ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

震災から1年~追悼集会に参加(その14=東松島・矢本運動公園仮設住宅公演)

2012-04-30 12:38:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「みなし仮設」というのは、地方自治体が建設したプレハブの仮設住宅ではなくて、民間の賃貸住宅に入居した被災者を支援するために、その住宅を仮設住宅とみなして賃料を自治体が負担する制度なのだそうです。Oさんの場合、まだ小さいお子さんがいらっしゃるご家庭だそうなので、なるほど、仮設住宅ではちょっと酷ではありますね。一律にプレハブ住宅に住むことを強要しない柔軟な制度に拍手。ぬえは仮設住宅のしつらえについてあまり良い印象を持っていないので。。

ちなみに通常は2年間で仮設住宅も撤去になります。この住居が自立支援のために造られたものだから。それでも年齢等の事情によっては仮設住宅が解消されれば 深刻な事態に陥る方もいるわけで、不幸にして、しかし現実でもあるそういう世帯のために、神戸では「復興住宅」というものが建てられました。ここは2年間で自立できなかった被災者が無期限で住み続ける事ができる住居なのですが。。実態を教えて頂いた ぬえはまたまた絶句。。2年間の間に雇用を確保して生活を再建するのは急務だと思います。

先日、静岡県・三島の友人(昨年4月から自費で支援活動を敢行。彼らの活躍なくして今の ぬえはありません)とこの問題を話していて、いわく「今回の震災は阪神淡路の時と比べられない。神戸は大都会であり、近くに大阪もあった。東北はもともと過疎化・高齢化が進み、シャッター通り商店街も目立っていた。石巻はまだ都会だけれど、市街から離れ、産業基盤さえ失われた小さな漁村の高齢の被災者に、復興のために立ち上がれ、と言うのも酷な話で、広い地域で産業・生活の再編成が必要ではないか」。。とのこと。

この時はなるほどもっともな話で、ぬえも首肯したのです。そうして それまでに ぬえが聞いた仮設住宅の自治会長さん。。多くは高齢の、ぬえらの活動の受け入れもしてくださった方々が語られる現地の現状もそれを裏打ちするようなものでした。

ただ、高齢化や過疎という問題はあっても、あれだけの災害に遭った古里の復興の何もしないわけにはいかないのではないか。。今の ぬえはそんな事も考えています。震災から1年が経って、再建の努力が。。そりゃ最大限努力している方も多いと思いますが、もう少し強くこちらに伝わってきても良いんじゃないかな。。とも思うこともあります。デリケートな問題なので誤解や言い過ぎも恐れますが、災害の不幸の時点で止まっているわけにはいかないです。全国からの支援に対して、いつか胸を張って「こんなに立派な町になりました!」と言って頂きたい。そのとき、はじめて全国のボランティア戦士も自分たちの活動を誇りに思えるでしょう。そんな日が来ることを願っています。

そんな折もおり、宮城県では仮設住宅の設置期間を2年ではなく3年に延長した、というニュースが飛び込んできました。英断です! ぬえも出来るだけ長く支援活動を続けて行きたいと思っています。ぬえらが出来る事といったら住民さんに楽しんで頂くことぐらいしか出来ませんけれどもね~

さて東松島市・矢本の運動公園に建てられた広大な仮設住宅群。ここの集会所が今回の訪問の最後の公演地になります。

木村健人さんが打った「般若」面。。あまりに膨大なその面を展示するスペースを作り、ぬえらも扇などの展示品を飾って、まずは公演準備に入ります。やがて住民さんも集まって来られて、この日は能『菊慈童』を上演しました。









その後、囃子の体験コーナーがあって、それからいつもならば住民さんに装束を着る体験をして頂いたり、囃子の体験をして頂くのですが、今回はこの矢本では木村さんに能装束を着付けてみることにしていました。

矢本は木村さんの地元で、知人もお出でになっているだろうこの公演で木村さんに装束を着て頂くのは良いことだと思いまして。石巻まの仮設商店街での公演にわざわざ来て頂き、ぬえに声を掛けてくれたところから、あれよあれよという間にこの日の公演に至りました。東松島での活動の足がかりを築いてくれた木村さんに、せめてもご恩返しですね。

震災から1年~追悼集会に参加(その13=東松島・矢本運動公園仮設住宅へ)

2012-04-29 02:35:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
馬っ子山を下りて、すぐに開成仮設に向かい、年末年始にお世話になったF氏を訪問するもお目に掛かれず。開成(の一部)にはちょっと難しい問題もあるようで、前回公演をした ぬえにとってはつらい気持ちです。でもいつかまたここで公演をしたいな。そうしてここで出会った子どもたち。彼らはどうしているだろう。。コトネ。。(・_・、)

気を取り直して石巻駅前の「立町(たちまち)復興ふれあい商店街」へ。じつは2月にこちらで公演させて頂いたときに商店街の方々からいろいろとお土産を頂いてしまいまして。その中でも「戸田海産物店」さんから頂いた「こんぶ」が、びっくりするぐらい美味しかったのです! 出汁を取るんじゃなくて、肉厚のそれをみそ汁などの中に実として入れるの。うわあ、美味しいです~ (#^.^#) そういえば2月には気仙沼の地福寺のご住職から「この時期においしいもの。。? こんぶやワカメだなあ」と言われて「??」となった ぬえでしたが、ご住職続けて「こちらでは こんぶを しゃぶしゃぶにして食べるんですよ。ちょっとお湯にくぐらせて。美味しいですよ~」と。今にして思えばさもありなん。。



ところが! その戸田水産物店はこの日休業でした。。またしても空振り。。(×_×;) 。。でもご近所のお店で伺った休業の理由が。。「法事の贈答用に包装で忙しいらしいですよ」。。でした。ここにも震災1年目の影が。。

仕方なく駅前の観光協会へ。こちらはぬえらが今回の活動期間中ずっと泊めて頂いている佐藤さんの奥様がお勤めで、お土産店も併設されていますので、奥様にご挨拶してからこちらで こんぶをゲットしました。

ちなみに戸田水産物店さんのサイトがありました!

戸田水産物店

ぬえも通販お願いしようかなあ!

さあさ、そうこうしているうちに次の公演の準備のために楽屋入りするべき時刻が迫っています。急いで東松島市に戻り、矢本運動公園仮設住宅の「東集会所」へ。

東松島は運動公園が整備されていますね。もともと矢本は東松島では中心的な地域ですが、広大な運動公園に巨大な仮設住宅がありました。じつは ぬえはこの2日前に下見に訪れていたのですが、広大な敷地に目指す集会所がなかなか見つからず苦戦しました。この日こんなに慌ただしくはじめてここに来ていたら集会所にたどりつけたかどうか。

早速自治会長さんにご挨拶して装束の準備。そうしてここでは、今回の訪問のもうひとつの大きな目的があったのでした。

それは、先ほどの根古仮設住宅での公演にも協力頂いた東松島市民の木村健人さん…大曲でお嬢さんとお孫さんあわせて3人の肉親を失いながら、般若面ばかりを打つ情熱を持ち続ける方。。に、そのお宅の近所であるこの矢本で ひとつのプレゼントをしてあげることでした。

以前も書きましたが、野蒜や宮戸島の惨状を6月から見ている ぬえは東松島での公演をなんとしても実現したい、という欲求がありました。これが実現したのが、2月に石巻の立町にある仮設商店街で行った催しに木村さんが訪ねてきてくださったお陰でした。この日も仮設の住民さんに ぬえは申しました。。「ここに来るまでに8ヶ月も掛かりました。。みなさんにお会いできて本当に嬉しく思っています。。」

そういえば、この場所での公演の実現にはもうひとつ、東松島市のボランティア・センターにあたる組織。。「生活復興支援支援センター」があちこちの仮設に問い合わせて頂き、受け入れ先を決めて頂いたご尽力も忘れてはなりませんね。突然電話を申し上げた ぬえに応対してくださった方。。あとで段々とわかってきた事なのですが、まだ若い女性の方のOさん。。は、じつはご自身も被災されて自宅は全壊。それもそのはず、ご自宅は宮戸島でした。これを聞いた ぬえは絶句。よくまあ、あの様子の地域におられながらご無事で。。(T.T) いまはOさんは松島の「みなし仮設」にお住まいとのことです。。

震災から1年~追悼集会に参加(その12=馬っ子山、登りました)

2012-04-25 01:42:43 | 能楽の心と癒しプロジェクト
午前中の根古仮設住宅での公演はとっても盛り上がりました~。やってて良かった、と思う手応えがある催しはうれしい。そうして伊豆のお母さん方からの善意も予想以上に喜んで頂けたのは大変ありがたいことでした。

さて午後は同じ東松島市の矢本にある巨大仮設住宅での公演なのですが、この日に東京に帰る予定の ぬえたちは、まだ石巻でやり残したことがいくつか残っていて、ちょっと矢本の楽屋入りの時間が気がかりではありましたが、急いで石巻に戻りました。

やり残したこと、と言っても、いいえ~、大したことじゃないんです。まずは「馬っ子山」に登ること。(^◇^;)

