ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

明日は保育園でデモンストレーション

2007-02-28 02:15:09 | 能楽
じつは今月は ぬえが一人で行う学校関係でのデモンストレーションやワークショップが三つもありまして、これはこれで忙しかったりします。

明日。。厳密には今日、ですね。。には、保育園でデモンストレーションを行います。保育園なんかで能のお話が通用するの? と疑問の向きもおありになろうかと存じますが、いやいや、じつはこれが。むしろ子どもたちが羞恥心に目覚めてしまう年頃より前に、能を体験させてしまうのは とっても有効だと思います。

ぬえは以前に大倉正之助さんの企画に乗っかって保育園で子どもたちと触れあう機会を何度か得ましたし、やはり大倉さんが総合プロデュースを勤められる伊豆の国市での『狩野川薪能』では小学生を中心に本格的な能の稽古も行うようになりました。伊豆の国市では、ぬえは大倉さんから当地での公演の責任者に任命して頂くようになって、とっても貴重な体験をさせて頂いています。いや、本当に子どもたちって素晴らしい。囃子を体験させる場面で 大きな掛け声を出しても彼らはマネしたがるし、能面を見せても目をまん丸にして何かを得ようとしてくれてる。

それやこれやの機会を得た ぬえは、このように すんなりと能の世界に入り込める子どもたちの柔軟性を見て 彼らからとっても勇気をもらったし、何というかな、彼らと一緒に稽古している時の ぬえは、能を楽しんでる。。(~~;)

明日のご報告はすぐにこの場で致したいと存じます。今日はとりあえず展示する唐織やらを用意したり(今回は保育園でのデモンストレーションなので、先生方には“あのー、装束を展示しますので、その前に子どもたちに泥んこ遊びをさせるのだけは勘弁してくらさい。。(・_・、)”とお願いしてありまふ)、ぬえが実演するときに流すMDを用意したり。お弟子さんの稽古や自分のトレーニングをしてからの準備なので、ついに深夜に及んでおります。

それにしても。。ぬえが装束を押し入れから出していると、なんで必ずマリカ姫が「ねえねえ!何やってんの!?」と興味津々に来るんだろうね。ああ==っ、姫!そこに装束を並べるので どうかどいてください~~ (T.T) ああ~~っ その風呂敷をカジらないで~~っ (ノ><)ノ ヒィ

。。を? 姫様はベランダに出御あそばされる? はいはい~どうぞ~~ (^^)v
そのスキに、姫には申し訳ないけれどアルミサッシを一時閉じさせて頂きまして。これで ひと安心。装束をトランクに詰めて、面をいくつか選んでカバンに入れて。あ、そうだ。ぬえが実演する時の扇をどれにするかな。。と立ち上がろうとしたところに。。なぜ。

なぜ姫が ぬえの隣に座っているの? (;_:) 今日は不覚にも一瞬のスキをつかれて鬘帯の畳紙のヒモをかじられてしまいました。。

あ、そうだ姫で思い出した。これ↓ 発見しました。ぜひご覧あれ~~ (#^.^#)

タイトルは ”キミたち、ケンカしちゃダメでしょ!”

インターナショナル邦楽の集い

2007-02-27 01:12:58 | 能楽

もうすぐそこに迫った催しで申し訳ないのですが。。

ボランティアで外国人に長唄の三味線を教えておられる代田インターナショナル長唄会の生徒さんの発表会です。生徒さんのうち、希望者には ぬえがやはりボランティアで仕舞を教えておりまして、半年間の稽古の成果を発表します。外国人だからやっぱり型よりもシテ謡が難しかったみたいね。(^_^;

それでも中には日本人のように、いや、あるいはそれ以上によく出来る人もおります。ぬえも番外仕舞『橋弁慶』で彼らを応援! 

入場券はすでに完売状態らしいですが当日券が多少はあるようです。どうぞお誘い合わせの上ご来場をお待ち申し上げております。m(__)m

インターナショナル邦楽の集い

2007年3月4日(日) 開場2時30分 開演3時
銕仙会能楽研修所 (地下鉄 表参道駅下車A4出口から3分)

【番組】

 長唄 末広がり  
 箏曲       Curtis Patterson (箏)、Bruce Huebner (尺八)
 仕舞 屋島/羽衣/江口/安宅 ぬえ社中
 仕舞 小督 Jennifer Lee(香港)
     松風 Anneke Kranzusch(ドイツ)
     班女 Clayton Evans(ニュージーランド)

 長唄 小鍛冶

      ~~休憩10分~~

 尺八       Bruce Huebner
 箏曲合奏     Curtis Patterson、Bruce Huebner
 仕舞 橋弁慶   ぬえ
 長唄 花見踊り・娘七種
 篠笛と打楽器による合奏
 笛        福原寛
 長唄 鶴亀

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入場料 3,000円(当日3,500円)
主催:代田インターナショナル長唄会

プロの長唄の囃子方のリードに頼りながらも、20名以上の外国人が演奏する長唄は なかなか壮観です。また日本国中で演奏活動をしている箏のカーティス・パターソンさん、尺八のブルース・ヒューブナーさんの合奏は毎年とっても素晴らしく、コンサートに彩りを添えています。

ぬえも生徒さんの仕舞の地謡を勤めるだけでなく、毎年 番外仕舞を勤めているのですが、なぜかこのコンサートでは長刀を使う仕舞ばかり選んでいて。(^_^; 今年の『橋弁慶』で長刀の仕舞はひと通り勤めてしまったな。。あっ! まだ『碇潜』があったか。。来年はこれをやるんかなあ。

ところで、このコンサートに出演するために、米国・ボストンから強力な助っ人が到着しました。当初は代田インターナショナル長唄会の生徒として知り合い、ぬえについて仕舞の稽古も重ねて、2004年の ぬえの米国ツアーでは公演の際の後見や大学での講義の助手も勤めてくれた Janet Pocorobba。彼女はいまはボストンの大学で教鞭を取っていますが、そのほかにも ぬえが執筆している研能会月例会の番組に載せる英文の曲目解説の添削もしてくれています。(^◇^;) すみませんねえ、お忙しいのにっ。また、現在 彼女はひそかに ぬえがボストンを再び訪れて公演するための可能性を探ってくれてもいます。いつかまた、あの町に行けたらいいな。

。。というわけで、今回の画像は彼女のおみやげ「ボストン・レッドソックス」のTシャツ! なんでも松阪の入団でボストンは歓迎ムードで大騒ぎらしい。


           拡大図

。。あ、名前の部分を Dice-K って書いてあるんか。へ~~~。

研能会初会(その15)

2007-02-26 01:55:14 | 能楽
うう~。。二日間ブログの更新をしてないのに、アクセス数を見たら664もある。。日常的な事ばかり書き散らしてますのに。。もっと面白い事を書ければいいんだけど。。ゴメンなさいです~~(;_:)

