ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第24次支援活動<七ヶ浜町・多賀城市・気仙沼市>(その1)

2014-11-28 14:35:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
去る10月30日~11月2日にかけて、「能楽の心と癒やしプロジェクト」は24回目になる東日本大震災被災地支援活動を行ってきました。

今回は活動をはじめて早くも3年半になろうとしている中、はじめて宮城県・七ヶ浜町と多賀城市という2か所の地域を訪れることができました。そして気仙沼では仮設商店街「鹿折復幸マルシェ」が土地のかさ上げのため移転することになり、新しく「鹿折復幸マート」として開業しました。オープンには間に合わなかったものの、それに近い時期に訪問することが出来てよかったと思います。ただし笛の寺井さんはどうしても都合がつかず、寺井さんの弟子である熊本俊太郎さんをお迎えしての上演となりました。

準備段階ではいろいろスケジュールの組み立てに手こずった感もありましたが、そして寺井さんにも熊本さんにも移動のご苦労をかけてしまいましたが、結果としてとても楽しく、意義深い活動となったと思います。

【10月30日(木)】

未明、ぬえのみ東京を出発。一人旅なので、もう冬季閉鎖が近づく蔵王の「お釜」を見に行くことにしました。

。。が、蔵王のエコーラインの入口まで到着してみると。。すでに凍結のため通行止めとの表示が。。

それでも行けるところまで、と思って進んでみました。そうしてたどり着いたのがここ。



「滝見台」というところなのですが、周囲よりかなり高い峯の上です。どこに滝が。。? と思った ぬえは車から降りて見てびっくり。滝はこの山にあるのではなく、遙か谷を隔てた向かいの山腹に落ちていたのでした! しかも方角を変えて二つの滝が見えます。こちらが「不動滝」。かなり遠く隔たってはいますが、その水量の多さが圧倒的であることは十分に伝わってきます。



こちらは滝見台から正面に、比較的近く見える「三階滝」。「不動滝」とは対称的に女性的でしなやかな滝でした。



後で調べてみればシーズンには観光客で混雑するらしいですが、このときは朝日が射すなか、ぬえひとりで堪能させて頂きました。静寂の中に遠くから風に運ばれてくる滝の水音。紅葉に染まった山々。。とおくには雪を頂いた雄大な稜線が。あれが蔵王連峰なのでしょうか。あれじゃ道路の凍結もしかたないな。。

大鳥居があるふもとまで戻って、一応夜が明ければ通行止めも解除されるかな? と期待して蔵王ロイヤルホテルのフロントで相談してみると、少し前に雪が降って、昨日も一日中通行止めだったそうで、今日もやはり解除されるかは微妙、とのこと。朝8:00まで待ってみましたが、通行止めは解除されなかったので、次の目的地の秋保に向かいました。





温泉で有名な秋保ですが、今回 ぬえが訪れたのは別の目的で、秋保神社の神主さまにご挨拶して、今後の活動について打合せをするためでした。



。。が秋保神社に人の影はなく。。

近くでゲートボールを楽しんでおられたお年寄りに伺うと、神主さまは「ツボヌマ八幡神社」の宮司さんが兼任しておられる、とのこと。ん~。。ツボヌマ。。??

そういえば気仙沼で宮司さまから頂いたお名刺にもしっかりと。。「坪沼八幡神社」と書いてありました。ありゃりゃ、とカーナビで検索すると、秋保からはずいぶん離れている模様。。

なので、坪沼に向かう前に、有名な秋保大滝を見に行きました。

ををっ、これこそ滝を間近に見下ろす迫力! ですが、下を見やるとはるかに滝壺の付近にも人影が見えます。どうもその近くまで道路が通じているらしい。





で、行ってきました! 駐車場からちょっとした山道を下って。。ををっ、断崖絶壁の中を直線的に落ちる巨大な滝。近くで見るとまた迫力です。観光客も大勢見えていました。



えー、それから もうちょっと足を伸ばして鳳鳴四十八滝も見てきました。もう観光ばっかやね。



こちら、この前日に紅葉の画像をネットで公開した方があったので わざわざ見に行ったのですが、実際には紅葉の盛りはもうちょっと先のようでした。やっぱり写真上手だとキレイに見えるわ。

こちら秋保の「磊々峡」。ああ、だから観光ばっか。。



さてさてようやく坪沼に行って八幡神社の宮司さまと打合せをしました。計画している秋保での上演のお話しはすぐには進まないようでしたが、それでも貴重な情報をたくさん頂戴することができました。





さて次。翌日の七ヶ浜町と多賀城市の仮設住宅での上演をコーディネートしてくださった梅津周子さんにお目に掛かるために仙台市宮城野区へ。梅津さんは村上緑さんのご紹介でこの翌日の仮設訪問をすべてコーディネートしてくださいましたが、多忙な方であいにく活動の日もご自身の活動があるためこちらの催しには欠席。その代わりにこの日単独で宮城に入った ぬえに仮設の場所を案内してくださいました。

というのも今回の活動では2か所の仮設住宅の都合もあってスケジュールが早朝から分刻みでして、移動経路の把握はとっても大事だったのです。

これも無事に済んで、今日の観光。。いやいや活動は終了。翌朝に到着する寺井さんと緑さんを待つだけになりました。

梅津さんと久しぶりの仙台港のフェリー乗り場へ。ここには ぬえは震災3ヶ月後に来て以来のことになります。あの時は、ここにいた時に大きな余震が来て、かなり怖かった思い出がありますが。。



今はなんとなく平和に、巨大なフェリーにトラックが次々に載せられていきました。

梅津さんとお別れしてホテルにチェックイン、翌朝は早朝から活動のうえ、最初の七ヶ浜町の仮設が、会場入りから上演開始までの時間が極端に短いので、到着してすぐに装束を着られるように、ホテルで装束に仕掛けを施しておりました。

壮大な童話…『舎利』(その9)

2014-11-26 02:19:18 | 能楽
先週、『舎利』の上演が終わりました!
何というか。。波瀾万丈の舞台でした。計算したところ、工夫したところは上手く行ったのですが、勢い余って一畳台から転げ落ちるハプニングも。。
こういう、いわゆる「失敗」という事は起こさない主義の ぬえなのですが、そして万が一そんな事が起きれば今ごろ頭をかかえて引き籠もっているはずなのですが。。
まあ、今回は勇み足というか、勢い余ってというか。。自分で笑ってしまいました。
幕に入って師匠にお礼を申しあげるのですが「あ、あの。。落っこっちゃいました。。」と申しあげたところ、師匠も「お前。。大丈夫かぁ?」と。。笑いをこらえながら。。

でも、あちこち、ちょっと荒削りな能になっちゃいましたね。細かいミスは多かったと思います。夏の『二人静』の正反対の出来になりました。
ぬえは飛んだり跳ねたり、切能が大好きですけれども、今回はアクロバティックな工夫をし過ぎてしまったかも、です。もう少し冷静に、思い切りよく出来るように。。つまり稽古が足りないのだと思います。
切能を面白く見せる以上、確実な成果がなくては話になりません。1週間経ったいま、そういう自戒を考えております。

さて、この秋の早い頃、ぬえは京都に行く機会がありまして、それならば、と能『舎利』の舞台になった泉涌寺を訪れてみました。今回はその画像がメインのご報告です。

トップ画像が例の「舎利殿」で、泉涌寺では塔ではないのですね。「天井を蹴破り」まさにそういう描写が似合う(と言ってはお寺に失礼か)伽藍でした。残念ながら内部は通常は非公開でしたが、同門の先輩は拝観して、仏舎利と、その横におわします韋駄天もご覧になった事があるののだそうです。



で、舎利と韋駄天の像の実際はこんな感じ(拝観した際に購入した絵葉書を転載させて頂きました)。





韋駄天、優しいお顔なんですね。能とはちょっと雰囲気が違うな。

この「み寺」にはもう一つ大切な宝物があって、それが「楊貴妃観音」です(絵葉書より転載)。



これは舎利とともに宋から伝来した十六羅漢のうちの一体で、その表情の美しさから現在「楊貴妃観音」と呼ばれていますが、能『舎利』の中でワキが「大唐より渡されたる十六羅漢。又仏舎利をも拝み申さばやと存じ候。」と言っているように舎利と同等に往古より拝された著名な仏像であるようです。

