ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

石巻・女川町を訪問して参りました(その17…思い出深い。。住民さんとのふれあい)

2012-07-30 02:13:29 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて女川町の町民野球場仮設住宅での公演は、付属の集会所で行われました。

ここの集会所もまた。。プレハブ造りの一般的な仮設集会所とは一線を画していますね~。やはりログハウス風というか山小屋風というか、高い天井に入口は大きくガラス戸が開いていて、開放感がいっぱい。集会施設、というよりは子どもたちの遊び場のような明るさに満ちた空間でした。ほおらほら、子どもたちも伊藤さん目当てに集まってきましたよ?



ちょっとした控室も、伊藤さんらスタッフさんの事務スペースもちゃあんとあって、ぬえは伊豆の知人から支援頂いたマンガ本を寄贈し、また集会所の一角に面や扇を飾るミニ・展示コーナーも作りました。今回の訪問では展示コーナーが作れたのはこの女川町民野球場仮設だけでしたが、展示だけのために面や扇を用意した手間も、ここでは本当にやってよかったと思っています。



さて着替えて能『羽衣』を上演しました。



どうも。。着替えているときから見所が賑やかだな。。とは思っては居たのですが、さて ぬえが登場してみると、この広い集会所にあふれんばかりのお客さまが集まっていらっしゃいます(!)。
ざっと拝見申し上げたところ。。数十人がいらっしゃったのではないでしょうか。それも、上演中にだんだと住民さんや子どもたちも集まってこられて、入口の外に立ったままご覧になっているお客さまも増えてきました。う~ん、仮設住宅での上演としては過去最大の住民さんにご覧になって頂いたかもしれません。

終演後は恒例の記念撮影。トップ画像がそれです…逆光になってしまいましたが、にぎやかな様子はおわかり頂けると思います。何人かの住民さんとツーショットの記念写真も撮りましたが、能を熱心に見てくれて、記念写真も一緒に撮ったこの男の子が印象的でした。



お囃子の体験コーナー。笛のTさんと太鼓のYさんが懇切丁寧に能の楽器を解説し、実際に触って頂いて。「鳴った、鳴ったあ!」と歓声をうれしく聞きながら ぬえは装束を脱いで洋服に着替えます。



そうしてお囃子方とバトンタッチして、今度は ぬえの装束着付け体験コーナー。。これがまた、忘れられない事になりました。

このときは唐織の着流しを住民さんの一人に着付けてさしあげて。なんでも日舞の先生だったというこの方。着付けが出来上がって扇を持って頂き、それならばと少しだけ型を教えて演じて頂きました。住民さんも大喜びで盛んに拍手が出ました。。までは良かったのですが。

体験コーナーもすべて終わって、さてさて解散になったとき、先ほど唐織を着た方が ぬえに話しかけてこられました。

日舞の先生だったんですってね~。道理で能の型も決まっていましたね~。なんて軽口を叩いている ぬえに、この方が話してくれた事は。。

もとは日舞をやっていたのですが。。津波で主人を亡くしてしまって。。それ以来、なにもする気が起こらなくて。。踊りもそれ以来ずっとやっていません。。でも今日は能が見られると聞いてやってきて。。そのうえ能装束まで着せて頂いて。。

こう ぬえに話してくださり、ぬえらの訪問に感謝してくださったそのお顔には大粒の涙が。。

ぬえはもう何と言って良いのかわかりませんでした。

被災地支援、なんて最初こそカッコいい事を言っていた ぬえらの活動も、もう、最初の2~3回目からは東北の、あの優しい おばあちゃんたちに会いたくて通っているようなものです。ぬえなんぞにはあの住民さんたちのお心の深いところには立ち入るすべも、またそんな事をするべきでもないんだけれど、悲しみを乗り越えて、明るく復興に向けて進んで行かれるあの住民さんたちと一緒に楽しい時を過ごせれば、それで良かったのです。いつのまにか ぬえたちの活動は、こんな形に自然に移っていきました。

