シテとワキの心が共鳴したとき、地謡が高揚した気分を引き取って謡い継ぎます。常套手段とはいえ、こういうところは能はよくよく考え込まれて作られているなあ、と思いますね。しかも『融』の初同(最初の地謡)では、シテとワキの会話を引き取った割にはあえてそれ以上心情には触れようとせず、淡々と風景の描写に努めます。その景色を眺めるシテの風情に焦点を当てることによって、間接的にシテと、この曲の場合はワキも同断だと思いますが、感慨深い興趣を描きだす趣向でしょう。
地謡「げにやいにしへも。月には千賀の塩釜のと正へ直し。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半ばにてと右へウケ。松風も立つなりやと正へ出霧の籬の島隠れと右へウケ。いざ我も立ち渡りとワキへ向き。昔の跡を陸奥のと左へ廻り。賀の浦わを眺めんや。千賀の浦わを眺めん。とシテ柱にて正へトメ
初同としては割と短いものですが、面白いのは型が少ないことでしょうか。本来こうした曲の初同では、シテは正へ出てヒラキ、角に行き正へ直して、それから左へ廻る、という型がついているものですけれども、『融』ではワキに向く程度の型。。すなわち目線による演技だけしかつけられていません。これはシテが手に何も持っていない事に由来するのだと思います。能ではほとんどの場合シテは手に扇か、あるいは何か小道具を持っていて、これを視線の補強や感情の表出に使うのですが、『融』の前シテは何も手に持っておらず、そのためサシ込程度の型であっても、腕を使った型はやりにくいのです。
これはシテが田子を持って登場することに原因があって、そうしてその田子は登場してすぐに床に置いてしまうのですけれども、中入でもシテはまた田子を使った所作をするために、その間に扇を持つことが出来にくいのです。田子を置くのに手間がかかるので、ワキとの問答の前に扇を持つことが難しく、また後の「語り」の場面では扇を抜き持つ間はあるし、またシテは扇を持つのが似つかわしいとは思いますが、それに続く「名所教え」の場面では扇は演技の邪魔になり、さらにその名所教えから連続する「ロンギ」の中で、突然またシテは田子を取って所作をするために、やはり扇を持っていると演技の進行に差し障りが生じるのですね。装束付けにはたしかに「尉扇」を用意することが明記されていますけれども、それは腰の後ろに挿してシテは登場して、そうしてその扇はついに抜き持たれることはないのです。扇を持つべき役だけれども。。現実には使われない扇。それは演技には不要だけれども、腰に挿すことによってシテの品格を表すことになるのでしょう。。まあ、実際には一度も扇は使わないので、腰に挿すことを省略することもありますのですが。。
ワキは重ねて融が河原院に塩釜の浦を写したことについて尋ねます。
ワキ「なほなほ陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる謂はれ御物語り候へ。シテはワキへ向き中まで出て下居
シテ「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。と正へ直しあの難波の御津の浦よりも。と右の方を見日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。と正を見一生御遊の便りとし給ふ。とワキへ向き然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。と正へ直し浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜り水は。雨の残りの古き江に。落葉散り浮く松影の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。と面を伏せされば歌にも。と面を直し君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。とワキへ向き
河原院が荒れ果てた廃墟と化してしまっていることはここで初めて提示されますが、それにしてもいつの間にかシテは河原院の主であるかのようにその荒廃に嘆息し、そのまま昔を懐かしむ嘆きへと気持ちを深めてゆきます。
地謡「げにや眺むればと正へ直し。月のみ満てる塩釜の。浦さみしくも荒れ果つると面にて右を見跡の世までもしほじみてと正へ直し。老ひの波も帰るやらん。あら昔恋しやと面を伏せ。
地謡「恋しや恋しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。と安座、両手にてシオリ
遊興の曲『融』には似合わないほどの深い悲しみですが、老いを感じ、帰らぬ若さへの渇望だけではなく、この尉が河原院の主の化身である事がほのめかされる事によって、自らの人生の証だった河原院の荒廃が、人生そのものを否定されたかのような悲哀をシテが感じている事にお客さまは共感できるのだと思います。
ところがワキにはシテのそのような思いは感じられず、今度は河原院から見た都の景物についての問いに話題が移ります。
ワキ「ただ今の御物語に落涙仕りて候。さて見え渡りたる山々は。みな名所にてぞ候らん御教へ候へ。
シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。
この切り替えの速さがまた遊曲の能らしいですね。実際にはシテはこの悲しみの場面からの切り替えが難しいのですが、それだけでなく、ワキの文句の間にシオリの手をほどいて立ち上がり、シテ柱に行ってワキに向くのですから、手間としても難しいところです。
このところ、宝生流のおワキは上記のように「ただ今の御物語に。。」という文言が入るので、比較的シテには気持ちの切り替えと仕事の手間を稼ぐのに助かります。ちなみに観世流の本文では
ワキ「いかに尉殿。見え渡りたる山々はみな名所にてぞ候らん御教へ候へ