さて。。最後に『舎利』についてとっておきのお話しをひとつ。。

じつは京都東山・泉涌寺蔵の仏舎利について、奇妙なお話しがあるのです。

それは『園太暦』(えんたいりゃく)という南北朝期の公家の日記で、そこに泉涌寺の仏舎利ほか寺宝が盗難に遭った事件があり、不思議な展開によってそれらが寺に返された、というもの。

この記事を知ったのは『観世』誌 昭和57年12月号に載る『「舎利」をめぐって』という座談会の記事の中で神戸大学の熱田公教授が紹介されたのを見たからで、ちょっと図書館で調べてみました。

『園太暦』は「続群書類従完成会」によって翻刻されていましたが、ぬえが行った国立能楽堂の図書室には『園太暦』はあったものの、『観世』誌に紹介された記事が載っているはずの「巻六」は蔵書がなく。。 仕方なくオンラインで調べてみたところ、国文学研究資料館が高知県立大学蔵の写本『園太暦抄』の影印本を公開しているのを発見しました。

かなり大変でしたが記事を探した結果、当該の記事は『観世』誌で紹介された「延文四年二月」ではなく同年(1356)三月十二日の条でした。

目次に「三月十二日 泉涌寺ノ舎利盗人之ヲ取ル 重テ出現ノ事」とあるのがその記事で、この目次と併せて ぬえがヘタな読み下し文でご紹介すると。。

三月小
十二日 天ノ傳聞 今日臨時ノ舎利會ヲ修ス。是件ノ御舎利 去月紛失シ、今月一日出現ス 之ニ依テ臨時ヲ修スト云々。
今月泉涌寺舎利會ノ事當寺ノ佛舎利ハ名声世ニ被リ利益他ニ異ル。而シテ今年二月盗人ノ為ニ紛失ス。廿七日付見之寺事破損之重代財宝及佛舎利多ク以テ紛失ス)今月一日不慮ニ出来リ給フ。(其子細ハ一日丑ノ刻カ)後ノ山立桂松其ノ外炬火(注=きょか=松明のこと)多クシテ高声ヲ以テ御舎利ノ事尋ネ出ス事有リト。衆僧早ク是ヲ請取ル可キ旨之ヲ示ス。僧衆恐怖ヲ成スと雖モ少之遂ヲ以テ山中ニ向フ。件ノ御舎利松樹ノ上ニ奉案シ其辺立明自余ノ財宝同ク其辺ニ積置リ。十六羅漢、種々ノ唐繪、珠幡己下(=以下)寺家ノ重宝車二両許リニ積ム程之ヲ運置シ、一部ノ物ヲ着タル小袴ノ男一人出来タリ、此ノ御舎利己下尋ネ出シ奉ル事有リ。依テ返シ渡ス所也。此ノ内少々定テ不具ノ事有ルカ。其ノ條強テ尋ネ沙汰スルニ及ブ可ラズ。若シ糾明ヲ致サバ寺家ノ為損容有ル可キカ云々。僧衆殊テ其ノ旨ヲ存ス可シ。曾テ(=かつて)沙汰ニ及ブ可カラザル之由返答ス。此ノ間山中ニ弓箭兵杖ヲ棒ル曾(勇カと注記あり)士宛モ僧衆旁傷ニ備ル心ス。然ルヲ而無為ニ請取ル事ハ家ノ大慶 衆僧高逆左右ニ能ハズ。此事寺辺謳歌ス。件ノ強盗、近辺悪徒ノ所為勿論カ。而ヲ件ノ盗人張本二人不慮ニ欠当(=決闘)損フ。今恐怖之度(ところ)八歳ノ小女ニ御舎利依託シ早寺家ニ返ス可シ。之ヲ然リトセズンバ急損己ニ後悔ス可キカ之由之ヲ言間、此ノ事ニ依テ返シ渡シ奉ル所故ニ出来カ。末代ト雖モ不可説ノ奇特ナル者乎。寺家此ノ事ニ感徹シ臨時ノ舎利會ヲ行フ。(或舎利會ハ毎年九月也)其儀早旦件ノ御舎利ヲ以テ禮ノ間ニ出シ奉リ、此ノ処ニ於テ衆儀梵讃、錫杖己下種々此用舞楽人参向 音楽ヲ奏シ、御舎利ヲ渡シ奉リ法塔ニ於テ衆僧囲繞、舞人壱ニ婁絶其曲、法塔ニ於テ相従シ奉リ、舎利講ヲ修ス。寺僧覚曾、導師ノ為式之次ニ頗敬白之子細有云々。先ズ依テ奇代之事ノ為ニ傳聞ヲ以テ之ヲ勤ム。

すいません、一部読み下すことができない部分はそのままに掲出しました。

。。それにしても、とても興味深い内容です。
現代語訳を付してもよいのですが、前掲『「舎利」をめぐって』で熱田教授が解説しておられる表現が秀逸なので、そちらをご紹介させて頂きましょう。

これは延文四年(1359)といいますから、世阿弥が生まれます四、五年前ですね。泉涌寺の舎利が盗まれるという事件がございました。この舎利とか、十六羅漢などの宝物が、すっかり寺の倉庫から盗まれたのです。舎利はもちろん最も大切な寺の宝物ですから、それが盗まれたということで、大騒ぎをしていたところ、数日後の夜中に、泉涌寺の裏山で、「舎利が見付かったぞ」という大きい声がするわけです。そこで寺の僧が見に行くと、舎利は松の木の上にちゃんと安置してあり、十六羅漢や、その他の盗まれた宝物は、二両の車に積んで置いてある。そこへ一人の男が現れ、「少し足らないかもしれないけどお返しする。これ以上あんまり追求するとためにならんぞ」というような啖呵を切って引き上げたというのです。あとで判ったことですが、盗んだのは近所の者らしく、この張本人二人が喧嘩を始め、二人共死んでしまうということがおこったのです。他の残った者が、どうしたらいいかとおののいていると、舎利が八才の少女に乗り移り、早く寺に返さなければ一味全部が死んでしまうと言うわけです。いわば託宣ですね。そういうことがあって、それで返す、その方法として、夜中に裏山へ、ということらしいのです。

『太平記』に記された、釈迦入滅時に足疾鬼が牙舎利を奪って逃げ、それを韋駄天が取り返した、という。。これは日本で生まれた物語であり、それとは系譜を別にしながら、牙舎利を伝えるという泉涌寺に起きた盗難事件と不思議な奇譚が存在するのですね。そしてさらにそういう不思議な話を統合した印象を持って能『舎利』がお客さまを楽しませる舞台として編まれる。そうでありながら能『舎利』には「信仰の深さ」という厳然としたテーマがあります。ただのショーとさせないぞ、という作者の意気込みが伝わってくるかのよう。

なんだか今回はまとまりがありませんが、そういう長い歴史の中で培われ、育て上げられた「壮大な童話」を、ちゃんと信仰を土台に敷いて能『舎利』を作り上げた名もなき先人に、ぬえは敬意を表したい、と そんな気持ちで舞台を終えました。なんだか気持ちがハッピーになる、そんな能なのではないかと思います。

【この項 了】

壮大な童話…『舎利』(その8)

2014-11-19 02:17:01 | 能楽
すぐに舞働。型は『土蜘蛛』とほとんど同じですかね。舞台で一度シテとツレが打ち合って橋掛リに行き、ここでも打ち合って、さらに橋掛リでクルクルと追いかけて二人舞台に戻って終わり。

『大会』にも似た型ですが、面白いのは『舎利』と『大会』はどちらもシテがツレに打擲される役で、この舞働の中でも2度、戦いの中でシテはツレに打たれます。ぬえの師家ではそういう場面ではシテは膝を屈して袖を頭に返しますね。これは師家の型の特徴なのかもしれません。

二人舞台に戻って向き合ってヒラキ、地謡が謡い出してさらに追いつ追われつの展開となります。

地謡「欲界色界無色界。 と三つ拍子踏み化天耶摩天他化自在天。三十三天攀ぢ上りて。 とシテは一畳台の上を通って大小前に行き、ツレはそれを追い行き帝釈天まで追ひあぐれば。 とシテは一畳台に飛び乗り、ツレも後より一畳台に飛び乗り梵王天より出であひ給ひて。もとの下界に。追つ下す。 とツレはシテを打ち、シテは台より脇座の方へ飛び下り右袖を頭に返して下居

これより急に囃子の位が静まって「イロエ」となります。また出てきた「イロエ」!