「馬っ子山」というのは石巻の北側。。地域で言うと開成か南境だと思いますが、そこにそびえる小高い山で、「馬っ子山」は通称でして、正しくは「トヤケ森山」というらしいです。石巻市民にとっても親しまれていて、小学校のピクニックなどでみんなで登るんですって。ま、それ以来大人になっても登ったことがない、という人ばかりのようでもありますが、それほど親しまれている山であるのに、この8ヶ月もの間石巻に通っている ぬえは登ったことがない。これはぜひ登ってみたいものだ、と、これは年末頃から切実に思い始めていたのでした。

もちろん毎度滞在スケジュールは厳しいので、なかなかその時間が取れませんし、まして登山なんかするのが目的で当地に来ているわけではないので、これまでは いつかは登ってみたい、と思う程度でした。ところがいろいろ調べてみると、どうも山頂付近まで車道が通じているらしい(!)。これは、というんで2月の訪問時に山頂に(車で)登ることを考えたのですが、さすがに2月の石巻の気候では難しかったか? このときも結局時間が許さずに断念したのでした。

今回もかなり危なっかしいスケジュール配分ではありましたが、思い立ったが吉日。石巻に戻るとすぐに馬っ子山を目指しました。年末年始にお邪魔した開成団地のすぐ脇に、本当に目立たないところに馬っ子山の山頂に通じる細い車道があります。目印もなにもないその道を入って行きましたが、道路は砂利だらけ。一部舗装がされていましたが、車で走るのは本当にしんどいほど路面は傷んでいました。

低い山。。というよりは小高い丘、といった風情の馬っ子山でしたが、悪路のせいか10分以上走ったような気が。。木立の中の道はぽっかりと開けて、山頂部分だけ草原の馬っ子山の山頂が突然目の前に現れました。車道はここで駐車スペースのように開けて終わりになり、あとは徒歩、ほんの2~3分の行程で頂上に至ります。もう、開けた山頂からの絶景は疑いもないのですが、どうしても山頂から石巻を眺めてみたくて、あえて周りを見ないように、見ないように、と努めながら、足下ばかりを見て山頂に急ぎました。

山頂でくるりと振り返ると。。ああ、すごい。。

風は強かったけれど、見事なまでの光景が広がっていました。今まで通い続けた石巻がまったく違う姿を見せています。遠く霞むような日和大橋。そのすぐ下に石ノ森萬画館がうずくまるかのような中瀬。その左側には、白亜に輝く湊小。本当に、湊小のあの神々しいまでの白さは何なのでしょう。北上川を隔てて中央から門脇に至る道からも、湊小はすぐに目に入ります。津波被害を受けていまだに授業が再開されない。。どころか補修工事さえ始まっていないのに、その外壁の鮮やかな白はまばゆいばかり。校長先生の機転で大勢の命を救った、その命のゆりかごともなり、その後も避難所として大勢の住民さんの生活を支えた、その自負を、尊厳を誇っているかのようです。もう半年も無人のままだというのに。。



南に目を移せば門脇から南浜、東松島の大曲に至る広くて、がらんとした地域が広がります。その中で日本製紙の工場から立ち上る白煙が目を引きました。甚大な被害を受けながら撤退することなく操業を再開した日本製紙石巻工場から再び白煙が上ったとき、石巻の市民は復興の歩みが始まった事を実感したのだそうです。この白煙を遠く眺めるとき、なるほど、停滞の中からモノが生み出されていく有様が ぬえにさえ感じられます。



東側のすぐ眼の下には開成と南境の巨大な仮設住宅群。これも長屋のような造りの住宅であっても、日本製紙工場を見たあとでは新しいモノが生み出される工場にさえ見えてきます。西側の眼下には、震災時に驚異的な体力で診療に当たった医師たちの戦場となり、その労あって多くの命が救われた石巻赤十字病院の特徴的な黄色い建物がぽつんと見えています。年末には八面六臂の活躍をしてくれたゲストの能楽師、ワキ方のNくんに心から感謝して、ひと足先に東京に帰る彼をこの病院のすぐそばで見送ったなあ。




登ってよかった。。



閑話休題。

この記事を書いた今日、夕方に千葉方面での稽古を終えて帰宅途中の ぬえはNHK―FM(たぶん埼玉局)の放送を聴いて愕然としてしまいました。

これは児童養護施設に入所している子どもたちの厳しい現状のレポートで、ぬえの記憶によれば以下のようなものでした。

死別や育児放棄によって保護者を失った子どもを保護し、学業や生活、そして自立の支援をする児童擁護施設だが、原則として高校を卒業した時点で退所することになる。ところが退所後の子どもたちの進路を見ると、進学するのはわずか10%(全国平均では70%)。それも進学先はすべて専門学校や短大で四年生大学への進学は0%。。保護者に頼ることができず高額の学費と生活費の両方を自ら捻出するのが不可能なのが原因。こうしてほとんどの子どもが就職するのだが、高卒の学歴で就職した子どものうち30%以上が3年以内に離職し、中卒になるとその割合は実に100%近くに跳ね上がる。離職後は派遣職員やアルバイトなど不安定な非正規雇用に陥る傾向が強く、年収も100万円前後など厳しい生活にさらされている。。

車を停めた ぬえは自分の無力さにしばし動けなくなってしまった。こういう事。。考えてもみませんでした。これは埼玉県のひとつの例なのかもしれませんが、確実に起きている、これは現実なのですね。ましてやこれが基幹産業が壊滅した地方で同じ事が起きるとなると。。

ぬえは、住民さんに元気になってほしい、という一心で東北での活動を行っているのですが、そして、かえって住民さんの優しい心に触れて自分の方が癒されたりしているんですが、最近ちょっとしたジレンマにも陥っています。本当にみなさんの力になれているのかどうか。。2~3ヶ月に1度しか訪問できない部外者のボランティアとしては知りようもない事ではありましょうが、実感としては現地の状況は厳しさを増しているように思えてならないんです。。でも、それは復興という大きな大きな問題の中で、ぬえには見えない規模や場所で、少しずつ、少しずつ進んでいっているのでしょうね。それを信じるより仕方ないです。ぬえの小さな活動は公演のあるその日、集まってくださった住民さんに楽しんで頂くことを目指すのみ。うん。

震災から1年~追悼集会に参加(その11=東松島市・根古仮設住宅にて)

2012-04-24 11:47:02 | 能楽の心と癒しプロジェクト
またまた更新が滞ってしまいました~(×_×;)

それでも世間は動いております。ぬえも伊豆の子ども能の稽古に行ったり、師家の別会で仕舞「駒之段」を勤めたり、多忙にしておりました。梅子ちゃんも無事 女子医学専門学校に入学してめだい めでたい。(^◇^;)

え~。。

これは遠い遠い昔の3月12日のご報告なのですが。

震災1年の追悼集会の翌日、ぬえらは念願の東松島市の仮設住宅2カ所にて公演を持つことができました。この日の午前中は「根古仮設住宅」。。ぬえが2日前に伊豆の子ども能の保護者から寄贈された大量の絵本とおもちゃを運び込んだ場所です。

根古地区は隣町の石巻でも地名を知られていない小さな集落のようでしたが、東松島在住の木村さんによれば、少し山に上ると広大な花畑を所有して公開している方があって、知る人ぞ知る地区なのだそうです。周囲はのどかな田園に囲まれ、ほんの小さな高台にその仮設住宅はあります。もともとここには「根古公民館」「根古地区センター」と呼ばれる小さな集会所があって、この前庭にあたる場所に運動公園のようなものがあって、その場所を利用して仮設住宅が40数戸建てられていました。



もともと戸数の少ない仮設住宅でもあり、また伊豆からの絵本やおもちゃを運び入れた際も「子どもはあまり多くないなあ。。」と自治会長さんもおっしゃっておられたので、支援物資や公演そのものが成立するのかどうか、…じつはちょっと ぬえは心配に思っていました。

ところがこの日、まあ近在の在宅の方も含めて20数名の方が集まってくださいまして、そのうえ小さなお子さんを抱っこした若いお母さんまで参加してくださいました!

