ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その1)~

2013-07-31 11:53:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
珍しくリアルタイムでのご報告です。ただいま石巻。石巻市中心部では毎夏の8月初旬、1年で一番盛り上がるお祭り「石巻川開き祭り」が開かれます。いつもこの頃は伊豆で教え子の子どもたちと花火見物に出かけている ぬえではありますが、川開き祭りへの出演は以前から興味を持っていたので、今年は子どもたちにゴメンして石巻にやって参りました。

あ~ところが。実際には川開き祭りはあまりの盛り上がりで、街中でパレードが行われたり、コンサートが開かれたり、また仮設商店街でも出店が軒を並べたりで、どうも能の上演は難しい様子でして。。これまでの活動の中では最もヒマな時間を過ごしております。だからリアルタイムでご報告ができているという。。

とはいえ、そこは転んでもタダでは起きない ぬえ。よく東北で一緒に活動しているピアニストの御子柴聖子さんのご紹介受けまして、昨日は土地の名士・秋田屋さん。。浅野さんのお屋敷で『能とピアノの夕べ』公演を持たせて頂きました。これが、予想以上に大変ロマンチックで良い催しとなり、活動のスタートとしてまずまずの出足の良さに安堵しております。

【7月29日(月)】

未明に笛のTさんと一緒に東京を出発、昼前に石巻到着。この日は8月に活動を行う登米市の会場の下見など予定していましたが、翌日に予定されている石巻での活動の宣伝が少々不安で石巻にて活動することに。

ラジオ石巻や三陸新報社、観光協会などで宣伝活動を行い、またチーム神戸やガレージ湊など旧知の方々に顔を出して挨拶して宿にチェックイン。夜は商工会の方と打合せを兼ねて会食。。というか酒盛りでした~。

【7月30日(火)】

この日も夕方まで予定はなし。Tさんは単独登米市に行って打合せと下見をしてくれ、ぬえは今後活動を展開する予定の東松島市の会場の下見に行って参りました。

午後2時、ピアニストの御子柴さんも石巻に到着、Tさんも鉄路石巻に戻り、相前後して秋田屋さんへ。御子柴さんとは、それはそれは古くから。。お父さまの時代からのおつきあいだそうで、そんなこともあって以前からこちらでの活動の可能性の打診は御子柴さんから受けていました。今回はプロジェクトのスケジュールの空きを埋めるような感じで計画をスタートさせることになりましたが、それがまさかこんな素晴らしい上演になるとは、そのときには夢にも思わず。。

秋田屋さんは前述の通り石巻の名士のお家でして、見事な庭園が有名。桜の季節だけ一般公開をしていて、そのときは大勢の市民の方が訪れるそうです。かつてはさらに広大なお屋敷だったそうですが、震災の復興のため、さらに今後土地を譲ることになるそうです。市による駅前の大規模な開発の計画もこの日はじめて伺いましたが、本当に大改造が行われるようですね。

さて秋田屋さんにお伺いしてご挨拶を交わし、早速に公演準備。この日は石巻や気仙沼で展開している『星と能楽の夕べ』に通じる上演を考えまして、庭園をライトアップしたり、キャンドル(100均で買ったLEDキャンドルですが。。w)を庭園に並べたりして。PAも電子ピアノも能楽師が用意しての上演だったので、機材は大変な量になりました。

じつは。。この日の日没の時間もちゃんと事前に調べてありまして、ピアノ演奏をしているうちに日が暮れるように計算して、18:00の開演としました。夕食準備もあるし、お客さまが集まるか不安ではありましたが。。

秋田屋さんも事前に新聞に広告を出してくださったおかげもあって、前日から ぬえの携帯にも何本もお問い合わせのお電話を頂いたので、ひょっとすると。。という期待もありましたが、予想はまったくつかず。ところが開演時刻よりずっと前に次々とお客さまが集まってくださいました!あとで芳名帳を見て、全体を推測すれば80名ほどもお客さまが集まってくださったでしょうか。当初はお座敷を舞台に、見所もお座敷のつもりでいたのですが、庭園まであふれんばかりのお客さまが。。感激してしまいました。あ、伊豆の国市の観光協会さんから頂いてきた大量の団扇、みなさんに喜んで使って頂きましたよ~





上演は、御子柴さんのご紹介によって実現した公演でもあり、また能楽師も例によって二人だけの参加なのでダイジェスト版しか上演はできない事情もあり、ピアノ・コンサートの中に能の上演が挟まる、という感じに組み立ててみました。

御子柴さんもお客さまに若い人や子どもたちも混じっているのを見て急遽演奏曲目を替えたり、相変わらずフレキシブルな対応。最初は明るい曲から、次第に静かでロマンチックな曲に移っていきます。曲数もあまり事前に打合せせずに上演を開始しましたが、御子柴さんが『月の光』の演奏を始めたのを聞いた ぬえは、ははあ、これは能の上演曲『羽衣』に繋げるつもりだな? とすぐに気づいて、すぐに上演できるようにスタンバイ。。案の定、『月の光』が終わったところで ぬえたちにバトンタッチされて『羽衣』を上演しました。





ぬえの計算通り、ちょうど庭園も日が陰って幻想的な雰囲気になっています。鴨居に天冠をぶつけないように気をつけて(ぶつけましたが)、縁側にも置いてあるキャンドルを蹴らないように注意して(蹴りましたが)、でも縁側まで出て行ったり、座敷まで戻ったり、座敷のお客さまにも、庭園にいらっしゃるお客さまにも演技が向けられるように工夫しながら。。気は遣いましたが楽しく勤めさせて頂きました。

能の上演のあとは再びピアノ・コンサート。御子柴さんが「どうしようかな、止めようかな」と考えていた『沈める寺』は ぬえが御子柴さんの再登場の直前に舞台袖でリクエストしたところ、冒頭に弾いてくれました。終演時に ぬえらも再登場してお客さまにご挨拶することになっていましたが、これもピアノ演奏の曲数など決めておきませんでした。。と、やっぱり『月の光』が聞こえてきます。あ、これで終わりのつもりだな、とすぐに解ったので、これを弾き終わったところで ぬえらも再登場。。じつは先ほどの『月の光』は、なぜだか御子柴さんはアップテンポに弾いていたので不思議に思っていたのですが、こちらは心を込めて、静かに、静かに弾いていました。エンディングのためにとっておいたのですね。心憎い演出でした。



終演後、なんとお客さまが自発的に庭園のキャンドルを集めてくださったり、と片づけに協力してくださいました! これは驚いた。やっぱり石巻の人、優しいっちゃ~!

だいたい片づけも終わったところで秋田屋さんがメロンやお茶、お菓子を勧めてくださり、こういう時にまったく遠慮のない ぬえはバクバク メロンを頂戴しました。「あ、もうひとついいですか?」「1切れ残っていますが、これ、頂戴していいですか?」。。たぶんご家族は手をつけておられないけど、おいしいんだもん。ぬえ、おそらくメロン丸々1個は一人で頂きました~。

終演後、汗だくで宿舎に戻りたいところだけれども、やっぱり石巻に行ったなら、ということで湊の焼き鳥屋さん「東助」に行って祝杯をあげました。



いやいや、本当にロマンチックな上演になったと思います。活動の最初からこんなに手応えを感じて幸せ。当初はお座敷に面や装束を展示したり、また終演後に装束の着付けや笛の体験など「ふれあいコーナー」を予定していたし、それはチラシにも謳ってあったのですが、この美しい夜にはもう余計でした。お客さまにも終演を迎えたときのお気持ちのままでお帰り頂く方がはるかによろしい、と考えて「ふれあいコーナー」は割愛。。というか自然に消滅していきましたね。

決算報告書(05/25~29)

2013-07-29 00:10:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト

第14次被災地支援活動(2013年05月25日~29日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 284,444円
     前回活動繰越金(ギエ扱い) 32,500円
     銀行口座募金(ボラ扱い)     33,000円        収入計  349,944円
                           内訳:ボラ 317,444円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉
    ◎交通費   40,452円
     (夜行バス1名分         14,250円)
     (ガソリン代           16,552円)
     (有料道路通行料          9,350円)
     (駐車代              300円)
    ◎宿泊費    8,000円
     (2人×1泊            8,000円)       支出計   48,452円

 【収支差引残額】                         残額    301,492円
                          内訳:ボラ 268,992円 ギエ 32,500円

※注※
・プロジェクトの活動にかかる資金は主に募金によって賄われている。プロジェクトの活動にご理解を頂き、ご支援を頂いた諸兄には、改めて深謝申し上げます。
・「ボラ」とはプロジェクトの活動費用に充てる事ができる資金。「ギエ」は募金者希望により被災地への直接的支援のために使途を限定する資金。ただし「ギエ」についてはすでに一定の役目を終えた段階と考え、現在はプロジェクトからとくに「ギエ」の呼びかけはせず、チャリティ公演等の際は使途を「ボラ」と明言して募金をつのっている。なお「ギエ」については、被災地で継続的に活動を続ける信頼すべき支援団体に寄付する予定である。
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約するが、継続して活動を続けるボランティア団体が減少し、また市民生活も通常の落ち着きを取り戻しつつあることから、現状では旅館等の宿泊施設を利用する機会が増えた。その場合の宿泊費の基準としては、素泊まりとし、おおよそ5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・近来銀行口座へ継続的に活動資金を募金してくださる方も複数あり、またボランティア団体JIN'S PROJECTさまのご厚意により、活動によっては同団体との共催の形を取ることによってスポンサー企業さまからの補助金を頂ける場合もあり(今回14次支援活動はその対象外の活動であるが)、現在のところ全体的には活動資金はやや窮地は脱した感である。しかしながら今後も息長い支援活動を続けてゆくために、今後も変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。