この「イロエ」は先に問題となった「出端」の替エとは違って純然たる所作事で、そしてまた他のどの能にも類例のない『舎利』独特の型でもあります。言い直せば、このように戯曲上ある場面をクローズアップするとき(能にはいろんな形はありますが、よく使われる手法ではあります)、地謡に拠らず囃子でその場面の雰囲気を伝えようとする場合、これは曲により内容が千差万別になるわけで、それが舞にならず短時間の所作事であれば、これを些末な分類にせず「イロエ」とひと括りにしているのかも。

『舎利』の場合、型としてはシテは脇座より立ち上がり静かに左に廻り(師家の本来の型では後ろに下がり:以下同断)大小前より脇座へ出る(再び正に向いて脇座の方へ出る)というもので、ツレも台より静かに下りて右に廻り、太鼓座前より脇正へ出る。。というもの。

上演場面としては急に役者の動きと囃子がゆっくりになるところで、解釈の仕方はいくつかあると思います。この直前にシテが袖を頭に返しているので、これは姿を隠したと考えられ、シテとツレが互いに相手の姿を見失ってその所在を探っている、というもの。ところが ぬえの先輩は、高速で戦っている場面をスローモーションで見せているのではないか、という意見でした。

どちらも成立する解釈です。そうして、この「イロエ」があるために、演出上はただ飛んだり跳ねたりする戦いの場面にひとつの転換をもたらし、それは能として大変効果があります。

シテとツレがそれぞれ脇座と脇正に行きかかるとき、再び囃子は急調になって地謡が「もとの下界に。追つ下す」と謡います。この謡い方が難しいところで、太鼓観世流ではイロエの終わりに「半打込」という短い終止の手を打って、それを聞いて地謡が謡い出すのですが、太鼓金春流では終止の手を打ち始めたところに いきなり地謡が「もとの下界に」と謡い込みます。

。。このところ、じつは観世流太鼓も本来は金春流と同じ「謡い込み」なのですが、同流の手付けには「今ハセズ」と注記があります。そして今回 稽古能を通じて囃子方に確認したところ、前述の「今ハセズ」にもかかわらず、近来は観世流でも「謡い込み」の方が実演上は多い、とのことで、それでは、というので ぬえも今回は「謡い込み」にして頂くことにしました。

地謡「もとの下界に。追つ下す。 とツレはシテを打ち、シテは安座
シテ「左へ行くも。 とシテは立ち上がり
地謡「右へ行くも。前後も天地も塞がりて。 とシテは正へヒラキすぐに台に乗り疾鬼は虚空にくるくるくると。 と左にいくつも廻り渦巻い廻るを。韋駄天立ち寄り宝棒にて。 とツレも台に上がり疾鬼を大地に打ち伏せて。 とシテは台より前へ下り台に腰掛け首を踏まへて牙舎利はいかに。出せや出せと責められて。 とツレはシテを打ち泣く泣く舎利を指し上ぐれば。 とシテは舎利を両手で右肩の上に上げ韋駄天舎利を取り給へば。 とツレは舎利を両手に持ち台より下り幕へ走り込みさばかり今までは。 とシテは台に後ろ向きに飛び上がり安座、すぐに立ちより後ろ向きに飛び下り足早き鬼の。いつしか今は。 と角へ出左にソリ返リ、幕の方へ向きグワッシ二つ仕足弱車の力も尽き。 と三之松へ行き右へ飛び返り左袖を頭に返し心も茫々と起き上りてこそ。失せにけれ。 と立ち上がり左袖を返して留拍子、幕へ引く

最後はシテとツレの戦いのクライマックスです。シテは前後も天地も塞がって往生し、空中で錐もみの旋回をしますが、韋駄天はそれを止めてシテを打ち伏せ、さらに打擲して舎利を返すように要求し、ここにいたりシテはついに観念して舎利を出してツレに渡し、ツレは喜んで舎利を捧げて幕に走り込みます。失意のシテとしては少々派手な型がついていますが、シテは角でソリ返り、さらに舞台でグワッシ、それより橋掛リに走り行き幕際にて飛び返り、あと立ち上がって袖を返して留拍子を踏んでトメ。

いや、なんとも童話的なファンタジーにあふれた能だと思います。『大会』のときにも思ったけれど、先人のユーモアに微笑せざるを得ませんね。

がしかし、今回この能を勤めさせて頂くについて台本をよく読むと、この曲が決してショーとしての面白みばかりを追求して作られた能とは言い切れないと思います。

前シテの長大で難解なクセの詞章。。それは仏法の礼賛であって、しかも末法の世に至って天竺ではすでに仏法は廃れ、仏法東漸によって、見仏聞法の利益が遠く離れたこの日本で実現できるという奇跡。

。。この能は童話のような楽しさがありますけれど、それは悪鬼であるシテ・足疾鬼もやはり仏法を礼賛する信者である、という善心の存在が、舎利の強奪という重苦しい話題を根底から明るく照らしているのです。

前シテも後シテも行う一畳台の上での旋回、前シテが舎利塔を奪ったあとに舎利台を踏み潰すこと、そうして後場が人間界を離れた天上界での空中戦という壮大な発想。

どれを見ても他の能にはない作者独自のアイデアにあふれた能だと思います。

今回は ぬえも作者のアイデアに敬意を表して、より面白い演出を加えてみました。
もう明日が公演当日なのですが、こういう楽しい能もあるのだという事を ぬえは広く知って頂きたいと思っております。

壮大な童話…『舎利』(その7)

2014-11-18 01:46:11 | 能楽
『舎利』に「出端」は重複しないのに、なぜこの曲では「出端」ではなく「イロエ」で後シテが登場するのでしょう。ぬえはそれは、『舎利』という曲が、後シテが積極的に登場しない、おそらく唯一の能だからではないかと考えています。

能の後シテは、多くの場合 執心のために浮かばれない魂をワキ僧に救済して欲しい、とか、帰らない昔の思い出に囚われたまま永遠にその思い出の中を彷徨っているとか。。はたまた神が人を救済しようと影向するとか、人に害を加えようと怪物が登場するとか、ともかく目標と対象を持って、何事かを「為す」ために登場して来ます。

ところが『舎利』のシテ・足疾鬼は、言うなれば前半。。前シテで自分の目的である仏舎利を強奪する事に成功しているのですよね。ですから後シテのこの登場は、人間の化身姿から鬼の姿に戻って、悠々と空中を引き揚げて行く様子なのです。彼がこれから何かをしようとするのではなく、彼の身にこれから何事かが起きる、そういう 戯曲上では中途半端な場面なのだと思います。

『舎利』の「イロエ」はそういう場面の感じを表現するために選ばれたわけですが、前述のようにこの「イロエ」は「出端」とほとんど替わらない楽曲です。こういう場面を修飾するのであれば、後シテの登場にはちょっと躍動的で積極性も感じられる「出端」よりももう少し静かな、抑揚のない平板な感じの音楽でもよさそうなものですが、また一方、どこまで行っても後シテは鬼神なのですよね。

鬼としてのシテの登場という、やはり物々しい威風の感じも欲しい場面で、そこで登場音楽としてはこの曲のために新たに作曲はされなかったけれど、事実上は「出端」を用いていながら笛が「イロエ」を吹くことで「出端」の積極性を抑制している、そういうように ぬえは考えています。

