ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その11)~「ともしびプロジェクトin気仙沼女子高」

2014-04-24 01:36:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼女子高は港に面した高台の上にカマボコ型の体育館が見える、いわばひとつの気仙沼のシンボル的な建物で、内湾地区からはよく目立って見えます。ああ、山が迫っていて敷地が狭いから校舎の上に体育館を建てたのね。。とは思うけれど、まさか中に入ってみる機会が訪れるとは思いませんでした。

じつはこの気仙沼女子高、この春に統合されて廃校になるのだそうです。それで友人の杉浦恵一さんが主宰する「ともしびプロジェクト」という、震災の月命日の毎月11日にキャンドルを灯そう、という運動を全国展開しているボラ団体が、3.11の夜に教室でキャンドルを灯すイベントをすることになりました。なんでも在学生と一緒に手作りキャンドルを作って、震災の犠牲者への追悼の意味もあり、また校舎への感謝も表すための催しだそうで、この夕べは区域は限定されてはいましたが、一般の人も学内に入ってこの催しに参加することができたのでした。

元のエースポートのあたり。。いまは大島へのフェリー乗り場がポツンとあるだけの空き地になってしまった場所に車を停めて女子高に向かいました。ああ、やはり女子高は見上げるほどの高層建築です。まず入口まで階段を上り、さらに坂道を上って昇降口に入り、そこから2階、3階、4階まで教室は積み重なって。。そのうえ体育館はさらにそれより上階。。これは生徒さんも大変だ。



さて今回の会場となった4階に上がってみると、もう廊下からキャンドルが並べられていて、すでにロマンチックな雰囲気になっていました。



そうして教室は、キャンドルを並べて「ありがとう」の文字が浮かび上がり、並べられたままの机の上にもキャンドルが。人はごった返していたし報道の方もありましたが、歩き回るのが困難、という程の混雑でもなく、ぬえは時々 授業中と同じ様子に並べられたままの机から椅子を引き出して、それに座って休息しながらキャンドルを眺めることもできました。





こちら、緑さんに ぬえからポーズ注文して撮った写真~



杉浦さんの「ともしびプロジェクト」とは去年の夏、地福寺でのお盆の送り火の催しで『羽衣』を舞ったとき、たくさんのキャンドルを灯してくれて、大変ロマンチックな催しになりました。それからのお付き合いですが、昨年秋の ぬえの師家の学校公演で鹿折を訪れたときにもお目に掛かったし、なんだか もともとの性分なのかすぐに誰とでも仲良くなってしまう性格の方ですね~。この日は奥様と去年生まれたばかりのご長男にも会うことができました~

さてこうしているうちに夜も暮れてゆきました。
窓から見下ろすと、内湾全体が一望に。やっぱり海がある街は良いなあ。



この日は上演こそ煙雲館のみでしたが、朝の楽屋入りからずっと移動が続いていて、笛のTさんはちょいとお疲れ気味。でもこれからまたもう一つイベントを見る予定でした。

それが「3.11からのヒカリ」。その開始時刻ももうすぐです。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その10)~追悼式典に参列

2014-04-21 08:36:57 | 能楽の心と癒しプロジェクト
煙雲館を辞して、まずは以前に催しをさせて頂いたリアス・アーク美術館にお伺いして打合せ。その後、3.11のこの日、3年目にして念願の公式な追悼式典に参列することができました。

気仙沼市の「東日本大震災追悼式」は、山の中腹にある「総合体育館」で、「ケー・ウェーブ」という愛称がつけられています。大勢の人が集う集会を行うのには気仙沼市内では最も適した建物で、ここは震災時には避難所にもなり、現在でも敷地内に仮設住宅が建てられていました。

はじめて訪れた追悼式。この日は一般車の乗り入れは禁止され、市内各地から送迎バスが運行されていました。が、ぬえたちが打合せをしたリアス・アーク美術館からはほど近く、2つの建物を結ぶ遊歩道がありましたので、ぬえたちは美術館に車を停めたままで徒歩で体育館に向かいました。

ケー・ウェーブは、何度かその前を車で通りかかったことはありますが、はじめて近くで見ると、近代的で立派な建物でした。震災の時間。。2:46に合わせて気仙沼市による追悼式典が行われたのですが、その時間は煙雲館で上演中だった ぬえたちはそこには参列できず。しかしながら献花は夜までできるという事で、そちらだけ参列させて頂きました。





夕方に伺った体育館は閑散としていましたが、市によって献花のための花は用意されていまして、アリーナに設けられた祭壇に献花させて頂きました。

市による追悼式の様子はYoutube で紹介されていますね。

あ! 献歌をしているのは、去年の秋に学校公演でお邪魔した鹿折小の子どもたちじゃないか!

この日、同じ時間に東京の国立劇場では国による追悼式典が行われていて、「黙祷・内閣総理大臣の式辞・天皇陛下のおことば」が気仙沼の式典会場に生放送されたそうです。

国式典での天皇陛下のおことば
市式典での菅原市長さんの式辞

これまでの2回の3.11は石巻にいましたが、ほとんど湊小学校の楽屋。。体育館のステージの上にいて、あまり市内を見回ることができませんでした。この日は震災から3年を経て、はじめて気仙沼で、震災のその日に向き合う街の姿を間近に見たような気がします。

普通の、いつも通りの街並み、人や車の流れでありながら、やはり みんなが3.11を意識しながら。。街中では笑顔も多く見ましたが、式典会場は重い空気。。やはり恐ろしい災禍がこの街で起こったことは忘れてはならないです。

ケー・ウェーブに到着した頃に傾き初めていた陽も、ぬえが会場から出てきたときにはすでに没しかけていました。こうして次の目的地、「ともしびプロジェクト」の活動の様子を見に、気仙沼女子高に向かいました。




第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その9)~黙祷。。と煙雲館での楽しいお茶会

2014-04-20 04:05:29 | 能楽の心と癒しプロジェクト
3.11(さん、てん、いちいち)が震災の日であるように、2:46(に、てん、よんろく)という言葉があります。あの大地震が起こった時間です。この日、この時間、被災地ではあの日と同じように防災サイレンが鳴らされ、それを合図に1分間の黙祷が犠牲者に捧げられます。

毎年3.11には被災地にいるようにしている ぬえですが、これまでの2回の震災の日には石巻の湊小学校におりました。どちらも上演の合間に、校庭でサイレンの音を聞きながらビデオにその瞬間の時間を収めています。そうしてそのどちらの日も一日中上演のために湊小学校に詰めていたので、市内のほかの場所の様子を見ることはありませんでした。当時湊小学校はすでに避難所としての役目を終えて、しかしながら津波の被害を受けていたために学校の再開の目途はまだついておらず無人の状態でしたが、震災の日だけは追悼集会が開かれて避難所当時の住民さんたちの再開の場となっていました。

その後湊小学校は今年4月に再開されることになり、工事のため3.11に集会を開くことは不可能の状態になったのですが、そんなこともあって ぬえは今年の震災の日は気仙沼におりました。そうして2:46のそのとき、ぬえは煙雲館にいたのです。

李承信さんの朗読会もこの時間に重ならないように終わりとなり、2:46には会場のお座敷でみなさんで黙祷する呼びかけがなされましたが。。 ぬえは独自に2回、震災の年を過ごしてきましたので、この日も申し訳ありませんが個人的な思いでその時間を迎えさせて頂くことにしました。