開演前には木村さんが打った「般若」面の数々を展示して、同じ市民として住民さんと語り合って頂きます。こうした、市民と一緒の活動というものは ぬえらのこれまでの活動にはなかったものでした。震災後に木村さんがどのように過ごしてきたか、ぬえらと出会って、能を通してこのような支援活動を始めるに至った経緯。いずれも当地のみなさんにとってひとつの指標となればいいな、と思います。

さて上演曲目は『羽衣』のダイジェスト版で、いつも被災地では笛のTさんと二人で上演することばかりなのですが、この日は助っ人の太鼓のKくんも加わっているので布陣は強力! やっぱり太鼓が入ると俄然浮きやかな『羽衣』になりますね~。

終演後、住民さんに装束の着付け体験をしてみたり、みなさんで一緒に記念撮影をしたり。。このあたりはもう恒例なのですが、なぜか今回は囃子の道具(楽器)を取り揃えて展示してみました。これがとっても住民さんには興味を持って頂けて、ちょっと鼓を構えて打って頂く、程度の体験をして頂きました。う~んやっぱり音はなかなか出ないのだけれど、能を喜んで頂けたことがうれしいです。亡くなった ぬえの恩師、小鼓方の穂高光晴先生もお喜びになって頂けたかなあ。





それから伊豆からの支援物資の絵本やおもちゃ。自治会長さんから「これ、配ってもいいんですか?」とお尋ねがあったので、どうぞどうぞ、とは申し上げておいたのですが、仮設だけではなく近隣の在宅の方もお喜びになって持ち帰られました。ぬえらは当地での公演の様子をビデオ撮影していますが、公演終了後に後片づけをしている間に回り続けたビデオを後で見たら、このへんの様子が写っていました~「カルタまであるのね~」「仮面ライダーだ~」。小さいお子さんを抱っこしたお母さんも「どれがいいの?」と我が子に選ばせておられたり、まわりの住民さんたちも「あんたこれ持って行ったら?」と声を掛けてあげたり。こういう人情の厚さに ぬえはヨワイです。いいなあ、東北の人たち。

震災から1年~追悼集会に参加(その10=東松島に泊まりました)

2012-04-20 01:36:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
まだ続く3.11のこと。

「チーム神戸」の事務所にて金田さんとのおそらくこれでお別れになるであろう挨拶をして、その夜は笛のTさんと太鼓のKくんとともにやきとり屋さんの「東助」にて祝杯をあげました。

「東助」は湊地区にあって津波で大きな被害を受け、ご主人と奥様は仮設住宅で生活しておられます。でも、この去年の真夏までは湊小学校避難所におられ、ぬえの能も何度もご覧になっておられるのでした。そうして避難所時代の湊小に京都から単独で来て自転車修理屋さんを開いていた「ちゅんさん」と仲良しになって、彼らの力でお店を修繕。ついに年末に営業再開に漕ぎつけたのでした。ご主人にとって恩人の ちゅんさんは、避難所が解消になってからはこの「東助」の2階に住んで、1階の奥の間で自転車修理屋を開いています。そうして最近、ボランティアとして出会った同士でついに結婚までされたようです。おめでと~(#^.^#)

太鼓のKくんにこの1日の感想を聞いたところ。。「しんどかった」そうです。空気の重さに耐えきれず、ここに来たことを後悔もした由。そりゃそうでしょう、震災1年目のその当日に初めて被災地を訪れたのですから。どちらかというと ぬえは瓦礫もきれいに片づけられてきて、新たなスタートを切る日に見えていましたが。。でも彼はナイーヴな人で、1年前の震災直後にはテレビ報道などの映像を見て、津波の悪夢にさいなまれたそうです。そういう人は被災地に来ちゃダメじゃん!

…でも、そうではなくて、それほどのショックを受けた地に何か貢献したい、という情熱をずっと持っていたのです。それで ぬえらの活動を聞いて、ぜひ一度連れて行って欲しい、と。こういう気持ちは尊いです。来たくても来れない人だってたくさんいる。彼は幸せだと思います。大変だったろうけれども。。

さてこの夜、二人も能楽師が到着したために石巻の佐藤さんおお宅ひとつではちょっと面倒を見るのも大変で、ぬえだけは東松島の木村健人さんのお宅に泊めて頂くことになっていました。

東松島。。6月に初めて野蒜のあたりを見たときは言葉がなかったです。同じ松島湾に面していながら、松島の島々が大きな防波堤となって津波を押し返し、塩釜市や松島町は比較的軽微な被害で済んだのに対して、松島湾の東部から太平洋に面する野蒜や宮戸島のあたりは文字通り壊滅でした。これを見た時から、ぬえは東松島で能楽の上演をして住民さんにお元気になって頂きたい、という希望はずっと持っていました。しかし仙台や多賀城、塩竈、松島町と大きな町が続く中、石巻との間にぽっこりと沈み込んだかのように、東松島での活動にはツテもなく、訪問することはついに叶わずにいたのでした。

そんな中、2月に石巻の仮設商店街「石巻ふれあい復興商店街」で舞ったときに木村さんが声を掛けてくださいました。この話が絶句で。。

震災のとき、娘と孫4人を同じ東松島市内で失った。般若面ばかりを打つのは長い趣味だが、この震災以来意欲も失われていた。しかし打ちかけの面を見た時、これを仕上げるよう啓示を感じ、制作に邁進するようになった。この直後、娘一家が移住する計画だった東京で能面展を開く計画である。。石巻で能楽の活動があることを新聞報道で知って駆けつけてきた。東松島にはこういうイベントは誰もやって来ない。ぜひ東松島でも活動してほしい。。

こうして ぬえたちは3.11震災の日の追悼式の翌日、東松島市で活動をすることになったのでした。

この夜は木村さんのお宅にお邪魔して、制作した面を見せて頂いたり、翌日の公演の打合せなどをして就寝しました。

震災から1年~追悼集会に参加(その9=震災から1年。。その夜)

2012-04-18 02:14:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そうこうしているうちに湊小の体育館には鍵が掛けられ、また。。人気のない真っ暗な校舎に戻ってしまいました。チーム中津川も去り、フランス人協会はこの日のうちに東京に帰らなければならないとのことで追悼集会の閉幕も見届けずに去り。

キャンドルの風情を味わい、この街はこれからどう変わっていくんだろう。。と思いを馳せ、ボランティアが去った石巻の様子は想像もできず。ぬえたちの活動もいつまで続けてゆけるのか、遠く漠然とした不安も頭をよぎり。。

こうして ぬえは「みなと荘」の追悼集会の場を離れて、チーム神戸の事務所「ふれあいサロン」に向かいました。こちらはこの日宿泊するのだろうボランティアさんが大勢おられ、長い1日のあと、さらに後片づけも済ませてからだというのに談笑の花。リーダーの金田真須美さんは、こちらも元気よく ぬえらを招き入れ、ねぎらって下さいました。

「どうする? これからみんなでファミレスで打ち上げでもしようかと思うんやけど」。これは年末くらいから、ですかね。石巻では居酒屋が満杯で、まず入れない状態が続いています。それやこれや、まだ仕事を残していることでもあり、ファミレスということになったのかな。ぬえは、この日夜行バスで到着した笛のTさんと、同じく夜行バスで到着し、しかもプロジェクトの活動に協力して被災地に初めてやってきた太鼓のKくんの労をねぎらう必要もあり、お名残惜しいですが湊町のやきとり屋さん。。ここも常連になりつつある「東助」に行くことにしました。

すると。。ぬえが金田さんとお会いする事も、もう当分ないでしょう。

震災直後から湊小避難所に泊まり込んで、避難所が解消になった今もこうして石巻に留まり続け、活動を続けている彼女も、震災から1年を経て、4月いっぱいでこの地を去ることになったそうです。「チーム神戸」は神戸のボランティア団体「すたあと長田」を中心とする混成チームで、事実上当地で活動しているのは金田さんただ一人。二人のスタッフは他のボランティア団体の一員として石巻にやって来てそのまま独自に活動を続けているうちに「チーム神戸」のスタッフとなった一人と、何か被災地の力になりたい、と東京から単身乗り込んで(ここまでは ぬえと一緒)、そのままスタッフとなった一人。彼らの「チーム神戸」もあと少しで解散になります。

一方 ぬえらの「能楽の心と癒やしプロジェクト」も東京でのスケジュールの都合から、次に東北地方を訪れるのはGW頃になる予想なのです。

。。6月下旬にチーム神戸とこの地で出会って、それから8ヶ月半、ぬえは金田さんにお世話になりっぱなしでした。怒鳴られたことも、諭されたことも、励まされたことも、日本の文化について30分以上話し合ったこともあります。30分なんて短いと思うでしょ? いや、彼らの仕事ぶりからしたら、この時間が取れたことは奇跡的だったのではないかと思います。逆に石巻の現状や震災からの復興についてのお話を伺った時間はこの数倍ありました。

最初はただの避難所の掃除夫だった ぬえも、その次の訪問では能楽師としての活動を当地で展開できたのは金田さんが ぬえを評価してくださり、慰問公演をコーディネートしてくださったお陰です。これがなければ今の ぬえもプロジェクトの活動もあり得ない。それもこれも、金田さんが ぬえをプロとして認めてくださったお陰でした。プロとして、出来る事は際限なくアイデアも浮かぶし思い入れもある。でも、思いだけでは当地では受け入れられない。そんな難しさにずっと苦しんできた ぬえも、金田さんだけは ぬえの思いを受け止めて、それを生かせる、最低限の道を切り開いてくれました。「連絡はしといた。あとは自分で交渉するんやで。」。。こうして石巻はもとより気仙沼にも、大崎にも、東松島にも、ぬえは自分たちの力で支援活動の場を拡げていくことができたのでした。

今夜は「東助」に行きますから、と伝えて「今日はありがとうございました~」とご挨拶したとき。。 ぬえはこれらの長いおつきあいやこの被災地での濃い時間を考え、もう、金田さんと会うこともないんじゃないか、と考えたら涙があふれてきて。

そんなときに笛のTさんが撮ったのがタイトル画像です。iPadでとっさに写したらしい。よくまあ瞬時に。。

ぬえにとっては決してカッコ良い写真じゃないですけど、ぬえの、能楽師としての。。いや人間としての価値観の大転換を遂げた濃い8ヶ月半の思いを写して余りある画像だと思います。多謝。

震災から1年~追悼集会に参加(その8=みなと荘で3.11追悼の会)