しかし、やはりどう考えてももの凄い悲劇がこの土地に起こったのです。ぬえらは「能楽の心と癒やしプロジェクト」を名乗ってはいますが、いまこうして現実にその悲しみに直面したときに、その悲しみに寄り添う事が ぬえなんぞにできるのか。。? 能楽が持つ癒しの力は、それは強力だと思いますが、個人の演者としての ぬえがそれをお伝えする事は、はたしてどこまで出来ているのだろうか。。ましてや悲劇の当事者ではない ぬえがこの悲しみを共有する事なんて不可能でしょう。

。。こんな事を、この日は考えてしまいました。それでも、ぬえたちの能は住民さんたちのお気持ちの中にいつの間にか寄り添っていたんですね。問題は、ぬえにその覚悟がなかったことでしょう。。そういえば ぬえは被災地での活動を、もう13ヶ月続けているのですが、涙を流しながら体験を語って頂き、感謝されたのはこの日が初めてだったのではないかと思います。。いや、正直、どこまで行っても部外者の ぬえに日が訪れるとは思っていなかった、というのが真実か。

どうやって活動をするべきなのか。。もう1回。。自分に立ち戻ってみる必要がありそうです。。ぬえ。

石巻・女川町を訪問して参りました(その16…なんて見事な! 女川町民野球場仮設住宅)

2012-07-27 11:21:48 | 能楽の心と癒しプロジェクト
女川町の方に昼食をごちそうになって、次の公演地、女川町民野球場仮設住宅に向かいました。

ここは一時は有名になった仮設住宅です。なぜって、その建物の見事さに。
仮設住宅といえばプレハブで、結露に悩まされ、隣家の音も筒抜けの長屋、というのが常識で、その範囲内ではありますが施工業者によって見た目の良し悪しは多少ある、という感じです。ところがこの野球場仮設ときたら、2階建て3階建ての、それはそれは綺麗な建物が並んでいます。

これ、やはり基礎的な材料はコンテナなんですって! それを積み重ねて、開口部や窓を作り。。ベランダが隣り合わせにならないような配慮がされていたり、まあ、ここまで立派だと普通のアパートとの違いが分からなくなってしまうほど。実際、いま現在で数十組の待機組の入居希望者があるのだそうです。野球場のスコアボードや観客席がなければ、ここが元・野球場だったなんて想像できませんね。





それにも増して ぬえが注目したのは、なんと言っても子どもたちが多いこと、ですね。仮設住宅に居住しておられる住民さんは、多くは高齢者です。これは昨年秋に解消になった避難所時代から同じ印象でした。まあ、もともと高齢化が進んでいた、ということもあるのでしょうが、この震災で避難所に仮住まいをすることになった住民さんの中でも、産業そのもの。。つまり被災者の雇用さえ壊滅させてしまった津波であってみれば、元通りの生活にまで復興するのは遠い将来。それで子育てをしている若いご家庭の中では、そのような環境の中では生活ができない、ということで、人口の流出は震災後かなり早い段階から話題にのぼっていましたし、現在でもそれは大きな問題であるそうです。

あるいは身体の動く若い世代はプライバシーのない避難所での生活を避けて自宅に戻り、津波の被害を受けなかった2階部分で生活しながら自力で自宅の清掃や再建を進めている方も多くありました。いわゆる在宅避難者と呼ばれる方々です。こうしたわけで、去年解消された避難所時代から今の仮設住宅に至るまで、住民さんは圧倒的に高齢者の方が多いのです。ですから仮設住宅や避難所で子どもの姿を見かけることはそれほど頻繁ではなかったのですが。。ここ女川町の町民野球場仮設ではいろいろなイベントに使えるような大きなテント(こういうものも仮設ではついに見かけないものですね~)の下で、大勢の子どもたちが歓声をあげて走り回っていました。う~んこんなに活気のある仮設って。





でも、これは仮設に常駐するスタッフさんの力も大きいんだろうなあ、と思います。ここで ぬえたちの受け入れをしてくださった女川町の社会福祉協議会(全国の市町村でも多くは災害ボランティアセンターはここの管轄になっています)の若き職員の伊藤恵悟さん。この方は献身的に ぬえたちの公演の準備なども手伝って頂いたのですが、いつも廻りに子どもたちの姿がありました。あとで聞いたところでは、やはり仮設の中で子どもたちが仲間を作るのは簡単ではないそうで、ここでは伊藤さんが子どもたちに遊びの提案をしたりして、だんだんと子どもたちの輪が広がっていったようです。