煙雲館の玄関を出ると、ちょうど正面、すこし離れたところに海が広がっています。ここ、片浜からは大海原が広がっている、という感じよりは、左側には大島が遠景に見え、正面から右側には地福寺がある波路上地区が見えます。眼下にはほとんど更地となったけれど、元は住宅が密集していたという片浜地区。

毎年のように海に向けてビデオカメラをセットして、2:46の直前に録画スイッチを押して、ぬえ自身は両手を合わせて黙祷します。このとき。。



同じように玄関から外に出ていた若いご家族がありました。やがてサイレンが鳴り響き。。もう上空には報道のヘリコプターの騒音はなく、静かに手を合わせるつもりでいたのですが、このご家族の幼い2人の子どもたちはこの日の意味をよくわからず、はしゃぎ廻っています。

最初は(ビデオを回しているのに)サイレンの音のほかに子どもの歓声がまじることに困惑した ぬえ。子どものママさん。。たぶん煙雲館の当主・鮎貝さんのご家族かも。。も黙祷する時間にはしゃぎ廻る子どもたちをたしなめていましたが、黙祷の時間に大声で叱るわけにもいかず、子どもたちは相変わらず歓声をあげています。

ふと。。 ぬえは、自分でも意外でしたが、これって。。良いな。。と考えました。

もとより2:46は死者を悼むための時間ではありますが、そこに交じる、まさに生の象徴たる子どもたちの声。それは生を謳歌する喜びの音であって、それは被災地の再生を約束する希望の響きに ぬえには聞こえたのです。震災から3年。この時期になって ぬえもようやくそう考えられるようになったのかもしれません。そういえばこの新年。はじめて心から「あけましておめでとうございます」って気仙沼で言えたような気がする。震災の年の暮れにも石巻で年越しをしましたが、そのとき除夜の鐘を撞きながら同じ言葉をつい気軽に口にして「そうじゃないでしょう。。この土地の人々はみんな喪中なんですよ。。」と たしなめられて恥じ入った ぬえ。あれから2年経って、ようやく同じ言葉を心から言えるようになりました。あの時点から生き残った みんなは進んで行かなければならない。この時はしゃいでいた子どもたちは、それを ぬえより先に率先して実行していたように思います。

黙祷が終わり、ママさんは ぬえに子どもたちの騒ぎを詫びましたが、ぬえはお礼を返しました。。

こうして印象的な煙雲館での催しが終わりました。振り返って母屋を見ると、ガラス戸を開け放って朗読会の参加者の方々もみなさん顔をそろえていらっしゃいます。ああ、みなさん海に向かって黙祷されていたのですね。。

さて2:46が過ぎると、煙雲館のお座敷では李承信さんを囲んで懇親会が開かれました。黙祷からうって変わって楽しい催し。これも震災から3年を経て ようやくここまで来たか、という感じですね。

ここでもまた面白い事がありました。

李さんとも親しくお話しさせて頂き、鮎貝さんらによって振る舞われたおいしいお食事やお茶も頂戴したのですが、おこがましくも特等席を用意して頂き、お隣には どういう関係でしょう、おばあちゃんがお二人。最初はあまり会話の糸口もなかったのですが、おばあちゃんのお一人が「謡はいいねえ」と ぬえに話してくださいまして、するともう一人のおばあちゃんも「この方はずいぶん謡やお仕舞もお稽古されたんですよ」と ぬえに教えてくださいました。

そのうちお稽古の当時を思い出されたのか、さきほど上演した『羽衣』のキリを口ずさみ始められたので、ぬえも すかさず助吟。。おばあちゃんが 少々つっかえながら謡っているのは、よく聞けば宝生流の謡のようでしたが、おぼろけながら ぬえも宝生流の節まわしが多少耳に入っていましたので、観世流なんだか宝生流なんだかわからない情けない助吟を勤めました。。が、「もう一人のおばあちゃん」も「この人がこんなに謡っているところなんて、もう何十年も見ていないのに。。」と喜んで頂くことができました。

あとで伺えば、宝生流のお稽古をしておられた おばあちゃんは気仙沼で福祉活動を続ける団体の元・会長さんとのこと。片浜地区にお住まいのため、煙雲館についても「ここは昔の殿様の御殿で、我々のような一般の者は入ることもできなかったんだよ」と教えてくださいました。

おいしいお茶もご馳走になって、楽しい会合も続いていましたが、ぬえたちは次の予定のため煙雲館を辞しました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その8)~李承信(イ・スンシン)さんの朗読会

2014-04-19 02:07:38 | 能楽の心と癒しプロジェクト
着替えが終わって ちょっとひと休み。さてお座敷の方を見てみるとビデオの上映が行われていました。

それはこの日短歌を朗読される韓国歌人の李承信さんとの活動を紹介したドキュメンタリーでした。同じく歌人であった母君への思いを強く持っておられることから母が思いを寄せた日本や短歌に彼女も惹かれていったこと、その日本で起こった未曾有の災害。。東日本大震災を受けて、被災者に寄り添うつもりで短歌を詠まれたこと、実際に被災地を訪れた様子、そして気仙沼の南町の「カドッコ」。。ここは ぬえたちも何度か上演を行った児童のためのフリースペースですが、ここで行われた短歌の朗読会の場面。。いま日本と韓国はいろいろな摩擦の面ばかりが取り上げられていますが、やはり個人としてここまで日本に思いを持ってくださる方もあるのです。ちょっと涙なくしては見られない映像でした(現に見所のあちこちから涙をぬぐう気配が伝わってきました)。



そのあとに実際に李さんによる短歌の朗読が行われました。

胸深き哀悼に膝を折りし夜 神様どうか神様どうか

花だけの春などあろうはずもなし 春の来たらぬ冬もまたなし

前者は ぬえが心動かされた歌。
後者は緑さんが良い、と言っていた歌。しかもこの歌は李さんもお気に入りのようで、彼女の名刺にこの歌が印刷されていました。





災害や絶望。。この震災で味わった苦難に寄り添いたいと思う ぬえと、過去を乗り越えて未来に希望を見いだそうとする緑さんや李さん。ちょっと思いの違いが垣間見えて面白かったです。あるいは性差の問題か? または ぬえが震災のショックからただ立ち直れていないだけか。。?

李さんは日本語はあまり得手ではないようで、上記短歌も韓国語で書かれたものを邦訳したものだそうです(ここまで読んで疑問に思われた方もあるかもしれませんが、この短歌とは日本固有の詩である和歌のことで、李さん<とその母君も>は韓国人でありながら日本の短歌を詠む歌人なのです)。母への思いが言葉のあちこちに見出される。。その母君・孫戸妍(ソン・ホヨン)さんについてのお話しは追い追いにわかってきましたが、これがまたすごいものでした。

孫さんは1923年東京生まれで、生後まもなくソウルに帰りましたが東京帝国女子専門学校に留学し、そこで短歌と出会いました。帰国後も短歌を詠み続けて6冊の歌集を出版し、韓国のこと、韓国人のこと、日韓のこと、最愛の夫への愛を終生2000首の歌に綴りました。特筆すべきは孫さんは一貫して日本語で短歌を詠み続けたことで、終戦後、韓国内で日本文化に対して批判や嫌悪が巻き起こってもその姿勢は変わることがありませんでした。そのことは日本国内で共感を呼び、青森県六ヶ所村に歌碑が建立されたほか、1998年正月には「宮内庁歌会始」に韓国人として初めて招待され、日韓文化交流に寄与した功績が認められて2000年には韓国の金大中大統領から花冠文化勲章が授与され、2002年には日本の外務大臣からも表彰されました。

