ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

陸奥への想い…『融』(その4)

2013-08-29 02:05:56 | 能楽
シテとワキの心が共鳴したとき、地謡が高揚した気分を引き取って謡い継ぎます。常套手段とはいえ、こういうところは能はよくよく考え込まれて作られているなあ、と思いますね。しかも『融』の初同(最初の地謡)では、シテとワキの会話を引き取った割にはあえてそれ以上心情には触れようとせず、淡々と風景の描写に努めます。その景色を眺めるシテの風情に焦点を当てることによって、間接的にシテと、この曲の場合はワキも同断だと思いますが、感慨深い興趣を描きだす趣向でしょう。

地謡「げにやいにしへも。月には千賀の塩釜のと正へ直し。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半ばにてと右へウケ。松風も立つなりやと正へ出霧の籬の島隠れと右へウケ。いざ我も立ち渡りとワキへ向き。昔の跡を陸奥のと左へ廻り。賀の浦わを眺めんや。千賀の浦わを眺めん。とシテ柱にて正へトメ

初同としては割と短いものですが、面白いのは型が少ないことでしょうか。本来こうした曲の初同では、シテは正へ出てヒラキ、角に行き正へ直して、それから左へ廻る、という型がついているものですけれども、『融』ではワキに向く程度の型。。すなわち目線による演技だけしかつけられていません。これはシテが手に何も持っていない事に由来するのだと思います。能ではほとんどの場合シテは手に扇か、あるいは何か小道具を持っていて、これを視線の補強や感情の表出に使うのですが、『融』の前シテは何も手に持っておらず、そのためサシ込程度の型であっても、腕を使った型はやりにくいのです。

これはシテが田子を持って登場することに原因があって、そうしてその田子は登場してすぐに床に置いてしまうのですけれども、中入でもシテはまた田子を使った所作をするために、その間に扇を持つことが出来にくいのです。田子を置くのに手間がかかるので、ワキとの問答の前に扇を持つことが難しく、また後の「語り」の場面では扇を抜き持つ間はあるし、またシテは扇を持つのが似つかわしいとは思いますが、それに続く「名所教え」の場面では扇は演技の邪魔になり、さらにその名所教えから連続する「ロンギ」の中で、突然またシテは田子を取って所作をするために、やはり扇を持っていると演技の進行に差し障りが生じるのですね。装束付けにはたしかに「尉扇」を用意することが明記されていますけれども、それは腰の後ろに挿してシテは登場して、そうしてその扇はついに抜き持たれることはないのです。扇を持つべき役だけれども。。現実には使われない扇。それは演技には不要だけれども、腰に挿すことによってシテの品格を表すことになるのでしょう。。まあ、実際には一度も扇は使わないので、腰に挿すことを省略することもありますのですが。。

ワキは重ねて融が河原院に塩釜の浦を写したことについて尋ねます。

ワキ「なほなほ陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる謂はれ御物語り候へ。シテはワキへ向き中まで出て下居
シテ「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。と正へ直しあの難波の御津の浦よりも。と右の方を見日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。と正を見一生御遊の便りとし給ふ。とワキへ向き然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。と正へ直し浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜り水は。雨の残りの古き江に。落葉散り浮く松影の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。と面を伏せされば歌にも。と面を直し君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。とワキへ向き

河原院が荒れ果てた廃墟と化してしまっていることはここで初めて提示されますが、それにしてもいつの間にかシテは河原院の主であるかのようにその荒廃に嘆息し、そのまま昔を懐かしむ嘆きへと気持ちを深めてゆきます。

地謡「げにや眺むればと正へ直し。月のみ満てる塩釜の。浦さみしくも荒れ果つると面にて右を見跡の世までもしほじみてと正へ直し。老ひの波も帰るやらん。あら昔恋しやと面を伏せ
地謡「恋しや恋しやと。慕へども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。
と安座、両手にてシオリ

遊興の曲『融』には似合わないほどの深い悲しみですが、老いを感じ、帰らぬ若さへの渇望だけではなく、この尉が河原院の主の化身である事がほのめかされる事によって、自らの人生の証だった河原院の荒廃が、人生そのものを否定されたかのような悲哀をシテが感じている事にお客さまは共感できるのだと思います。

ところがワキにはシテのそのような思いは感じられず、今度は河原院から見た都の景物についての問いに話題が移ります。

ワキ「ただ今の御物語に落涙仕りて候。さて見え渡りたる山々は。みな名所にてぞ候らん御教へ候へ。
シテ「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候べし。


この切り替えの速さがまた遊曲の能らしいですね。実際にはシテはこの悲しみの場面からの切り替えが難しいのですが、それだけでなく、ワキの文句の間にシオリの手をほどいて立ち上がり、シテ柱に行ってワキに向くのですから、手間としても難しいところです。

このところ、宝生流のおワキは上記のように「ただ今の御物語に。。」という文言が入るので、比較的シテには気持ちの切り替えと仕事の手間を稼ぐのに助かります。ちなみに観世流の本文では

ワキ「いかに尉殿。見え渡りたる山々はみな名所にてぞ候らん御教へ候へ

。。となっていて、ワキはシテの悲しみにはまったく頓着していませんね。ワキが一人勝手に名所を知りたい、という欲求に従って、すなわち浮きやかな心で問う言葉がいきなりシテに投げつけられるようで、シテとしてもやりにくいところだと思いますが、上記のように宝生流のおワキがお相手であれば(今回もそうですが)、気持ちの切り替えも所作もスムーズにつながるのではないかと思います。

陸奥への想い…『融』(その3)

2013-08-27 12:02:34 | 能楽
謡いながら田子を下に置き、シテ柱に戻って正面を向くと、ワキがシテに声をかけ、問答となります。

ワキ「如何にこれなる尉殿。御身はこのあたりの人にてましますか。
シテ「さん候この所の汐汲にて候。
ワキ「不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。
シテ「あら何ともなや。さてこゝをば何処と知ろし召されて候ぞ。
ワキ「さん候この処を人に問へば。六条河原の院とかや申し候。
シテ「河原の院こそ塩釜の浦候よ。融の大臣陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となど覚さぬぞや。


都の中でありながら海水を汲む汐汲と名乗るシテに対してワキは不審を感じますが、ここ河原院という場所が、かつて融大臣が千賀の塩釜を模した庭園を営んだ場所だったのだから、と妥当性を主張するシテ。ワキもその風流心に感じたのでしょう、それ以上の追求はせずに、それならば、と千賀の塩釜の名所がここ河原院の中にどのように再現されているかを尋ねます。

ワキ「げにげに陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたるとは承り及びて候。さてはあれなるは籬が島候か。
シテ「さん候あれこそ籬が島候よ。融の大臣常は御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。


ええと、ここで少々脱線しておきたいのですが、震災以来ずっと東北で活動を続けている ぬえではありますが、恥ずかしながら、震災直後にはじめて塩釜市を訪れて。。そこではじめて『融』に描かれる「千賀の塩釜」とは日本三景の「松島」の事だと知ったのでした。。(恥)

現実には現地では「千賀」という地名はすでに消滅していましたが、『角川日本地名辞典4 宮城県』(昭54)によれば最近まで「千賀ノ浦」という地名は残っており、それは現在の塩釜市・海岸通と港町にあたる場所なのだそうで、そこは本塩釜駅周辺の、まさに塩釜湾の最深部。つまり厳密には千賀の浦は松島、というよりは塩釜港のことを指す言葉であったようです。

籬(まがき)が島についても、松島で最も目立つ雄島のことかと ぬえは勝手に考えていたのですが、伊達家によって瑞巌寺が整備された近世はともかく、融が生きた平安初期では松島の中心地はいまの松島海岸駅のあたりではなく、多賀城の外港としての塩釜港のあたりで(後世に奥州一ノ宮となった塩釜神社が当地に鎮座しているのも、塩釜港の繁栄と無縁ではないかも)、まさに松島というよりは塩釜。じつは籬が島は現在もありまして、それはやはり松島海岸駅の近くではなく、東塩釜駅のそば。。まさに塩釜湾の中にある小島で、一番陸地に近い。。つまり往時は千賀の浦から見れば最も目立つ島だったのでした。もっとも現在は塩釜漁港の防波堤の中に囲まれて少々窮屈に見えなくもないのではありますが。。

こちらの籬が島は現在は「曲木島(まがきじま)」と呼ばれていますが、島には鹽竈神社の末社である籬神社も鎮座しており、小さな鉄橋が陸から島に架けられてはいますが、祭礼などの特別な場合以外は閉ざされて渡れないようになっています。いまでも信仰が生き続ける島なのでした。

舞台ではシテとワキが籬が島の到景を眺めていると、やがてそこに光が挿して、美しい景色はさらに輝きを増します。中秋の名月が昇ったのです。

ワキ「げにげに月の出でて候ぞや。面白やあの籬が島の森の梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに映る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。
シテ「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは。若しも賈島が言葉やらん。鳥は宿す池中の樹。
ワキ「僧は敲く月下の門。
シテ「推すも。
ワキ「敲くも。
シテ「古人の心。
シテ/ワキ「今目前の秋暮にあり。


「しもんに映る月影」「孤舟に帰る身の上」はいずれも現在では意味が不明になってしまった言葉で、「しもん」は四門、詩門、侍門、柴門など、「孤舟」も、これは観世流の本の当て字でしょうが、漢詩にその用例はないようで、ほかにも古秋、古集などと解する説はあるものの、いずれも決定打には欠けるようです。

