳥獣戯画がやってきた!」を見に行ってきました。

へえ?サントリー美術館って、赤坂見附にあったのに、いつの間に六本木に移転したので? しかし今回の「鳥獣戯画」展は同美術館の開館記念特別展ということでした。そうだったんですか~。で、はじめて行ってみた移転・新装オープンしたばかりのサントリー美術館は、六本木にこの春開業した「東京ミッドタウン」の3階と4階の一部のスペースにありました。う~ん。。狭い。。展示スペースは ごくごく控えめで、岡山の林原美術館の方がまだいくらか広いのではなかろうか。。東京の過密状態じゃ仕方がないのかなあ。

それでも今回の「鳥獣戯画」展は じつに見応えのあるものでした。

え~じつは ぬえは「鳥獣戯画」の本物を見るのは今回が初めてでして(恥)。。たとえば「平家納経」であれば、2~3巻はしばしば展覧会で公開されたりする事もあって、ぬえもこちらならば2度かそこいらは拝見した覚えがあります。大正時代に作られた あの美麗で精緻なレプリカならばもっと多い回数で見たことがあるでしょう。でも、意外や「鳥獣戯画」が展覧会で公開されるのは、少なくとも東京では稀なことだったのではないかと思います。ぬえも「鳥獣戯画」の公開には割と気を付けてチャンスを窺っていたつもりだったので。。

今回はなんと「鳥獣戯画」甲・乙・丙・丁の全巻が一堂に展示され、しかも前期/後期の展示替えで全容が公開されるという豪華さ。しかも各地に伝わる断簡や古模本を同時に展示することで、現「鳥獣戯画」が欠落や錯簡で本来の姿を大きく変えてしまっている事を知ったり、その欠落部分に何が描かれていたのかを想像する事ができます。併せて展示されている「鳥獣戯画」と同時代や前時代の「戯画」風の作品は、「鳥獣戯画」に結実する時代の息吹を感じさせますし、また「鳥獣戯画」の一場面が断片的に挿入される後世の作品を見るとき、この絵巻がいかに大きな影響を絵師たちに与えたかを感じさせます。謎の多いこの作品に向けられる研究者の視点が展示に色濃く投影されていますね~。しかし「鳥獣戯画」に関係するこれだけの資料を全国から。。いやいや、外国からも借り出して展示するのですから、さぞや学芸員さんたちも大変な努力だった事でしょう。

さて「鳥獣戯画」そのものについて。

この絵巻は長大なものなので、展示ケースの中では全巻をすべて広げる事ができず、そのため前後期の日程で「展示替え」が行われるのでしょう。と言っても「鳥獣戯画」四巻はそのまま展示され続けるわけですから、要するに絵巻を広げる部分を替えるわけです。今回 ぬえが拝見した範囲は各巻とも全体のちょうど前半分程度ですから、後期の展示に再度訪れれば後半部分が見れ、それらを通じて全容を見る事ができるだろう、と推測できます。ちなみに今回展示されている範囲は以下の通りでした。

甲巻 巻頭~ウサギと蛙の弓矢競技、そのあとの宴会の支度の場面まで
乙巻 巻頭(群馬)~鶏・鷲・隼まで
丙巻 巻頭(囲碁)~闘犬まで
丁巻 巻頭(曲芸)~木遣りまで

それにしてもすべての日本人に愛され続けてきた「鳥獣戯画」。有名な甲巻の各場面は、あらゆる場面であまりにも我々はしばしば目にしているのですね。。正直に言えば本物を初めて見た ぬえにも、そういった場合に起きるべき感動が。。今回はやや小さかったような。彩色画であれば、印刷では絶対に表現できないニュアンスというものがありますが、「鳥獣戯画」は白描ですから。。まあ、それでも筆使いの小さな表情はわかるし、900年の昔にこれを描いた絵師の気分が感じられて、こちらまで幸せな気分になれるのは間違いないところです。

むしろ ぬえが驚いたのは作品に施された修復の、そのあまりにも高度な技術。最初目にした時にはあまりに保存状態が良いので驚いたのですが、よ~~く見ると さにあらず。描かれた料紙はかなり薄いもので、筆の跡も微妙に薄れているところもあるのですが、巻頭や、あるいは天地の部分などには墨が薄れたのではなく、あちこちに破損があるのです。ところがこれに厚い紙で裏打ちして補強してあって、その修理の跡、つまり新旧の料紙の境目は、目を凝らして見ないとわからないほど。これはすごい技術だ。

