ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『隅田川』について(その16)

2007-05-31 23:18:30 | 能楽
ところで、ワキは「語リ」の終わりで「この船中にも。少々都の人もござ侯ごさめれ。あはれ大念仏を御申しあつて御弔ひあれかし」と言いますが、この場面で、ワキの流儀によりワキツレの設定が違う事が意味を持ってきます。前述のようにワキ福王流ではワキツレの旅人は「都人」であり、宝生流では「東国の人」です。だから、「この船中にも少々都の人も」とワキが言うとき、福王流ではワキツレとシテの両方を想定していて、宝生流では(少なくとも観客から見える乗客としては)シテの狂女ただ一人なのです。つまり福王流では船中にいる乗客の中の不特定の乗客何人かに声を掛けたのであり、宝生流では、シテ一人だけに声を掛けたのではないにしても、観客から見た印象としてはおのずとシテ一人にスポットが当たる事になります。細かいことかも知れないけれど、こういうところにお流儀の主張の違いがあって面白いと思います。

なお、今回の『隅田川』のおワキからいろいろとご教示を頂きました。この曲では様々な習いがあって、たとえばワキツレに対しては「舟に召され候へ」などと敬語を使うのに、シテにはぶっきらぼうな態度で勤めるのだそうです。ワキツレに応対するときも、まずワキツレの方に向き直ってから立ち上がって問答をするのに、シテに問いかけられると、まず立ち上がって、それからシテへ向き直り問答になったりするのだそうで、言うなればシテの問いに対しては「なんだこの狂女が。面倒くさい」とでも言わんばかりの風情です。また、ぬえが感じた印象では、前述のようにワキの「語リ」に聞き入って涙を流すシテの姿を見て「あら優しや」と言うあたりでは、まだワキはシテの「理解者」とは言えないようです。その後の「とうとう上がり候ヘ」は、まだ強い調子で謡うからです。彼が本当にシテの理解者となるのは、シテがこの地で死んだ幼子の母だという事実が明らかになってからで、つまり理解者となると同時にシテに同情する協力者ともなるようです。

さてシテは下船するようワキに言われても動こうとせず、「なう舟人。今の物語は何時の事にて候ぞ」と「語リ」の内容を確かめる問いをワキに発します。総じて『隅田川』ではシテは数回以上もワキに対して「なう」と呼びかけを発する珍しい曲なのですが、この「なう」だけは大変に重要です。ぬえの師家ではことに低く謡うのですが、自分の心の中では、ワキの「語リ」に登場し、そしてこの地で死んだ幼子が我が子である事はすでに明白なのです。しかし、それを信じたくないシテは、間違いであって欲しい、と思いながら、それでも絶望の淵に立った気持ちで問いを発するのです。

「さてその稚児の歳は」「主の名は」と次々に聞くうちに、やはり死んだのは我が子に間違いない事が明白になります。シテの謡も次第に高調して、激しくなっていきます。「父の名字は」「さてその後は親とても訪ねず」「まして母とても訪ねぬよなう」と、自分が我が子の死に間に合わなかった事を後悔するように激情をもって叫ぶ母。。そして「なう親類とても親とても、訪ねぬこそ理なれ。その幼き者こそ、この物狂ひが尋ぬる子にては候へとよ。なうこれは夢かや、あら浅ましや候」と母は笠をガックリと前へ落としてシオリをします。

ちなみにこの句の中で「この物狂いが尋ぬる子にては候へとよ」の一句だけはひと息で謡いたいところです。この句で息継ぎをすると気が抜けてしまう。。でもなかなか苦しいところなので、うまく一息で謡えない場合も多いのですが。

ワキはこれを聞いて驚き、シテに同情して幼子の墓へ案内をします。シテを立たせ、シテは力無く立ち上がって常座の方へ向かい、やがて塚の作物に向きます。能の冒頭から舞台に出されていながら、この場面まですっと無視され続けてきた作物が、ようやく物語の中心に据えられるのです。よくまあ、こんな大胆な演出を考え出したものだと思いますし、ずっと舞台にありながら、不思議と違和感のない作物というものの存在も面白いですね。

『隅田川』について(その15)

2007-05-30 00:55:21 | 能楽
この隅田川の河畔で捨てられ、そのまま息絶えた幼子。。つまりは我が子の死がワキによって語られた時、
はじめてシテは悲しみを抑えきれずにシオリをします。このところ、下掛り宝生流のおワキの詞章では「ただ返す返すも母上こそ。何より以つて恋しく候へとて。弱りたる息の 下にて。念仏四五遍唱へ。終に終はつて候。」と、我が子が最期の時まで母親を思っていた、と語られた直後にその死を知らされる、まことに劇的な「語リ」となっています。

シテのシオリというのは大概は左手でするもので、ツレは右手でシオリます。こういうところに、何気なくシテとツレとの差がつけられているのですね。もっとも直面の武士役の場合はシテも右手でシオリをします。右手には普通は扇を持っている事が多いので、その場合は扇を上に折り返して持ってシオリをします。ところが『隅田川』のこの場面では右手でシオリをするのです。これは両手で笠を前に支えて持っているためで、本来はシテなので左手でシオリたいところですが、その左手は笠の内側に入ってしまっています。この左手で笠を支え持っているので左手でシオリをするのは不可能になり、笠の縁を持っている右手でシオリをすることになります。能ではいろいろな約束事があって、ややもするとそれを守る事をもって「伝統」のように言われる事も多いのですが、実際には不可抗力の前の例外もたくさんありますね。こういうところを見ると、なんだか先人の困った顔も、息吹も ぬえには身近に感じられて嬉しかったりします。

ところでこのシオリは大変難しいですね。シオリというのは基本的に二度するもので、二度目を「シオリ返シ」と呼ぶのですが、一度目のシオリに万感の思いがなければならないし、やりすぎるとかえって興ざめになったりします。おワキの「終に終はつて候」とシテのシオリとのタイミング勝負、という感があります。そしてシオリ返シは、これは心静かに、「さめざめ」という感じで掌を当てるのだと、この曲のこの場面に限らず ぬえは考えていて、そうなると一度目の数倍の時間をかけてシオリ返シをしたいところです。実際には次の型との関係で、なかなか静かにシオリ返シはできない場合が多いですが、『隅田川』ではシテの思いとは無関係にそのほかの登場人物の間で会話が交わされていたりして、意外にシオリ返シは楽だったりします。

さて「語リ」のうちに舟は対岸に到着し、船頭は乗客に下船を促します。ワキツレ、つまり多くの乗客たちもワキの「語リ」の内容に心動かされて大念仏に加わる事を申し出ます。ここでワキツレは立ち上がって脇座に着座しますが、すなわち ひと足先に大念仏の場に行ってしまった事を表していて、これ以後ワキツレはこの能の事件のなりゆきに関係しません。

一方、シテはこの時もシオリの手を面に当てたままで、ここでワキはシテを見て「いかに狂女。舟が着きて候とうとう上がり候へ」といっぺんは声を掛けます。乗客が下船したあとに、シテだけが身じろぎもせずに舟の中にただ一人残っているのです。このところ、福王流のおワキは「いかにこれなる狂女。何とて舟よりは下りぬぞ急いであがり候へ」と少々腹立たしげな詞章ですね。どちらのお流儀のおワキでもシテのことを「狂女」と呼んでいますから、この時点ではまだ船頭はシテの人格は認めていても、まだその理解者ではありません。ところが「狂女」という言葉は、この文句を最後にこれ以後ワキの口から出ることはないのです。舟に残ったシテが泣いているのを見た船頭は、「あら優しや。今の物語りに聞き入り侯ひて落涙し候よ。とうとう上がり候ヘ」とやさしく声を掛けます。ほかの乗客と同じく、哀れな幼子の「運命」に心動かされ、それのみならず涙を見せるシテの姿を見て、ここで初めてワキはシテの理解者となるのでしょう。