しかしシテの耳に留まったワキの言葉は「鳥の宿し」という部分で、これこそ「推敲」の語源となった唐の詩人・賈島の詩「李凝(りぎょう)の幽居に題す」なのでした。

閑居 鄰竝(りんぺい)少なく
草径 荒園に入る
鳥は宿す池中の樹
僧は敲く月下の門
橋を過ぎて野色を分かち
石を移して雲根を動かす
暫く去って還た此に来たる
幽期 言に負(そむ)かず

この「僧は敲く月下の門」を「僧は推(お)す」にすべきか作者が迷っていたところ、上級官吏でもあった文人の韓愈の車列に行き当たり、韓愈に相談したところ言下に「敲く」を採り、以来賈島は韓愈の弟子となったとのこと。

ワキが月影の挿すのを見て即座に賈島の詩を思い浮かべた、その風流にシテは感動し、いまこそ二人は心ある古人の詩心を動かしたのも、いま眼前のこのような秋の暮れの風情なのだ、と共感します。

陸奥への想い…『融』(その2)

2013-08-25 13:58:05 | 能楽
ところで今回 ぬえが勤めさせて頂く『融』では宝生流のおワキにお相手を願うことになっております。こちらのお流儀では観世流の本文とは多少文言が異なっている部分もありますので、それもご紹介しておくことにしましょう。

最初の名宣リはこのように。

ワキ「これは諸国一見の僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。ただ今都に上り候。

観世流の本文「東国方より出でたる僧」と比べても、さらに出身地まで取り除かれて、ワキの個性をできるだけ目立たなくさせているようです。ちなみに『融』のワキ僧は無地熨斗目に水衣、角帽子姿の、いわゆる着流し僧で、権威のある僧正のような役ではなく、まさに漂泊の修行僧という出で立ちです。

さてワキが着座すると笛が鋭いヒシギを吹き、大小鼓が打ち出して「一声」が奏され、シテが登場します。

シテはやはり着流し姿の尉(老人)で、市井の一般市民。。というよりもむしろ卑賤な労働者という趣です。面は笑尉または朝倉尉。これはともに鼻の下の「口ひげ」が植毛によって表され、また上下とも歯列が表現されているのが特徴の面で、庶民的で野趣にあふれ、またある種の「強さ」があり、修羅能の武将の化身などにも好んで用いられます。『融』の後シテは武将ではなく貴公子、という役柄になっていて、その化身としての尉の面に笑尉や朝倉尉はふさわしくないようにも思えますが、じつは「強さ」は強い意志の象徴でもあるから、死後も遊興の生活にこだわる『融』のシテの造形に如何にも似合っていると思います。

装束は無地熨斗目に水衣、緞子腰帯。。着付けは無地熨斗目ではなく小格子厚板を用いることもありますが、身分が低い役なので無地熨斗目の方が似合うように思いますが、そうなるとワキと全く同じ装束になります。わずかに頭髪が尉髪という鬘であることと、田子と呼ばれる担い桶を肩に担いでいる点がワキと異なりますが、やはり装束の類似は避けられず、こういう場合にはおワキの方がシテに遠慮して、水衣の色を変えてくださいますね。おワキはこのような曲の場合は複数の水衣を楽屋に持ち込まれて、シテ方の楽屋に挨拶に見え、シテの水衣の色を尋ねられ、「それではこちらは○○色にしますね」なんて気遣ってくださいます。こういう心配りはいろいろな場面であって、それぞれの役者は重複を避けるなどの工夫をして舞台が成立しております。

「一声」はシテの登場に大変多く使われる登場囃子ですが、ワキやツレの出にも演奏される、非常に表現の幅の広い囃子です。「次第」と比べると儀式的な印象が薄く、ノリが良い演奏であるため勢いがつけやすいのも特徴なのですが、反面 じっくりと重々しい役の登場にも似合う演奏も可能な、柔軟性に富んだ囃子です。

さて登場したシテの尉は右肩に担い桶を吊るした竹を担ぎ、桶が振れないよう左右の手で桶を持っています。やがてシテ柱に止まったシテは登場囃子と同じ名称の「一セイ」を謡い出します。

シテ「月もはや。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。

五・七・五・七・五の句形で謡われるのが「一セイ」の定型で、きらびやかで派手な節がつけられているのもひとつの特徴です。「次第」の登場囃子の場合も登場した役者は同名の「次第」と呼ばれる、やはり定型の謡を謡いますが、そのどちらもが、登場した人物のある種の決意とか感慨、任務などが込められた文言であるのは注意すべきで、『融』では寂び寂びとした河原院の夕景の風情への嘆息ではありましょうが、同時にこのところを河原院と呼ばず「塩釜の浦」と明言しているのが注目されます。シテ。。まだこのときはその正体はわかっていないのですが、彼の心は完全に都を離れて塩釜にあるのですね。

「一セイ」の中でシテは前後の田子(桶)から指を離して担い竹の前後に桶を吊るす形になります。ここがシテにとっては最初の難所で、できるだけ目立たないように田子をぶら下げたいのです。ところが、担い竹を担ぐ右手に一緒に持つ前の田子は胸の高さにありますし、左手に持つ後ろの田子は前ほどではないにしろ腰につけて持っているし。無造作に手を離してしまうと、田子は激しく揺れるか、悪い場合は床に打ち付けて大きな音を出してしまうのです。このあたりは師匠や先輩もいろいろと工夫をされるところで、『融』が初演の ぬえは折に触れ先輩に相談してコツを伺ったりしております。もっとも、肩の担い竹から下げる田子の高さが床よりもずっと高い位置に吊ってあれば、どんなに乱暴に田子を手放しても床に打ち付けることはないのですが、それでは桶を吊り下げて担いだ姿がよろしくないのです。シテの身長により床より少々高め、という程度に田子を吊るように紐を調整して、これを見苦しくないように、また決められた謡の中で手早く吊るのが大変なのですね。

「一セイ」の終わりに囃子が「打上」という区切りの手を打って、シテは「サシ」を謡い、ついで拍子に合った下歌・上歌を謡います。いずれも句数などは定まっていないものの定型の謡で、やや儀式的でもあり動きのない場面ではあります。このやや長い謡の中でシテの来歴や心情を説明することで、お客様にシテの性格を印象づける効果がありますが、『融』の場合は、実際には廃墟というべきほど荒れ果てているにもかかわらず変わらぬ風情の痕跡を何年も保ち続け、それを見ながら自分を歳をとった嘆息が延々と語られます。

「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定めなき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。げにや移せば塩釜の。月も都の最中かな。
「秋は半ば身は既に。老いかさなりてもろ白髪。
「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕べかな浦わの。秋の夕べかな。


老いに対する悲嘆と、それでも今宵が中秋。。名月が昇る日だということが示され、また往時の俤はないものの、海岸の秋の風情の描写が色濃く描かれて、いつの間にか都の中が舞台だということを忘れさせます。

。。もうひとつ、ぬえはこの詞章の中で「月」が多用されているのに注目しています。輝く中秋の名月は『融』の中でずっと底流するイメージですね。それは後からわかってくることですけれども。。じつはここで登場する月は、実際の月もありますけれども、「月並」「年月」は時間の経過を表しているのであって、現実の月ではありません。しかしシテの登場の場面から「月」の語を多用することで、『融』という曲やシテに月のイメージを結びつけて印象づける作用があるのではないかと思っています。

ところで、この上歌の最後でシテは田子を肩から下ろしてシテ柱の脇に置きます。毎度『融』では田子の扱いが厄介ですが、ここでは音を立ててしまうなどの恐れはないものの、演技として田子を下ろすのが難しいですね。役者の「素」が出ないように、かつ形よく田子を下に置くよう気をつけながら作業をすることになります。

陸奥への想い…『融』(その1)

2013-08-24 09:26:22 | 能楽
さて毎度 ぬえがシテを勤めさせて頂く祭に行っております上演曲についての考察ですが、今回もちょっとスタートが遅れてしまいましたが、例によって舞台の進行を見ながら進めてゆきたいと考えております。しばしのお付き合いを~

お囃子方の「お調べ」が済み、お囃子方と地謡が舞台に登場、所定の位置に着座すると、すぐにワキは幕を揚げて橋掛かりに登場します。幕が開くのを見て笛が吹き出します。「次第」と並ぶ、ワキの登場の代表的な演出で、「名宣リ」と呼ばれるこの登場の方法はワキの登場に限って用いられる決まりになっています。笛が吹き出すと大小鼓はすぐに床几に腰掛けますが、打ち出すことはなく、あくまでワキの歩みの彩りをするのは笛方の役目。「次第」や同じくワキの登場で用いられる「一声」など登場の囃子にはそれぞれの特徴がありますが、「名宣リ」はその中ではもっとも情緒的な印象を受けますね。

とはいえ「名宣リ」には「真行草」の違いがありまして、それぞれにお客様に与えるイメージは少し異なっています。『融』のワキはこの中ではもっとも一般的に用いられる「草ノ名宣リ」で、情緒的であると同時にフォーマルでない、ワキの私的な旅、という感じ。。肩肘を張らないリラックスした、いわば漂泊というイメージが感じられます。

ワキ「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。この度思ひ立ち都に上り候。

舞台シテ柱に至ったワキは笛の譜に合わせて足を止め、名宣リ。。すなわち自己紹介の言葉を述べます。東国から出た僧、という以外に名前も出身地の情報もないワキではありますが、能の中では割とよくある設定で、いわば登場するシテを目撃し、その相手となってシテの心情を引き出すのがワキの重要な役目である場合、氏名や来歴などが詳らかであることは脚本の上で必要ではなく、かえって詳細な情報はストーリーの進行を追う上で邪魔になるから、あえて省略してあるのでしょう。

