ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その13)

2008-12-31 16:29:05 | 能楽
でも ぬえにとってニフティの会議室が最もありがたかったのは、なんと言ってもここでできた友人たちが、いろんな意味で ぬえを支えてくれたことです。

自分が多少なりとも進歩しているのか。。じつは実演者はそれが実感としてなかなか掴みづらいのですよね。本当に愛情を込めてアドバイスしてくれる人というのは なかなか見つけるのが難しい。能楽師同士では遠慮もあるだろうし、お弟子さんは手放しで褒めてくださる。。なかなか損得ナシで評価をしてくれる友人を持つのは大変なことです。このニフティで、ぬえは はからずもそういう正直な評価をしてくれる友人たちに巡り逢うことができました。ダメならダメと言ってもらえるのは本当にありがたいことです。

そうして。。2001年になりますが、ぬえは初めて自分で主宰する「第一回 ぬえの会」を立ち上げることになりました。命名は、もちろんニフティの会議室の友人に育てて頂いてここまでようやく進んできた、という思いがあったからです。本名で師匠や先輩に学ぶことはもちろんなのですが、それと同等に ぬえは「ぬえ」としてネットの友人たちに育てて頂いた、と信じております。

そして、その「第一回」の「ぬえの会」で ぬえは『道成寺』を披かせて頂くことになりました。『道成寺』。。この時はとんでもなく大変な思いをして稽古を積みました。もう体重はどんどん落ちてゆくし、精神的にもかなり参りながらの稽古になってしまいましたです。

でも、その「ぬえの会」には、それこそ日本中。。と言っては大げさかもしれませんが、北は北海道から南は愛媛県、西は山口県から、ニフティの会議室の友人たち、それから書き込みこそしないけれども会議室を愛読しておられる方々が、うち揃ってご来場頂きました。これはありがたいことでしたね~。

そのうえ「お祝い」まで頂いてしまって。。これは後年、能面「十六」を買う際に、その代金の一部として ありがたく使わせて頂きました。さらにまた何年か後に、ぬえは『朝長』を勤めさせて頂く機会がありまして、この「十六」はこのときに初めて舞台で使いました。「第一回 ぬえの会」から数年後に、ぬえの『道成寺』はようやくこの『朝長』で完結したような気がします。

そういえば、この「第一回 ぬえの会」が終わってから、今度は ぬえが日本中を。。といっても福岡~山口~岡山~広島~京都でしたが、『道成寺』のビデオを片手にこれら会議室の友人たちを訪ねて廻ってご来場のお礼を申し上げました。ああ、忘れもしない。山口市の湯田温泉に泊まって、その近くの友人たちが集まってくれて、ぬえはお礼を言い、みんなは宴会を開いてくれて。その深夜、温泉に一人でつかっているとき。。ふと大きな磨りガラスの窓を見上げると、そこにヤモリが歩いていました。これを見た ぬえはなぜか。。ああ、生還したなあ。。と本気で思ったのでした。今は。。あの『道成寺』のテンションがその後の舞台に再現できないことに焦りを感じておりますが。。

ともあれ、パソコン通信というのは、ぬえにとって最高なタイミングで出会ったツールだったと思います。今のインターネットの掲示板ともブログとも違う。ミクシイなどとも、ちょっと違いを感じます。現在はミクシイなどに限らずいろいろなところに書き込みができますから、当時のパソコン通信のような密度の濃さは もう期待できないのかもしれません。

それほど、ある意味では一時期とはいえこの国の文化の一端を、ニフティは担っていた、と思います。大げさですかね?? ですから、インターネットの普及につれてニフティが一方的に会議室を縮小~閉鎖~サービス終了としてしまったのは ぬえにはショックでした。もうその頃にはすでに会員も自分のサイトを持ったり、2ちゃんねるが台頭したりと、会議室自体の発言数も減少していたので、サービス終了は時間の問題という予感はありましたのですが。。

それでも、当時から ぬえにはインターネットの広野はあまりに広大すぎてしまって。2~3年でしょうか、まったく書き込みをしない時期がありました。当時まだブログは一般的ではなく、書き込みをすべき場所が見つからなかったのも理由ですし、また自分のサイトを作る技術も、運営する自信もありませんでしたし。。

その後、両さん(←やはりニフティの会議室時代からの友人で、アクティブ同士でご結婚もされました!)の勧めもあって、ようやく3年前からこのブログの書き込みを始めた。。というようなワケです。なんだか長い道のりをたどって来たものだなあ、ぬえ。

そうこうしているうちに今年もとうとう大晦日になりました。今年一年のご愛読に感謝申し上げ、また来る年が皆さまにとりましてより良い年でありますように、祈念致しております。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます~~Y(^^)ピース!