実際、師家の『舎利』の型付ではここはシテは「幕ヲ上 ソロソロト出ル」と書かれていました。些末になりますが「出端」で登場する場合の約束事である、シテが幕内で「右ウケ」する型もありません。どこかの解説書で、この後シテはゆっくりと登場するけれども、本当は疾風怒濤の勢いで天空を翔るのだ、というような説明を見ましたが、ぬえはそうではなく悠々と、散歩をするように空中を歩んでいるのだと思っています。

なお、今回 ぬえの『舎利』でお相手を願う笛方・森田流の寺井家では独自の伝承を保っていて、ほかの笛方の各流儀・家で「イロエ」を吹くところ、寺井家では『舎利』は「出端の替エ」と捉え、掛リと呼ばれる冒頭部だけ常の「出端」とは異なる「替エノ譜」を吹き、幕揚げの段は常の「出端」の通りとなるそうです。これまた解釈の違いで面白いことですね。

シテの扮装はシカミの面に赤頭、厚板の着付の上に法被・半切という、鬼神の典型の装束ですが、左手にさきほど奪った舎利を抱えています。もっとも前シテが奪うのは舎利塔で、後シテではそのうち塔の部分と宝珠に付けられていた火焔をはずした舎利玉だけを持っています。

さて「イロエ」で登場した後シテは「ソロソロ」と橋掛リを歩み、舞台に入ると段々と右へ廻ります。どうやら空中を進む彼の後ろから何者かが近づく気配。。 その刹那、囃子は突然 急速になって、「早笛」へと演奏を転じます。

「早笛」は極急調な躍動感にあふれた登場音楽で、龍神とか、そのほか勢いのある鬼神の役に多用されます。わくわくするような躍動感を感じさせる登場音楽としては随一の効果がある囃子でしょう。

シテはこれを聞いて(まあ戯曲的には遠くに自分を追い来る者の姿を認めて、ということでしょう)、急いで脇座の方へ走り行き、一畳台の角をぴょんと跳び越えて脇座のあたりに下居、右袖を被きます。

ここで一畳台について説明しなければなりません。前シテの場面ではこの一畳台の上に舎利台を置き、さらにそのうえに舎利塔が載っているので、一畳台は言うなれば舎利殿の中にある「須弥壇」と考えることが出来ます。ところが前シテが舎利塔を奪い去って幕の中に走り入ると、後見は踏み潰された台は引くけれども、一畳台はそのまま舞台に残しておきます。

後シテが登場する場面は天空なので、一畳台は要らないはず。。しかし実際の舞台では、この一畳台に乗ったり下りたり、シテとツレは組んず外れず、台を効果的に使って闘争のさまを見せます。要するに演技が印象的に見えるから一畳台は残されているのでしょうが、ぬえはこの一畳台を空に浮かぶ一片の雲だと考えています。

ですからこの部分も、シテは後から追いかけてくる韋駄天のスピードを見て、これでは逃げても追いつかれると観念し、雲の影に隠れたと ぬえは解釈しています。袖を頭に被くのも能では姿を隠した、という意味の定型の型です。

「早笛」に乗って後ツレ・韋駄天が登場しますが、この「早笛」、観世流の太鼓では「ハシリ」と言って、常より早く役者が登場するためのキッカケの手を打ちます。これは常よりも早く幕揚げをすることで、より急迫した登場をする意味が込められていて、能『安達原』『昭君』のほか『大会』やこの『舎利』など天神の面を掛けるツレの役に用いられます。

常座に立った後ツレ・韋駄天が謡い出し、シテも姿を見つけ出されてこれに応じます。

ツレ「そもそもこれは。この寺を守護し奉る韋駄天とは我が事なり。 とヒラキこゝに足疾鬼といへる外道。在世の昔の執心残つて。またこの舎利を取つて行く。いづくまでかは遁すべき。 とシテへ向きその牙舎利置いて行け。 とヒラキ
後シテ「いや適ふまじとよこの仏舎利は。 と立ち上がりながら袖を払い、ツレへ向き誰も望みの。あるものを。 と両者ヒラキ
地謡「欲界色界無色界。 と数拍子踏み

これより二人の闘争場面になります。

考えてみればこの後シテの場面、舞台となっているのは天空です。
言うなれば2機の戦闘機が空中戦を行っているのが後の場面で、こういう場面設定もほかの能には見られないものだと思います。

壮大な童話…『舎利』(その6)

2014-11-16 22:14:36 | 能楽
前シテが地謡のうちに幕のうちに走り込むと、橋掛リ一之松の裏欄干。。狂言座に控えていた間狂言が大声を出して橋掛リを転げ廻ります。

『道成寺』の間狂言と同じ演出で、前シテが舎利殿の天井を蹴破って逃げ去ったその轟音を、雷が落ちたと思って大騒ぎになるのですが、『舎利』のようなスペクタクルの能にはまことに良く似合った演出だと思います。

狂言方・大蔵流の詞章の例をここで掲出しておくと。。

ああ、桑原々々。桑原々々。さてもさても鳴ったり鳴ったり。したたかな鳴り様であった。今のは神鳴か、または地震か知らん。何にもせよ、胸がだくめいてならぬ。(舞台へ入りながら)まづ御舎利へ参り、心を鎮めて胸のだくめきを直さう。(舎利台を見て)南無三宝。お舎利がお見えない。(名乗座へ帰り)さてさて合点の行かぬ事ぢゃ。何者が取って失せた事ぢゃ知らん。おお、それそれ。最前往来のお僧にお舎利を拝ませ申したが、定めて彼奴が取って失せたものであらう。まだ遠くは参るまひ。急いで追掛けう。(正面へ走り進みワキを見て)いや、是に居らるる。いやなうなう。お僧はお舎利を何と召されたるぞ。(脇「愚僧は存ぜず候」)いやいや左様にはおりゃるまひ。それ故最前申すは、当寺のお舎利は聊爾には拝ませ申さね共、お僧の事にて候間、某が心得を以て拝ませ申したる上は。お僧が知らひで誰が知らふぞ。さては妄語ばしおしゃるか。(脇「いやいや妄語などは申さず候。それに就き不思議なる事の候間、近う御入り候へ」)心得申し候。(真中に座し)さて思ひ合する事と仰せ候は。如何様なる事にて候ぞ。(脇「御舎利を拝し申し候所に。いずくともなく童子一人来られ。御舎利を取り天井を蹴破り。虚空に上ると見て姿を見失ひて候。なんぼう不思議なる事にては候はぬか」)(一畳台の上を見る)や、誠に天井がくわっと破れてある。さては最前おびたたしう鳴ったは、これを破った時の音であらう。左様の事とも存ぜず、咎もなきお僧を疑ひ申して候。真平御免あらうずるにて候。これに付き思ひ合はする事の候。語って聞かせ申さうずるにて候。(正面へ直り)さても、釈尊入滅の刻、足疾鬼と申す鬼神。ひそかに双林の元に立寄り、御歯をひとつ引掻いて取る。仏弟子達、驚き騒ぎ、止めんとしたまへ共、片時の間に四万由旬を飛び越へ、須弥の半ば、四王天まで逃げ登り候を、韋駄天追掛け、取り返し給ひ、大唐の道宣律師に御渡し被成候が、その後我が朝へ御渡りあって、則ち当寺の宝と成り給ひて候。(ワキに向かい)さては我等の推量には。古しへの疾鬼が執心、仮に人間と顕れ、仏舎利を取って逃げたると存知候。さて是は何と仕り候ぞ。(脇「昔も今も仏力神力に変る事は有るまじく候間。此の度は韋駄天に祈誓あれかしと存じ候」)実々昔も今も、仏力神力の替る事有るまじく候間、韋駄天へ祈誓申し、再びお舎利を取り返し申さうずる間、御僧も力を添へて賜り候へ。(脇「心得申候」)(一畳台の前へ行き片ヒザ数珠取り出し手に掛けて)実々昔も今も仏力神力の替る事夢々あるべからず。一心頂来万徳円満釈迦如来。信心舎利を韋駄天取り返し給ひ。再び当寺の宝と成し給へ南無韋駄天、南無韋駄天(南無韋駄天にて数珠する。終りて数珠懐中に入れ板付に座す。能済み脇に付き入る)