「名宣リ」の終わりにワキは両手を胸の前で合わせる型。。「掻キ合セ」とも「立拝」とも呼んでいる型を行い、これを合図に大小鼓が打ち出して、ワキは「道行」を謡います。

「思ひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路を渡り山を越え。千里も同じ一足に。千里も同じ一足に。
「夕べを重ね朝毎の。夕べを重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く着きにけり。都に早く着きにけり。


紀行文である「道行」によってワキの旅行が示されます。舟に乗り山に登り、長い旅をしてきたことが窺われますが、都に到着するまでの経路は一切不明ですね。じつはワキの「道行」で、ここまで徹底して経路が描かれないのは例としては少ないのではないかと思います。どこかの土地に赴くワキの「道行」の言葉によってお客様もワキと一緒に旅をして、さまざまな景物を見る経験に同調することによって、お客さまを、これから事件が起こる土地に誘導する、という目的が「道行」にはこめられているからです。

『融』の道行に経路が描かれないのは、これもまた不要な情報と作者が考えていたからで、それはワキの目的地が都であったからなのでしょう。『融』の作者は世阿弥であることが確実視されていますが、ぬえはこの曲は世阿弥の作品の中では比較的早い時期に書かれたものではないかと考えています。それだから、かどうか確信はないのですが、作者は『融』を都での上演を念頭に書いたのかもしれません。都人のお客様を、都が舞台の物語への旅に誘う必要はありませんし、これは後に『融』の中で都の景物を愛でる場面をクローズアップする狙いがあるのかも。とくに『融』は都の中でも「河原院」というピンポイントの場所だけで繰り広げられる作品で、ここにワキが到着して、シテと問答をする中で都の景物がどんどん世界観を広げてゆく手法がとられています。このためにも、その場面に至るまでの間にはお客様に広い世界をできるだけ提示しないように気が配られているのかもしれません。

こうして具体的な事物が提示されない「道行」ですが、その代わりに情緒が盛り上がるように配慮がされています。「道行」には珍しく下歌・上歌の二段構成になっていることや、観世流の本では、これまたワキの謡には珍しく「下音ノ崩シ」が登場する節付けが施されています。

内容は具体的ではないながら、作者はこれほど「道行」には配慮をしていまして、おそらく後世の追加だと思いますが、この「道行」を生かす小書も用意されています。それが「思立之出」(おもいたちので)で、この小書の場合は笛は「名宣リ」を吹かず、幕を揚げたワキは いきなり「思ひ立つ。。」と下歌の部分を謡いながら登場します。いかにも漂泊の旅をする一介の無名の僧。素晴らしい小書だと思いますが、通常の『融』では行われず、もっぱら「酌之舞」とか「十三段之舞」とか、シテ方が小書をつけて上演する際に、このワキの小書も同時に上演されることが多いですね。

ワキ「急ぎ候程に。これははや都に着きて候。このあたりをば六条河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候。

道行の終わりでワキは斜めに数歩出てまた元の座に立ち戻り、これをもってワキの長い旅と、目的地への到着を表します。六条河原の院に到着したワキはここでしばらく休息を兼ねて景色を眺めることになり、脇座に行って着座します。

梅若研能会9月公演

2013-08-23 08:44:09 | 能楽の心と癒しプロジェクト
もう来月に迫っておりますが…来る9月19日、師家の月例会「梅若研能会9月公演」にて ぬえは能『融(とおる)』を勤めさせて頂きます。名月の下に颯爽と懐旧の舞を見せる貴公子。『融』は能の作品の中に美意識のひとつの頂点を示す能でしょう。

都を訪れた廻国の僧が六条河原院の旧跡で出会った老人は、みずからを汐汲み、と紹介します。不審を持った僧も、かつてこの場所が源融大臣が営んだ邸宅の跡であり、それは陸奥の塩釜の眺望をそのまま写した風流の庭園なのだと知らされて納得します。それならば、と塩釜の風物を尋ねる僧に老人はいちいちに答えます。やがて月ものぼり漢詩の世界をそこに重ね合わせる僧の風流に感じて、老人もこの場所から見える都の風景を教えます。二人の心が浮きやかに遊ぶとき、老人は汐汲みの作業を忘れていた、と思い直して汐を汲むと、そのまま汐曇りの中に姿を消します。登場した所の者に、さきほどの老人は融の霊であろうと暗示された僧は苔を枕に重ねての奇特を待つと、やがて融の霊が現れます。融は昔の遊舞を回想し、月を愛でて舞を見せますが、やがて暁の光に誘われて、月の都に帰るように姿を消すのでした。

一昨年より東北の被災地支援を続ける ぬえにとっては、まさに感慨深い能であります。そのうえ ぬえの師匠がこの曲がお好きで、その光り輝くような舞台も何度となく拝見しておりまして、少々荷が重い気もしますが少しでも師匠の舞台に近づけるよう努力を重ねて勤めたいと考えております。平日の昼間の公演ではありますが、どうぞお誘い合わせの上ご来場賜りますよう、お願い申し上げます~

梅若研能会 9月公演

【日時】 2013年9月19日(木・午後2時開演)
【会場】 観世能楽堂 <東京・渋谷>

    仕舞 三  輪   遠田 修
       駒 之 段   梅若泰志
       車  僧   青木健一

 能  源氏供養 (げんじくよう)
     前シテ(里女)/後シテ(紫式部) 古室知也
     ワ キ(安居院法印)舘田善博
     笛 八反田智子/小鼓 住駒充彦/大鼓 大倉三忠
     後見 梅若万佐晴ほか/地謡 加藤眞悟ほか