 【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)普通預金 口座番号 0056264
名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ

                                           以上

  平成25年07月05日





                           「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com



↓領収証は以下に添付






活動報告書(05/25~29)

2013-07-28 22:00:56 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒やしプロジェクト

第14次被災地支援活動(2013年05月25日~29日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒やしプロジェクト」の4名(※注1)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに13度に渡り岩手県釜石市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、および福島県双葉町の住民が避難している旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびメンバーの八田、寺井は、去る05月25日、および05月28日・29日に渡り宮城県・気仙沼市内にて計3回、能楽の上演を行いました(※注2)。

今回の活動は気仙沼市で震災の前より知的障害をもった児童の社会進出支援団体「NPO法人ネットワークオレンジ」の新拠点「東新城オレンジ」の落成式にお招きを頂いての実現することができました。「ネットワークオレンジ」関係各位に深謝申し上げます。

今回特筆すべき活動は、言うまでもなく「東新城オレンジ」落成式での上演です。5月25日に挙行された落成式当日には、あいにく笛の寺井宏明は東京の舞台の都合で欠席となり、八田達弥が単独で気仙沼に参上しての上演となりました。このときは舞囃子の形での上演とはなりましたが、落成式の中で唯一のイベントとなり、式典に華を添えられたのではないかと思います。また「ネットワークオレンジ」さんのご厚意により、この落成式の直後の能楽師の都合の良い日に改めて能楽の上演を、というお招きに預かり、落成式の3日後に寺井も参加して改めて落成記念としての能楽を上演する機会を頂きました。

さらに、寺井も参加して気仙沼に参上するうえは、せっかくの機会でもありますので、気仙沼市内で活動を展開しようと試み、仮設商店街の「鹿折復幸マルシェ」で上演させて頂くことが実現致しました。

また今回の活動でもう一つ注目すべきは、今回は能楽の上演活動に留まらず、各地の関係者の方と会談して、今後のプロジェクトの活動について可能性が高まった点でしょうか。これはプロジェクトメンバーの寺井の人脈、交友関係の広さに負うところが大きいのですが、プロジェクトの活動の中でネットで知り合った方、また古くからの交友関係の中で、じつは被災地に関係していた事が判明した方、そのまた関係者、と多岐に渡る人的交流が一挙に相互関係をもってつながり、またこれに八田も加わることができた、という事で、プロジェクトの今後の活動が新たな局面に広がることが期待されます。

付言すれば、今回の活動に際しては震災後のそれぞれの街において住民さんが復興に向けてどのように取り組んぢるのか、その生の声を実感する、印象的な旅だったと思います。また、前回気仙沼の「リアス・アーク美術館」で行った「星と能楽の夕べ」公演が現地のタウン紙(フリーペーパー)にて報道されていたことを知るなど、我々プロジェクトの活動も、少しずつ気仙沼市民の間に浸透し始めた可能性を感じることもできました。さらには住民さんとの交流の中で、仮設住宅等への支援に地元商店主さんなどと協力しながらの活動の話も出まして、これは次の活動の中で実現する事になりました。今回の活動は、能楽の上演活動もさることながら、細かい、個人対個人というレベルで地元住民さんとふれあい、また協力関係を構築する可能性がふくらんだ事を成果として感じるものだったと思います。

もうひとつ、今回も前回に引き続いて静岡県伊豆の国市の「子ども創作能」の参加児童のご家庭より支援物資(遊具)の提供を頂き、気仙沼市の地福寺さまにお預かり頂くことができました。これは再開予定の階上地区の保育所にて活用頂ける予定ですが、その前回の支援に対して保育所よりお礼状が届けられました。伊豆の国市「子ども創作能」のご家庭からは震災の年の夏より継続して食料や書籍、子どもの遊具を支援頂いておりますが、お礼状という目に見える形になって謝意が届けられたのはこれが初めてでした。贈った方、贈られた方、その双方の善意が感じられ、大変喜ばしいことだと思います。

※注1 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。ただし都合により今回は八田・寺井の2名での活動となった。
※注2 今回の上演場所は①気仙沼市・東新城オレンジ②気仙沼市・鹿折復幸マルシェ(仮設商店街)③気仙沼市・東新城オレンジの3箇所。

【活動記録】
 5月24日(金)
八田達弥のみ夜行バスにて東京を出発。

 5月25日(土)
早朝、気仙沼到着。ご厚意により「ネットワークオレンジ」三日町事務所にて休息させて頂き。午前9:00頃「東新城オレンジ」へ移動。

午前11:00より「東新城オレンジ」落成式開式。この冒頭にて舞囃子『高砂』を勤める。ついで開式宣言、気仙沼市長さまほかの来賓挨拶、「ネットワークオレンジ」代表の小野寺美厚さんの挨拶、くす玉割り、所属の子どもたちによる歌の披露と続いて閉式、その後会食。

その後落成式で知り合いになった起業家の方々4名と意気投合、次に予定している気仙沼での活動でご一緒する夢を語り合う(これはその後すぐに実現することになりました)。

この起業家さんたちにお送り頂いて、仮設商店街「鹿折復幸マルシェ」に行き、翌週に催させて頂く活動のために関係者にご挨拶し、ポスターを貼らせて頂く。

終了後、BRT(バス高速輸送システム)を利用して柳津に到り(途中南三陸町の仮設商店街「さんさん商店街」を視察)、また仙台に出て、夜行バスにて帰京。
 
 5月26日(日) 活動なし

 5月27日(月)
八田は東京での用事を済ませてから夜に東京を出発。深夜走行にて翌早朝仙台に到着

 5月28日(火)
仙台にて寺井と合流、気仙沼に向かう途上、登米市の横山不動尊さま、南三陸町の上山八幡宮さまにて今後の活動について相談させて頂く。「さんさん商店街」にて昼食後、気仙沼市階上地区の地福寺さまにも立ち寄り、こちらでも今後の活動の相談をさせて頂いたほか、伊豆の国市の「子ども創作能」の参加者のご家庭から寄贈された子ども用の遊具などをお届けする。

17:00 気仙沼市の「鹿折復幸マルシェ」さんにて「能楽の心と癒やしをあなたに」公演。先日お会いした起業家の方のほか、ご近所の謡曲愛好家の方も見えて盛況のうちに能『羽衣』を上演。

終演後、ネットワークオレンジさんの関係者と会食。

 5月29日(水)
朝、徳仙丈山に行き、ステージのある公園とツツジを見てから東新城オレンジへ。先日の落成式には八田しか参加できず装束能が上演できなかったため、寺井が参加できるこの日に改めて能楽の上演をする予定。

この日、東新城オレンジを寄贈したドイツ人の団体の関係者やネットワークオレンジ所属の子どもたちも参加しての公演となり『龍田』を上演。終演後、これらの人に装束の着付け体験をして頂いて終演。

その後、寺井は鉄路、八田は陸路にてそれぞれ帰京。

【収入・支出】

  プロジェクトの活動は基本的に募金によって行われております。近来JIN'S PROJECTさまとの共催の形を取り、同団体の斡旋により企業より活動資金の一部を補助頂くことができる場合もありますが、今回の活動は純然たるプロジェクトの資金によって行わせて頂きました。

  募金は基本的にプロジェクトのボランティア活動資金(以下「ボラ」)として使わせて頂きますが、とくに被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)はプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体に寄付させて頂きます。

  プロジェクトの活動資金としては、前回活動繰越金として 316,944円(内訳:ボラ 284,444円 ギエ32,500円)があるほか、前回第13次支援活動の決算のあと銀行口座へ計33,000円を頂戴致しました。よって計349,944円(内訳:ボラ 317,444円 ギエ32,500円)が今次活動の前に計上されております。

これに対して今回の活動による支出の内訳は別紙決算報告書にある通りで、今回の活動終了時の残額は 301,492円(内訳:ボラ268,992円 ギエ32,500円)となっております。これらは今回の活動繰越金として計上し次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。

  プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。また宿泊につきましても通常は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊を旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

前述の通り今後は企業さまのご支援を頂ける可能性もありますが、今後も長期に渡って被災地での活動が継続できますよう、みなさま方には引き続きまして活動支援をお願い申し上げる次第です。

【成果と感想・今後の展望】
プロジェクトとして第14次となる今回の支援活動では、八田の単独活動と、中に1日をおいての八田・寺井の二人による活動の二つに分けられる、少々特異な活動形態となりました。また主たる活動の場がネットワークオレンジさまの新拠点「東新城オレンジ」の落成式であり、お招きを受けてのありがたい活動となりました。ネットワークオレンジさま、わけても代表の小野寺美厚さんが震災前から行っておられる障害児童の支援活動、また震災後の新しい復興のビジョンには大変感銘を受けました。またネットワークオレンジさまの落成式では様々な方とお話しをする機会が生まれ、新たな活動の可能性が見えてきました。大変ありがたいことです。また、せっかく気仙沼で活動をする機会ですので、はじめての活動場所として鹿折の「復幸マルシェ」さまより受け入れを頂くことができました。

この報告書を書いているのが7月下旬のことですが、じつはその後、今回の活動が大きな発展を遂げることとなりました。上記の東新城オレンジ落成式で出会った起業家の方々と8月に仮設住宅での活動をご一緒することになり、また鹿折の「復幸マルシェ」さんの商店の方の紹介により、新たな仮設住宅での活動が展開されることとなりました。近来、プロジェクトでは仮設住宅での活動が減少傾向にあり、少々心配していたのですが、次回は地元の住民さんとご一緒の有意義な活動となることが期待されます。