ところが。。シテはなお舟より下りずに、ワキに向かっていまの物語の内容を確かめる問いを発するのです。

『隅田川』について(その14)

2007-05-29 01:25:55 | 能楽
舟に乗ったシテは、しっかりと前を見つめたまま、何気なくワキの「語リ」を聞いています。型附にも「面はハッキリ」と書いてあって、乗船を許されたことは彼女にとって、自分の前に立ちはだかって我が子を探す旅を絶対的な威力で妨害する隅田川という障壁をみごとに克服した事を意味したでしょう。本当ならば、対岸の下総国に渡ることは彼女にとってまた一つ東国の一国を探索する可能性を広げたのであり、また一歩我が子のもとへ近づいた希望の船出であったのです。対岸になぜ人が集まっているのか。ワキツレの疑問に集約されるように、一般の旅人にとっては これは長く単調な徒歩の旅の中では自然に興味をかき立てられる事件であったでしょうが(彼ら旅人がシテの狂女を囃し立てて集団でこの渡しに到着したのも、長短はそれぞれの旅人にあるにせよ、日常から離れて興味をかき立てられる“事件”だったからなのでしょうね)、我が子を捜し出すという使命だけに、極論すれば人生を賭けたシテにとっては、取るに足らない巷間の些事であったはずです。

もし、大念仏が川岸でなく道ばたで催されていたら。彼女はおそらくそれがなぜ行われているのか、人だかりの中に理由を尋ねることもなく通り過ぎたことでしょう。そしてもし、彼女がこの隅田川にたどり着いたのが我が子の命日でなかったならば。大念仏は催されず、その人だかりの理由を船頭に尋ねる旅人もおらず、やはり彼女は真相を知ることなく、今はこの世にはいるはずもない我が子を求めて、絶望的な旅を続けていくに違いありません。「運命」。。この曲のテーマはここにあると ぬえは考えています。人がどう抗っても変えることができない現実。そのとき人はどうすべきなのか。この曲にはそこが書かれていません。ぬえは、うがった見方かも知れないけれど、ここにまた作者・十郎元雅を感じたりしています。彼もまた、抗えない現実に直面した人でした。

ともあれ「ハッキリと」前を見据えたシテの心が揺らぐのは、ワキの「語リ」の中でこの地で死んだ幼い子の最期の言葉が伝えられ、それが「われは都北白河に、吉田の某と申しし人の ただ一子にて候。」という、自分と同じ名字を聞いた時です。このあたりは型附には詳細に面扱いは書かれておらず、もっぱら師伝によらなければならないところで、こういうのはさすがに書き記すのは無理でしょう。師伝は口外できませんが、「吉田の何某」と自分と同じ名字を聞いて「?」と、ふと、気に留めるのです。ちょうど先日、NHKの教育テレビで能狂言の鑑賞講座が放映されていて、講師の梅若六郎先生が、父君であるご先代の故・六郎師が『隅田川』を演じておられるビデオを教材に、この場面で「ふと」面を下げるところで「ここ。この面の使い方です。ちょっとした事なんだけれども。。」と非常に感心されながら話しておられました。お気持ちはよくわかります。ぬえの先輩も同じビデオに大変感銘を受けて、ご自分の上演の際の目標にしているんだ、と ぬえに話してくださいました。

さて実際にはワキの「語リ」のこの言葉の直後には、我が子の名である「梅若丸」が登場するのですが、シテはまだ「もしや。。」「まさか。。」と疑問ばかりが心に湧いています。だんだんとワキの「語リ」に聞き入ったシテは、自然に面を下げてゆき、疑問は確信に変わっていきます。そして知らされる我が子の死。。

このところ、下掛り宝生流のおワキの詞章には「ただ返す返すも母上こそ。何より以つて恋しく候へとて。弱りたる息の下にて。念仏四五遍唱へ。終に終はつて候。」という、シテにとってなんともつらい言葉が語られます。母である自分を最期まで思っていてくれた我が子。この言葉によって、シテが我が子の命日にこの隅田川にたどり着いたのが、どうやら偶然だけではない事を想像させます。「運命」。。下掛り宝生流に独自のこの詞章は、この曲のテーマを鋭くキャッチして挿入されたのだと ぬえは考えます。まあ。。よくこれほど台本を読み込んだ先人があったのです。敬服。

ついでながら、前述のように下掛り宝生流では曲の冒頭の名宣リの部分で、この地で大念仏が今日行われる事に触れません。あえて観客に伏せておくことで、ワキツレの何気ない疑問がシテの人生を狂わせるところに焦点を合わせて劇的な効果を高める事を狙ったのだと思いますが、やはりこれは作者が曲の中に仕込んだ「仕掛け」をよくよく理解していないと作れない台本でしょう。この曲が愛されてきて、よく研究されている証左だと思います。

『隅田川』について(その13)

2007-05-28 21:28:46 | 能楽
「狂イ」での懇願により、ついにシテはワキに乗船を許されます。のみならず、シテはワキによって「かかる優しき狂女こそ候はね」と言われていて、「都鳥」に端を発した問答の末に、シテはついにワキの信頼を勝ち取っています。はじめにシテを「狂女」呼ばわりしていたワキは、ここでシテの理解者となります。ワキは後にはシテに同情して、ついにはシテの良き協力者となっていく。この場面はそんなワキの心の転換点でもあります。

そしてワキに乗船を許されたシテは、ここで笠を脱ぎ、お客さまも初めてここでシテの面を見ることになります。先にも書いたように、この曲ではシテは能の中盤までずっと笠を脱がずにいて、これは能の中では例外的です。たとえば笠をかぶって登場したワキは、舞台に入って「次第」などを謡うと、すぐに笠を脱いで「これは何某にて候」と名宣リをします。それが終わると再び笠をかぶり、「道行」になる。そして「○○に着きにけり」と謡って目的地に到着すると笠をぬいで、それからその能の中の事件が始まるのです。

つまり笠は、これをかぶった役の者が旅のさなかにいる事を示していて、「道行」を謡って目的地に到着してから先は不要となり、さらに言えばその能の中で起こる事件に対してワキが対応するには邪魔な小道具となるのです。そのため『雲林院』や『清経』などいくつかの能では「道行」が済むとワキは笠を後見座に置いてしまって、後見がそれを片づけます。もっとも、『鉢木』のようにワキが再び旅に出る体で退場する場合は笠はずっと携えていますし、『望月』や『放下僧』のように素性を知られたくないワキが顔を隠すためにずっと笠を脱がない場合もありますが、これらは笠を残す意図がはっきり観客にわかるので、『隅田川』の笠とは別に考えるべきでしょう。

『隅田川』のシテがずっと笠を脱がないのは、観客に不安感を与えるためだ、と ぬえは考えます。やがて訪れる悲劇の結末を予期させる、そのために作者はわざとシテに笠を脱がせないのです。しかしまあ。。笠を脱がないのは演者にも不安を与えます。。かぶり方が悪いと、ヘタをすればまったく前方が見えなくなってしまうのです。これは怖い。もっとも、そうならないように演者もそれぞれ独自の工夫を笠に凝らしたりしています。ぬえも笠に仕掛けを施しますよ。どうやるかは企業秘密ですけれども。(^◇^;)