   ~~~休憩 15分~~~

 狂言 梟山伏 (ふくろうやまぶし)
     シテ(山 伏)  野村万蔵
     アド(兄)    野村太一郎
     アド(弟)    河野佑紀

 能   (とおる)
     前シテ(尉)/後シテ(融大臣) ぬ え
     ワキ(旅僧)御厨誠吾/間狂言(所ノ者)野村扇丞
     笛 藤田次郎/小鼓 幸正昭/大鼓 高野彰/太鼓 金春国和
     後見 梅若紀長ほか/地謡 中村裕ほか

                     (終演予定午後5時35分頃)


【入場料】 指定席6,500円 自由席5,000円 学生2,500円 学生団体1,800円
【お申込】 ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

例によってこちらのブログで作品研究。。というか、上演曲目の考察を行いたいと考えております。併せてよろしくお願い申し上げます~~m(__)m

決算報告書(07/29~08/02)

2013-08-22 08:57:18 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト

第15次被災地支援活動(2013年07月29日~08月02日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い) 268,992円
     前回活動繰越金(ギエ扱い) 32,500円
     銀行口座募金3件(ボラ扱い)   40,000円        収入計  341,492円
                           内訳:ボラ 308,992円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉
  〈活動費〉
    ◎交通費(御子柴聖子分)9,290円
     (ガソリン代            4,640円)
     (有料道路通行料          4,650円)
    ◎宿泊費    41,000円
     (2人×3泊           30,000円)
     (2人×1泊           11,000円)       支出計   50,290円

 【収支差引残額】                         残額    291,202円
                          内訳:ボラ 258,702円 ギエ 32,500円

※注※
・プロジェクトの活動にかかる資金は主に募金によって賄われている。プロジェクトの活動にご理解を頂き、ご支援を頂いた諸兄には、改めて深謝申し上げます。
・「ボラ」とはプロジェクトの活動費用に充てる事ができる資金。「ギエ」は募金者希望により被災地への直接的支援のために使途を限定する資金。ただし「ギエ」についてはすでに一定の役目を終えた段階と考え、現在はプロジェクトからとくに「ギエ」の呼びかけはせず、チャリティ公演等の際は使途を「ボラ」と明言して募金をつのっている。なお「ギエ」については、被災地で継続的に活動を続ける信頼すべき支援団体に寄付する予定である。
・今回の活動は本年3月の第13次活動と同じくJIN'S PROJECTとの共催である。それにより同団体のご厚意の仲介を頂き、企業「THE BODY SHOP」さまよりプロジェクトメンバー2人についてのみ、使途は交通費に限って補助金のご支援を頂いた。関係各位に深謝申し上げる。
・本決算報告書は活動資金を募金として提供頂いた方へのご報告であるため、「THE BODY SHOP」さまからのご支援にかかる費用は上掲しなかったが、内容は次の通りである。交通費 35,457円(内訳:高速道路通行料金 15,600円、ガソリン代 19,857円)
・プロジェクトの活動にかかる支出については節約を旨とし、おおよそ次のような基準を設けている。①高速道路の利用については体力や公演スケジュールも鑑みるが、深夜割引を利用するなど工夫する。②宿泊はボランティア団体や個人宅に泊めて頂くなど節約するが、継続して活動を続けるボランティア団体が減少し、また市民生活も通常の落ち着きを取り戻しつつあることから、現状では旅館等の宿泊施設を利用する機会が増えた。その場合の宿泊費の基準としては、素泊まりとし、おおよそ5,000円程度までに収める。③食費については旅行がなくても掛かる費用であること、酒食の区別がつきにくいため参加者の自費負担とする。
・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。
・近来銀行口座へ継続的に活動資金を募金してくださる方も複数あり、またボランティア団体JIN'S PROJECTさまのご厚意により、活動によっては同団体との共催の形を取ることによってスポンサー企業さまからの補助金を頂ける機会も増えてきた。しかしながら今後も息長い支援活動を続けてゆくために、今後も変わらぬご助力をお願い申し上げる次第である。


【振込先】三菱東京UFJ銀行 練馬光が丘支店(店番622)

普通預金 口座番号 0056264

名義 ノウガクプロジエクト ハツタタツヤ


                                           以上

  平成25年08月21日






                           「能楽の心と癒しプロジェクト」
                               代表   八田 達弥
                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com

↓領収証は次頁以下に添付


活動報告書(07/29~08/02)

2013-08-21 01:54:35 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒やしプロジェクト

第15次被災地支援活動(2013年07月29日~08月02日)


 〔活動報告書〕

【趣旨と活動の概要】

 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒やしプロジェクト」の4名(※注1)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、2011年6月よりすでに14度に渡り岩手県釜石市、宮城県石巻市、気仙沼市、南三陸町、女川町、東松島市、仙台市、大崎市、および福島県双葉町の住民が避難している旧埼玉県立騎西高校避難所にて能楽を上演することによって被災者を支援する活動を行って参りましたが、このたびメンバーの八田、寺井は、去る07月29日、および08月02日の5日間に渡り宮城県・石巻市内にて計5回、能楽および舞囃子の上演を行いました(※注2)。

今回の活動はNPO法人「JIN'S PROJECT」との共催となっており、石巻市で繰り広げられる最大のイベント「石巻川開きまつり」への参加を目標とし、さらに「文化の復興」の目標を実現するため石巻市内の名家にて「能とピアノの夕べ」公演を行いました。活動の実現に至るまでご尽力いただいた関係各位に深謝申し上げます。

石巻市の「川開きまつり」への出演は念願であり、早くから地元関係者を通じて能の出演の是非を打診して頂いていました。しかしながら意外や出演の受け入れはかなり困難を極めました。川開きまつりではコンサートやパレードなど賑やかな催しが多く、また多くの露店が設置されるため、能楽を上演する雰囲気域が保たれない、そもそも舞うスペースが用意できない、というのがお断りの理由でした。

このためプロジェクトとしては活動の機会を探し、「川開きまつり」とは別個に「能とピアノの夕べ」を催し、また川開きの当日はこれまでご挨拶をしていなかった石巻市内の寺社へ参詣致し、奉納上演をすることとしたほか、「川開きまつり」と同時に進行する「全国花火サミット」のレセプションへの出演の依頼を石巻商工会さまより頂戴し、これに出演することになりました。

このように今回はプロジェクトの活動としては比較的上演時間に余裕のある活動ではありました。しかし成果は大変大きなものだったといえます。「能とピアノの夕べ」公演は予想外に市民に大きな反響を呼んだようで、当初の想定を大きく上回る、80~100名のお客さまがお見えになり、寺社の奉納では今後、地元の郷土芸能との競演のお話も生まれ、また「花火サミット」では各地の自治体の関係者や市長さんの知己を得ることができました。

ことに「能とピアノの夕べ」公演は、当初は東松島市の某施設で「星と能楽の夕べ」を行う予定であったものが、会場施設が星空投影には適していないことが判明したために急遽会場と内容を変更して行った公演でした。すでに予定を空けて頂いていた天文解説の方はキャンセルとさせて頂きましたが、新たな会場(石巻市内の個人宅)には立派な日本庭園がある、とのことで、同じく予定を空けて頂いていたピアニストと能楽だけで上演することに致しました。これが夕食どきの上演にもかかわらず上記のように予想外の反響を呼んで大勢のお客様にご来場頂けたのは望外の幸でしたが、芳名帳にご記入頂いたお客様のご住所を見ると、普通のご家庭からお見えになったお客さまがほとんどだったようです。プロジェクトとしては仮設住宅への慰問公演も継続して行う予定ですが、一方、市民が普通に芸術文化を楽しめる「文化の復興」を目標のひとつに考えておりますが、この「能とピアノの夕べ」公演は、まさしくこの目標に合致する公演となったのではないかと思います。プロジェクトとしましては、今後 慰問公演と平行して「星と能楽の夕べ」や「能とピアノの夕べ」公演を積極的に被災各地で展開していこうと考えております。

また寺社への奉納公演は、「川開きまつり」とリンクして行いました。石巻市の「川開きまつり」は、石巻の開港の基礎を築いた川村孫兵衛への報恩祭として大正時代に始まった歴史のある祭礼です。今日では市民にとっては夏祭り・花火大会などのお楽しみ行事となっていますが、祭礼の役員さまは早朝より1日をかけて市内各地に点在する孫兵衛の顕彰碑や銅像、そして墓を巡回して、神職・僧侶による供養祭に参列します。プロジェクトはこの一部~以前にも奉納したことのある大島住吉神社さま、孫兵衛の墓を守る普誓寺さま~に同行して式典の前後に舞囃子を奉納させて頂きましたほか、震災後の最初の活動拠点であった湊小学校避難所との関係から、湊地区を守る零羊崎神社さまでも奉納上演をさせて頂くことができ、市長さまはじめ各地の関係者の方の知己を得ることができました。