この韋駄天に祈る間狂言の言葉に付けて太鼓が打ち出し後シテの登場音楽たる「イロエ」となります。

一体、「イロエ」という言葉は能楽の囃子事としては大変曖昧な用語ですね。ひとつの規範というものがなく、どちらかというと他の用語で律しきれない囃子事は多くの場合「イロエ」という呼び方にされている印象さえあります。

現に能『舎利』ではもう1か所「イロエ」があるのですが、それはこの後シテの登場場面で奏される「イロエ」とはまったく異なるものです。

「イロエ」とはシテの所作を修飾する、という意味の「彩色」を語源としているという説が有力ですが、前述のように一定の規範というものがありません。…そうは言っても、一方では同じやり方で演じる一群の「イロエ」、というものもあるので話は複雑です。

その一定の同じやり方で演じられる「イロエ」とは大小鼓がノッて地を打ち行き、そこに笛がアシライを吹く、というもので、この間シテは静かに角へ行き、正へは直さずに左へ廻り、正中で一度正面を向くのをキッカケに大小鼓は打上の手を打ち、シテはその間にもうひとつ左へ小さく廻って大小前で左右します。戯曲上の意味というものはほとんどないのですが、強いて言えばシテの不安な揺れ動く気持ちを表現していたり、人間ではないシテの神秘性を高める、という程度の効果があるでしょうか。必ず女性のシテが舞うのもこの定式の「イロエ」の特徴で、『船弁慶』の前シテ、『桜川』『百萬』『花筐』などの狂女能のシテ、また『楊貴妃』『杜若』など本三番目能のシテが舞います。

この定式のイロエ以外の「イロエ」は、これは千差万別と言える違いがあって、とても「イロエ」という一語で表すのは不可能ですね。『熊野』の「短尺ノ段」と呼ばれる部分、『杜若』『養老』に小書がついた場合に演じられる舞のあとの短い動作、『弱法師』は狂女能のイロエと基本的には同じものでしょう。

この「イロエ」に類する囃子事。。シテの動作の修飾的な囃子事には「立廻リ」というものがあります。これも曖昧な用語で、「イロエ」との区別もかなり不分明。一説には太鼓が入るものを「立廻リ」、大小物を「イロエ」と区別するのが本義、とも耳にしたことがありますが、『忠度』『歌占』『橋弁慶』『通小町』など大小物の「立廻リ」も数多くありますし、それらと太鼓物の「立廻リ」がある『阿漕』『山姥』『恋重荷』とを比べても、シテの所作に共通するような一定の法則はありません。

さて『舎利』の「イロエ」なのですが、これはまたこれまで述べてきたような所作事の一種としての「イロエ」とはまた一線を画す、登場音楽としての「イロエ」です。

そうしてこの登場の「イロエ」は、太鼓入りの能の後シテが登場する場面ではごくごく一般的な登場音楽である「出端」とほとんど同じものです。「出端」との おそらく唯一の違いは笛が「出端」の譜ではなく「イロエ」の譜を、休止なく吹き続けていることだけではないかと思います。

じつはまたこの登場の「イロエ」は『舎利』のほかにも奏される能があって、それは『道明寺』『白鬚』『東方朔』の3曲で、これはこれで一群と呼べるまとまりを示しています。

なぜ「出端」とほとんど替わりがないのに、わざわざ「イロエ」とするのか。それは『舎利』を除く前掲の3曲では「出端」が奏されていて、さらにそれとは別の役が登場する際に「イロエ」が奏されるのです。たとえば『道明寺』ではまずツレ天女が「出端」で登場し、そのあとに後シテ白大夫神が「イロエ」で登場し、『白鬚』では逆にまず後シテ白鬚明神が「出端」で現れ、ついでツレ天女が「イロエ」で登場。『東方朔』ではやはり後シテ東方朔が「出端」で登場し、通常は地謡が謡う中でツレ天女が登場しますが、替エとして「下リ端」または「イロエ」で登場する場合もある。。すなわちこれらの曲では同じ「出端」が2度演奏されるので、重複を避けるために一方の「出端」を「イロエ」に替えているのです。

ところが『舎利』には登場音楽としての「出端」はありません。なぜこの能では「出端」ではなく「イロエ」としているのか。

壮大な童話…『舎利』(その5)

2014-11-14 08:30:30 | 能楽
クセまでは舎利の功徳。。分けても仏法発祥の地たる天竺の聖地が荒廃して遺跡となっている現在。。すなわち末法の世を具現している現実にあって、信奉する者にとって目前に牙舎利が安置されている泉涌寺のありがたさを礼賛する内容で、そこにおいては見知らぬ者同士のワキ僧とシテ里人との心の交流が描かれています。

クセの文章をシテとワキのどちらが語っているか、を考えたとき、サシからクセの上端にかけて、長文を謡う地謡の中でところどころ謡う役がシテであることから、どうしてもシテがワキに説き聞かせる場面という印象を与えますが、実際には舎利を通じて二人が話し合ったこと。。末世に至り仏法が天竺で衰微したこと、しかし仏法東漸により教えや遺物などの宝物が唐土を経て日本に伝えられた奇跡、そしてこの泉涌寺で現実に釈迦の遺骨を拝している二人の幸運について交わされる会話と捉えるべきでしょう。

ところがクセも終わりに近づいたころ。。二人が会話を交わしている間に、二人を取り巻く周囲の様子が一変してきます。

ワキ「不思議やな俄かに晴れたる空かき曇り。堂前に輝く稲光。こはそもいかなる事やらん。
シテ「今は何をか包むべき。
 とワキへ向きその古への疾鬼が執心。猶この舎利に望みあり。 と舎利塔へ向き許し給へや御僧達。 とワキへ向き
ワキ「こはそも見れば不思議やな。面色変はり鬼となりて。
シテ「舎利殿に臨み昔の如く。
 と居立、作物をキッと見
ワキ「金棺を見せ。
 と立ち上がり
シテ「宝座をなして。
 とヒラキ

能『舎利』の前半のクライマックスの場面です。シテは自分が足疾鬼の執心と明かし、釈迦入滅のときにその牙舎利(=歯)を盗み取ったが取り返された恨みから、再びこの泉涌寺で本望を遂げようというのです。

「疾鬼が執心」と言っているので、足疾鬼はすでにこの世を去っているのですね。このあたり、前シテの登場時に「聞法値遇の結縁に。一劫をも浮ぶこの身ながら。二世安楽の心を得るに」と言っているのに呼応して、釈迦の説法を目前で聞いた聞法の功徳によって生涯の安楽は約束されたけれども、生まれ変わった後世は安楽が叶わず、執心だけがこの世に留まっている、というのです。

「金棺」は釈迦が葬られた棺で、「宝座」はその棺を安置した場所。「昔の如く」とシテが言っているので、釈迦入滅の場面が現世に絵巻物のように壮大に繰り広げられたと解することもできますが、ここはむしろ「(まざまざと思い出される)その当時のように」という意味だと思います。

地「栴檀沈瑞香。栴檀沈瑞香の。 と数拍子踏み上に立ち上る雲煙を立てて。 と角へ行き正へ直し稲妻の光に飛び紛れて。もとより足疾鬼とは。 と大小前にてヒラキ足早き鬼なれば。 と数拍子踏み舎利殿に飛び上りくるくるくると。 と一畳台に飛び上がり左へいくつも廻り見る人の目をくらめて。 とサシ廻その紛れに牙舎利を取つて。 と舎利塔を両手にて取り上げ天井を蹴破り。 と作物の台を踏み潰し虚空に飛んであがると見えしが行くへも知らず失せにけり。 と両手で舎利塔を捧げ持って幕へ走り込み行くへも知らず失せにけり。

こうして足疾鬼の執心は、まんまと舎利厨子を強奪することに成功しました。

この場面、シテが一畳台に飛び上がってその場でクルクルと廻ったり、作物の舎利塔を奪ってからその台を踏み潰すなど、およそ他の曲にはない型がふんだんに盛り込まれています。こういうところを見ると、先人のユーモアと想像力の高さに感服しますね。