(了)

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その12)

2008-12-28 02:39:08 | 能楽
。。というようなワケで、年末に向けて諸事に多忙な ぬえでありました。。いや、決して年賀状ばっかり書いていたわけではないですが。

ん~、ホントのことを言いますと、ぬえにとってこの年末は。。あまり良いニュースがありませんでした。まあ。。そんなに深刻というわけでもないですし、また目出度いこともあったのでなんだか複雑。公私ともにいろんなことが起こった年末ですが、まあ、おいおいご報告させて頂くこともありましょう。

さて悠さんからもコメントを頂きましたが、たしかに つい最近のことであるのに、もうパソコン通信時代は大昔のように感じられますですね。マリカ姫(2世)が失踪して、その後マリモ(2世)をお迎えして。そのことについてご報告を書いているうちに、ははあ、そういえば「マリカ」という命名もネットからだっけな! と思い返して この記事を書き始めたわけですが、書けば書くほど今とはずいぶん通信環境や、それだけに留まらずネット上の交友関係、そもそもネットで発信する、という「書き手」のスタンスまでも ずいぶん急速に変化してきたように感じます。

これまでこの記事に書いてきたことからもわかるように、当時は現在よりもずっと頻繁にオフ会が開かれていました。書き込みにIDが反映されるニフティの会議室の仕様が、通信の匿名性を著しく下げていたのが最も大きな原因なのかもしれません。他人のハンドルを騙る「なりすまし」は不可能だったので、普段の書き込みはハンドルを使っていても、現在の掲示板よりも連帯感が生まれやすく、そうなると「リアルで会ってみたい」と考えるのも不自然ではないでしょう。書き込みされた情報から同じ舞台を見ていた、なんてことがわかると、住んでいる地域が同じだとわかる。そうするとアクティブ同士で連絡を取り合って「あの公演に行く?」「それじゃ終わってからお茶でも」。。と。ぬえがニフティに入会したときにはすでに東京近郊在住アクティブによる忘年会も恒例になっていました。

ぬえもそういうオフ会に参加して、ぬえと同年輩なのに これほど能を楽しんでいる(そこでは ぬえにとっては大先輩の能楽師をほとんど流行歌手のことを話題にするように会話されていました)方がたくさんおられたのも驚きだったですし、謡や仕舞、そして囃子について、アマチュアなのにヘタすれば ぬえよりも詳しい人までありました。いや、新参者の能楽師だった ぬえにとってオフ会は本当に刺激的でした。後のことになりますが、ぬえが会議室の牽引役のような感じになってきてからも、オフ会は積極的に開くようにしていました。もともと宴会好きの ぬえにとっては苦もありませんでしたね~ (^◇^;)

でもまた、ぬえがオフ会を開いたのは、普段顔も知らない会員同士の親睦のためばかりではなくて、別な理由もあったのでした。それは前述のようなネット上での会話の行き違いから発生するトラブルを経験してから考えたことで、会議室での書き込みの文体に注意することに加えて、オフ会は会議室の円滑な運営のためにも重要な意味があると思ったのです。

書き込みの言葉によってトラブルが起こったとき。。やはり最後はネット上だけでなく、実際にそのトラブルの相手の顔を知っているかどうかは大きな違いです。現在のネット事情とは違うかも知れないけれども、たしかに当時のパソコン通信では、これによってトラブルを沈静することはできました。ですから、オフ会を開くことによってアクティブ同士が実際にお話をし、ぬえもお互いの住所や電話番号を交換するように努めておりました。

こうして、実際のところ ぬえの言葉が誤解されてトラブルになったとき、ぬえはお詫びメールを出したこともありますが、そうでなければ直接そのお相手に電話を掛けて、直接自分の声で謝罪したこともあります。前にも書きましたが、能楽師である ぬえは、能の愛好家が集まるニフティの会議室の中では、話題を盛り上げることも多かったと思いますが、一方ではじつは常に微妙な立場でもあったのです。

どうわ「かわいそうな のうがくし」

2008-12-27 22:25:55 | 能楽
むかし、むかしのものがたり。

それまで ひとびとはおなじことばをつかって、おなじようにはなしていました。
かれらは「さあ れんがをつくろう」といって、いしのかわりにれんがをつくり、しっくいのかわりにあすふぁるとをつかうようになりました。

かれらはまた「さあ まちをつくり、そこにてんまでとどくたかい とうをつってゆうめいになろう」といって たかい とうをつくりはじめました。

かみさまはこれをみて「にんげんたちは なんてごうまんになったのだろう!」とおこりました。
「かれらはおなじことばをつかっているからこのようなことをはじめたのだ」かみさまはくだっていって、かれらのことばをこんらんさせ、たがいにことがつうじないようになさいました。
こうしてひとびとは とうのけんせつをやめ、のうがくしのはなすことばは おきゃくさまにわかりにくくなったのです。

のうがくしは わかいおきゃくさまにもことばをつたえようと、できるだけ はっきりうたうようにどりょくしました。しかし かみさまは とってもとってもおこっておられたので、かれらをゆるすどころか、いっしょうつづく ばつをあたえることにしました。「おまえたちはまいとしのおわりに、ひごろおせわになっているかたがたや、ごぶさたしているともだちなどに なんびゃくまいもあいさつのはがきをだすのだ」