「全国花火サミット」公演は、はじめて石巻商工会さまより頂いた出演依頼でした。「全国花火サミット」は花火大会を行っている自治体の商工会や観光協会など関係者が集って毎年持ち回りで開かれ、情報交換や親睦を深める活動を行っておられます。じつはこのサミットは偶然にも震災の年に石巻市で開催されることになっていて、これが中止となったため、今年は石巻市としても満を持しての開催でした。石巻に集った各自治体の関係者の方は会場近くの被災ビルの屋上で花火大会の実施を視察し、その後ホテルでレセプションが行われ、翌日に本会議が開かれる予定で、プロジェクトは初日の花火大会視察後の歓迎レセプションのアトラクションとしての上演でした。しかし上演後はすぐに会場を失礼する予定だったものが、ご来場のサミット関係者のお計らいによって会食にまでお招き頂き、石巻市長さんや諏訪市長さんはじめ、各地の関係者の方の知己を得、またそれらの土地での能楽ワークショップなどの話にまで発展しました。

このように、今回は全体としてみれば上演の回数はあまり多いとはいえませんでしたが、活動内容としてはプロジェクトとして新たな発展を予感させるものとなりました。関係各位のご尽力に深謝申し上げたいと思います。

※注1 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。ただし都合により今回は八田・寺井の2名での活動となった。
※注2 今回の上演場所は石巻市①秋田屋庭園②大島住吉神社③零羊崎神社④普誓寺⑤石巻観光物産情報センター(ロマン海遊21)⑥石巻グランドホテルの6箇所。

【活動記録】
 7月30日(火)
夕刻18:00より秋田屋庭園にて「能とピアノの夕べ」公演。御子柴聖子さんのピアノ演奏と能『高砂』を上演。80~100名のお客さまのご来場を頂き、当初は日本庭園を背景に座敷での上演の予定のところ、庭園を客席として座敷で上演することとなった。

 7月31日(水)
「石巻川開きまつり」初日。プロジェクトは下記の寺社で奉納上演。
8:30~ 大島住吉神社 舞囃子『融』
14:00~ 牧山・零羊崎神社 舞囃子『融』
16:00~ 普誓寺 舞囃子『融』

 8月1日(木)
「石巻川開きまつり」2日目
11:00~ 石巻観光物産情報センター(ロマン海遊21)にて能『羽衣』を上演。
21:00~ 石巻グランドホテル「鳳凰」の間にて「全国花火サミット」歓迎レセプションに参加。能『猩々』を上演。

【収入・支出】

  プロジェクトの活動は基本的に募金によって行われております。近来JIN'S PROJECTさまとの共催の形を取り、同団体の斡旋により企業より活動資金の一部を補助頂くことができ、今回も交通費のみご支援を頂くことができました。

  募金は基本的にプロジェクトのボランティア活動資金(以下「ボラ」)として使わせて頂きますが、とくに被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)はプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体に寄付させて頂きます。

  プロジェクトの活動資金としては、前回活動繰越金として301,492円(内訳:ボラ268,992円 ギエ32,500円)があるほか、前回第14次支援活動の決算のあと銀行口座へ計40,000円を頂戴致しました。よって計341,492円(内訳:ボラ 308,992円 ギエ32,500円)が今次活動の前に計上されております。

これに対して今回の活動による支出の内訳は別紙決算報告書にある通りで、今回の活動終了時の残額は 291,202円(内訳:ボラ258,702円 ギエ32,500円)となっております。これらは今回の活動繰越金として計上し次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。

  プロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費節約のため、できるだけ深夜割引の制度を利用して終夜運転をして早朝に現地に到着するなど工夫はしておりますが、体力や公演スケジュールによって、必ずしも深夜走行ができない場合もあります。宿泊につきましては、従来は住民ボランティアさま等のご厚意により無料、または安価での宿泊ができましたが、街が落ち着きを取り戻しつつある昨今では個人宅への宿泊は迷惑を考えて自粛し、またボランティア団体も減少している現状では旅館などに宿泊する機会も増えてきました。この場合にも宿泊費はおおよそ5,000円まで、素泊まりを旨としており、食費については酒食の区別がつきにくいため、すべて自己負担としております。

前述の通り今後は企業さまのご支援を頂ける可能性もありますが、今後も長期に渡って被災地での活動が継続できますよう、みなさま方には引き続きまして活動支援をお願い申し上げる次第です。

【成果と感想・今後の展望】
プロジェクトとして第15次となる今回の支援活動では、石巻川開きまつりを目標としての活動を計画して絵おりましたが、これが難しい状況となりました。次に『星と能楽の夕べ』公演の展開を考えましたが、こちらも会場設備の条件が整わず断念。大変紆余曲折を経ての活動となりました。

しかしながら秋田屋庭園という願ってもない好条件の会場を紹介頂き、『星と能楽の夕べ』公演から天文関係の要素を取り除いた、いわば簡略版の『能とピアノの夕べ』公演を行わせて頂く運びとなったのですが、これが思いもよらぬ効果を生み出し、大変ロマンチックな催しとすることができたのは望外の幸でありました。大勢のお客さまにもご参集頂き、まさにプロジェクトの目指す「文化の復興」というものの形が少しだけ見えてきたような気が致します。今後も仮設住宅への慰問や仮設商店街の振興のお手伝いなどは続けて参りますが、また一方、『星と能楽の夕べ』公演を本公演と捉え、その条件が整わない場合は『能とピアノの夕べ』公演をもってその代わりとするような「文化の復興プロジェクト」のようなものを展開してゆきたいという希望を持つことができました。

また今回は初めて石巻商工会よりご依頼を頂戴し、震災で塩基になった「全国花火サミット」のレセプションという晴れの場で活動させて頂くことができたのは名誉なことだったと考えております。わけても石巻市長さまほか石巻市および他府県の関係者さまと知己を得させて頂いたことは、今後の活動の展開に大きな可能性を見出したと思います。「花火サミット」では震災後はじめて当地に足を踏み入れた関係者もおられた事と思いますが、石巻市としてもこれら関係者が花火大会を視察する会場に被災ビルを用意するなど、震災の記憶の風化への対処を深く考えておられる様子も拝見しました。

現在被災各地ではいわゆる「震災遺構」が次々に取り壊され、被災当時の状況はわかりにくくなっております。八田は個人的にはこれら人的被害をもたらした「震災遺構」を残して後世に伝えることには違和感を覚えますが、また一方、これらがすべて撤去された後に起きる記憶の風化、それよりも人が集まらなくなることによる復興の停滞についての不安も危惧されております。さらには現地では国が主導する防潮堤の建設問題が大きな波紋を呼んでいて、この夏がこの問題のひとつの「山場」なのだそうです。

我々、能楽師有志はこれらの重大な、しかし政治的な問題の動向への影響については無力を痛感しておりますが、あくまで能楽の持つ力。。まさしく「能楽の心と癒やし」を個人の心に響かせることを目指して、もって「文化の復興」を構築するお手伝いを致し、そこから生まれる活力をもって素晴らしい街の再生に寄与したいと考えております。どうぞ今後とも変わらぬご支援、ご教示をお願い申し上げる次第です。


平成25年8月21日






                             「能楽の心と癒やしプロジェクト」

                               代表   八田 達弥

                             (住所)
                             (電話)
                             E-mail: QYJ13065@nifty.com

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その10)~旅の終わり

2013-08-14 07:21:18 | 能楽の心と癒しプロジェクト
女川町の表敬訪問を終えて、ようやく帰京の途に。その前にこちらの土地の神様にご挨拶してから帰ることにしました。

こちらは熊野神社。地域医療センターの高台の、さらに上の山に鎮座しています。よく整備されて篤く敬われていると感じましたが、この石段にメゲて社殿まで至るのは断念。。石段の下から遙拝させて頂きました。。



かわってこちらは白山神社。津波に流されて、やはり地域医療センターのすぐ後ろに移転した、と聞きましたが、まさか仮設の神社とは。。



前には古い狛犬がやはり移されてあって、もともとの社殿が立派だったことを彷彿とさせます。



参拝してから中を拝見すると、御神輿と、それから小さな社がありました。。これは境内にあった末社のものを代用して主神さまも一緒に祀っているのかもしれませんね。





野球場仮設に至る道の両側にうずたかく積まれていたガレキが撤去されたあとには、なんと立派な滝が姿を現していました!





帰途、今年の3月にようやく復旧が成った石巻線の「浦宿駅」を見ました。石巻線はまだ断続的にしか復旧していませんが、昨年の3月に石巻~渡波が復旧し、そして今年、万石浦の護岸工事が終わって渡波からこの浦宿駅までが復旧しました。浦宿~女川駅は線路が破損しているし、また女川駅は駅舎はじめ周辺がすべて破壊されてしまっているので、復旧の目途は立っておらず、代行バスが運行されています。浦宿駅からは県立女川高校までも歩ける距離なので、通学の足が復旧したのはよかった、と思ったのですが、女川高校は来年の春に閉校の予定なのだとか。。



ところで駅に停車している列車にはアニメの登場人物が描かれてありました。これはやはり今年の春から運行されている「マンガッタンライナー」というものだそうです。石巻の「石ノ森萬画館」のリニューアルオープンに合わせて震災復興と観光促進のために、JRと石巻市が共同で行っている事業なのだそうです。

やがて万石浦を過ぎて、せっかくなので渡波の状況を見に行きました。港湾の施設は地盤沈下している様子がまざまざと見て取れますが、堤防には釣り人の姿も。





それより驚いたのは、昨年見た渡波中学校と石巻市立女子商業高校の校舎が跡形もなく消えていたことでした。。津波の被害を受けて学校はともに移転、ぬえが見たときは校庭はガレキ置き場となっていましたが。。ガレキの撤去も終わったところで校舎も解体されていたのですね。





今回の活動では石巻の秋田屋さんでの魅力的な上演が実現したことや石巻の寺社で奉納上演させて頂いたことがとても印象的な活動になりました。川開き祭りの盛大な様子もうれしく思った ぬえ。女川ではミネさんら仲良しの住民さんに再会できたのも喜ばしいことでした。復旧も少しずつ進み、でも跡形もなくなった更地が増えていくことに なぜか寂しさも思い。。複雑な思いを持ちながら、今回もミッション・コンプリートさせて頂きました。関係各位に深く御礼申し上げます~~!

【この項 了】