2012-04-16 21:27:31 | 能楽の心と癒しプロジェクト
2:46の黙祷のあと、すぐに湊小の体育館では2度目の法要が行われました。さきほどまでの笑い声も消えて、厳粛な時間が流れてゆきます。ぬえには触ることのできない追体験を、ここでは何千人もの人がこの瞬間に受け止めているのですね。。ぬえはつらい気持ちで頭を垂れ続けていました。

やがて元の喧噪が戻り、体育館には絶えず人々が集い、ぬえも舞台を勤めて。。そうして午後5時。「石巻3.11市民追悼の会」は終了しました。最後の演目『羽衣』は上演時刻がこの集会の最後を飾らせて頂く場面で上演させて頂きました。もう、この直前に住民さんは三々五々家路につかれたようで、事務局の「チーム神戸」は ぬえらに気を遣って、住民さんがお帰りになるのに気を揉んでいたようでしたが、その足音は ぬえも装束を着付けられながら聞こえていました。

いや、むしろ最後の上演はこの湊小に集ったボランティアさんたちのために舞うつもりでしたから、それでよかったのです。そうそう、この日の上演では「チーム神戸」の代表・金田真須美さんの提案で、舞うスペースを体育館の真ん中に取ることになりました。真ん中?? これは金田さんのアイデアで、体育館のあちこちに来場された住民さんたちの談話のためにテーブルと椅子が用意されてあったのですが、その真ん中に広くスペースを取り、ぬえの舞う能は四方八方に向けて舞ってほしい、とおっしゃるのです。

なるほど、ぬえがどこか体育館の片隅とかステージで舞うとなると、住民さんの着席する場所はそれに向き合うような、要するに通常の客席のような座席になってしまう。これでは能楽鑑賞会になってしまって住民さんもお互いに話をしにくくなる。テーブルが散りばめられた中、それぞれの住民さんたちがテーブルに集ってこの1年の事を振り返ってお話をなさるような今回の配置の中で ぬえが片隅で舞うと、今度は 能の方がひどくみすぼらしく、かえって談話の邪魔にさえなってしまう。。そこで中央で舞う、というわけですね。これは ぬえにはとても考えつかないアイデアでした。

この申し出を引き受けた ぬえでしたが、さすがにこういう上演方法は経験がなく、混乱しないか不安でした。が、こういうのはあんまり事前に綿密に歩みを進める場所を決めておかない方が良いようです。実際には序之舞を舞いながら、型の区切りごとに正面を違う方向に取るのですが、やはり面を掛けている状態で1~2分ごとに正面となるべき方向を変えながら演じるのは気持ちが混乱しそうになります。が、意外にもすぐに慣れるもので、とくに混乱はなく勤めることができました。こういうい事なら『石橋』で囃子方の面前に面と向かって下居して頭を振るんだった。(^◇^;)

集会は解散し、ボランティアスタッフは猛スピードで片づけに入ります。ぬえらはそれには加わらず、面装束などの片づけに没頭しましたが。終了後、チーム中津川は岐阜に帰るバスの前でミーティング。最後まですごい活躍。。それもほとんど裏方さんに徹していながら志気の衰えない行動力には ぬえは感心しまくりでした。やがて体育館に鍵が掛けられる頃。。ぬえはもう湊小とはしばらくお別れだなあ、と感慨もあります。次は校舎を修繕して学校機能が回復してから、子どもたちを相手に能楽教室を開きたいと期待しています。

さてそんな頃、湊小の向かいにある「みなと荘」の前庭ではキャンドルが点され始めていました。

「みなと荘」は正式には「石巻市総合福祉会館 みなと荘」という名称で、アパートのような名前ですが立派な建物の公共施設でした。1階には「湊幼稚園」がありましたが津波被害を受けて一時施設は閉鎖され、住吉幼稚園に間借りして活動を続けています。またこの建物は石巻市が10月11日にすべての避難所を閉鎖したさいに明友館のスタッフが拠点を移した場所でもあります。ぬえも2月にはこの明友館の事務所に泊めて頂きながら活動をしていました。ただ、ここも3月いっぱい、ということで市から事務所兼住宅として借りていた明友館は、現在の住所をリーダーの千葉恵弘さんが住む? 仮設住宅に移しています。

この日、3.11、このみなと荘では別個に追悼集会「3.11追悼の会」が開かれていまして、こちらも大勢の方が集っていました。湊小避難所で活動していたボランティアの人々の主催で、中学生ブラバンの演奏があったり二胡の演奏があったりと賑わっていたようですが、ぬえはついに見に行けず。。夜になり前庭でキャンドルを点して犠牲者の追悼と石巻の復興のために祈りが捧げられていました。

ぬえもようやくこちらの追悼行事に参加することができ、キャンドルの点火のお手伝いをして、これからの復興に祈りを捧げました。

震災から1年~追悼集会に参加(その7=湊小ふたたび)

2012-04-14 02:30:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ああ、この場所。湊小の体育館。ぬえは再びこの舞台(?)に立つことが出来ました。

6月に一人で訪れた時には自衛隊の炊き出しをしているほかはガランとしていたのを廊下から眺めるだけでした。8月には猛暑の中で『石橋』を勤めました。床は津波の被害を受けて真っ黒。そうして体育館の中も陽も射さない真っ暗な印象でした。ところが装束の着付けから実演していたら、住民のおばあちゃんが「そんなの着て、暑いだろ?」と言って うちわで扇いでくださって。。

あ、画像があった。これは笛のTさんの撮影。



こちらは別の角度から。明友館の千葉さんが撮影してくれたものです。



あれ? このうちわ、よく見ると「ガリガリ君」ですねえ。あ。。そういえば真夏に企業の支援で「ガリガリ君」の大量差し入れがあった、と聞きましたが、そのときのものかなあ? このほかにも漁港そばの被害が小さかった水産関係の業者さんから保冷用の、食べられないけれど涼に使ってくれ、と大量の氷が届けられたこともあったそうです。こういう善意と、それから住民さんの優しさに ぬえは参ってしまって、それから石巻に通うようになりました。

さて「市民追悼の会」。上演の空き時間に、この日初めて被災地を訪れた太鼓のKくんに被災地域を見てもらう計画でしたが、朝にひと通り廻ることができたこともあって、結局ずっと体育館の中にいました。昼食はチーム中津川や曹洞宗庄内青年会の炊き出しに並んでご相伴にあずかって。。夕方までの間に『葛城』『石橋』『羽衣』のダイジェスト版の能3番を勤めることができました。









湊小の体育館は常に人であふれ返り、この集会がある種の同窓会でもあるのだな、と ぬえには感じました。久しぶりの再会を抱き合って涙する人、楽しげに談笑する人、懐かしげに壁に張り出された避難所当時の写真に見入る人。。

そうして午後2:46分。あの時刻を迎えました。

防災無線によるサイレンが1分間鳴らされ、石巻市内が、いや宮城県全体が、否 被災県のすべて。。いやいや日本全国が1分間の黙祷を犠牲者のために捧げた、あの時間。ぬえはその少し前に胴着から紋付に着替えて、ビデオを校庭に持ち出し、懐かしい湊小全体が写るようにセットして録画を始め、自分はそのそばに立って湊小の校舎を見つめながらその時を待ちました。

やがて響き渡るサイレン。。ぬえは1年前のこの日にはここにはいませんでした。そうして6月に何も考えずに東京を飛び出してここに来た。でもその時思ったのです。「なんでもっと早くここに来なかったんだろう。。」後悔と自責。その後ろめたさが ぬえをその後も東北に誘いました。それでも ぬえなんかにあの試練を耐え抜いた人々の心なぞ解るはずもなく、そういう疎外感も持ってここに来たし、住民さんと、それこそ一瞬、通りすがりに声を掛け合うだけでも緊張に身が固まりました。

ところが思わずも当地の人々の優しさに触れてしまって。。「能楽の心と癒やしプロジェクト」を名乗っているのですが、当地に来るたびに癒されているのは 明らかに ぬえたちの方。。

そうしてまた一方で全身全霊を傾けてこの街を手助けに来るボランティアの姿に衝撃を受け。。中には当地に住民票を移し、ここで出会ったボランティアさん同士で結婚したカップルもいたし、なにより街を再生させるためにやってきたプロのボランティアさん さえいたのです。こうした善意や情熱がこの街に充ち満ちていました。濃い時間、自分の東京での生き方の、その根底を揺さぶられるような経験を、ぬえはこの地でさせて頂きました。人の心の温かさ、強さ、いやある時には弱さや もろさも ぬえは当地で再発見することができた。。すなわち当地は人の犠牲があったその上に立脚して、人の素晴らしさ。。なんて言うとカッコ良過ぎですね、スゴさを知る大きな学校ともなったのではなかったか、と ぬえには思われました。

犠牲への鎮魂の祈りを込めての黙祷。。ぬえには感謝の気持ちをその方々に捧げる時間でもありました。

震災から1年~追悼集会に参加(その6=石巻3.11市民追悼の会)

2012-04-12 02:42:19 | 能楽の心と癒しプロジェクト
翌3月11日。ついにこの日がやって来ました。震災から1年目のその日。

ところが事前には市内の至る所でそれぞれのボランティア団体が主催して追悼行事を行っていて、市内は大渋滞。。を予想していたのですが、意外にも ぬえの耳に入ってきたのは市が主催する公式の追悼行事のほかには、ほんの2~3だけしかありませんでした。なぜだろう。。ぬえの探し方が悪いのかな。。でも、石巻駅の周辺では、それこそ久しぶりに全国から集まったのであろうボランティアの若者たちの姿が多く見かけられ、その一部はこれまた久しぶりに見たボランティアの所属を表すゼッケンを着けて歩いていました。なんだか半年前に戻ったかのような風景。

ぬえは早朝に起床して(ま。。いつものことですが)7時には石巻駅に到着し、夜行バスでこの日到着する笛のTさんと太鼓のKくんを出迎えました。まずは佐藤さん宅に戻って着替えなど公演に不要の荷物を置かせて頂き、朝食をご馳走になって、いざ湊小に向かいましたが、まだ時間もあるので、被災地に初めて足を運ぶKくんのために、まずは被災地域の視察から始めました。中瀬・門脇・南浜。。そうそう、昨日石巻駅前の観光物産館で買ったのですが、巨大な鯨肉の缶詰を模したタンクが流された「木の屋水産」は立派に復興の歩を進めていて、鯨缶詰が売り出されていました!(後日東京のドンキでも販売されているのを確認!)