さてシテはここで笠を脱ぎますが、これは乗船を許してくれた船頭に対する礼儀のようなものかも知れませんが、もう一つ、この能では大きな意味を持っています。つまり、これから先は面で演技をするのです。舟が隅田川に滑り出したとたん、ワキツレが対岸に人が集まっているのを発見して船頭に不審します。そして。。問われた船頭は世にも恐ろしい物語を始めるのです。その物語が、まさに自分の身にふりかかるとは思いも寄らないシテ。しかもこの恐ろしい事実関係がわかったシテは、それでも身動きすらできないのです。舞台上ではシテとワキツレの二人だけが客として舟に乗っているけれども、舟には狂女を囃し立てていた人々も同船しており、「狂イ」の中で「舟こぞりて狭くとも、乗せさせ給へ渡守」という詞章があるので船中は混雑を極めているようです。物理的に身動きもできなかったでしょうが、さらにシテは乗船の際に船頭から「大事の渡りにて候ほどに、構へて船中にてものに狂ひ候な」と念を押されているのです。。

このワキの「語リ」は、ワキ方としても習いとして大切にされています。今回の『隅田川』ではおワキは下掛り宝生流の方ですが、このお流儀の「語リ」は詞章といい、複雑な技巧といい、じつに魅力的ですね。以下、その本文を掲出しておきます。

「さても、去年三月十五日。や、しかも今日にて候ひしよ。都の人とて年十歳ばかりなる 幼き者を人商人奥へ連れて下り候が。この人習はぬ旅の疲れにや。路次より以つての外に違例し。この川岸にひれ伏し候ひしを。のうなんぼう世には、不得心なる者の候ひけるぞ。 今を限りと見えたる幼き人をば捨ておき。商人は奥へ下つて候。さりとも、さりともと思ひ しかども。かの人ただ弱りに弱り。既に末期に及び候ほどに。あまりに痛はしく存じ、故郷を尋ねて候へば。今は何をか包み参らせ候べき、われは都北白河に、吉田の某と申しし人の ただ一子にて候。わが名は梅若丸、生年十二歳になり候。父には遅れ。母一人に添ひ参らせ 候を。人商人これまで連れて下り候。われ空しくなりて候はば。この路次の土中に築き籠めて賜はり候へ。それをいかにと申すに。まことは都の人の。足手影までも懐かしう侯ほどに。 かやうに申し候。ただ返す返すも母上こそ。何より以つて恋しく候へとて。弱りたる息の 下にて。念仏四五遍唱へ。終に終はつて候。さるほどに遺言に任せ墓所を構へ。しるしに柳を植ゑて候。今月今日が正命日に相当たりて候ほどに。所の人寄り集まり。大念仏を申され候。この船中にも。少々都の人もござ侯ごさめれ。あはれ大念仏を御申しあつて御弔ひあれかし。

【驚異の法力】増上寺薪能

2007-05-27 03:38:34 | 能楽
今日は恒例の東京・芝の名刹・増上寺での薪能に出勤してきました。

夕暮れ時、次第に周囲に闇が迫る頃、会場の観客席の背後から覆い被さるように屹立する東京タワーが、舞台からはまぶしいぐらいに輝き始めます。一方舞台は重文の三解脱門を背にしていて、ここで行われる薪能は本当に恵まれた環境の中で行われる贅沢な催し。ぬえも毎年楽しみにしております。

都内で最も古い建造物であるこの三解脱門は、徳川家の菩提寺でありながら、東照宮とは正反対に装飾はほとんどない質実剛健で豪壮な門。かつてはこの周辺一帯はすべて増上寺の境内で、最寄り駅である地下鉄の「大門駅」も参道にあった門に由来しています(現在はコンクリート造りの申し訳程度の門が商店の中にちょこんと建っていて、ドライバーに邪魔者扱いされていますが。。)し、東京タワーの敷地もかつては増上寺の境内の範囲内。明治時代には大政奉還、廃仏毀釈、そのうえ火災にも見舞われ、さらに戦争時には空襲にも遭いながら、よくまあここまでの寺域を残せたものだと思います。ことに戦争でも三解脱門が焼けなかったのは幸いでした。

増上寺の境内には今でも六人の将軍が眠り、また多数の将軍正室・側室・子女が同じく埋葬されています。現在はいくつかの宝塔に安置されていますが、かつてはそれぞれが壮麗な霊屋の中に安置されていました。戦災や火災によってこれらは悉く失われましたが、そのうちのいくつかは早い時期に増上寺から移築されて現在に残されています。そしてその一つは鎌倉・建長寺にも遷されました。建長寺に現存する仏殿と、そして今回の巨福能の会場となる方丈の前に威容を誇る唐門は、ともに二代将軍・秀忠の母の霊廟を当地に移したものと考えられています。

さて今年で26年目となる増上寺薪能ですが、前日のあの大雨からうって変わった晴天の下で行われました。雨が上がったのはよかったのですが、ところが暑いこと暑いこと。ぬえは冗談でお坊さんの一人に「法力でもうちょっと涼しくして頂けませんかねえ」と聞いたところ「昨日の雨を止めるのに使い果たしてしまいました」ですって。お客さまも大勢見えられて、盛況のうちに薪能は開催されました。

しかしじつはこの増上寺薪能、本当に天候を左右できるらしい。。

もう十数年も以前になりますが、それまで毎年好天に恵まれていた増上寺薪能でしたが、その年に限って前日の天気予報では当日の降雨確率が50%と言われてしまって さあ大変。雨天の対策はそれまでの恵まれた天候の経験から万全とは言えず、前日にさっそく増上寺において ぬえの師家と増上寺の薪能責任者とが集まり、法主さまの御前で対策会議を開きました。ああでもない、こうでもない、ああ困った。。そのときまで押し黙っておられた法主さまが、そのとき口を開きました。

「わかりました。明日は晴れにしましょう」

一同「えええっ!!???」と後ずさりしました。。のですが、翌日の薪能は見事な晴天になったのです。(実話)

お、恐るべし増上寺の法力。。

『隅田川』について(その12)

2007-05-25 23:48:58 | 能楽
今日は師匠に『隅田川』のお稽古をつけて頂きました。二度目の『隅田川』ですが、たくさんご注意を受けてしまった。言われて納得した事も多く、もう少し自分の稽古をビデオを撮って研究すべきでした。また、地謡とは非常に齟齬があって、これは再度お地謡に参加をお願いして改めて稽古をする事にしました。今日はそのほかの時間は今日は一日中カンナと彫刻刀をふるって小道具を自作。またちょっと指を切っちゃった。。(今度は目立たないところに小さいキズだけど。。前回の地下鉄のエスカレーターで作ったキズは順調に回復中。。)

さて「狂イ」ですが、今回は「都鳥」と和歌について脱線してみます。

ここに現れる「げにや舟競ふ。。」というのは『万葉集』に見える大伴家持の歌「船競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも」(巻20、4462)をふまえたもので、じつはこの歌が日本の古典文学における「都鳥」の初出です(注=「舟競ふ」は多くの舟が行き来している様子のこと)。その後も都鳥の歌は多く詠まれているのですが、やはり『伊勢』の業平の歌「名にし負はばいざ言問はん都鳥。。」はインパクトがあったらしく、『伊勢』以後の歌には都鳥は「言問う」相手や、遠方で見て都を連想する鳥として描かれる事が多くなっているようです。