つづけて かみさまはいわれました。「そのはがきを がんたんにとうちゃくするように ぽすとにとうかんしなさい」「そのためには、わたしが ちじょうにつかわした きゅうせいしゅのたんじょうびまでに ぽすとにとうかんするのだ」

こうして のうがくしは、まいとし ねんまつになると まいにち ひいひいいいながら いっしょうけんめい はがきをかいているのです。

みなさんも むくちになっている のうがくしをみたら「ああ、まいにち はがきをかいているんだなあ」とおもってどうじょうしてあげてください。まちがっても「きゅうせいしゅのおたんじょうびは もうすぎてしまいましたよ」といってはいけません。かみつかれます。くわばらくわばら。

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その11)

2008-12-18 22:33:50 | 能楽
まあ、とは言っても ぬえにとってパソコン通信の仲間とのお付き合いは、とってもプラスになりましたですね。

自分が勤める能の曲について、作品研究のマネごとのような事は ずいぶん以前からやっておりました。今このブログで行っているようなことですね。しかしそれを当時の会議室に書き込むのはどうも似合わず、チケットのお申込をして頂いた方に対して連載メールで稽古状況をお知らせしたり、どのように勤めるつもりなのか、その時々の考えを発信してみたり。

また、当時はニフティサーブの会員が個別に管理人になって運営できる「パティオ」と呼ばれるサービスもありました。いわば特定のテーマについてしか発言できない会議室ではなく、特定の有志だけの座談会のような場所でして、多くの場合は管理人の参加許可によってパスワードを教えてもらう事で入室できる仕組みでした。ぬえも、自分が能を勤めるときに期間限定でパティオを立ち上げて、そこで上演について考えていることを書き込んだりしました。

そう考えると、現代のブログというのは まさに ぬえがやってきた事にピッタリ似合うサービスなのかも知れないな、なんて最近考えています。参加者がみんなで語り合う場、というよりは管理人が自分のことを発信していく場。。それは今となってはニフティの中でも ぬえはやってきたことだと気づくのですが、やはりパソコン通信出身の ぬえは、会議室という、相手もあり、その反応も確かめられる場所が根底にあって、はじめて自分が進んで来れたという感覚を持っていまして。。ニフティがパソコン通信のサービスを廃止したときには、本当に途方に暮れたものです。

その頃すでに時代はとっくにインターネットの時代に入っていて、最初はISDN、ついでADSLというように、かつては考えられなかった「常時接続」という夢のような通信環境が普及し始めていましたが、ぬえにとっては ちんぷんかんぷんでしたね~。。パソコンの技術面では ぬえ、ばかなもので。。

でもそれよりも、ぬえ自身が管理人を勤めてサイトやブログを運営する。。それこそ ぬえにとっては考えもつかない世界でした。しかも ぬえが作るとなるとその内容は 能についてあまりに専門的すぎて、読者の方にとってはコメントのつけようもない事はあらかじめ明白でもありましたし。。

そろそろ このブログも3年目になろうとしているのですが、じつは ぬえはニフティがパソコン通信サービスを廃止してから。。そうだなあ。。2~3年間になろうか。。その間はな~んにも書き込みをしていませんでした。ホームページビルダーは買ったけれど、どうしてもサイトを作ることができなかったのです。

そんなとき、ニフティ時代からの友人の「両」さんが ぬえにブログを書くことを勧めてくれたのです。「ブ・・ログ?? なにそれ」ってな感じの ぬえはいつでも時代遅れ。。

でも、両さんから勧められても、それから半年ぐらいは どうやってブログを始めたらいいか、わからないまま月日だけが過ぎてゆきました。で、ようやくブログを開設したのが3年前、それからしばらくして、ようやく もうバージョンも古くなってしまったホームページビルダーを恐る恐るさわって、やっとサイトが作れた、というわけです。パソコン通信時代からインターネットに移行するのに、ぬえは 他の人ではちょっと考えられないぐらい混乱しながらの回り道だったのですよね~。(×_×;)

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その10)

2008-12-16 00:01:37 | 能楽
それにしてもニフティサーブへの書き込みを通して、いろいろな事がありました。トラブルも含めて、ですけれども。。

たとえば、ぬえはこのブログを始めてそろそろ3年に近くなるのですが、ブログ開設当初から今まで、おそらく ぬえが書いている文体にはあまり変化がないと思います。これはニフティ時代に書き込みのやり方で何度もトラブルを経験していて、その結果、こういう書き方が一番よいようだと自分で判断した方法を守っているからだったりします。。

ブログというものは会議室や掲示板と違って、執筆者が一方的に自分の考えなりを発信していくもので、コメントは執筆者の発言に呼応して書き込まれるものですよね。ですから、ブログの執筆者の文体。。つまり態度は、開設する当初に、読者が来訪してくださるか? と不安を感じながら書く場合と、ブログにも慣れてきたあととでは変わってくる場合が多いように思うんです。「私は。。です」というスタイルから、いつのまにか「オレは。。なんだよね」へと変わっているような場合ですね。でも、おそらく ぬえにはそういう発言の態度のブレは比較的少ないのではないか、と思います。それは、ニフティの中で書き込みを続けているうちに、文体が読者に与える執筆者についての印象が大きなもので、場合によっては誤解さえ生み出すこともあると気づいたからなのです。