そしてまた、『翁』に登場する演者の装束の話の続きです。。
翁狩衣→狩衣→直垂→素袍、まで説明が進んだので、長裃、半裃、紋付袴まで話題を進めちゃえ。

裃にはズルズルと長い袴を引きずって歩く「長裃」と、普通の袴と同じ寸法の短い袴の「半裃」があります。普通に「裃」と言った場合はこの「半裃」を指していて、これは正月の初会とか、特別な催し、たとえば別会とか追善能、祝賀能のような場合に囃子方・後見・地謡が揃って着用します。「長裃」は、とくに曲柄が重い能が上演されるときに、同じく囃子方・後見・地謡が揃って着用します。

このように「長裃」も「半裃」も、囃子方だけが着る、とか後見だけが着るという事はなくて、着る場合にはあらかじめ申し合わせておいて、囃子方・後見・地謡がみんな統一して同じものを着るのです。もっとも長裃の場合は、地謡がみんな長裃を着ると地謡座がとても窮屈になってしまうので、近来は囃子方・後見が長裃を着る場合でも、地謡は半裃で勤める場合がほとんどです。

「長裃」を着る重い能とはどんな曲でしょうか。これは重習として扱われる曲で、『猩々乱』から始まり、『石橋』『望月』『道成寺』『恋重荷』『鷺』、そして『卒都婆小町』や『木賊』より奥の老女物などがこれに当たります。もっとも『砧』『求塚』『木曽』『正尊』『安宅』などは上演頻度が高いためか、最近は「半裃」を着たり、いや、袴で勤める事も多くなってきました。また「曲に貴賤はない」という考え方から、(共演する囃子方の同意が得られれば、ですが)極端に重い曲以外ではあまり裃を着ない会もあるようです。

もうひとつ、普段は重習の曲ではないけれど、小書によって ぐっと重く扱われる能もあります。『高砂・八段之舞』、『融・十三段之舞』、『三輪・誓納』、『三輪・白式神神楽』、『安宅・延年之舞』、『屋島・弓流』、『小鍛冶・重キ黒頭』、「平調返」や「甲之掛」(『江口』『采女』『野宮』『楊貴妃』の小書)、「素囃子」(『杜若』『三輪』の小書)、「素働」(『賀茂』『鞍馬天狗』『屋島』の小書)などがそれで、そのほかにも笛方の重習曲『清経・恋之音取』、太鼓方の重習の『朝長・懺法』などもこれに含まれ、いずれも囃子方・後見は「長裃」を着ます。

『翁』の出演者は裃よりも上位の素袍を着ているので、裃とは無関係のようですが、じつは裃を着た出演者が『翁』にも登場しているのです。それは。。囃子方の後見。前述したとおり、とくに大小鼓が床几に掛けるときに、素袍をさばくために後見が必要で、彼らは橋掛りから登場した囃子方が所定の位置に着いた瞬間に、切戸口から電光石火の如く登場して、すぐに囃子方のすぐ後ろに座ってしまうから、見所からは囃子方が着る大きな袖の素袍に隠れてほとんど見えない事と思います。

囃子方の後見は普段は舞台には登場しません。これが登場するのは曲が重習の場合だけで、これは大事な上演曲の場合に、万が一の事故が起こっても確実にフォローする、という意味合いがあるでしょうから、舞台上では(事故が起きないかぎり)何も仕事がなくても、シテ方の後見と同じく欠くべからざる役、と言うことができます。しかし実情として舞台にはほとんどの場合囃子方の後ろには「後見」のような人が座っています。これは大小鼓が床几に掛けるときに世話をしたり、大鼓の革の調子が時間とともに下がってきたときに、中入などの機会を窺って、新しく革を焙じた鼓と取り替えたり、といった仕事をする人で、厳密には「楽屋働き」と呼ばれ、「後見」とは区別されます。(しかし、太鼓方は本来、本役が自分で太鼓を台に掛けるのではなく、その役は太鼓方の「後見」が行うことになっていたり。囃子方にとっての「後見」と「働き」の差は、あまり厳密ではないとも言えますが)。

面白いのは、「後見」にせよ「働き」にせよ、囃子方の後ろに座って補佐するこの役目の人は、本役の囃子方よりも「一ランク下位の服装をする」という定めがあることです。曲目が重習で本役が長裃の場合は後見や働きは半裃を着、催しが特別で出演者全員が半裃を着る場合には、彼らは裃を着ずに袴で登場するのです。

研能会初会(その14)

2007-02-23 22:34:36 | 能楽
「翁狩衣」以外の狩衣について簡単に記しておくと、「単狩衣」は長絹と同じ絽の地で作られ繊細で優美な地色と文様を持ち、もっぱら業平や融などの貴人の役に使います。一方「袷狩衣」は武張った強い文様のものが多く、『高砂』や『賀茂』などの神の役のほか、『鵜飼』などの鬼神の役にも着用します。「直衣」は単衣のものしかなく、もっぱら『融』や『玄象』などの小書のときに単狩衣の替エとしてしか使いません。このように「袷」と「単」では役柄の性格がまったく違うとはいえ、能では狩衣を男性の役用としてはたいへん格の高い装束と位置づけているのがわかります。しかし実際の社会では狩衣は、平安時代には貴人の平常着だし、式服となってからは武士も朝廷に拝謁するときなどに狩衣や束帯姿になったようですね。

直衣・狩衣よりも少し下位に当たる装束が「直垂」です。『翁』では「千歳」「三番叟」そして「面箱持ち」がこの直垂を着ています。テレビなどでも鎌倉時代以降の武士の服装としておなじみの装束だと思いますが、じつはそれは直垂ではなく「素袍」。『翁』では囃子方・後見・地謡がこの「素袍」を着ています。両者は見た目にはそっくりなのですが、直垂の方が素袍よりも高位とされ、仕立てにもいくつか異なる点があります。

まず、素材から異なっていて、直垂は精好や紗が本来で(能装束では麻のものも多いように思えますが。。)、素袍は麻。直垂は裏が付けられた袷仕立てであるのに対して素袍は麻の単衣であること、襟の左右にある胸紐が、直垂は正絹など布地ですが素袍は革製。袖つけと背にある菊綴じも、同じく直垂は布地、素袍は革(直垂にはさらに袴の脇にも菊綴じがつけられます)。さらに直垂には、素袍にはない袖露があります。また袴の紐は直垂が白絹製で、素袍には普通の袴のように背に腰板があり、袴の紐は袴と同じ麻のきれで出来ています。直垂も素袍も全身に総文様が染め出してありますが、素袍には菊綴じがある袖、背、それに腰板に紋を染め出してあります。こうやって見ると、一見同じような装束ですが、ずいぶんと異なる点がありますね。