こととはばありのまにまにみやこ鳥都のことを我にきかせよ(『後拾遺和歌集』九・和泉式部)
ことゝはんはしとあしとはあかざりし わがすむかたのみやこどりかと(『十六夜日記』)
越の海にむれてゐるとも都鳥みやこの人そこひしかりける(『源順集』)

で、これまた『伊勢』を念頭においたであろう「都鳥+隅田川」というセットの歌も登場してきます。

すみだ川すむとしきゝしみやこ鳥 けふは雲井のうへに見るかな
にごりなき御代にあひみるすみだ川 すみける鳥の名をたづねつゝ(『古今著聞集』巻二十)
ことゝはむ鳥だに見えよすみだ川 都恋しと思ふゆふべに
思ふ人なき身なれども隅田川 名もむつましき都鳥哉(『廻国雑記』)

ちなみに『伊勢』の「都鳥」は今で言うユリカモメのことと考えられていて、それとは別に「ミヤコドリ」という鳥もいるのですが、『伊勢』に描かれている「都鳥」とは体の特徴も、習性も違うのだそうで。そして、ユリカモメは「都鳥」だ、ってんで、現在東京都の鳥に指定されています。それって違うだろ。そしてついでながら、東京の隅田川やその近辺にはいまも『伊勢』からつけられた地名が残っています。業平橋、言問橋。。さらに『隅田川』の最後の場面で現れる「浅茅が原」は、いまの浅草の北側に広がっていた人気のない荒れ地のことで、歌枕になっています。あ、あと、ぬえ家ではカモメを見たら「あ、都鳥だ」と言う約束になっている事を付言しておきます(いらないって)。

「それは東路」と脇座の方へ向きながら左手で遠くをサシ、その方角に出(ぬえの師家では左手はすぐに下ろす事になっています)、「これはまた」と右に振り返っていま来た方角へ向き(若干心持ち。こういう型の場合は普通はヒラキになるのですが、『隅田川』ではやや型を少なくして、その分シテの心情を心持ちで表すように作られていると思いますね。すぐに「隅田川の東まで」と常座に戻って「思えば限りなく」と脇正の方へ斜に向いて遠くを見ながら「遠くも来ぬるものかな」と三足ツメ。ここで左手を笠にやって見はるかす型をしてもよい事になっていて、これは良い型なので、ほとんどの演者はこちらのやり方を採っています。

「さりとては渡し守」とワキへ向き(型附には「ズイと向き」とあります)、「舟こぞりてせばくとも」と笹で左から右まで舟の全長を描いて「乗せさせ給へ渡し守」とワキの方へ出て、だいたい作物の前あたりを狙って下居、ワキを見上げてから「さりとては」と笹で右下を打ち「乗せて賜び給へ」と下から笹でワキの顔をサシ、静かに笹を下ろし、目を下げます。ここで笹を捨ててもよく(型附にはカルク捨てるも、とあり)、そういう演者も多いのですが、ぬえはやはり舟の中に乗っている姿には笹があった方が風情が良いと思い、前回も今回も笹を持ったまま乗船します。

『隅田川』について(その11)

2007-05-24 23:55:10 | 能楽
「強さ」。それは彼女の強い意志と言い換えても良いかもしれません。それが目的とするところが、さらわれた我が子を捜し出すということであるのが悲劇的だし、またその手がかりが「東とかやに下りぬ」と聞いただけだ、というのが何とも絶望的でやりきれないですが。。(「狂イ」の中には「我が思ひ子は東路に、ありやなしやと問えども問えども。。」という文句が出てきますから、我が子が東国にいる事さえも実はかなり曖昧な情報らしい)

そんな彼女も人々には「狂人」と蔑まれ、無理解に晒されながら困難な旅を続けている。彼女には頼れる人はなく、むしろ彼女を無責任に囃し立てる人々は、彼女の目には人商人と同じ側に立つ人間と映ったかも知れません。そしてこの川を渡らなければ東の果てまでわが子を捜し求めることはできない、という隅田川の川畔に至っても、頼みの綱である船頭は、やはり「面白く狂え」という要求を出すのでした。しかし彼女はそれを拒絶するのでも要求に迎合するのでもなく、『伊勢』の故事を引いて船頭に非を悟らせ、同時に彼女の人格を認めさせたのでした。

でも結局、彼女にとって周囲の人間は根本的に無理解なのであって、そんな彼女が唯一、我が子の行方を問うことができる相手として「都鳥」は描かれています。「狂人」と決めつけて自分に悪意をぶつける事のない鳥、それも「都の鳥」という名前を持つこの鳥は、彼女の心を理解する者として彼女は望みを寄せるのです。でも、すなわちこの思い込みこそが、彼女をして再び我が子を求める押さえきれない激情に向かわせてしまう事にもなります。結局彼女はここで「面白く狂う」ことになり、彼女を囃し立てる人々の期待を満足させてしまうのです。彼女の旅はこういう堂々巡りを繰り返してきたのでしょう。

さてこうして彼女は「都鳥」に信頼を込めて「我が思ひ子は東路に、ありやなしや」と問うてみるのですが、当然のごとく都鳥からの応答はなく。そこで彼女は前述のように「鄙の鳥とや言ひてまし」と正面を向くのです。

すなわち、「答えてくれないとは情けないこと。田舎の鳥とでも呼べばよいのに」と正面を向くので、その向き方で彼女の性格はガラリと変わって見えるのではないか、と思います。プイ、と正面を向いて「ふんっ、田舎者め」とするのか、また同じく強く正面に直す場合でも、都鳥への信頼と決別するかのように彼女の意志の孤高を表すこともできるかもしれませんね。また逆に、静かに正面を向いて失望を表すこともできるでしょう。注意してご覧にならないと気が付かないような微妙な型どころですけれども、じつはシテの性格が決まるような、重要で難しい型だと思います(。。と、この機会にさらに考えてみたのですが、この型は見所のお客さまに対しての効果、というよりは、その後の演技について、役者自身をある程度規定してしまう、という点で難しいのかも知れないな、とも思いました)。

このあとシテは「げにや舟競ふ堀江の川の水際に」と左へ廻って常座に戻り、そこでまた「来居つつ鳴くは都鳥」と斜に先ほどと同じ場所の都鳥を見込みます。

『隅田川』について(その10)

2007-05-23 00:40:44 | 能楽
「思ひは同じ」「恋路なれば」とワキへ二足ツメたシテは地謡が「我もまた」と謡い出すと正面へ向いてヒラキ、「都鳥」と据拍子を二つ踏み、そのまま打切を聞いて返シより舞い始めます。「我が思ひ子は東路に」と右ウケて遠く見、「ありや、なしやと」気をカケテ正面へ向き、向こうを見てツカツカと出、角の手前にてトメ、すぐに「問へども問へども」と右ウケ、二足ツメながら面をツカヒ「答へぬはうたて都鳥」と都鳥を見廻します。

先にシテがワキの船頭に都鳥について尋ねるとき、『伊勢』にある「名にし負はば、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人はありやなしやと」を引きながら、シテはふと、右の方を見やって白い鳥を認め、「なう舟人。あれに白き鳥の見えたるは、都にては見馴れぬ鳥なり。あれをば何と申し候ぞ」とワキに向いて問います。川面の少し向こうの方に都鳥は浮かんでいるのです。この「狂イ」でも、先ほどのこの場面と同じ所をシテは見やります。さらにもう一度都鳥を見る型がすぐ後にあるのですが、もちろんそれらの型も、都鳥の居る場所は同じであるように注意しなければなりません。