こうした訳で、作物の舎利塔を載せる台は『舎利』の上演のたび毎に演者が自作するのです。

ただの箱なのですが、中身は踏み潰す型のために壊れやすく作ります。先輩の経験を参考にして、今回は天板と底板をベニヤのような集成材で、壁の部分をバルサ材で作りました。それも四方に壁を立てるのではなく左右二方だけにして、さらにバルサ材の壁にカッターナイフで切り込みを入れて。。

これで簡単に踏み壊せますし、その割には木材が割れる音も大仰に鳴るので、いかにも踏み壊した感じに映ると思います。

ところでこの場面、理屈としては舎利を置く台を踏み潰したのではないのです。地謡が「その紛れに牙舎利を取つて。天井を蹴破り。虚空に飛んであがると見えしが行くへも知らず失せにけり。」と謡っていますので、じつは前シテは逆さまに飛び上がり、天井の板を踏み破って昇天したのです。

こういうところもあえてリアルに状況を再現しようと型を考えるのではなく、舎利台を踏み潰すことによって、それを天井に見立てることで表現するのは非凡な才能だと思います。

ふたつの影…『二人静』(その16)

2014-11-11 22:38:08 | 能楽
昨日、今月に ぬえが勤める能『舎利』のお稽古を師匠につけて頂いたその日、梅若玄祥師と ぬえの師匠・梅若万三郎師による舞囃子『二人静』が上演され、ぬえも拝見して参りました。

師匠の芸をあれこれ詮索することは出来ませんが。。なる。。

自分が7月に『二人静』の能のツレを勤めてから、師匠のお言葉(ふたつの影…『二人静』(その15) を参照ください)の意味をずっと考えていた ぬえでしたが、やはり師匠の目指された『二人静』は相舞のシンクロではなく、役者としての個性を重視する行き方であったように思います。

驚くべきは、通常の『二人静』の相舞は舞台を左右に分けて、シテとツレのそれぞれが舞台の左右半分ずつを使って舞うのですが、今回の上演では舞台を前後二つに分けて舞っておられました(!)

それが周到に計算された演出であったことは、シテとツレが向かい合う型があるところでは ちゃんとお二人が並んで立たれたことからも明白です。

以前もご紹介したように、お二人の先生はほとんど打合せというものなしにこの日の舞台を勤められたようですが、どうも仄聞したところでは申合の際も実際に舞台では舞わず、最終確認のような打合せをされただけだったとか。

一つには、二人の役者が前後に立つことには、相手の動きがより見えやすい、という利点があって、今回はそこを狙ったのも理由のひとつなのではありましょうが、立体的な『二人静』の上演となって、とても斬新に拝見し、その意味についてもまた考え込まされてしまいました。。

それにしても良く型が合っていました。そうして、無理に合わせようともしておられなかったですね。扇を拡げて右に外し、顔の前に立てる上扇のタイミングは、いつも見ている師匠のそれ そのものでありました。そこはお二人のそれぞれのタイミングなのですから合っているわけではない。。でも合っているのです。説明が難しいですが違和感がない不揃い、とでも言うべきでしょうか。

美しかったです。そして風格がありました。体型も芸風も、それぞれ対称的とさえ言えるほど異なった個性をお持ちの先生方だと思いますが、それぞれが完成している場合、これほど違和感がないものなのか。言うなれば取り憑かれた菜摘女と、それに取り憑く静との間には、明らかに個性の違いがあるはずで、そこを演じた舞台だったように感じます。

いや、もとより、舞囃子というものは役者の舞を表現するものであって、菜摘女も静も そこにはいない、と言うべきですね。いうなれば二人の演者の肉体や培ってきた芸の差を、あえて露呈することを前提に組み立てられた舞でありましたし、そういう計算はちゃんとなされているのはハッキリと見てとれました。

先に書いたように舞台を前後に割って舞われた相舞は、同じ舞を演者を並べて鑑賞する、という『二人静』の相舞の型をあえて変更したものです。ここに至って考えてみるに、並立しない、という演じ方は、無理なシンクロはあえてしない、という演者の意思表明だったのかもしれません。

やはりこの4ヶ月間 ぬえが考え続けてきたように、『一人静』という能を同時にひとつの舞台で上演する、というような意図が先生方にあったのだとは思いますが、実際にはそんな ぬえの想像力をさらに超えた工夫がありました。打合せはほとんどなさらなかったそうではありますが、そこには周到な計算もあった。ぬえには到底たどり着くことのできない境地、なんて精神論を持ち出して済ませてしまうことは簡単なのではありますが、むしろ深い舞台経験から生み出されたアイデアで組み立てられた、技術論をしっかりと根底に置いた舞台であったように思います。

たまたまこの7月に ぬえが『二人静』の能を勤め、同じ年に師匠が『二人静』の舞囃子を舞われました。偶然ではありますが、こんな幸運があるかしら。師匠の舞台の予定が ぬえの舞台より後だったために、そして師匠も ぬえがこの曲を勤める頃が、ちょうど師匠もそろそろご自分の舞台の構成の組み立てを始められた頃に重なったために、前述(ふたつの影…『二人静』(その15)でご紹介したような師匠の『二人静』についての取り組みの方法や抱負を知る機会が ぬえに訪れたのです。

もし今年 師匠がこの曲を勤められる機会がなければ、この曲について、師匠のこれほど深い取り組み方を知ることはなかったでしょうし、また もしも舞台を勤める順序が逆で師匠が先に舞囃子を勤められたら、その頃まだ ぬえは自分の舞台の組み立て方に追われている頃だったでしょう。そうであれば、これほどまで ぬえと異なる解釈がある事も知らず、真剣に師匠のお舞台を拝見することもなかったかも。。

幸運ではありましたが、また芸の奥深さを知って愕然とした。。そんな4ヶ月間でありました。。

壮大な童話…『舎利』(その4)

2014-11-11 09:48:56 | 能楽
初同の型は定型で、舞台を一巡する程度。続くクリ・サシ・クセは居グセで、舞台の中央に着座し、これまた定型でサシの終わり、上端の直前、そしてクセの終わりの3か所でワキと向き合います。

地謡(クリ)「それ仏法あれば世法あり。煩悩あれば菩提あり。仏あれば衆生もあり。善悪又不二なるべし。 と大小前より正へ向き舎利をキッと見てより正中に着座
シテ(サシ)「然るに後五百歳の仏法。既に末世の折を得て。
地謡「西天唐土日域に。時至つて久方の。月の都の山並に。仏法流布のしるしとて。仏骨を納め奉り。
シテ「げに目前の妙光の影。
地謡(クセ)「この御舎利に如くはなし。
 とワキへ向き、直し
地謡「然るに仏法東漸とて。三如来四菩薩も。皆日域に地を占めて。衆生を済度し給へり。常在霊山の秋の空。わづかに二月に臨んで魂を消し。泥洹双樹の苔の庭遺跡を聞いて腸を断つ。ありがたや仏舎利の。御寺ぞ在世なりける。げにや鷲の御山も。在世のみぎんにこそ草木も法の色を見せ。皆仏身を得たりしに。
 とワキへ向
シテ「今はさみしく冷ましき。
 と直し
地謡「月ばかりこそ昔なれ。孤山の松の間には。よそよそ白毫の秋の月を礼すとか。蒼海の波の上に。僅かに四諦の。暁の雲を引く空の。淋しささぞな鷲の御山。それは上見ぬ方ぞかし。こゝはまさに目前の。仏舎利を拝する御寺ぞ。貴とかりける。
 とワキへ向

能『舎利』のクセは、こういう見た目の面白さが際立つ切能としては ちょっと不釣り合いな重厚な内容ですね。すでにこのクセが文章の一部が声明の一種である「講式」から採られたことなど仏書との関係が深いことが指摘されています。

このクセを読んだとき、ぬえは能『舎利』の作者がこの曲に込めた意気込みと、この能のテーマがここにあることを感じました。ちょっとわかりにくい箇所もあるので試みに現代語訳してみますと。。