巡りめぐりて輪廻を離れぬ~悩む『山姥』(その3)

2007-11-08 03:26:15 | 能楽
『山姥』のツレはこれほど重要な、いわばシテの相手役で、これは本来おワキが勤める性格の役であろうと思いますが、この曲でそうなっていないのは、ワキ方が女性の役を勤めない約束事があるからに他ならないでしょう。世阿弥時代にそういう約束事がすでに成立していたものか、ぬえは不勉強にして知りませんが、ワキのほかに わざわざシテ方からツレを出してシテの相手役とする理由が他にあったのかどうか。。

ところが面白いもので、「次第」の囃子の演奏が始まって幕に掛かったツレ、ワキ、ワキツレの一行の中で、幕後見に「お幕」と声を掛けて幕を上げさせるのは、ツレではなくておワキの役目なのです。ツレは一行の先頭に立っていながら、幕をあげていざ舞台に登場するキッカケは、その後ろに立つおワキの役目です。これは『山姥』に限ったことではなくて、『芦刈』でも『大原御幸』でも、ツレの方がワキよりも役として身分が上であっても、能の世界の中ではあくまでもツレは助演者であって、シテと対等する立場はおワキに与えられているのですね。

幕を上げて橋掛りを歩む一行は、やがて舞台に入ります。ツレは脇座のそばで正面を向いて止まりますが、ワキだけは脇座のそばで舞台の先まで出てから後ろを向いて、少し下がってツレの立ち位置と並んでから、それから一同は定型の通り向かい合って「次第」を謡います。「次第」は五・七、五・七、七・五の三句で構成され(末句は字数が定型から外れることもしばしばある)、最初の二句は同じ文句の繰り返しとなっている特徴があります。

ワキ/ワキツレ「善き光ぞと影頼む、善き光ぞと影頼む、仏の御寺尋ねん。

この後、「次第」の特徴として、地謡が今謡われた同じ文句を五・七(初句)、七・五(末句)の二句だけ、低い声で繰り返して謡います。なぜこの「地取」と呼ばれる演出があるのか、理由はハッキリ解明されてはいないのですが、ぬえは「次第」にだけあるこの演出が、「次第」と同じく役者の登場音楽として多用される「一声」よりも儀式性を高める効果がある事に着目しています。「一声」がノリのある囃子に乗って役者が登場し、ところが登場した役者は拍子に合わせずに謡う。一方「次第」は囃子は拍子を外して打つのに、それを聞きながら登場した役者は、今度は拍子に合わせて謡いはじめ、あまつさえ地謡も「地取」を低吟してこれに唱和する。。「一声」のフランクさとは対照的に「次第」には何か厳粛ささえ感じられます。

文化史的・宗教的な観点から「一声」と「次第」については分析される事も必要なのかも知れませんが、ぬえはもっと単純に、舞台効果の面から わざと対照的に、すなわち二つの登場音楽は同時期に整備されたのではないかと思っています。もっとも「次第」は曲舞の演技の開始に際して常套に用いられた演出らしく、『山姥』にはそれが最も顕著に残されていますから、登場音楽としての「次第」は、ある種儀式的な舞台効果をもたらす曲舞の「次第」を、登場音楽に流用したのかもしれません。それにしても、その場面には何ら関係のない地謡が役者の発した文句を復唱する「地取」は、演出としてはかなり奇抜で、それでいて神秘的。これが曲舞が発明したものだとしても、ぬえはそのルーツは声明あたりからヒントを得て、荘重な儀式性を舞台に持ち込む事が狙いの演出だったのではないかと思っています。

「地取」の間に役者一同は正面に向いて、それよりワキは「名宣リ」を謡います。

ワキ「これは都方に住まひする者にて候、これに渡り候御方は、都に隠れもましまさぬ、百萬山姥と申す遊君にて御座候、山姥の山廻りするといふ事を、曲舞に作り御謡ひ候により、京童の付け申したる異名にて候、また当年は御親の、十三年に当たらせ給ひて候程に、善光寺へ御詣りありたき由仰せ候間、我ら伴ひ申し、ただ今信濃の国へと急ぎ候