その次に問題の型があって、「鄙の鳥とや言ひてまし」と正面に直すのです。

正面に直す。。つまり正面に向き直るだけなのですが、何でそれが問題の型なのか。でも ぬえは、初めて『隅田川』を勤めたときに、この型が『隅田川』で一番難しい型なのではないかと思いました。それは、この何気ない型が、シテの性格を大きく決定づけるかも知れないからなのです。シテは我が子を求めて遠く都から旅を続け、今日武蔵・下総の境に流れる隅田川に到着しました。彼女の強い性格は、子を求める母ゆえに形作られたものかも知れませんが、いやじつに強力。そしてまた「都鳥」をめぐって『伊勢』を引き合いに出す姿に、観客は彼女の都人としてのプライドのようなものを感じるはずです。『伊勢』の東下りの段のまさに当地に住む船頭が、『伊勢』についての教養を持って都人であるシテに当意即妙の答えを返す事ができない事に不快感を示してシテが二度まで言う「うたてやな」(=嘆かわしいこと。情けない)。でもこれは、都人としてのプライドを持ったシテが、田舎者の一介の船頭に過ぎないワキを軽蔑して言った言葉ではありません。

先に船頭とワキツレの旅人とが会話した内容によれば、彼女は「人の多く来」る中に囲まれているのであって、それは旅人の証言によればすでに旅人の「昨日の泊りにあ」って、「女物狂ひ」と、人々によって定義づけられていたのです。とすれば、彼女が都からずっと囃し立てられながら旅を続けてきたことは容易に想像できるでしょう。そして、彼女がじつは狂人などではなく、人買いにさらわれた我が子を尋ねて、悲壮で絶望的な旅を続けている、とは誰も知らず(観客だけがその事情を知っている。。)、彼女は無責任な妨害に遭いながら、一層困難となった旅を、無理解と戦いながら切り開いてきたのです。

そして隅田川の川畔にたどり着いた彼女は、またしても船頭によって妨害を受けているのです。「たとひ都の人なりとも、面白う狂へ狂はずは。この舟には乗せまじいにて候」。。後に彼女の理解者となる船頭は、この時にはまだ庶民の一人、彼女を囃し立てる多くの人々の一人にしか過ぎません。そこで彼女が船頭に返して行った事は、狂人を装って謡い舞って船頭を満足させる事でもなく、事情を説明して自分は狂人でないことを主張する事でもなく。「うたてやな隅田川の渡守ならば。日も暮れぬ舟に乗れとこそ承るべけれ。形の如くも都の者を。舟に乗るなと承るは。隅田川の渡守とも。覚えぬ事な宣ひそよ」という、船頭にとって思いも寄らない『伊勢』を引き合いに出しての理知的な反駁でした。

無教養を「狂人」に指摘された船頭は赤面して、また彼女の知的な素地を認めざるを得なかったでしょう。これは彼女が困難な旅を続けて来た中で自然に身につけた防衛策の一種でもあるでしょうが、ぬえはもっと、したたかな、強さを彼女の中に思うのです。

『隅田川』について(その9)

2007-05-21 23:48:01 | 能楽
シテとワキの『伊勢物語』を下敷きにした問答は、「都鳥」をめぐって次第に高調してゆきます。東下りをした業平が京都に残した「わが思ふ人」を連想した「都鳥」。『隅田川』のシテは同じ鳥に我が子を重ね合わせます。その「都鳥」に対して業平と同じく「いざ事問はん」と我が子の行方を知らせて欲しいと願う哀れ。しかし、この問答に続いてシテが舞う、それこそこの曲で「翔」と並んでたった二度しかない派手(?)な型どころの「狂イ」では再びシテが我が子を失った事に対する狂おしさが表現されます。揺れ動いてますね~。

この「狂イ」という場面、地謡の「我もまた」~「さりとては乗せて賜び給へ」までを指すのですが、謡本などでは「狂イ」という表記は特にされていません。狂女物の能の中で、この場面のようにシテが熱狂する部分を習慣的に「狂イ」と称しているのですが、類例は多いものの、反面「狂イ」と称する場面がない曲もありますし、「~之段」のように「狂イ」とは別の呼び方をされる方が一般的な能もあります。甚だ曖昧な言葉ですね。

「狂イ」と呼ばれる場面がある曲には『花筐』(「恐ろしや~」)『柏崎』(「頼もしや~」)『土車』(「この歌の理に~」)『鳥追舟』(「打つ鼓~」)『水無月祓』(「水無月の~」)『弱法師』(「住吉の~」)などがあり、「狂イ」とは普通は言わないけれど同類のものには『芦刈』の「笠之段」とか『桜川』の「網之段」、『三井寺』の「鐘之段」、『籠太鼓』の「鼓之段」、『雲雀山』の「色々の~」などが挙げられるでしょう。一方『歌占』『富士太鼓』のキリ、『班女』の「舞アト」などは「狂イ」に近い雰囲気は持っているけれども独立した小段とは言えないので少々立場は微妙。反対に『百万』に至っては全編が「狂イ」と言っても良いほど舞尽くしの能です。

このような「狂イ」のほとんどは動きも多いので仕舞としても扱われ、上演の機会も多いです。しかし、これらの仕舞の中で『隅田川』の「狂イ」は別格に重く扱われています。上記で仕舞として舞われる曲の中で習物とされているのは僅かに『隅田川』と『弱法師』だけで、『弱法師』は杖で舞うので、これは前提条件からして習物の範疇です。『隅田川』は扇で舞う(能では笹)のですが、この仕舞が習物であるのは、『隅田川』という曲の重大性に拠るのです。観世流では「九番習」と言って、「重習」に準じて大切に扱われる曲が9曲、定められています。これに当てはまる曲の仕舞は習物の扱いとされる事になります。ちなみに「九番習」の曲は『隅田川』『定家』『遊行柳』『当麻』『藤戸』『鉢木』『大原御幸』『俊寛』『景清』で、そのうちの前半に挙げた5曲には仕舞があります。

それほど重く扱われる『隅田川』の「狂イ」ですが、能の型としてはあまり動きが激しいとも言えません。こういう曲は動き方よりもむしろ心持ちが難しいので、心を動きや姿勢に表現するのですから、そりゃ難しいに決まってる。。「九番習」の曲だから重く扱われる、のではなくて、こういう曲は謡も型も、シテの心情を表現するのが難しいから習物として大切にされているのですね。

それにしても。。ぬえはこの『隅田川』の「狂イ」は好きな場面です。そして意外に思われるかもしれませんが、曲のクライマックスのあの劇的な場面よりも、やはりこの「狂イ」の方が、ある意味において、ですが シテにとっては難易度が高いと言えると思います。やりがいもあるし、反面 この場面の処理に失敗すると台無しになってしまったりする。。そんな危うさもある場面なのだと思います。

「答へぬはうたて都鳥。鄙の鳥とや言ひてまし」。。

子どもたちの稽古@伊豆の国市

2007-05-20 01:26:08 | 能楽

最近、近況を書いていません。『隅田川』や建長寺、鎌倉についてとか、「翁附脇能」について考えていたら、どれも膨大になってしまって。。曲について考えるのは良い事だとは思うけれど、なんだか行き過ぎ感もあるなあ。まあ、ブログが「ウェブ日記」みたいに言われていたのは少し以前までの事だとも思うので、あんまりそこに拘泥する必要もないのでしょうが。。