ぬえは、ネットでの発言は当初は 多くのみなさんと同じように「敬語」で書き込んでいました。ところが思わずも いつの間にか会議室の発言をリードするような立場になってきまして。。それにつれて ぬえも発言の文体に意識を向けるようになりました。それで、わざと「だよね~」と、友だちに語りかけるように文章を工夫した時期もあります。

たとえば会議室に「はじめまして。。」と 初めて書き込みをする方があったとして、そうしたら ぬえは必ず1~2日以内に「いらっしゃいませ」と歓迎のレスを、これは「敬語」を使って書くことにしていました。はじめて掲示板などに書き込みをして、反応がある、それも常連さんから歓迎してもらえるのはうれしいものです。逆にいつまでも誰もレスをつけてくれないと、なんだか部外者扱いで無視されたような気分になって、その掲示板からは足が遠のいたりしてしまうものですよね。ですから初めて投稿された方には迅速に歓迎のレスをつけるように気を付けていました。

それで、その方が再び書き込みをしてくださったら、今度は ぬえは2回目からのレスには敬語を使わないようにしました。「また来たね! 待ってたよ」と、すでに常連の仲間のようにその人と接するようにしたのです。この方法は、ぬえ、今では止めてしまいました。それは、馴れ馴れしい態度を取ることが、ぬえの場合、その立場ゆえに微妙なニュアンスを持っていたからで、ぬえも当初はそれに気づきませんでした。

しかし書き込みというものは、ちょっとした行き違いとか誤解、そして言葉の使い方によって、突然 思いがけず口論になったりすることがあるんですよね~。。

ぬえも幾度か、書き込みをされている方に不快感を持たれたこともありまして。。「さようなら、もう書き込むことはありません。ここはまるで学校のようでした」と言われたこともあるし、不快に思われたらしい新人さんに対してお詫びメールを出したこともあります。やはり言葉遣いは大切ですね。能楽師として書き込みをして、そのスタンスが「ご質問歓迎」であるならば、なるほど発言のやり方によっては、自分ではそう思っていないまでも「上から見下すような態度」に見えてしまう事はあるでしょう。

そういう反省に立って、また、やはり能の会議室に書き込みをしてくださっている方は、ぬえにとって友人や仲間でもあると同時に、能を愛して支えてくださっている、大切な方だな、と考えて、それ以来 言葉遣いには気を付けるようになりました。

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その9)

2008-12-11 01:12:06 | 能楽
ほかにも当時の「六百年らいぶ」のアクティブは東京在住の人、それも ぬえと同年輩の若い人が多かったため、ぬえ宅に集ってクリスマスパーティーをした事もありますし、京都にみんなで遊びに行くのが目的の「舞妓さんに変身ツアー」みたいなものも企画されたことがあります。このときは ぬえもついて行きましたが、さすがにこの時ばかりは ぬえはツアコンではなく、傍観者でありました~。関西のアクティブもみなさんお集まりになって、大騒ぎのオフ会でありました。そうそう、オフ会と言えば「炸裂オフ」というのもありましたね~。マリカちゃんって誰? という疑問が出されたのと同じで、ROMにしてもあまり頻繁には会議室を覗いていない方にはわからないような、話題の流れを把握している常連さんの間だけで符丁のように いろいろな言葉遊びで楽しんだのもこの頃でありました。ぬえも、若かったね~

が、しかし。

ここまでアクティブが親密になるまでには、結構いろいろと紆余曲折もあったのです。通信の中で ぬえが学んだ事も多かった。

先に書いたように、ぬえはニフティの能の会議室の中では初めての能楽師の参加でした。結局、最初で最後でもありましたけれども。。当時の ぬえは、まだ能楽界の中でも、ネット社会の中でも、右も左もわからない状態でしたが、ニフティの会議室では最初から常連さんに歓迎されて、いい気になって書き込みを続けました。

でも、書き込みを始めて2~3ヶ月もしないうちに、会議室の雰囲気が少し変わってきたことに、ネット初心者の ぬえも気がつきました。何と言ったらよいか、ひと言では説明できないですが、ぬえがそこに存在していることが、会議室全体の発言の内容に微妙に影響を与えていました。なんと言うか、常に ぬえがいることが意識されているというか。。今だから言えるんですけれどね。

能を見ることを楽しみに集って、舞台について、演者について会話を楽しんでいる方々の中に、実際話題にのぼっている演者とも楽屋で顔を合わせる ぬえも参加している。。そんな息苦しさのようなものもあったでしょう。当時は能の実技を、それも謡だけではなく狂言の稽古をしている方も、相当熟練したレベルで囃子を習っておられる若いアクティブもありましたから、そういう方を中心にしばしば実技についての話題も熱く語られていましたが、本職の人間を前にして、どうも書き込みがしにくい、という事もあったと思います。