(ここまで撮影:ぬえ)

湊小では飾り付けの最終仕上げもいよいよ完了して、ぬえらは緞帳を下ろした体育館ステージの上を楽屋にさせて頂くことになっていましたので、そこで装束などの準備を始めました。朝9時。チーム神戸の金田さんが中心となって当日のお手伝いに駆けつけたボランティアたちのミーティングが行われました。正直、ぬえもチーム中津川やフランス人協会の方々はチーム神戸の活動を通じて団体の存在だけは知っていましたがお会いするのは昨日の飾り付けのときが初めて。それでも同じ志を持った“仲間”ですからすぐにうち解けることができました。これらのグループが金田さんによって紹介されましたが、とくにチーム中津川のみなさんの活動には敬服しましたね~。これまでも泥掻きなど重労働のボランティアを進めてきたようでしたが、この日も駐車場の担当をするなど、ともかく目立たない裏方の活動を黙々と、それでも明らかに熱意を込めて行っておられる。。ぬえらのような慰問活動では計り知れない苦労をこの方々は進んで引き受けておられます。

さて湊小体育館では住民さんの実行委員会主催、チーム神戸事務局により「石巻3.11市民追悼の会」が開かれたわけですが、前もって聞かされていた内容はこんなものでした。午前10時~午後5時まで、延々と行われる。それは避難所時代の湊小に関わった地域住民が集うのに、各家庭でも犠牲者の追悼が行われる事情に配慮して、空いた時間にいつでも湊小に来れるように緩い時間設定をしたもの。住民さんに限らず、湊小避難所に携わったすべての人々が再び集い、追悼をするのが催しの目的。。

こういう緩い進行が設定されていましたから、ぬえらの能楽の公演も、とくに上演時間を決めず、集会に人が集まったら随時自分たちの判断で上演してほしい、と金田さんに任されていました。ぬえの予想では、これほど長時間に設定された集会では、集まる住民さんも ちらほら。。と寂しい進行と思いこんでいたのですが。

ところが!朝10時を前にして、すでに湊小体育館は大勢の方が集まっておられました。まずは避難所時代の湊小にずっと安置されていて、住民さんの心の拠り所となっていた観音像に向かって法要が行われました。このときの法要は ぬえらとも一緒に活動して頂いている曹洞宗庄内青年会が中心となって導師をお招きして行われたのですが、このとき初めて いつもご一緒しているお坊さん方の声明を聞きました。それが。。あまりに美しく、荘厳で、ぬえは絶句。。ぬえらも読経の流れる中焼香をしまして、それから2月に気仙沼の地福寺で手向けさせて頂いた独謡一管『江口』を笛のTさんとともに勤めることにしていたのですが、すでに ぬえの涙腺は極限状態で、まともに謡えるか自信がない。。


(これはぬえ撮影)


(これ以降撮影:加藤昌人氏。タイトル画像も同)

まあ。。なんとか『江口』を勤めてから、すぐに装束の着付けを始めて、30分ほど経ってからダイジェスト版の能『葛城』を勤めさせて頂きました。




震災から1年~追悼集会に参加(その5=半年ぶりの湊小)

2012-04-11 01:26:27 | 能楽の心と癒しプロジェクト
すんませ~ん、なんと1ヶ月前の出来事のご報告になってしまいます~。。なんでこんなに時間がないんだろ。

さて伊豆の「子ども創作能」に出演している子どもたちのご家庭から寄贈された、車に満載の絵本やおもちゃを無事に東松島市の仮設住宅集会所2カ所に届けまして、ようやく広くなった車に安堵しながら石巻の湊小学校に向かいました。

これは翌日に予定されている追悼集会「石巻3.11市民追悼の会」のために、会場となる湊小の体育館を飾り付けるため、なのですが、すでに飾り付けは午前10時から始まっていました。これは前日に集会の事務局である「チーム神戸」の金田さんから伺っていたのですが、ぬえは上記のように、まず車に満載の支援物資をなんとかしないと今後のスケジュールに差し支える、というわけで、東松島の仮設住宅廻りを先に済ませたのでした。ぬえが湊小に到着したのは午後1時をまわろうか、という頃。偶然にも「記念写真屋さん」加藤昌人さんと出会って久しぶりの会話を交わしたあと、飾り付けの状況を伺いましたが、みなさん今は昼食のために「チーム神戸」の拠点である「ふれあいサロン」に戻っているところだそうですが、まだまだやる事はたくさんあるそうで、とりあえず ぬえがお手伝いできることもありそうです。

それにしても久しぶりの湊小です。昨年10月11日に石巻市によってすべての避難所が解消されたときに湊小も同じく避難所としての役割を終えたのですが、ぬえは昨年6月からそれまでに計3回湊小避難所にお邪魔し、2回の能楽公演を行いました。それから半年。。

津波の被害を受けている校舎はそのままでは学校機能を再開させることができず、あいかわらず児童は毎朝校庭に集まってバスに乗り、間借りしている住吉中に通学しているようです。従って校舎は無人。。正直、荒れるに任せているに近い状態で、そのため「3.11市民追討の会」の前に施設の状態のチェックが行われましたが、案の定この冬の寒さのために水道管が破損して、トイレが使えない状況だということがわかりました。事務局「チーム神戸」では広く仮設トイレの提供を呼び掛け、ぬえもfacebook等で拡散に協力したのですが、やがて「チーム神戸」自身が仮設トイレを調達しました。しかもこれが、石巻で事業展開をしている土建業者さんに話を持っていったところ即答で協力してくださることになったそうで。。ぬえは今回の震災で神戸の街の強力な布陣にまたまた驚かされました。17年前に阪神淡路大震災で痛手を蒙った彼らは、自らの反省点も踏まえて、次に災害が起こったときにすぐに行動して自分たちと同じ轍を踏ませない、そういう組織的な準備を整えていたのです。そうしてこの土建業者さんのように、災害に対して支援協力を惜しまない人々がいる。。神戸、スゴ過ぎです。

やがて昼食を終え、「チーム神戸」スタッフや、その協力者。。ぬえのように湊小で活動していて、3.11追悼集会のために再び参集した人々が集まってきました。初めてお会いする人ばかりでしたが、お名前だけは仄聞している個人や団体のボランティアさんとお会いして、すぐに意気投合しました。彼らは ぬえとは違って、多くは休日を見つけては泥掻きなどの重労働に携わってきた強者ぞろいです。チーム中津川。。彼らは岐阜から遠路はるばる時間を見つけてはやって来ました。フランス人協会。。終始笑顔を絶やさない彼らもとんでもないパワーで突き進む猛者揃い。翌日には避難所で住民さんたちにお茶を提供しながら悩みを聞いていく地道な作業をずっと続け、ぬえらともご一緒に何度も活動をしている曹洞宗庄内青年会のみなさんも到着します。大きな、大きな善意の輪を、ぬえはこの湊小で見ることができました。





さてさて ぬえもフランス人協会のみなさんらと一緒に風船をふくらませたり、体育館のステージの緞帳に追悼集会の文字を取りつけていったり、ずうっと作業を続けました。あ、一度、ちょっとこの場を離れて、石巻駅前でこの日行われている「鎮魂の夕べ」に顔を出しました。そこに、なんと同じ流儀の能楽師さんが出演されるとの情報を耳にして。あ~ ぬえのほかにも仮設住宅を廻ってる能楽師がいたんだ!

