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ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

鉄塔…

2011-11-30 10:59:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ちと旧聞に属しちゃう話なんですが。。

ぬえら能楽師有志が初めて集まって被災地を訪れた8月。こんなことがありました。

東北道を徹夜でひた走って、ようやく気仙沼に到着し、一同はじめてその被害の大きさに驚愕しながら ひととおり市内を廻ったそのとき。メンバーの一人、笛方のT氏が突然不思議なことを言い出しました。

「あの…鉄塔に行きたい」

鉄塔。。?? …T氏が指さす先を見れば、遠くの山の上に、なるほど かなり高い鉄塔が建っています。建造物としては相当巨大なはずだけれども、細い鉄塔ですんで、あんまり威圧感はない…というか、普通 我々は見過ごしちゃいそう。普段は気にも留めたことはないのに…なぜ鉄塔?

え~と、聞けばT氏は「鉄塔マニア」なんだそうです。全国に催しで旅をするときも、できる限り現地の鉄塔を見るようにしているんだとか。はあ…そうですか。

というわけで物珍しさも手伝って鉄塔へGO! T氏は iPadを駆使して Googleマップと照らし合わせながら道案内。意外にスムーズにその鉄塔に到着しました。ははあ、これか…



いや、ものスゴい高さです。しかも整備のためでしょう、頂上まで登るための部品も取り付けられているようですが…ああ、いくら命綱をつけていてもあんな高いところに身体をむき出しで上るなんて ぬえには到底考えられない。下から見上げているだけで目が回ります。

その間にもT氏は ふむふむ、と鉄塔を視察。どうやらこういった鉄塔はテレビなどの電波の中継施設などの目的で建てられているそうで、地元ローカル局の鉄塔というものもあるのだとか。そうなんですか。

視察を続けるT氏。ちょっと小さい画像にしておきます。



それからというもの、あちこちの被災地を巡りながら、ついでに鉄塔も見て回る、という不思議な旅とはなりました。
「あれ、鉄塔じゃない? 見に行く?」「あ~、あれは違うの。自衛隊の通信施設」「じゃ、あれは?」「あれは携帯の電波の中継所だね~」…意外な、というかマニアと呼ばれる人には常識的なのであろう、こだわりもあるようです。



いくつか鉄塔を見て廻った ぬえも少々 食傷気味でしたが…こんなところもありました。たしかにここに鉄塔が建っていたはず…これは津波で被害を受けてなくなってしまったのですね。



ま、こういうワケで、意外な一面を見せたT氏。おつきあいして鉄塔を探す ぬえと、狂言のOくんも、最初は面白がっていましたが、だんだん飽きちゃった。。

で、T氏の意外な趣味を笑いながらの旅も終わりという頃、今度は狂言のOくんが言い出しました。

「私…排気口マニア…なんですよね」

排気口!!!!!!!??????

…排気口とは…普通の…こういうヤツだそうです。







世の中って広い…
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写真展「鎮魂の舞」…能楽の心と癒しプロジェクト写真展

2011-11-29 10:47:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
やっと帰った東京で先輩主催のお弟子さんの発表会のお手伝いに国立能楽堂へ。ふと見た2階では、二松学舎大学の狂言研究会の発表会が行われていて、ぬえも感心しながら「仏師」の一部分だけ見所にまじって拝見しました。ふうむ、能よりも役者個人のキャラがはっきり見えるようで楽しめました。お客さんも多かったですね~(^^)V

その後学校公演の第4弾! として、昨日から5日間連続で京都に宿泊しております。あれ~~?楽しみにしていた紅葉がほとんどない…異常気象のせいでしょうか。お目当てにしていた観光客も残念でしょう。

さて ぬえら能楽師有志(現在4名+1名)と一人の写真家による東日本大震災支援団体「能楽の心と癒しプロジェクト」では、初の写真展を行う運びとなりました! メンバーの一人、写真家の山口宏子さんの撮影による、我々の活動記録…併せて被災地の現状をお伝えする写真展です。

山口宏子写真展
鎮魂の舞 ~能楽の心と癒しを被災地へ~

平成23年12月11日(日)~20日(火)午前10時30分~午後6時30分(最終日は午後4時まで)
ニコンプラザ銀座2階・フォトスクエア【入場無料】

※ プロジェクトメンバーは出来るだけ会場にいるようにします。
…が、ぬえが会場にいるのは12/12(月)午後3時くらいまで、12/15(水)午後3時くらいまで、12/17(土)午後1時くらいまで、12/19(月)午後3時くらいまで、12/20(火)午前中のみ…という程度でしかありませんが…(これも予定なので行けない日もあるかも…)



会場のニコンプラザ銀座

おっとプロジェクトメンバーがウェブ上で宣伝を載せてくれたようです。
Art for Life
CJキューブ

ショールームの中の小さな展示スペースであるようで、展示する写真も多くはないそうですが、お時間のある方はぜひお立ち寄りくださいませ~m(__)m
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改めまして…3度目の石巻市訪問(その9)

2011-11-27 02:07:41 | 能楽の心と癒しプロジェクト
昨日深夜に学校公演の第3弾! 京都府・福知山より帰って参りました。ここでの2日間の公演では ぬえは珍しく後見と地頭の大役を頂き、ありがたいことでした。そこからバスや新幹線を乗り継いで東京に帰宅するまで6時間…やはり遠いですね~。ところが帰宅したら伊豆の子ども能の出演者の小学生から、その翌日に開かれる学芸会の招待状が届いていました~(^◇^;) ああ、そうです、翌日…つまり今日は伊豆の子ども能の稽古! 早朝に出発して、子ども能の稽古の前にしっかり学芸会も見て参りました。そういえば市内のこの学校…子ども能の参加者はたった二人しかいないのに、その二人が、この2月に行われる公演では主役と準主役なのであった。担任の先生にも子ども能の宣伝をして参りました~

さて、今さらではありますが、9月末に参りました石巻への訪問のこぼれ話など。…といいますのも、この年末に ぬえにとっては4度目となる被災地訪問を計画しておりまして、それもほぼスケジュールが固まりつつありまして…。そこで今回はこれまでにご紹介し損なった石巻で出会ったお話などをお伝えしようと思います。

で、タイトル画像は「舞う その子ども」。…「その子ども」って何でしょう?

じつはこおブログでも一度ご紹介したことがあるのですが、ぬえたちが大変お世話になり、9月の滞在では宿泊もさせて頂いた石巻市立湊小学校避難所(現在は避難所は解消して、学校施設としての再開に向けて準備中である模様)では、いつも目に入るものがあります。それはポップな感じの絵の数々。

こんなのや、



こんなのや、



こんなの。



もう体育館にとどまらず学校を埋め尽くすごとくで、これらの絵の中心になっている男の子?が、「その子ども」です。

ぬえがこれらの絵を最初に見たときは…どうも20代らしい若いボランティアばかりが大勢で忙しく立ち働いているこの避難所であってあれば、これぐらいのイラストを描く漫画家志望の女の子でもいるのは当たり前か…、避難所を明るい雰囲気にしようとイラストを描いているんだろうなあ、ぐらいにしか考えなかったのですが。

8月になって事実を知りました。これを描いたのはこの人!



ををっ!? ちょっと意外でした。この方、瓦ちゅんさん・通称ちゅんさんといいますが、ぬえが湊小学校で出会った 神戸チームはじめ各地のボランティア団体…鳥取や横浜に属しているわけでもなければ、もう少し大きな団体…ピースボートなどのメンバーでもありません。この写真を撮ったのは6月ですが、その時も、そのあと8月にも9月にも、ぬえが湊小学校を訪問したときは常に自転車の修理に精を出していました。…自転車にとても詳しい特技を活かすべく、なんと4月に個人ボランティアとして京都から一人で被災地に来た人なのです。修理用の道具や工具を両手で抱えて。

それ以来、ちゅんさんはずっと湊小学校避難所で自転車の修理を続けています。被災地では車をなくした方も多く、また当初は道も荒れていたので現実的には自転車がもっとも便利な乗り物でした。ところが今でも道が荒れた状態には変わりがなく、パンクなどのトラブルもしょっちゅうなのだそう。そこで ちゅんさんは、きちんと手入れされている自転車や子ども自転車の修理は無料、それ以外の、手入れをしていない自転車の修理は有償、と区別しているようです。こちらがその工房。しっかり「その子ども」がいますし、ここは「その子どもサイクルぅ一号店(湊小店)」という名前らしいです。



9月に ちゅんさんに直接聞いたところでは、石巻に、宮城県に、とどまらず、東北地方に私設の(要するに勝手に作った)サイクリングロードを作るのが夢であるらしいです。なんにせよ すごいバイタリティですね~。さて、「一号店」がある以上「二号店」もあるわけで。それは湊小学校からほど近い、焼き鳥屋さんの中に置かれています。こちらがその焼き鳥屋さんの「東助」(とうすけ)。



どうやら「東助」も津波被害に遭って営業停止に追い込まれたところ、店主さん(とおさん、と ちゅんさんに呼ばれているらしい)と ちゅんが仲良くなり、これをキッカケに、ちゅんさんら有志が「東助」の営業再開をめざして改装工事をはじめました。その間には、荷台に焼き鳥を焼くための炭火コンロを積んだ改造自転車を造って移動営業してみたり、店先に看板やベンチを置いたり、いろいろな試みをしているようですが、そのどれもが ちゅんさんの手にかかると その子どもが登場、カラフルでポップな色彩を帯びたイラストに埋め尽くされるのでありました。





現在、湊小学校避難所は閉鎖になりましたから、すべてのボランティア団体は湊小を引き払いました。個人ボランティアのちゅんさんも湊小学校を出て(一号店は閉店となりました)、「東助」に住んでいます。そして「東助」の中に「その子どもサイクルぅ二号店」をオープンさせ…そしてついに今月には「東助」の営業も再開したそうです。ぬえの次回の石巻訪問ではこの「東助」に飲みに行くのを楽しみにしています。(*^。^*)

まあ、要するに「その子ども」のイラストはちゅんさんのもうひとつの隠れた才能であるのでしょう。もちろんそのイラストの腕前は評価されて、そうして湊小学校避難所のイベントや「一号店」はイラストで飾られることになり、さらに湊小学校から仮設住宅に移られた住人さん方の依頼によって、仮設住宅の入口の看板なども手がけているようです。

ちゅんさんのブログ。面白いので読んでみてください。

こういうわけで面白い人なので、9月の訪問では滞在中に ぬえ宛に「その子ども」のイラストを描いて頂くようお願いしておきました。それがタイトル画像の「その子ども」。ちゃあんと扇を持って、よく見ると下の方に小さく湊小学校が。これを守っているんですね。「その子ども」はいつも湊小を守っているようです。

でもね、「その子ども」は、どうやら ちゅんさんの分身のようですよ。ぬえが湊小学校で見つけたこれらの言葉。これは ちゅんさん本人のものでしょう。


湊小学校の「その子ども」
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学校公演…新潟~富山~石川…そして安宅の関!