しかし実際の当時の ぬえは、今と同じく囃子オタクで、大学の能研上がりという出自もあって研究好きでしたが、いかんせんまだまだ修行中の身で、知らないこともたくさん。。というか、知らない事だらけでした。だからこそ、ニフティサーブの会議室に初めてアクセスしたとき、そこでは好きな演者の舞台の感想などのある種のファンクラブ的な発言ばかりではなく、実技についての疑問点に関して情報を交換し合ったり、はたまた真摯な舞台評まで展開されていたのを目にして、大変興味を引かれて参加したのでした。

当時の ぬえは、今と同じスタンスだと思いますが、能楽師であることは公言して、そうして舞台について疑問があれば質問は歓迎致します、できる範囲内でお答えしたいと思います、と申していました。やっぱり勉強の機会と、会議室を捉えていたのです。当時の ぬえは若手の一代目の能楽師として、情報量の絶対的な不足にあがいていた時期でもありました。でも能楽師が能の会議室で、しかも毎日のように発言するという事は、結果的に会議室のそれまでの空気の流れを変えてしまったのかな。。とも思います。そうして、ぬえの登場を歓迎して下さった方々と同時に、去って行ってしまわれたアクティブの方もおられたのです。当時 Board Leaderと目されていた方をその手はじめとして。

ぬえが参加することで会議室の雰囲気が変わってしまうのは、考えれば必然であったでしょう。当時の ぬえはそこまでは考えずに、またそれを考えるほどの立場でもないと考えて会議室に参加しましたが。。結果的にそれまでの会議室の雰囲気を変えることになってしまった。。それが ぬえ以前に会議室での会話を楽しんでおられた方々にとって乱入に当たる行為であったならば。。申し訳なかったと、ぬえは今でも思っています。

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その8)

2008-12-10 03:05:37 | 能楽
さて ぬえもようやくパソコン通信にも慣れて、当時から毎日のように書き込みはしていました。

が、ぬえは基本的にアナログ人間なのか、会議室でも書き込むことそのものや、話題になっている事柄について調べたりするのが好きなようで、パソコンの機能の事もよくわかっていないし(いまだに。。)、ましてや会議室の運営について議論が行われても、ぬえはいつも部外者みたいな人でしたですね~。。

そうこうしているうちに古典芸能を語る会議室は分割されて、能だけを語る場所ができました。そしてまた、どういう経緯になるのだか、これらの会議室はまとめて演劇フォーラムから独立して伝統芸能フォーラムというものが発足することになりました。

伝統芸能フォーラム、別名FDENTOU。パソコン通信では接続すると会議室やそのほかいろいろなサービスへ移動するのには必ずコマンドを打ち込んだものです。伝統芸能フォーラムへ移動するのには >GO FDENTOUというような感じでした。ぬえはここでもエラーばっかり出していたなあ。。(×_×;) そして能の専門の会議室は「六百年らいぶ」という名称を得たのでした。当時のアクティブたちがアイデアを出し合って、自らの会議室につけた名前が、演じられた途端に消えてゆく運命にある舞台芸術を「ライブ」と捉えて、それが6世紀に渡って演じ続けられてきたことへの称賛が溢れているような、そんな名前だったことが、アクティブたちが能を愛してくださっているその心の現れのようです。。ここでも ぬえはあまり命名には積極的に関わらなかったような気がします。こういうのはヘタなんですよねえ。。ぬえ。

それでも当時のアクティブたちは非常に活発だし、なんと言っても姿勢が前向きでした。攻めていましたね。ぬえもこれには共感して、何度か会議室(の有志)主催で能のワークショップを行ったことがあります。名付けて「セミナー六百年」!! 参加者はアクティブ自身でもありましたし、また会議室で宣伝して参加者を募ったり。これが割と反響もあったのです。

ここは ぬえの本領を発揮する場でした。第一回目は「能楽堂楽屋ツアー」でしたね。ぬえの師家のお弟子さんの発表会が能楽堂で催されたときに、参加者はお弟子さんの家族や関係者に交じって楽屋に入って、ぬえが楽屋の施設や部屋割りを説明してまわる、という感じ。能の公演の際にはとても無理なことですが、このときは幕の内側。。鏡之間にも入って、素謡が上演されている舞台を幕の内側から見る、ということもできました。

その後も「セミナー六百年」は回を重ねて。。5~6回ぐらいは行ったのではないでしょうか。能楽堂を借り切って舞台に上がってみる、なんてことまでしました。テープで序之舞を掛けて、それに合わせて即席の稽古でみんなで序之舞を舞ってみる、というのもありましたね。ぬえが先頭に立って「はい~~、こんどは左手は下ろして、扇を前へ出しながら、あちらの柱まで行きますよ~~。はい止まる!次は足拍子です。左から。。笛をよく聞いて! ヲヒャーーラーーリ。。はい ドン! すぐに右足でもう一つ!」。。いやはや、受講されておられる方はいい迷惑だったかもしれません。10分近くに渡る序之舞を、ぬえの口から聞き、目の前で見る模範演技になんとか遅れないように合わせて舞え、というのですから。。