直垂は江戸時代には高級武士の、束帯・狩衣姿に次ぐ礼装となりました。これに対して素袍は一般的な武士の礼装です。「忠臣蔵」で勅使を饗応する役目を仰せつかった浅野内匠頭が吉良上野介から数々のイジワルを受ける場面がありますが、その中に、勅使を迎える晴れの日の服装を吉良に偽られて裃を着て登城した内匠頭が、周囲がみな「大紋」を着ていて恥をかかされる、という話が出てきます。この「大紋」というのは直垂の背や袖に大きく家紋を染め出したもので、無紋である直垂とは一種別格の趣です。ちなみに ぬえの師家では後見や地謡が着る素袍に、この大紋風に大きく師家の紋が染め出されています。

さて、『翁』では立ち方の「千歳」「三番叟」「面箱持ち」が直垂、演技の場面には登場していない囃子方や後見、地謡が素袍を着ることで、明確に役職の別を表しているようですが、「翁」役だけが別格で狩衣を着ています。大夫の「翁」が老神の役、「千歳」は若者の露払い役、「三番叟」は若者と老神の二つの役を兼ねていると考えられます。しかし「翁」の役も、ほかの脇能に登場するような神の姿とはちょっと違っています。翁狩衣に指貫を穿き、翁烏帽子を戴いている、これは神職の姿でしょう。そして「三番叟」以下、残りのすべての役は(後見や地謡までも含めて)武士の礼装を着ているのです。

神主に率いられた武士の集団が祝祷の儀式を行っている、というのが『翁』の舞台であって、大夫は神官として素顔で舞台に登場し、正面に拝をしてから座に着く。明らかに「翁」は神として登場したのではありません。そして見所から衆目の状態で白式尉の面を掛けて、「神」となります。面が神体なのであって、舞台に登場する順番が、神職である大夫より面が先であるのもそれを裏付けます。いわば大夫は 神官として面を「依り代」として神の代理として神託を受ける超能力者。

それだからこそ舞台に臨む前には潔斎精進をし、ぬえの師匠のように『翁』専用の胴着を普段とは別に用意したり、楽屋に「翁飾り」を飾ったり、そして舞台に出る直前に「盃事」をして「切り火」を受けるのでしょう。

研能会初会(その13)

2007-02-22 13:00:21 | 能楽
ちょっと話が前後しますが、『翁』の大夫をはじめ各役の装束や、囃子方・後見・地謡が着る「烏帽子・素袍」について。

『翁』に限って囃子方や地謡も威儀を正して、普段とは別の服装=素袍=を着ます。素袍は麻の地に染めで文様をほどこした装束で、直垂とよく似て、それよりも少し格が低い装束。江戸時代には武士の礼服で、裃よりも上位の服装です。従って、地謡や囃子方も含めて、能舞台に登場する人物が着る服装の順位はこういった感じになります(男性の服装に限る)

直衣 > 狩衣 > 直垂 > 素袍 > 長裃 > 半裃 > 紋付袴

直衣と狩衣は主に貴人役の装束で、両者はほとんど同じ格を持つ装束だと思いますが、それでも微妙に直衣の方が位が重いように感じます。能装束の狩衣には「単衣」と「袷」があり、『翁』の大夫が着る「翁狩衣」は「袷狩衣」の一種ですが、蜀江文様という独特の文様を織り出した『翁』専用の装束です。

今回の研能会では、今年が先代の師匠の十七回忌追善の年にあたるため『翁』には「法会之式」の小書がつきました(「法会之式」が追善の意味で上演されるのは本来は正しくないのですが、まあこれは上演する側の気持ちの問題でしょう)。ぬえの師匠は今回は茶地に銀の蜀江文様の「翁狩衣」を着用されましたが、当初、装束蔵から白地の「翁狩衣」を出してくるよう指示されたのです。じつはこの日に大夫が下に穿いていた指貫は白地に紺の八つ藤文様のもので、この取り合わせを見た ぬえは「ははあ、師匠は追善の意味を込めて 白式の装束に統一されるおつもりなんだな。。」と、すぐに気づきました。

「白式」の『翁』は金春流などで真っ白な装束で勤めておられる写真を何度か拝見したことがありますが、観世流では見たことがありません。師家の装束蔵にも、本当の意味の「白式」~つまり文様は申し訳程度で、真っ白の無地のように見える装束~の「翁狩衣」はありません。だから今回も本当の意味では「白式」とは呼べないのですが、この『翁』を父親に捧げるつもりで大夫が選んだ、「白式の心」の装束ということになるでしょう。

ところが装束蔵から出されたこの白地の「翁狩衣」を同じく白地の指貫と組み合わせてみると。。どうも取り合わせが悪かったのです。白地が「付き」過ぎちゃう。そこで茶地に銀蜀江の今回の「翁狩衣」に変更されました。舞台の強い照明の下では、銀が勝っているこの「翁狩衣」は必ずや茶地ではなく白地に見えるはずで、案の定、終演後しばらく経ってからどこかで見た能評に、「白地の狩衣に。。」と記されていました。

ちなみにこの白地の指貫は、なんと梅若研能会の初会。。昭和3年に催された研能会の第1回公演に、いまの師匠の祖父・初世 梅若万三郎によって演じられた『翁』のために、当時新調された装束なのです。この指貫が納められている畳紙には装束の名称のほかには、隅の方にひっそりと「昭和三年一月」と書かれてあるのみなのですが、それこそが研能会の初会のあった時なのです。かつて書生時代の ぬえは、戦前の師家の本拠地である「高輪能楽堂」について調査をしたことがありまして、この指貫の来歴はそのときに知ったのです。

もっとも当時はまだ「研能会」という会の名称はなく、実際にこの指貫を使って『翁』が演じられたのは、「高輪舞台披キ」、つまり高輪能楽堂の「こけら落とし」の催しでした。その後この舞台を使っての催しが月例化して、後日 この舞台披キの日に遡って「研能会」と命名された、というわけです。いずれにしても79年前に作られた記念の装束が現代に蘇ったわけですが、この指貫がお蔵から出されてきたときに ぬえは師匠に「これは。。高輪の舞台披キのときの装束ですね」と申し上げたけれど、師匠は「え?そうなの?とおっしゃって、来歴はご存じありませんでした。。やはり昔の事って、しっかり記録しておかなきゃいけないね。

第8回狩野川薪能(その2~別れと出会い)

2007-02-19 11:06:45 | 能楽

一昨日に懐かしいみんなと再会した ぬえでしたが、一方では淋しい思いもしました。去年、あれほど みんなで作り上げた舞台をともにした子たちが顔を見せなかったのです。エリカも来なかったし、マリナもいなかったな。ハルヒも、ヒロノブも。。

狩野川薪能では地元の小学生の出演による「子ども創作能」を上演していますが、これに登場する、シテやワキにあたる主要な役は、ほとんど6年生から選ぶようにしています。小学生が出演する「創作能」ですから、最上級生に主要な役を与えるのは当然で、毎年この時期から盛夏の薪能まで、半年に渡って ぬえら講師が稽古をつけるのも、必然的に6年生が主体になります。そして半年後。中学校に上がると、どうしても部活が忙しくなったり。。 だから本人も父兄も、安易に薪能に参加希望を出しておいて、あとで迷惑を掛けることを気に掛けてくださって、最初から不参加になるのでしょう。そして去年にはすでに中学生だった子たち。いよいよ受験が視野に入って、子ども能からは卒業です。