李さんは母への憧憬から短歌を詠まれたのだと思いますが、また現在彼女は日本語でなく韓国語で短歌を詠んでいるのではありますが、実質を考えれば韓国で唯一の歌人なのです。そうして母が亡き今、母が思いを寄せた日本に起こった大震災に心を痛め、隣国の友人として心をこめた歌を詠み、来日してその歌を披露した。。その美しい心に ぬえは心打たれます。こういう出会い。。震災後の東北でいくつ遭遇しただろう。ぬえは幸せだと思いますね。

朗読会が終わる頃。。3年前の震災の、その時間がやって来ました。

伊豆の国市子ども創作能「伊豆の頼朝」…鎌倉まつり公演(その2)

2014-04-17 08:38:41 | 能楽
この日、もうひとつの偶然と言うにはあまりに不思議な出会いがありました。

じつは鎌倉まつり公演の直前に知った情報なのですが、子ども能の公演と同じ日に、同じ鎌倉市内の円覚寺で気仙沼でずっとお世話になっている地福寺の片山秀光住職が鎌倉・円覚寺で「音楽説法」の催しをされる、とのこと。

ほお、それは偶然だなあ、とは思いながら、こちらも朝10:00には子ども能の公演会場である鎌倉宮に楽屋入りの予定になっていましたし、それから夕方近くの終演までずっとスケジュールが立て込んでいたので、ご住職に会うことは不可能と考えていました。

さて鎌倉まつりの前日、伊豆で子どもたちに最終的な稽古をつけた ぬえは、そのまま ひと足先に鎌倉に入り、北鎌倉に住む叔父の家に泊めて頂きました。

叔父の家でともに飲みながら翌日の公演の話などしていましたが、たまたま気仙沼の片山住職の円覚寺での催しの話題になったところ、叔父は「その人、以前 建長寺でも同じ催しをしていなかった? 僕はそれを見ていたよ」と意外なお答え。そうして「そのときの様子を会報に書いて紹介したんだ」とまで。

叔父は小学校の校長を長く務めた教育者で、小学校を退職した現在も某教育研究所の所長として現役で活躍しておられます。こう言って手渡された冊子はその研究所の会報でしたが、発行は震災の年の秋で、震災を通じて教育を考える特集号になっていました。ページをめくってみると、所長さんとして叔父が数ページに渡る巻頭言を記していて、その中で片山住職の「音楽説法」の紹介と感想が書かれてありました。

音楽説法とは、ドラムや津軽三味線などの楽器を伴奏に歌で仏教説法を行うものです。片山さんの弟さんが国際的なジャズ・ドラマーのバイソン片山氏で、ご住職も音楽に堪能なことから震災前から「カッサパ」というユニットを結成してこのような活動が行われていたそうです。もともとご住職は気仙沼の波路上地区の精神的な支柱だったこともあり、震災後は檀家さんをはじめ被災者を勇気づけるために、以前にも増して積極的な活動を展開されています。バイソン氏の縁からプロミュージシャンを招いてお寺でコンサートを開いたり、全国各地で「カッサパ」の音楽説法を行ったり。その中で震災の年の秋には「カッサパ」の音楽説法が建長寺で行われてこれを叔父が見に行ってこれを記録し、また今回は ぬえの子ども能の鎌倉まつり公演と同じ日に円覚寺で同じ催しが行われていたのでした。

会報に書かれた叔父の文章を読んでみると、「僧侶が歌を歌うとは思いもよらなかった。震災後は”めげない 逃げない くじけない”を合い言葉に被災者を勇気づけているそうです」。。と書かれていて、建長寺での催しの写真も掲載されていました。ああ、片山さんに間違いない。

ぬえも震災の約1年後にはじめて地福寺さまで活動させて頂き、このときは終演後に片山住職と1時間半ほども語り合い、大変親しくさせて頂きました。それ以来 地福寺さまでは計3回活動させて頂いておりまして、ことに昨年の夏、お盆の終わりの送り火の法要の際には「ともしびプロジェクト」さんによって灯される数百というキャンドルの中、ピアノと能と法要の、それはそれは幻想的な催しが開かれまして、これはこの夏も引き続いて行う予定になっております。

この夜、叔父が片山さんについて文章を書いていた事を知った ぬえは、翌朝早くに円覚寺に行って開演前の片山さんにこの冊子をお渡ししようと考えました。。が、やはり鎌倉まつりの日の交通渋滞は叔父の話を聞いても深刻なようで、鎌倉宮に朝10:00に到着しないと周囲は通行止めとなって、装束の運び入れさえできなくなってしまう。。それは無理だろう、と叔父の意見もあって、やはり翌朝は片山さんにお目に掛かるのは断念することになりました。

翌朝、早めに起床して朝食をご馳走になり、かなり早めではありましたが朝8:00には叔父の家を出発しました。朝6:30に出発しているはずの伊豆の子どもたちとも連絡をも取り合って。。昨夜は箱根峠で山賊に襲われて命からがら鎌倉に着いたとか、今朝の鎌倉は猛吹雪だとか、由比ヶ浜いっぱいにタコが打ち上げられて道路は通行止めだとか、迷惑メールをたくさん送信して。(^◇^;)

ところが走り出してみると道路はまだ混雑しておらず、このままなら10分で鎌倉宮に到着しちゃいそう。円覚寺までなら2分です。北鎌倉駅前まで来てみると、駅前に一時駐車できるスペースがありました。楽屋入りまであと1時間半。。これなら十分に円覚寺で片山さんにご挨拶できそうです。



叔父からもらった冊子と、ぬえの方の子ども能のプログラムを持って車を降りると、円覚寺の前はもうすでに観光客がたくさん山門の下に。お寺の掲示板には「カッサパ」の上演を予告するポスターも貼りだしてあります。チケット売り場で事情を話すと快く通してくださり、説法が行われる方丈に行ってみました。若い雲水さんに尋ねると、こちらも大変丁寧に、あと20分ほどで片山さんは到着されます、もしお時間がなければご用件とお渡しするものがあればお預かりしましょう、とおっしゃる。円覚寺の方は気持ちのよい方ばかりですねえ。



20分ならば、なんとか鎌倉宮への楽屋入りにも余裕はある。それで方丈の前で片山さんをお待ちすることにしました。その間にも続々と方丈には人が集まって来ます。ははあ、山門の前にいた方たちは「カッサパ」の音楽説法を聞きに集まっておられたのか。





やがて方丈に近づいてきた車を見ると、助手席に片山さんを発見! 車を降りて来られた片山さんに挨拶しようと思いましたが、円覚寺のお坊さんと丁寧に挨拶を交わしておられます。それを待って挨拶しましたが、先ほどのお坊さんは なんと円覚寺の管長さまでした。バイソンさんとも、また初対面の津軽三味線の方とも親しくお話しさせて頂き、また夏の法要のお話しも少しできました。叔父の冊子も手渡すことができましたが、ぬえも楽屋入りの時間が迫っていたので あたふたと円覚寺を辞して鎌倉宮に向かうことになりました。



こういうわけで、気仙沼の片山さんと奇遇にも同じ日に鎌倉でそれぞれの活動をしていたのですが、たまたま泊めて頂いた叔父が片山さんの活動を知っていた、という なんとも奇遇な巡り合わせがあったのでした。叔父は教育者でありながら同時に文筆活動もしていて、鎌倉ペンクラブの会員として、会合で子ども能の上演も宣伝してくれておりました。そんな筆まめな性分と教育研究所の会報という発表の場があって、小さい範囲ではありましょうが、鎌倉で片山さんの活動を周知するのにひと役買っていたのですね。まさか甥の ぬえが片山さんとご一緒に活動していることも知らずに。。やはり奇縁だと思ったひとときでした。

伊豆の国市子ども創作能「伊豆の頼朝」…鎌倉まつり公演(その1)

2014-04-15 22:48:16 | 能楽
4月13日(日)、伊豆の子ども能の鎌倉公演があり、伊豆の子どもたちが頑張って演じました!