これは子どもたちの話を聞いてあげている伊藤さん。まるで恋人同士じゃね。(^◇^;)





またここでは復興住宅の建設予定のお話も聞きました。復興住宅というのは通常2年間で解消される仮設住宅(宮城県は今回の震災で建設された仮設住宅の使用期間をすでに3年に延長した)のあと、自宅を再建できない住民のために建設される恒久的な住宅のことですが、今回の震災の被災地で復興住宅の建設の予定のお話を聞いたのは、ここが初めてでした。

女川町は小さな町で、だからこそ仮設住宅などにもこういうきめの細かいケアができるのかもしれませんね。合併を繰り返して巨大になった石巻市ではあまりにも多くの避難所ができたためにその運営は実質的にボランティアに頼らざるを得なかった昨年の状況と、単純に比べることはできないかも知れないけれど、あまりに対照的で印象的でした。

旧市と6町が合併した石巻市。平成の市町村合併でも独立を貫いた女川町や松島町。矢本町と鳴瀬町という隣り同士の小さな町が合併した東松島市。女川には原発があり、松島には観光地があり、東松島には航空自衛隊の基地があります。それぞれの経済事情などもあって合併が進んだ地域もあり、独自の発展の道を選んだ町もあり。合併が進んだ石巻市でも広域に仮設住宅を建設するための用地を確保できたなどのメリットもあったようで、一概には甲乙は言えないことでしょうし、また震災後の人口の減少などによって今後も地域の再編は起きるのかもしれませんが、ぬえは女川町の取り組みに希望の灯を見たような気がします。

石巻・女川町を訪問して参りました(その15…女川町の被災地域と。。届けられたお礼状)

2012-07-25 22:58:40 | 能楽の心と癒しプロジェクト
コンテナ村商店街をあとにして、昼食をごちそう頂けるとのことで町立病院の中のレストランへ連れて行って頂きました。町立病院は高台にあり、ぬえは女川町は数回視察に訪れていますが、この高台から街並みを見下ろすのは初めてでした。伺えば、この高台の町立病院も1階部分は津波の被害を受けたとのこと。10数mもの津波がこの町を襲ったのです。

さて町。。の跡を見下ろして、まず驚いたのが、マリンパル女川の建物がなくなっていたこと。この3月には建物の中に入ったばかりなのに、跡形もなく撤去されていました。その代わり。。だだっ広い更地となった町の中に、横倒しになった江島共済会館のビルと石巻署女川交番がそのまま残されています。





昨年からこのような被災した建築物を津波の恐ろしさを語り継ぐために保存するかどうか、いろいろな議論が積み重ねられてきました。一方では被災した町の当事者の中には、あの津波を思い起こさせる物を残しておきたくない、という意見も。

いろいろな思いが交錯する被災建築物の保存問題。そうしているうちに ひとつ一つ、撤去が進められてきました。雄勝公民館の屋根に乗った観光バスも撤去され、火災で焼けた門脇小学校も撤去の方針が決まったように聞いています。それでも ぬえは石巻の「木の屋」さんの鯨缶タンクは、人的被害がなかった建造物だし、悲壮感というよりはちょっとユーモラスでもあったので、これは残してもよかったかな~、と思わないでもないですが。

こんな感じで、ぬえは震災を風化させないためにも、いくつかの建物は保存しておくべきではないか、と漠然と考えていましたが、ここ、女川町立病院の高台からこの横倒しになったビルを見下ろしたとき、それは部外者の身勝手な言い分ではないか、と思います。。もしこの町が自分の故郷だったなら。。ぬえは哀れな姿となったこのビルを見たくないと思いますから。。

閑話休題。。

昨日。。これからお話する女川町の町民野球場仮設住宅の住民さんから、ぬえたちプロジェクトの活動について丁寧なお礼状が届きました。私信ですから全文を公開するわけには参りませんが。。

「先日…お能「羽衣」を拝見いたしました折のビデオを見せていただきました。。あの大震災を生きて、七十九才の身でこんなに優しく、思いやりのある、能の先生方とお会いでき涙を流して拝見いたしました。ありがとうございました。」