でも、苦しんだりしながらも稽古に耐えて、とうとう舞台を成功させた彼ら。ぬえも一緒に苦しんだり喜んだりしたから、もう会えないと思うと淋しいです。考えてみれば、狩野川薪能も今年で8年目。第1回から参加している ぬえが教えた「教え子たち」は、計算してみるとすでに高校生から大学生になっているんですね~。感慨。いろいろな出会いがあって、そしていつの間にかお別れしてしまう。またいつか みんなで会えるといいな。。

しかしまた一方、今回の薪能への参加を希望して集まった子どもたちのうち、半数近くの10名は、今年新たに申し込んできた子だったのです。どうやってこの時期に薪能の事を知って、そして申し込んで来たんだろう。もちろん毎年地元で催されている薪能の事はおそらくみんな知っていて(でも今回集まった新人の中には、実際に会場を訪れて能を見た子はほとんどいないようでした)、そうして実行委員会の方々が小学校に積極的に宣伝してくださったものでしょう。

また、ここに書き込みをしてくれるアスカ&アリサのように、お友だちを誘ってくれた子もいたのでしょう。ともあれ たくさんの子どもたちが出演を希望してくれてよかった~。



さて今日の画像は伊豆地方に独特の「吊るし雛」。「雛の吊るし飾り」というのが正しい呼び方のようですが。薪能の後援もしてくださっている「洋らんパーク」に展示してありました。おみやげ用に ぬえが買ったのはこれ!



もちろん。。姫のためですぅ。(#^^#)

第8回狩野川薪能(その1~再会)

2007-02-18 01:44:24 | 能楽

昨日は久しぶりに伊豆の国市へ行って参りました。

もう8年目になる当地で恒例の『狩野川薪能(かのがわたきぎのう)』。今年は8月18日に開催することが決まりました。そしてそこで毎年恒例として上演される「子ども創作能」に出演する地元の小学生たちと、講師となる能楽師との初顔合わせの集まりが昨日行われたのです。と言っても参加した能楽師は「主任講師」?の ぬえだけでしたが。(^^;)

いやいや、時間の余裕がある「顔合わせ」の集まりですから、ぬえはいつもの新幹線ではなく、いっぺん乗ってみたかった「踊り子号」で伊豆に向かいました。でも~~。。下田方面へ向かう、海岸沿いの鉄路を走る「踊り子号」と、伊豆半島の中程を通って修善寺を終点にする列車とではオシャレ度がぜんぜん違うのねえ。。

とりあえず巻頭の画像は車窓から見た相模湾。うう。。寒いっす。(;_:)

が、しかし。まずは見てください、薪能の「初顔合わせ」に集まったこの盛況ぶりを! 昨日までに参加を申し込んだ子どもたちだけですでに23名を数えるほどになりました。すごいなあ。



あ! このブログにも度々書き込んでくれているアリサ&アスカも写っているねっ! さすが昨日の集まりにも最前列に座っていましたね。そして。。彼女たちは、この夏の薪能でみごとに大役を射止めました。うん、この結果を ぬえは うすうすながら予想していましたよ。

そういえば、去年の薪能で「子ども創作能」が無事に終わって、子どもたちが楽屋へ引き上げるときに、その中で大きな声で「ああ、これで終わっちゃうのかあ! つまんなあいっ、ずっとお稽古したいのに~。だって楽しかったんだもん!」って声が聞こえました。あれ、アリサだよね? ぬえはそう言ってもらえて、「ああ、この薪能をずっと手伝ってきて、本当によかったなあ。。」と心から思いました。そしてその後に上演する ぬえが主役を勤める能の準備をするときにも、あの声はとっても力になりました。「よしやるぞっ」ってね。

あれからずいぶん時間も過ぎました。でもブログに楽しそうに書き込んでくれる君たちを頼もしくも思うし、昨日はまた、半年経ってまた みんなが元気に集まってくれて、一番前の席に座っている君たちを見て、本当に薪能でのお役を楽しんでくれたんだなあ、と思いました。

そして薪能でのそれぞれの配役を決めるとき、最前列の君たちは「あの役、やりたいっ」って名乗り出てくれました。ぬえが「この役は大変です」と言ったばかりの役を、「たとえ当日40度の熱が出ていても、ケガをして骨折していても、それでも必ず舞台に立ってもらう」と ぬえがおどかした役を。「じゃ、みんなの前で大きな声で“その役を責任持ってやりますっ”って言ってみて?」と ぬえが申し渡したら、「はい、責任持ってやりま~~~~~すっ!」だって。(^_^;

うん、今は自信を持って言えるけれど、キミたちになら任せられますよ。大変だと思うけれど、一緒に良い舞台を作り上げましょう!(゜-゜)b

君たちのお役について、またその稽古についてのレポートは、折々このブログで説明していくことにしましょう。次回は狩野川薪能の歴史や、今年の見どころなどを。

研能会初会(その12)

2007-02-16 12:58:47 | 能楽
話題がまたまた脱線気味で… (^◇^;)

さて囃子方が座付き、笛が「座付き」を吹いている間に小鼓方は床几に掛けて素袍を抜いて道具を構え、大鼓方(と、『翁付』のときは太鼓方も)は小鼓のつぎに座付き、こちらは正面に向いて控えています。

一方、このときシテ方の後見は囃子方の後方を通って笛座の前の「翁」のすぐ後ろに付いて着座し、狂言方の後見は後見座(常の能でシテ方の後見が座る位置)に着座します。さらに地謡も囃子方の後方に着座します。

このあたりもまた、普段の能とは大いに異なる場面がたくさんあります。

たとえば手の組み方。素袍を着た地謡や後見は、扇を構えて謡っているとか なんらかの作業を行っている時を除けば、必ず両手を身体の前で重ねているのですが、面白いことに、どちらの手を上にして重ねるかが、舞台の進行につれて変わるのです。

現在の ぬえの師家では、後見や地謡が橋掛りに登場する『翁』の冒頭の場面では、左手を下にして、その上に右手を重ねています。ところが囃子方の後方に着座して扇を置くと、今度はさきほどとは反対に、右手を下にして、左手をそれに重ねるのです。

これもねえ。 ぬえの師家では現在は上記の作法で行っているけれど、その理由は「囃子方がそういう作法で登場しているから」という、非常に曖昧なもの。たしかに囃子方は道具を左手に持って舞台に登場するから、必然的に左手が下になり、右手をその上に重ねることになります。しかし、ぬえは20年前にはたしかに囃子方のは逆の手を重ねて舞台に出た、という記憶があるのです。。