もっとも、曲について漠然と考えていたような事も、いざこのようなところで書くとなると、やっぱりうろ覚えの事を無責任には書けないワケで、自分の中で曖昧な事を書こうとする際には、資料で確かめるクセはつきました。これは大きい。それと、やっぱり頭の中で考えているだけなのと、こういう場で書くのとは意味合いがずいぶん違いますね。発想が広がるし、思わぬ発見もある。また反面、こんな事ばっかり書いて、と、頭デッカチの舞台だと言われないように、と警戒もするから稽古も慎重になったりしています。

かつてニフティ・サーブのパソコン時代に両方向性だった書き込みもブログでは一方的にならざるを得ず(こんなコアな事ばっかり書いているから一方的なのは当然だけれど。。)、それじゃ、と始めたミクシイも、ニフティ時代の雰囲気とはちょっと違う。まだまだ能楽師として情報の発信の仕方は模索中ですが、パソコン通信のサービスが終了した時から一時ROM状態だった ぬえもようやくこのブログから社会復帰を果たしました。そして、再開してみると、やっぱり自分のためになるんですよねー。どうぞ模索中の ぬえを温かく見守って頂きたいと存じますー m(__)m

さて、このところの ぬえの周囲ではいろんな事が起こっておりました。地下鉄のエスカレーターでコケて左手の甲にキズを作ったり(『隅田川』で左手でのシオリが多出するのでビビッたけれど、公演はいまから2週間後なので、その頃にはなんとかキズも目立たないだろう、とひと安心。。)、ある公演でシテが体調不良になり、後見だった ぬえがもう少しでシテを代役するか!?という瀬戸際まで行ったり(結局シテが復調して無事に勤められました。ああ、良かった。)。

そして今日は伊豆の国市で真夏に行われる狩野川薪能のお稽古に行って参りました。この催しでは毎年「子ども創作能」を演じていて、出演者は(囃子方を除き)すべて小学生と中学生。地謡も含めてすべての役の指導を一人で行い、そのほかに薪能で ぬえが舞う玄人能(今年は『一角仙人』)の子方の稽古、それから建長寺の巨福能の『隅田川』の子方もここの子どもを抜擢してあるので、その稽古。さらに薪能に毎年参加して、いまは中学生になった子どもには創作能ではなくて、能の古典の曲にも挑戦させる、という ぬえのポリシーから指導している仕舞『東方朔』まで。建長寺の催しが近づいている今日の稽古は、なんと7時間半に及びました。なんせ昼食を摂る時間もなく、昼食の弁当は帰りの新幹線の中で夜の7時にようやく頂きました。。

それでも今日の稽古では子どもたちはみんな上達しましたね。創作能もようやく立ち往生する子がなくなって 、みんなそれぞれ自分の役に責任が持てるようになったみたい。仕舞も今日やっと形になりました。玄人能の子方も、前回の稽古以来それぞれかなりシッカリと自習をしてきていて、前回とは見違えるような上達ぶり。時間はかかっても、達成した彼らを見ると疲れも空腹も気になりませんね。もっとも帰りの新幹線では亡者のように弁当を喰らい、泥のように眠っておりましたが、ぬえ。(^^ゞ

また今日は ぬえの提案で、創作能の中で斬り組みをする武士役の子どもたちが身につける鉢巻を、その保護者の方々に作ってもらうようお願いしたのですが、保護者の方々は団結してくださって、あまつさえ稽古会場にミシンを持ち込んでくださった保護者までもあり。稽古の途中ですでに8人の武士役の子どもたちの鉢巻はすべて完成する、という離れ技まで見せてくれました。

この薪能では ぬえは毎年子どもたちにかなり大役を任せているので、毎年いろんなドラマが生まれます。公演の直前に涙する子どもも必ず出て、それでも ぬえは配役にはかなり神経を使っているので、彼らはそれを最後には克服して立派な舞台を勤めます。今年はどんなドラマが起きるのかなあ。。と思っていたら。。すでにそれは起こっていた。

でも、それはまだここでは言えないです。彼らも苦しんで、でも ぬえも一緒に苦しんで。。最後には一回きりの舞台を、ついに勤める事ができる。そこまで ぬえはおつきあいをするし見届けるけれども、その成果が出るまでは経過を公表する事はできません。。

どうぞこのブログの読者のみなさんも、ぜひ子どもたちの成功を祈ってやってください。。彼らが成功したとき、ぬえはこの場で誇らしく報告できるでしょう。がんばれ~~子どもたち。\(^^@)/

『隅田川』について(その8)

2007-05-19 07:18:03 | 能楽
翔のあと「サシ」となって、はじめてこのシテの素性が明かされます。彼女は都の北白川の者で、一人っ子の我が子を人商人にさらわれ、その行方をおぼろげに東国と聞いてより心乱れて、我が子のあとを尋ねて迷い出ているのです。北白川は今でも京都に地名が残っていて、ちょうど銀閣寺の周辺にあたります。都といってもかなり辺境にあたる場所で、人目を避けて人商人が路地裏のようなところで一人で遊ぶ子どもを誘拐する、という事が実際に横行したであろうと想像されます。

狂女物のシテは華やかに狂い出て登場するのですが、それだけでは観客には誰が登場したのかわからず、このように登場して翔などで少し動いた後に自分の素性を述べる「サシ」のような部分が、ほぼ必ず設定されています。しかしこのサシは、そのように劇の進行の中で登場人物が観客に自己紹介をするためばかりにあるのではありません。

能の中で狂女という登場人物は、そのほかの登場人物、すなわちワキなどからそう思われているような「きちがい女」ではない事が、このサシで観客に示されます。能の狂女は、愛する者と図らずも引き離されて、その者への強い執着や喪失感から愛する人を追う哀れな女性です。それは気が狂ったのではなくて、失った人を追い求めても なかなか果たせず、その思慕が高揚したとき、爆発となって彼女自身が自分の心をコントロールできなくなるのです。その高潮が引いたとき、再び彼女は涙に暮れる。このサシでもそのトメ「そなたとばかり思い子の跡を尋ねて迷ふなり」というところでシテはシオリをします。

このように能の狂女は、能の中では感情を爆発させてみたり、また一方、自分の身に降りかかった不幸を嘆いて涙する、というような、両極端な感情の間を常に揺れ動いています。

サシに続く地謡の下歌「千里を行くも親心。子を忘れぬと聞くものを」と正面へ三足ツメます。直前のシオリの際に、気持ちが内省に傾いた事を示すために二足下がったので、ここで立ち位置を直す、という意味もありますし、同時に「子を忘れぬ」つまり「自分は子どもを探す事を諦めたりはしない」という強い決意を表す型でもあるでしょう。

その次の上歌はシテ狂女の長い旅の様子と、そして今日、彼女がこの隅田川の川畔に到着する場面です。「契り仮なる一つ世の」と拍子一つ踏み、「その中をだに添ひもせで」と右ウケして遠くを見やり、「此処や彼処に」と正面に直して出、「四鳥の別れこれなれや」とヒラキながら面を伏せて心持ちあり、「武蔵の国と下総の中にある」と右ウケて見やって三足出、すぐに左に振り返って立ち帰り「隅田川にも着きにけり」と足を止めます。これにて川の畔に到着した心で、ワキの方へ向き「なうなう我をも舟に乗せて賜り候へ」と声を掛けます。