。。となっていて、ワキはシテの悲しみにはまったく頓着していませんね。ワキが一人勝手に名所を知りたい、という欲求に従って、すなわち浮きやかな心で問う言葉がいきなりシテに投げつけられるようで、シテとしてもやりにくいところだと思いますが、上記のように宝生流のおワキがお相手であれば(今回もそうですが)、気持ちの切り替えも所作もスムーズにつながるのではないかと思います。
地謡「げにやいにしへも。月には千賀の塩釜のと正へ直し。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半ばにてと右へウケ。松風も立つなりやと正へ出霧の籬の島隠れと右へウケ。いざ我も立ち渡りとワキへ向き。昔の跡を陸奥のと左へ廻り。賀の浦わを眺めんや。千賀の浦わを眺めん。とシテ柱にて正へトメ
初同としては割と短いものですが、面白いのは型が少ないことでしょうか。本来こうした曲の初同では、シテは正へ出てヒラキ、角に行き正へ直して、それから左へ廻る、という型がついているものですけれども、『融』ではワキに向く程度の型。。すなわち目線による演技だけしかつけられていません。これはシテが手に何も持っていない事に由来するのだと思います。能ではほとんどの場合シテは手に扇か、あるいは何か小道具を持っていて、これを視線の補強や感情の表出に使うのですが、『融』の前シテは何も手に持っておらず、そのためサシ込程度の型であっても、腕を使った型はやりにくいのです。
これはシテが田子を持って登場することに原因があって、そうしてその田子は登場してすぐに床に置いてしまうのですけれども、中入でもシテはまた田子を使った所作をするために、その間に扇を持つことが出来にくいのです。田子を置くのに手間がかかるので、ワキとの問答の前に扇を持つことが難しく、また後の「語り」の場面では扇を抜き持つ間はあるし、またシテは扇を持つのが似つかわしいとは思いますが、それに続く「名所教え」の場面では扇は演技の邪魔になり、さらにその名所教えから連続する「ロンギ」の中で、突然またシテは田子を取って所作をするために、やはり扇を持っていると演技の進行に差し障りが生じるのですね。装束付けにはたしかに「尉扇」を用意することが明記されていますけれども、それは腰の後ろに挿してシテは登場して、そうしてその扇はついに抜き持たれることはないのです。扇を持つべき役だけれども。。現実には使われない扇。それは演技には不要だけれども、腰に挿すことによってシテの品格を表すことになるのでしょう。。まあ、実際には一度も扇は使わないので、腰に挿すことを省略することもありますのですが。。
ワキは重ねて融が河原院に塩釜の浦を写したことについて尋ねます。
ワキ「なほなほ陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる謂はれ御物語り候へ。シテはワキへ向き中まで出て下居
シテ「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。と正へ直しあの難波の御津の浦よりも。と右の方を見日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。と正を見一生御遊の便りとし給ふ。とワキへ向き然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。と正へ直し浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜り水は。雨の残りの古き江に。落葉散り浮く松影の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。と面を伏せされば歌にも。と面を直し君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。とワキへ向き
河原院が荒れ果てた廃墟と化してしまっていることはここで初めて提示されますが、それにしてもいつの間にかシテは河原院の主であるかのようにその荒廃に嘆息し、そのまま昔を懐かしむ嘆きへと気持ちを深めてゆきます。
地謡「げにや眺むればと正へ直し。月のみ満てる塩釜の。浦さみしくも荒れ果つると面にて右を見跡の世までもしほじみてと正へ直し。老ひの波も帰るやらん。あら昔恋しやと面を伏せ。
地謡「恋しや恋しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。と安座、両手にてシオリ
遊興の曲『融』には似合わないほどの深い悲しみですが、老いを感じ、帰らぬ若さへの渇望だけではなく、この尉が河原院の主の化身である事がほのめかされる事によって、自らの人生の証だった河原院の荒廃が、人生そのものを否定されたかのような悲哀をシテが感じている事にお客さまは共感できるのだと思います。
ところがワキにはシテのそのような思いは感じられず、今度は河原院から見た都の景物についての問いに話題が移ります。
ワキ「ただ今の御物語に落涙仕りて候。さて見え渡りたる山々は。みな名所にてぞ候らん御教へ候へ。
シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。
この切り替えの速さがまた遊曲の能らしいですね。実際にはシテはこの悲しみの場面からの切り替えが難しいのですが、それだけでなく、ワキの文句の間にシオリの手をほどいて立ち上がり、シテ柱に行ってワキに向くのですから、手間としても難しいところです。
このところ、宝生流のおワキは上記のように「ただ今の御物語に。。」という文言が入るので、比較的シテには気持ちの切り替えと仕事の手間を稼ぐのに助かります。ちなみに観世流の本文では
ワキ「いかに尉殿。見え渡りたる山々はみな名所にてぞ候らん御教へ候へ
。。となっていて、ワキはシテの悲しみにはまったく頓着していませんね。ワキが一人勝手に名所を知りたい、という欲求に従って、すなわち浮きやかな心で問う言葉がいきなりシテに投げつけられるようで、シテとしてもやりにくいところだと思いますが、上記のように宝生流のおワキがお相手であれば(今回もそうですが)、気持ちの切り替えも所作もスムーズにつながるのではないかと思います。