2011-11-23 00:51:51 | 能楽
またまた学校公演で遠征中の ぬえ~。

今月は学校公演のおかげで ほとんど東京におらず…じつは先日の『百萬』を師匠にお稽古をつけて頂いたのも、学校公演の仮設舞台の上でのことでありました。つまり師匠も同じくゆっくり ぬえにお稽古をつける時間が見つからなかったのですね~

さて今日は東京に帰って参りました! …とは言っても東京にいるのは明日だけで、あさってにはまた関西方面の学校を訪問して参ります~!

さてさて今回の学校公演は新潟~富山~石川県をまわるもの。いろんな発見があって楽しかったです。まずは小中学校の子どもたちかなあ。どこも終演後の質疑応答は活発で…う~ん ぬえは楽屋で後かたづけをしていたのであまり内容は聞き取れなかったのですが、どの学校も5~6人…いやそれ以上の子どもたちから質問が出されていました。そうして学校を後にする時、いつも子どもたちが見送ってくれるのです! み~んな笑顔で手を振って。ああ、その笑顔で明日も舞台に立てるのですよ~!

それから…じつは ぬえ、北陸に来たのはこれが初めてでして。まずは富山の、あまりにも雄大な山々の風景。これは心から感動しました。宿泊したホテルの朝食は高層階のレストランで頂きましたが、もうそこから見える絶景と言ったら! 180度のパノラマ…じゃ足りないくらいの壮大さ。これは写真では伝えきれるはずもなく、撮影は断念しました。そうして「おわら風の盆」…およそ一般的に言う「お祭り」とはまったく次元を異にしたような神秘さがあるようで、これは いつの日にかぜひ見に行きたいものです。

…ところが、今回ご一緒したお囃子方の中に富山県出身者がをりまして。いまはとっても良い時期で爽やかなのだけれど、ひとたび雪が積もれば、それはそれは大変なのだそうで。そういえばホテルの近所のお店のアルバイトの女の子も、名古屋の方だそうですが、雪が積もるのを見て喜んだのは「最初の1日だけでした…」だそうでした。そうして「おわら風の盆」は…その時期にはこのお祭りが行われる街の近所には決して近寄らないのだそうです。全国から見物の観光客が大量に押し寄せて、付近の道路は大渋滞になってしまうからとか…ん~難しいこともあるんですね~。

今日お邪魔した石川県の中学校は…これまた風光明媚なところにありました。学校から ほんの2~3分歩いて田んぼの向こう側に行ってみると…そこには素晴らしい渓谷が!!



これには驚いた。こういう自然の美しさの中で過ごすのは 代え難い優雅さがありますね~。うらやましい限り。でもバスの運転手さんに聞いたら…やっぱりこのへんも冬には大雪になるそうですが。そういえば会場の体育館の中も しんしんと冷えてきました。

ここでも子どもたちの笑顔に送られて、東京に帰るために小松空港へ。途中に能『安宅』の舞台である「安宅の関址」があるそうで、空港に行く前に立ち寄ってくださいました。この辺は平野に見えるので、どこに関所を造ったのかな? と訝しんでいたのですが、「安宅の関址」と書かれた看板に導かれてバスが進むと…そこは日本海の海岸でありました(!)。そういうことだったのか。

そこで撮影した美しい夕陽がタイトル画像です。こういう夕陽はなかなかお目に掛かれるものではない…とってもラッキーでした。安宅の関址は石碑と礎石? が残っているだけでしたが、弁慶と義経、富樫の巨大なパノラマ像があったりして、きちんと整備されています。





奥には奈良時代創建という住吉神社がありました。ちょうど巫女さんが神楽を奉納中!





ともかく得難い体験が多い学校公演でした。またいつかこの場所に、そしてあの学校を再び訪れることができますように!
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『百萬』、終わりました~

2011-11-19 02:18:29 | 能楽
まずは今日の話題はブータンのワンチュク国王のすばらしい行動と国会でのスピーチですね。ぬえはこのニュースを稽古場に移動しながら聞き、涙を流してしまいました。この人は聖人ではなかろうか。。(・_・、) このような偉大な方には一生かかっても追いつけるはずもないのだけれど、人を感動させる人間に ぬえもなりたいです。。

さて、昨日『百萬』のシテを。。まあ大過なく勤めさせて頂きました。小過はありました。ちょっと足がもつれて足拍子を間違った。(×_×)

が、春に『大会』を勤めたそのあと…ぬえは大きな変化をしてしまいました。それはもう、生涯の中でも何度あるか、というほどの変化でした。東日本大震災の被災地…とりわけ気仙沼での強烈な体験と、石巻での活動…夏頃だったら『百萬』のような愛する人を失ってそれを追い求めるような曲は正気で勤められたかどうかわかりません。あれから…震災からは8ヶ月、ぬえの初めての被災地訪問からは4ヶ月半を過ぎたいま、それでも ぬえは、子を失った母親を描くこの能を勤めるときに震災がもたらした悲しみが重なってしまうのではないか、と ちょっと恐れもしたのですが、まあ、舞台が始まってしまえばそれどころではありませんでした~(^_^;

とはいえ、『百萬』という能は、気持ちを込めやすい曲というか…演者の感情移入をどんな形でも許すような、ごく自然な流れで感情の推移を描いている、というか、そういう印象を受けました。まことに良く練られて作り上げられている… ぬえも ついつい盛り上がりすぎて、最後の方はちょっと荒かったかな…と思って反省しております。「誓いに逢はせて賜び給へ」のところ、ちょっと型に工夫は入れたのだけれども、あんなに気持ちを入れてしまったのは、あまりにスムーズに感情の激する様子が描かれている台本のためで、冷静さをつい失ってしまったからなのかもしれません。ご覧になって頂いた皆様にはちょっとお見苦しかったかも…

さて、この日舞いながら気づいたのですが、この曲にはさらに細かい仕掛けがあったのですね。

それは地謡の位置づけ。先に ぬえは、この能がお客さまや囃子方まで戯曲の中に取り込んでいる、という事を申し述べ、また地謡についても「立廻リ」の中でシテがその中に我が子を探す型がある、という意味で事件の現場に居合わせている現実の人、というような捉え方をされている、というような事を申し述べたと思います。

しかしながら、この日に気づいたのですが、地謡にはもっと直裁的な役割があるようです。それは最初の間狂言に唱和するように地謡が唱える念仏と「車之段」の念仏の差で、前者の場合は「地取リ」という扱いで間狂言が謡う念仏を低吟して繰り返すのですが、シテが笹で間狂言を打って念仏の音頭を交代してからは、ロンギのようにシテと一体化して謡うことになっています。

これ…つまり地謡は念仏の音頭取りに合わせて唱和する人々…大念仏に参加して仏との結縁を願う大勢の観衆の役を演じているのですね。だからこそ間狂言の音頭に対しては、唱和しにくい、という意味を込めて「地取リ」の低吟であって、シテが「わらは音頭を取り候べし」と言って念仏を唱えたとたんに 見事な唱和を生むわけです。

もともと能の中で間狂言が謡うのにつきあう場合、囃子は音も掛け声も沈めて打つ約束になっていまして、地謡はそのように間狂言におつきあいする事はほぼ皆無なのですけれども、そのような場面では『百萬』のように低吟する程度に軽くおつきあいする事になるはずでしょう。室町期にも同じ慣習だったのかはわかりませんが、そうだとするならば、おそらく『百萬』の作者は、このような慣習を知っているうえで敢えてこれを逆手にとって、囃子方と地謡に間狂言のアシライをさせ、またその後にはシテの念仏に参加させることによって、間狂言とシテの念仏の巧拙の違いを際だたせようとしたのでしょう。この意味で地謡も、それから囃子方も、少なくともこの場面では音頭取りに合わせて謡い、囃す観衆として『百萬』の能の中の登場人物として取り扱われていると考えることができます。

もうちょっと曲と向き合う時間があれば、もっと大きな発見があったかも。『百萬』という能はそういう深さを持った曲だなあ、というのが、今回の不勉強 ぬえの感想でありました。

【この項、一応 了】
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百萬~異色づくめの物狂い能(その6)

2011-11-16 10:30:06 | 能楽
地謡「奈良坂の。児の手柏の二面。兎にも角にもねぢけ人の。なき跡の涙越す。と左拍子袖の柵隙なきに。思ひ重なる年波の。とサシ込ヒラキ流るゝ月の影惜しき。と左ウケ三足出西の大寺の柳蔭みどり子のゆくへ白露の。と右へ廻り中へ行き行掛りおき別れて何処とも知らず失せにけり。とサシ廻シ ヒラキ一方ならぬ思ひ草。葉末の露も青丹よし。とシテ柱へ行き左へトリ奈良の都を立ち出でて。と脇座の方ヘ出かへり三笠山。と振り返りヒラキ佐保の川をうち渡りて。と左より右へ川をサシ幕の方ヘ三足出山城に井出の里玉水は名のみして。とシテ柱より正ヘ出影うつす面影浅ましき姿なりけり。と下を見込み下がり面フセかくて月日を送る身の。羊の歩み隙の駒。と角へ行き小さく廻り足にまかせて行く程に。と左へ廻り中へ行き都の西と聞えつる。嵯峨野の寺に参りつゝ。とサシ込ヒラキ四方の景色を眺むれば。と左右打込扇開き
シテ「花の浮木の亀山や。
と上扇
地謡「雲に流るゝ大井川。
と大左右左拍子誠に浮世の嵯峨なれや。盛り過ぎ行く山桜嵐の風。と正先へ打込サシ廻シ松の尾小倉の里の夕霞。と右へ廻りシテ柱へ行き立ちこそ続け小忌の袖。と角へ行き扇にて頭をサシ翳しぞ多き花衣。と左へ廻り中へ行き貴賎群衆するこの寺の法ぞ尊き。と正ヘ出サシ廻シ、胸ザシヒラキ彼よりも此れよりも。ただこの寺ぞ有難き。と正を見忝なくもかゝる身に。申すは恐れなれども。と角へ出左へ廻り二仏の中間我等ごときの迷ひある。と脇座より大小前へ到り道明らめん主とて。毘首羯磨が作りし赤栴檀の。と小廻りヒラキ六ツ拍子踏み尊容やがて神力を現じて。と正先へ出ヒラキ天竺震旦我が朝三国に渡り。と右へ廻り笛座前より中へ出有難くもこの寺に現じ給へり。と左右打込
シテ「安居の御法と申すも。とヒラキ左拍子
地謡「御母摩耶夫人の。孝養の御為なれば。と大左右仏も御母を。かなしみ給ふ道ぞかし。と正先へ打込ヒラキ況んや人間の身としてなどかは母を悲しまぬと。と右へ廻りシテ柱より脇正へ少し出子を恨み身をかこち。とサシて角へ出、扇を胸へヨセ感歎してぞ祈りける親子鸚鵡の袖なれやとカザシ扇にて左へ廻り百萬が舞を見給へ。と大小前にて左右ワキヘ向き