これからのシテとワキとの問答は、最初から『伊勢物語』九段が下敷きとなっていて、「面白く狂え」と要求するワキに対してシテは「隅田川の渡守ならば「日も暮れぬ、舟に乗れ」と言うべきなのに」と応じたり、水面に遊ぶ白い鳥について尋ねたシテがその名をワキに問うて「鴎」と教えられ、逆に「隅田川で白い鳥を問われたならば、なぜそれを都鳥と答えないの」と言い返されたり。少なくとも「都鳥」に関しては、こりゃ このシテは確信犯的にワキに質問してるな。。

ちなみに、今さらですが、これが『伊勢』九段の中の隅田川の部分です。

猶行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり、それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなくとをくも来にけるかなとわびあへるに、渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ」といふに、乗りて渡らんとするに、みな人物わびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるおりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん宮こ鳥」といふを聞きて、

  名にし負はばいざ事問はむ宮こ鳥わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

建長寺探訪記(その5)

2007-05-18 00:51:23 | 能楽
翌日、二日酔いで頭が痛い中長谷の宿を出て、あたり近い成就院と極楽寺に参詣しました。。が、失礼ながらここには見るべきものはありませんでした。ここに限らず、鎌倉の社寺というのは伽藍の結構とか仏像の表情やしぐさを見るのではなくて、境内や参道を含んだ雰囲気を愛でるべきなのではないでしょうか。京都や奈良と比べて、名刹とされる社寺のあまりにも我々参詣者にとって身近な佇まい。これは。。鎌倉を散策しながらずっと ぬえは気になっていたのですが、鎌倉という場所は、どうも ぬえには古い時代の息吹がもう一つ感じられないのです。幕末まで連綿と続く武家の政治が始まったその嚆矢の土地でありながら、その時代の雰囲気を伝えるものは意外に少なくて、ぬえが目にするのは江戸時代もかなり遅くなってからの時代のものが多かったように思います。東京に住んでいてさえ、ここかしこに感じる家光さんの影響さえ、ここではあまり感じる事がありませんでした。(家光さん=三代将軍さん。それほど東京はじめ関東全域では彼の熱意が残っています)

これは失礼も顧みず ぬえが想像するところですが、鎌倉という土地は、その栄華の時代とはうらはらに、おそらく長い歴史の中でかなり長い期間さびれて、放置されていたのではなかろうか。それはまたおそらく、我々が想像するよりもずっと根本的な意味で、誤解を恐れずに極言すれば壊滅的な状態にあったのではなかろうか、と ぬえには思えました。

しかし、ここには京都や奈良にはない、もっと落ち着いた風情があります。円覚寺ではリスが境内のあちこちを闊歩し、時宗の廟所を守る上品な おばあちゃんは、リスが仏さんへのお供え物を失敬して茅葺きの屋根に隠すのよ、と言っておられました。ぬえが、朝早く家を出たら意外に電車が空いていて楽に到着しました、と このおばあちゃんに報告すると、良い時間に来たわね、この時間が一番、緑も空も綺麗なのよ、と教えてくださいました。

なんだか近所のお寺の、顔見知りの おばあちゃんと話しているみたい。ここが鎌倉の良さなんじゃないかなあ。良い意味で「田舎」。観光客は多くても人情だけは ちゃあんと残っている。海もある。山もある。小さなお寺が、住宅街の中やら切り通しの向こうに、ほんの歩いて行ける距離にぽつん、ぽつんと残されている。茅葺きの山門の傍らではニャンコが昼寝。ああ、気持ち良さそう。ぬえもそのお隣でお昼寝していいですか?



成就院への参道。もう少しで一面が紫陽花で覆いつくされる。

それでも、鎌倉の社寺の中では、やはり建長寺は別格に大きく、格式がありました。大伽藍と呼ぶのに躊躇がない偉容には ぬえも感嘆。ここでシテを勤めさせて頂けるのかあ。。思い出してもまたしても緊張してしまいます。当日、胴着の袖に仕込むためのお守りも頂いたし、ご祈祷では演能成就・芸道上達のお札も頂きました。当日が無事に勤められますように。。

最後に ぬえは江ノ電で江ノ島に向かい、途中 腰越で道草を食って(腰越は兄・頼朝の勘気の釈明に来た義経が、鎌倉を目前にしながら入れられずに逗留した場所。また近代では太宰治が心中未遂事件を起こした場所でもありますな。。)、それから江ノ島弁財天社に参詣しました。



  江ノ島神社

ここ江ノ島は山の上に社殿があります。「エスカー」という、ひねりのない名前のエスカレーターも頂上まで続いているんだけれど、もちろん ぬえはひたすら石段を上ります。。貧乏人はそんなブルジョアの乗り物に乗ってはイケナイのです。



  水族館の前、江ノ島海岸から見た江ノ島

そして最後に「新江ノ島水族館」で遊んで、東京に帰りました。昔の、小さい水族館しか知らない ぬえは、水族館がリニューアルしてから、この日はじめて訪れました。昔も「クラゲ」の展示が充実していたけれど、今もその姿勢は変わりませんね。イルカのショーはあまりレベルが高いとは言えませんでした。。

<今日のお題>

これでいいのか水族館の説明表示。(トロ。。上には干物。。)



                       【了】

建長寺探訪記(その4)

2007-05-17 03:18:28 | 能楽

鶴岡八幡宮の広大な社域には「鎌倉国宝館」が建てられていて、ここの展示はすばらしいものでした。建物に入ってすぐに目に付く釈迦三尊像や、建長寺の向かいにある円応寺の有名な冥王十像(閻魔像は伝運慶作)の一つ初江王像、そして光明寺蔵の当麻曼陀羅縁起図(国宝)には目を奪われます。ちょうど今、特別展「鎌倉の至宝 ―国宝・重要文化財―」が開かれていて、建長寺蔵の国宝・開祖蘭溪道隆の図像と遺墨も並べて展示されていました。この特別展は、巨福能が開催される6月3日が最終日だそうです。お時間のある方はぜひ見学される事をお勧めします。

鎌倉国宝館ホームページ

ここから八幡宮の外に出て、10分ほど歩いたところに源頼朝の墓があります。小学校の裏手、小さな山の中腹にある頼朝の墓は、鎌倉幕府という日本史の一大事業を成し遂げた人物の墓としてはあまりに小さなものでした。『仲光』のツレの源満仲から連綿と連なる清和源氏の諸氏によって何度か修復は受けたそうですが。。鎌倉という土地は、京都や奈良と比べて複雑な歴史を辿ったのだろうな、と ぬえはこのあたりから感じ始めました。



でも、現代に至ってからこの墓は大切に守られています。墓に至る小山への石段の手すりにも源氏の紋所である「笹竜胆」の図があしらわれていました。



この源氏の紋は能でも腰帯によく使われます。さすがに『屋島』には合いにくいように思いますが、ぬえの師家では『船弁慶』の子方の腰帯によく「笹竜胆図」を使いますね。ちなみに対する平家の紋は「揚羽蝶」。こちらは『船弁慶』『敦盛』などの腰帯に頻繁に用いられます。

朝から北鎌倉の駅より歩き始めた鎌倉散策もさすがにだいぶ足に効いてきて、鎌倉駅まで歩いてからはバスを利用して鎌倉大仏に行きました。ぬえは東京に生まれ住みながら、この有名な鎌倉大仏を見るのはこの日が初めて。(^^ゞ 野天にさらされている大仏はやっぱり不思議な存在感ですが、季候の良い時期に訪れたので大仏様も気持ちよさそうでした。真夏や真冬には瞑想もつらかろう。



最後に長谷寺に参詣して、本日のお宿に投宿しました。長谷寺からの見事な眺望。でも鎌倉に来て、ここでようやく海を見ました。お宿は海岸沿いだったので、突然山の中から海辺に連れてこられた風情です。しっとりした新緑の山と、ウィンド・サーフィンで賑わう海岸と。二つのまったく違う世界が交わらずに同居している、鎌倉はそんな不思議な場所だなあ。



この夜は、北鎌倉に住む ぬえの叔父とお会いして、深夜まで鎌倉で飲みました。我ながら、まあよく一人で長谷駅から宿まで帰り着いたものだ。(^◇^;)

<今日のお題>

鎌倉大仏のお背中に明かり取りの窓が開けられていたとは。



。。でも後ろから大仏さまを見た印象は。。

「オバQ」。。バキッ!!(-_-)=○()゜O゜)アウッ!