あるいは ぬえの記憶違いかもしれません。でも、こういう些末な事柄から伝承というものは変化していくもので、あるいはそれが大きな崩壊の、最初の一歩になったりする事もあるんですよねえ。大げさに聞こえると思いますが、そういう事は本当にあると思う。こういう細かいところは伝書などにも書いてありません。「両手ヲ前ニテ組ミテ橋掛リニ順ニ居並ビ…」などと書いてあるのがせいぜい、といったところでしょう。だからこそ「口伝」が重要な意味を持つのです。いや、『翁』の型付けは拝見したことがないので、どう書いてあるのか断言はできないのですが。。

この「伝承の変化」という話題は微妙で、先日もほかの会の能楽師と「翁飾り」の変化について話していて、伝承というものの「危うさ」を感じました。それもご紹介しようと、何度か下書きをしたんですが。。やめておく事にしました。ぬえの師家の話題ではないですから、不用意に論評するべきではないでしょう。

さて囃子方の後方に地謡は着座するのですが、じつはこのとき、地謡は正面に向いて着座しているのではありません。微妙に右(角柱の方)へウケて座るのです。先日の研能会では『翁付』のため地謡も二列八人登場していましたし、囃子方の後見もありますから、広い後座を持っている観世能楽堂の舞台でも、地謡はかなり窮屈な思いをして座りました。

着座した地謡は、扇を腰から抜いて前へ置き、さきほど橋掛りに登場したのとは逆の組み方で両手を身体の前に組み、端座しています。

研能会初会(その11)

2007-02-14 01:03:21 | 能楽
「翁」が終わって千歳とともに幕へ引くとき(これを「翁帰り」と称します)、小鼓方は タ、ポポ、ポ という粒の手を静かに打ち続けます。このとき小鼓方の後見のもっとも大切な役目があります。

この小鼓の手は、地謡が『翁』の最後の詞章~「萬歳楽」~を謡い終わるとすぐに打ち始められます。最初は非常にゆっくりと打たれるのですが、その間に「翁」は面箱の前に静かに歩み下に居、面紐をみずからほどいて「白式尉」の面を面箱の上に置き、再び舞台の中央へ向き直って立ち上がり、斜に出ると舞台の中央から正先へ出、そこで両袖をさばきながら正面へ着座して両手をつき、『翁』の冒頭とまったく同じ作法で深々と正面へ拝をします。このとき小鼓の幸流と幸清流では掛け声を掛けますね。これについては後日詳述したいと思います。

拝を終えた「翁」は膝を立て替えて橋掛りの方へ向き、立ち上がります。このとき「千歳」も同時に立ち上がり、二人は静かに歩み出します。橋掛りに至り、ここで段々と運ビが急調になって、最後はすこし小走りのような感じに「翁」と「千歳」は幕に入ります。この退場のしかたも『翁』独特のものですね。

さて、ここまでずうっと、小鼓は同じ手を打ち続けておられるのです。かなり長大な時間が掛かりますので、最初はぐっと静かに打ち、「翁」が拝を終えて立ち上がり、橋掛りに向かうあたりから、まるで「翁」の運ビの変化と呼応するように、だんだんと小鼓も手を打つスピードを上げてくるのです。「翁」が幕に入ったあたりではかなりのスピードになっているのですが、「翁」が幕に入ると頭取が左右の脇鼓に「知セ」の手を打って合図を送り、これをキッカケにトメの手を打って「翁」は終了することになります(ほんの短い時間をおいて、すぐに引き続いて「三番叟」の「揉み出し」となります)。

この小鼓の頭取の「知セ」ですが、『翁』の場合では、どの小鼓のお流儀でも、頭取だけが前述の手を打つことを、一度だけ突然休むことで「知セ」としておられるように思います。少なくとも ぬえが習った幸流ではそうなのですが、舞台上で拝見しているかぎり、どのお流儀も同じ「知セ」であるようです。

問題はこの「知セ」を打つ頭取が、「翁」が幕に入ったところが見えない、という事なのです。首を曲げて幕の方を見やっても、そこには脇鼓が邪魔をして幕は見えないし。そこで、頭取の後ろに座る後見が、そっと頭取の背中をつついて、「翁」が幕に入ったことを「知セ」るのです。頭取が脇鼓に指揮をして「知セ」を打つのですが(『翁』の場合は、むしろ「打たない」と言った方が正確ですが)、じつはその「知セ」は後見の「知セ」があって始めて行えるワケで、いわば「翁」の終了の最後のキッカケは、じつはこの後見が出しているのです。

「知セ」ということ、じつは舞台の上ではたくさん行われています。身近なところでは。。そうだなあ。。家々によって違いはあるだろうけれど、たとえば『菊慈童』や『景清』のシテの第一声は、後見(もちろんこの場合はシテ方の後見)の「知セ」をキッカケにしてシテが謡い出します。これらの曲では、登場したワキやツレが「道行」を謡い、「これははやしかじかの所に着きて候。しばらくこの所に逗留し、事の由をも伺はばやと思ひ候」というような「着きゼリフ」を謡って脇座に行き、そこに控えたところで おもむろにシテが謡い出すのですが、作物の中にいるシテには、ワキやツレが脇座に着いたのが見えないのです。足音。。と言っても運ビだから裾捌きの音を頼りにするほか致し方なく、面や鬘を着けているシテにはそれさえも充分には聞き取れません。そこで、このときは作物の後ろに後見が控えて、作物の陰から様子を窺って、ワキなりツレが脇座に控えたところで そっとシテの背中を押して「知セ」を送るのです。こういう事は意外に知られていない事かもしれませんね。

研能会初会(その10)

2007-02-11 23:59:01 | 能楽
まだパソコンは動いてる。何ごともなかったかのように…。ワイン飲んだから年代物のオンボロマシンが復活したんかなあ。

さて『翁』。(先月8日の催しの話題なのに、ようやく囃子方が打ち出すところまでたどりつきました…)

囃子方が着座して、笛が「座付き」を吹くと、小鼓方三人が床几に掛かり、素袍の肩を脱ぎます。大鼓と、『翁』に引き続いて脇能を上演する『翁付』の時に参加している太鼓も、このとき正面に向き直ります。

小鼓の素袍さばきは本当に短時間なので大変。囃子方が座付くときに切戸口から小鼓方三人に対して専用の後見が三人、登場して小鼓方の後ろに着座し、お世話をします。この後見はじつは必要不可欠で、小鼓方の本役が自分で床几に掛け、素袍の肩を脱ぐのは至難。いや、無理すれば出来なくもないかも知れないが、あの短い時間で、窮屈な場所で忙しくそれをやってしまっては、笛の「座付き」の終わりに間に合わないか、もしくはお客さまからは見苦しい姿になってしまうでしょう。

この後見、もちろん本役の小鼓方と同じお流儀の方が後見をするのが正式なのですが、やはりそれはなかなか難しい場合も多いです。なんせ同じ一つの小鼓のお流儀から6人がひとつの能楽堂に集まるんですから。それで、仕方がない場合にはいろんな手段を講じて後見の役を選出します。いわく本役とは別の小鼓のお流儀から派遣されてきて後見を勤める場合もあり、ほかにも、同じ催しに出勤している囃子方の若手が、小鼓という職種にはこだわらずに後見を勤めたり、それも不可能な場合には、囃子方の後ろに座っている地謡がお手伝いすることさえあります。