長いクセです。シテが謡う上羽が2つある、いわゆる「二段グセ」と呼ばれるもの。かつて ぬえが『歌占』を勤めた時にも書いたのですが、現行『歌占』の中にある「地獄の曲舞」はかつて能『嵯峨物狂』の中にあったものが、そこから取り外されて、その代わりに世阿弥が新しくクセを創作して作られたのが現行の『百万』となり、取り外された「地獄の曲舞」を基にして世阿弥の子の観世十郎元雅が『歌占』を新作したのは有名な話です。いうなれば一つの『嵯峨物狂』という曲から現行曲二つが誕生したわけで、これも能の成立過程としては興味深い曲だといえますね。そのうえ『嵯峨物狂』は観阿弥が得意としていた曲らしく、なんと『百萬』は観阿弥・世阿弥・元雅の親子三世代に渡って曲を洗練させてきた成果のひとつなのです(!)。能がダイナミックに動いていた時代の息吹が聞こえてきそう。このクセはとても静かで瞑想しているような冒頭から、我が子を探すシテの長い旅の情景、清涼寺本尊の釈迦像に対する信仰、激しく心が乱れる様を表す終末部まで、とっても上手く描かれていますね。

ところでもうひとつ注意しておかなければならないのは、このクセの末尾の文句「親子鸚鵡の袖なれや百萬が舞を見給へ」が、ずっと前にあった地謡による次第の文句「我が子に鸚鵡の袖なれや。親子鸚鵡の袖なれや百萬が舞を見給へ」と一致している、という点でしょう。

じつはこのように「次第」~「一セイ」~「イロエ」~「クリ」~「サシ」~「クセ(しかも二段グセ)」という順番で進行し、なおかつ最初の「次第」の文句と最後の「クセ」の末尾の文言が一致するのが、能の脚本の中でクセを中心とする一連の流れのパターンとして認めることができます…のですが、実際にはこのすべてが欠けることなく揃っているのは稀でして、『杜若』と『楊貴妃』(ただし『楊貴妃』は次第とクセ末尾の文句が一致せず、クセも一段)くらいしかないのではなかろうか…。『源氏供養』はこれらすべての小段を持っていますが「次第」と「クセ」末尾の文句が一致しない例、『山姥』『歌占』は上記のうち「一セイ」「イロエ」がない形、『千手』は「次第」を欠く形、『花筐』は「次第」と「クリ」を欠く形ですし。意外に『羽衣』が略式ながらこれらの影響を受けている印象があります。『百萬』は稀有な、本格的な小段構成を持った能といえるのです。

ぬえも不勉強でしっかりした説明ができませんのですが、これはおそらく観阿弥が能の中に導入した、とされる「曲舞」という当時流行した芸能の上演パターンが投影されているのでしょう。『山姥』のツレ「百万山姥」は曲舞を舞う芸能者ですが、シテがその芸について「まづこの歌の次第とやらんに。よし足引の山姥が山巡りする、と作られたり」と言っているのが良い証左だと思います。『山姥』では後に実際にツレがこの「次第」から始まり「クセ」で終わる一連の芸を見せ(ただし前述の通り「一セイ」「イロエ」は欠く)、本性を現した後シテ・山姥がそれにつれて「移り舞」を舞って見せる、という趣向の能で、曲舞という芸能を考えるのに大きな手がかりでありましょう。

「曲舞」はこれらの一連の小段を順序立てて演じる芸ですが、演劇とは言い難いのではないかと ぬえは思います。あくまで小歌・小舞というか…現代で言えば舞囃子がこれに近いと思いますが、本説たる物語(舞囃子ではもとの能全体)をお客さまが知っている事を前提に演じられるダイジェストのような寸劇だったのではなかろうか。プロローグからはじまり眼目の舞(クセ)でリズミカルな舞を見せる…それも地謡(?)が謡う文言に合わせた仕方話的な舞を見せ、短時間で完結する、という芸能だったのだろうと思います。

クセは観阿弥以後、多くの能の中に取り入れられましたが、楽劇である能の中においてはこのようにプロローグ~舞で完結してしまう芸能をそのまま導入するのではなくて、曲により、たとえばその脚本のスピード感を失わないように、クセだけとか、クリ~サシ~クセとかといった曲舞の部分を、取捨選択しながら上手に取り入れていったものだろうと思います。

上記の、曲舞の影響が投影されている可能性のある能も、本格的に曲舞の小段進行をそのまま踏襲している能が少なく、またそのような曲が能の中で「本格的」…この場合は曲として重んじられていたり、クセ以外の場面の構成が様式的に、省略なく組み立てられている能かというと、そうとも言えない事が、曲舞の導入の方法を物語っているように思います。むしろ、『百萬』や『山姥』『歌占』では、曲舞を舞うことが本業、あるいはそれに準ずる芸能者が登場するからこそ、これらの曲では「本格的」な小段進行が導入できたのでしょう。…余談になりますが、ぬえは『源氏供養』もその一群の能のひとつだと考えています。

さてクセが終わると、前述した「立廻リ」になります。

地謡「あら我が子。恋しや。立廻

前述のように「立廻リ」は類型化しにくい小段で、多くは能の中で戯曲としてのクライマックスの伏線としてシテの心理や存在感を表現するもの、と ぬえは捉えていますが、少なくとも「イロエ」よりは所作に具体的な意味を持つと思います。『百萬』の「立廻リ」も、我が子を探す、という具体的な所作で成り立っています。…が、これがまた、前述のようにお客さまはもちろん、地謡、囃子方まで巻き込んで行われる…まさに『百萬』の特異で特徴的な面が遺憾なく発揮されている場面です。

すなわちシテはまず角へ出、見所の中に我が子を探し(右から左へと面を遣って見回す)、次に地謡の方へ行って(子方を見ないように廻る、と形付に記載あり)、その中に我が子を探し、さらに囃子方の前へ行って、これはその後ろの方を探し、さて常座に戻ったところで「立廻リ」が終わりになります。

面白いのは、地謡に対してはその中に我が子を探すのに、囃子方に対しては本人ではなくその後方を探す、という点。囃子方には先ほど「囃して賜べや人々よ」と話しかけているので、この能の中では、あくまで戯曲上は、という話ですが、囃子方は ずっとその場にいる…事件の現場に立ち会っている役者として扱われているのでしょう。もっとうがった見方をすれば、囃子方の後方にも観客がいて能を見物している、そういう古い時代の舞台構造を想定している型がそのまま残されているのかもしれません。地謡の中に我が子を探す所作についても、ぬえの先輩は「戦前の舞台には地謡の後ろにも客席があったから、その中に我が子を探す、という感じで演じた方が良いんじゃないか?」とアドバイスを頂きました。いずれにせよおの「立廻リ」、型としては「イロエ」と大差ないので、ちゃんと我が子を探している、という事がお客さまに伝わらないといけないですね。。

シテ「これほど多き人の中に。などや我が子の無きやらん。と正ヘ向いて謡いあら。我が子恋しや。とシオリ我が子給べなう南無釈迦牟尼仏と。と合掌
地謡「狂人ながらも子にもや逢ふとと扇を開き角へ行き私心はなきを。南無阿弥陀仏。と左へ廻り中にてヒラキ南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。と右へ廻りシテ柱より正ヘ出心ならずも逆縁ながら。誓ひに逢はせて。賜び給へ。とシテ柱に下がり下居(付けには安座とあり)合掌

立廻リによっても我が子を発見できないシテは、いよいよ狂乱の様を見せ、そのクライマックスでは釈迦も阿弥陀如来もごった煮になって、藁をもつかむような悲惨な祈り。これを見たワキが、ついに見かねてシテに子を引き合わせます。

ワキ「余りに見るもいたはしや。これこそおことの尋ぬる子よ。よくよく寄りて見給へとよ。とワキは立ち子方を立たせシテの方ヘ少し出

じつは…昨日の申合で面白いことに気づきました。クセになる直前、サシの終わりで多くの場合シテはワキと向き合うのですが、『百萬』ではその場面ではすでにシテは自分の世界に入り込んでいて、ワキの存在を忘れています。実際のところ、ワキとの問答の中…もうずっと以前になりますが、「法楽の舞を見すべきなり」とワキへ言ってからは、このシテは一切ワキの方を見ないのです。つまり「法楽の舞」を見せるのは仏への信仰であると同時に我が子との再会を仏に願うシテの行為なのであって、そこから先はシテは一心に再会を念じる忘我の世界に行ってしまうわけで。こういう事で、このサシの終わりにもシテはワキを向きませんで、「あはれはかなき。契りかな」と、ここは夫との死別を意味する文言ですが、要するに自分の不幸を嘆いていて、型としてはシオリをしているのです。

ところが昨日の申合でおワキは、シテがそちらを向かないにも拘わらず、シテの方を向いていました。「?」と ぬえは一瞬思いましたが、すぐに気がついた。おワキはずっとシテの動向を見守っていて、シオリ…すなわちシテが我が身のつらさの余りに涙するところを ちゃんと見ているのですね。だからこそこの場面で「余りに見るもいたはしや。これこそおことの尋ぬる子よ」という文句でシテに子方を引き合わせる場面につながる…よく考えられている型だと思います。