これは鎌倉市で行われている「鎌倉まつり」にご招待を頂き、鎌倉宮の拝殿で上演させて頂く催しで、今年で上演は3年目になります。いや、伊豆の国市で始まった「子ども創作能」が遠征公演をするようにまでなったのは感無量です。

もともとは伊豆の地が頼朝が流された「蛭が島」がある地で、ここで頼朝は20年を過ごし、北条政子と結婚、その勢力も頼んで伊豆で挙兵しました。それから5年に渡る源平の合戦を経てこれに勝利し、鎌倉に幕府を開きました。いうなれば伊豆がスタート地点で鎌倉がゴールですね。そんなことから2012年、伊豆の国市からの提案で、頼朝にまつわる14市町による「源頼朝観光推進協議会(よりともジャパン)」(井出・鎌倉観光協会長さんが協議会長)が結成されました。折もおり、伊豆の「子ども創作能」では ぬえが新作台本を書いた『伊豆の頼朝』を上演中で、これを鎌倉でも上演させて頂ける、というお話しになったのでした。

ぬえは子ども能の参加者の子どもたちにはいつも会場の舞台の拭き掃除とか、神社の祭礼ではお祓いを受けさせたり、そうでなくてもみんなで参拝して神様にご挨拶させるなどの事は欠かさず行っていまして、鎌倉で拝殿を上演会場として提供頂いた鎌倉宮さまでもこれは同じです。早朝6:30にバスで伊豆を出発した子どもたちは箱根峠の難所で車酔いしながらも(笑)、無事9時過ぎに鎌倉宮に到着しました。楽屋にはなんと鎌倉宮さまからのお計らいで、オモチャや絵本まで用意されていました(!) みんな愛されてるぅ。でも遊びに来たんじゃないですけど。



ちょっと休んで9:45から舞台掃除、10:00頃にお祓いを受けさせて頂き、玉串は主役・頼朝役を勤める ゆっきー(6年)が捧げました。



やがてお囃子方の先生方も到着されましたが、この日は開演時間が午後2時でありながら、「鎌倉まつり」の時期は鎌倉の交通はマヒ状態になり、そのうえ鎌倉宮周辺も車両進入禁止の規制があり、お囃子方の先生方には大変申し訳ないながら、朝早くに会場に入って頂きました。10:45から舞台(拝殿)で申合。今回の上演は子ども創作能のほか、新中学1年生のイチイとコオによる舞囃子『盛久』でした。毎年講師演目として ぬえが舞囃子を奉納しているのですが、中学に進学した子どもたちには古典の曲にも挑戦してほしいと思っているので、ぬえの役を譲った形。『盛久』には「男舞」があり、『伊豆の頼朝』にも中之舞があるのですが、どちらも短縮版とはいえ子どもたちには至難でしょう。でも稽古の甲斐あって申合も問題なく終了。



観光協会さんが用意してくれた弁当で昼食のあと、12:30から装束の着付けを開始。上演開始は午後2時ですが、着付けをする能楽師が ぬえ一人しかいないのです。そのうえ子どもたちは動き回るから開演までにみ~んな着崩れちゃう。。(^◇^;) そこで通常よりもあちこち糸留めをしなければなりませんで、装束を着る主役級4人の着付け完了までに1時間は掛かります。。1時間で4人ということは1人あたり15分。これでもプロの手腕が発揮された高速着付けだと思います。ワキ方や狂言方の着付けのスピードには勝てないけどね。





14:00に予定通り開演。鎌倉市観光協会、伊豆の国市観光協会のそれぞれからご挨拶があり、鎌倉市長さんからの祝辞の代読も頂戴して子ども舞囃子『盛久』が上演されました。新中1年のイチイとコオは微妙に緊張気味だったらしいですが、楽屋での打合せでも笛の栗林祐輔師、小鼓の森貴史師、大鼓の大倉栄太郎師が「わかりやすく打ちますね」なんて気遣いもしてくださったおかげで ぬえからは安心して見ていられました。本来1人で舞う曲ですが、この時は2人にて。割に良くシンクロしていたと思います。



続いての子ども創作能『伊豆の頼朝』。もうこの曲は地謡も小学生に任せっきりです (;^_^A  だって彼ら、拍子謡(囃子に合わせて謡うこと)だって平気でできるんだもの。。そう、数年前までは ぬえが地謡の後ろに座って謡ったり、あるいは間違いだけを とっさに修正したりしていましたが、今となっては ぬえは地謡のそばにさえ居りません。1カ所だけ。。囃子のリズムが延びる「トリ」の間の箇所。。これも以前は小学生には難しいかと思って避けて作曲してきたのですが、みんな通常の間なら難なく謡えるようになったので、3年くらい前かなあ、じゃ入れてみよう、という事で作曲に手を加えた箇所なのですが。。この時だけ ぬえはそっと地謡の後ろに座って、「ン」とコミの箇所だけ知らせました。これも小鼓幸流は2拍目を打たないから念のために知らせたまでで、他流の小鼓だったら ぬえは小学生に任せておきましたね。ちなみに新作の謡を囃子に合わせて間を外さずに謡える小学生は日本で彼らだけだと思っています。

そういうわけで、ぬえの手が空いたため、装束や道具など舞台上の演出に工夫を凝らすことができるようになりました。頼朝が挙兵した相手、平家の伊豆目代の山木兼隆役は襲撃を受けて舞台上で物着をして軍装を整えるのですが、地謡に付きっきりでなくても良くなったため、右肩を脱いで後ろに巻き込む修羅能の方式での物着にしました。頼朝は狩衣を着ているのでそれは不可能で、両肩を上げることになりますが、やはりそれと兼隆とは別の扮装にしたいので、これは良い工夫だと思います。。もっとも年間に数回もある子ども能公演では予算不足のためお囃子方をお願いできない場合も多く、そのときには ぬえは囃子をアシライで表現しますので、物着にはお付き合いできない。こういう時はママさん方の後見にお任せして、右肩を脱ぐ物着は無理だから、2人とも両肩を上げる形になってしまいますが。。



北条政子役のリカは、中之舞の唱歌を覚えるのにだいぶ苦しみましたが、この日はとうとう無事に完演。いや、よく頑張ったと思います。政子役は後半には着替えて源氏武士の役も兼ねるので覚えることが多くて大変。