いや、後見などと言うと専門的経験が必要のように思われてしまいますが、『翁』の小鼓の後見の場合には、専門職とはちょっと違って、こういう手順なのです。笛が「座付き」を吹き始めたら小鼓方の三人はすぐに床几を組み立てるので、①まずは小鼓方が腰から抜いた扇子を預かる。これは床几に掛かった小鼓方の後ろに置いておくのですが、素袍のさばきを手伝う邪魔になるので、後見の横に置くなり、一時的に避難させておくのが賢明。次に小鼓方が立ち上がって正面を向いた瞬間に ②「フトン」を床几の上に乗せる。さらに間髪を入れず ③素袍の長袴が床几に絡まないよう、袴の裾を床几の左右に流しておく。床几の「フトン」の上にお尻を乗せた小鼓方は道具を前へ置き、すぐに素袍の両肩を脱ぐので、ここで ④素袍の袖さばきをする。つまり素袍の上半身をはだけたような状態になるので、素袍の襟=うなじに当たる部分=を袴の腰板にはさみ、垂れた両袖を床几の横に美しく流す。この間に小鼓方は道具を取り上げ、小鼓に巻かれてあった「締め緒」をほどき、これを後ろに廻すので ⑤これを受け取って四つ折り程度にたたみ、さきほどの扇子と一緒に床几のすぐ後ろに置く。

…要するにこの場合の後見は「楽屋働き」の延長のような、作業をするのであって、小鼓を打つ技術とは無関係なのです。そういうワケで、手順さえ熟知していれば、なにも小鼓の専門家が後見を勤めるのが必ずしも必要ではないので、その日の囃子方のスケジュールなどを考えて、事前に誰がこの後見を勤めるか、小鼓方の本役は考えておき、どうしても囃子方の手が足りない場合にはシテ方、つまり催主に相談があって、地謡が勤める事も窮余の一策としてあり得る、という事です。

ちなみにこの後見、「三番叟」が終わって『翁』が終演するときには、もちろん小鼓方が(このときには大鼓方も)床几から下りて素袍の両肩を入れるお手伝いもしなければならないのはもちろんですが、そのほかにも もう一つ、重要な仕事があるのです。

ヤバイっ!

2007-02-10 12:42:54 | 雑談
師走にパソコンにトラブルがあって、なんとか復旧したのですが、昨夜は。。夜中に誤ってノートパソコンのキーボードの上でグラスに入れたワインを転倒させてしまいました!

これはヤバイっ! すぐさまワインは拭き取って、画面を終了させて(これが可能だったからよかった)、電源を抜いて、ネジをはずしてキーボードを取り外し、内部に被害があったかどうかをチェックしました。

それほど内部までびしょびしょに濡れている様子でもなかったけれども、しかし。。電源を繋いでも起動しない。。(;_:)

仕方なくキーボードを外したままでパソコンを裏返しにして。そんでひと晩置いて様子を見ました。乾燥してくればまた反応も違うかも。。

そして今朝。みごとにパソコンは起動するではありませんか!ヘ(^^ヘ)(ノ^^)ノ
ううむ。去年はシステムリカバリもしてしまったし。VISTAが発売されたっていうのに、ぬえのマシンはいまだにMeだし。よくまあ、こんな古いマシンで通信してるなあ、と自分でも思います(自嘲)。それもさすがにもう限界だなあ。。

すぐにファイルのバックアップを取り、ようやくひと安心はしたのだけれど。。現実的な問題として、すぐ近くの未来に「クラッシュ」「おシャカ」という事件は迫っているのは間違いない。。

新しいマシンもほしいけれど、ちょうど今は舞台もオフシーズンだし~~ (T.T)
突然ブログの更新が止まったら。。ぬえは死んだものと諦めてくだはいまし。
(いや、いずれ不死鳥のように復活はするでしょうが。)(^^;)


研能会初会(その9)

2007-02-09 19:17:33 | 能楽
え~~、『翁』で大鼓が横を向いて着座している、それは能の中では珍しいことではなかろうか、という話題になりましたが、今日は研能会の申合があり、これはよい機会がすぐに来たなっ、と思い、さっそく楽屋で大鼓方に聞いてみました。うんっ、世の中に勉強のチャンスは尽きないねっ! …と思ったら、さっそく昨日の ぬえの観察に違っていた点があることが判明…またやっちゃった。

この大鼓方に聞いたところでは、『翁』で「翁」の間は大鼓方は参加しないといえども、小鼓方が床几に掛かるときにやはり大鼓方も正面に向くのだそうです。ええっ!?

ぬえもすぐに聞き返して「だって…“座して居たれども”のところの大鼓の調ベは…横に向いてクツロいでいなかったっけ…? ずっとそんな印象を持っていたんだけど…」そしたら彼はコトモナゲにこう教えてくれました。「ああ。そこだけ横に向くんだよ」 。。。ああ、そうなの。。(;_:)

するとそこに居合わせた某小鼓方が口を挟みました。「そのな、“真ノ調ベ”ちうのは小鼓に遠慮して横を向いて打つんや」 おお、また新説だ。(゜-゜) 「ははあ、なるほど、やはり『翁』の間は小鼓の物だ、ということで…」「そうや。本来『翁』は床几には掛けんで、座って打つはずのものなんや。」 え~~ (◎-◎) 「そうなんですか…。そうだとすると、なるほど、正面に向いて打つ小鼓の邪魔にならないように横に向いて…」「そうや!」 …そうなのか。う~ん不見識なのか、ぬえは正座して小鼓を打つ『翁』の古い絵などは見たことがないのだけれど…

小鼓の先生がお帰りになってから ぬえはこの大鼓方に聞いてみました。「ところでさ、さっき言っていた“真ノ調ベ”って… そういう名前なの?」「いいや~~? 知らんかった。帰ったらさっそく手付けに書き加えておかなきゃ(笑)」 キミの流儀の話じゃないか~(*^。^*)

冗談はさておき、この大鼓方はこう付け加えました。「さっきの話の“横を向いている”という話だけど、案外、流儀によってはずっと横を向いている場合もあるかも。なんせ『道成寺』の乱拍子だって大鼓の流儀であれほど作法が違うわけだから」…なるほどそういう事もあるかもしれません。

蛇足ながら、よい機会なので太鼓方にも『翁付』の際の作法を聞いてみました。これがまた面白かった。

太鼓方もやはり、小鼓が床几に掛けるときに正面を向くのだそうです。ところが、常の能と大きく異なる点がひとつ。いわく、太鼓を身体の前に立てて両手で支えているのです。常の能では太鼓方は定位置に着座すると、大小鼓が床几に掛けるときに正面を向くのですが、このとき太鼓は自分の左側の脇に立てて置いておくのです。ところが『翁付』の場合は正面に向くときに太鼓を持って向き直り、太鼓を自分の前に立てると、素袍の両袖で太鼓を包み込むように身体の前で抱えているのだそうです。

