ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『大会』…終わりました~(その6) 羽団扇について

2011-05-26 22:36:21 | 能楽
吉谷潔くんとは、もう来月に迫っているのですが、ぬえの生徒さんたちの発表会で舞囃子のお相手をお願いしております。10年ぶりに東京の舞台でご一緒して、とても上達していた彼。ん~ ぬえも負けてはいられないな~。

さて話は変わって『大会』の後シテで ぬえが使ったのがこの羽団扇です。じつはこれ、ぬえの自作でして。もうこれも数年前になりますか、薪能で『鞍馬天狗』を勤めた際に作ってみたものです。作業は予想よりもかなり大変でしたが…

たまたまその時に、12枚の鷹の羽根を某所でゲットすることができたのがそもそも自作するキッカケでした。これ、なかなか入手できるものではないですが、偶然の出会いで一念発起して…あとであまりの大変さに後悔しながら作業を進めた、というところですね~。

もちろん師家にも羽団扇はあって、それは巨大なものです。よくまあ、あれほど大きな羽根があるものだと思うほどで、試しに調べてみたところ、その羽根は「クマタカ」「イヌワシ」といった猛禽のものだとわかりました。これらの鳥は現在では絶滅危惧種だったり天然記念物だったりして、捕獲することができず、今となっては入手そのものがさらに難しくなっているようです。ぬえが手に入れたこの羽根は師家の羽団扇とはくらべ物にならないくらい小さいものですが、それでも鷹の羽根のようです。よくまあ市場に出回ったものだと思いますけれども。

それで羽団扇の柄を自作することにしました…これが大変だった。材料はホームセンターで買ってきた木材で、円盤型に加工されたものと、普通の角材です。(^_^;) 円盤型の木材は羽根を差し込むための穴を彫って二枚を貼り合わせるだけですが、三つ巴の文様を彫り込むのが大変~。さらにその文様に群青を塗って金箔を貼りますが、素人が金箔を貼るのは至難で、何度も失敗しながら、なんとかこれで完成としましたが、どうしても多少のシワができてしまう…素人の細工としてはこれ以上はちょっと無理でした。



柄は角材をカンナとナイフで根気よく削り出したものです。途中で「もう…これでいいや…」と諦めないために、時々思い出したように手に取って削っていったので、こちらはキレイに出来たと思いますが、仕上げるまでに半年ぐらい掛かったのではないかしら。

塗装はカシューを塗り重ねていきました。カシューというのは人造の漆で、まあペンキのようなものですね。能楽師の中にはこういう小道具を自作する人は時々あって、それもとっても器用な方がおられます。ぬえもこの羽団扇を作るときは、とっても器用で有名な観世流のEさんのお宅にまでお邪魔して、いろいろ教えて頂きました。そこで「本当は漆で塗りたいけれど、それは素人には無理かも…」ということで、人工の塗料でもキレイに仕上げる方法のアドバイスを頂いて、それに従って仕上げてみたのです。

ようやく削り出した柄の生地にトノコを塗って木目をつぶし、サンドペーパーで磨いて、そこに薄く溶いたカシューを塗ります。これをまた「研ぐ」…というのですが、やはりサンドペーパーで磨いてみると、目では見えなかった微妙な凹凸やら木目が塗料で埋まるのですね。このうえに再びカシューを塗って、さて研いで、また塗って…研いで…おそらく10回くらいはこの作業を繰り返したのではないかと思いますが、意外やツルツルに磨き上げることができました。

さて羽根の加工ですが、ちょっと良い木でできた割り箸を削って羽根の軸に差し込み、補強と装飾を兼ねて真鍮の細い針金で巻いて、最後にクリアラッカーを吹き付けて出来上がり。うまく三つ巴の柄の周囲に均等に差し込めるよう、何度も計算をして、仮組立を何度も繰り返しながら、ようやく全体が完成しました。

…どうしても師家の巨大な羽団扇と比べると見劣りしてしまいますが、天狗の姿のまま羽団扇を前に高く掲げながら登場する能と違って『大会』では天狗の姿が露見してからはじめて羽団扇を持ちますし、これを武器に帝釈天と戦うので、あまり大きすぎない方が合っているかも、でした。

『大会』…終わりました~(その5) 吉谷潔くんのこと

2011-05-25 02:17:59 | 能楽
ところで今回の ぬえの『大会』で太鼓を打ってくれたのは、ぬえの書生時代の頃から苦楽をともにした親友、吉谷潔くんでした。福岡に帰ってしまって以来、ぬえのお相手をお願いしたのは10年ぶりになるかなあ。…さあて、どんな風に変わったのかなあ、と思いながら楽しみにして申合に臨みました。腕が落ちていたら罵詈雑言を浴びせかけてやろうと思って。(`_´) …そしたら彼、とんでもなく上手になっていました。驚いた。

ぬえの書生時代、小鼓の稽古で一緒になったのが吉谷くんとの出会いの始めでした。…その頃は修業時代ですから、毎日つらいことばかりで…。師匠のお宅から外出できるのもこの囃子の稽古の時ぐらい、という有様で、小鼓の稽古は、稽古ではありながら唯一の息抜きの場所でもあったように思います。そのうえ小鼓の師匠・故 穂高光晴師には本当にいろいろな事を教わって…シテ方としては普通は囃子は1~2年程度出稽古に通って、ひととおりの知識を速成して教えて頂くものですが、ぬえは小鼓だけは内弟子を卒業してからも通い続けて、結局17年間も習いに通ってしまいました。その稽古が終わった理由も、穂高師が逝去されたからだった、という…ぬえにとって人生の師と呼べる方です。

その小鼓の稽古場で、同じく太鼓方の書生として小鼓を習いに来た吉谷くんと初めて会ったのですが、書生同士ということでほどなくうち解けて、彼が鼓を打つ時は ぬえが謡を謡い、ぬえが打つときは彼が謡う、という感じで、常に一緒に稽古をしていました。で、結局彼もまた穂高師の稽古が性に合ったのか、ぬえと同じ年月を一緒に稽古に通うことになったと。(^_^;)

いや~書生時代は彼とはケンカばかりしていました。小鼓の稽古日だけは ぬえも彼も師匠のもとに帰るのが遅くなっても許されたので、稽古のあとは必ず二人で飲んで。能について熱く語り合う…までなら良かったんですが、そのうち意見が対立して、売り言葉に買い言葉…ついに「オマエの太鼓なんかじゃオレは舞えないんだよっ」「なんだと! テメエの謡じゃ太鼓が打てないぞ」「なにぃ。。表へ出ろ!」「上等だ!」…毎回こんな。(^◇^;)… 逆に「もう、こんな仕事辞めてやる!(;>_<;)」「まあまあ…\(^_^;)」…なんていう事もあって、これは役割を替えて慰めあったことがお互いに何度も…

でも、意見の対立の原因となった能についての解釈とか、自分たちが進むべき能楽師としてのあり方、将来の展望…そういう意見の対立には結論も出ない事も多く、また後に修行を進めてきてわかった事ですが、対立した二人の意見のどちらも正解ではなかったり…そんなもんです。そんなにケンカした割には翌日にはケロッと忘れていて、「ねえ、次の稽古日にはキミ、どの曲を稽古するんだっけ?」なんて電話したりしてる。…若いってスバラシイ。 彼を通じて、シテ方とはまたちょっと違う能の見方とかスタンスの違いも知ったし、シテの独善ではダメで、囃子方の目指すところと協力しながら、どうやって1曲の能を舞うべきなのか、といろいろ考えるところもありました。

そんな事で、東京で ぬえがシテを舞うときは必ずお相手は吉谷くんでしたね。ぬえ自身の催しでもいつも彼を指名してお相手を願ったし、師匠も彼と仲がよいことはご承知で「どうせアイツと演りたんだろ?」なんて仰って、吉谷くんをお相手にする番組を組んで下さいました。ですから ぬえが彼と一緒に舞台を勤めたのは、初シテは言うに及ばず、『猩々乱』『望月』『石橋』そして『道成寺』と、披キものの曲は ほぼすべて彼がお相手。ぬえの独立披露能も、主宰会「ぬえの会」のお相手も、み~んな彼なんですよね~。