よっち(5年生)の兼隆は声がもう少し大きいといいなあ。小学3年のもぉちゃんと ぴかぴかの1年生 るぅちゃん(←この子は去年幼稚園のときから笛を聞いて舞働を舞っちゃいます)の頑張りでひとまず声量を確保。しかし頼朝との一騎打ちの場面では切れ味のよい型を見せました。なんといっても装束がキレイだね~。青いハッキリした色の振り袖が紺の法被と赤い袴、それに黄色い鉢巻とマッチして、ちょっとこれまでの子ども能では考えられないくらい色あわせの良い取り合わせ。ホントの能装束みたい。



それで、主役のゆっきーの装束が少し見劣りしてしまって。。狩衣が透けるから、下に着る着物が真紅なら対抗できる。。いや、別に対抗しなくても良いけど。これは保護者やまわりのママさんまで加わって前日まで ああでもない、こうでもない、と着物を持ち寄って考えました。結果、七五三の真紅の着物を当日までに袖を出して(!)対応。これが結果的に ぬえが想像した通りの色合いをもたらしました。よかったよかった。

そして一番の見せ場が頼朝が矢を放つシーン! 去年のリサは貴賓席に矢を射るというテロ行為に出ましたが(笑)、今年の ゆっきーは百発百中の腕前で。なんでもおうちの壁は穴だらけらしい。(笑)それを紙を貼ってママに隠してるらしい(笑)。ママ、このブログを読んでませんよーに。





やがて源平の武士の戦いが始まります。マサトvsソオ、コウミvsもぉ、リカvsるぅの3組で、1年生のるぅちゃんは相手の太刀を打ち落とすけれども、両手を上げて素手で襲いかかってくる相手に「きゃぁ~~」と舞台の下の広縁を逃げるという趣向。ああ型付け作りって楽しいなあ♪











やがて平家の郎党がみな負けて、頼朝と兼隆の一騎打ちになります。史実。。というか原典の『吾妻鏡』とは違うけどね。兼隆は負けて側転をし、源氏の郎党に縄を掛けられて連行されて終わり。『正尊』などと同じ趣向に作りました。







終演後、急いで着替えて徒歩で頼朝の墓に詣でました。昨年は雨で断念したので2年ぶりの参拝です。墓前で『伊豆の頼朝』の一節を謡って奉納。ご案内と解説をしてくださった鎌倉市の観光協会さんも頼朝も喜んでいると思うよ~、と誉めてくださいました。





かくして公演は終わり、ぬえがご褒美にみんなにアイスをおごってあげて、鎌倉市観光協会さんからは子どもたちに鎌倉銘菓の「鳩サブレー」を頂いて、やがてバスに乗ってまた遙々伊豆まで帰って行きました。

次の公演は夏休み、伊豆の花火大会のイベントへの出演です。お稽古も来月までしばらくお休み。その間に花火大会の上演曲の台本をリニューアルしようと思っています!

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その7)~煙雲館にて能『羽衣』を上演

2014-04-11 19:25:28 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【3月11日(火)】

震災から3年目のその日、朝食はそれぞれでした。この常宿はコンビニにも喫茶店にも近いので便利です。ぬえは例によって宿の向かいにある格安の弁当屋さんで弁当を買い込んで部屋で朝食。睡眠障害の ぬえもこのところ早朝に起きだして一人で視察に廻ることが少なくなったな。やっぱり疲れがたまっているのか。。?

午前10時に宿を出て緑さんをお迎えに行き、昨日ご挨拶に伺った煙雲館に楽屋入りをしました。前日とはうってかわって暖かい日で、海も輝いて見えました。

この日の催しは短歌の朗読会で、その中にプロジェクトも出演させて頂くことになっていました。早めに到着して準備を進めていると、島田呉服店の芦立厚子さんがやって来ました。芦立さんのお父さまは宝生流の謡の稽古をしておられる方で、ぬえたちプロジェクトの活動にもとても協力頂いております。かつて呉服店の売り場に泊めて頂いて活動したことも。伺えば芦立さんは以前こちら。。煙雲館のおとなりにお住まいだったそうです(!)。 しかし片浜と呼ばれるこの地域は、今はちょっと高台にある煙雲館こそ地震にも津波の被害からもかろうじて無事でしたが、ここを境に低い土地はすべて流されてしまいました。もとは海が見えないほど家が建ち並んでいた地区だったそうですが。。だから芦立さんの以前のお住まいももう土台しか残されていませんでした。。

やがてお客さまも続々とお集まりになり。。総勢で50名ほどはおられたのではなかろうかと思います。ちょっと道中のトラブルで遅くなりましたが、今回の朗読の方。。韓国の歌人・李承信(イ・スンシン)さんもお見えになりました。

少々押し気味のスタートでしたが午後1時頃に開演。最初に鮎貝家ご当主の文子さんからのご挨拶があり、緑さんが能楽解説をして(ををっ、そこまで育ってくれたか!)、まずは能『羽衣』の上演から始まりました。







本当は ぬえ、美しい庭園で舞いたかったけれど、前日には雪もちらついていたこの寒さではお客さまも大変なので、お座敷で舞わせて頂きました。庭園を背景に舞うと、正面の座敷に大勢のお客さまがいらっしゃいましたが、ぬえから見て左側。。地謡座の方向に「貴賓席」があって、李承信さんや来賓の方々が座っておられましたので、少々型を変えて時々地謡座の方向を正面に取ったりしながら舞わせて頂きました。昨夜のライブの時もそうでしたが、こちらも短歌の朗読会にお集まりになる方々だけあって、熱心にご覧になっておられるのは ぬえからも良くわかりました。今回は能の上演時間を30分と長く取って頂いたそうでしたので、サシも謡い、破之舞もある本格バージョン。トメは謡の中で廊下を歩んで消え去る小書の型に致しましたが、もとより地謡はおりませんので、すべて ぬえが自分で謡いながら舞うのです。これだけの分量だとちょっと大変でしたが無事上演は果たすことができました。







控室に戻って装束を片づけて。。

その間に朗読会の準備も着々と進んでいるようでした。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その6)~「風の広場」ライブに出演

2014-04-09 01:14:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そうして1時間ばかり休憩を取って宿を出発、「風の広場」に向かいました。

昼間見てもすごい状態の被災建物ですが、夜見るとまた迫力が。。(^_^; でも「風の広場」の内部は(照明が限られていることもあって)なかなかの雰囲気でした。

ライブはすでに始まっていましたが、ほかの出演者とお話ししたり、歌い手さんのMCを聞いてみると、どうも出演しているのは歌を届ける活動を仮設で行ってきたボランティアさんのようですね。事前にあまり情報がなかったのですが、活動を終えたボランティアさんの打ち上げというか、記念パーティーみたいなもののようです。





ま、こういう事もありますし、それで良いと ぬえは思っています。以前にもボランティアさんのねぎらいのような上演は何度か経験していますし、喜んで頂けるのは被災地域の方ばかりに限る必要もないわけで。

こうして上演準備に取りかかりました。伊藤雄一郎さんからは我々だけの個室の控室をご用意頂いていましたが。。んー、昼間見たときは良いかなーと思ったのですが、なんせ電気が一部しか通っていないとのことで。。案の定控室に明かりは一切ありませんでした。でした。です。

トップ画像がそれですが、壁のLEDライトは こんな事もあろうかと ぬえが車に積んでいたもの(100均で買いました~)。ぬえの車…レイちゃん3号は東北での活動を始めてから、それまでの乗用車じゃ荷物や物資が積み込めないので買いなおした車で、最近こそ寝袋なんかは使わなくなったけれども、そういったボラ基本装備はひと通り積んであります。LEDライトは小型も含めて3つ積んでありましたが、まさかこんな形で活躍することになるとは(笑)