右往左往。。というのが実情であったとは思います。思いますけれども、でもまあ、まがりなりにも「能舞台の上で序之舞を舞った」という経験は間違いなく成就されたわけで。こういうところから能を身近に感じて興味を持って頂けるのであれば、それは ぬえとしても嬉しいことです。ぬえはその後、今に至るまで自分が能楽講座のようなことを行う場合には、この序之舞を舞う体験をしばしば取り入れています。

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その7)

2008-12-07 00:35:21 | 能楽
こうしてニフティサーブの仲間によって命名して頂いたのが、初代のマリカ姫でありました。

後日考えたのですが、よくまあ うさぎさんのお名前募集があの会議室で許されたものだな~。。

前述したと思いますが、ニフティサーブの会議室というのは、参加者によって立ち上げられたものではありません。あくまでニフティサーブの運営側の判断で「この会議室ではこの話題を取り扱う」と決めて設置されるのです。その後参加者の傾向によって、これまた運営側の判断で会議室は分割されたり、閉鎖されたりもしました。実際のところ、当初 能、歌舞伎、文楽、落語などを話題とする会議室は伝統芸能の会議室として「演劇フォーラム」の中にひとくくりにされていましたが、その後 能、歌舞伎などジャンルごとに別々の会議室を持つようになり、ついには「伝統芸能フォーラム」として「演劇フォーラム」から独立するところまで行きました。これらは参加者の希望もあったでしょうが、あくまでニフティの判断によって行われた編成替えでした。ま、「横暴」とか「言論統制」とか、一部の参加者からはずいぶん言われてもいましたけれども。

で、各「フォーラム」の中に会議室は所属しているわけですが、どのフォーラムにも必ず テーマを設けていない会議室がありました。

それは、専門の会議室のテーマに合わない雑談をするための会議室でもありましたけれども、同時にある会議室で交わされている話題がテーマからズレたとき、管理人(「シスオペ」と呼ばれていました)によって、その話題のスレッドごと(当時はスレッドとは言わず「ツリー」なんて呼んでいましたね)この会議室に移動されてしまうのです。(^◇^;) 「雑談会議室」でもあり「隔離病棟」でもあり。。

たとえば能の会議室で国立能楽堂で催された ある公演について話題が出たとして、会話が長引いてくれば公演から話題がズレて、能の話題でなくなったりすることがあります。国立能楽堂のそばに おいしいお店があるとか、そんな たわいもない会話の展開なのですが、これはNG。楽しんで書き込みをして、翌日会議室を覗いてみると、その発言はスレッドごと この雑談会議室に島流しの刑になっていると。。(O.O;)

うさぎさんの名前募集は明らかに会議室の あるべき話題からは逸脱していましたが、当時の ぬえはニフティには新参者でそれにも気づかず、そしてなぜかこの話題は移動させられませんでした。ん~なぜだったのかなあ。。

やっぱり能楽師が参加したことで、なにか新しい展開が起きるかも? と考えられて、新参者の ぬえは放置されたのかもしれませんですね。「今回だけは目をつぶろう。。」

後日、「演劇フォーラム」から「伝統芸能フォーラム」まで、ずうっと ぬえがお世話になった会議室のシスオペを勤められた こさ・ふなさんにお会いする機会がありましたが、お会いしたその場で「いつもBLやって頂いてありがとうございます」と言われました。へ??BLってナニ?

聞けば「BL」とは Board Leaderで、会議室の進行役のような人のことでした。これは引き受けるといった役職のようなものではなく、自然に会議室に醸成されるのだそうです。ん~~??そんなつもりもなかったのだが。。でもまあ書き込みはほぼ毎日していましたし、ニフティがパソコン通信の役割をインターネットに譲って閉鎖される頃には、ぬえは最も古いアクティブの一人になっていました。シスオペさんはそこまで見越して ぬえの暴走を見逃してくれたのかなあ。

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その6)

2008-12-05 23:54:26 | 能楽
そういうわけで、接続はできるだけ短い時間で済まし、その間にいかに多くの情報を得るか、というのがネット。。というかパソコン通信の時代の通信のあり方でありました。今のようにまるで散歩をするようにあちこちのサイトをネットサーフィン(←死語)をして気ままに情報を集めたり、ましてやオンラインゲームなんて発想は当時はまったくなかったですね~~。

そこでユーザーは必然的にいつも自然に情報が蓄積してゆく場所を見つけると、毎日サッとそこへ接続して、情報を集めるとプチッと回線を切断する、という方法に傾いていくのでした。そういう状況だと多くのユーザーが集まって書き込みをするニフティサーブのような場はとっても重宝だったのですね。

こうして ある特定のサイト。。といえるかどうかは微妙ですが、そういう場所を「巡回」するのが、何というか生活習慣のようになってきます。そうすると、自然に「巡回ソフト」というものも出現するわけで。ぬえにはアプリを作るなんて才能のある人はほんとうに不思議ですが。。だって、13年も通信していて、パソコンの内部を開けてメモリを増設することも。。今週はじめてやってみました。あら~作業が速くなったよ~~??(←ばか)