シテ「心強や。とくにも名乗り給ふならば。かやうに恥をばさらさじものを。あら恨めし。とは思へども。
地謡「たまたま逢ふは優曇華の。
とシテは扇を開きながら立ち上がりマネキ扇にて子方へ出花待ち得たり夢か現か幻か。子方に左手をかけ右手にてシオリ
「よくよく物を案ずるに。とユウケン扇よくよく物を案ずるに。かの御本尊はもとよりも。衆生のための父なれば。と扇にて見所をサシ廻シ母もろともに廻り逢ふ。と子方を促し歩ませ、そのあとより扇にて押し法の力ぞ有難き。願ひも三つの車路を。とシテ柱にてカザシ扇にて左へ小さく廻り正ヘヒラキ都に帰る嬉しさよ都に帰る嬉しさよ。と右ウケ左袖を返しトメ拍子踏み、扇をたたみ幕へ引く

最後にまたまた、ありました。シテは「かの御本尊はもとよりも。衆生のための父なれば」と扇にて見所をサシ廻シて見るのです。現実にこの能の舞台をご覧になっているお客さまは「衆生」として戯曲の中に登場させられ…そうして最後に三国伝来の釈迦如来像の恵みを等しく受けることになります。

そういえば昨日の申合でもおワキは「かほど群衆のその中になどかは巡り会はざらん」と見所を見る型があるのに気づきました。お客さまを舞台の世界に巻き込むこの能の戯曲の精神は、徹底されているのだなあ、と感心した ぬえ。

しかしながら、この終曲部でその意味がようやく分かったような気がします。仏神の慈悲によって親子が邂逅できた、という、いわば教訓潭として終わることも多い狂女能の中で、『百萬』の作者は、お客さまをその傍観者にするのではなく、戯曲の中に巻き込むことで、その慈悲を見所の見所にも行き届かせる事を目的にしているのでしょう。

中世以降に大変もてはやされたという清涼寺の「三国伝来の釈迦如来像」の「出開帳」。この能は、この本尊への篤い信仰のもとで、その利益を流布したい、という作者の理想も込められているのだ、と ぬえは感じたのでした。

いよいよ明日がその上演! すんません、今回は考察が行き届きませんでしたが、一心に勤めて参ります。今の ぬえにはもう一つ…東日本大震災の被災地で出会ってしまった愛する人を失った人々の悲しみが、どうしてもこの曲に重なってしまいます。心の平安が訪れますように…
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百萬~異色づくめの物狂い能(その5)

2011-11-15 01:30:45 | 能楽
シテ「百や万の舞の袖。
地謡「我が子の行方。祈るなり。
とサシ込ヒラキ イロエ

…と、ここよりイロエになります。「イロエ」というのは説明が難しいですね。器楽演奏による所作ですけれども、舞でもないし、特定の意味を持つ所作があるわけでもない。囃子から見ても、もうひとつ統一された定義がないように思います。通常は大小鼓が「地」ばかりを打ち続けるところに笛は拍不合でアシライを吹きます…が、太鼓の手付を見ても「イロエ」ってあるんですよね。さらに「イロエ掛り」の中之舞や序之舞があったりして、これは最初に書いたイロエにかなり近いけれども、舞に繋がっていく、という意味で、ある種積極的な意味を内包しているわけだから、ちょっと違うものかな、という気もします。

これだけ多種な様相を持つ「イロエ」ですが、『百萬』に出てくるそれは、一番「ポピュラーな」イロエです。…なんだか変な説明だな。いわく、「イロエ」としては最も多く現れる形式で、大小鼓が地を打ち笛がアシライを吹く中、シテは静かに角に出、正へは直さずに左へ廻り、中で一度小さく廻って大小前に到り左右をして「袖トメ」に舞い終えるもの。「袖トメ」は左右のあと正面へ直す事を言います。「袖トメ」という名称ながら、広袖の、たとえば長絹のような装束を着ていても、袖を返すことはしません。またこの「イロエ」のトメでは必ずシテの謡に繋がるのですが、そういう場合に大小鼓が打つ「コイ合」は「イロエ」のトメでは打たず、必ず「打上」になるのもひとつの特長ですかね。

また、この「イロエ」に似て非なるものに「立廻リ」があって、さらに複雑な様相です。しかも「立廻リ」は「イロエ」よりもさらに説明が難しく…「イロエ」のような定型をほとんど持ちません。こちらは多くが太鼓が入った演奏の上に、意味がある所作を伴う場合が多いのですが、太鼓が入らない立廻リもあるし(『百萬』の中にも大小鼓と笛による「立廻リ」があります)、ほとんど意味をなさない所作…イロエと区別のつきにくい立廻リもあります。

「イロエ」は意味としてはシテが茫洋と、現なくさまよう様子…動作であれ心理であれ、そのような意識が半ば朦朧としたような有様を表現しているものと解釈できて、『百萬』や『花筐』、『桜川』など狂女能では愛する者を失った悲しみ、ということで理解ができるのですが、『船弁慶』の前シテはそれとはちょっと意味合いが違いますし…極端な例では『熊野』では短尺に歌を書き付ける場面をイロエと呼んでいますね。

ぬえの解釈では「イロエ」は前述のように絶望や不安のために半ば意識がない状態、またはその状態で彷徨う動作の表現、「立廻リ」は所作よりも戯曲としてのクライマックスの伏線としてシテの心理や存在感を表現するもの、と最近考えるようになりました。この意味では『熊野』の「イロエ」は「立廻リ」と呼ぶべきですが、「立」ったり「廻」ったりの所作がないため、そのような名称がつけにくかったのでしょう。

定型の、最も多く現れる形のイロエを終えたシテは大小前で謡い出します。

シテ「げにやおもんみれば。何処とても住めば宿。
地謡「住まぬ時には故郷もなし。この世はそも何処の程ぞや。
シテ「牛羊径街にかへり。鳥雀枝の深きに集まる。
地謡「げに世の中はあだ浪の。よるべは何処雲水の。身の果いかに楢の葉の梢の露の故郷に。
シテ「憂き年月を送りしに。
地謡「さしも二世とかけし中の。契りの末は花鬘。結びも留ぬ徒夢の永き別れとなり果てて。
シテ「比目の枕。敷波の。
地謡「あはれはかなき。契りかな。
とシオリ

このへん、ちょっと読むのが難しいところでしょうか。ぬえは「よくよく考えてみれば、どこであっても住んでみれば故郷と呼べるものだ。逆に定住していなければそれは故郷と呼ぶべくもない。この浮き世に生きる我等はどこに安住ことが出来るのだろうか。牛や羊は夕暮れに径の険なるところより帰り、鳥や雀は枝の深きところに聚る…杜甫の詩のように、それぞれの生物には帰るところが定まっているのに、世の中はなんと儚いものなのか、雲や水のようにあてのない我が身の果ては楢の葉から落ちる梢の露のようにどこへ行くというのだろう。故郷に浮き世のつらさを耐えていたところに、思わずも二世の契りを誓い合った人と巡り会ったというのに、それも徒なる夢のように永久の別れとなってしまった。枕を並べたあの契りの日々も押し寄せる波の泡のように儚く消え去ってしまった。」と読みました。

この場面…クリ~サシに掛けて、はじめて、と言ってよいくらいシテは動作がなく正面に向いたままの姿勢を保ちます。あ、なんかこういうの、久しぶりです ぬえ。三番目物…鬘能には良くある型なのですが、切能好きな ぬえにとっては あまり馴染みがない型というか…σ(^◇^;)
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百萬~異色づくめの物狂い能(その4)

2011-11-13 02:38:52 | 能楽
今日は伊豆のお稽古で、そのあと子どもたちと市内の大きな公園で遊びました。サッカーをやったり鉄棒やら「だるまさんが転んだ」やら。楽しかったけど東京への帰り道では疲れて高速のサービスエリアで爆睡してしまいまひた。。(×_×)

シテが常座あたりまで来た頃を見計らってワキはシテに声を掛けます。こういうところ、お客さまには気づかれないですけれども、意外に神経を使うところです。シテは子方の謡の間に舞台に置いた笹を取り上げて持ち、立ち上がり、さて右にとってシテ柱に行き、そこで正面に向く…まあ、型はそれだけのことなんですけれども、常座に到着するのが早くても遅くてもいけないのです。

すなわち、シテが常座に来て正面を向くところに ちょうどおワキから「いかにこれなる狂女」と声を掛けて頂くようにするべきなのです。シテの到着が遅すぎれば、おワキもさすがに歩み行くシテに声をかけられませんし、逆に早すぎればシテは常座に立ちん坊。おワキから言葉が掛かるのを知っていて、それを待っているかのようになってしまいます。

もちろんおワキの方にも心得があって、子方との問答が終わってから立ち上がり、シテを向いて声を掛ける、それまでの間にシテが歩んでいるその位置に常に気を配って、立ち上がるタイミング、速度、シテへ向くタイミングなどを調節して、上記の様子になったところで声を掛けてくださいます。…しかし、それが自然に見えるように、つまりおワキが立ち上がるまでに妙に空白の時間ができたり、逆にあたふたと立ち上がって、急いでシテに声を掛けるような様子に見えないようにするためには、やはりシテの移動の良し悪しが決め手になってしまうのですね。

しかもここには子方の謡があります。まあ、よほど信頼できる子方か、はたまた数多く稽古を重ねて型も謡も固まってしまっているか…そのどちらでもなければ、やはり子どもの事ですから、当日どのようなスピードで謡ってくれるかは未知数、と考えておかなければなりませんね。そういう考慮も必要です。この場面ではシテは子方やワキは見えないので、謡をよく聞き、またワキが立ち上がる様子を想像しながら歩みを進めることになります。ぬえの場合、『百萬』では子方の謡「問ふて給はり候へ」一杯に立ち上がり、シテ柱の方ヘ向きかかると ちょうど良い具合に常座に到着できる、と、稽古の中で目算をつけてあります。

ワキ「いかにこれなる狂女。おことの国里はいづくの者ぞ。
シテ「これは奈良の都に百萬と申す者にて候。
とワキヘ向き
ワキ「それは何故かやうに狂人とはなりたるぞ。
シテ「夫には死して別れ。ただ一人ある忘形見のみどり子に生きて離れて候程に。思ひが乱れて候。
とワキへ向き二足ツメ
ワキ「さて今も子といふ者のあらば嬉しかるべきか。
シテ「仰せまでもなしそれ故にこそ乱れ髪の。遠近人に面をさらすも。
と笹でサシながら見所を右まで見廻しもしも我が子に廻りや逢ふと。正ヘ向き車に法の声立てゝ。念仏申し身を砕き。我が子に逢はんと祈るなり。とワキへ向き二足ツメ
ワキ「げに痛はしき御事かな。誠信心私なくは。かほど群衆のその中に。などかは廻り逢はざらん。
シテ「うれしき人の言葉かな。それにつきても身を砕き。法楽の舞を舞ふべきなり。
とワキへ向き囃してたべや人々よ。と囃子方の方を見廻し忝なくもこの御仏も。羅睺為長子と説き給へば。と正へ向き
地謡「我が子に鸚鵡の袖なれや。親子鸚鵡の袖なれや百萬が舞を見給へ。
地謡「親子鸚鵡の袖なれや百萬が舞を見給へ。
とクツロギ後見に笹を渡し扇を持ち
シテ「百や万の舞の袖。
地謡「我が子の行方。祈るなり。
とサシ込ヒラキ イロエ