そんな吉谷くんですが、もう10年前になりますが、故郷である福岡に帰ることになりました。結局『道成寺』の披キ(ぬえ…このときはホントに命を賭けてしまいました…)のお相手が最後となって、先日の『大会』が、それからじつに10年ぶりにお相手を願う機会となったのです。

『大会』…終わりました~(その4)

2011-05-24 01:18:16 | 能楽
あとでビデオを見てみたんですが、はね除けた無地熨斗目が大兜巾に引っかかってしまって、そのうえ悪いことにその時一足に飛び上がったために、無地熨斗目がバサリと頭の上に掛かってしまったんですね。大兜巾にかからぬよう高くはね除ければよかったんですが、狩衣・舞衣の二枚の装束の袖口を握りながら、さらに右手では羽団扇の柄まで握っているので、そこにうまく無地熨斗目をつまむように持つのは大変~。

それでも稽古でのシミュレーション不足には違いありませんね。あれだけやってもまだ稽古不足だったかなあ、と思うと残念。…それでも、ここでも後見の手腕は光りまして、あっという間に無地熨斗目を ぬえの頭から外して持ち去りました。型としては、ちょうど舞働で動き出す直前で、動作には支障がなかったのでした。ありがたや~

もっとも幕から飛び出してきたツレの帝釈天はびっくりしたそうです。そりゃそうでしょう。頭からスッポリ無地熨斗目をかぶって…まるで「トリック・オア・トリート~」って言ってるみたいな紺色のお化けが目の前に。まあ、アクシデントにはすぐに気がついて、このままシテが動けなかったら…一人でどう舞う??と一瞬の間に頭の中で対策を考えていたそうです。ごめんなさ~い

さてアクシデントから抜け出した ぬえは、ん~、よく足が動きました。もともと師家の『大会』の型はかなり派手についているようですが、舞働の中の橋掛リでの ぬえの型がツレには見えず、そのためにタイミングが計りづらい、という問題点も発見されまして、稽古能のあとで師匠から「橋掛リでまた飛び上がって知らせても良いぞ」とアドバイスを頂きました。この型は、ツレにとっても解りやすくなったばかりか、またまた能が派手になりましたね~

さていよいよクライマックスのキリですが、帝釈天に追い廻され、打ち据えられてガックリと倒れ、その場から逃げ出そうと両袖で羽ばたいて飛び上がろうとしますが羽根がよじれて再びバッタリと地面に落ち…このへんは良く型がついていますね~。舞っていても楽しいところです。…ついに諦めた天狗は降参して帝釈天に向かって礼拝をすると、帝釈は怒りを静めて天上に上がって行きます。袖を頭に返して遠くそれを見送った天狗はすごすごと立ち上がってグワッシをし、橋掛リに抜けて幕際でノリ込拍子を踏み、羽団扇を放り投げて飛び返り、またまた袖を頭に返して、岩の洞窟に隠れた体。そうして最後に定型通り留拍子を踏んで終わります。

いやいや、アクシデントもありましたが、じつは ぬえ自身としては過去の演能の中でも5指に入る良い出来だったと自負しております。不思議なもので、稽古量をかなり多く取ってもそれがそのまま成功に繋がるわけではないですね。稽古が足りないのは問題外としても、多ければ良い、というものでもないようです。それから、すべての能に言えることですが、いかにシミュレーションができるか、という事が、成功はともかく失敗の対策には重要だと思います。

ぬえ自身としては、今回は良く足が動いたのがとても嬉しかったですね~。身体が重いようでは能は舞えないのですが、これまた良く足が動くのも稽古量そのままが反映されるわけでもなさそう。今回は「釈迦」面を掛け、二人分の装束を着る事によって制約された動作が、天狗の姿になった途端に解放されて、それで動きやすくなったように感じたのかしらん。

『大会』…終わりました~(その3)

2011-05-22 01:51:55 | 能楽
帝釈天登場の予感にあわてて経巻を巻くと、一畳台から飛び降りて「イロエ」になります。ここが本当に怖いところで、一畳台の上に据えられた椅子の作物から、ほとんど視界が利かない状態でジャンプするのは実に恐怖…どこかに足を引っかけてぶざまに転倒するのではないか、とか、装束の端を引っかけて作物を引き倒すのではないか、とか、脳裏を様々な不吉な予感が渦巻くところですね~。そこまでいかなくても着地するのに失敗して転ぶとか…考え出せばキリがありません~。で、結局「ままよ!」と思ってジャンプするのですが、まあ、ここで転んだ人は見たことがありません。

そのうえ『大会』では、そのジャンプで もしも、面がズレてしまったら、という危険性があります。こうなったら…もう、どうしようもありません。これは怖い。もう、何も見えなくなってしまう…これでは舞台から落ちてしまうのは必至です。ぬえは面がズレないよう、対策はとしてありましたが、それでもジャンプの衝撃にその仕掛けが耐えられるかはわかりませんから、やはり怖いです。

イロエで静かに空を見上げながら右へ廻り、足を止めて幕の方を見込むと囃子が急調になって「早笛」となります。この間にシテは笛座まで行って物着となるわけです。前述の通り、1分あるかないかの大変な物着なのですが、今回はここも後見のものすごい手際の良さが光りました。

ここで演奏される「早笛」は文字通り急調な囃子で、シテの登場にもツレの登場にも使われます。ところがそういう囃子はシテの登場とツレのそれとは区別して演奏することになっています。具体的には太鼓の手組がシテの早笛とツレのそれとはちょっと違う、というような事もあるのですが、それは些末な変化で、現実的にはお客さまにはその違いまでは伝わらないでしょう。ところがもっと大きな違いもありますのです。それは「早笛」を構成する小段の数の違いで、シテの登場には「二段」と言って三部構成の早笛を演奏し、ツレの場合にはシテよりも略して「一段」と言う二部構成の早笛を演奏するのです。

これは厳格な決まりでして、シテの物着に少しでも時間が欲しいからツレの早笛を二段にして演奏してほしい、という意向は通用しません。そこで今回は、二部構成の早笛のうち、登場前のプロローグのような役割に当たる「一段目」をあまり速く演奏せず、ツレの登場の小段になってから速めるよう、お囃子方にお願いをしておきました。これは承諾され、その通りに演奏されたのですが、いや~後見の手際の良かったこと。なんと全体で1分の早笛の中で、プロローグの一段目が終わる前に物着は完了していました。楽屋の中での着付けが相当に手間取ってしまったので、それが無事に済んだところで焦りが消えてしまったのでしょうか。

こうして早笛の中でツレ・帝釈天が走り出て来ます。シテはそれを聞きながら立ち上がりますが、物着の間に屏風としてお客さまに着替えることを見せないようにしていた装束=無地熨斗目を頭から掛けていて、まだお客さまには天狗に変わったシテの姿は見せません。シテは無言で脇座の方まで出て(無地熨斗目で姿を隠しながら)、そこに下居します。

そうして地謡が「数千の魔術をあさまになせば」の文句を謡う頃にシテは立ち上がり、パッと無地熨斗目を脱ぎ捨てて天狗の姿を初めて見せます。

…と、ここで今回驚いた大きなアクシデントが起こりました。脱ぎ捨てたはずの無地熨斗目が、なんとシテの頭に引っかかって顔じゅうを覆ってしまうことに… 絶体絶命~ (;>_<;)

『大会』…終わりました~(その2)

2011-05-21 12:46:48 | 能楽


それから作物の椅子。こちらも本来は紺地で地味に作ることになっているのですが、これも浄土の釈迦の荘厳を表すには地味に思えまして、ホームセンターで材料を買って来て少々派手目に作ってみました。こちらも前述の木葉天狗が後場に居残る新演出の場合に、一畳台を2台出すのと同時に作物を装飾する工夫が取られることがあるのを参考に、自分なりの宝座のイメージで作ってみたものです…ちょっと画像ではわかりにくいですかね?