まあ、これまでいろんな場所で上演してきましたが、真っ暗な控室はこれが初めて。かなり手探り状態で着付けを始めましたが、2階のトイレの前のスペースだけは煌々と電気が点いているのを発見して、装束の着付けはそこで行うことにしました。着付けの途中でトイレに用足しに来た人たちはびっくり(笑)

音楽ボランティアさんの演奏を聞きながら、大体知らされていた出演時刻が迫ってきたので面を掛けて出番の準備。控室は「風の広場」の外にあったので、登場はお店の正面入口からになります。津波の被害は2階にも及んでいたので、ほとんどコンクリートむき出しの床に立って登場のタイミングを待っていましたが。。それから10分ほども待ったでしょうか。その間に足先からしんしんと冷えてきました。


これ、わかるかしら。立っている床は波打ってひび割れているのです。。

この日は震災から3年目を迎えるその前日。震災の日もこの日の昼のように雪が降っていました。この記事を書いているのが4月上旬。。東京では考えられないことですが、東北では4月になっても小雪が舞うことがあるのだそうです。この夜は装束を着ているから身体にはそれほど感じませんでしたが、コンクリートの床に触れる足袋はだしの足は だんだんと感覚が鈍くなってくるほど。。震災のとき、津波に流されながらかろうじて陸に上がれた人も多かったそうですが、服が濡れたまま山で一夜を過ごした方もあったそうで、この寒さから推測すると、それはかなり厳しい状況だったでしょう。。実際、低体温症で亡くなった方も多かったように聞いていますし。。

やがて笛のTさんの解説に続いて能『羽衣』の上演を致しました。プロジェクターでスライドを背後の壁に流しながら、その前での上演でしたので、プロジェクターの光が真っ直ぐに眼に入ってきて、こちらも少々舞うのは大変だったのですが。。時折見える見所の様子を見てみると。。

前の方で一日のイベントでお疲れの伊藤さんはちょっと眠たそうでしたが (^_^; 後ろの方の席でご覧になっている若い女の子のグループ(多分、音楽ボランティアさん)が真剣に見てくださっているのが良く伝わってきました。こういうのって良いですね。仮設住宅などで上演するのとはまた違った喜びがあります。

終演は、謡いながら登場してきた入口に消え去るつもりで歩み出したのですが、開け放していたはずの扉をどなたかが閉めてくださったようで、そこを入口だと思いこんだ ぬえはそのまま、扉の隣りのガラスに激突して終わりました (^◇^;)。 急いで面をはずして、挨拶はしないつもりだったのですが、真剣に見てくださった彼女たちに敬意を表して「みなさんは同じボランティア仲間ですね? これからも一緒にがんばりましょう!」と叫んで、拍手のうちに終演。いや、良い催しだったと思います。


上演画像は菅原圭子さんのfacebook投稿から拝借しましたm(__)m

ボランティアさんや伊藤さんはPA機器の片づけも手伝ってくれましたが、やがて予約してある打ち上げのお店にお出かけになり、ぬえたちは着替えと装束の後片づけに時間がかかるのでそれには合流しませんでした。どうせカギも掛からないお店ですし、片づけをようやく終えて退出しようとしましたが。。ぬえたちに気を遣ってスタッフさんが居残ってくださっていました。

お店の窓から暗くなった。。けれどプラザホテルなどの灯りに照らされて美しく見える港を見下ろしながら、気仙沼の復興や未来について、いろんな話を。。3~40分はしていたのではないかなあ。市民だからこそ見えるビジョンや明るい夢や希望。。それに反して山積する現実に立ちはだかる課題。。中には、ちょっとここでは書けないような政治的な黒いうわさ話まで。。やっぱり ぬえのような、たまにしか当地にやって来ない人間には どうする事も出来ない問題もたくさんあります。無力さを感じて暗い気持ちになる一方、ぬえのようなよそ者に、こうして心を開いてくれる人が多いのが気仙沼の特長。。魅力なのかな、なんて、なんだか無頓着なことも考えていた ぬえでした。

結局晩ご飯を食べ損ねた。そんなこともあろうかと、楽屋入りの前にコンビニ弁当。。いや、それは無理だろう、サンドイッチなど少しは持ち込んでいたのですが、ほとんど食べる時間もありませんでした。もう10時をまわったこの時間に開いているレストラン。。は、手近なところでは やっぱり宿のそばの気仙沼ホルモンのお店しかありませんな♪ ああ、幸せ。

こうして活動初日は怒濤のように過ぎました。緑さんをご自宅まで送って、深夜にようやく就寝。

明日は震災3年目の、その日。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その5)~煙雲館へご挨拶に

2014-04-07 15:30:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「風の広場」にPA機器を降ろし、さきほど出演したばかりの松岩に戻り、翌日の公演のために煙雲館にご挨拶に伺いました。

途中で緑さんと岬状に海に突き出た被災地区の先端まで行ってみました。そこにはカモメ。。ではなく、これはウミネコなんですって。脚が黄色いのと尾羽が黒いのがウミネコなんだそうで。水産工場なども少しずつ建てられてきたようですが、まだ広大な空き地ですね。



松岩。。先日地図を見ていて考えたのですが、JR気仙沼線の駅としては「松岩」という名称ですけれども、そして近くには松岩小学校も、松岩保育所も、気仙沼警察署松岩駐在所も、あまつさえ松岩寺まであるんだけれども、この辺りの地名は「松崎」のようですね。古くは本吉郡松崎村という名だったそうです。また気仙沼にはこれとは別に近くに「赤岩」という広大な地域があるので、松崎と赤岩を一緒にして「松岩」なのかなあ。

それはそうとこの松岩周辺もかなり被害があった地域です。気仙沼市街から東浜街道を南下してくると、最初に大きく開けた地域が見えてきます。その向こうには海。ここが松岩で、津波によってすっかり姿を消してしまった集落の跡なのです。これは震災3ヶ月後からずうっとそうでしたね。東浜街道から続く国道45号線はこれより南。。南三陸町の方面に向けて走ると山間を通ったりまた海の近くに下りたりを繰り返すのですが、海岸近くに下りてくると そこは おしなべてだだっ広い荒野。。所々に破壊されたままの家が残る集落の跡地でした。

東浜街道を松岩に下ってきて、さて煙雲館の方角。。海のある方へ曲がろうとしたとき、緑さんが言いました。。「ここに信金があって。。震災直後に4000万円が盗まれたんです」。。あの事件か! 震災直後に気仙沼で被災した銀行から多額の現金が盗難に遭ったという話は覚えていますが、それがここ、気仙沼信用金庫の松岩支店での出来事だったのでした。今となってはその場所さえ定かにはわからないほど、ただの荒れ地になってしまっていて、わずかに仮設商店街の「まついわココサカエル商店街」がある程度。。この仮設商店街での活動もずっと考えてはいたのですが、上演するスペースがなくて、実現には至っていません。。

さて海の方へ曲がってみると、もう辺りには何もありません。すでにレールも取り払われたJR気仙沼線の踏切の跡が痛々しいですが、これもすでに ぬえたちには見慣れた光景。。(・_・、)