彼とも簡単に情報交換をして、再び湊小の飾り付けに戻りましたが、夜6時くらいまではお手伝いしたかなあ。チーム神戸のスタッフ、無尽くんや緑ちゃんもテキパキと仕事をこなし、また会場に展示する写真も徐々に飾り付けられていきました。おっと「記念写真屋さん」の加藤さんは、撮り貯めた写真をPCのモニターでスライドショーしていて、みんな興味津々。



えと、このスライドショーの中に、2月(つまり最後の方)に ぬえと笛のTさんと二人で石巻の仮設商店街で行った公演の画像が含まれています! これは YouTubeにもアップされていますので、ぜひご覧頂きたいと思います。

2011 to 2012 石巻、湊地区の皆さんと

しかし、展示されていたものの中でもわけても印象的だったのは。。湊小避難所にずうっと掲げられていた全国から寄せられた励ましのメッセージの数々。ぬえもこれらが壁にたくさん張り出されている光景はなじみ深いものです。。が、じつは避難所が閉鎖になったとき、これらのメッセージは一時は廃棄されようとしたらしいのです。ところが避難所の住民さんのリーダー格の方がそれを救い出して大切に保管し。。この方が今回の追悼集会の実行委員会のリーダーになりました。



飾り付けもようやく大部分は完成し、翌日の追悼集会を待つのみ。ぬえも佐藤さんのお宅に引き上げました。翌朝はTさんと太鼓のKくんが夜行バスで早朝石巻に到着します。今夜は深酒はしないようにしようっと。


子ども創作能、はじめて市外へ!~鎌倉公演

2012-04-09 03:23:56 | 能楽
ついにここまでやってきました! 本日鎌倉市で行われている「鎌倉まつり」に伊豆の国市の「子ども創作能」が招待され、鎌倉宮で『伊豆の頼朝』を上演して参りました。当日は鎌倉市長さんや観光協会副会長さん、伊豆の国市からも観光協会長さんや能友の会、伊豆長岡芸妓連の方々も多く参集してくださり、満員御礼の大盛況でした。

ぬえも12年間、伊豆で子どもたちの舞台「子ども創作能」の指導を続けて来ましたが、今日、ついに伊豆の国市を飛び出して、遠征公演に出かける事となりましたが、ホントに、12年かかって、ついにここまで来たんだな~、と思います。…とはいえ、ぬえにとっては伊豆の子どもたちと楽しみながら、みんなついて来てくれて、そうして毎回素晴らしい舞台成果を見せてもらって。そしたらお客さまも喜んで頂いてしまって、なんだか段々と大きな舞台にも呼んで頂いて、という感じですかね~。よく「ぬえさんのお陰です」なんて関係者から言って頂くんだけれども、ん~、ぬえががむしゃらに努力した結果…ではないです。がんばったのは小学生のあの子たちだもんね。

いやしかし、子どもたちは本当に大変だったと思います。なんせ前日に最終稽古をして、当日は早朝5:30に伊豆の国市からバスを連ねて出発。「鎌倉まつり」には伊豆の国市の芸妓連の方々もパレードに参加されたため、総勢70名以上の大移動となりました。ぬえは鎌倉の親戚のお宅に泊めて頂いて、さて当日の朝。相変わらず睡眠障害がある ぬえは5時には起きていまして、早速メールで無事の出発を確認。やがて予定よりも大幅に早く鎌倉に到着した、という連絡が入り、時間調整となったんで、じゃ、ってんで海でみんな遊んでま~す、というメールが来て、ををっ、由比ヶ浜か! っというわけで ぬえも急いで由比ヶ浜に行ってみました。

結局海では会えなかったけれど、バスに乗り込んでいる子どもたちと再会。ん~車酔いで阿鼻叫喚地獄を想像していたけど大丈夫だったみたいで、みんな元気でした。異常と言えば、時間調整で遊んでいる間に水たまりに足をつっこんで靴をびしょ濡れにしてパパに怒られた子が一人。。だそうです。ああ、そこまで細かい報告はいいから。(^_^;

やがて会場入りした子どもたち。神社でお祓いを受け(ぬえは装束の準備で参加できず。。悔しい~)、それから みんなで舞台の拭き掃除をします。ここからようやく休憩と、お昼ごはんを頂きました。早朝の出発で朝食を摂っていない子も多かったようで、みなさんお疲れさまでした。









そうこうしているうちに装束の着付けの時刻となり、時間には余裕を持っていましたので、時間を掛けて慎重に着付け。。あちこち余分に糸留めをして、着崩れないようにはするんだけれど、静かに座ってなんかいないもんだから、子どもたちの装束は10分もしないうちにグズグズになっちゃうのよねえ。。これはいつもの事で、一人着付けては先ほど着付けたばかりの子の装束を手直し。そうしているうちにこっちの子がグズグズ。。ああ、開演まで永遠に続くかのような苦行が待ち受けているのでありました。

さてやがてお囃子方も到着して、午後2時から開演となります。ぬえも舞囃子『盛久』を演じ、そしていよいよ『伊豆の頼朝』の上演となります。今回は数日前の三養荘の公演とはまた少し演出を変えて、北条政子役のひとちゃんには長刀を使っての斬り組みをさせてみましたが、なかなか良い出来でした。

ましてや、最初からみんな大きな声が出ること! 冒頭に発声した頼朝役のカホちんからして、すでに「ををっ!?」と思う朗々とした、また滑舌の良い発声で、ぬえにはすでに成功の予感。北条政子の中之舞、また敵役の山木兼隆の唯ぴも、頼朝に負けず劣らず大きな声で演じて、また斬り組みも切れ味鋭く、視線の定まり具合、静止しているときの身体の姿勢、ナマの自分を舞台に持ち込まないこと。どれを取っても素晴らしいものだったと思います。鎌倉にご招待を受けて登場する、ということの名誉はわからないかも知れないけれど、大切な舞台を一生懸命に演じる、という気持ちは ぬえにもビンビンと伝わってきました。正直言って地謡の後見をしていた ぬえも感動しましたね。暖かい拍手を受けての終演後、鎌倉市長さんも子どもたちと気持ちよく写真に収まってくださったり、みなさんにとっても喜んで頂けたのを肌で感じた ぬえでありました。

楽屋では急いで着替えをする手はずになっていましたが、ぬえからはその忙しいさなかではありますが、子どもたちへの講評を。今回は100点満点のところ300点をあげました。300点は久しぶりですね~。さらに続けて「みんな。。よくやってくれた。先生も。。(ノ_<。) 先生も……泣かねえよ~~ん (=^0^=)」

さて鎌倉市からは、せっかく子どもたちが頼朝の能を演じにわざわざ伊豆から来るならば頼朝の墓に参詣しては? というお言葉を頂きまして、伊豆へ帰るスケジュールの合間を見ながら、急いでみんなで頼朝の墓・白旗神社にお参りに行きました。このへんは道路も狭く、とても観光バスで行けるところではない事も ぬえは知っていましたので徒歩で向かいましたが、鎌倉市の観光協会の方もわざわざご案内頂き、道々頼朝が開いた鎌倉幕府の跡地や、頼朝がここに居ただろう、と考えられている場所を説明頂きながら進みました。



頼朝の墓は、じつはすこし前に不届き者の手によって破壊されたのです。。こういうの。。ぬえは本当に腹が立ちます。あまりにも深い日本の文化。それが、今まさに消滅しようとしている現代。ただでさえそれほど危機的状況なのに、長く伝えられてきたものが破壊されるのは一瞬のことです。そうして二度と元には戻らない。ぬえは京都・大原の寂光院が放火? によって全焼した、という報道を聞いた時の怒りを、まだ鎮めることができないでいるんです。

頼朝の墓は幸いににして破損は小規模だったらしく、この日の「鎌倉まつり」に合わせて修復されていました。真新しい鉄の門と錠前が痛々しかったですが。。

さて墓前ではかねて打合せをしておいたように子どもたちによって『伊豆の頼朝』の一節をみんなで謡って奉納しました。これはご案内頂いた鎌倉市観光協会の方も、あとで「あれは。。感動しました」と ぬえにこっそりうち明けてくださいましたが、子どもたちにとっても印象深いことだったでしょう。、はるばる100kmの道のりを伊豆から鎌倉まで来ておいて、頼朝の墓前にご挨拶する事は、ぬえにとっても悲願のようなものでした。東北での支援活動を一緒に行ってくれ、伊豆でも献身的に協力頂いている笛のTさんも、この参詣にわざわざ同行してくださり、笛を吹いてくださいました(!)。

控室に戻って、ご褒美に ぬえからアイスをふるまわれた子どもたち。それでもとうとう、お別れの時間です。バスに乗り込んだ子どもたちも窓から手を振ってくれ、彼らは伊豆に帰って行きました。ぬえもバスが見えなくなるまで見送って。。良い1日だったなあ。

鎌倉宮のみなさん、鎌倉市の観光協会のみなさん、そうして市長さん。さらにもちろん意外なほど多く集まってくださったお客さま。みいんな伊豆の子どもたちに優しく接してくださいました。そうして伊豆の国市のみなさん。芸妓連の方々もパレードで延々と演じられたあと子ども能に駆けつけてくださり、あまつさえ優しいねぎらいの言葉を掛けて頂きました。能友の会や観光協会のみなさんは数ヶ月に渡って準備を整えられ、当日も汗まみれになって調整や進行、後かたづけまで大活躍されました。みなさんのご厚意によって子どもたちは大変な経験と自信を得させて頂きました。あの笑顔。それがあって、ぬえもみなさんも、やって良かったなあ、と思うことができます。今回は僭越ながら、ぬえから関係者のみなさん、お客さまにも、感謝を込めて300点をつけて良いですか?