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その9)~1枚の写真

2013-08-11 22:48:31 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ミネさんを野球場仮設までお届けして、次は「きぼうのかね商店街」へ英子さんに会いに。英子さんは直後に迫った女川での「高村光太郎祭」の開催に向けてご多忙のようでした。これはご夫君の遺志を継がれての活動です。ぬえたちも資料を見せて頂き、将来的には能も参加したいと夢をふくらませましたが。これじゃ少し時間が必要なようです。

ところで英子さんとは、ミネさんも同じですが、昨年の10月にお会いして以来の再会ですが、どちらもお元気なご様子でした。とくに英子さんは一枚の写真を見せてくださり、「私、また踊れるかもしれない、と思えてきました」とおっしゃいました。

これ、日舞をご趣味にされている英子さんが震災前に撮られた写真でして、後ろに立っておるのはお師匠さんとのこと。日舞に明るくない ぬえには残念ながら曲目などはわかりませんが、発表会の祭に撮影されたものなのでしょうか。英子さん、キレイに写ってますね~

じつはこれ、津波で流された写真が手元に戻ってきたものなのだそうです(!)。そういえば震災後に漂着したりヘドロの中から見つかったこういう「思い出の品」をキレイにして持ち主の許へ返す、というボランティア作業がずうっと続けられていました。殊に写真は思い出の品の中でも重要な物だ、ということで、泥だらけになった写真は傷つけないように注意しながら丁寧に洗浄して、同時に持ち主を特定する調査を進めて、そちらへお返しする、という、気の遠くなるような作業がずっと続けられていたのです。これは本当にたくさんの団体が行っていた作業だと思います。カメラ関係の企業、大学、もちろん多くの有志によるボランティア。。

ぬえがそういったボランティア作業の成果を見るのはこれが初めてでしたが、英子さんが踊りを再び始める気持ちがこの写真との再会によってであるならば、計り知れないほどの勇気を英子さんに与えたのだと思います。昨年6月にはじめて ぬえたちが女川で活動を行った際に、上演終了のあとに仮設住宅では毎度行う「ふれあいコーナー」で能装束の着付け体験などを住民さんにやって頂くのですが、このとき唐織を着てみたのが英子さんでした。そうしたら終演後、英子さんは ぬえたちのもとにやって来てお礼を述べられると、ポロポロと涙を流されたのでした。そのとき初めて ぬえは英子さんとおっしゃるこの方が日舞をかつて趣味にしておられ、それは相当の腕前であったようですが、震災で着物はすべて流されてしまい、そうしてご夫君も亡くされたことを知ったのでした。

このとき「震災以来はじめて着物を着ました」と言って涙をながされた英子さん。ぬえも「それでは次の活動で再び女川に来た時は、ぜひ踊りと能とのコラボをしましょう」と誘ってみたのですが、その時のお返事は「無理です。。」というものでした。英子さんは続けて「踊りは。。つらい思い出がよみがえってしまう」と。。

英子さんの店舗兼ご自宅は、あの、横倒しになった女川交番の、まさにお隣に建っていました。店舗の裏、海の前にはご夫君・貝廣さんが奔走して建てられた高村光太郎の巨大な文学碑がありました。いま、交番は倒壊したままの姿で保存の是非が問われ、文学碑も横倒しになったまま復興に向けた土木工事の埃を浴びるままに放置されています。そうしてご夫君は震災の犠牲となってしまいました。。これほどの、人生を覆されるような被害を受けて、昔日の楽しい思い出を甦らせるのは苦痛なのでありましょう。英子さんに「私、また踊れるかもしれない、と思えてきました」と言わせることが出来たのが、この写真再生のプロジェクトのおかげだとしたら、それは とてつもない功績でしょう。ぬえと同じボランティアさんではありますが、地道に作業を行ったことが これほど大きな成果を生んだことに、敬意を表してご報告させて頂きたいと思います。

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その8)~ミネおばあちゃんからご支援頂きました。。

2013-08-10 02:19:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
女川の料理屋さん兼鮮魚や海産物を売る「おかせい」は旧市街中心部。。いまはもうなくなってしまったマリンパルから南。。牡鹿半島の方面へにほんの少し行った、港に面した場所にありました。かつては津波の被害も相当に及んだ地域でしたが、そういえば1年ほど前にここから港を眺めたことがあって、その時にはすでに海産物を扱う倉庫のような施設には人の出入りがありました。このお店はほかのボランティアさんからの口コミで「海鮮丼が絶品」と聞いていたのですが、女川の住民さんにも知られたお店のようでした。



野球場仮設のミネおばあちゃんは ぬえたちがここの海鮮丼が目当てと知ると「特製」の方をお願いね! と、すぐさま店員さんに注文。。「今日は先生方にご馳走しますから!」って。。「特製」は2,500円もするんですけど。。

んんん。。と、緊張しながらなりゆきに身を任せる ぬえ。やがて運ばれてきた「特製」海鮮丼は、それはそれは豪華なお食事でした。。んんん。。活動中はいつも昼食はコンビニ弁当なんですけど。。



「私はこんなに食べられない」と言って、「並」の海鮮丼に盛られたお刺身を、ぬえたちの「特製」のうえにさらに盛るミネおばあちゃん。んんん。。おいしゅうございました。。

ここではミネおばあちゃんから震災のお話しを詳しく伺うことができました。ミネおばあちゃんは いろんな経緯があって、女川町に住んだのは最近のことだそうで、当地で暮らし始めてようやく7年目というときに震災に遭ったのだそうです。震災のときミネおばあちゃんは仙台にいて、情報もないままそこから女川に帰るのに苦労されたそう。。バスなどを利用して、それでも通行止めに遮られて。。途中で石巻の南浜が全滅、などの悲劇的な情報が断片的に伝わってきて、石巻にも長く住んでいたことのあるミネおばあちゃんは、それを聞いて泣き出してしまったのだそう。。苦労して女川に帰ってみると、ある程度高台にあった おうちは被害を免れていました。海からの被害はなかったミネおばあちゃん一家ですが、ところが4月の余震で、反対に土砂崩れが起きてしまって。これでミネさんのおうちは半壊状態になってしまったのだそう。

津波は来なかったんだけど、ぬか喜びでしたね~、なんて笑って話すミネおばあちゃんでしたが、避難所でしばらく暮らしていましたが、やはり落ち着かず、かろうじて倒壊は免れたご自宅の2階に戻りました。同居していたお二人の息子さんも、それぞれのご家族とともに少しでも住みやすい環境を求めて職場などに移り、ミネおばあちゃんは「柱もぐらぐらする」危うい環境の中、たった一人でご自宅でしばらく暮らしていたそうです。。

やがて野球場仮設の倍率の高い抽選に当たり、息子さんの一人とそのご家族。。お嫁さんと幼い二人のお孫さんとの5人でこちらに住むようになり、こうして ぬえたちの活動と出会ったのですね。なんだか「巡り合わせ」というものを感じます。

さてお食事も済んで、ミネおばあちゃんはお勘定をおひとりで引き受けてお支払いになって。。ぬえたちのお支払いは断固拒否されました。それどころか。。さきほど仮設のお部屋でも ぬえたちは自身の活動について「頂いた募金で活動しているので倹約しながらで大変なんですよ~」と説明したのが気になったのか、このお店でなんと。。「これ、使ってくださいね~」と、


「おみやげ代」。。と書かれた封筒を差し出して。。




いやいやいやいや。それは違う、間違ってる。


でもミネさんは必殺のひと言を。


「こんなところで遠慮する先生じゃないでしょ?」


ああ。。いつも無遠慮の ぬえの態度はいつの間にか見透かされてる。。


うう。。


活動資金としてありがたく頂戴しました。。


しかし。。


ボランティアが仮設の住民さんから支援頂いてどうする。 (T.T)


第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その7)~女川町でミネさんと再会

2013-08-08 09:41:27 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて工事中で道路が変わったため少々混乱しながら野球場仮設へ。仮設住宅が建つ総合運動公園の方ヘ海から内陸に向かって進んでいくと、途中にあったガレキ置き場はすっかりキレイに片づいていました。



こちら、昨年10月の同じ場所。



やがて野球場仮設に到着。奥に見える巨大な「総合体育館」の手前、目につく白いテントは坂本龍一さんが寄贈した、その名も「坂本龍一マルシェ」です。ぬえもここで上演させて頂いたこともありますし、住民さんのためにバザーが開かれていたり、常は子どもたちの遊び場になっていたりと、住民さんに身近な存在になっています。



野球場仮設は、仮設住宅の中でもオシャレだということで、建設当時ずいぶん話題に上りました。2階建て、3階建ての仮設というのも珍しいですが、じつはこれはコンテナを積み上げて建てたものなのだそうです。



坂本龍一マルシェに行ってみると、七夕の飾りが美しく飾られています。野球場仮設に専属で住民さんのお世話をしている、伊藤恵悟さんがいらっしゃいました。



伊藤さんはボランティア出身で、そのまま女川町に住みついて、いまは社協の一員として町の仕事を続けています。同じようにボランティア出身で、今でも女川町で仕事を続けている方を他にも知っていますが、ボランティア時代は半年をテントで暮らし、住民さんと結婚して、その奥さんのご自宅も流されてしまったため、いまは仮設で暮らしておられるという。。頭の下がる熱意です。女川町に限らずこのようにボランティア出身で地元に定着された方も多数おられますが、これはうまくいった例だと思います。一方では住民さんとトラブルになってしまったり、今となっては「被災地のお荷物」と陰口を言われたりするボランティアさんも何人もおられましたから。。

早速ミネさんのお宅に行って、戸外から呼んでみました。ミネさん、最近ちょっと体調を崩しておられたそうで、やはりおうちの中におられました。

じつは滞在中にミネさんとはお会いするつもりで、割とスケジュールが空いていた今回の活動では、ミネさんをお誘いして牡鹿半島の先端にある御番所公園へのドライブも事前にお誘いしてあったのですが、このとき最近体調を崩されていたことを聞いて、あまり遠出はできないと伺い、ドライブを断念した経緯があります。これで女川を訪れる理由がなくなってしまったし、また何だかんだと石巻でもやることがあったので、石巻滞在中に女川まで足を運ぶこともできませんでした。この日 ぬえたちは帰京する予定でしたが、やはり東京から数百km離れた女川町には次にいつ訪れることができるかもわからず、それで社協さんに今後の女川町での活動のやり方について相談することを兼ねて、ミネさんの顔だけでも見に行こうかと。