さらに、本来は直面で演じるはずの前シテを、黒頭に「鷹」の面を掛けて勤めました。天狗物の曲の前シテは山伏と決まっているのですが、これ、天狗が人間に見えるのは、鳶に化けているときか、山伏に化けている場合に限られる、と考えられているのが反映されたものらしいですね。ともあれ直面で天狗の化身の山伏を演じるのは難しいですね。よっぽどツラ構えが良くないと…。この点やはり「鷹」は化け物の化身としての雰囲気は作りやすいので、『大会』に限らず天狗物の前シテの山伏にはよく使われる工夫で、ぬえは『善界』を勤めたときも前シテは「鷹」でした。

まあ、『大会』の場合はシリアスな内容ではなく、むしろ おとぎ話ですから、「鷹」はちょっと表情が厳し過ぎるかな? とも思いましたが、僧正に命を助けてもらった報恩に願いを叶えてあげる、と言いに行く天狗の思いは真剣なものでしょうから、それを考えれば「鷹」でもよいか、と考え直しました。その真摯な天狗の姿勢と、後場の不格好な釈迦への変装とのギャップが、また面白いのではないでしょうか。

そうして公演では、前場はほぼ考えた通りに演じることが出来たと思います。この曲でいろんな問題が待ち受けているのは後ですけれどね。中入の装束の着替えはまさに戦場でした。時間が足りないことによる焦りがミスを誘発したりして、かなり手間取ったのも事実です。こういうところ、最後はシテが手順をよく把握していてないとダメですね。物着に限りませんけれども、後見ときちんと打合せをしたうえで、最後の最後はシテに責任があると思います。工夫がある場合はさらにそうですね。着替えが間に合わないようだったので後見は作物を出すのを少しだけ遅らせましたが…それでもここからの後見の手際は素晴らしく、「大ベシ」が打ち出される前に幕に掛かることが出来ました。これなら作物を出すのを遅らせることはなかったか…

後シテは、稽古で想定はしていましたけれども、まあ、ここまで見えないのか、というくらい外が見えないです。それでも、面紐を縛る具合で面の角度が変わってしまって、まったく見えなくなってしまうなどのトラブルは絶対に避けなければならないので、面の仕掛けはかなり慎重に致しましたので、そういう事故はなく、まあまあ安心して舞台に出ました。中入の着替えが時間ギリギリだと後シテの気持ちを作るのが難しいですが、これもまあ、橋掛リを歩みながら すんなりと気持ちを作ることはできたのではないかと思います。

橋掛リから舞台に入って…ああ、もうどこまで歩んだのかわかりません。初シテ以来久しぶりに自分の歩んだ歩数を数えちゃったりしました~ (^_^;) それでも作物を巨大に作ったのでそれは良く見えて、一畳台の上の椅子にはうまく上がることができました。もうここまでで、上げっぱなしの左手はかなりつらく…経巻を拡げるところでは、自分では水平に持っているつもりなんですが、あとでビデオを見たら、やはり少し左手が下がっているようです…(×_×)

やがてワキが礼拝すると一気に囃子が速まり、シテは幕の方まで見廻して異変を悟ると、急いで経巻を巻きます。このところ、いかにもあわてているように見えるように気を付けますが、巻いている最中に正面席のお客さまが笑っておられるのが見えたので、そのように見えたかも。

『大会』…終わりました~

2011-05-20 21:27:04 | 能楽


いやいや、疲れました~ 久しぶりの切能。でもやっぱり ぬえは切能が好き。楽しく舞うことができました~。お出まし頂きましたお客さまには本当に感謝申し上げます!

…とは言っても、お出まし頂いたお客さまにはご承知なわけですが、大アクシデントも起こったのでした。ああビックリした。…それはともあれ、今回の『大会』ではいろいろとこだわりの工夫を凝らした舞台と致しました。今回はその工夫についてご紹介致したいと思います。

まず一番大きな工夫は装束と作物にあります。天狗の装束の上に、それを隠すように着付ける釈迦の装束、そして釈迦が腰掛ける「椅子」の作物ですが、どうも ぬえは以前から違和感を持っていたのです。以前にも書いたと思いますが、後シテが両手に持って登場する経巻と数珠。数珠は釈迦が用いた、という説もあるようですが、経巻は基本的には如来の教えを記録し、伝えるためのものでしょうから、どうもこれを釈迦自身が開いて読み上げる、というのはおかしいのではないか、と思っていました。…理屈に過ぎるかもしれませんけれどもね。

また、釈迦として着付ける装束は大会頭巾と掛絡、そして大水衣ということになっていますが、これもちょっと気になるところが…。大会頭巾は天狗の赤頭を隠すために必要な装束なので、とくに釈迦像などに取材したものではなく、おそらく能の作者の創作なのではないかと思いますが、問題は掛絡と大水衣。掛絡は「袈裟」のことで、いわば仏教徒の制服のような装束のはずですが、果たしてこれが、「釈迦」を表す装束となり得るのでしょうか。そうして大水衣は広袖に作られた水衣で、『大会』では黒とか茶が好んで使われているようですが、ここまで考えてくると、どうやらこの後シテが描いている姿は、釈迦ではなく、「僧」なのではないか? と考えてしまったのです。

僧は求道者として清貧の中に如来の教えを研究し実践する人々でありましょう。この意味で僧は装飾とは無縁の存在で、墨染めの衣を着て経巻を読誦し、数珠を爪繰っては自らの煩悩を滅却する道を模索するのがその姿なのではありましょうが、はたして成道した釈迦如来は比叡山の僧正が憧れる、もっときらびやかな姿であるべきなのではないか? 釈迦が住む浄土を連想させるような、そういう姿であるべきなのではないか? というのが ぬえの到った考えでした。そこで今回は大会頭巾や掛絡は着けますが(これらはみな、天狗の装束を隠すために必要な装束なのです)、師匠のお許しを得て、大水衣を舞衣に替える試みをしてみました。実際にはこれは ぬえの独創ではなくて、金剛流で舞衣を使っての上演がなされている事を知ったために、それを模倣したに過ぎませんのですけれども…

で、実際に舞衣を着てみた姿がタイトル画像です!

この画像は先日の催し当日ではなく、師家で稽古があった際に装束の着付けの手順の確認のために試みに装束を着けてみた時のものです。赤地の舞衣がわかります? 師家の大会頭巾が萌黄地だったもので、赤地の舞衣とはうまく色が合っています。煩悩から離れた釈迦の像は「衲衣」…というのかな、粗末な衣を一枚着ているだけですが、赤地に近い色の印象があるので、それも参考にして、浄土の絢爛たる世界を想像させたいと思いました。それでも今回は装束の配色にはずいぶん困ったんですよ~。釈迦から天狗に早変わりするために、まったく異なる印象の色の装束にしなければならず、それらの色の組み合わせには苦労しました~(×_×;)

能のひとつの到達点…『大会』(その20)

2011-05-18 02:14:07 | 能楽
もうひとつ、近来行われている『大会』の演出といえば、間狂言の大幅な工夫があります。

これは今から数年前に銕仙会と狂言・和泉流の野村家、そうして能楽研究者との共同の試みとして上演されたもので、今でも観世流では時折この方式による上演が行われています。