さてこの日打合せにお邪魔させて頂いた「煙雲館」というのは伊達家の家老職の家柄だった鮎貝家の居館で、幕末から明治にかけて活躍した歌人で、門人から与謝野鉄幹を輩出した落合直文の生家として知られています。「砂の上にわが恋人の名をかけば 波のよせきてかげもとどめず」の短歌は近代文学として初めて「恋人」という言葉を使ったとして、被災した南気仙沼駅前に石碑が建てられていました。南気仙沼駅は、それはそれは ひどい被害を受けていて、瓦礫が片づけられて駅前ロータリーが姿を現したのは震災から2年ほど経った頃ではなかったかしら。その時 ぬえも初めてこの歌碑を見ました。

到着してみると、先ほどから降る雪化粧で、これまた見事な庭園。。庭園は気仙沼市の文化財として登録されている、とは聞いていましたが、荒れ野から少し上がった程度の場所で、これほどのものとは思いませんでした。



緑さんの案内で現当主の鮎貝文子さんとご挨拶させて頂きましたが、お屋敷の中には古文書が額に飾られてあったり、部屋から見渡すと、これまた庭園が見事です。ちょっとした高台にあるお屋敷からは海の向こうに大島も借景のよう。









お菓子を振る舞われた文子さんは上品な方で、ああ、それに対してコーヒーを所望し、お菓子は「どうぞ」と言われる前に手をつける野人・ぬえ。ま、いつもの事ですが。遠慮、という言葉が ぬえの辞書にはないからなあ。

しかし。。文子さんから伺ったお話は大変なものでした。。

震災のとき文子さんは近所の公民館? におられたそうですが、地震のあとすぐに帰宅。お屋敷は被害がなかったので安心したのですが、その後津波が襲来して、文子さんは裏山に逃げたのだそうです。津波は煙雲館の駐車場まで押し寄せ、それでもそこで止まりました。しかし周囲では津波により大きな被害が出て。。考えてみればここは松岩でも「片浜」と呼ばれる地域ですね。ずいぶん被害が大きかった所のはずだけど、ちょっとした地形の高低で生死を分けた場所のひとつです。

その後もまた、去年からは気仙沼市の瓦礫の処分のために焼却場が、こちらやお隣の波路上地区で作られて、昼夜を問わず作業が行われたのだそうです。騒音も相当にあったようですが、今年に入って焼却作業が終了すると、なんと現状復帰のために焼却場の撤去は土台のコンクリートをはがすまで徹底的に行われ、照明は電線の撤去まで行われたのだそう。処理中は深夜でも煌々とライトを点けて騒音を立てながら作業していたのに、処理が完了するとまた元の周囲に人家がなくなった真っ暗闇の状態になってしまったそうです。

さて打合せも順調に進みました。翌日は韓国人の歌人・李承信さんの朗読会で、そこに急遽出演させて頂く事になりましたので、出番としては前座ですが、上演時間とか注意点など文子さんは てきぱきとアイデアや指示を与えてくださいました。

これで翌日は安心、ということで またまた市内に戻り、再び「風の広場」へ。ここでやっと伊藤雄一郎さんと顔を合わすことができました。伊藤さんも「やっと会えましたね~」と ぬえたちをねぎらって下さって。

ライブはまだリハーサルの段階だったのでPA機器のセッティングを終えて、ちょうど風邪が流行っていた頃で出演者は少なくなったとのことでしたが、ぬえたちの出番はトリとのことでしたので、ようやく宿にチェックインしてしばし休憩。そういえば昨晩3時に東京を出発してから、はじめての休憩でした。

とは言っても、どうも楽屋の状態もあまり良くない様子だったので、ぬえは部屋で装束の支度を進めておくことにしました。1時間半ばかり休んでようやく出演に向けて出発~

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その4)~「WINE BAR 風の広場」

2014-04-06 20:51:54 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼災害FMへの出演が終わった頃、年輩の男性の方がスタジオの窓をノックされました。放送中だったらどうするんだろう。(^_^;) ちょうどこの時は音楽を掛けている最中だったので、その気遣いはなかったのですが、災害FMのスタッフさんも窓を開けてこの男性と親しく話をしておられます。うまく音楽の最中にスタジオを出ないと、というわけで、このタイミングで我々もスタジオを辞しました。

外に出てみるとこの男性がちょうど ぬえの車の前に立っておられたので、何気なく話しかけてみました。「どこから来たの?」「東京です」と、平凡なやりとりに終始するかと思いきや。なんとこの方、「目黒のさんま祭り」の気仙沼実行委員会の松井会長さんでした(!) 落語の「目黒の秋刀魚」にあやかって震災前から東京の目黒で気仙沼の旬のサンマを振る舞うイベントが行われていて、東京ではかなり有名だと思いますが、松井会長さんはまさにそのアイデアを出した発起人なのだそうです(なお、知らなかったのですが、「目黒のさんま祭り」には2つのイベントがあって、ひとつは気仙沼産のさんま、もう一方では宮古のさんまを使っているのだそうです)。

さて松岩を離れて市内に戻りましたが、この日の夕方から、住民ボランティアの伊藤雄一郎さんの「WINE BAR 風の広場」で行われるというライブに出演させて頂くことになっていました。伊藤さんは内湾地区にあったご自宅を流されて失いましたが、その土地を「グラウンドゼロ」と名付けて、散乱していたガラスの浮き玉を飾ったり、同じく拾い集めた大量の大漁旗を 解体か保存かで揺れていた被災漁船「第十八共徳丸」に掲げたり、光害から気仙沼の星空を守ろう、という運動を起こしたり、とにかくユニークな活動を続けておられる方です。


↑グラウンドゼロの様子

ぬえたちも去年の2月に伊藤さんのイベントと同時期に近い場所で行う予定があって、何度か伊藤さんとは連絡を取り合っていましたが、結局 同時に開催できるイベントには実を結ばず、こちらのイベントが終わってから伊藤さんの会場にも行ってみましたが、いつものように奔走中の伊藤さんとは会えずじまい。この日はそれから1年ぶりに初めて顔を合わせる機会となるはずです。

ところがこの日、さだまさしのコンサートが市民会館で予定されていた関係から、気仙沼市内の音響機器はコンサートに動員されてしまったとかで(これは災害FMさんでも聞いた話です)、伊藤さんもライブの音響機器の確保に困っておられ、結局 笛のTさん所蔵の簡易PAを提供することになっていました。こうして、ライブは夜なのだけれども、この日はさらにもう1件打合せの予定が入っていたので、まずは機器を会場に届けてしまうことにしました。

会場の「WINE BAR 風の広場」は「グラウンドゼロ」のすぐ向かいにある被災建物でした。。緑さんのお話しではここは「主婦の店」として市民におなじみだった、管野商店さんというスーパーマーケットだったようです。それにしても被害状況はものすごいもので、ここに伊藤さんがワイン・バーを開いているとは にわかに信じがたいほど。。





伊藤さんは別のイベントに奔走中でお留守(またか)でしたが、壊れたドアから中に入り、大漁旗が掲げられた階段を2階にあがってみると、ををっ、これはまた なかなかどうして、綺麗なスペースが広がっていました。カギもかからない、電気も一部しか通っていない、という状態でしたが、PA機器を運び込んで、さすがに装束を置いておくわけにはいかず。。あれ? 寒いと思ったら雪が降ってきましたよ。。?