結果的に社協さんでもかなり親切に相談に乗って頂いて、今後の活動の可能性も広がりましたし、ミネさんともこうしてお会いすることが出来て、やっぱり女川町に来てよかった。

ミネさんは ぬえたちをおうちの中に招き入れてくださり、この日初めて仮設のおうちにお邪魔させて頂きました。ここで撮影した画像の公開は控えますが、アコーディオン・ドアや引き戸で仕切られた小さな部屋が3つ、それにキッチンや居間、お風呂にトイレがつく。。聞こえは良いですが、やはり狭さは否めないおうちでした。これでも息子さんとお嫁さん、それに幼いお孫さんと5人の世帯で、仮設の中では最も広い間取りです。以前英子さんのおうちにもお邪魔させて頂きましたが、こちらはお一人住まいなのでワンルームの間取りでした。

体調を崩されたそうですが、ミネさんはいたってお元気で、お変わりもないように見えました。アイスコーヒーをご馳走になったり、世間話に花を咲かせて、そのうち外に出て昼食を一緒に食べよう、という話になって、ボランティア仲間から「おいしい」と評判を聞いていたお店「おかせい」に行くことになりました。

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その6)~女川町を訪問

2013-08-08 02:10:55 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月2日(金)】

翌朝、ホテルでは朝食代わりに おにぎりを用意してくださいまして、ちょっと疲れもたまっていたので朝10時にチェックアウト。前日ちょっと顔を出した立町ふれあい商店街にご挨拶し、また石巻駅前の観光協会さんにもご挨拶して、これにて帰京。。と行くところですが、ぬえには どうしても気になる場所が。。

それは女川町の野球場仮設にお住まいのミネおばあちゃん。

今から1年前、昨年の6月にはじめてこちらの仮設で能の上演をさせて頂いてから、思わずもミネさんから感謝のお手紙が ぬえの許に届きまして、それから交流が始まりました。またもう一人 英子さんという、やはり野球場仮設にお住まいの住民さんのご協力も頂き、この後プロジェクトとしても女川町で上演させて頂くようになり、また ぬえは家族でも活動させて頂いたこともあります。活動の場も「コンテナ村」「きぼうのかね商店街」と仮設商店街にも広がっていきました。

女川町に行くたびにミネさんに会いに行きます。息子さんとお嫁さん、そしてまだ幼いお孫さんと一緒に仮設にお住まいのミネおばあちゃん。そうだ、女川町で活動がない場合でも、石巻で時間が余ったときは おばあちゃんに会いに行ったこともあったっけ。

そんなわけで今回も帰京の前に女川町に立ち寄って ミネおばあちゃんに会いに行くことにしました。東京都は反対方面ですけどね。

。。とはいえ、ぬえたちも次の公演に向けて準備を進める作業も怠ってはいませんで、この時も女川町には事前に上演のアイデアをお伝えして、それにふさわしい会場を探して頂いていました。そこでこの日も、まず石巻から電話をして、女川町の社会福祉協議会の担当の方にお会いして頂く約束を取り付け、まずはそこに向かうことに。

女川の社協は、万石浦のそばから女川地域医療センター(旧・町立病院)のお隣に引っ越しされたとのこと。ここにお邪魔して、担当の方としばし上演についての相談をさせて頂く。。つもりでしたが、いや、これが大盛り上がりになりまして、かなり長時間。。30~40分もお話し。。というか談笑させて頂き、お祭りなど町の行事への参加まで話題にのぼりました。ぬえも次回の活動について、女川町での実現に確信を持つことができました。今年の秋頃に実施にこぎ着けるのを、とりあえずの目標にしようと考えています。

社協をおいとまして、高台にある医療センターの駐車場から女川町の旧中心部を見下ろしてみると。。



横転した江島共済会館ビルはそのままでしたが、それまで更地だった沿岸の地域は大掛かりな工事が行われていました。コンクリートブロックも並べてあったので、まさかマリンパル女川の再建が始まったのか? と思いましたが、実際には地盤沈下した土地のかさ上げ工事のようです。

高台から下りて近づいてみると。。江島共済会館ビルのそばに祭壇がありました。これは七十七銀行女川支店の犠牲者に捧げられたもの。同支店では大地震の直後に支店長の指示によって行員が高台ではなく2階建ての支店ビル屋上に避難することになり、指示に従った13名の行員・スタッフのうち津波によって4名が死亡、支店長を含む8名が行方不明という大惨事となってしまい、この避難の経緯の是非をめぐって遺族が銀行を相手取って裁判が行われています。。





江島共済会館ビルとともに現在も横倒しのまま残されている女川サプリメントの建物。いつの間にか被害の状況を記した説明板が立てられていました。



これを読むと、建物の中にいまだに車が残されている、とのこと。。知りませんでした。よく中を見てみると。。なるほど。。わかりますか? 建物と一緒に横倒しになったピンク色の小型乗用車が部屋いっぱいになって残されていました。。





この2つの建物と、女川交番の3つが、女川町では「震災遺構」として保存するかどうかの議論が続いています。気仙沼の第十八共徳丸、志津川の防災庁舎ビル、石巻の門脇小学校。。どれも保存の是非が議論され、結論が出たところもあり、まだまだ決着に至らないものもあり。。ぬえはこの女川町で、高台から江島共済会館ビルを見下ろした時、これは残すべきではない、と思い、その気持ちはいまも変わらないのですが、一方 震災の被害が風化してゆく現状や、すべての「遺構」がなくなったら、人がやって来なくなり、それは地域の再生への活力を失うことになる、という意見もあって、現実にそうなってしまった場所も見てしまった ぬえは心が揺れています。

こちらは残されている3つめの建物、女川交番。



このあたり、道路も大規模な工事が進行中で、現在はこの交番の周囲は立ち入り禁止となって近づけない状態になっていました。前述の英子さんは、この交番の まさにお隣で釣具店を経営されていた方。よくまあご無事だったと思いますが、高名なご主人は震災の犠牲となってしまわれました。英子さんの釣具店はいま、仮設商店街の中で営業を再開し、また英子さんもご主人の遺志を継いで活動されたり、ご主人の業績をまとめる作業で忙しくしておられます。それからこの流された交番も、現在は仮設商店街の中に「仮設の交番」として再開しています。

伊豆の国市子ども創作能「ぬえ」初演

2013-08-05 23:11:53 | 能楽
東北支援から深夜に帰って。。3時間ほど眠ってまたすぐ伊豆に出かけました~。

ぬえがもう15年も指導を続けている伊豆の国市「子ども創作能」。今年第4作目となる新作『ぬえ』の初演の舞台が予定されていたのです。ちょっと厳しいスケジュールでしたが、これしか時間が取れず。。

早朝の出発にもかかわらず土曜日の東名高速はやっぱりの渋滞で、伊豆まで5時間掛けて到着。この日は最終稽古をしましたが、初演としてはまずまずの出来ではないかと思います。子ども能は翌日の「伊豆長岡温泉戦国花火大会」のイベントに出演する予定になっていますが、この日も「韮山狩野川まつり」と題して花火大会が行われましたので、稽古が終わってから花火見物に。小野新市長さんや、今回は ぬえは石巻に行っていて見れなかった「きにゃんね大仁夏まつり」の花火大会の関係者と親しくお話しさせて頂きました。

翌日の8月4日、どうもあまりかんばしくない予報が出されていた天気も安定していてひと安心。ぬえは宿を出てすぐに控室となっている南條区の区民ホールへ。子どもたちの集合は午後3時すぎだったので、暇な時間を利用して上演に使う道具や装束を再点検したり仕掛けを施したり。昼前には連日野外で花火大会の準備と片づけに立ち働いている観光協会や実行委員会のみなさんにアイスクリームを差し入れ。これも毎年の恒例となってきましたね~。

午後3時頃、子どもたちも集まり始め、また笛のTさんも控室に到着。子ども能は予算が少ないので、囃子方をお招きできるのはほんの1~2回程度で、あと数回におよぶ上演では ぬえが張り扇で拍子盤を打つ、いわゆるアシライで囃子を表現する、稽古の延長のような公演になってしまいます。こんな状態なのを見るに見かねて (^_^;)、東北でも一緒に活動しているTさんが友情出演してくださっています。



さて今回上演の『ぬえ』は、子ども能としては4作目になる新作で、今回がその初演。。というか囃子方をお招きする本格的な公演ではないので、試演、と言った方が正しいかもしれませんが、もう4作目ということで前作『伊豆の頼朝』よりもさらにパワーアップ。小学生が早笛も舞働もこなす、本格的な切能として作ってみました。小学生が笛の唱歌を覚えて舞働を舞うのですよ~! 前作『伊豆の頼朝』でも小学生が中之舞に舞わせしたが、これも連綿と15年も上演を続けているからこそ要求できることです。やはり小学生ばかりの地謡は ちゃあんと拍子謡を習得して、プロの囃子方の演奏に合わせて間を外さずに謡えるし、ほとんど能楽師が普通に上演しいるのと同じくらいのレベルでの上演をしています。

さて舞台経過をご紹介しますと。。まず舞台には近衛帝の臣下の大臣(ゆっきー)が登場、主上が夜な夜なご悩があり、公卿は寄り集まって詮議を行い、東三條の森の方より黒雲が御殿を覆うときに主上が怯えることから、化生の者の仕業であろうということで武士に警護させることになり、源頼政に黒雲の中の化生の者を射させる宣旨を伝える。



家臣の猪早太(イチイ)を従えて登場した頼政(リサ)は、目に見えない化生の者を射ることに不安を感じるが、弓矢の誉れとなるべきと思い直し、畏まって宣旨を承る。



さて南殿に伺候した頼政と早太はご悩の時刻を待つ。卯月中旬の弓張り月が冴える中、かつて堀川院ご悩のときに同じく勅により南殿の庭にて大音を上げて化生の者を退けた八幡太郎義家の故事に倣い衣冠をひき繕い、弓の弦を打ち鳴らす。



やがて丑の頃に案の定黒雲が湧き上がって御殿を覆う。頼政が黒雲の内を窺うと怪しい者の姿がある。にわかに雷鳴が轟き渡る中、頼政は八幡神に祈誓して三度礼拝し、心を鎮めて矢を番えると黒雲の真ん中をあやまたず射抜く。



するとたちまちに大地も震動し、頭は猿、足手は虎、尾は蛇の奇怪な鵺がとりどりに現れて頼政を取り囲む。



やがて化生の本体の鵺が現れ、威勢を示す。





鵺は主上を取らんと飛び掛かるが、頼政は騒がず鵺を押し隔て太刀を抜いて切りつける。



鵺は劔の光を恐れて黒雲に乗って逃げようとするが、頼政は逃がさじと鵺を切り伏せ、猪早太も加勢して鵺に九刀まで刺し通し、ついに鵺を従えたのだった。





典拠としてはおおむね『平家』と『盛衰記』に拠りましたが、なんせ小学生の上演なので大勢が身体を動かせるよう、鵺のほかに「小ぬえ」を数人登場させたり(これ、伊豆の国で1月に行われる「鵺ばらい祭」で中学生によって上演される「鵺踊り」に「小ぬえ」がたくさん登場するのに倣いました)、また頼政が太刀を抜いて鵺と戦ったり、と、一部内容を創作しました。