「忝なくもこの御仏も。羅睺為長子と説き給へば」は釈迦が実子の「羅睺羅」を仏弟子にしたことを指し、我が子を思う心は釈迦にもあるのだから、その加護によって自分の子とも巡り会うことができるだろう、という意味。

さてここにも、またまた、『百萬』の特異な一面が現れます。すなわち「遠近人に面をさらすも」と笹でサシながら見所を右まで見廻したり、「法楽の舞を舞ふべきなり。囃してたべや人々よ」と囃子方の方を見廻したりする型で、見所におられるお客さまを大念仏の観衆と見立て、また囃子方を念仏の囃子衆に見立てているわけです。見所のお客さまを群衆に見立てる型は能の中では時々見られるのですが、囃子方を巻き込むような型はちょっとほかの能にはない型ではないかと思います。

もちろん、たとえば『高砂』の後シテも「清しめ給へ宮つ子たち」と囃子方の方ヘ決める型もないわけではないのですが、『百萬』はあまりに直裁的な感じですね。昨日行われた稽古能でも、この場面でついつい目を上げた囃子方と目が合ってしまいました。(゜_゜) そのうえこの場面、囃子方のお流儀によっては、まるでシテに「囃してたべや人々よ」と促されたから囃し始めるように見えるのです。

どういう事かというと、まず、地謡が謡い出す場面ではほぼ必ず囃子の演奏を伴うのですが、そこに到るまでにシテとワキなどの役者が問答を重ねている中で、大小鼓が「アシライ」と呼ばれる演奏を行うことがしばしばあるのです。この「アシライ」、いうなれば場面の雰囲気づくりのための…言葉はあまり良くありませんがBGM的に打たれる演奏です。問答も積み重なるうちに次第に盛り上がりが生まれ、それがピークになったところで叙述は地謡が引き受け、シテは地謡が描く世界を表象するように舞う、という演出パターンを多く使いますが、その問答の盛り上がりを囃子の演奏が助けて、より豊かに場面の雰囲気を盛り上げることになります。

ところが役者の問答の中のアシライは、曲ごとに(というか場面ごとに)囃子方の流儀によって有無が決められているのです。すべての大小鼓のお流儀がアシライを打つ場合もあれば、打たないと決められている場合もあります。大小鼓のどちらかのお流儀だけが打ち、他方は打たない定めの場合さえあって、この場合は大小鼓のどちらかが他方にお付き合いをしてアシライの有無がその場で決められます。東京では多くの場合大鼓のお流儀の定めに小鼓がお付き合いする慣習があるようですが、それも絶対ではなく、また地方によって事情が異なるようにも伺っています。

『百萬』の場合も、お囃子方のお流儀によってはこの場面より少し前のおワキの言葉「「げに痛はしき御事かな」からアシライを打ち出しますから、その場合はシテが「囃してたべや人々よ」と謡ったときにはすでに演奏が続いているわけで、シテの言葉には現実的な意味合いはなくなります。ところがここでアシライを打たないお流儀がお相手の場合は、シテの言葉「囃してたべや人々よ」と聞いて、まるでそれに促されたかのように、舞台の床に置いた大小鼓を取り上げて演奏の準備を始めるのです。

これは、もちろんシテの要請に従った、というような事ではありませんで、お囃子方は地謡が謡うときには ほぼ必ず演奏のお付き合いをするのですから、『百萬』では地謡の「我が子に鸚鵡の袖なれや」で演奏を始めることになります。その準備のために、舞台に置いた鼓を取り上げて演奏の準備をするタイミングが…ちょうどこのシテの文句のあたりになるのです。

がしかし、シテが「囃してたべや人々よ」と謡いながら囃子方を向き、それから大小鼓が楽器を取り上げる様子は、これは偶然の産物ではないでしょう。作者がこういう面白い効果を狙って、わざと台本を作ったと考えるのが自然ではないかと思います。

本来は舞台で起こっている事件とは別世界であるはずのお客さまを舞台上に巻き込むような演技は能に限らず演劇には時々見られることではありますが、場面に本来は存在せず、影のようにその場にいて舞台を補強する役割の囃子方まで場面に引っ張りあげるかのような『百萬』の演出はじつに特異で、こういう姿勢はこの場面に限らずこの能の全体に渡って貫き通されています。
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百萬~異色づくめの物狂い能(その3)

2011-11-12 06:19:01 | 能楽
「車之段」というだけあって、ここではシテは車を引いている様子が描かれています。ここでいう車とは、かつて芸能者がその上に乗って舞を見せた「舞車」…ようするに山車のようなものだと思いますが、それを想定しているのでしょう。仮設舞台を自分で移動して演じたというような事があったのだと思います。しかしここではシテが実際に車を引いているのではなくて、そのような車を引いて渡世をするような芸人の身に重ね合わせて、煩悩が積み重なった凡夫の罪の重さを表して、救いを阿弥陀如来に求める、という意味と考えておいた方がよいのでは、と思います。

これにて太鼓は打ち止めて、その後この能の中で再び太鼓が打たれることはありません。通常は能の後半部で打たれる事が多い太鼓が、シテの登場の冒頭付近だけで演奏されるのは、ほかに例がないわけではないですが、やはり稀有な例だと思います。「車之段」に続いて大小鼓だけで囃され、そしてまた、徹頭徹尾シテと地謡の掛け合いで終始する「笹之段」へと舞台は進行して行きます。

地謡「げにや世々ごとの。親子の道にまとはりて。親子の道にまとはりて。なほこの闇を晴れやらぬ。と右ウケて見上げ
シテ「朧月の薄曇り。
地謡「わづかに住める世になほ三界の首枷かや。
と笹を両手にて首にかけ牛の車のとことはに何処をさして引かるらんえいさらえいさ。と左右に出て正先へノリ込、足を高く上げて下ろし
シテ「引けや引けやこの車。
と先を見てサシ
地謡「物見なり物見なり。
と角へ行き
シテ「げに百万が姿は。
地謡「もとより長き黒髪を。
と大小前へ行き
シテ「荊棘のごとく乱して。
小廻り
地謡「古りたる烏帽子引きかづき。
と笹を高く上げて倒し
シテ「また眉根黒き乱墨。
地謡「うつし心か村烏。
と脇正の方ヘ見回しながら出
シテ「憂かれと人は。添ひもせで。
とクツロゲ、シオリながら大小前へ行き
地謡「思はぬ人を尋ぬれば。
シテ「親子のちぎり麻衣。
地謡「肩を結んで裾に下げ。
と中へノリ込
シテ「裾を結びて肩にかけ。
と笹を右肩にかつぎ
地謡「筵片。
シテ「菅薦の。
地謡「乱れ心ながら南無釈迦弥陀仏と。信心を致すも我が子に逢はんためなり。
と正先へ出て下居、笹を置き合掌

仕舞でも舞われる「笹之段」はシテの心情を深くえぐって悲しい文章です。…と同時に、シテの姿もこの場面で説明されていますね。黒髪を振り乱し、古びた烏帽子をかぶり、描き眉も乱れた有様。身にまとう衣は麻衣で、肩を結んで裾に下げ、また裾を結んで肩にかけて…ここは難解ですが、ぬえはどこが肩か裾かもわからないようなボロ切れの衣の様、と読んでいます。前に麻衣とありますから、筵ぎれや菅菰を着ているのではなく、まるでそれかのように見える、それでも芸能者であってみれば舞の衣装なのですよね。それが間狂言によって「女物狂」と呼ばれる…もともと芸能には神懸かりのようなものも含まれ、生き別れた我が子を求めてさすらう狂女能のシテが笹を持っているのも、自分の取り乱した有様をシャーマンのような姿に仮託して、身の安全をも図り、またあてのない旅の生活の糧を得ることもあったかもしれません。まして烏帽子をかぶり舞の衣装を着ている『百萬』のシテであるのに、やはり狂女としてしか認識されない事が、シテの悲劇を説明しているのだと思います。

と、この場面の最後に「乱れ心ながら南無釈迦弥陀仏と信心を致す」という文言があって、釈迦如来と阿弥陀如来が一緒くたになって信仰されています。じつはこれが『百萬』の、とても大きな特長だと思います。このあとも、この曲の中でシテが崇敬しているのは釈迦尊と阿弥陀尊の両方なのですよね。

ワキが冒頭に「この頃は嵯峨の大念仏にて候程に」「念仏に参らばやと存じ候」と述べる通り、この曲の舞台となっている嵯峨の清涼寺は「大念仏」「念仏狂言」で有名な浄土宗の寺です。しかしそれをなお凌駕して有名なのが「三国伝来」といわれる国宝の釈迦立像で、釈迦在世時代のインドで生身を写した像が中国に渡り、これを模刻して日本に伝えられた、とされるもの。その後頻繁に出開帳が行われて信仰を集め、この像の様式を受け継いだ(尊顔までは写されていないものが大多数ですが…)「清涼寺様式」と呼ばれる像が各地に作られたほどです。

つまり清涼寺はもともと阿弥陀尊と釈迦尊のふたつに対する信仰を受け入れていたわけで、従って『百萬』のシテも浄土系の「百萬遍念仏」を由来とする名前であっても、同時に釈迦を信仰することに違和感は生じないはずです。でも、むしろ ぬえが思うのは、芸能者の阿弥陀信仰なのですよね。端的な例が観阿弥・世阿弥をはじめとする「阿弥陀号」。世阿弥は足利義満の影響もあって、自身は禅宗であったはずですが、それでもやはり阿弥陀号を名乗っています。これを説明すると長くなるので割愛しますが、自身のなりわいがそのまま「狂言綺語」「妄語」の罪を重ねる事であって、それだけに来世に絶望的な不安を持つ芸能者にとって、現世利益を説いた阿弥陀如来はまさに救済のよすがだったのでしょう。そう考えてみれば『百萬』のシテは浄土信仰と生身の釈迦への結縁と、このふたつの道が同時に開かれる清涼寺というユートピアにある理想的な姿といえるわけで、かつては能役者も『百萬』を演じる中で、自分の姿をシテに投影してひそかに自らの救済を願ったのではないかな~、と考えたりします。