地謡(クリ)「そもそも仏法があれば世の中の法というものもある。同じように煩悩があっても菩提の境地があり、救う仏があれば救われる衆生もある。善悪というものは二つの物ではない。
シテ(サシ)「さて後五百年に至り仏法もまさに末世の時を迎えた。
地謡「天竺・唐・日本を経て、ついに時の機運が高まり、仏法流布のしるしとしていま都の山の中に仏の骨を納め申すことになった。
シテ「仏の貴い教えの光を目前に拝す物として
地謡「この舎利に優るものはない。
地謡(クセ)「仏法東漸と言われるように、釈迦・阿弥陀・薬師の如来も普賢・文殊・観音・弥勒の菩薩も今はこの日本に住んで衆生を救済される。霊鷲山におられた釈迦もある年の二月に入寂されたが、その沙羅双樹の庭も今は苔蒸した遺跡になっていると聞いては断腸の思いをする。ありがたくもこの仏舎利を納める寺こそ現世のもの。まことに霊鷲山も釈迦当時でこそ草木も教えに染まり仏身を得たというのに
シテ「いまは寂しくすさましい
地謡「月ばかりが昔のよう。そびえ立つ山の松の間に見える秋の月にようやく仏の白毫を観想して拝をするばかりであるとか。また大海原の上に暁に消えてゆく雲のようにわずかに小乗の四諦の教えが残るばかり。それは釈迦が説法をした霊鷲山のこと、いま目前に仏舎利を拝すことのできるこの御寺こそ貴いことである。

ややナショナリズム先行の趣も感じないではないですが、それは衆生済度の仏の誓願が、末法を迎えたいままさに天竺から遠く離れた日本の地で実現される事への期待であり、またその仏への厚い信仰を誓う決意の現れでもありましょう。言うまでもなく能『舎利』のテーマは、後場の韋駄天と足疾鬼の闘争の面白さではなく、仏舎利を通して顕れる、揺るぎない信仰の深さであるはずです。

が、一方クリの文章は能『山姥』からの借用であったり、肝心の「講式」からの引用も、先行する能にすでに採られていたものを転借したものだという指摘もあるのですが、そうであったとしても ぬえはそこに能『舎利』の作者の。。言うなれば「限界」というべきものを見て、かえって微笑ましく思えたりします。

後場の韋駄天と足疾鬼との闘争の場面の構成は どう見ても作者の非凡な才能を示していますが、この場面の文章と比べるとクセの文体はいかにも異なって、堅く重厚な響きですね。そして、文章が活き活きとして見えるのは、やはり後場だと思います。

。。すなわち、作者は僧でもなければ、仏典を研究する求道者でもなく、一人の能役者であったのだろうと ぬえは想像します。能『舎利』の作者は世阿弥のように和歌を自由に操って本文に挿入するような文才では劣っているのかもしれませんが、後場の構想に見るような自由な発想は世阿弥とはまた次元が違う優れた能力でありましょう。生粋の舞台人が作った能、という感触を ぬえは能『舎利』に見ます。

そのうえ作者は、この能を単なるショーとして仕上げる事を潔しとしなかったのでしょう。この重厚なクセの挿入は、そういう作者の主張なのであって、すべての登場人物が共通して持つ、仏舎利を通しての仏への厚い信仰を描く場面がなければ、仏舎利の争奪戦というこの曲の存在意義が失われ、この能が単純なショーと堕してしまうことを作者は怖れたのだ、と ぬえは解釈しています。

壮大な童話…『舎利』(その3)

2014-11-11 00:56:09 | 能楽
間狂言に扉を開けてもらい、仏舎利と対面することになった僧は着座してあらためてその霊験に触れる奇特に感動します。

ワキ「げにや事として何か都の疎かなるべきなれども。ことさら霊験あらたなる。仏舎利を拝み申す事の貴さよ。これなん足疾鬼が奪ひしを。韋駄天取り返し給ひし。現住奇特の牙舎利の御相好。感涙肝に銘ずるぞや。一心頂礼万徳円満釈迦如来。

ここで初めてこの作物の意味。。能『舎利』の陰の主役たる泉涌寺の仏舎利の由来について触れられます。
泉涌寺の仏舎利が釈迦の歯であり、それは釈迦入滅のときに足疾鬼という鬼が混乱に乗じて葬儀の場から釈迦の遺骸から引き抜いて逃げ去ったもので、韋駄天がすぐさまこれを追い行き、足疾鬼から奪い返した、というもの。もともとは『大般涅槃経』に見える帝釈天が得た牙舎利を捷疾鬼に奪われた、という話が元になっているようですが、韋駄天が登場してこれを取り返し、さらにそんな由来を持つ牙舎利が日本にもたらされるに至ったという、能『舎利』に現れる話は、むしろ『太平記』巻第八の「谷堂炎上事」に見える次の記事がもっとも近く、能『舎利』の本説もこれに拠ったものと考えられています。

「又浄住寺と申は、戒法流布の地、律宗作業の砌也。釈尊御入滅の刻、金棺未閉時、捷疾鬼と云鬼神、潛に双林の下に近付て、御牙を一引欠て是を取る。四衆の仏弟子驚見て、是を留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛越て、須弥の半四天王へ逃上る。韋駄天追攻奪取、是を得て其後漢土の道宣律師に被与。自尓以来相承して我朝に渡しを、嵯峨天皇御宇に始て此寺に被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留て広く天下に流布する事普し。」

『太平記』の記事は浄住寺に関するものですが、能はこれを泉涌寺に翻案して作られたと考えられています。泉涌寺の縁起にも同じ話は登場するのですが、それは時代が下がってからの書物で、ふたつの寺院と牙舎利の来歴との関係は調査が必要なのでしょう。

僧が牙舎利に対面して感じる感激を地謡がさらに描写します。このとき幕を揚げて、前シテが登場します。

地謡「ありがたや。今も在世の心地して。今も在世の心地して。眼のあたりなる仏舎利を。拝する事のあらたさを。何にたとへん墨染めの袖をもぬらす気色かな。袖をもぬらす気色かな。

前シテは里人という設定なのですが、やや異様な雰囲気を漂わせる出で立ちです。ぬえの師家の装束付では、面は三日月、淡男、怪士の類、となっていて、すでにこの役が人間ではないことを表しています。そのほかの装束は 無色厚板、または無地熨斗目、小格子厚板の着付に水衣、縫紋腰帯、墨絵扇となっていて、若い里人の役と老人の扮装との中間的な感じだと思います。

地謡が謡う間に舞台に入りシテ柱でヒラキをしたシテは謡い出します。

シテ「ありがたや仏在世の御時は。法の御声を耳にふれ。聞法値遇の結縁に。一劫をも浮ぶこの身ながら。二世安楽の心を得るに。後五の時代の今更に。猶執心の見仏の縁。嬉しかりける。時節かな。 とヒラキ

シテはすでに釈迦在世の頃にその側にいたことを独白していますね。生前の釈迦の説法を直接聞いた功徳によって一身の安楽は保証されたけれども、後の世になお不安があり、しかも今は末法の五百年の世。いまさらながら牙舎利を拝むことで見仏の功徳を得る嬉しさを述べています。

舎利に向かって拝を続けていたワキ僧は、ふいにシテの声を耳に留めて言葉を交わします。

ワキ「われ仏前に観念し。寥々とある折節に。御法を貴む声すなり。いかなる人にてましますぞ。
シテ「これはこの寺のあたりに住む者なるが
 とワキへ向。妙なる法の御声を受けて。こゝに立ち寄るばかりなり。 と二足ツメ
ワキ「よし誰とてもその望み。
 と正へ直仏舎利を拝まん為ならば。同じ心ぞ我も旅人。
シテ「来たるもよそ人。
 とワキへ向
ワキ「処もまた。
シテワキ二人「都のほとり東山の。末に続ける峯なれや。
 と二足ツメ