(追)すんません、出演者の ぬえが撮った画像はこの程度。。いずれ写真が手に入ったら追加の画像をご紹介したいと思っています~~

子ども創作能、高級旅館「三養荘」で公演

2012-04-05 01:14:53 | 能楽
じつは ぬえ、この4日間、ずっと伊豆におりました。というのも子ども能の公演があったからなのですが、それも伊豆の国市きっての高級旅館「三養荘」の大広間での公演でした。

ぬえ、その存在は知っていましたし、外側だけなら何度も前を通って見ていましたが。。(^◇^;) 中に入ったのはこの日が初めて。いやその、あまりの広大なことにビックリしました。玄関から公演会場となる大広間までが遠いのなんの。。足の悪いお年寄りなどは客室に到着する前に遭難するかもしれませぬ。

で、広大なのも当然で、ここは岩崎弥太郎の長男・久彌の別邸だったところなんですね。会場に向かう途中に見える庭には滝があり1本だけ植えられた桜が満開。。なんともゴージャスなことです。

伊豆の国市では今年「頼朝挙兵830年祭」と銘打って大々的に観光や文化振興のテーマとしています。そりゃそうで、伊豆の国市。。とくに韮山は文化財の宝庫なんですよね。いわゆる「歴女」(←古い?)には垂涎の地のはず。なんせ平治の乱のあと幼い頼朝が流された「蛭が小島」がある地で、これを庇護して後に源に代わって鎌倉の執権となった北条家の本拠地でもあるのです。ぬえたち能楽師にとっては普段舞台で演じている能の本説、まさにその時代がここに立ち現れるかのような場所。良くも悪しくも観光地化されていない、重厚な歴史が垣間見えるこの街が ぬえは大好き。

その「830年祭」に向けて、ぬえが指導する「子ども創作能」の上演曲目『伊豆の頼朝』は、まさにど真ん中のストライクでした。なんせ頼朝の挙兵そのものを舞台化した創作能です。この曲の台本を ぬえが書いたのは今から3年ほど前だと思いますが、その頃はこんな風に脚光を浴びるとはちょっと考えてもみませんでした。

が、今年は「830年祭」にまさに打ってつけの曲目だということで、子ども能の主催者である「伊豆の国能友の会」がいろいろとお骨折り頂いて関係者と協議されたようで、今年はたくさんの大きな舞台を与えて頂けることになりました。

その最初がこの日。4月3日に三養荘で行われた830年祭のオープニングのレセプションが三養荘で執り行わて、子ども能はここに招待を頂きました。なんでも「830年祭」は、ここで旗揚げした頼朝が石橋山の合戦で敗走して安房国に逃れ、やがて関八州を傘下におさめて鎌倉に凱旋した史実を踏まえて、それに関係する自治体との連携までを図った壮大な計画のようで、この日は各自治体の関係者が一堂に会して会議を開き、オープニングセレモニーを持ち、そうしてようやく和んだ雰囲気で行われたレセプションの席で、関係者は子ども能や芸妓さんたちの踊りを楽しまれるのだそうです。

ともあれ、普段は神社の神楽殿などでばかり上演している子ども能にとって、三養荘の大広間の美しい舞台はまぶしいほどでした~。

でわでわ早速舞台のご紹介です~。撮影は毎度子ども能の応援に駆けつけてくださる山口宏子さんからご提供頂きました!

まずは頼朝役のカホちん(トップ画像)。ん~凛々しい。ですが髪に華を飾ってもらいました。3年前、男の子ばっかりだった子ども能の、そのメンバーを念頭に書いた台本だったのですが、意外に少女が演じる頼朝も華やいで良い感じです。ですから装束は男装だけれど、あまり頼朝に拘泥しないで、できる範囲では女の子らしく飾り付けていいよ~とお母さんに伝えています。



こっちは北条政子役のひとザウ。北条政子がやるはずないけど戦勝祈願で神楽を舞っています。ぬえ、国文科出身だからか、初演では原作(この創作能では『吾妻鏡』『源平盛衰記』)から離れることができず、頼朝は平家目代の山木兼隆との合戦に参加さえさせませんでした。2回目の上演から、ようやく本説の呪縛から解かれて、能の最後の場面では頼朝と兼隆の一騎打ちはさせるわ、政子は舞を舞うわ。。タガが外れちまいました。でもね。この政子は短縮バージョンとはいえ「中之舞」を舞うんです。

さて兼隆邸に押し寄せた源氏軍。武士同士が火花を散らして戦います。



配下の郎党を失った兼隆役のユイぴはついに自ら太刀を抜き、敵将・頼朝と一騎打ちの戦いに臨みます。



が、それも頼朝にはかなわず、捕縛されて連行されて行きました。



ん~地謡もがんばったね! この地謡に子ども能は支えられています。ありがとう!



上演が終わって舞台に戻ってのカーテンコール。。いやいや、子どもたちから静聴頂いたお客さまにお礼を申し上げます。これも恒例になりましたが、礼に始まり礼に終わる。こういうところを大切にしていきたいです。



上演3年目。去年は5回の公演がありましたから、子ども能の過去のレパートリーの中では圧倒的に繰り返し上演されている『伊豆の頼朝』。ずいぶん長く演じ続けている印象がありますが、不思議とマンネリにならないです。久しぶりにずいぶん立派なお舞台に出演させて頂きましたが、見違えるほど上等に見えますね。

それもこれも、子どもたちの苦労と必死の稽古の賜物です。よくがんばったね。
今週末はいよいよ鎌倉での公演が控えています。より良い舞台を目指してがんばろう!

。。ところで ぬえはこの公演のため必要があって4日間も伊豆にいたのではありませぬ。
じつは、子ども能の教え子のうち、6年生のカホちんと1年生のサキべの2人が、この三養荘の公演の直前に相次いでピアノの発表会への出演があったの。ぬえは2日間それぞれの発表会を見に行きました!。。ま、ぬえは教え子の運動会も学芸会も参加しちゃうヘンな人で有名なんですけれども。。 それにしても、へえ~~ドレスを着ちゃってたり、真剣にピアノに向き合う姿は、いつも ぬえが見ているカホちんやサキべではない別人みたい! またピアノの先生が違うと、コンサートもこうまで違うんだ、と思ってビックリしました。衣裳、演目、構成、雰囲気。。どれをとっても全然違います。面白いものですね~~

震災から1年~追悼集会に参加(その4)

2012-04-03 00:07:26 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そこで、これらの支援物資は早く配達し終えたかったです。なんせ車の後方視認さえほとんどできない状態でしたから。それから絵本の山を見て、これを納める本棚も必要だと感じて、石巻に到着してすぐ、まずはホームセンターに寄って、本棚…は高価だったのでカラーボックスを買い込みました。

それから、東北道を走る道中から石巻の明友館さんや東松島のボランティアセンターさんとも相談して、物資の受け入れ先の仮設住宅をご紹介頂いたのでした。PAなどで停まってはご紹介頂いた仮設の自治会長さんにお電話して搬入の打合せをしながら、ようやく受け入れ先が決まりました。

こうして佐藤さん宅に泊めて頂いた翌日、物資の配達に、まずは東松島市の「鷹来の森(たかぎのもり)運動公園応急仮設住宅」へ。この日はあいにくの天気で雪景色の仮設住宅に到着し、自治会長さんにご挨拶して集会所にお邪魔し、さっそくカラーボックスを組み立てようとしたら。。あら~ネジを締めるドライバー買ってくるの忘れた~。というわけで、同じく運び込まれた支援物資を配給する住民のママさんグループにお願いしてドライバーを貸して頂きました。支援者が助けを頂いてどうする。



それでもお借りしたドライバーは高性能で、たちまちにカラーボックスの組み立ては終わり、おもちゃと絵本を置いて鷹来の森運動公園応急仮設住宅を後にしました。ちょうど ぬえのほかにも支援物資が届いていて、その仕分けと配達に立ち働くお母さん方の姿が印象的でした。また若いお母さんが多かったために子どもたちも多く見かけました。あいにくお母さん方や子どもたちは支援物資の配達に忙しくしておられたので ほとんど会話も交わす余裕もありませんでしたが、伊豆から支援頂いた物資は有効に役割を果たすでしょう。



ついで向かったのは「根古(ねこ)応急仮設住宅」。ここは3.11の追悼集会の翌日に慰問公演を行う予定になっている仮設住宅です。根古というのは石巻の人に聞いても知られていない地名で、矢本のインターからほど近い位置にありながら、道はずっと迂回して来なければならない遠い場所でもあります。周囲は田園に囲まれ、その中のほんの小さな区画に仮設住宅はありました。もともと根古公民館…地区センターという、これまた小さな建物があって、その敷地の中に少ない戸数の仮設住宅が建てられているようでした。



こちらでも自治会長さんに挨拶をして公民館で早速カラーボックスの組み立て(さっき鷹来の森仮設で借りたドライバーはお願いしてここでも借りっぱなし)。案の定こちらにも子どもたちが遊ぶ絵本やおもちゃはまったくありませんでした。小さな仮設住宅だということで、自治会長さんに伺ったところここに暮らす子どもたちも少ないようでしたが、仮設住宅でしばらく続く生活を考えると、その少数の子どもたちの役にも立つことでしょう。

じつは、本来これらの物資は石巻市の仮設に運び入れるつもりだったのです。ところが仮設住宅をとり巻く状況は刻一刻と変わって来ていまして。。ちょっとこのブログでも書くことがためらわれるような事情も ぬえに伝えられたりして、心を痛めておりました。。そこで石巻市の仮設支援は今後の課題ということにして、今回の支援は、石巻と比べて支援の手がずっと届いていない東松島市の仮設に目標を置くことにしたのでした。

現地の状況は楽観を許さないです。復興は少しずつ進んでいるけれども、むしろ ぬえにはある意味、現地に赴くたびに状況は悪くなっているようにさえ思えます。3.11を過ぎてボランティア団体が撤退してからどうなってゆくのか。。?