様々な出会いがあった今回の活動。これが新しい活動の源となる可能性も感じられることとなりました。ご協力頂いたネットワークオレンジや鹿折復幸マルシェさまの関係者には改めまして感謝申し上げます。




平成25年7月28日




                             「能楽の心と癒やしプロジェクト」

                               代表   八田 達弥

                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com

第14次支援活動<気仙沼>(その17)~東新城オレンジ公演

2013-07-24 02:09:17 | 能楽の心と癒しプロジェクト
このところブログの更新ができておりませんが。。

いま、今週末と、それから8月中旬に迫った石巻市と気仙沼市でのそれぞれの支援活動に向けて、まだまだ交渉を重ねている段階でして。それが、ぬえがこの時期にやりたかった公演を断念することになったり、反面、これまでの活動の中で最大限、地元の住民さんとのコラボとしての活動が実現できたり、さらには ぬえたちプロジェクトが誇る「星と能楽の夕べ」公演に匹敵するんじゃないか、と思うロマンチックな公演が企画されたり、と、一喜一憂。。いや、結果的には一憂の間に三喜びぐらいできるような、うれしい方向に目まぐるしい展開を毎日を過ごしております。

さらには、ぬえたちプロジェクトにとって、活動の根底からの転換を促す大きな大きな提案が持ち込まれまして、これについての可否をずうっと考えておりました。いえ、トラブルではありません。ぬえたちプロジェクトの将来的な活動について、ぬえ自身も漠然と考えていた不安を解消するための提案で。。そうして、進み方によっては ぬえの夢である「復興達成記念薪能」の上演さえ視野に入れられるような、そんな大きな提案でした。まだ交渉段階ではあり詳述は控えますが、様々な方に意見を求め、また当事者とも協議をして、基本的な合意にはすでに達しつつあります。いずれ読者のみなさまにもより良い形でのプロジェクトの発展を報告させて頂くことになると思いますが、そんな事に時間を取られながら、ぬえは活動を続けておりました。

。。さて5月の活動のご報告の続き。

東新城オレンジに到着した ぬえ。この日は、先日 ぬえ一人で参加させて頂いた落成式の延長で、落成記念祝賀能、といった趣の催しです。落成式当日は舞台の都合で参加できなかった笛のTさんを迎えて、ぬえも装束を着けて能を舞う催し。落成式には気仙沼市長さんもお出ましでしたが、今回は身内でこぢんまりと。。と思ったらそうでもなくて、この日は東新城オレンジの建設に大きな寄付をくださったドイツの厚志家の方もわざわざ気仙沼に来訪された日だったのでした。これは良い催しになりましたね~

この日の上演は能『龍田』。外人さんも見えるので、『羽衣』よりも少し派手な曲を選びました。





終演後は例によって装束の着付け体験。このドイツ人の厚志家の方に、まずは狩衣を着付けて差し上げて。。ああ~、やっぱり半切の長さが足りない~



続いて「エッグ」に『羽衣』の着付け。「エッグ」とはネットワーク・オレンジさんが支援する障害児童のうち高学年の子を指す言葉なのですが、見に来てくれた「エッグ」の女の子をめざとく見つけた ぬえは、装束を着付けてみたのでした。



出来上がってみると。。あら、かわいい。



なんかエッグが喜んでいる間に、ネットワークオレンジの代表の小野寺美厚さんにも装束を着付けてみました~。美厚さんです。いやいや、卑弥呼さんじゃありません。







それで、みんなで記念撮影。もちろんここでも「おすまし」ポーズで決めました~~



さてさて、それじゃ、というので、この日は東新城オレンジを退出しまして、笛のTさんを駅まで送り、ぬえは再び一人で帰途に。なんだか。。良かったなあ。今回の活動は。いや、活動自体は ぬえの一時帰京をはさんで実質3日間しかなかったし、活動場所もネットワークオレンジさんの東新城オレンジで2回、あとは鹿折の復幸マルシェさんでの1回しかなかったのだけれども。。志津川や登米市での新しい出会い。それは東新城オレンジでも、はたまたマルシェさんでも。ああ、そうか。いまこれを書いている ぬえが7月下旬だから、感慨深い感想を持つのでしょう。だって、ここで「はじめまして~」とご挨拶を交わした方々との繋がりが、この7月下旬と8月中旬の活動に、すぐに反映されて驚くような発展を遂げていったんだもの。

その内容については、成果が出るであろうそれぞれの活動が終わってから、ご報告させて頂くことになるでしょう。とりあえず、未来に広がった活動は最高に有意義なものになった、と述べさせて頂くことで、今回の支援ツアーのご報告の仕上げとさせて頂きます~

                                        【この項 了】

第14次支援活動<気仙沼>(その16)~徳仙丈山へ

2013-07-16 10:36:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【5月28日(火)】

翌朝、いつもよりは遅く起床して、朝食の買い出しに近所のコンビニへ。弁当を買い込んで帰ると笛のTさんも起きたようだったので弁当を差し入れて、さてチェックアウトはしましたがまだ東新城オレンジへ行くには早すぎる時間だったので、徳仙丈山(とくせんじょうざん)に行ってみることにしました。というのも、昨日鹿折の復幸マルシェさんから帰るときに、マルシェの事務所で「徳仙丈山に能舞台があるよ」と聞いていたからです。

徳仙丈山は気仙沼の市街からはずっと南、気仙沼市の中部の西端、一関市との県境に近い場所にある山で、頂上付近まで車で行くことができます。そうしてここはツツジの名所として知られている山なのでありました。

安波山トンネルを通る近道が通って「気仙沼バイパス」と呼ばれる国道45号線でぐるっと市街を迂回して、それから段々と山道に入っていき、徳仙丈山を目指しました。山道といっても道は整備されていて、割と快適に到着。頂上近くは公園になっていて、そこにあった駐車場に車を停めて公園の中に入ってみると。。



ああ、ありました、これですね。残念ながら能舞台ではありませんでしたが。。それでも歌謡ショーやノド自慢大会とか、様々なイベントに使われているようでした。広い楽屋や、階段状に作られた客席のスペースもあって、これはピクニック気分で楽しむイベントを行うにはもってこいですね~

舞台を見てから、山道を下りてくる人々を見て、その奥に行ってみると。。



ををっ! 歩き始めてすぐツツジが見えてきました。もう少し先には展望台も。そこまで行ってみると、おくまあここまで。。と思えるほどのツツジの群生。でも、盛りはもう1~2週間先かなあ。その頃はもっと見事でしょう。ぬえはツツジという花、あんまり好きではないのですが、キリシマツツジだけは好き。この徳仙丈山に咲くのはヤマツツジとレンゲツツジ、なのだそうですが、柔らかい色彩で。。なんだかおいしそうでした(違うか)





同じように徳仙丈山のツツジを楽しみにピクニックに来た地元の方々と談笑しましたが、みなさんとっても喜んでおられました~

満開の時期の徳仙丈山の画像はこちらっ→徳仙丈山物語http://www15.ocn.ne.jp/~tokusen/gazou1.html

山を下ってくると「ネットワークオレンジ」のSくんから電話がありました。なんだろう。魚、食べられるようになりました! という報告かな。まだ無理か。

内容は、スタッフさんは早めに、そろそろ東新城オレンジに向かいます、ぬえさんたちは何時頃到着の予定ですか? というものだったので、すぐに向かいます、と答えて、東新城オレンジに向かいました。

伊豆の小学校の学級通信に ぬえの姿が。。w

2013-07-15 02:44:03 | 能楽
伊豆の「子ども創作能」の教え子たちが通う小学校の学級通信プリントに。。載ってしまいましたw

先日、ぬえは伊豆の教え子の子どもたちが通う小学校の授業参観に行ってしまったわけなのですが。今日、その「子ども創作能」の稽古のために伊豆に行ってみると、教え子のママさんの一人が笑いながら1枚の紙を ぬえに手渡しました。なんだろう? と思って見てみると、それはその小学校で家庭への通知に使われるクラスの通信のプリントでした。

そこには近日のニュースとして写真入りで例の授業参観のときの体育の授業の様子が紹介されていましたが。

あー、その、なんだ。写真の中にひとり、保護者でない者が混じっているというか。。なんというか。。w



これ、国語の授業で「子ども創作能」について発表したケイゴのクラスの担任の先生が保護者宛に配ったプリントです。なるほど、ケイゴのクラスは国語の授業も参観したけれども、午後に校庭に出てみると、これは偶然、そのケイゴのクラスが体育の授業をやってまして、リレーのように子どもたちが体を動かすのを参観する場面もあったのだけれど、授業参観日とあって、父兄も参加できる種目も設けされていました。

ぬえを見つけたケイゴが「先生、玉入れ、一緒にやってよ」と言うので、そうかそうか、とすぐに参戦。それから授業の締めくくりに、この少し前にあって ぬえもやっぱり参加した運動会でも父兄を交えて行われた、「ドンマイ」という、なんだろう、フォークダンスみたいな踊りがこの日も行われて、これまたケイゴと一緒に参加しました~。

で、その「ドンマイ」の写真がクラス通信に載ったのですね。このプリントを ぬえに渡したママさんは「うれしそうに参加しているパパだと思ったんでしょうね~」と笑っていました。ん~、なるほど、ぬえ、嬉しそう。。てか、このダンスの型? からすると、ぬえはフライング気味にダンスをリードしているじゃないかあぁぁ。。この授業のとき、「ドンマイ」のやり方わかんないままに参加しながら、すぐに型の法則性を見抜いた ぬえは。。たしかに喜んで参加したのではありますが。。こんなに嬉しそうな ぬえの姿、久しぶりに見た。ww