シテとワキはお互いに見知らぬ他人同士だが、仏舎利への信仰によって結びつけられた仲なのだ、と親近感を感じた二人。

地謡「月雪の。古き寺井は水澄みて。 と正へ直古き寺井は水澄みて。庭の松風さえかえり。 と右ウケ更け行く鐘の声までも。心耳を澄す夜もすがら。 と正へ出ヒラキげに聞聞けや峰の松。 と角へ行き正へ直谷の水音澄み渡る と左へ回り嵐や法を称ふらん。嵐や法を称ふらん。 とワキへ向ヒラキ

壮大な童話…『舎利』(その2)

2014-11-08 22:25:54 | 能楽

まずは例によって能『舎利』の舞台の進行経過に沿って曲目の解説を進めて行きましょう。

囃子方・地謡が例によって舞台に登場し所定の位置に着座すると、後見によって一畳台が舞台の先に運び出されます。

目を引くのはその一畳台の上に載せられている物。台座の上に小さな塔が載り、そのてっぺんには火焔の装飾がついた宝珠が載っています。これこそがこの能の隠れた主役たる「舎利」。。すなわちお釈迦様の遺骨です。塔は「舎利塔」というもので、舎利を納める厨子です。大寺院にある五重塔や三重塔、また大塔や多宝塔と呼ばれる建築も本来の意味は舎利塔で、またお墓に供える卒塔婆も、この舎利塔を模して作られるものです。

能『舎利』の舞台である京都・泉涌寺には塔ではなく「舎利殿」があって、この中に舎利厨子が安置されています。厨子の形は塔というよりは日光東照宮の家康の墓。。唐銅宝塔墓に似た形式なので能に出てくるこの作物とは少々感じが違います。

なお台座は後述の目的のために演者が演能のたびごとに自作するもので、木で作り、緞子などの布で包みます。この台座と舎利塔をあわせると、高さは数十cmにもなるでしょうか。そのため一畳台に載せて出すとバランスが崩れる恐れもあり、台座だけを一畳台に載せて出し、それとは別に切戸口より舎利塔を出して台座の上に載せることもあるようです。このへんは定まったことではなく現場での判断ですね。

一畳台と作物が据えられ後見が引くとワキ(旅僧)は幕を上げて橋掛リを歩み出し、これを見て笛が「名宣笛」を吹き出します。これを合図に大小鼓も床几に掛かり、地謡もそれまでそれぞれの右横に控えておいた扇を前に置いて、これで一番の能が始まることになります。

ワキとともに目立たぬように間狂言も登場して、こちらは橋掛リ一之松の裏欄干に着座。これは泉涌寺の寺僧の役で、いうなればワキが寺にやって来る前からここに居る設定です。

ワキ「これは出雲の国美保の関より出でたる僧にて候。われ未だ都を見ず候程に。この度思ひ立ち洛陽の仏閣一見せばやと思ひ候。

シテ柱に立ったワキは自分の素性と旅行の目的を述べ、大小鼓も打ち出して「道行」を謡います。

ワキ「朝たつや。空行く雲の美保の関。空行く雲の美保の関。心はとまる古里の。跡の名残も重なりて。都に早く着きにけり。都に早く着きにけり。

「道行」の終わり頃、ワキは右斜めに数歩進み、また立ち戻る所作をします。これで出雲から都への旅が完了したことを表します。やがて正面に向き直ったワキは、都の泉涌寺を拝観することを述べます。

ワキ「日を重ねて急ぎ候間。程なく都に着きて候。まづ承り及びたる東山泉涌寺へ参り。大唐より渡されたる十六羅漢。又仏舎利をも拝み申さばやと存じ候。これなる寺を泉涌寺と申すげに候。寺中の人に委しく案内をも尋ねばやと思ひ候。

橋掛リの方へ向いたワキは間狂言(寺僧)を呼び出し、これに応えて間狂言は寺を案内することになります。

いかに誰かわたり候。
狂言「何事を御尋ね候ぞ。
ワキ「これは遥かの田舎より上りたる僧にて候。当寺の御事を承り及び遥々参りて候。大唐より渡りたる十六羅漢。又仏舎利をも拝み申したく候。
狂言「げにげに聞し召し及ばれて御参り候か。聊爾に拝み申す事適はず候。但し今日かの御舎利の御出である日にて候。われら当番にて唯今戸を明け申さんとて。鍵を持ちてまかり出で候。まづこの舎利を御拝あつて。その後山門に登りて十六羅漢をも拝ませ申し候べし。こなたへ御出で候へ。がらがらさつと御戸を開き申して候。よくよく御拝み候へ。
ワキ「あらありがたや候。さらば御供申し候べし。


このあたり、間狂言が口で擬音を唱えて舎利殿の扉を開ける所作をしますが、間狂言としては珍しく、楽しい場面です。中入でも間狂言は目立つ演技があって、なるほど『舎利』という能にふさわしい、見どころの場面が多く作られていると思います。

壮大な童話…『舎利』(その1)

2014-11-07 22:18:18 | 能楽
梅若研能会11月公演

あっという間にあと2週間後に迫ってしまいましたが…来る11月20日、師家の月例会「梅若研能会11月公演」にて ぬえは能『舎利(しゃり)』を勤めさせて頂きます。これこそ切能! 派手な演出と柔軟な空想世界がここにはあります。深遠な精神世界を描く能もある一方、見て面白い、ショーのような、こういう曲も能の1ジャンルにはあります。そして ぬえは切能が好き。。

ところがこの曲、今回シテを勤めるに当たって本文をよく吟味してみると、意外や作者は壮大なスケールでこの曲を彩ろうと考えていたのですね。面白いけれど奥行きもあるそんな能だということを今回初めて ぬえは気づきました。

都を訪れた出雲国の僧(ワキ)が名高い泉涌寺(せんにゅうじ。。能の中ではセンニュジと発音されます)に参り、寺僧(間狂言)の計らいによって十六羅漢像や仏牙舎利を拝観していると、近くに住む者と名乗る男(前シテ)が現れます。仏の教えに引かれてやって来たという男の言葉を信じて ともに舎利を拝する僧でしたが、突然空がかき曇り雷鳴が響いてきます。不審する僧に男は、いまもこの舎利に望みを持つ足疾鬼(そくしっき)である、と名乗り、猛スピードで飛び回って人の目をくらませると舎利を奪い取り、天井を蹴破って空に逃げて行きます。

大きな物音に驚いた寺僧は寺宝の舎利がなくなっている事に気づき旅僧を疑ったりしますが、やがて足疾鬼の仕業とわかり、舎利を取り返すために韋駄天に祈りを捧げます。

一方まんまと舎利を手に入れた足疾鬼(後シテ)。悠々と空中を翔りますが、背後から自分を追いかける物音が迫ります。釈迦入滅のときに牙舎利を奪ったそのときのように、再び韋駄天(後ツレ)が現れ、空中での戦いが繰り広げられます。足疾鬼は須弥山の頂上まで駆け逃げますが、梵天らにも追いつめられてついい力つき、韋駄天に責められて舎利を返し、よろよろと起きあがって姿を消します。

ともかく見て楽しいスペクタクルの能で、せっかくの機会なので演出も少し凝ってみようと思っております。平日の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 11月公演

【日時】 2014年11月20日(木・午後2時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

    仕舞 小 塩クセ     加藤 眞悟
        夕 顔     中村  裕
        大江山     青木 健一

 能  盛 久(もりひさ)
     シ テ(盛 久) 梅若万佐晴
     ワ キ(土屋三郎)高井 松男/間狂言(下人)山本 則重
     笛 一噌 庸二/小鼓 幸信吾/大鼓 亀井広忠
     後見 伊藤嘉章ほか/地謡 加藤眞悟ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 柿山伏(かきやまぶし)
     シテ(山 伏)   山本泰太郎
     アド(畑 主)   山本 則孝

能  舎 利(しゃり)
     前シテ(里人)/後シテ(足疾鬼) ぬ え
     後ツレ(韋駄天) 梅若 久紀
     ワキ(旅僧)舘田善博/間狂言(能力)山本凛太郎
     笛 寺井宏明/小鼓 田邊恭資/大鼓 原岡一之/太鼓 徳田宗久
     後見 加藤眞悟ほか/地謡 梅若泰志ほか
                     (終演予定午後5時頃)


【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m