「ああ、そういえば身体の前で組んだ素袍の袖の下から、道具(太鼓)の革が覗いている写真を見たことがあるね。。ええっ!! …という事は。。『翁』の上演の間じゅう、つまり1時間もそのままの姿勢でいるの!?」

素袍を着ている場合、囃子方も、そして地謡も後見も、演奏するなり、謡うなり、という用事がないときには両手を膝の前で組んで座っているのです。囃子方の場合は、その姿勢のときには組んだ袖の下に道具(楽器)を持っている事もあります。『翁』の冒頭、囃子方が橋掛りに登場した場面などはその好例でしょう。

太鼓方はまったく打つところがない『翁』であっても、そのあとに『翁付脇能』が引き続いて上演されるときには、素袍を着て『翁』の冒頭から舞台に登場しています。このときに、正面に向いて着座するのみならず、太鼓を身体の前で保持しながら1時間、脇能が始まるまでずっと我慢して座っておられるのだそうです。これは苦しい…のかと思ったら。

「そう。ずっとこのまま。でもね、ずうっと両手を前で組んでいる地謡と比べれば、両手を太鼓に置いているぶんだけ少し楽なんだよ。いや、べつに道具に寄っかかっているわけじゃないんだけどね。」

…ひとつの曲についての話なのに、それぞれの立場も、それによる考え方もいろいろあるのねえ。。

研能会初会(その8)

2007-02-08 23:10:16 | 能楽
最近は昼間は暖かいけれど寒い夜が続いて。マリカ姫もこのところ毎夜おフトンの中にもぐり込んでいらっしゃいます~(#^^#) ああ、よかった。

さて研能会初会。

『翁』で「面箱持」が面箱を「翁」の前に置くと、すぐに「面捌き」をします。面箱の蓋を開けてその中から白式尉の面を取り出すのですが、このとき面箱を結わえてある房紐は特殊な結び方をしてあるのです。これは「面箱持」が面箱の蓋を開けるときには、左手で箱を押さえておくので、右手だけしか使えないためで、「面箱持」はこの房紐をほどくのではなく、右手で上に引き上げるだけで紐が緩むようになっています。

この結び方はシテ方が楽屋で行うのですが(三番叟がお使いになる黒色尉の面と鈴はあらかじめ楽屋でお狂言方よりお預かりしておきます)、なんせ『翁』という曲を上演するのはたいてい年始の初会のただ1回だけなので、ややもすると結び方を忘れてしまって、楽屋の中で「ああでもない、こうでもない。。」という悩みが始まったりもします。(^^;) ぬえもずいぶんこの結び方では悩みましたが、いまは慣れて、いつでも結ぶことができます。

さて「面箱持」は面箱の蓋を裏返して左手で支え、箱の中から右手で白式尉の面を取りだすと、これを裏返した蓋の上に乗せ、面紐を捌いて、蓋を面箱の上にキチンと置いて、これでようやく面箱持ちとしての作業を終えるのです。

これより演者一同は(本来は拝を行って)所定の位置に進んで着座します。「翁」「千歳」「面箱持」「三番叟」という装束を着けた役者を別にすれば、最初に位置に着くのは囃子方で、しかも笛方は座付くや否や、すぐに「座付き」という譜を吹き始めます。笛方に遅れて着座する小鼓方は、これはもう大忙しで演奏の準備に取りかかります。道具を置き、扇子を抜いて置き、床几に掛かり、すぐに素袍の両肩を脱いで鼓を手に取り、右肩に上げる演奏の体勢にならねばなりません。しかもお笛は「座付き」を吹ききるとすぐに「ヒシギ」という、常の能でも多くの場合上演の最初に吹かれる甲高い「ヒーーーー、ヤーーーアーーーー、ヒーーーーー!」という短い譜を吹き、これの直後に小鼓は間髪をおかずに打ち出さなければならないのです。お笛は素袍の肩を脱がず、着座して腰から扇子を抜いて右横に置くとすぐに笛を抜き持って「座付き」を吹き始めるので、床几に掛かり素袍の肩を脱ぐ小鼓方は大変な忙しさで準備に取りかかるのです。これでは「拝」を省略した気持ちもわかるなあ。。

ちなみに大鼓方は「翁」の間は打たず(厳密には「座して居たれども、参らうれんげりやとんどや」のところで短い調ベを打ちますが)、「三番叟」になってから打ち始めるので、小鼓が大忙しで用意をされている間に悠然と着座します。いま、ふと気が付いたのですが、このとき大鼓方は横を向いて着座されますね。能で囃子方が横向きに着座するのは、舞台に登場した冒頭のほんの短い時間と、中入の間(ただし「語り間」でない場合は大小鼓は床几から下りないので、着座もしない)、そして能が終わってシテが舞台から出る(シテ柱を越える)とき。。つまり横向きに着座している間は、「クツログ」と言って、囃子方は「参加していない」というか「その場には無関係」というような意味合いになるのです(ちょっとうまい表現が見つからないが、誤解を恐れずに言えばそういう事だろうと思います)。

上演中にクツログ曲はほかにあるだろうか。。というと、じつは案外あるものでして、『松風』だけはロンギが終わると(シテは目の前で上演中であるのに)大小鼓は床几を下りてクツロギますし、『道成寺』の乱拍子の部分では、葛野流の大鼓は床几を下りてクツログ事になっています。『翁』で大鼓がクツログのは、この『道成寺』の乱拍子の場合と意味合いとしては近いのでしょうね。

小学校で授業をしました

2007-02-05 20:57:20 | 能楽
先週以来、若手を中心にした能楽師の新年会を催したり、ぬえのお弟子さんの新年会をしたり、なんだか忙しくしております。

で、今日は近所の練馬区光が丘第八小学校でワークショップを行って参りました。この催しは、去年の秋に ぬえが同校のPTA有志のお招きを受けて放課後に能楽のデモンストレーションを行ったことがキッカケになって実現したものです。その折のデモンストレーションは主に低学年の子どもたちが対象だったのですが、これを観覧された校長先生がとっても喜んでくださって、次はぜひ高学年を対象にしたワークショップを、というお話を賜ったのです。そんなわけで今回のワークショップは校長先生のお考えによって小学校4~6年生を対象に2校時=45分間×2コマ=という規模となりました。3学年を合わせて参加者は120名でしたが、少子化の影響が色濃い昨今、この児童数は多いのか少ないのか。。

ご存じの通り、ぬえは静岡県の伊豆の国市で子どもたちの指導をしておりまして、その伊豆の子どもたちと同じ学年の児童と触れあうのは慣れているはずなのですが、これがなかなか。(^^;) なんせ伊豆では半年近くを、薪能への出演という大きな目標を持ってみんなで進んでいくワケで、参加する子どもたちはみな自分から進んで応募した子ばかりだし、稽古時間もたっぷりあります。