内容は、①能の冒頭に狂言方とワキによる寸劇が挿入されたこと、②間狂言の四人の木葉天狗が後場にも居残ったこと…この二つが大きな改変でした。

①は、現在では『大会』の能で前シテが中入りした後の間狂言が語ることによって初めてお客さまに明かされる内容…なぜ天狗がワキに命を助けられて報恩を決意したのか、を舞台の冒頭に説明することを目的に新たに創作された部分です。すなわち、能の冒頭に二人の京童(狂言方)が登場し、蜘蛛の巣にかかって墜落した鳶を捕獲するところを演じ、まさにその命を取らんとするとき、そこにワキが登場して殺生の戒めを説教します。それでも聞き入れない京童たちにワキは扇と数珠を与えて、ついに鳶を放させることに成功し、二人の京童は鳶を見送って退場。それからワキは常の通り脇座に下居して、「それ一代の教法は…」と謡い出します。鳶を助けたその後に庵室に戻ったワキが一人読経三昧の修行に入った体で、この部分の創作は『十訓抄』をそのまま舞台化する試みでした。

②は後場についての工夫で、謡本に描かれる内容をビジュアル化する試みです。すなわち、現行の演出では間狂言の木葉天狗は、みずからが仕える大天狗・太郎坊が釈迦の大会の有様を再現するその手伝いを命じられて、いろいろ思案のあげくに賓頭盧になることを決めて舞を舞って退場してしまって、後場はシテ一人が登場して大会の有様を演じるのですが、謡本に描かれている内容によれば、これらの小天狗たちはそれぞれ菩薩や龍神などに扮して雲霞のごとくに後シテの周囲に集まって、壮麗な大会の有様を実現することになっているのです。もちろんシテ一人しか登場しない現行の演出でも、大勢が登場している有様を地謡が謡いあげることによって、シテの意向を受けた数え切れないほどの小天狗たちは大会の景色として出演(?)しているのですが、これを目に見える形で舞台化するところが新演出の目的で、これは大変に面白いものです。

間狂言は常の通り談合して、菩薩や龍神などに化けて大天狗の手伝いをすることになるのですが、この新演出では四人の小天狗は実際に物着をして諸仏に扮するのです。このとき後見が舞台に持ち出す一畳台は常より多く二台を出し、椅子の作物も凝ったものです。そうして舞台に居残った小天狗の前に、やがて後シテが後シテが現れる、という。シテが一畳台の上の椅子の作物に腰掛けると、間狂言もその左右に二人ずつ着座して、合掌しています。まさに絢爛豪華な説法の場面が現出されるのですが、それがまた、妙にマジメくさった釈迦面を掛けた後シテと、狂言面を掛けた間狂言の取り合わせがなんともアンバランスで、天狗というどうも不器用な者たちによる「劇」が強調される演出だと思います。

…この演出は、ある種、『大会』の概念と一致しますね。この曲のひとつの見どころが天狗による釈迦の説法の有様の表現で、そのために釈迦面を使ったり、装束にもいろいろ工夫して、天狗が釈迦に見えるように苦心するのですが、それでも釈迦にしか見えない、完璧な装束着付けを目指しているのではありません。釈迦のようなんだけれど、どこか違う…後ろを向けば頭巾の下から赤頭のシッポがのぞいているし、両袖の袂からも狩衣の露が見えている…そんな不完全な天狗の化け方を目指しているのです。

さて大会の有様に扮した天狗たちですが、ワキが随喜の涙を流して合掌礼拝するにおよんで一転にわかにかき曇り、帝釈天の登場を予感すると、狂言方が演じる小天狗たちは一目散に退散してしまいます。ここが驚異的な演出で、四人の小天狗たちは切戸口と幕に別れて、それぞれ立ち上がらず、膝を屈めたままの体勢で、もの凄い速さで退場するのです。相当に足を鍛えていなければできない演出で、20数年前になりますが、おそらくその初演を拝見した ぬえはとても驚きました。こうして一人舞台に取り残された後シテ…大会の再現劇の首謀者が帝釈天と争って負ける、通常の演出につながります。

珍しい曲目に斬新な新演出。ぬえもせっかくの『大会』の上演の機会ですからここを目指したのですが、今回は ぬえのお相手をしてくださる間狂言のお流儀が野村家ではなかったので、いろいろとご相談はさせて頂いたのですが、結局この新演出の上演は見送ることになりました。そのこと自体は残念ではありましたが、見送るにあたって今回の狂言方の先生からは大変丁重なお断りを申されて、ぬえは これも古格を守るひとつの見識に感じられて、とても感動したのでありました。

能のひとつの到達点…『大会』(その19)

2011-05-17 01:07:54 | 能楽
さて ぬえの『大会』の上演もいよいよ目の前に迫ってきました。明日はもう申合です~。
今回と次回は『大会』をめぐる問題についてお話してみようと思います。

【釈迦面を使う演出について】

前述のように観世流では本来後シテは「大ベシ見」の面ひとつで釈迦如来も演じることになっています。いま観世流では、と書きましたが、じつは『大会』の後シテに大ベシ見の上に釈迦の面を重ねるのは喜多流の専売特許だったようです。それを、見た目の「解りやすさ」から他の流儀も喜多流を倣うようになったようです。(もっとも現代で日常的に釈迦面を使うようになっているのは観世と金剛流のようですが)

釈迦の面は、ほかのどの能面とも異なる面ですね。能面はすべて独創的な造形で、多少の先行面の影響はあったとしても、能面としてはすでにそこからは独立して独自の主張を持って作られているものです。ところが釈迦面だけは仏像をそのまま写した、金色の顔の造形…これは古い釈迦面が存在しない事からもわかるように、比較的近い時代…おそらく近世になってから、天狗が釈迦に化ける、というこの能の脚本をリアルに舞台上に投影するために喜多流で創作された演出だからなのでしょうね。

元々大きな造形の大ベシ見の面を隠すための面ですから非常に大ぶりで、面紐を後頭部に結んで着ける能面に共通した特長を備えている点を除けば、まるで伎楽面のようです。しかし注目すべきはやはり釈迦面が仏像そのままの造作であることで、それはこの面の表情自体は演技として主張を持たない、という事だと思います。この後シテは釈迦如来本人ではなく、あくまでそれに扮している天狗ですから、天狗が神通力によって顔を釈迦のように変化させているとしても、その顔はあくまで天狗の本性とは別であって、その意味では「仮面」であるわけで、それだからこそ釈迦面は破綻が起きないように懸命に神妙に演じている天狗が扮する釈迦如来、という以上の主張をしていない、ということを表す面なのです。この点、蛇体から菩薩へと変身するために、やはり般若と増女のふたつの能面を重ねる『現在七面』とは決定的に違っています。『現在七面』では蛇身も菩薩も、どちらもシテの持っている真実の顔ですからね。

ところで「釈迦面を使わず大ベシ見だけで釈迦を演じることが、演者の芸力を駆使する正攻法の演じ方」「釈迦面を使うのは一種のケレン」というような言われ方がされることがあるようですが、今回稽古を通じて ぬえが感じたのは、それとはちょっと違う考えでした。要するに、二面を重ねずに大ベシ見だけで釈迦と天狗を演じ分ける演出が本来の演出として採られた最大の理由は、釈迦から天狗の姿に戻る物着の時間があまりにも短いから、なのだと思うのです。同じく二面を重ねて掛ける『現在七面』の物着には「イロエ」という囃子が用意されていて、支度が出来上がったのを見てから次の場面に移るようになっていますが、『大会』では1分足らずの早笛があるだけで、場面としてもここに物着のために「イロエ」を入れるのは無理。そうなると、面を替えるのはかなりのリスクが伴うことになります。そういう事情もあって、それから大ベシ見の面だけで釈迦を演じる、その不器用さが天狗の人間味に通じる、と考えられて、あえて大ベシ見の面で二つの役を演じ分けるこの演出が、この能が作られた当時から採用されたのではないか、と ぬえは思います。

ぬえは、大ベシ見のままで釈迦を演じることにも魅力を感じますが、もともとおとぎ話のようなこういう曲では、釈迦面を使って演じるのが解りやすく面白い演出だと思いますね。後見は大変ですけれども…