当時の ぬえはマックを使っていましたが、マックの場合は「茄子R」という奇妙な名前のログブラウザが普及していました。あらかじめ書き込みを見たい会議室を登録しておいて、「魔法のナイフ」や「ぞーさん」という、これまた変な名前のソフトを組み合わせて会議室を自動巡回させて、オフラインにしてから集めたログをゆっくりと読むのです。発言があればそのログブラウザに書き込みの機能があって、そこに書いておけば次回の巡回の時に自動的に書き込みもしてくれました。メールも送受信できたし、メール機能ではアプリケーションやファイルの交換もできましたから、実際 ぬえはこれだけで十分に用が足りたのです。

そういえば。。たしかにネットスケープは当時からちゃあんとありました。でも当時は、まず ぬえのパソコンのスペックの問題、通信速度や課金の問題、そして何と言っても能についてのサイトもほとんどなかったこと。そして一方ニフティサーブにはこれほど情報が集まり、苦労なくそれを集めるフリーソフトも充実していましたから、ぬえは むしろそこに安住してしまったのですね。後々これが、ぬえがネット社会に取り残される原因となりました。

さて、いよいよニフティサーブの伝統芸能の会議室で書き込みを始めた ぬえでしたが、まあ最初は何を書いてよいかわからず、手探り状態だったです。当時のアクティブが快く迎え入れてくれたので段々と軌道に乗って。。そうして書き込みをしたのが、最初にお迎えした うさぎさんのお名前募集だったのです(あ~、ようやくこの話題にたどり着いた)。

まあこれが。反響はたくさんあったのですが、いや何というか無責任な(失礼。。)命名が多くて参りました。最初の うさぎさんは黒いうさちゃんだったですが、足の先だけ白い、と書いたら「じゃ、能楽師のおうちの うさちゃんだし、たびぃちゃんでは?? 足袋をはいているってことで」ん~、ちょっと違う。

ほかは忘れましたが、「家の中で女王さまのように振る舞っている」と書いたところ、あるアクティブさんから「それではマリカちゃんでは?」というアイデアが寄せられました。んんっ!? 忘れもしない。そのアクティブさんはYOSEさんといいましたが、後に会ってみると若いお嬢さんでした。なんでもアラビア語を習ったことがあるそうで、マリカとはアラビア語で「女王」なのだそうです。これだっ!

ちなみに王様は「マリク」。ずっと後にエジプトを訪れた ぬえは遺跡のお墓のガイドがアラブの観光客に説明しているのを立ち聞きして、あらホント、「○×※△○◇マリク※×◇。。」と言っていました。

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その5)

2008-12-04 19:21:25 | 能楽
当時のニフティサーブは、実働している会話の場として「会議室」というものがあり、その話題を大きくジャンル分けした「フォーラム」というくくりがありました。能を含めた伝統芸能を話題にする「にっぽん座」という会議室があり、その会議室は「演劇フォーラム」という、ほかの会議室を含む大きく演劇全般を話題にするフォーラムの一員、という形で、その演劇フォーラムは「FSTAGE」とも呼ばれていました。

さすがに ぬえは音響カプラーは使ったことがないが、さぞや通信速度が遅いのでしょうね~。。

何度も書いていますが、当時のパソコン通信はテキストだけしか表示されませんでした。そのうえ ぬえを含めて当時の通信方法は電話線にモジュラーケーブルを差し込んで通信するのが当たり前でした。通信している間にも電話料金がどんどん加算されてゆく。。

ついでながら、ニフティサーブの会員は課金の方法によって支払い区分を選んでいました。ときどきしか利用しない、たとえば自身では書き込みをせずに、他人によって書き込まれた情報を閲覧するような人(これをROMと言っていました。。今でも言うのかな??)などは、ニフティサーブに接続している時間だけ課金されるコースを選んで、もちろんこれが最も安価な会員料金だったのだと思います。

それから、毎月の定額の会員料金を支払うコースもありました。これにもいくつかコースの種別があったのだと思いますが、どういう区別だったかな。。? たとえば ○千円のコースだと1ヶ月に○時間まで接続できる、○千円のコースだと接続時間の制限がない。。とか、そういうシステムだったかなあ。。? 会員料金のコースなんて、一度選んで決めてしまうとあまり変更することがないので記憶があやふやですが、そういうような感じだったと思います。

これでもわかるように、ニフティサーブに接続すると、会員料金と電話料金の二つが同時に加算されていったのです。泉さんにコメントを頂きましたが、これらをまとめて「課金」と呼んで、会員はいつも時計とにらめっこで料金の心配をしながら接続していたのです。

そういえば当時、夜11時過ぎから電話が掛け放題になるNTTのサービス「テレホーダイ」というのがあって、会員はみんな夜11時になるのを待って接続していたなあ。。チャットの機能もニフティサーブにはありました(当時はリアルタイム会議室=略してRTなんて呼んでいました)が、これも金曜の夜11時に開始する、というのが定番でありました。