「私事でございますが。。野球場仮設に入居して以来、体調悪く、お正月もないまま(皆さんそうでしたが)。。二度の肺炎で入院と、すっかり気力を失って参り、なんとか生き抜いて、息子の再建できるまでと考えるまで回復いたしたのでした。。それで六月二十日お能「羽衣」があると伺いましたので滋賀県の方々のご支援の洋服を着て拝見いたしました。」

「一期一会のお心で私達女川の被災者をはげまして下さったのだとなアと涙と共に感動いたしました。ありがとうございました。心の底より御礼を申し上げます。こんなに優しく接して下さいましたのに、何のお返しもできないこと、歯がゆい思いがいたしました。」

「ここ仮設住宅の山々は生き生きと青く、巣立ちの小燕が飛び交い、六月までは時鳥も啼き、自然豊かな地でございます。仮設住宅群さえ見なければ、何処に千年来、想定外の大惨事があったのか? と思える、自然豊かな地でございますが、一歩山を下りますと津波で何もかにも流された被災の地には夏草が生い茂るばかり、この地に小さい乍らもそれぞれの家が建って、健康な生活を営んでいたのかと思いますと、感慨無量でございます。つい涙が流れて参ります。。「これからは女川の若い人々が一生懸命、再建復興へととり組んで前へ前進していると実感できます。」

。。心のこもった便箋5枚に綴られたお言葉。。これほどのお気持ちは ぬえにはもったいないです。ぬえはあの優しい東北の おばあちゃんたちに会いに行ってるだけなの。。しかしこのお礼状はありがたく。。これはこのとき女川町に伺った能楽師3名ばかりでなく、プロジェクトに関わったすべての人々の力に頂いた勲章と考えております。

石巻・女川町を訪問して参りました(その14…お客さまに花束を)

2012-07-23 02:45:12 | 能楽の心と癒しプロジェクト

コンテナ村商店街に到着して関係者の方々と打合せを済ませ、装束等の準備をすると、意外やまだ開演までには余裕があるようです。まずはコンテナで作られた商店街の中を拝見させて頂きました。

前回の記事でログハウス風のしつらえについてはご紹介しましたが、これはこの時に初めてゆっくりと店内を見せて頂いて知ったことです。まあ、第一印象は「おしゃれ!」いやホント、コンクリートの無機質な店舗やショッピングセンターよりもずっと良いのではないかしら。コンテナを包み込み、また連結させている通路。。ぬえは前回「自由通路」なんて表現しましたが、むしろ「プロムナード」といった方が似合っています。

その店舗の中でも一番入口に近い場所にある「花友(はなゆう)」さん。ぬえはここで、花で美しく飾り立てられたプロムナードの様子に感心し。。ひとつのアイデアが頭に浮かびました。

このお花を、来場頂いたお客さまにお配りしたら。。?

こんな事、今まで考えたこともないです。能の公演にいらしたお客さまに花束を。。?
でも、考えたら素敵なことですよね。

しかし、こういう事は能楽堂の中にいるだけでは起きなかった発想かもしれませんね~~。。また避難所でも同じだったかも。でも、仮設住宅を廻って活動を続ける ぬえは、だんだんと、上演そのものよりも、むしろそのあとに住民さんと一緒になって楽しむ「ふれあいタイム」の方がずっと重要だということに気がついてきました。

本当のことを言うと、ぬえは 仮設住宅での活動では、上演や、その後の装束の着付けの体験コーナーとか、能の楽器にチャレンジして頂くコーナーにも力を入れていますが、本当はここで「炊き出し」をしたいのです。いや、「炊き出し」は大変な労力と資財と人員が必要なことは実見して知っていますが、そういう大規模なのじゃなくて、能をご覧頂いてから、集まってくださった あの優しい爺っちゃや婆さまと一緒に「お茶っこ」さして、笑い合いたいのさあ。わがっかぁ? ぬえの気持ち。