あまり脱線しないようにしなければなりませんが…総じて能の中で芸能者はかなり好意的に描かれているように思います。芸能がもとで神仏の加護を受けて窮地を切り抜けた、とか、芸能者になりすまして親の敵に近づいてこれを討ったとか。なんだか狂言綺語として現世での罪を重ねている、と考えられる芸能に対する、演者からのアンチテーゼというか、自負のようなものが垣間見えるのですよね~。

さて「笹之段」を舞い終えたシテは狂気も覚めた体で静かに本尊(あの三国伝来の釈迦立像ですね)に向かって我が子との再会を祈ります。これを見た子方は、この狂女こそ我が母だと気づきます。

シテ「南無や大聖釈迦如来。我が子に逢はせ狂気をもとゞめ。安穏に守らせ給ひ候へ。
子方「いかに申すべき事の候。
と子方はワキヘ向き謡い、シテは笹を持ち立ち上がり、静かにシテ柱へ行く
ワキ「何事にて候ぞ。
子方「これなる物狂いをよくよく見候へば。故郷の母にて御入り候。恐れながらよその様にて。問うて給はり候へ。
ワキ「これは思ひもよらぬ事を承り候ものかな。やがて問ふて参らせうずるにて候。
とワキは立ち上がりシテへ向く

あまりに様子が変わった母の姿に確信が持てなかったのか、ひと目を気にした(嵯峨の大念仏で周囲には大勢の見物人がいた)のか、まずはワキを通して母親本人であるかの確認作業から始まります。
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百萬~異色づくめの物狂い能(その2)

2011-11-11 00:26:11 | 能楽
昨日は学校公演の3日目で富山市の中学校での上演でした。全校生徒600人以上という、とても大きな中学校でしたが、体育館も校庭もともかく巨大でびっくり。しかし なにより驚いたのはその600名の生徒さんが開演前に私語ひとつ、ひそひそ話ひとつしないこと。広い体育館に600人もの生徒さんが集まっているのに しーんとしています(!)。狂言の上演中も笑い声ひとつ立てないので心配にさえなってきましたが、だんだんと元気も出てきて、みんなで謡う体験をするコーナーでは大きな声も出てきたし、質疑応答も活発でした。タイトル画像は新潟から富山に向かうバスの車窓から見た夕焼け。

それにしても、富山というところは初めて来たけれど、ここは良いところですね。立山連峰が雄大に…それこそ壁のように遠望できて。夜にホテルの近所のお店で聞いた「おわら風の盆」の話にはとても興味を惹かれました。三味線と胡弓と歌い手さんの演奏による静かな静かな踊りが坂の町を練り歩く…その静けさは、うっかり携帯が鳴ったら 睨まれちゃうほどで、その踊りが三日三晩繰り広げられるのですって。見に行きたいなあ。。

さて『百萬』に戻って。

シテの装束は面=深井、鬘(羽元結つける)、無紅鬘帯、前折烏帽子、着付=摺箔、無紅縫箔、無紅腰帯、長絹、笹(後に無紅狂女扇)。この装束付がまた独特ですね。能の狂女は生き別れた我が子を探し求めて旅に出ている母親ですから、家を飛び出してきたままの軽装か、または道中着のような姿です。前者は唐織の右肩を脱ぎ下げた形で、『花筺』や『班女』などに例がありますが、どちらかというと恋人を捜し求めるような若い女性の役に多いようですね。子を求める母の姿としては『桜川』『三井寺』『隅田川』などのように、水衣を着て、時には笠をかぶっています。狂女の出で立ちで共通しているのが持ち物の笹ですが(『班女』は例外)、これは神懸かりした巫女の姿がモチーフになっているのだと思います。

ところが『百萬』のシテだけは、狂女の出で立ちとしては かなり異様で、烏帽子・長絹を着ているのですよね。これはどう考えても芸能者の姿で、ぬえはこれは男装している芸人…すなわち白拍子の姿が仮託されているのだと思います。

そこで気になるのが『山姥』に登場するツレの「百万山姥」です。『山姥』の中では「隠れない遊女」と紹介され、その名は「山姥の山廻りするということを曲舞に作って御謡いあるにより、京童の申し慣わして候」というわけで、どうやら「百万」が当人の名であるようです。「遊女」と言われていますが、現代の言葉で言えば「芸者」のような人だったのでしょう。

これが『百萬』のシテと同一人物であるかは不明で、そもそも狂女能のシテで名前を持っていること自体が珍しいことです。ほかには『班女』の「花子」、『蝉丸』の「逆髪」くらいのものでしょうか。さらに「百萬」というのは名前なのかも疑わしいかもしれません。浄土系の「百萬遍念仏」を由来とする、と考えた方が自然であるように思うし、要するに踊り念仏のような芸を見せる芸能者であるのでしょう。そうであるとすれば間狂言が念仏の音頭を取るのを「もどかしい」と思ってシテが登場するのにも正当な理由があることになります。

さてシテに笹で打たれた間狂言はシテに念仏の音頭を譲ることになります。

間「ほ。蜂が刺いた。
シテ「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候べし。
間「げにげに我等は下手にて候間。方々音頭をとり。面白う念仏を御申し候へ。や。


これにて間狂言が切戸口へ引き、シテは正面に向いて謡い出します。

シテ「南無阿弥陀仏。
地謡「南無阿弥陀仏。
シテ「南無阿弥陀仏。
地謡「南無阿弥陀仏。
シテ「弥陀頼む。
地謡「人は雨夜の月なれや。雲晴れねども西へゆく。
と幕の方へ向き
シテ「阿弥陀仏やなまうだと。
地謡「誰かは頼まざる誰か頼まざるべき。
と左袖を返して左右打込ヒラキ
シテ「これかや春の物狂ひ。
地謡「乱心か恋草の。
シテ「力車に七車。
と先まで出ながらノリ込
地謡「積むとも尽きじ。
シテ「重くとも。引けやえいさらえいさと。
と笹の上に左袖を返して左右と一足ずつクツロゲ、車を引く心で常座まで下がり
地謡「一度に頼む弥陀の力。とサシ分頼めや頼め。南無阿弥陀仏。と右へ廻り常座にて左右打込ヒラキ

この場面、「車の段」と呼ばれる段物として扱われ、仕舞もある場面です。太鼓が入って「渡り拍子」と呼ばれる拍子当たりに属する場面ですが、これまた『百萬』に独特の小段ですね。この「車之段」に続いてシテと地謡がずっと掛け合いをしながら進行する「笹之段」という小段が続きますが、いずれも狂女能に他に例がない展開です。
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百萬~異色づくめの物狂い能(その1)

2011-11-09 09:36:41 | 能楽
ただいま学校公演で富山市に来ております。一昨日、昨日と新潟県の中学校の生徒さんに見て頂いたのですが、何といっても行儀の良さに出演者一同感激! 加茂市の公演では、本来ひとつの学校で公演するはずだったのが、市が大変盛り上げてくださって、なんと市内の全中学校の生徒さんを集めての公演となり、会場も文化会館のホールとなりました! 質疑応答も活発。たぶんこれまでの学校公演の中で一番長い時間が掛かったのではないでしょうか。こういうのを見ると、出演者としても勇気づけられますね~。タイトル画像はまず最初の宿泊地である新潟市のホテルの窓からの夜景。信濃川がすぐ目の下でした。

さて何かと時間がなくて、ぬえがシテを舞うたびに行っている作品研究も開始があまりに遅くなってしまいました。今回は11月17日に勤めます『百萬』について。狂女能は数多くあり、また『百萬』はその中でもポピュラーな能ではないかと思いますが、この曲はまさに異色づくめの狂女能といえるでしょう。毎回20回以上は連載が続くので今回は公演日の前までにうまく書き上げられるか心配ではありますが、とりあえずこの曲の考察を始めてみようと思います。まずは例によって進行に従って舞台鑑賞の解説など。

囃子方、地謡が着座するとすぐに大小鼓は床几に腰掛け、笛がヒシギという、「ヒー、ヤーァーー、ヒーー!」という鋭い音を響かせて大小鼓も打ち出し、「次第」が演奏され、子方とワキが登場します。以前にも書きましたが、おワキの登場に「次第」は大変多く使われる登場音楽です。これと「名宣笛」でほとんどの能のおワキの登場は網羅されるのではないかしら。そのほかの登場音楽として「一声」「出端」「早笛」が能では多く演奏され、さらに「下リ端」「アシライ出」などがこれに続くと思いますが、この中ではおワキの登場には「一声」が稀に演奏される程度で、そのほかはシテ、またはツレの登場に演奏されます。もっとも「名宣笛」はおワキに専用の登場音楽で、そのほかの役の登場では絶対に演奏されない、という特色があります。

多用される「次第」「名宣笛」のうち、どちらかというと「次第」がカッチリとした、様式的で端正な登場をする場合に用いられ、「名宣笛」はもう少し叙情的な登場をする場合に用いられます。これらに当てはまらない、たとえば急迫した登場をする『土蜘蛛』では「一声」が演奏されるわけで、『鉢木』などの「一声」もこれに類する登場の仕方です。これから考えると、『羽衣』のワキが「一声」で登場するのは少々異色ではありますね。

さて登場した子方は稚児着、稚児袴に中啓を持っています。市井の稚児の役のもっともありふれた装束付です。またワキも段熨斗目、素袍上下、小さ刀に鎮扇を持った、俗に「素袍男」と呼ばれる出で立ちで、これも市井の男性の一般的な姿です。狂女能ではおワキが僧であることも多く、その場合は最終的に神仏の恵みによって親子が邂逅できた、という説諭譚として能が描かれている、その伏線でもあるわけで、素袍男のおワキの場合にはその意味合いは薄れるとは思います。とはいえそのような狂女能もほかに例がないわけではなく、また『阿漕』のように地獄に堕ちた亡者が救済を求めて現れる能でもワキが僧でなく素袍男である場合もあるので、これを以てとくに『百萬』が異色、というわけでもないようですが。

「次第」の中で舞台に入った子方とワキは舞台の先で向き合い、謡い出します。

ワキ「竹馬にいざやのりの道。竹馬にいざやのりの道。誠の友を尋ねん。

これを「次第(謡)」と呼び、七五・七五(初句の反復)・七五の三句で謡われる、「次第」で登場した役が必ず謡う定型の句です。続いて地謡がその二句目と三句目を低吟する「地取リ」があるのもまた「次第」の定型。