「子ども創作能」ですが、これまで数年演じてきた『伊豆の頼朝』から今年は脱皮することになり、ぬえ作の新作『ぬえ』の稽古がいま佳境を迎えています。もう14年も当地では稽古を続けているので、徐々に、徐々に、進歩してきた技術レベルも、もう大変な事になっています。

なんせ今回の新作『ぬえ』では、小学生が「早笛」「舞働」を、笛の唱歌を覚え、太鼓の手を聞きながら舞うのだもの。前作『伊豆の頼朝』でも小学生が、短縮版とはいえ「中之舞」を舞ったし、地謡は ぬえが後見として後ろに着座しないでも、自分たちの力だけで囃子に合わせて謡うことができるし。あ、ここは大事かな。ぬえが伊豆の「子ども創作能」で誇れるのは、立ち方のレベルもそうだけれど、やっぱり強力な地謡の技術力なんです。正直言って、ぬえが指導するこの小学生たち、笛を聞き、大小鼓に合わせ。。プロの能楽師と、やっている事は同等のところまで来ています。それでも、それは懸命に勉強すればできることかもしれない。ところが迫力のある地謡、というところまでは、これはなかなか到達できるものじゃないです。物怖じをしない、そうしてなにより、自分が与えられた仕事に責任を持って、最高の舞台を作り上げようとする気持ちが、彼らにはあるんですよね~。いま彼らは最高に充実していると思います。

そうそう、新作の『ぬえ』ですが、8月の初旬に初演を迎えることになっています。それは8月4日の伊豆長岡の花火大会のイベントの中での出演。もうあと残すところ2週間です。

ちょうど今日、子どもたちの稽古場に実行委員会の方々も見えて、当地 伊豆の国市で発行している「能新聞」を届けてくださいました。ここにも大々的に「子ども創作能」が取り上げられていました!







この、初演の花火大会の直前まで、ぬえは石巻で活動する予定になっているので、新作の初演を前にして稽古の最後の仕上げができるか、少し前まで本当に心配していたのですが。。今日のお稽古で、もう通し稽古ができるところまで進んで。。立ち方はすでに全員セリフの暗記は完了しているし、動き方がわからなくなる子もいませんでした。今日 ぬえが手直ししたのは、動作の微妙なタイミングについてとか、目が泳ぐので型の意味が伝わらない、とか、腕の構えをもう少し大きくしなさい、とか、そんな些末のことばかり。。つまり稽古は「やり方を教える」という段階から、「演技を洗練させる」という段階に、すでに到達してしまいました。

元来子どもたちの吸収する能力といったら、ぬえなど大人から見たら驚異的で、いくらでも吸収するさまはまるでスポンジ。自分たちも通ってきたはずの道なんだけどねえ。。でも ぬえが指導する伊豆では、ダテに14年も稽古しているわけじゃないですね。それぞれの子どもたちは、中学生になると部活や勉強で忙しくなって辞めてしまうから、正味では長く稽古している子でも稽古の年月は数年まででしょう。でも、低学年の子は地謡から始めて、お兄ちゃんやお姉ちゃんが主役を勤めるのをずう~っと見ているから。いざ自分が主役級の役を演じるときになっても、すでに憧れの役を勤める自信は身につけているんですね。

なんか、全体として見れば凋落傾向にある能。。というか伝統文化全体が危機に瀕しているように思える現代社会の中にあって、ぬえが指導する この伊豆だけは別天地に思えてきます。本当に教え子たちとも良い関係を築けているし、ぬえの期待に必ず彼らは応えてくれる。ぬえって幸せ者なんだろうなあ。

第14次支援活動<気仙沼>(その15)~オレンジのメンバーと飲み会!

2013-07-14 01:17:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
宿に到着して、すぐに「ネットワークオレンジ」のメンバーに電話してその旨を告げると、ほどなくお迎えに来てくださり、近所のお店に飲みに行きました~。

ええと、再度確認しますと、今回の活動の主な目的は「ネットワークオレンジ」さんの新拠点・「東新城オレンジ」の落成式への出演なのであって、その当日。。5月25日には笛のTさんの都合がつかず、ぬえだけが紋付と裃を持って往復夜行バスの弾丸ツアーで参加させて頂いたのでした。その後、あらためて、落成式に近い日を選んで落成祝いの装束能をやろう、という話になって、この日はそのために改めて気仙沼に赴いたのでした。しかしせっかく気仙沼に行く機会ですし、オレンジさんでの上演だけでなく、ぜひほかの場所でも活動させて頂こう、ということで、飛び込みで活動の受け入れをお願いしたのが、さきほどお邪魔した鹿折復幸マルシェさんです。

25日の東新城オレンジの落成式の日は、美厚さんのビジョンを聞いて感銘を受けたりしましたが、同じ日に鹿折マルシェさんに公演ポスターを貼らせて頂きに参上した折、商店のみなさんと長く話をさせて頂いて共徳丸についての目新しい意見を聞いたり、この公演当日も鹿折の復興についての青写真を垣間見る機会があったり。。さらに登米市や志津川でも貴重なお話しを伺って。オレンジさんとマルシェさんと、今回は2カ所でしか活動をしなかった割にはなんだか刺激的な旅ではあります。

そうしてこの夜は「飲みに行こうよ~」という ぬえの提案で、オレンジのメンバーさんが会場をセットしてくださったのでした。

これがまた。最初は、3月の活動ですっかり「気仙沼ホルモン」に目覚めた ぬえが、そのおいしいお店をリクエストしていたのですが、ほどなく季節が移って、なにやら気仙沼方面から盛んに「初ガツオ」の便りが聞こえてきます。。それで、このオレンジさんとの電話での打ち合わせの際にこの飲み会の話にもなって、ぬえから「気仙沼ホルモンを食べたい、って言ったけど、何ですか?初ガツオが上がったんですって~?」と聞いたところ、案の定オレンジさんでも「この初ガツオの時期にわざわざそれを外してホルモン?」と話題になっていたんですって~。(笑)

そゆわけで、急遽お店が変更になって、おいしいお魚を食べる会になりました~。思えば ぬえが活動を開始したキッカケが震災前の学校公演で石巻小や気仙沼の新月中にお邪魔したこと。その時の子どもたちの鑑賞態度とか、熱気、それから礼儀正しさがとても印象に残って、そうしたら震災が起こってしまって。あの子たちは大丈夫かなあ、と心配になって震災の3ヶ月後に石巻や気仙沼を一人で訪れたのでした。でも、学校公演で気仙沼を訪れた時はちょうど「戻りガツオ」の季節でして。それとは知らず、三々五々、夕食を摂りに出かけた能楽師のうち、ぬえを含めてカツオを食べたグループは、あまりの美味に衝撃を受けてしまいました。これも気仙沼が ぬえの中で印象深い土地になった理由のひとつなのは否めないな~。

震災後に気仙沼で活動を始めてから、もう2年になりますが、その後「戻りガツオ」は一度も食べていません。その時期はちょうど東京でも舞台が多い時期なので、どうしても東北に来るまとまった日が取れないのです。。この日は「戻りガツオ」ではなく「初ガツオ」の時期で、おいしい魚料理を満喫させて頂きました~。。でも、やっぱり「戻りガツオ」にはかなわないかも。。

そうそう、この飲み会で最も驚いたのは、オレンジさんのスタッフの若い男の子Sくんが、な~んと!「ボク、魚が食べられないんです。。」とカミングアウトしたこと。衝撃。かたや一夜の「戻りガツオ」との出会いで人生が変わったようにそれを追い求める者があれば、かたや気仙沼で生まれ育ち、海の幸に不自由なく暮らしながら、「これ、キライ」という人がいるとは。ああ、神様ってイジワル。

「え?魚食べられない。。? 。。その、手元にあるお皿は。。それ、焼き魚じゃないの?」「あ、これですか。。? これ、ナスです」

この会話でブチ切れた ぬえ。「。。キミ、ホントは魚市場が復興しなくてもいいんじゃないか、って思ってるだろう!」「え。。?? いや、その、そんな、ね。。」 。。頼むから明確に否定してくれ。激怒するかな、と思ってわざと振ったんだから(笑)。

ま、こうして爆笑のうちに夜も更けまして、翌日の東新城オレンジでの公演に備えて「ネットワークオレンジ」さんの関係者ともお別れして、宿に戻って休みました。考えてみれば前夜から、稽古のあと深夜走行、仙台で休憩はしたけれど ほとんど眠らないでいましたが、不思議と疲れはない ぬえでした。もともとあんまり眠らないんですけどね、ぬえ。

第14次支援活動<気仙沼>(その14)~鹿折復幸マルシェで上演

2013-07-13 18:19:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて地福寺さんを後にして、いよいよ気仙沼市街に入りました。

この日の公演は先日ポスターを張らせて頂いた「鹿折復幸マルシェ」さんなのですが、ぬえたちはこの日東京から直行なもので少し余裕を持ったスケジュールにしてあって、開演は午後5時に設定してありました。おかげで余裕を持って会場に到着。







まずは商店街の会長さんのお店にご挨拶。。あれ? お店は定休日です。それでは、と商店街の事務所に行くと。。こちらもカギがかかっている。。途方に暮れて、先日長話をさせて頂いた食料品店さんに事情を説明すると、奥さまがお出でになって、親身に心配してくださいました。。が、やがて奥さまが気がついて、「あの2階の端の『安波山』の部屋に明かりが点いてる。。あそこにみんないるんじゃないかしら」と教えてくださいました。