ところが、いざ釈迦面を掛けたら、あまりの視界の悪さにビックリ。『現在七面』のときはあまり不自由は感じなかったけれども、今回の稽古では、正直、泣きそうでした。「今回ばかりは…舞台から落ちるかもしれない…」

…その後稽古をしているうちに歩き方や自分の立ち位置の把握のコツもつかみまして、ようやく最近、少し安心することができました。やっぱり正解は稽古の中にしか見いだせないのね~…

能のひとつの到達点…『大会』(その18)

2011-05-16 00:58:31 | 能楽
ツレ「帝釈この時怒り給ひ。とツレは足拍子を踏み
地謡「帝釈この時怒り給ひ。かばかりの信者をなど驚かすと。忽ち散々に苦を見せ給へば
とツレは打杖を振り上げてシテを打ち、シテは打たれて下居羽風を立てゝ。翔らんとすれども。とシテは正面の方へ両ユウケンしながら飛び上がり立ち角の方へ出もぢり羽になつて。と左へソリ返り飛行も叶はねば。と飛返り下居恐れ奉り。拝し申せばとツレへ向き両手をつき辞儀をし帝釈乃ち雲路をさして。上らせ給ふ。とツレは右へトリ幕へ走り込み、シテは左袖を頭へ返し見送りその時天狗は岩根を伝ひ。とグワッシ二つし左袖を返し下るとぞ見えし。岩根を伝ひ。と橋掛リへ行き幕際にノリ込拍子二つ羽団扇を後ろへ投げ捨て下ると見えて。と飛返り下居左袖を頭へ返し深谷の岩洞に。入りにけり。と立ち上がり左袖を返しトメ拍子踏む 太鼓留撥を聞き袖を払い右へトリ幕へ引く

このキリの部分は文意に即して面白い型が続いて楽しいところですね~。とくにシテはツレに打たれてバッタリと下居すると「羽風を立てゝ。翔らんとすれども」とツレを外して正面の方へ両ユウケンしながら飛び上がって立つ…羽ばたいて逃げようとしているんですね! 天狗が羽ばたくものかどうかは知りませんが、いかにもツレに打たれて頭に たんこぶを作って、ほうほうの体で逃げ出すかわいそうな天狗の様子が目に見えるよう。

ところが直後に「もぢり羽になって」とソリ返りがあって…「もぢり羽」とは羽がよじれる事で、今度は帝釈天の神通力のためでしょうか、「飛行も叶はねば」と逃げ出すこともかなわずに再びバッタリと地面に倒れ伏して、とうとう天狗は降参します。

「恐れ奉り、拝し申せば」と両手をついてツレを拝すると、帝釈天も怒りを和らげて打杖を下ろし、あっというまに天上界へ帰って行き、シテは左袖を頭に返して下居のまま伸び上がってツレの姿が見えなくなるまで遠く見送ります。さてツレに取り残されて一人きりになったシテは、飛ぶことができないので岩を伝って谷底へと下って行き、岩の洞窟の中へと帰ってゆく…と謡曲本文には書いてあるのですが、実際の型は切能の定型の終わり方です。わずかにグワッシをするところが「岩根を伝ひ、下るとぞ見えし」という文句に合った型なのと、羽団扇を捨てて飛返り、その時に左袖を頭に返す型が、神通力を無くして非力となったシテが姿を消す、という様子を表現していますが、多くの切能では幕際で飛返りをして留める曲が多く、その場合も飛返りのあとに下居してしまうものは、鬼神などで闘争に負けて逃げ去る(消え去る)シテに共通の型なのです。反対に飛返りのあとに 立っているものは、何というか、栄光のある終わり方で、たとえば同じ天狗物でも『鞍馬天狗』や、また鬼神のシテでも脇能である『賀茂』などがこれに当たります。

そのうえ短い文句で橋掛リの幕際まで行くためには ある程度走って行く感じで歩まねばなりません。多くの切能では『大会』と同じ型でシテは幕際で留めるので、このあたりは『大会』らしさ、というよりは、やはり切能らしさを印象づける留め方だなあ、と感じます。

こうして能が終わりシテが幕に入ると、後見は(あらかじめ幕の内側に待機していて)幕際にシテが捨てた羽団扇を引いてワキの退場の妨げにならぬよう配慮します。ついでワキが幕に入り、一畳台と椅子の作物が引かれると、囃子方と地謡が立ち上がってそれぞれ幕と切戸に引いて『大会』の能は完了します。

【付録】

さてこれにて『大会』の上演の順序に沿っての解説は一応終わりました。次回はもう少し突っ込んだ解説を考えていますが、その前に、前述の『大会』の本説である『十訓抄』所収のお話をご紹介しておきましょう。

『十訓抄』「第一 人に恵を施すべき事」一ノ七

後冷泉院御位の時、天狗あれて、世の中騒がしかりける頃、西塔に住せる僧、あからさまに京に出でて帰りけるに、東北院の北の大路に、童部五六人ばかり集まりて、ものを打ち掕(りょう)じけるを、歩み寄りて見れば、鵄(とび)の世におそろしげなるを、縛りかがめて、楚(すはえ)にて打つなりけり。「あな、いみじ。などかくはするぞ」と云へば、「殺して、羽取らむ」と云ふ。この僧、慈悲をおこして、扇をとらせて、これを乞ひ請けて放ち遣りつ。

「ゆゆしき功徳つくれり」と思ひて行くほどに、切堤のほどに、藪より、異様なる法師の歩み出でて、遅れじと歩み寄りければ、気色おぼえて、かたかたへ立ち寄りて、過ぐさむとしける時、かの法師、近寄りて云ふやう、「御憐み蒙りて、命生きて侍れば、その悦び聞えむとて」など云ふ。僧、立ち返りて、「えこそ覚えね。たれ人にか」と問ひければ、「さぞ思すらむ。東北院の北の大路にて、辛き目見て侍りつる老法師に侍り。生けるものは、命に過ぎたるものなし。かばかりの御志には、いかでか報じ申さざらむ。何事にても、ねんごろなる御願ひあらば、一こと叶へ奉らむ。おのれはかつ知らせ給ひたるらむ。小神通を得たれば、何かは叶へざらむ」と云ふ。

「あさましく、めづらかなる業かな」とむつかしく思ひながら、こまやかに云へば、「やうこそあるらめ」と思ひて、「われはこの世の望み、さらになし。年七十になれりたれば、名聞利欲あぢきなし。後世こそおそろしけれども、それは、いかでか叶へ給ふべきなれば、申すに及ばず。ただし、釈迦如来の霊山にて、説法し給ひけむよそほひこそ、めでたかりけめと思ひやられて、朝夕、心にかかりて見まほしくおぼゆれ。そのありさま、まなびて見せ給ひなむや」と云ふ。
「いとやすきことなり。さやうのものまねする、おのれが徳とするなり」と云ひて、下り松の上の山へ具して登りぬ。
「ここにて目をふさぎて居給へ。仏の説法の御声の聞えむ時、目をばあけ給へ。ただし、あなかしこ、たふとしとおぼすな。信だに起こし給はば、おのれがため悪しからむ」と云ひて、山の峰の方へ登りぬ。

とばかりして、法の御声聞ゆれば、目を見あけたるに、山は霊山となり、地は紺瑠璃となりて、木は七重宝樹となりて、釈迦如来獅子座の上におはします。普賢、文殊、左右に座し給へり。菩薩、聖衆、雲霞のごとし。帝釈、四王、竜神八部、所もなく満ちみてり。空より四種の花降りて、香ばしき風吹き、天人雲につらなりて、微妙の音楽を奏す。如来、宝花に座して、甚深の法門を演説し給ふ。そのことがら、おほかた心もことばも及びがたし。