じつは伊豆の国市には、この鵺退治のご褒美として頼政に下されたという「菖蒲御前」が、当地の古奈地区の出身という説があって(頼政やその子仲綱が伊豆守だったことから生まれた伝説かも)、温泉地らしく芸妓衆による盛大なお祭り「あやめ祭り」も毎夏に開かれています。ぬえは新作を作るとき、どうしても初演時は原典にできるだけ忠実に作りたい気持ちがありますが、毎年少しずつ台本を改訂していて、その度に本説からズレてゆくという。。(^◇^;) 本作『ぬえ』にも、いずれ あやめ御前を登場させて舞を舞わせるようになるかも。

終演後、ミーティングをして解散。観光協会のご厚意を受けて子どもたちには花火大会の特等席をご用意頂きまして、みんなで花火を鑑賞しました~。

















第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その5)~花火サミット・レセプションにて上演

2013-08-04 15:54:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
石巻グランドホテルに到着。立町通りは川開き祭りのため車両通行止めになっていたので、手作業で装束を運んでの楽屋入りです。今夜だけグランドホテルに近い宿にしておいてよかった~。

この夜の出演は「全国花火サミット」のレセプションでの上演でした。「花火サミット」というのは全国各地の花火大会を催行する自治体の関係者が集って情報交換や交流をはかるもの。現在のところ11団体が加盟しているそうですが、実際には全国では数千という数で花火大会が行われているそうなので、団体の規模としてはそれほど大きいわけでもないようですが。

ともあれ、問題はこの「花火サミット」の集まりは加盟団体のそれぞれの花火大会にあわせて持ち回りで開かれるそうで、なんと震災の年が石巻で行われるはずだったのだそうです。それでも実施に向けて関係者は努力を重ねたそうですが、やはり無理だったようで、中止になりました。それはそうでしょう、ぬえが石巻で見ていても、このグランドホテルも津波による浸水で被害を受けて、ずっと休業中でしたから。たしか営業を再開したのは夏の終わりか秋のことだったのではないかと思います。じつはこのグランドホテル、震災の2年ほど前に学校公演で ぬえの師家一行が石巻に滞在した際に宿泊したホテルでした。それ以来、ロビーで人と会ったりしたことはありましたが、施設を利用するのは ぬえにとっても震災後はじめてでしたので、ちょっと感慨がありました。

さて、そういうわけで、今年石巻ではまさに「満を持して」、「花火サミット」が開かれるのでした。そこで石巻商工会よりオファーを頂きまして、サミット加盟団体の歓迎レセプションでの能の上演をさせて頂くことになりました。グランドホテルの控室に開演2時間前に入りまして装束の準備をしていると、やがて花火が打ち上がる音だけが聞こえてきます。残念ながらホテルからは花火は見えない(あらかじめそう言われてはいました…)のですが、たまに1階の正面玄関に行って建物の向こうに見える花火を見ました。

花火が終了する頃を見計らって装束を着け、サミットのために集まったみなさんがホテルに戻ったところでレセプションの開始となります。加盟団体のみなさんは花火はどこで見るのかというと、中央の被災ビルの屋上なのだそうです。この日のために電源を引き込み照明を用意し。。それでも被災の実態を見て頂くことで新たな支援にもつながるのだから必要なことですね。ちなみに石巻中心部から花火を見るには、北上川の対岸に渡った湊からの方が断然有利です。北上川に架かる橋は、中心部からすぐの内海橋が、打ち上げ会場の中瀬を通るため通行止めになっており、打ち上げの時間が迫ると対岸に渡るためにはずっと遠回りをした石巻大橋か日和大橋を渡るしかないため、湊地区には人が少ないこと、そして湊地区は被害が大きかったため、震災から2年を経て、被災家屋は多くが撤去されて視界を遮るものが少ないこともその理由ですが。。

やがてレセプションが開会となり、市長さんらの挨拶のあと、ぬえらは能『猩々』を勤めました。グランドホテルの大きな会場での上演は、被災地での活動の中でも最も条件の良かった上演ですね。ステージも用意されていましたが、ぬえは途中からステージを降りて会場を広く使って勤めさせて頂きました。

それにしても商工会の佐藤さんはこの日大活躍。花火大会でも打ち上げの指揮にあたり、レセプションでも司会を務められ。いや、その司会が上手でしたね~。ぬえが書いたプロジェクトの紹介や上演曲のあらすじなどもパッと端折って、聞きやすい長さにまとめます。『猩々』のあらすじが「ええと。。昔の中国の揚子江の。。お話です。ではどうぞ!」まで端折られたのは驚きましたが(^◇^;) …いやいや、ほかは ぬえらのプロフィールもひと言に瞬間的な判断でまとめたのはすごい手腕と言わざるを得ません。

あ、ところでこのレセプション、会場に仮面ライダー(1号)がいました~。石ノ森萬画館があって、漫画の街をキャッチコピーにしている石巻だからレセプションにも参加していたのでしょうが。。ところが仮面ライダーが登場したところと能の上演時間が重なってしまったようで。。ぬえたちが登場したら、仮面ライダーさんはテーブルを廻るのをやmて。。席にちょこんとついて能をご覧になっておられました~w

やがて上演も終わり、さて宿に帰ろうとしたのですが、花火サミットの団体さん方から ぜひ会食に同席してもらいたい、というお話が来まして、お邪魔させて頂くことになりました。市長さんともお話させて頂き、また各地の花火大会実行委員会の方々ともにぎやかに懇談させて頂き。結構濃い時間でありました。(;^_^A )

やがて散会となり宿に帰り、すぐそのまま ぬえは眠ってしまったようです。翌朝で二次会のお誘いがあったとようやく聞いて、しまった~~! (^◇^;)

第15次支援活動<石巻川開き祭り>(その4)~観光協会での『羽衣』と、金華山の蛇踊り!

2013-08-03 00:01:10 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【8月1日(木)】

石巻川開き祭り2日目。我々としてもこの日が活動の最終日ですが、昼のほか夜の上演もあるためもう1泊することにしていました。その最後の宿泊だけはこれまでの3日間とは別のビジネスホテルに投宿することになっていたので、荷物をまとめて3日間お世話になった宿をチェックアウトしてそのまま石巻駅前の観光協会に移動。

結局川開き祭りでは活動場所もなく、また街中が賑やかすぎてイベントとしては能の出番はなかったわけですが、この日はすでに朝から駅前にも多くの人が歩いていて、この日も場所を探して上演することにしました。で、例によって観光協会さんがある建物「ロマン海遊21」で能『羽衣』を上演することになりました。

ロマン海遊の控室には巨大な龍が置かれています!



じつはこの日歩行者天国となっている立町の大通りではパレードなどのほか、金華山にある黄金山神社に伝わる「蛇踊り」が演じられることになっていて、ぬえはこれを見るのが川開き祭りの大きな楽しみでした。「蛇踊り」は幟りやチラシなどに「龍(蛇)踊り」と書かれてあって、ちょっと不審でしたが、やがて奉納の関係者も集まってこられたので伺ってみると、「ん~、実際には龍なのですけれども、私たちも普通に蛇踊り、と呼んでいますね」というお話でした。「蛇踊り」の方が声に出して呼びやすいんですかね。

「蛇踊り」といえば もちろん長崎のものが有名ですが、なぜ遠く離れた宮城県に「蛇踊り」があるんだろう。…調べてみたら、どうやら金華山のものは意外に歴史は新しく、やはり長崎から持ち込まれたものであるようです。

長崎の人が見た金華山の蛇踊りの感想→金華山の蛇(じゃ)踊り

ところでこの日は朝から寒かったです。去年、一昨年と東北でも夏は暑くて、今回も心配しながら当地にやってきたわけなのですが、天気もずっと曇り空、夜には肌寒いほど気温が低いのです。もっとも暑いよりは楽だから助かるし、震災の年の夏は暑さに加えてハエが大量発生していましたので、それがなくなっただけでもありがたいと思わねば。で、この日も曇り空のため、朝に予定されていた自衛隊のブルーインパルスのデモ飛行は中止になってしまいました。これも楽しみにしていたのに~。

ブルーインパルスはアクロバット飛行で有名ですが、ここ石巻の隣町である東松島市の航空自衛隊松島基地を拠点としています。自衛隊の基地は震災で津波の被害を受けたのですが、ブルーインパルスの機体は1機が水没したほかは6機がたまたまイベント出演のため福岡県の基地に移動しており、2機は定期修理で松島基地を離れていて難を逃れたのだそうです。松島基地の修繕が終わって今年の春にようやく宮城県に戻ってきたブルーインパルスにとって、この日の石巻川開き祭りは晴れ舞台のはずでした。

「ロマン海遊21」で能『羽衣』を上演。この場所でこの曲の上演は震災の年の9月にやったことがありますが、今回はこの日の昼間に時間が空いていたので、こちらに到着してから急遽決めた上演だったので、装束も持ち合わせのものを使うほかなく、曲目が重複しました。。といってもこの場所では2年ぶりの『羽衣』でしたけれども。それでも駅前は普段とは違って大勢の人でごった返していて、多くの方にご覧頂けました。



上演を終えて控室に戻ってみると、「蛇踊り」のみなさんはすでに会場に移動したあと。急いで片づけをして ぬえは「蛇踊り」が上演される立町の道路に行ってみました。歩行者天国となった大通りは浴衣を着た若い人たちであふれていました。人混みをかきわけかきわけ、北上川のそばの交差点まで行くと、ををっ、「蛇踊り」はすでに始まっていました。



さきほどのリンクの長崎の人には物足りなかった金華山の蛇踊りですが、ぬえは大いに楽しみました! 面白いね~~。金色の宝玉をほしがる龍が、それを追い回す、という内容なのですが、神社に奉納される芸能ですので会場には注連縄をめぐらせた神社の金幣が祀られ、演じる人々はそれに拝礼をしてから「蛇踊り」が始まります。龍も御神酒を飲んで酔って寝てしまったり、再び起きあがって玉を探し、見つけると網ダッシュで玉を追いかけ。。面白いな~

やがて「蛇踊り」が終わると ぬえは露店で昼食を摂ったり、また中心市街でイベントを行っていた渡波のボランティア団体にチーム神戸の金田さんの仲介によって顔合わせをしたり。やがて観光協会から荷物を引き上げて、今夜投宿するホテルにチェックインしました。観光協会からはほど近いホテルでしたが、川開き祭りの間は車両の通行ができないので、荷物はすべて観光協会さんから拝借した台車を使って運びました~

その後も夜の出演まで時間が空き、今回は露店が置かれたため場所がなく能の上演ができなかった「立町ふれあい商店街」に遊びに行ったり、夜の上演の際に司会の方に読み上げて頂く曲目の紹介やプロジェクトの紹介の原稿を作ったり。やがて夕方7時に今回の最後の上演会場となる石巻グランドホテルに楽屋入りしました。