ともあれこうして伊豆の国市の子ども創作能の保護者からの贈り物を東松島市の2カ所の仮設住宅に配り終えて、さて東松島市でのもう1カ所の公演予定地「矢本運動公園応急仮設住宅」にも行って集会所の場所を確かめて、それから石巻の湊小に追悼集会の飾り付けを手伝うために赴きました。

震災から1年~追悼集会に参加(その3)

2012-04-02 17:08:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「は。。? 能。。? 。。ここで?」

…飛び込みで上演の受け入れをお願いした観光協会ではこういうリアクションでしたね~。仲良しになったいまとなっては「いやいや、能なんて上品なものをこんなところで良いのかな、と思ったんですよ~」なんておっしゃいますが、まあその当時は さぞうさんくさく思われたことでしょう。そんなもんです。仮設住宅にお邪魔しても、ここのほかの場所で上演のお願いをしても、まず最初は とお~~~っても怪訝な顔をされますもの。やっぱり能ってマイナーなんかなあ。このへんはもう慣れたもので、なんとか上演の受け入れをご了承頂けたらしめたものです。何をやらかすんだろう。。というような不審そうなお顔はとりあえず措いておいて、すぐさま上演の支度にかかります。終わった時には必ず「今日はありがとうございました~。また来てくださいね~」「はい~!必ずまた近いうちに!」となりますもの。それぐらい考え抜いて上演内容は作り上げています。

観光協会での上演はやはりとても喜んで頂けまして、その後12月にもここで上演させて頂きました。そうこうしているうちに職員のみなさんとも次第に仲良しになってゆき、雑談の中では「どこに泊まっておられるの?まあ、ボランティア団体の事務所に雑魚寝? お風呂はスーパー銭湯?それならうちに泊まってくださいな~」みたいなお話もありました。そうした成り行きから、観光協会の職員の佐藤さんのご主人が石巻市商工会議所の方ということで、商工会が管理する仮設商店街「石巻立町ふれあい商店街」で2月に公演をすることになったのでした。

ぬえはこの商店街公演で初めて佐藤さんのご主人にお会いしたのですが、早速に意気投合しまして。このときは山形県の曹洞宗庄内青年会の渡辺さんら一行7人のお坊さんの炊き出しもあったものですから、お客さまにもとても喜んで頂けました。

さてこの3.11。宿泊場所に困った ぬえは、上に書いたような、そのときは冗談だったかもしれないけれど、今回ばかりは無理を承知で佐藤さんのお宅に泊めて頂けないか相談をしてみました。結果はふたつ返事のOKで、ありがたく泊めて頂きました。いや~3泊もお邪魔するのに、この初日の夜は佐藤さんと飲みました~。ずっと一人で高速道路を運転してきた疲れも忘れて深夜2時まで。(;^_^A  いやいや、ご迷惑をお掛けしました。

翌3月10日。朝食を佐藤さん宅で頂いて出動。昨夜チーム神戸と話して、この日は朝10時から追悼集会のための飾り付けを湊小の体育館で始める、とのことでしたが、ぬえの方も今回は支援物資を持ってきていましたので、まずは東松島市の仮設住宅2カ所を廻ることにしました。

この支援物資の受け入れ先も、前日東北道を走りながら折々東松島市のボランティアセンターの関係者に電話して紹介して頂いたものでした。東北道の道中ではチーム神戸や商工会の佐藤氏、また東松島市の関係者や、はては伊豆の子ども能の連絡までしながら、なんだか頭がこんがらかりながらの旅だったですね~。

この支援物資、伊豆の子ども能の出演者の児童のお母さん方からご寄付頂いたものです。1月に石巻の仮設住宅での公演をした折、子どもたちが遊ぶための絵本やおもちゃが何もない事に気づいて、東京に帰ってから伊豆のお母さん方に支援をお願いしたものなんです。

「使わなくなった絵本やおもちゃを寄付頂けませんか? 汚れたものはダメですけれど。仮設住宅に暮らす子どもたちが遊ぶ道具をプレゼントしてあげてくださ~い」と呼びかけたところ、これが ぬえの予想を遙かにしのぐものすごい量が集まりました。絵本の山。大きな袋ふたつに一杯に詰め込まれた ぬいぐるみ。みなさん、ありがとう~ (^^)V …だがしかし、もうレイちゃん(←愛車)は満杯で、ぬえ一人がようやく運転席に乗れるだけ。今回は往路が ぬえの一人旅だった事が幸いしました。ほかの能楽師も同乗して東北に向かう予定だったならば、窮屈で苦労な旅になったでしょう。。いや、自分たちの荷物を減らさなければならなかったかも。

震災から1年~追悼集会に参加(その2)

2012-04-01 10:38:37 | 能楽の心と癒しプロジェクト
昨年9月、3度目の石巻訪問を計画していた ぬえは連日胃痛に襲われていました。なんせ出発の数日前になっても、公演はただの1カ所しか決まっていなかったのです。それも最初に一人で石巻を訪れた際に避難所の掃除をしたご縁からお近づきになったボランティア団体「チーム神戸」のお計らいによって、その掃除をした避難所・湊小学校での公演をお許し頂いた、それだけ。あとは東京からいろいろと調べて、メールを出したり、電話をしたりして能楽の慰問公演の受け入れについてお願いしていました。

…ところがこれが見事に不発でして。。メールには返信が来ない、電話をしても断られる。。当時、どうも石巻はイベント疲れしている印象を受けました。これもどうかとも思いますが、石巻は当時「便利な被災地」と呼ばれていることを後で知りました。仙台から1時間で行ける、東京から日帰りでも行くことができる、そのうえ町村合併して巨大な面積を持つ石巻市は、宮城県内でも最も甚大な被害を受けた街。。こうして ありとあらゆる人々が石巻を目指したのでした。ボランティアはもちろん、ぬえたちのような慰問を目的とするアーティスト、タレント。。これも段々と分かってきたことですが、石巻に比して全く誰も足を運ばないような被災地も現実にあって、その格差はとんでもないものだったと思います。

ぬえが最初に石巻でボランティア活動をしたのは偶然ではありましたが、その街で次に訪れるにも、まったく狭い場所、前回訪れた避難所から1歩も外に出て活動できない事は大変な心労でした。8月に湊小学校避難所ではじめて能楽公演を行った手応えから、この9月には能楽と狂言の両方の上演を計画し、数日に渡るスケジュールを確保して。いわば「満を持して」石巻に向かう予定でありましたから。それほど当時の石巻ではあちこちでコンサートや演劇、また支援物資を携えたタレントがたくさんのイベントを開いていまして、能楽はかなりマイナーな存在だったのかもしれません。

それほどみんなが注目する被災地に、石巻は当時からなっていました。でも、ぬえも先ほど石巻に至ったのは偶然、と書きましたが、仙台方面から海岸線を北上して行くと石巻はまず最初に目の前に現れる激甚災害地であって、それを見た衝撃が大きかったこと、またそれまで せいぜい1度しか訪れていないこの地方で、震災後にすぐに耳に入った地名であったことを考えれば、ぬえが石巻で足を止めてボランティア活動を始めたのも偶然とは言い切れないかもしれませんね。

とはいえ、ぬえらの活動は単なる慰問イベントではなく、邪気退散や寿福をもたらす目的も自負していましたから、9月に東京から訪問公演を石巻の各施設や団体に打診して、それがことごとく断られる(あるいは黙殺される)状況は、ぬえにとってあまりに心労でした。あの頃。。迫ってくる出発の日を目前にして、ひたすらメールを打ち、電話を掛け。。眠る間もなく、お風呂も2日に1回しか入れなかった事を思い出します。このまま石巻に行って、なにもする事がないまま避難所に宿泊させてもらうのか? ほかのボランティアさんに対してどんな顔をしていれば良いのか。それとも公演はやめて泥掻きのお手伝いをするか。。

こんな中、たまたまスケジュールに余裕のあった笛のTさんがひと足先に石巻に入ってくれまして、あちこちの関係者に直接会って交渉してくれました。すると。。何人かの団体関係者から「公演場所をどこか当たってみましょう」というお返事を頂くことができたそうです(!) やっぱり。。足を使うのが一番なんですね。顔を見せてから物事は動き始める。。そういう事もあります。

ようやく光明が見えてきた訪問公演で、ぬえも急いで石巻に向かいました。狂言チームはスケジュールの都合により、さらに遅れての到着の予定でしたので、現地で次々と交渉を進めるTさんに合流して、まずは能チーム二人だけで公演を行うことにしました。

こんな中で観光協会にTさんと二人で飛び込んだ ぬえ。「すみませ~ん、ここで能をやらせてくださ~い」