しばしこそ、いみじく学び似せたりなど、興ありて思ひけれ、さまざまの瑞相見るに、在世の説法の砌に、望めるがごとし。信心たちまちにおこりて、随喜の涙、眼に浮び、渇仰の思ひ、骨にとほるあひだ、手を額にあてて、帰命頂礼するほどに、山おびたたしくからめき騒ぎて、ありつる大会、かき消つごとくに失せぬ。夢の覚むるがごとし。
「こはいかにしつるぞ」とあきれ騒ぎて見廻せば、もとありつる山中の草深なり。あさましながら、さてあるべきならねば、山へ登るに、水飲のほどにて、ありつる法師出で来りて、「さばかり契り奉りしことをたがへ給ひて、信をおこし給へるによりて、護法、天童下り給ふ。『いかでか、かばかりの信者をば、たぶろかすぞ』とて、我らをさいなみ給へるあひだ、雇ひ集めたりつる法師ばらも、からき肝つぶして、逃げ去りぬ。おのれが片方の羽交をうたれて、術なし」とて、失せにけり。


(出典:新編日本古典文学全集51 十訓抄 小学館)
※読みやすくするために一部かな表記を漢字に改めました。

能のひとつの到達点…『大会』(その17)

2011-05-15 03:10:39 | 能楽
『大会』の舞働は面白いですね! お流儀や家によってずいぶん型に違いがあるようで、流儀の他家や他流の『大会』も面白いですが、二つの区切りを持つ三段構成の舞働を舞う同じ観世流の中でも ぬえの師家の型はさらに派手なようです。

まず舞働の定型で、シテは脇座前、ツレは常座で一緒に七つ拍子を踏み、これより戦いが始まります。シテは羽団扇を振り上げ、ツレは打杖を振り上げて打ちかかり、舞台中央でツレはシテの足をすくい、シテはそれを飛び越えて下居。ツレはすぐに振り返ってシテの背中を打つ型をして「段」このときシテは左袖を頭の上に返すのが、師家の特徴的な型です。

本来袖を頭の上にかづくのは、それが立ったままであれば、空を見上げるとか、または とくに意味はなくてダンスとしての「舞」の彩りとして使われることがある型ですが、下居しての型となると、通常は姿を隠す、という意味で使われる事がほとんどではないかと思います。現に『大会』でも能の一番最後にこの意味でシテが袖を頭にかづく型をしますし。

ところが『大会』の舞働では、この型は珍しく違う意味で使われていると思います。シテとツレが打ち合う型をする度にシテが一方的にパンチをくらって、段々と追いつめられていく、というのが『大会』の舞働の意味でしょうから、打ち合うたびにシテが膝を突いて袖を頭に返す型は、シテの負傷…というか、打ち合う度の勝敗の行方を具体的に表しているものでしょう。ですから ぬえはこの型を、ガックリ膝を突きながら「あ痛!」というつもりで袖を返すのがよかろうと考えています。(^_^;) 天狗さん、なんかカワイイ。

さてシテは立ち上がってそのまま橋掛リへ抜けて行きます。ツレはシテの背後で打杖を構え、それからシテを追って橋掛リへ向かいます。幕際までたどりついたシテは振り返ってツレと対峙し、一緒にサシ込ヒラキをしてから羽団扇と打杖を振り上げて、二つ目の打ち合いとなります。今度は橋掛リの中央…二之松のあたりで「空打ち」(カラウチ)という型…お互いに相手の左側をめがけて武器を振り下ろす型をします。

「空打ち」という以上は「斬りつけたけどお互いに外した」という意味になりましょうし、現にそういう使われ方をすることが大多数の型ではありますが、『大会』では やっぱりツレの打杖はシテにヒットし、シテのそれは不発に終わった、という意味になるようで、そのためシテは先ほどと同じく、直後に膝を突いて下居して左袖を頭に返します。これにて二度目の「段」。

さてシテは立ち上がってツレと右回りにクルクルと追いかけ合って…まあ、これもシテが一方的に追い回されているのでしょう。橋掛リは幅が広くとってはありますが、シテもツレも持ち物を橋掛リの柱や欄干にぶつけないようにするために、この場面では必ず柱と柱の中間地点…二之松で型を行わなければなりません。…こういう細かい配慮は、じつは『大会』に限らず能を演じる上では欠かせませんで、ちょっとしたコツや知っておかなければならない注意事項はたくさんあります。こういうことは修行中の経験や先輩からのアドバイスとして段々と蓄積されていくもので、この作業を怠ると…ちょっとしたコツを知らないでいると舞台上の大事故につながったりするんですよね~…

さて、やがてシテは先に舞台に逃げ、脇座にて立ち居。ツレも後を追い舞台に入り、互いに向き合ってサシ込ヒラキをしたところで舞働は終わり、いよいよ終曲に向けてクライマックスに突入していきます!

能のひとつの到達点…『大会』(その16)

2011-05-14 23:56:45 | 能楽
僧が感涙を流したことで、天狗が演じる大会の有様が喜見城に知れたのでしょう、この早笛で帝釈天が走り出ます。

帝釈天は須弥山の頂上の喜見城に住んでいて、忉利天に住む三十三天を統率して仏教の敵を排し、また人間の生活を監察しているそうです。甲冑を着けた武神の姿で表されることが多い神ですが、京都・東寺の講堂には百象に乗った、美しい像がありますね。

東寺「天、菩薩、明王、如来」

能『大会』に登場する帝釈天はこれよりはずっと荒々しい姿です。
面=天神、黒垂、萌黄地金襴鉢巻、走天冠、襟=縹色、厚板、白大口(または半切)、側次(または法被肩上げ)、縫紋腰帯、打杖
じつは能の中で武神のツレの役…『大会』と同じように後シテをこらしめるツレは同じ装束付になっています。例は多くはないのですが、『舎利』の韋駄天、『第六天』の素戔鳴尊はみな『大会』の帝釈天と同装です。

…ところが面白いのが ぬえの師家の装束付けで、「法被・半切の時は黒頭」と追記が書かれてありました(!)
黒頭、法被、半切に天神面かあ…正義の味方風の印象とはちょっと離れてしまうような気もするけれど…

ともあれ早笛の中で打杖を前に高くサシながら登場した帝釈天は舞台常座に止まり、地謡に合わせてシテと対峙します。

地謡「刹那が間に喜見城の。とツレは七つ拍子踏み刹那が間に喜見城の。帝釈現れと正ヘサシ込ヒラキ数千の魔術を。あさまになせば。とサシ右へ廻り角より常座へ向き行きありつる大会。散りぢりになつてぞ見えたりける。と小廻りシテと向き合い一緒にサシ込ヒラキ

シテは「刹那が間に喜見城の」のあたりに被衣をかづいたまま立ち上がり正面に向いて出、脇座の前にて立ち居、ツレが角に行く頃に被衣をはねのけて天狗の姿を現し、すぐに帝釈天との争いを表す「舞働」になります。

舞働は短い「舞」…器楽演奏による狭義の舞で、通常は型も定型。ほんの1~2分で終わってしまいます。舞働は能の台本の中で舞台進行上に必ずしも必要なものではなく、これが存在する意味としてよく言われるのは「示威行為」とされていますが、まさに言い得ていると思います。たとえば『嵐山』『国栖』『鵜飼』などには舞働がないのですが、曲趣から言っても当然 舞働はあってもよい曲で、それがないこれらの曲は、ちょっとあっさりしているかな、という印象はありますね。

ところが舞働の中には上記の定型からはずれるものもいくつかありまして、『玉井』『項羽』はちょっと特殊な舞働です。また『大会』のようにシテとツレ、あるいはワキが舞台上で戦う場面に用いられる舞働もあって、観世流ではとくにそれを名称では区別しておりませんけれども、たとえば金春流太鼓では「打合せ働」というように呼んで区別しています。

能のひとつの到達点…『大会』(その15)

2011-05-13 07:57:10 | 能楽
さてこのイロエの中でシテは静かに舞台を右に廻り、正中あたりでキッと幕の方を見込むと、急に囃子が速め、帝釈天が登場する「早笛」になり、シテは笛座の前に廻り込み、そこで下居して物着になります