。。ま、そんな事もあって、花友さんに飾られた花を見て、これをお客さまに配って頂いたら。。? というアイデアが浮かんだのでしょう。ひとつには仮設商店街で上演させて頂く以上、お店に貢献したい、という気持ち。もう一つにはお客さまに形のある思い出を残していきたい。。これは誕生した瞬間に消えてしまう舞台芸術に関わる誰もが思い、いろいろな意味で乗り越えていかなければいけない課題でもあるわけですが、ぬえが思ったのは、舞台そのものを映像や録音で固定するような作業とは ちょっと違います。上演された美しいもの。。 ぬえが努力して現出させられた程度ですが、そうした美を、花に仮託して思い出にお持ち帰り頂くのです。花友さんには花束を作って頂き(ポケットマネーですんで予算の都合もあり、ほんの1~2輪の花束? でしたが。。)、上演中にお客さまに配るところまでお願いをしました。

。。少なくとも ぬえの未熟は花の力で美しい思い出に変えてもらえるかも。そうして、お持ち帰りになったその花束に ぬえの気持ちは入り込んで、ごめんなさい、一緒にお宅までお邪魔しています。ご家族の団らんに、つまり お茶っこに、ぬえはそっと中に入れて頂いています。この花が枯れてしまうまでの。。短い間ですけれどもね。

こうして女川町「コンテナ村商店街」公演は、笛のT氏の解説、T氏と太鼓のY氏との一調一管、そうして ぬえの能『羽衣』が上演されました。

あれ? 上演中に ぬえは、花束が配られていないな。。と思ったのですが、花友さんが気を利かして、終演後に ぬえたち演者から直接渡して頂いた方がよかろう、と判断されたのでした。装束を着ている ぬえは不可能でしたが、終演後にTさんとYさんによってお花は無事、お客さまに届けて頂きました。

。。コンテナ村商店街での上演を終えて、次の公演地・女川町民野球場に作られた仮設住宅へ向かいます。
荷物をまとめて、昼食をどうするか、なんて考えながら(これ、移動しながらのスケジュールの中ではちゃんと考えないと簡単に1日2食とか1日1.5食になってしまいますんで。。)撤去作業をしていたら。。女の子が。





ぬえにカエルを見せてくれました。「そこにいたの。。」 怖がらずに自分で捕まえたらしい。TさんやYさんが車で待っているというのに ぬえはなんだかカエル談議で少女とひとしきり。なんだかなごむ時間でした。「また来るね~」とお別れをしたけど。。(・_・、)

そういえば開演前から ぬえたちの控室をず~~~っと覗き込んでいる男の子もあったな~。兄妹。。ではないですよね??


石巻・女川町を訪問して参りました(その13…イーガーさん再び。。と、コンテナ商店街に到着!)

2012-07-20 15:08:13 | 能楽の心と癒しプロジェクト
ええと。。
女川町の「コンテナ村商店街」へ向かうお話の途中ですが。

ツイッターでイーガーさんをフォローしたところ、このブログを読んでくださったようで、すぐにイーガーさんからご丁寧なお礼のメッセージを頂きました。さすが商工会。。ぢゃなかった正義の味方。\(^^@)/

これに気をよくしてさらに検索をしたところ、イーガーさんについてちょっとした情報がいくつか見つかりました。

・つい数日前、女川町でイーガーショーが行われ、秋田のご当地ヒーロー「超神ネイガー・ジオン」と「アラゲ丸」も特別出演した
・それどころか5月には山口県で行われた全国植樹祭でイーガーさんとクララーゲさんが仲良く植樹!
 →ギンジャ剣とホ盾を使って植樹するお二人の画像
・イーガー役の方のお子さんはイーガーの大ファンだが、お父さんがイーガーであることは知らないそう。

イーガーさんの事を調べれば調べるほど、心が温かくなってくるようです。
。。で、クララーゲさんの方を調べていたら。。もっと心に響く、クララーゲさんの生の声(いや、フォントですけれどね)を見つけてしまいました。

まあ、これをご覧下さい→「togetter」昨年5月の記事

これはツイッターのまとめ記事なわけですが、このあたりから検索を進めていくと、女川町のかまぼこ屋さん「高政」さんが震災以前からつぶやいておられる記事にたどり着けると思います。震災直後の厳しい状況が生々しく綴られているありさまはまさに絶句。。そうして高政さんが懸命に町民の支援をしている素晴らしいご様子も垣間見れます。