建長寺探訪記(その3)

2007-05-16 02:19:51 | 能楽

ちなみに会場の方丈(龍王殿)の裏には見事な池と庭園が広がっていて、これまた見ものです。あれ?ひょっとすると舞台設営のために見所からは庭園は見えないかも。。しかしまた、このタイトル画像の後ろに見える建物が「得月楼」の一部なので、ひょっとして「奉納・生粉そば」が振る舞われるのはここかも知れません。そうだとすればその窓から庭園が見渡せるでしょう(推測ですが。。)

さて方丈の下見を終えて、楽屋となる部屋も見せて頂き、これにて建長寺を後にしました。しかしまた、建長寺の境内には柏槇の大木が7本あって、その中には創建当時からあると言われる樹齢750年を数えるものもあります。これはすごい。。こいつは、ヘタをすれば頼朝を見ています。



建長寺を出た ぬえは、北鎌倉駅とは反対方向に歩き出し、次の目的地・鶴岡八幡宮を目指しました。鎌倉にいくつかある名物の切り通しを過ぎて、いくばくもなく八幡宮に到着しました。今回思ったのですが、ガイドブックなどで見る鎌倉の地図から受ける印象と比べれば、それぞれの観光地は意外に遠くはないと思います。いや、ぬえが健脚なのかも知れないし、ぬえが鎌倉を訪れたのが新緑の季節だったから、緑を眺めているうちに あれよあれよと道のりがはかどったのかも、ですが。。

ともあれ八幡宮に向かって歩いていると。。ををっ! こ、こんな店を発見!



ををををぉぉぉぉっ! (#^.^#)

で、鶴岡八幡宮に到着しました。(^_^;
う~ん。社域が広大な割には拝殿や本殿はかなり窮屈に建てられているんですね。。それでもこの神社の造作は関東でも関西でも、中国地方でもちょっと見たことのない雰囲気です。社殿の配置に特色があるのか、拝殿・本殿だけが石段の上に別格で鎮座している様子がそう思わせるのか。

ちなみにこちらが「舞殿」で、義経と別れたあと捕らえられた静が鎌倉に護送されたうえ、頼朝の命によって舞を披露する事になり、「しずやしず、しずの苧環。。」と、能『二人静』にも見える詞章を謡い舞った、とされる場所。もっとも『義経記』ではそれは「若宮の回廊」だったと思うけれど。



。。と、和琴と楽太鼓が置かれていますが、どうやらこの日はこの舞殿で結婚式が執り行われるらしく、そのための準備であるらしい。あとで鎌倉駅に向かう途中で人力車に乗った新郎さんと新婦さんが八幡宮の方面に向かうのを見たけれど、あれが舞殿で挙式をするカップルだったのかしらん。鶴ヶ岡八幡宮には境内に幼稚園もあったし、まさしく現代にも力強く生き抜く逞しさにも溢れた神社でした。

<今日のお題>

「犬元気」



鶴岡八幡宮拝殿前にて撮影。

も一つ<今日のお題2>

拝殿の梁の上にもいらっしゃいました。(*^_^*)


建長寺探訪記(その2)

2007-05-15 01:11:00 | 能楽

ご祈祷の時間が迫っていたので、巨福能の会場である方丈(龍王殿)の拝見は後回しにして、はやる心を抑えてまずは法堂(はっとう)に向かいます。建長寺には境内のずっと奥、山の中腹に奥の院とでも言うべき「半僧坊」という建物があり、そこにはお寺の鎮守である「半僧坊大権現」が祀られていて、建長寺でのご祈祷はこの半僧坊で行われます。ぬえは東京でのスケジュールの都合からこの日にご祈祷のお願いをしていて、半僧坊にてご祈祷を受けるつもりだったのですが、ところが ぬえが希望したその日は偶然にも年に二回の半僧坊の大祭の日に当たっていたのでした。この日ばかりは信徒さんが大勢集まるので、大祭の会場は半僧坊から離れて広い法堂に定められ、導師や式衆の方々もみなさん法堂での法要に大忙し。そこで 本来門徒でない ぬえのご祈祷も、信徒さんに交じって法堂での法要の中でご祈祷を受ける事になりました。

もう初夏の日差しの鎌倉で、だんだんと日が高くなるにつれて気温も順調に上る中、この法堂の中はひんやりとした空気に包まれて、上着を持ってきて正解でした~。はっくしょん。法要はやはり「般若心経」から始まりました。あまり重く用いることをしない宗派もあるそうですが、建長寺が属する臨済宗では根本的なお経なのでしょう。やっぱり「般若心経」は王道ですよね。今回の巨福能でも冒頭に「諷詠」として「般若心経」が唱えられます。

およそ30分ほどの法要を終えて、ぬえは信徒さんに交じって昼食を頂きました。巨福能の会場・方丈(龍王殿)に隣接する「得月楼」というところで頂いたのですが、これはとってもゆったりと広くて清潔な建物で、おそらくここが巨福能の際に併せて催される「奉納・生粉そば」が饗される会場にもなるのでしょう。どうも主催者からしてもこの おそばは自慢であるらしく、今回の催しの交渉や相談で頂くメールにも幾度となく「十割そばでうまいですよ」と言われるし、どうやら出演者の楽屋弁当もこの そばだそうで。おそばの昼食をお申し込みになった方はラッキーだったかも知れませんね~。

昼食では建長寺が発祥の地とされる けんちん汁も振る舞われて、幸せな気分な ぬえ。食後にようやく会場の方丈をゆっくり拝見する事ができました。





まず目に付くのは見事な唐門(重文)。門の内側から方丈の階までには白砂が敷き詰められていて、これが方丈の正玄関なのでしょうが、唐門は解放されておらず、参拝者は得月楼と共通の別の入り口から入場する事になります。この入り口から方丈の側面に至るのですが、方丈は広い座敷で、正面の仏間を除いた三方の扉がすべて開け放たれていて とっても開放的な雰囲気。巨福能当日は座敷の前方は座布団のお席、後ろ半分は椅子席(椅子に背もたれはなし)になるそうです。



座敷よりも一段高くなった仏間が舞台となりますが、幅は四間あるようですが奥行きはほぼ2間しかなく、その前に所作台のような台を並べて三間四方の舞台の広さを確保する、とのことです。すると。。囃子方やワキ、そして地謡はみんな畳の上に座るのですね。そりゃ楽だ。唯一ワキツレだけが板の上に座り、そして ぬえは。。半分畳の上で、半分は板の上で舞うのか。。うう。。未知の領域だ。

でも、ぬえは正面にあの優美な唐門を見ながら舞うのだな。これはまた贅沢かも。ぬえが目にしながら舞う景色はこちら!