物着では二人の主・副後見があらかじめ囃子方の後方に待機していて、この曲ではさらに二人の手伝いの後見が参加します。総勢四人での大がかりな物着です。とはいえ手伝いの二人は無地熨斗目を持って出てシテの背中側に廻り、この装束を屏風にしてシテの姿を隠す役目で、その陰で後見によって物着は行われます。

この物着が本当にやっかいで、後見は大変な役目ですね。稽古の時に時間を計ってみたのですが、1分あるかないか。(O.O;)(o。o;) ぬえの師家の本来の装束付では前述の通り四つの手順だけで終わるのですが、工夫により「釈迦」の面を掛けたり、装束が増えている場合は、もう時間との勝負です。しかも、もしも間に合わないなんて事態になれば、この能そのものが続行不可能になる、という…

ですから、手順が多い場合は屏風役の後見も、空いた手を伸ばして物着を手伝ったりしてくれると大変助かります。お手伝いだけのこのような助手のような役目も「後見」とは呼び慣わしていますが、実際の仕事は屏風役ですから、書生など若い者が勤めることが多いです。…が、『大会』のように時間の制約があって、そのうえに手順が非常にややこしい場合などは、やはり装束着けの知識を持った人が手伝ってくれた方が全体の作業がスムーズになりますね。

それと、今回稽古をしていて気がついたのですが、この曲の物着で大変なのは副後見ですね。…通常後見が装束を着付ける時には、主後見がシテの前を着付け、副後見は後ろ側を着付けます(背中側で鬘を結い着ける場合や面紐を結ぶ時だけは主後見がシテの後ろに廻って着付けますが)。やはりお客さまに向く正面側の姿を整えることが重要で、その責任を主後見が負うのですね。『大会』でももちろん中入など楽屋での装束着けの場面では主後見がシテの前を着付け、そうしてこの物着でもあくまで主後見はシテの前に座って物着をし、副後見はシテの背中側からそれを手伝う、というのは同じです。

ところが『大会』の物着というのは、「物着」とは言いながら、天狗の扮装のうえに、それを覆い隠すように着付けられた釈迦の装束を取り去って、天狗の姿に戻す(?)ことが物着の作業でして、その意味では「物着
」ではなく「物脱ぎ」と言った方が実情に合っているかも。そうして、それら釈迦の装束などを結び止めている紐や帯類の結び目は、ことごとくシテの背中側にあるのです。大会頭巾の2箇所の結び目、釈迦面の面紐の結び目…水衣だけは結び目が前にありますが、今回の ぬえの工夫ではその結び目も後ろにあるという…(゜;)エエッ?

ともあれ、こんなわけで屏風の無地熨斗目の陰の限られたスペースでこれらの結び目を短時間で解いてゆく副後見は大変な役目です。とはいえ、だからと言って主後見がシテの後ろに廻ることはないのです。主後見は物着が終わって副後見らが引いてもシテが立つまで居残って、シテの装束の最終的な修正をする、いわば物着の責任者なので、物着の場面でもあくまでシテの正面からシテの姿の全体を見ながら作業を進めるのですね~

物着が出来上がると、背中側の副後見と屏風役の後見は引き、屏風に使っていた無地熨斗目は主後見の手によってシテにかぶせられます。女性が衣かつぎをするように、シテは無地熨斗目をかづいて物着をした後の姿をまだお客さまに見せないようにするのですね。

早笛は本来は二段の構成になっていて、シテが登場するときもツレなどが登場するときも笛の唱歌(メロディ)には変わりはないのですが、ツレの登場の時は一段で登場するキマリになっています。そのうえ登場のところ、役者が「お幕!」と声を掛けて幕を揚げさせるそのキッカケになっている囃子の手組があるのですが、それが打たれる箇所も、ツレの早笛ではシテの場合よりも1クサリ(1小節)前に打つことになっています。…ツレの早笛の演奏時間はシテの場合よりも あちこちが短いわけで、どこまでもシテの物着には不利ですね~(・_・、)

能のひとつの到達点…『大会』(その14)

2011-05-12 01:24:46 | 能楽
釈迦が説法をするのに経巻を読む型をするのは なんだかおかしいですね。釈迦が言った言葉を書き留めたのが経でしょうから…ところでここまで、じつはシテには大変な苦労があるんですよ。『大会』の後シテは左手に経巻を捧げ持っていますが、それこそ ずうっと左手を上げたままなんです。15分以上はそのままではないかな、と思います。経巻は決して重い物ではありませんが、装束を着ているままの腕を上げ続けているのはやはり大変です。まあ、歩んでいたり、ちょっとした型があると ずいぶん気持ちも楽になるのですが、動かないところはつらいです。ですから、少しでも型があるところで少しだけ腕を下げてみたり、いろいろ工夫して、腕が固まらないように注意することは大切ですね。

それから、釈迦の面を掛ける苦行… ああ、これは今は言いますまい。本来の型の解説がこのブログの基本ですから~ (・_・、)

さてここまでで天狗による大スペクタクル…と言っても舞台に登場しているのは後シテひとりなんですが…が一応の完成を見るわけですが、これを見たワキは、前シテに言われた「尊しと思し召すならば、必ず我がため悪しかるべし」という言葉を忘れて、ついつい感動の涙を流してしまいます。

ワキ「僧正その時忽ちに。
地謡「僧正その時忽ちに。信心を起し。随喜の涙。眼に浮かみ。一心に合掌し。帰命頂礼大恩教主。釈迦如来と。恭敬礼拝する程に。


ワキは立ち上がり、大小前の一畳台の方へ少し進んで下居、扇を置いて数珠を持って合掌する型をします。…すると突然地謡の位が進み舞台の様相は一変します。

地謡「俄かに台嶺響き震動し。帝釈天より下り給ふと見るより天狗。おのおの騒ぎ。恐れをなしける。不思議さよ。

シテは様子が変わったことに気がついて経巻から目を上げ、天を見上げ、それから急いで経巻を巻いて左手に持ち、地謡が終わるのに合わせて一畳台から一足に飛び降ります。

他流ではここですぐにツレ帝釈天が登場することもあるようですが、観世流ではここでイロエになります。

イロエとは「彩どり」というような言葉で、静かに演奏される囃子を背に、シテは静かに舞台をひと廻りする程度の型をします。能の台本の進行には直接関係はないけれども、シテの現つない心情の揺れを表現したり、神秘的な雰囲気を表すのに非常に効果的。

ぬえは『大会』では、どうもこのイロエが余計だと考えていました。それまで急に速くなって帝釈天の登場を予感させる緊張した舞台展開なのに、なぜここでもう一度ゆるやかな雰囲気に戻らねばならないのか… 他流でイロエがない流儀があるのも、まさしくこの疑問によるものでしょう。

…しかし、こういうところが能らしいのかもしれません。稽古をして感じたのですけれども、このイロエは、シテの心情をクローズアップしている場面でして、いわゆる舞台展開の時間の流れとは別に、その時間をしばらくストップして表現するのです。これを場面展開が途切れてしまう、と 以前の ぬえのように考えるか、もう一度 時間を元に戻してツレ帝釈天の登場に雰囲気が急変する様子が再現されるのを楽しむ、と見るか、ですね。

そういえば『善界』にも似たようなところがあります。こちらは唐の天狗・善界坊がついに天空から比叡山の僧正に襲いかかる場面で、地謡が一度急迫してから、さてイロエになって静かになり、シテは何度かワキを遠くから見込んで、急に囃子が速くなるとワキが乗った車の作物に走り寄るのですが、こちらは『大会』よりも解りやすい演出で、天空からワキの様子を窺って、その隙を求めてだんだんと迫り寄り、ついに襲いかかる、という様子の表現です。

能のひとつの到達点…『大会』(その13)