★              ☆             ★


さて遅刻しながらも無事に女川に到着した ぬえら一行は、まずは ぬえらの活動の受け入れをしてくださった商工会の遠藤さんを訪ねて女川高校の校庭に建てられた仮設商店街へ行きましたが、前夜の台風の影響で冠水した幹線道路を迂回したため予定の到着時間に間に合わず、遠藤さんはすでに公演会場である「コンテナ村商店街」に向かったあとでした。コンテナ村商店街はここからほど近くの場所なので ぬえたちも急いで会場へ。

コンテナ商店街とは、貨物の輸送などに使われるコンテナを並べて利用している仮設商店街なのですが、事前に頂いた説明では「それらのコンテナを結ぶ通路を造ってありまして、自由に行き来が出来る仕組みなんです」。。というようなことでした。どうもよくわからないまま現地に到着してびっくり!

木目も美しいログハウス調の建物が長屋のように連なっています。およそ仮設商店街といえばプレハブ、と信じ込んでいた ぬえには新鮮な驚きです。商工会の遠藤さんとも無事にお会いすることができ、舞台とする位置や控室について簡単に打合せをさせて頂きました。荷物を車から下ろして再び商店街を吟味。

見れば見るほど おしゃれ~な造りですね~。ログハウスのように見えるのはじつはコンテナを利用した店舗を格納してある母屋で、この中に、なるほど窓も何もない鉄製のコンテナがあります。ここに商品が陳列されてあるのですが、まあ、確かにコンテナというものは倉庫としてならともかく、店舗として使うにはちょっと手狭ですね。そこでこの母屋は、単純にコンテナを覆っているだけではなくて、その前におよそ2~3mの幅の空間を作ってあります。ここにもやはり商品が並んでいますし、そうして母屋そのものが繋げて造ってあるので、それぞれのコンテナ店舗をつなぐ自由通路にもなっているし、もっと言えばアーケードのように商品を眺めながら次々とお店を散策できる、という趣向です。

女川町ではこのコンテナ商店街での公演のあと、仮設住宅もまわりましたが、そこでもその素晴らしい仕様に驚かされました。女川町って、こういうデザイン感覚にすぐれた方が多いんでしょうか。

石巻・女川町を訪問して参りました(その12…イーガーさん)

2012-07-19 16:27:50 | 能楽の心と癒しプロジェクト
運転を代わってもらった ぬえはどういうルートで女川町に着けるのかまったくわからない状態でしたが、Tさんの指示でぐんぐん進むレイちゃん2! 万石浦の反対側の岸づたいに走って行ったところまではよかったのですが、なんと途中からググッと広い道をそれて、獣道のような細い道を、しかも急坂を下り始めました。(O_o)

するといつの間にやら万石浦の水際をかすめるように走り続けて。。ををっ、ここは。ぬえが見知った女川町に至る道に出たのでした。今さらながら、どうやってこのルートを知ったのだろう。。

まずは商工会の遠藤さんと落ち合うために、仮設商店街がある女川高校へ。しかしこちらの到着が遅れたため遠藤さんは不在で、電話で連絡を取ったところ、公演会場となる「コンテナ村商店街」にすでに到着・準備中とのこと。急いでコンテナ村に向かいました。

ところで、女川商工会といえば。。やっぱり「イーガーさん」ですよね~
ぬえはイーガーさんとはお会いしたことはありませんが、石巻でも震災の写真展などで何度もご活躍を目にしております。

イーガーさんとは「リアスの戦士★イーガー」です。ま、何はともあれトップ画像の勇姿をご覧下さい。
(トップ画像は→女川商工会さまサイトから拝借しました)