今回の場合は短時間で1回限りのワークショップで、こういう方式で行うワークショップでは ぬえはむしろ低学年や保育園児を対象にしたものの方が多いのです。小学校高学年/中学生という大人としての自我が芽生えてくる年齢の子どもたちをどう扱うのか。ちょっと不安もありましたが。

でも、これを見よ。



もう、少し話をしているうちに、ははあ、この子たちはもうキチンとした分別がある事はわかりました。開始前に会場に来た子どもたちは能面や道具類などが展示されているのを見て「触ってもいいの?」と ぬえに聞いてきました。「あ、ゴメンね、これは触らないで見てね~」と言っておきましたが、その後は子どもたち同士でちゃんとその情報を伝えて、誰一人勝手に展示物に触るとか、ましてやそれで遊び出す、という事もなかったのです。

そこで、これはかなり冒険だったけれども、能面を実際に掛けて見せる実演のあとで、子どもたちに面を掛ける体験をさせて見ることにしました。挙手を求めて能面体験の希望者を募ったところ、一人の男の子がおずおずと…。 この「一人の」、というところがまた良かった。みんなが我先に手を挙げたら、注意に従って正しく面を扱えるのか、ぬえはやっぱり信用できなかったでしょう。

多くの子が興味本位で付和雷同のように手を挙げたのではなく、一人だけが手を挙げた。責任も信念も彼の意識にはちゃあんとあったのだと思います。そして彼は ぬえの言う通り面に礼を尽くし、ふざける事もありませんでした。ぬえは安心して、彼をモデルに使って能面の視野の実験をしてみました。

能面を子どもに掛けさせる。。能楽師の中にはこの画像を見て嫌悪感を抱く方もあるかも。不謹慎と思われるかもしれませんが、ぬえは、これをやって良かったと思います。能面の扱いは彼にはキチンとできましたし、そういう事が正しく行えた上でならば、実際の面に子どもが触れるのも能楽の普及のためには助けとなる可能性もある、と信じます。



最後にすこし時間があったので、担任の先生の一人にお装束を着付けて、体験して頂きました。なんだか最近はこういう学校でのワークショップの機会が多くて、2月には3カ所の学校・保育園でワークショップを持つ予定があります。能の公演が少ない時期ですので、こういう事もやりやすい季節ですね。ぬえは子どもたちと触れあう機会が好きなので、楽しい季節だったりします。

研能会初会(その7)

2007-02-03 00:58:45 | 能楽
このように囃子方の「お調べ」のあとに楽屋で「盃事」が行われるため、普段上演される他の曲の場合と違って、楽屋からお囃子方の「お調べ」の音が響いてきても、その後なかなか囃子方が橋掛りに登場して来ず、しかも長い時間の後に唐突にシテが登場する。。お客さまには『翁』は意外に見えるでしょうね。

かくして『翁』では、「盃事」を終えた演者一同が、面箱を先頭にしてしずしずと行列が橋掛りを進んで行きます。「千歳」は舞台常座に出て平伏し、「三番叟」以下の役者は橋掛りにて下に居て待機します。このとき素袍を着ている諸役=すなわち囃子方・後見・地謡=は身体の前で両手を組んでいます。これも普段の服装の場合とは違う点ですね。囃子方はこういう姿勢を取ることで、なぜか楽器を隠すような格好になります。意図的にそうなっているのか。。ぬえは真相は存じませんが。。ちなみに列の後方にいる地謡はこのときはまだ楽屋の中。舞台上で行われている事はまったく見えません。(^^;)

登場した「面箱持ち」はやがて角まで出て下に居、シテが=「大夫」と呼ぶべき威厳を備えて=これに続いて正先まで出て、ここで両手を床に付けて正面に向かって拝礼をします。このときシテは「五穀豊穣・国家安寧」の祈祷を心の中で祈念することになっていますが、「法会之式」のときにはどうなるのか。。小書によってこういう点に何か変化があるのかもしれませんが、さすがに ぬえにもシテの心中までは推し量ることはできません。

ご祈祷を終えたシテは左に取って笛座の前に至り、ここで正面に斜に向いて着座します。このときシテはわざと膝で音をたてて着座した事を知ラセ、これをキッカケにして「面箱持ち」はシテに向き直り、立ち上がって面箱を高く捧げてシテの前に至ります。「面箱持ち」はシテの前に着座して面箱をシテの前へ置くと、これをシテの方へそっと押しやり、シテはよろしき位置に面箱が進められたときに扇でこれを制します。

面箱を置く位置を定めた「面箱持ち」は、これにて舞台序盤の仕事を終えて大きく脇座の方へ向き直り、袖さばきをしてから立ち上がります。このとき、これに合わせて「千歳」「三番叟」以下、橋掛りに控えていた役者は全員立ち上がって所定の位置に進みます。つまり「面箱持ち」は脇座より少し低い位置へ、「千歳」はこれを追い越して脇座へ、「三番叟」は常座へ進み、この3つの役は舞台上で両手をついて畏まっています。

続いて囃子方は順次後座に進み、シテ方の後見は囃子方の後方を通ってシテの後ろにつき、狂言方の後見は後見座(普段の能でシテ方の後見が座る位置)につき、最後に地謡は囃子方の後方に着座します。

細かい点になりますが、このときも いろいろと作法があるのです。まず囃子方・後見・地謡は、本来の作法としては舞台の定位置につく前、シテ柱の下で一人ずつ正面に向いて片膝をついて「拝」をする事になっています。つまり橋掛りから舞台に入るとき、後見座の前で正面に向いて一歩進み、片膝をついて正面に軽く頭を下げて、さて左に向いて立ち上がって所定の位置につくのです。ところがこの作法、もう現在ではほとんど省略されてしまっています。諸役が所定の位置についてから囃子方が演奏を始めるまでが、じつは大忙しの作業があるので(後述)、便宜的に略されてしまったものでしょう。ぬえがこれを最後に行ったのは、もう10年近く前なんじゃないかなあ。。ぬえはこういうところは守っていきたいと思うのだけれども。。

それから、シテ方の後見もこのときにちょっと変わった事をします。橋掛りに登場したとき、シテ方の後見は、当然ながら主後見が先、副後見があとに並んでいます。ところが諸役が所定の位置につくとき、副後見は自分の前を歩む主後見を追い越すのです。普段の能の場合に後見座に後見が着座しているとき、見所から見れば向かって右が上席ということになっていて、ここに主後見が着座し、副後見は(見所から向かって)その左側に座るのです。『翁』の場合も主後見が先を歩み、副後見がそれに続くそのままの形で定位置に行って着座すれば、自然に主後見=向かって右、副後見=左、になるのですが、じつは『翁』に限って、後見二人の席次が他の能とは逆になるのです。つまり主後見が見所から見て左側、副後見が右側になります。その理由は至って明解で、その方が主後見が作業がしやすいから、なんですけどね。