安波山、といえば気仙沼のシンボルのような山で、ここ鹿折からはすぐ目の前。その山の名前を冠した部屋は、談話室兼会議室のような、一種の集会所になっているのでした。そこへ上がってみると、案の定商店の人たちらしい多くの方が集まって、なにやらお話し合いの最中でした。恐る恐る事情を申し出ると、会長さんが出てこられて「ああ、今日はよろしくお願いします。控室はこの部屋です。もうすぐ会議が終わりますから」というお答えでホッとひと安心。

装束類を車から下ろし、すぐにできる作業ということでTさんはマイクやアンプのセットを開始。ぬえは先日ポスターを張らせて頂いた商店に挨拶まわりをしました。ええと、やっぱりお店では「しらす」やらお茶やら振る舞って頂いてしまいました~



やがて「安波山」のお部屋を使わせて頂けることになり、ぬえは急いで上演の準備に取りかかります。。ふと見ると、「安波山」の壁には鹿折地区の復興のプランが何種類もの地図となって張り出されていました。さきほど志津川の上山八幡宮さまで工藤真弓さんが ぬえに示してくださった地図。。それと同じく、さきほどまで集っておられた鹿折の人々によって、新しい、未来の鹿折の姿を夢見る夢の国が描かれていました。次に来る災害に備えるべきなのか、人が集う賑やかな街を目指すのか。。街づくりの方針が定まるにも もう少し時間がかかるのかもしれませんが、ぬえは確かに、鹿折の明るい未来が描かれた地図を、そこに見たのです。

そろそろ、近所の鹿折小の子どもたちが帰ってきました。ぬえの師家がこの秋に学校公演で訪れる予定の小学校です。学校公演は文化庁の事業ですが、よくまあ、震災から2年の復興途上のこの時期に事業への参加を決定されたものだと思います。それほど意欲的で教育に熱心な先生がおられるのですね。ちょっと期待。それにしても。。ちょっと ぬえには今回の公演について心配が募り始めていました。今日この仮設商店街で、お客さまをほとんど見かけていないのですが。。

。。と思っていたら、3日前に東新城オレンジで知り合った起業家の方たちが鹿折マルシェにやって来たのが2階の「安波山」の窓から見えました。装束をほぼ着け終えていましたが窓から手を振ると あちらも気がつきました。。が、ふと見ると、いつの間にかお客さまが集まってくださっています。マルシェの方もいつの間にかステージの前にベンチを並べてくださっていて。。

やがて開演時間となり、Tさんが解説をしている間に、ぬえは例によって商店を巡ってご挨拶~。ひととおり挨拶を終えると、お客さまに混じってTさんの解説を聞きました(笑)





この日の上演曲は、はじめての場所ということで『羽衣』でしたが、ステージの上から見ていると、なんと謡本を広げているお客さんもいらっしゃいます。あとで聞けば、喜多流でお稽古をしておられる方が何人かいらしゃったそうで、ふうむ、鹿折にもそういう方がおられるんですね。お稽古が無事に復活していることをお祈りします。





終演後はこれまた恒例のお客さまとの記念撮影。仮設住宅ではこのあと装束の着付け体験などを行うのですが、野外ではそれは不可能なので撮影ぐらいしかできません。でもこの日はできるだけ面を取らずに撮影に応じてみました。









これにて鹿折復幸マルシェさんでの公演を終えて、片づけのあと失礼して、気仙沼での常宿となってきた宿にチェックイン。でも、まだまだ夜のお楽しみもあり。気仙沼の夜は続くのだった。

第14次支援活動<気仙沼>(その13)~南三陸「キラキラ丼」と地福寺さんへ

2013-07-12 00:37:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて志津川の上山八幡宮さまを退出して、ようやく昼食のために南三陸町「さんさん商店街」に立ち寄りました。こちらでの目当ては「キラキラ丼」! 南三陸町で震災の前からイチオシ! とされていた、地元で獲れた食材を使った豪華なお食事です。時期によって内容は変わり、この夏の時期はもちろんウニ! 笛のTさんオススメで「弁慶鮨」さんに入ったのですが、これでもかっと盛られたウニは、おいしそう、と思う前に もたれそう。。と思っちゃいましたが、それは新鮮なウニを食べつけない貧乏人の考えることで、こちらのウニは甘くておいしかったどす~~。











ん~、なんか。ボランティアとして、こんな贅沢していいのかなあ、なんて思っちゃいますが、すでにTさんは活動とともに観光とかグルメ探訪にもシフトし始めているみたい。。それでいいのかも。どうしても活動するときは短期間でできるだけ多くの事をしようと思うので時間がないのと、それから ぬえたちの活動資金は募金という浄財なので、食費は活動資金からは支出せず、参加者が自己負担すると決めているので、食事はおのずとコンビニ弁当ばっかりになってしまう ぬえたちですが、もう少し時間に余裕をもって、当地の風物を愛でながらの旅をしつつ活動するのでも良いのかなあ。

うん、よく考えると、避難所で活動していた時代の、寝袋持参、食事はボランティアさんから分けて頂いたり、コンビニで買ったり、というところから ぬえ自体にあまり進歩がないようにも思えてきました。ぬえたちプロジェクトが「文化の復興」なんてスローガンを掲げている割には、ぬえ自身が一番フツーじゃない生活を、ここでは繰り広げているような。そういえば3日前の東新城オレンジ落成式のときに、オレンジのメンバーさんから会食の席で「猊鼻渓とか。。お連れしたい場所はたくさんあるんですよ」なんて言われたし。このときは「ああ。。でも公演の準備や移動で観光まではなかなか。。」なんて答えてしまいましたが。

さて「さんさん商店街」でご馳走を満喫して、一路気仙沼に向かいます。途中、階上(はしかみ)の地福寺さんに立ち寄って、ぬえが指導する静岡県・伊豆の国市の「子ども創作能」のママさんたちから、当地の波路上(はじかみ)保育所への支援物資の遊具をお届けしました。



。。そうそう、こちらの保育所への伊豆からの支援物資はこれで2度目なのですが、先日、保育所からお礼状が届けられました!



伊豆からの支援物資もこれで何度目かなあ? 以前の写真を見たら、震災の半年後から すでに食料品などが支援されていました。こういうところはさすが伊豆で、農家のおうちから どっさりと野菜が届けられたり。しかしお礼状という形になって東北から感謝の気持ちが届けられたのはこれが初めてです。このボールプールや楽器は伊豆のS家からのプレゼントだな? 早速S家にこのお礼状をお届けしました。S家には2年生の女の子と、それから ちょうどこの保育所の子どもたちと同じ年代の幼稚園生の女の子が、どちらも「子ども創作能」の稽古をしているのですが、S家からはすぐに返事が来て、いわく次女の幼稚園生の子は「この子たちに会いたい!」と喜んでいたそう。東北と静岡と。遠く離れていますが、美しい心同士がふれあった瞬間でした。

この日も伊豆からの支援物資を地福寺さんにお届けしたのですが、そうしているところへご住職さまが偶然にご帰宅されました。いつもお忙しい方なのに、なんて奇遇。

この3月に ぬえたちプロジェクトでは気仙沼で「星と能楽の夕べ」公演を行い、ぬえのたってのお願いで地福寺さんのご住職さまにもご出演願ったのでした。その翌日には震災2年目の当日を前に地福寺さんでは「明日に向って」と題する追悼コンサートと法要が営まれ、ぬえたちも参加させて頂きました。じつはそのあたりから、次回はぜひ地福寺さんと ぬえらプロジェクトだけのコラボの催しをしたい、という話は漠然と出ていたのですが、まあ遠隔地でそれぞれの活動をしているから、なかなか突っ込んだ話し合いは持てずにいまして。。それがこの日、能楽師とご住職が一堂に顔を合わせた、ということで一挙に話が進みました。さあさ、みんな手帳を出して~~

こうして、もう来月に迫ってきましたが、お盆の時期に精霊送りの意味を込めて能と法要の会を実現することが、この日決まったのでした。すみませ~ん、このご報告はまだ5月の活動について、なんで、どうも時間の感覚を狂わせちゃいますですね~~

第14次支援活動<気仙沼>(その12)~南三陸町・上山八幡宮さまと工藤真弓さん

2013-07-11 12:32:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
登米市の横山不動尊さまを予定よりも遅れて出発して、次の目的地は やはり笛のT氏の交友関係から南三陸町・志津川の上山八幡宮さまへ。

こちらの神社はかつて、今回の震災で有名になってしまった防災庁舎のすぐそばに鎮座していましたが、昭和35年のチリ地震による津波で浸水して高台に移転したのだそう。そうして今回の震災では社殿こそ被害を免れたものの、その寸前まで津波が到達。しかし付近の住民さんの避難場所として幾多の命を救った場所でもありました。

この場所。。到着してみて初めて気がついたことですが、震災の半年後には ぬえたちは訪れていました。「上の山(かみのやま)」八幡宮、という社名で気づくべきでした。これは移転後の高台の地名を冠したものだったのですね。ここは上の山という、志津川では最も市街地にも海にも近い高台の一角で、志津川町の指定避難所でもあったそうです。こちらが2年前の8月に上の山の上にある公園で撮った画像。ちゃんと津波の際の避難場所の標識が。





…ところが実際には今回の震災でここに避難した人の証言ではこの場所にいても危険を感じて、山づたいにもっと高い場所にある保育所へ(こちらも園庭まで被災しました)、さらに奥の小学校まで やぶをかき分けて逃げたのだそうです。

上山八幡宮さまは上の山の中でも少し海から離れた高台に建っていましたが、境内には「波来の地」という石碑が。ここまで津波がやってきました。こちらは今回撮影の画像です。