ところで、書き込みをする場合、内容は会員は事前にテキストエディタを使って文章を作っておいて、ニフティサーブに接続してそれを一気にペーストする、というやり方が一般的だったと思います。それは現在でもブログを書いている方はあらかじめ文章を完成させてからコピーペーストで書き込みをされておられる方が多いと思います(ぬえもWordで下書きをしてから書き込みをしています)が、それは接続しながら書き込むよりも文章の間違いなどを推敲しやすいから、というのが一番の理由でしょう。ところが当時はこのように接続するとどんどん課金されていくという事情から起こった当然の処置で、ぬえなどは当時から長文の書き込みをするクセがありましたから、事前に文章を完成させてからでないと、とてもとても書き込みはできなかったのです。

それでも当時、なぜか接続したまま書き込みをする常連さん(アクティブと呼んだ)もありましたね。「あ、いまお湯が沸いたからお茶を入れてこよう。続きはまたあとで」なんて書き込みがあると、「ええっ」「オン書きか」なんてコメントがついて勇者扱いになっていました。(^◇^;)

マリカ姫とはだあれ?(付・ぬえのネット史)(その4)

2008-12-02 03:30:52 | 雑談
かくして無事? ニフティサーブの能。。というか伝統芸能専門の会議室に、今と同じ「ぬえ」というハンドルで入会できた ぬえ。ここで ぬえは本当に驚く体験をしたのでした。

まあ、そこでは 日頃ぬえが「○○先生」とお呼びしなければならない能楽界の大先輩たちが、「アクティブ」と呼ばれていた常連さんたちによってニックネームで呼ばれていました。親愛の情の表現であることはもちろん疑いないのですが、こういう、公的な場でそのような呼ばれ方をされて、と ぬえは驚いたものですが、そこでは本当に気さくな友人たちの会話、という感じで舞台評や、遠方でその舞台を見ることができない「アクティブ」との意見交換が交わされていたのです。

ぬえは、こういう場にどうやって参加したらよいものかな? としばし考えましたが、結局 最初から玄人であることを隠さずに参加することにしました。隠したっていずれわかることですものね。そして「能をご覧になって、わからない点などはお気軽にお尋ねください」と最初から言うことにしました。現在 ぬえがミクシイやGREEなどで行っているのと同じスタンスはここから始まりました。当時の ぬえは内弟子を卒業してまだ間もない頃だったので、自分がこういう「公的な場」で発言する事がどう自分に跳ね返ってくるか、また 玄人と公言する立場での発言が、ネット通信さえ初心者の ぬえにとって、あるいは ここにすでに構築されている「場」にとって邪魔になるのではないか?? と、本当のことを言えば不安も多かったのですが。。

で、最初に会議室に発言を書き込んで、すぐにレスがつきました。それはそれは、すでに会議室に在籍していた「先輩」の「アクティブ」の方からは「おおっ、能楽師が初めて姿を現したねえ」「よろしく~」と好意的に受け入れて頂いて。ああいう体験も初めてだったものですから、いや 嬉しいものですね。

聞けば、アクティブの中には大ベテランもおられて、「最初の頃は通信には音響カプラーを使っていました」という人もありました。「音響カプラー」とは、モデムがまだ普及していない頃に使われていた通信のための接続器具です。ぬえも実物は見たことがあるかどうか。。

ぬえが通信を始めた当時はパソコンから情報をネットに送信するとき、それが電話というアナログ回線を経由させるために、まずパソコンからモジュラージャックにケーブルを接続して、モデムを使って情報をアナログ信号に変換して送信するわけです。この信号を音で聞くと、前述したようにファクスのような異音となって聞こえるのですが、音響カプラーはそれより以前、すなわち電話線がモジュラージャックとして建物の壁から抜き差しできる状態ではなかった当時、ケーブルでの接続は不可能なので、電話機の送話器に直接取り付けて通信をする器具が必要だったのです。

それが音響カプラーというもので、パソコンに繋いで情報を送信すると、それが音響カプラーの小さなスピーカーから音信号として出力され、その「音」が電話機の送話器に取り込まれて送信される。。つまり人間が話をするために作られた電話機に、声の代わりに、音声として変換されたデジタル信号を流し込む、という仕組みになっていました。あらかじめプロバイダの持つ、一番近いアクセスポイントに電話回線を接続しておいて、発言者はそこにこのような「音声デジタル信号」を送り、プロバイダ側ではその音声信号をデジタル信号に復原して、そうして初めてネットへの書き込みや、メールその他の情報の送受信ができたのですね。

当然、このような方法ではケーブルに直接繋ぐ方法よりも情報の伝達にとっては不利で、送受信には より時間はかかるし、周囲の雑音にも影響される。。それでも当時としては画期的な機器だったろうと思います。そんな苦労をしながら、早くから通信をしていた人まで、その会議室にはおられたのです。