>b>ワキ「これは和州三吉野の者にて候。またこれに渡り候幼き人は。南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。この頃は嵯峨の大念仏にて候程に。この幼き人を連れ申し。念仏に参らばやと存じ候。

おワキが仏門にあれば稚児を拾い育てることもひとつの徳行なのでしょうが、『百萬』では市井の男性ですからその義務もなく。生活に余裕のある篤志家、というところでしょうか。じつはこの曲の特異性のひとつがこのワキと子方の関係なのです。この曲では子方が母である百萬(シテ)を生き別れになった理由が最後まで明らかになりません。そうして生き別れた子は寺ではなく一人の市民によって拾われた…能のプロットとしてこれらの事は重要ではないかもしれませんが、ほかの狂女能と少し違う雰囲気がこの曲全体に横溢する理由のひとつではあろうかと思います。さてこの「名宣リ」の終わりにおワキは両袖を前で合わせる型…「掻き合セ」とか「立拝」と呼ぶらしいですが、定型の型をして、子方に向き直り

ワキ「まづかう渡り候へ。

と促して子方は脇座に着座します。ワキはそれとは離れてシテ柱に向かい、間狂言に声を掛け、問答となります。

ワキ「門前の人の渡り候か
間「門前の者とお尋ねは。如何やうなる御用にて候ぞ。
ワキ「これは和州三吉野の者にて候が。小人を伴ひて候程に。何にても面白き事の候はば見せて賜り候へ。
間「さん候この嵯峨の大念仏は。人の集まりにて候間。面白き事数多ござ候。中にもここに百萬と申す女物狂ひの候が。我ら念仏を申せばもどかしいとあって出でられ。面白う音頭をとり申され候。これを呼び出だし御目に掛け申さうずるか、ただし何と御座あらうずるぞ。
ワキ「さらばその百萬とやらんを見せて賜り候へ。
間「やがて呼び出だし申さうずる間。まずかうかう御通り候へ
ワキ「心得申し候。


稚児を伴っているワキに対して間狂言が面白いものを見せる、というのは『三井寺』などにも例がありますし、また狂女能でなくても『鞍馬天狗』などにもある場面です。また、狂言自身が芸を見せるのでない場合は、『百萬』のように「面白い物狂い」を見せよう、と言ってシテを呼び出す曲も『櫻川』などに例があります。ところがここから先が『百萬』の特異なところで、間狂言が稚拙な芸(?)を演じれば、シテが「もどかしい」とて登場する、それを見せよう、というのです。

ワキが子方の隣りに着座すると間狂言も舞台に入って大小前で扇を開き、念仏を唱え始めます。

間「南無釈迦牟尼仏。
地謡「南無釈迦釈迦釈迦
間「南無釈迦釈迦釈迦
地謡「南無釈迦釈迦釈迦
間「さあみさ、さあみさ。さあみさ…


間狂言の念仏に続いて地謡が二度だけ「南無釈迦釈迦釈迦」と「地取リ」のように低吟します(次第謡ではないので「地取リ」ではないはずですが、付ケにはハッキリと「地取」と書いてありました)。間狂言のお流儀により「南無釈迦釈迦釈迦」だったり「南無釈迦牟尼仏」だったりと文句は異なりますが、地謡は「南無釈迦釈迦釈迦」と謡う定まりとなっています。もっとも最近は間狂言の依頼によって、間の文句に合わせて謡うようにもなってきたようです。間狂言はこの二度の「地取リ」のあと「さあみさ…」と繰り返して謡いながら舞台を8の字を描くように廻ります。

この最初の「地取リ」でシテは幕を上げて橋掛リを歩み出し、舞台に入る前に間狂言を見て、笹を振り上げて小走りに歩み寄り、間狂言の右肩のあたりを笹でひとつ打ちます。これ、いつも思うことですが、なんともシテの登場の仕方としては特異ですね。そうして、シテが舞台に入るときを見計らって、ちょうど舞台中央のあたりに正面を向いて立つように型を調節する間狂言も難しい役だと思います。
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子ども創作能 大仁神社例大祭公演…がんばりました

2011-11-06 00:46:13 | 能楽
翌日! 天気も良いし、子ども能は恵まれていました。

ぬえは三島に宿泊していましたが、ちょうど三島駅に到着した笛のT氏と待ち合わせて朝10時頃に子ども能の控室…大仁神社に隣接する保育園に到着。装束の準備をしていると、子どもたちも続々集まって来ました~。

今日は午後1時30分の上演なので準備の時間はかなり余裕があります。装束の仕掛けをして、小道具類の準備をして。主催者から子どもたちに、神社の祭礼にはつきものの露店の金券を頂いていたので、それを配ってしばらく遊んでもらいます。ぬえはこういう時、大概は準備のために何も食べられないので金券も辞退したのですが、子どもたちが「じゃ、先生の分も買ってきてあげる!」と。をを~うるわしき師弟愛。で、やきそばとじゃがバターが運ばれてきました。やった~今日は昼食抜きにはなりませんでした。ところであとで露店を見に行ったら、子ども能のOGたちが やきそばを売っていました。…といっても中学生なんで、焼き上がったやきそばに紅ショウガをかけるとか、青のりをかけるとか、そういうお手伝い。(^_^;)。

正午頃から子どもたちの装束の着付け。源頼朝、北条政子、北条時政、そして山木兼隆の4人の着付けをするのですが、ぬえがたった一人で着付けるので、まず1時間近くかかります。それでも今回はことに姿良く着付けることができました。

さてさてその後神社の舞台に移動して開演を待ちます。最初に ぬえら講師の出し物があって…ぬえは石巻での活動をお客さまに説明して、少しだけ舞い、続いて1年生の仕舞『玄象』。今回は1年生が大活躍だったですね~。まあ、この かわいい演目に勝てるプログラムは存在するまい!そうして いよいよ『伊豆の頼朝』の開演です。

平治の乱に負けて伊豆に流された頼朝(ヒトミ・左)は、北条時政(イチイ・右)らの庇護を受け、またその娘・政子(カホ・中央)を妻に迎えて平和に暮らしていましたが、清盛を討つべしとの高倉院の令旨を受け、また後白河法皇の院宣もあって、ついに挙兵することを決意しました。



頼朝は三島の神、伊豆山の神、そして都の男山八幡の神に戦勝を祈願すると、政子も氏の神である八幡宮に舞を奉納します(史実ならず)。平家の伊豆目代・山木兼隆を討つ時節も今なりと、頼朝の命によって家臣の武士たちは一路、山木館を目指すのでした。今回は千早を買って、政子の装束を替えてみました。



一方山木館では、おりしも三島大社の祭礼のために軍勢の多くが参詣に出払っていました。兼隆は油断して、館でも酒宴を開くこととします(←史実ならず)。そこに押し寄せる源氏軍。八十余騎の少ない手勢で平家の武士と渡り合います。





なんかうれしそうだな~…

家臣を失い、頼朝との一騎打ちに臨んだ兼隆(←史実ならず)ですが ついに破れ、縄をかけられて引き立てられてしまいます。



終了後は再びみんなで舞台に出てご挨拶~。今年から始めたこのカーテンコールですが、能では本来こういう作法はないのだけれど、子ども能ではやって良かったと思います。お客さまも喜んでくださいました~。



さらに神社の鳥居の前でみんなで記念撮影! ん~みんなお疲れさまでした~。…と思ったら、 ぬえに声をかけてくださる方がある。伺えば、最近ブログにコメントを頂いている 水無月李雨さんでした! 東京にお住まいなのに、わざわざ子ども能をご覧になるために伊豆にお出でになって頂いたのだそうです。

さて保育園でみんな着替えてから、講評タイム。ぬえは安心して見ていられたので、またしても、の300点満点をつけてあげました。そうして ぬえから子どもたちに ごほうびをプレゼント! …これが毎回 散財するのでアタマが痛いところではありますが。T先生からも子どもたちに地方公演で買ったおみやげがプレゼントされました。

講評も終わって解散…にはなりましたが、子どもたちと一緒にファミレスに食事をしに行くことになりました。これ、なんと10日ほど前の稽古日のときに子どもたちから出された提案でした。先生やみんなと一緒にごはんを食べに行きた~い。ある種の感謝の心のあらわれなのかなあ。しかし12年の指導の中でも、食事に誘われたのは初めてでしたから、とってもうれしかったです。

こうして、夏から引き続いての公演で大変だった子ども能もひと段落。次回は2月中旬に公演があります。今年は参加者もやや少なかったのに配役を毎回替えたり、稽古ではみんな苦しんだと思います。それなのに ぬえは台本を改訂して演技を難しくしたり、1年生を武士役に抜擢したり、と、やりたい放題でしたが、(;^_^A  それでも み~んな良くついて来ました。がんばったね~。

食事会のあと、ぬえはT先生と水無月李雨さんと一緒に車で東京に帰りました。ああ、いい汗かいた!
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子ども創作能 大仁神社例大祭公演…終わりました~

2011-11-04 21:58:14 | 能楽
昨日は子ども創作能の公演で伊豆におりました。いつもの通りその前日には伊豆に入ったのですが、公演日が「文化の日」の祝日で、その前日は平日。昼間は子どもたちは学校なので夕方になってから神社のお舞台を拝借して最終稽古に臨みました。

まずはみんなでお舞台を拭き掃除~。舞台そうじは公演の前にはできるだけ子どもたちに課しているのですが、…そういえば笛のTさんが9月の子ども能の時に、前日の舞台そうじを撮影していたのを思い出した。石巻でだったかなあ、その映像をiPadで見せてくださったのですが、そりゃもう大笑い!