さて社務所でこの日面会してくださる工藤真弓さんとお会いしました。工藤さんは震災を描いた絵本『つなみのえほん ~ぼくのふるさと~』で知られた人。ですが、もともとこの絵本の中にも登場する「五行歌」を詠む歌人でもあり、歌集『神さまもひと休み』を上梓されたりしています。あ、もちろん本職はお父君の後を継ぐ神職さんですが、ご自宅は津波で流され、現在ご主人とご長男と一緒に仮設住宅にお住まいです。震災のときのご家族の体験が絵本という形になりました(絵本は志津川の仮設商店街「さんさん商店街」でも売っていました)。

震災後は工藤さんは「復興まちづくり推進員」として志津川の復興のために住民さんの話し合いを進めておられ、上山八幡宮さまの社務所もしばしば会合の場ともなっているようですね。この日も復興計画案の図面を見せて頂きましたが、工藤さんらしく美しいイラスト入りの図面でした。

前にも書きましたが、ぬえたちプロジェクトは南三陸町では活動らしい活動をしたことがありませんでしたが、いろいろな計画について工藤さんにも話を聞いて頂きました。聞けば当地でもちょっとロマンチックなお祭りもあるらしくて、とても興味を持ったのですが、この夏は、じつは志津川に限らず沿岸地域では防潮堤問題のひとつの山場になっているのと、我々プロジェクトもこの夏の活動はほぼ固まりつつある段階なので、今後あらためて南三陸町での活動を関係者とご相談させて頂くことになりそうです。

【参考】

「つなみのえほん」購入について→アマゾン
ブログ等紹介記事→くどうまゆみさん著『つなみのえほん』ができるまで
「つなみのえほん」の紹介
つなみのえほん/くどうまゆみ

神さまもひと休み - 五行歌集→紀伊国屋書店

五行歌については、南三陸町の被災者を受け入れた避難所がおかれた山形県の加美町の人々への恩返しにと工藤さんが書いた歌「感謝のうた」が、加美町の住民さんによってメロディをつけた歌になって、CDとなったようです。こちらは限定版なので入手できないようですが、感想を見つけました。

真弓さんの五行歌
CD化の経緯→宮城・南三陸と加美、「五行歌」結んだ2町の絆

【おまけ】
今回、工藤真弓さんの活動についてあまり知らなかった ぬえなので、付け焼き刃で調べてみたのですが、その中で、震災ボランティアさんの活動。。震災の年に最も幅広く、大勢の人々が参加した「泥掻き」について、面白いレポートを発見しました。「やさしいやーつ」とか「オヤジさん」「オフクロさん」などの現場で生まれた用語が出てきたり、読んでるととても楽しそうなのですが、現実の作業は重労働でしょう。ぬえは最初から体力的な無理を感じて参加できませんでしたが。。震災の年にはいつ行っても、ひとつの家に大勢の若いボランティアさんが、まるで群れるように作業をしている様子を見ることができました。

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第14次支援活動<気仙沼>(その11)~横山不動尊さまへ

2013-07-07 13:10:38 | 能楽の心と癒しプロジェクト
夜行バスでしっかり眠ったので翌朝元気に起床しました。さすがに夜行バス明けには何もスケジュール入れていなかったのですが、翌日には再び気仙沼市へ移動だし、今回は装束能なのであれこれと準備をして1日を過ごしました。

【5月27日(月)】
午前中と夕方からの2カ所で稽古日にしていたので外出。午前の稽古は近所の施設が会場なので、それを終えて帰宅して、荷物の最終チェック。今夜は深夜走行で気仙沼に向かうので、昼間は仮眠をとって、車に荷物を積み込み、夕方よりもう1カ所の稽古場へ。これを終えた午後9時に稽古場から気仙沼を目指して出発しました~

今回も一人っきりの深夜走行。。ですが、まあなんとか早朝に仙台に到着しました。

【5月28日(火)】
早朝4:30頃、仙台に到着してネットカフェで時間をつぶし、前夜から仙台に宿泊していた笛のTさんと合流。そのまま気仙沼に向かうのですが、途中、今後の活動のために関係者の方々のもとへお邪魔してご挨拶することに。このあたり、Tさんの交友関係の広さがモノを言ったようで、ぬえにはあまり事情がわかっていなかったりして。

最初にお邪魔したのは、登米市の横山にある「横山不動尊」さまへ。じつは、このお寺。。大徳寺のお嬢さんとそのご家族が、3月の気仙沼市での「星と能楽の夕べ」公演の、あの見事な手腕を発揮してくれたスタッフさんだったのです(さらにもう一人のスタッフさんは、その日が初対面だったけれど、石巻でも同じ場所で活動していた方でした~)。

重文の巨大な不動尊像があるお寺でありますが、到着してまず、そのあまりに見事な彫刻の施された楼門と不動堂の偉容にびっくり。





とくに面白いのがこの不動堂ですね。唐破風がつき、豪華な彫刻で装飾された向拝の上に入母屋の破風、さらにそのうえに宝形造りの。。越屋根、というのかな? がつく、という独特な造りの建物で、どうも神社を思わせる。。じつは山門の前には鳥居もあって、神仏分離の前の時代の空気が残っているようでした。ご本尊の不動さまは震災の影響もあって傷みが進み、ただいま修理のため京都に行っておられるのですって。





やがてご住職の奥さまとお母様と寺務所でお話しをさせて頂くことができました。先ほど見た不動堂は昭和初期の建築だそうで、なるほど、能楽界でも昭和初期といえば、装束や小道具など良い仕事の品がたくさん作られた、その一番最後の時代ですね。芸術活動。。というより職人さんの仕事の、と言っても良いと思いますが、そのひとつのピークがこの時代にありました。それは伝統的な審美眼というものが残されていたし、そういう良い仕事に対しては経済的に支えがあった、その最後の時代なのだと思います。

登米市は登米郡の8つの町と、本吉郡の津山町の合計9つの町が例の平成の大合併で合併して誕生した大きな市で、北は岩手県の一関市に、西は宮城県の栗原市などに、そうして東と南に気仙沼市や南三陸町、石巻市に接しています。震災当時南三陸町は陸の孤島と化しましたが、海岸を通る幹線道路が被災して、登米市を通らなければ志津川や歌津、また気仙沼市の本吉や大谷地区には行けない状況でした。

ぬえも震災の3ヶ月後にはこのあたりを通っておりますが、津波こそ到達していないものの、地震によって倒壊した家が道路の半分まで塞いでいるような状態だったのを思い出します。

横山不動尊さまがある旧本吉郡津山町は、現在の南三陸町の志津川や歌津とは地理的にも関係が深かったようで、南三陸町の仮設住宅が登米市の中にもいくつか建てられているそう。こちらの横山不動尊さまの隣にも仮設住宅がありました。横山不動尊さまも避難者を受け入れたり、ボランティアの拠点になったりして、震災直後から支援活動を続けておられます。夏に行われるという山門からの「そうめん流し」とか、不動さまがこのお寺に戻ってからの来年のお祭りとか、仮設への訪問など、今後当地でも ぬえたちプロジェクトの活動の幅が広がってゆければ、と考えております。

最後に、池の汀に咲き乱れる藤の素晴らしさをご紹介しておきますね~





この頃、ちょうど気仙沼あたりでは藤とツツジの見頃でした。この頃、東京での舞台でも『藤』がよく上演されていましたね。そういえば能の『藤』はその舞台が越中ではあるものの、作者は南部藩三十一代信恩の作と伝える文献があり、上演の資料上の初見は18世紀の伊達藩だったりするのでした。これだけの見事な藤を見れば、藤の花の精を登場させる能を作りたくなる気持ちもわかるような気がします。

第14次支援活動<気仙沼>(その10)~南三陸町「さんさん商店街」

2013-07-06 03:25:30 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【決算報告書訂正のお詫びとご報告】

まずはご報告です。この3月の第13次活動の「決算報告書」につきまして、間違いが発見されましたので、お詫びして訂正させて頂きます。

当該の報告文面のうち「・今回は「石巻市立女子高等学校卒業生還暦を祝う会」さまのご支援によりプロジェクトの活動資金を賄うことができた。しかし銀行口座への募金はすでに皆無に近いであり、今後も厳しい活動状況が予想される。あらためてみなさまに資金的援助をお願い申し上げる次第である。」という表現は、この時の活動のものではなく、去る2012年10月の第10次活動の報告文が紛れ込んだものでした。

この文章を「・今回はJIN'S PROJECTさまおよび「THE BODY SHOP」さまのご支援によりプロジェクトの活動資金を賄うことができた。しかし今後も息長い支援活動を続けてゆくために、引き続き変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。」に訂正させて頂きます。

報告書の作成にはテンプレート書式を作って、それを加筆訂正して新たな報告書を作っていますもので、つい過去の報告文を見落として、そのまま掲載してしまいました。金額の訂正など報告書の根幹に関わる重大な訂正ではありませんが、みなさまから募金を頂戴して活動している以上、活動・決算報告書は公文書として細心の注意を払って作成していたつもりでしたが、つい見直しが安易になってしまったようです。お詫びして訂正させて頂きます(当ブログ内の→当該記事もすでに修正させて頂きました)。

さて仙台に戻る途中、南三陸町のBRT「志津川駅」で下車して「さんさん商店街」を見てきました。

何人か、今でもこちらの仮設商店街や南三陸町に継続して支援しているボランティア団体さんも知っていますが、なぜか ぬえたちのプロジェクトでは南三陸町で活動したことがほとんどありません。一番大きい理由は、やはり当地に知っている方がいないこと。。それでも過去にはボランティアセンターさんに飛び込みで電話を掛けて活動の受け入れをお願いした町もあって、そこでは良い関係を築くことが出来て、今でも活動を続けさせて頂いているのですが。。なぜ ぬえたちは南三陸町では活動していないのかしらん。。