こうして次の打合せの会場、煙雲館に向けて走り出しました。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その3)~気仙沼災害FMに出演

2014-04-06 02:44:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
昼食を摂ってから緑さんがショップを開いている洋服店で紋付に着替え、この日生放送の番組に出演させて頂くことになっていた臨時災害放送局の「気仙沼災害FM」に向かいましたが、そのスタジオは、普通の民家でした。(^_^;)





プロジェクトの活動では以前にも石巻の「ラジオ石巻」に出演させて頂いたことがありましたが、そちらは既存のコミュニティFM局が震災を受けて臨時災害放送局としての認定を受けたもので、きちんとしたスタジオも備えられていました(もっともコミュニティFM局のスタジオは津波の被害を受けて使用不能となり、ぬえたちが出演させて頂いたスタジオは駅前の一等地とはいえ仮住まいのようでしたが。。)。

気仙沼災害FM(サイトを見ると正しくは「けせんぬまさいがいエフエム」と ひらがな表記のようですが)はそれとは違い、震災の直後に情報伝達のために新たに開設された放送局とのことです。そんなわけだからでしょう、スタジオも民家の一室を改装しただけのもので、防音設備もなし。外からドア1枚を開ければそこがスタジオで、同じ空間がそのまま控室もキッチンも兼ねています。そのうえ窓の外にはすぐ目の前に松岩小学校があって、伺ったお話では下校時など、やっぱり子どもたちの歓声などが放送に紛れ込まないか心配になることもあるそうです。(もっとも放送される番組は必ずしも生放送ではないそう)。

今回出演させて頂く番組は月曜から金曜までの毎日、午後2時から3時にかけて放送される「にじなま」という生放送の番組で、ぬえたちの出番はそのうちの15分間ということでした。打合せをするにも控室がそのままスタジオなので、スタジオ入りとして指定された時間は13:45~13:50の間、と なんとたった5分間。ピンポイントでドアを開けなければなりません。(^_^;)

こうしてお邪魔させて頂いたスタジオで、初めてお会いしたパーソナリティの佐藤梨華さんと藤村陽子さんとも すぐに打ち解け、出演の段取りの説明を受けました。質問頂く内容や、こちらもせっかくの機会なので謡と笛の実演をすることにしていまして、そのタイミングなどを細かく打ち合わせて、さて放送が始まると、自分たちの出番まで 物音を立てないように気を遣いながら待ちます。

ぬえたちのお相手をしてくださったのは佐藤梨華さんですが、お若いのに的確な質問で、これまでの活動の経緯や内容、今回の気仙沼訪問のスケジュール、今後の市内での活動など、余すところなくお話しできたと思います。災害FMへの出演のコーディネートは やはり緑さんにやって頂いたので、この日は緑さんにも出演願いましたが、4月下旬の桜の頃に予定している北野神社での奉納能の宣伝もしっかり話してくださいました。



放送の中で ぬえたちが実演したのは能『松風』の一節。。ほんの数分にまとめたのですが、この曲はラジオ石巻に出演したときも上演しました。愛する人を千年間も待ち続けている哀しいお話しで、被災地にとっては内容が微妙と感じられるかも知れないのですが、ぬえはこの曲に愛を貫く思いの美しさを感じていて、機会を見つけては上演している曲です。

もうお決まりとなった気仙沼へのエールを3人で叫ばせて頂き、ぬえたちの15分間の出番は終わりました。音楽を掛けている間にスタッフさんたちと記念撮影をしたりしましたが、出演ゲストには放送の中で流れるジングルを収録することになっている、とのことで、そちらにも3人でそれぞれ出演。

はいわかりました、と 言われた通りに「頑張って! 気仙沼」と ぬえも叫んだのですが、すぐにダメ出しが入りました。

あのー。。「頑張って」じゃなくて「頑張っぺ」なんです。。

あ。。ああ、そうですか。。

というわけで ぬえのみ再収録になりました。頑張っぺ? 気仙沼。

第20次支援活動<気仙沼市・震災3年>(その2)~気仙沼・北野神社

2014-04-01 09:41:32 | 能楽の心と癒しプロジェクト
北野神社は天神社で、気仙沼駅からもほど近く、JR大船渡線のすぐ北側にせまった山の頂に鎮座しています。面白いのは気仙沼駅前からのびる道路から参道に入ると小さな鉄橋があって、参詣者はこれによって大船渡線の線路をまたいでから、はじめて山上へ続く石段に取りかかることになります。社務所に掲げられていた明治時代の気仙沼市内の絵図を見ると、山の下の道路と市街は昔からあったものです。そこに明治期に鉄道がひかれたため、線路は道路と山との間に敷くしか方法がなく、この線路が参道を分断してしまったために参詣者用の鉄橋が架けられたものでしょう。山頂に鎮座する神社に参詣するには、かつては鉄橋を渡ってから急な石段を上るしか方法がなかったようですが、今は山をぐるっと迂回して住宅街の中を通る車道がありました。





境内に入ると、まず目に入ってくるのは真新しい神楽殿。昨年新築されたばかりだそうです。





そしてその奥にある拝殿と本殿。こちらはぐっと時代がある建物で、趣もありますが、直線的で偉容というのがふさわしいです。丹塗りの彩色もよく残っていて、そうして正面の縋破風の下から飛び出すかのような阿吽の龍にも彩色が少し残っていました(あとで伺ったのですが、石段にある狛犬の阿吽と方向が一致していないそうで、研究者の説によれば、社殿はこの神を信仰した鮎貝氏によって向かいの山から移築されたのではないか、とのことでした)。





この北野神社は桜の名所として有名だそうで、この4月には桜の下で能を奉納することになっております。この日はご挨拶と下見を兼ねて参上することにしていました。宮司さんのご都合で打合せは今回の活動が終了した最終日に ぬえが参上することになっていたのですが、この日はまず みんなで下見のつもりで参上しました。。が、偶々 宮司さんもご在宅で、社務所にて親しくお話しさせて頂くことができました。

新しい神楽殿は、震災前から建てる計画があったのですが、震災によって中断になってしまっていたそうです。その後はこちらの神社もボランティアを受け入れて、その活動の拠点のひとつになったり、復興のために尽力しておられたそう。その折々に、土台だけ作って放置してある神楽殿を見た人々から「これは何ですか?」と質問を受けた宮司さん。。面白い方で、津波で流されたんです、なんて冗談も言っておられたそうですが、やがてそれらの人々の中から ぜひ神楽殿を完成させよう、という機運が巻き起こって、全国から寄付も集められたのだそうです。

宮司さんとしては震災の被害があった気仙沼の氏子さんたちから建築の寄付を募るわけにもいかずに中断していたのでしたが、全国から寄付が集まり始めると、氏子さんの方からも率先して寄付が集まるようになり。。こうして昨年、立派な神楽殿が完成したのでした。

この真新しい神楽殿で、しかも桜の季節に奉納させて頂けるのはプロジェクトとしても望外の幸です。伺えばこちらにも独特な法印神楽が伝承されているようで、それも拝見したいと思ったのですが、こちらの神楽は市内のいくつかの神社の宮司さんも携わる大規模なもので、なかなか上演の機会はないのだそうです。いつか能と競演させて頂きたいな~。

こうして思わず4月の奉納の打合せを済ませることができまして、市内に戻り、復幸小町仮設商店街にあるおなじみのカフェ「エスポアール」で昼食を頂いて(をっ、コンビニ弁当じゃない食事だ!)、それから「気仙沼災害FM」の生放送に出演するために松岩地区に向かいました。