そうじが終わって、さて明日と同じ舞台で最後のお稽古。前回の公演から1ヶ月もないのに、今年は公演のたびに配役を交代する、という方針を採ったため稽古が大変でした。できるだけみんなに役をまわし、主役も交代で演じられるように、と子どもたちの保護者のアイデアに ぬえが乗った格好でしたが、公演スケジュールから考えると、毎回の配役交代はちょっと無理がありました~。

とはいえ、何度も配役を交代しているうちに、子どもたちもいつの間にか それぞれの役を覚えてしまったようで、一度稽古日を増やしただけで、すっかりみんな出来上がってしまったのだった。やっぱ脳細胞がフレッシュなのねぇ。。

そのうえ今回は、なんと小学1年生を立ち方に大抜擢!! これまた配役を毎回交代している間に、地謡ばかりずっと勤めている低学年の子にもスポットを当てたくなってきまして、ついつい「この子たちにもやらしてみよう…」と思った…ん~、じつは思いつき程度にしか考えていませんでしたが。

ところがこれまた稽古の時点で立派に役をこなしてしまったのでした。これまで子ども創作能では12年間も小学生に教えてきたけれど、1年生に役を与えたのはこれが初めて。もうちょっと ぬえに時間があれば、それなりに型を簡単にするなどしたのだけれど、元々が思いつきだったので、その配慮さえしなかった ぬえの無責任ぶりでしたが…1年生は簡単にこの課題を乗り越えてしまったのだった。。ふ~ん、これも出来るのかあ。

そんなわけで、この日の最終稽古もほとんど心配することなく、1回の稽古ですぐに終わり。なんだか失敗とか、こちらが苦笑いするような場面がなくて、つまんない~(__;)

終了後は大仁神社の神主さまにお願いして、子どもたちにお祓いをして頂きました。神主様の祝詞は、なんだかとっても暖かい内容に ぬえには感じられました。定型、というものはあるのでしょうけれども…

それでも神主さまからは さらに子どもたちにねぎらいのお言葉を掛けて頂きました。願成就院さまといい、この大仁神社さまといい、子どもたちは愛されていると思いますね~。

というわけで翌日が大仁神社の秋の例大祭。子ども能の本番の日です~~!
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梅若研能会11月公演

2011-11-03 00:01:34 | 能楽
もう今月なのですが…来る11月17日(木)、師家の月例会「梅若研能会11月公演」にて ぬえは能『百萬(ひゃくまん)』を勤めさせて頂きます。じつは ぬえ、子どもと再会する狂女能を勤めるのはこれが初めて、という…狂女能では『隅田川』や『班女』はやったことがあるのにねえ。。

ところがこの『百萬』、生き別れた子どもと再会する、という、狂女能では常套の筋立てを持ちながら、どうも他の狂女能とはまったく違う趣を至る所に持っていますね。もう、シテの登場のしかたからして他の能とはまったく違いますし、装束も、組み立て方も独特の能だと思います。

いろんな事を考えながら稽古はずっと進めておりまして、例によってこのブログで作品研究みたいなこともしてみたいのですが、いかんせん今回は震災のあとずっと進めている被災地支援の活動の報告に時間が掛かってしまいまして…今回ばかりは『百萬』という曲を掘り下げるのにも不完全な内容になってしまうかも…。それでも今から上演は大変楽しみにしております。平日の昼間の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 11月公演

【日時】 2011年11月17日(木・午後2時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

    仕舞 楊貴妃    伊藤嘉章
        花 筐クルイ 中村 裕
        歌 占キリ  遠田 修

 能  敦 盛(あつもり)
     前シテ(草刈男)/後シテ(平敦盛) 梅若久紀
     ツ レ(草刈男) 長谷川晴彦/梅若泰志/古室知也
     ワ キ(蓮生法師)野口能弘/間狂言(里ノ者)善竹富太郎
     笛 栗林祐輔/小鼓 住駒允彦/大鼓 大倉栄太郎
     後見 中村裕ほか/地謡 梅若万三郎ほか

   ~~~休憩 15分~~~

狂言 柑 子(こうじ)
     シテ(太郎冠者) 善竹十郎
     アド(主何某)  善竹富太郎

能  百 萬(ひゃくまん)
     シテ(百萬) ぬ え
     子方(百萬ノ子) 豆ぬえ
     ワキ(里人)村瀬慧/間狂言(所ノ者)善竹大二郎
     笛 松田弘之/小鼓 幸信吾/大鼓 柿原光博/太鼓 大川典良
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 青木一郎ほか

                     (終演予定午後5時10分頃)

【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

よろしくお願い申し上げます~~m(__)m

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改めまして…3度目の石巻市訪問(その8)

2011-11-02 02:30:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
9月30日

石巻訪問の最終日。昨夜2カ所で上演があったのにお風呂にも入れなかった ぬえは、う~ん う~んとあちこち場所を探して…理科実験室のような部屋で髪を洗い、体を拭き…。チーム神戸のリーダー・金田真須美さんとこの日に行われる予定になっている茶道家の方とのジョイント・イベントの打合せをするはずなのですが、チーム神戸は毎朝早朝に各地からバスでやってくる泥かきボランティアさんたちの受け入れや指示などの作業に追われてしまうため、9時になってからチーム神戸のボランティア・テント(いまは体育館の中にあり)に行って打合せ。

このイベントだけは早々に決まっていたのですが、茶道と能楽がどうやって一緒にイベントを行うのか…そもそもその前に、石巻へ向かう日が近づいてから、金田さんから「曹洞宗のお坊さんも果物のサービスをなさるので、それとも一緒にイベントを行ってほしい」と言われて ますます混乱していました。

この時の打合せでようやく全貌が見えてきました。このイベントは宮城県内の茶道家の方による、(避難所の)住人さんやご近所さん(在宅の被災者の方)へのお茶会の企画で、それがたまたま ぬえらが希望している上演日と重なったために、金田さんのアイデアで、それなら一緒にやったらどうか、という事になったのです。この日は金田さんとも珍しくずいぶん長く意見交換をしましたが、ぬえに「私たちは住人さんやご近所さんのための仕事もしているけれど、また ぬえさんのようなイベントの…交通整理みたいなこともしているんですよ」とおっしゃっていました。それから先は、もっと日本文化のことなど、かなり面白い話になったのですが…まあ、これは本題とそれますので…。

それから伺った曹洞宗のお坊さんの果物のサービスの話の件…こちらの方が心に沁みました(前述しましたけれども…)。この曹洞宗のお坊さん方は、山形や宮城など東北地方の各地から集まったのだそうです。そうして、それこそ ぬえなんかが湊小学校を訪れるよりもずっと以前から、お茶やコーヒーをこの避難所に運んでは住人さん方にふるまわれる活動をなさっておられました。ぬえの目に触れなかったのは、ぬえのように体育館で派手に活動するのとは違って、住人さん方の居室(教室…ですね)を廻って、お一人おひとりの住人さん方にお茶を汲んで勧められておられたから。

こうして湊小学校もそろそろ避難所としての役割を終える頃が近づいたので、お坊さんたちは当初、住人さん方にひとつの区切りとしてお茶会を計画されたのだそうです。ところが上記のように茶道家の方も同じ日にお茶会を計画され…。そうしてお坊さん方はお茶会を譲られて、ご自分たちは水菓子のサービスに廻られた…という経緯があるようで、う~んどこまでも謙虚な姿勢に心打たれた ぬえでありました。これはなんとも清々しい話ですね。すごいなあ…

こうしてこの日、ぬえらの能楽の上演、続いて茶道家の方からの薄茶やお菓子の振舞い、また能楽の上演、それから今度はお坊さんによって水菓子がサービスされ…。そのお坊さんの姿に、ぬえは本当に「美しさ」を感じました。どこまでも謙虚。どこまでも心を尽くして。しみじみと。石巻で ぬえが得たものは大きいです。

茶道家の方もこれまた上品で謙虚な方で、 ぬえも狂言ワークショップの間に紋付のままお客になってお茶を頂きましたが、心のこもったおもてなし…ああ、良いですね! お菓子やお茶を頂きながら狂言を見るのも。そうして、お茶を点てる席はボランティアのテントの前であったわけですが、野点に使う大きな傘や、津波の被害に遭った体育館は昼間でも薄暗いのですが、それを逆手にとって風情のある灯籠まで置かれて。いいなあ、心配りって。ぬえも何となく持参した小鼓をその灯籠の横に置いてみましたが…そしたらお笛のTさんも何かの用があれば、と用意された現代の笛をその横に。ああ、さすがにお茶と能のコラボってわけにはいきませんが、これなら心はひとつか。ぬえはこの日、『羽衣』と、ちょっとこちらも心臓バクバクしながら『松風』の、それぞれ一部を上演しました。

どうしても上演では ぬえらの能楽が目立ってしまいますが、フィナーレでは ぬえは茶道家の先生や曹洞宗のお坊さんのリーダー、そしてなにかと ぬえたちの活動にご助力頂いている「チーム神戸」の方々もみんなお呼びして一列に並んでお客さまにご挨拶! ぬえは『高砂』待謡をお客さまに謡って頂いて邪気を払い、狂言のOくんはみんなで「笑い止め」で福を招く。お茶の先生にもお坊さんにも挨拶を頂き。へへ。ぬえはここでも蜘蛛の巣を投げて、「チーム神戸」の金田さんにも投げて頂きました。

そうして…この日3つのグループの合同イベントという難しいシチュエーションの中で総合司会のような立場で「交通整理」をしてくださった金田さんは住人さん方にこう言いました。「こんなに多くの人がこの街を気に掛けてくれています。みんな、元気で」

こうして…5日間(ぬえは足かけ6日~)に渡る被災地訪問は終わり、荷物を片づけて、それから湊小学校のボランティア本部にお別れの挨拶をし、東京で集めたチャリティイベントの収益や、匿名の個人の寄付を決算してその残額を、「チーム神戸」と ぬえが6月に最初に出会った石巻の民間支援団体「明友館」に分配して寄付してきました。

最後に湊小学校を出るとき…「チーム神戸」ほか今日のイベントの出演者の方々まで、体育館の出入り口に並んで手を振ってくださいました。ぬえも車の中から、その姿が見えなくなるまで いつまでもいつまでも手を振って。。ああ、ぬえ、こういうの、ダメ…(・_・、)

いま、ぬえたちは年末に4度目の被災地訪問を目指して計画を立てております。まずは今回の訪問で得た実感から団体名から「被災地」という言葉を削ることを みんなで決め、「能楽の心と癒しを被災地へプロジェクト」は「能楽の心と癒しプロジェクト」となりました。(←注目!)

そうして次回の訪問に際して、上演の受け入れ先をひとつひとつ考えているのですが…これまでは どちらかというと ぬえがこれまでの訪問から得た人脈から現地での公演を見つけてきた感じがありましたが、今回の訪問から持ち前の行動力を発揮して、次々に中途半端な状態だった公演を実現に導いた笛方のT氏が、個人的な交友関係からさらに多くの上演受け入れ先を開拓しつつあります。

それに今回 ぬえらが訪問したことによって、新たに何人もの新しい出会いが生まれました。ここからも新たなものが生まれてくるのだろうと期待しています。

タイトル画像は明友館サイトから拝借しました
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