これは、ひとつには南三陸町では割と手厚くボランティアさんの手が入っていた。。少なくとも ぬえにはそういう印象だったので、「新参者」として、何となく入って行くのに気後れしてしまったのかもしれません。。変な話ですが、今回の震災では、あまりに広範囲に被害があったために、支援の手が差し伸べられるにも地域によって遅速や規模に大きな差があったのです。女川町で会ったボランティアさんは、震災直後のGWの話として、「石巻には3,000人のボランティアがいたそうですが、その時ここには30人しかいませんでした」と苦笑しておられました。釜石市の鵜住居町で震災の年の年末に伺った話でも「釜石市街やとなりの大槌町にはボランティアさんも取材もあるのだけれど、ここはその間にスポッと抜け落ちて誰もやって来ないんですよ」という声も。石巻市の中でも、たとえばガレキ撤去の進捗を見ても、中心部や被害の大きかった門脇町や南浜町は比較的早かったけれども、北上川をはさんだ湊地区や、まして渡波地区などは いつまで経っても同じような景色のまま放置されていたように思います。

それでも ぬえたちは一度だけ、南三陸町の泊浜で活動しました。それも震災の半年後の夏に。なんとその時期にネットで予約できる南三陸町の宿が1軒だけ、ある日突然アップされまして、その時の活動の目的地はまったく別の町だったのだけれども、ちょっと遠回りしてこの泊浜の宿に泊めて頂く事にしたのです。

このとき、宿に連絡して「付近で活動させて頂きたい」と相談したのですがあいにく条件が揃わず。。それでせめてもの活動として、宿泊した翌朝に早起きして、笛のTさんとともに漁港の堤防の突端に出向いて、二人だけで海に向かって舞囃子を奉納したのでした。これは なかなか面白い展開もあった活動だったので、ご興味のある方は→こちらの報告をご参照ください。

そんなワケで、南三陸町でもいつか本格的な活動をしてみたいな。。と思っていた ぬえなのですが、じつは、これも笛のTさんの交友関係から広がった話ですが、最近になって、南三陸町や、お隣の登米市でも活動が始められる見込みが出てきまして、この日は ぬえにはまだあまり情報もなくて手探りの状態ではありましたが、南三陸町の現状を知る手がかりになれば、と思って、とりあえず「さんさん商店街」さんを見ておくことにしたのでした。

で、初めて訪れた(!)「さんさん商店街」さんなのですが、何というか、勢いを感じました。被災した海辺から離れて建てられた商店街。。これが これまで ぬえが訪れる機会がなかった原因なのですが、とは言っても南三陸町ではかなり内陸まで津波の被害があった町なので、この商店街の周囲にも被害の爪痕は残っているのですが。。それでもこの商店街の前にBRTの「志津川駅」が立派な駅舎?として造られ、飲食店では「キラキラ丼」など名物料理を一丸となってメニューに並べ、鮮魚店や海産物店では威勢の良い売り声が響き。周囲には何もない商店街なのですが、観光バスが立ち寄ったり。。南三陸町の中心部のひとつとして間違いなく機能していると思います。











あ、そうそう、じつはこの日「さんさん商店街」ではチリ政府から贈られた「モアイ像」の除幕式が行われたのでした。ぬえが到着したのは夕方なので、式典はもちろん終わったあとでしたが、晴れがましくデビューしたモアイさんはこの方!

なぜモアイ? じつは、これ、今に始まった事ではありません。1960年の「チリ地震」の津波で被害を受けた南三陸町に、友好と防災のシンボルとして、1990年に当時のチリ政府が、新たに作成されたモアイ像を贈ったのでした。これは南三陸町民に大変愛されたようですが、今回の震災でモアイ像は流されてしまい。。こうして今回再びチリ政府から寄贈されたのがこちらのモアイ像さんです。







新しく見えますが、それもそのはずで、イースター島の島民が、島の石を使って作った新しい作品で、それで古い像からは欠落している「眼」も補われているのだそうです。

さて「さんさん商店街」さんを見てから ぬえは後続のBRTバスに乗り込み、柳津・小牛田で乗り換えてようやく仙台へ。またしても東京への帰りは夜行バスなのですが、まだ時間も早いので簡単に夕食を済ませたり、ネカフェで時間をつぶしました。深夜にようやく出発。

仙台~東京はさすがに人気路線なのか、往路の東京~気仙沼間と違って、本当にたくさんのバス会社が運行していました。予約時にもネットでバスの設備や待遇がよりどりみどり。で、深夜バス初心者の ぬえは豪華仕様? のバスにしました。ボランティアなのにすみませ~ん。でも車や新幹線での移動と比べれば半額にも満たない交通費だし、なにより翌朝に疲れを残す移動は弊害を引き起こしますので。。プチ贅沢ボランティアという事でお許し願いたく。。

そしたら! 本当に贅沢な仕様の夜行バスでした。3列シートはもちろん、パーソナル・カーテンはあるわ、背もたれ倒しても後ろの席に影響がないシート(「すみません、倒していいですか?」と後ろの席の人に聞かないで済む)、コンセントも付いてるし、なんかWiFiまで飛んでるらしい。

。。でも、そんな車両に乗った時に限って。。疲れがさすがに出てきて、走り出してすぐに ぐっすり寝ちゃったのでした。そんなものよね。。人生って。

かくして0泊2日の弾丸ツアーの活動は、今回も無事にミッション・コンプリート。人との出会いも多かったし、考えさせられる事もたくさんありました。有意義な旅だったと思います。でも、まだ終わったわけじゃありません。この翌日の早朝に帰京して、そのまた次の日の夜には14次活動の続き。。笛のTさんとともに再び気仙沼を訪れることになっていました。

第14次支援活動<気仙沼>(その9)~BRT乗ってみました

2013-07-03 10:04:20 | 能楽の心と癒しプロジェクト
鹿折復幸マルシェにてポスターを張っていると、小野寺商店の奥さんが「鹿折の仮設住宅にも貼っておきましょうか?」とご親切に声を掛けてくださり、少しお話しをさせて頂きました。こちらで活動しておられる増島清人さんのこと、秋にこちらの近くに学校公演でお邪魔する予定になっていること。。

さて、ポスターも貼り終わったところで、これから仙台に向かう事にしました。この日、再び仙台発の夜行バスで東京に帰ることになっていたからです。時間は午後3時。。気仙沼からはおよそ130km離れた仙台にちゃんとたどり着けるのか。。? いや、列車の乗り換えなどは詳細に調べてあるので間に合うはずなんですが、ここまで離れたところにいると、やっぱり不安ですね~

で、今回の旅のもうひとつの楽しみが、BRT方式で再開された気仙沼線のバスに乗ってみることでした。BRTは「バス・ラピッド・トランジット」の略称で「バス高速輸送システム」というものだそうです。気仙沼を通る鉄道には一関駅から気仙沼駅を通って大船渡までを結ぶJR大船渡線(曲がりくねった路線全体の形から「ドラゴンレール」の愛称で親しまれています)と、気仙沼駅を始発として石巻の前谷地駅を結ぶJR気仙沼線がありますが、このどちらもが沿岸部の区間が津波による被害を受けて運休しています。普通となった区間はバスの運用などで代替輸送が行われていましたが、運休区間は陸橋が橋脚ごと破壊されるなど、復旧には長い時間が必要のようです。そこで、まだ使用に耐える線路部分をアスファルト舗装してバス専用道路とする形で、渋滞のない正確な時刻で運行を行う、バスによる路線の再開となったのでした。

BRTはあくまで鉄道路線の再開までの間の暫定的な運用、だそうですが。。現実には鉄道のレールを再び敷設するための掛かる莫大な費用と、それに対する利用客数との問題があって、鉄道の再開は難しいのではないか。。という観測もあります。。

それから、前述のように沿岸部の区間には陸橋が崩落していたりでバス専用の舗装道路としても復旧が不可能な場所が相当にあって、気仙沼線の場合もBRTは専用道路を通る区間と、鉄路と平行して走る幹線道路である国道45号線を一般車とともに走る区間とが複雑に混じり合っています。

ぬえは鹿折から路線バスでまずは気仙沼駅に行き、そこからBRTで柳津駅まで出て、柳津から前谷地まではわずかに残った気仙沼線の鉄道の区間を通り、直通運転によって乗り換えなしでそのまま小牛田へ。そこから東北本線で仙台へ出る、という計画でした。気仙沼から仙台に出るのは大船渡線で一関まで出て、そこから新幹線などで仙台に向かうのが一般的ではありますが、いつも車を利用している ぬえとしましては、一度BRTにも乗ってみよう、というワケで、こちらの経路を使ってみることに。

え~、じつは鹿折からの路線バスで行き先を間違えまして、バスは化粧坂をくだって東浜街道の方ヘ行ってしまったので、本町橋を越えたところであわててバスを降りまして、気仙沼駅のとなりの「不動の沢駅」からBRTに乗ることになりました。

こちらが不動の沢駅の駅舎。おされなバス停、って感じでしょうか。





やがてBRTのバスが到着。気仙沼駅~不動の沢駅間は専用路線のようですが、ここから一般道を走ります。。不動の沢駅の次が南気仙沼駅で、その付近は壊滅してしまったので。。新しい南気仙沼駅は、東浜街道の市民病院のそばに造られていました。こういう市街地の幹線道路では駅舎を建てるわけにもいかず、標識ひとつと雨よけの屋根がある程度の、まさにバス停、と呼ぶべきものでしたが。