2011-05-11 01:03:13 | 能楽
橋掛リ一之松に止まって正面を向いた後シテは、経巻を捧げ持ったまま謡い出します。

後シテ「それ山は小さき土塊を生ず。かるが故に高き事をなし。海は細き流を厭はず故に。深き事をなす。
地謡「不思議や虚空に音楽響き。不思議や虚空に音楽響き。仏の御声。あらたに聞ゆ。両眼を開き。辺りを見れば。
シテ「山は即ち霊山となり。地謡「大地は金瑠璃。シテ「木はまた七重宝樹となつて。
地謡「釈迦如来獅子の座に現れ給へば。普賢文殊。左右に居給へり。菩薩聖衆。雲霞の如く。砂の上には龍神八部。おのおの拝し囲繞せり。


この謡い出しの文句、じつは『大会』の本説である『十訓抄』の冒頭の部分からの引用です。しかも誤写があって、少々意味が通じない文句になっちゃっています。(^◇^;) 山が土塊(つちくれ)を生じたんではそれは「風化」で、風化が進めば山は低くなってしまいますもんね。ぬえもずっと意味を図りかねていました。

『十訓抄』の本文(第一 人に恵を施すべき事)では「山は小さき壌(つちくれ)を譲らず、この故に高きことをなす。海は細き流れをいとはず、この故に深きことをなす」と記されていて、意味としては「人の本質を見抜かずにみだりに軽んじてはならない」ということでしょう。「人に恵を施すべき事」という題とはちょっとズレていますが、『十訓抄』全体に章段のテーマと例として挙げられた説話との間に混乱が見られるようですから、まあ、あんまり拘泥しなくてもよいかと。

「金瑠璃」は浄土のことですが、在世の釈迦如来が説法をした霊鷲山をそのまま浄土とする信仰があって、それに即した語。「七重宝樹」は浄土にあるという金・銀・瑠璃・玻璃・珊瑚・瑪瑙・硨磲の樹。『鶴亀』などに描かれる王宮の壮麗さの表現にこれらの言葉が使われているのも、浄土との連想を狙ったものなんですね。「獅子の座」は百獣の王である獅子のように尊い仏や高僧が座るところ。「普賢文殊」の両菩薩は釈迦像の両脇侍、「龍神八部」は天や龍、夜叉、阿修羅などの仏教の守護神たち。これらの言葉によってお寺にあって親しみのある(?)「釈迦三尊像」が描く浄土を舞台化しようとするのでしょう。

型としては「海は」と右ウケして遠くを見、また「木はまた七重宝樹となつて」とサシ込ヒラキがある程度。「釈迦如来獅子の座に」と左に歩み行き舞台に入り、角柱の手前まで出てから一畳台の方へ向き行き、椅子の作物の中へ上がって正面に向き直し、床几に掛かります。

シテ「迦葉阿難の大声聞。
地謡「迦葉阿難の大声聞は。一面に座せり。空より四種の。花降り下り。天人雲に連なり微妙の音楽を奏す。如来肝心の。法門を説き給ふ。げにありがたき気色かな。


「迦葉」「阿難」はともに釈迦の十大弟子。とくに迦葉は第一回の仏典結集呼び掛けた人物として有名です。「大声聞」の「声聞(しょうもん)」は仏の声を聞く…仏弟子のこと。「四種の花」は仏の説法のときなどに空から降るという四種の蓮華。仏の功徳を讃える天人が空中に遊んで音楽を奏する様子は、平等院鳳凰堂の、あの飛天のような感じでしょうか。

シテは「空より四種の」と上を見廻し、「如来肝心の」と左手に持った経巻を開いて両手に持ち、説法をする心でこれに見入ります。

能のひとつの到達点…『大会』(その12)

2011-05-09 01:22:44 | 能楽
すでに今回の上演における ぬえの工夫につきましては師匠にお許しも頂き、材料も買い込み(…え??)、またすでにツレ帝釈天との稽古も3度を数え、さらに今日は師匠から『大会』の稽古をつけて頂いたうえ、装束を出して後見とともに物着の打合せも致しました。

着々と準備は進んでいるようでありながら…実際に地謡を入れて稽古をしてみて初めて気がついた点もありまして、これから修正せねばならない箇所もいくつか発見されました。しかし本日の最も大きな収穫は、「なぜ大ベシ見のままで釈迦の役を勤めるのが本来の形であるのか」…その理由がわかった事でしょう。

これ…端的に言ってしまえば身もフタもない話なんですが…釈迦の姿から天狗の姿に変わる物着の時間が極端に短いから、というのが第一の理由だと思います。なんと言っても物着の時間はツレが登場する早笛の間だけしかありませんから…ひょっとすると1分もないかもしれません(!) これでは大がかりな装束替えには大変なリスクが伴ってしまいます。物着が間に合わなければ後場は全体が崩壊してしまいますから…

ここで釈迦→天狗への変身の物着の後見の手順を考えてみますと…まず「釈迦」の面を使った場合は、

①持ち物(数珠・経巻)を引く、②掛絡を取る、③大会頭巾を取る、④釈迦面を取る、⑤大水衣を取る、⑥羽団扇を持たせる、⑦被衣をかづかせる …の七つの手順。これは1分ではかなり苦しいですね~

一方 大成版の装束付によれば面は「大ベシ見」のまま替えないわけですから、上記と比べると「④」の手順だけが省略される…か。案外変わらないものですね。しかし ぬえの師家の装束付によれば「大水衣ヲ重ネルモ」…ですから重ね着をしないのが本来。そうして掛絡についても「ナシニモ」ですから、本来はあるけれども着ない演出でも良い、ということになり、そうなると上記のうち「④」ばかりではなく「②」「⑤」も省略できる可能性がある…要するに四つの手順だけで物着が完了することになります。これならずいぶん後見は楽でしょう。

まあ、実際には現在『大会』で「釈迦」面を掛けないで「大ベシ見」だけで演じた例を ぬえは見たことがありませんから、後見は大変で、まず中入で天狗と釈迦の二人分の装束の着付けを完了させ、さらに舞台上の物着で(1分以内で)釈迦の扮装を解いて天狗姿にしなければなりません。楽屋で大急ぎで着けた装束を舞台上でこれまた大急ぎで脱がす、というような手順になり、「それなら最初から着なければいいじゃんかよ~」(×_×;) と言う後見の声が聞こえそう。ああ、そうか。だから釈迦面を使わないのが本来なんですね!(違)

冗談はともかく、この物着の後見の心労は大変なものでしょう。それだからか、後見が上記の七つの手順のうち一つを忘れて、地謡が大声で注意した例を ぬえは見たことがあります。大声と言っても物着の場所は地謡のすぐ目の前、そうして囃子方が大音量で早笛を演奏中の場面ですから、お客さまは気づかれなかっただろうとは思いますが、大忙しの時間の中で物着の手順のあまりの多さに、後見もついついミスを犯してしまいかけたところを地謡から注意が飛んだ、ということだと思いますが、それほどに大変な役目だということです。

さて前回、このブログでは本来の演出を基本にしてご説明させて頂くことを宣言致しましたから、以下それに沿って舞台面を見て参りましょう。

「出端」あるいは「大ベシ」の囃子で登場した後シテは、重厚な様子で橋掛リを歩んで一之松に止まり正面を向きます。右手には数珠を提げ持ち、左手には経巻を高く掲げ持っています。この橋掛リの歩み方からして、シテとしては悩ましいですね~。天狗の感じで演じるのであれば、やや大股で豪壮な感じで出たいし…とは言ってもいつものように羽団扇を前へ高く掲げて持っていませんので、やや右半身になって歩むわけにもいかない。それでは釈迦のつもりで、しゃなりしゃなりと(…いや、それが釈迦にふさわしいのか知りませんが…)、歩むのか? それでは「出端」はともかく「大ベシ」とは合わないと思いますし。ここはその中を取って、「気持ちは大天狗、姿は釈迦」という心持ちでしょうか。