BRT専用道と一般道との境目。一般車が専用道に進入しないよう道路は目立つ色になっています。よく見ると専用道の先には使われなくなった線路がそのまま残されていました。



車内から見た専用道の様子。かつての線路を小道が横切る箇所には踏切があったり、なかったり。。



もともとJR気仙沼線は単線だったので、専用道も1車線分しかありませんで、バスがすれ違うための待避所がところどころに設けられています。



せっかくなので ぬえは地図を片手にバスがどの経路で走るのか調べてみました。それによれば、気仙沼駅~(専用道)~不動の沢駅~(一般道)~松岩駅~(専用道)~陸前階上駅~(一般道)~小金沢駅~(専用道)~本吉駅~(一般道)~陸前港駅~(専用道)~歌津駅~(一般道)~柳津駅。。という感じ。BRT専用道がいかに部分的にしか開通していないことがよくわかりますね。ぬえがBRT気仙沼線を利用したこのレポートは今年の5月末のことですが、専用道は少しずつ整備されて、次々に開通しているようでしたから、今はまた様子が違うかもしれません。

こちらは陸前階上駅。このあたりは線路も駅舎も被害を受けていませんが、BRT化に合わせて線路は撤去されて舗装されました。駅舎はそのまま残されていますのでなんだか不思議な光景ですね。



こちら階上駅のすぐ先の「岩井崎踏切」。



じつはここを通ったほんの2ヶ月半前に、ぬえは車でここを通っていました。その時はまだBRT道路の建設中で、踏切もそのまま残っていたのです。いかに急ピッチで専用道の建設が進んでいるかがよくわかります。



車窓から見た陸前小泉駅は。。廃墟のようになっていました。。



陸前港駅を過ぎてBRTは南三陸町に入ります。ここでバスは鉄道のトンネルに!



単線の鉄路の狭いトンネルの中を走るのはなんだか窮屈で不気味。。



トンネルを抜けると歌津駅に到着します。やはり高台にあった駅舎は無事でしたが、いまは下を走る幹線道路の国道45号線の周辺が仮設商店街があったりする中心地になるので、BRT路線はここから急降下して一般道へ。駅の駐車場だった場所? に駅舎がありました。





歌津駅のそばにはかろうじて原形を留める「ウタちゃんはし」の上に、やはり鯉のぼりが翻っていました。



「ウタちゃん」は10年以上前にここを流れる伊里前川(いさとまえがわ)に現れたアザラシのニックネームだそうです。歌津といえば「歌津魚竜」の方が有名ですよね。海岸沿いで発見された化石のことで、発見現場は保存されて国の天然記念物となり、「歌津魚竜館」が建てられて様々な化石標本が展示されていたそうですが、やはり津波の被害を受けて閉館となりました。もっとも多くの標本は流されずに残り、東北大学が中心となって保全が行われているそうです。

南三陸町に入って歌津駅を過ぎると、清水浜駅がコンビニの駐車場の中にあったり、町役場の仮庁舎が置かれている総合体育館の前に臨時駅「ベイサイドアリーナ駅」が新設されていたり、志津川駅が被災地区から仮設商店街や学校がある少し奥の場所に移動されていたり、といろいろ工夫がされていました。

車窓から見たベイサイドアリーナ駅。奥の総合体育館が南三陸町役場の仮庁舎として使われています。



防災庁舎。こちらも取り壊しをするか保存するか、意見が分かれています。



そうして移転された「志津川駅」に到着。おされな駅舎。



ここで一旦バスを降りて「さんさん商店街」を見てみることにしました。


第14次支援活動<気仙沼>(その8)~鹿折復幸マルシェさんにて

2013-07-02 21:29:16 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さてポスターを持った ぬえは、はじめて鹿折復幸マルシェさんを訪れました。3日後にプロジェクトとしてお邪魔させて頂く予定になっていましたので、その公演の宣伝を行うためです。

まずは当地での活動についてお電話で相談させて頂いた小野寺商店さんへご挨拶。商店街の会長さんのお店や事務所にもご挨拶して、早速商店街のあちこちにポスターを張らせて頂きました。それぞれのお店にもご挨拶できて、活動の前に顔なじみになることができました~。商店街の上には敷地いっぱいに鯉のぼりが泳いでいました。



こちらがステージですね。うん、ちょうど良い大きさ。PA機器はこちらで持ち込むとして電源は。。



向こうはトイレでしょうが、あれ? これは。。





瓦ちゅんさんのイラストだ! ちゅんさんは石巻で湊小の避難所時代から自転車屋さんとして活躍しておられた一方、持ち前のイラストの腕を振るって独自のキャラクター「その子ども」を石巻中に描きまくっていました。またしばしば自転車の目線で被災した各地を巡る旅行をしていましたが、その行く先々で仮設商店街などでイラストを描いていた模様。そういえば以前ブログで気仙沼に行ったと言っていましたっけ。石巻から80km離れた気仙沼まで自転車で。。また福島にも出かけていたようでしたから、スゴイ行動力です。

さてポスターをお店の前に貼らせて頂くのでお店の方にお願いするのですが、あちこちのお店で なんだか長く話し込むことになりました。

とくに印象的だったのは食料品のお店で話し込んだことで、ここでは30分近く話したのではないでしょうか。ご主人はここ鹿折が津波に襲われたとき、最初は鹿折唐桑駅の方ヘ避難し、そこも危ないということで、高台に避難して難を逃れたのだそうです。震災後に多数出版された被害の記録の写真集の表紙を ぬえに示して、「ここにオレ、写ってんだよね」と教えてくださいました。そこには海と化した鹿折の町と、手前に高台からその様子を見下ろす住民さんの姿が。少し向こうには例の「第十八共徳丸」が流されている様子も写っていました。

ご主人と漁船について話しましたが、目新しい意見だと思ったので要約しますと。。

今大型漁船を保存するか撤去するかで意見がずっと戦わされてきたけれども、白か黒かじゃなくてグレー、という選択もあるのではないかと思う。…あの漁船はたしかに町に被害を起こしたけれども、そのあとあの漁船があったから、そこから始まった新しい出会いもあるのではないか。もちろんこの地区もこれから整備されていくのだし、その時に住宅の窓を開ければあの漁船が目に入ってくるのはイヤだ、という意見ももっともだと思う。でも、今撤去するのは時期尚早ではないか。この仮設商店街も来年の夏には解消されることになっているし、あの漁船がある限り復興工事も進まないだろう。であれば、数年、と期限を区切って、その間は負の遺産として震災の記憶を風化させないために保存し、その間にあの漁船に集まる人々とともに地域の活性化も図る。その後に地域の再生工事をするときに漁船も撤去する。期限を決めて将来に撤去が決まっていれば、保存に反対する人々の理解も得られるのではないか。。?

実際には漁船の船主さん(いわき市)はこの4月に期限切れとなった気仙沼市との「貸借契約」を更新せず、すでに北海道の業者団体と解体の契約を締結しました。一方、気仙沼市としては「あくまで保存してほしい」という立場で、現在市民に向けて撤去の是非についてアンケート調査を行っているとのこと。それはあまりに遅い対応ではないかと。。

ぬえも食料品店のご主人に、名取市・閖上で考えたことなどを話しました。ぬえは今混乱してはいますが、基本的には撤去に賛成の立場ではあります。とくに人的被害が出た「遺構」についてはその思いは強いです。しかし、この漁船は間近で見ると、たしかにもの凄いインパクトがあるんですよね。観光地になってしまっている事には思うこともあるけれど、たしかにこの船が目当てであっても、人が集まってくる、という事は鹿折の再生にはまだまだ必要なことでしょう。。かく言う ぬえも、この漁船を見に鹿折に来た一人です。

この漁船だけが撤去されずに残っているのは、そのあまりの巨大さが原因ではありますが、ところがその流された大型漁船は、内湾から通じる主要道路に面して、しかもその道路をふさがない位置に止まったのでした。誤解を恐れずに言えば、抜群のアクセスという観光スポットとしての条件を持っているのです。こういう場所は、震災から2年を過ぎて、いまや石巻の門脇小学校とこの「第十八共徳丸」、それに女川町くらいになってしまいましたね。ここから先は住民さんの意見が優先して尊重されなければならないとは思いますが、たしかに、今この地に来てみても、もう空き地ばかりで震災の被害はほとんど何も分からないようになってしまっていると思います。そうして、震災から2年を過ぎても、まだ被災地に行ったことがない人、行きたくてもこれまで都合が悪くて行けなかった人もたくさんいるのです。こうした人々が今でも「何かお手伝いはできないか」と考えている。この人たちが意を決して当地を訪れたとき、ぬえはやはり被害の大きさは実感してほしいと思います。それが次の支援につながるし。。

だからと言って、そのために「遺構」を残すことが地元にとって本当に良いことなのかどうか。。女川町で会ったおばあちゃんは、倒壊したビルを見ながら「みじめ、ですよね。。」と ぬえにおっしゃいました。

さてご主人とずっと話し込んで、それからお店を出てポスターを貼らせて頂きました。お店を出るときご主人は「引き留めて悪かったな」と言って ぬえに「笹かまぼこ」 を1枚、手渡してくださいました! これはあとで南三陸町でおいしく頂戴しました~。



鹿折復幸マルシェさんでは他にもいくつかのお店で親しくお話しをさせて頂きました。仮設の店舗の中には 住民さんが「お茶っこ」できるスペースを作ったり、着物の着付け教室を開いたり、それぞれに色々な工夫をしておられました。