すなわち女川町のご当地ヒーローで、女川商工会の青年部のみなさんが企画し、2010年の7月、「女川みなと祭り」でデビューしたのだそうです。

その時の映像がこちら(YouTube)→2010女川みなと祭り「リアスの戦士★イーガー」

衣裳などはすべて手作りだそうですが、意外や効果音も上手に取り入れて、ステージ構成かなり作り込まれていますね~。

イーガーさんは悪役「ワル一族へドロン」の手下「クララーゲ」率いるワルワル団と戦い、女川の平和を守るヒーローで、子どもたちからは圧倒的な人気を誇っていたそうです。

こちらは町内の別のイベントショーの映像。「クララーゲ」が「振り込め詐欺」の被害への注意を促したり、子どもたちからの声援が響いています。

2010おながわ秋刀魚収獲祭「リアスの戦士★イーガー」

悪者がヘドロとクラゲ。。じつは「クララーゲ」さんはエチゼンクラゲの怪人なんですって。なるほどどちらも海や漁業の大敵。
一方 イーガーさんの必殺技は「うみねこ5段蹴り」、武器は「ギンジャ剣」と「ホ盾」。。銀鮭とホタテ。(^^)V
。。おっと上に掲出した映像には「槍―ガー(。。と聞こえる。。ヤリイカ?)」は登場するけど、この武器は登場しませんね~、と思って調べてみたら、ああ、「ギンジャ剣」は ありましたありました。

リアスの戦士イーガーショー at 女川の祭り ふゆの祭り 後編 2011.01.30

肝心の「イーガー」さんの名前なんですが「いーがーおめだず、よーっぐ聞げ!この美しい女川の平和を乱す奴らはおらが許さない!」という決めゼリフに由来しているそうです。いいですね~


ところが東日本大震災が起こり、女川町も甚大な被害を受けました。。
イーガーの主題歌を作曲した方も津波の犠牲になり、イーガーの武器も流されてしまったそうです。


しかし衣装は残ったそうで、自身も被災者である商工会のメンバーは震災1ヶ月後の昨年4月から、被災した町の人々に元気を与えようと、町内の避難所をまわることで活動を再開されました。武器の「ギンジャ剣」と「ホ盾」もファンが町内で相次いで見つけて、メンバーに届けられました。

活動の再開にあたってはいろいろな葛藤もあったようで。。

「震災後、最初にイーガーが活動を再開したのは4月14日です。町の小学校にある俳優さんが慰問に来てくださることになり、『じゃあ、イーガーも行こうか』という話になったんです。ただ、こんな時期にイーガーが出て行っても『ふざけてる』と思われるんじゃないか? 『不謹慎だ』って言われるんじゃないか? そんな思いはぬぐえませんでした」(「リアスの戦士★イーガー」のプロデューサー・阿部喜英さん)
→日刊SPA! 女川ルポ:子どもたちに笑顔を! 『リアスの戦士★イーガー』プロデューサーの軌跡

このとき慰問に訪れた俳優さんとは中村雅俊さん(女川町出身)のことらしいですが、このときイーガーが小学校の教室に登場した瞬間、子どもたちは『イーガーだ!』『イーガーが来た!』と大歓声を上げたそう。素晴らしい話ですね。ご当地ヒーローがここまで愛されているのは ちょっとほかでは聞いたことがありません。でも上掲の映像を見たら、なんか納得。

その後もイーガーさんは避難所をまわる活動を続けているほか、小学校を訪問したり、昨年8月にはついに「イーガーショー」を再開するところまで漕ぎつけたのだそうです。

→朝日新聞サイト 復活「リアスの戦士」ご当地ヒーローに避難所沸く

このようなイーガーさんの活躍を、ぬえは写真展でしか拝見していませんが、映像で子どもたちの歓声を聞いていると、震災前の平和な女川町でこのショーを見てみたかったと心から思います。

フォローしてあげてください~
イーガーさんのツイッター・アカウント→女川 リアスの戦士★イーガープロジェクト @Eager_Project

おっとクララーゲさんのつぶやきもありましたっ→クララーゲ ‏@kurarage


でも。。まだまだ復興は道なかば。今年の夏も「女川みなと祭り」は中止になりました。
そういえば。。最後に掲出した「ふゆの祭り」の会場は、震災後の無惨な姿しか ぬえは見ていない、あの「マリンパル女川」ですね。。この平和な日々を取り戻すことができたら。。

石巻・女川町を訪問して参りました(その11…女川町への道)

2012-07-16 06:54:52 | 能楽の心と癒しプロジェクト
【6月20日(水)】

翌朝、まあまあ早めに起床してみると、あれ? 窓から青空が見えています。台風一過。。? 結局直撃や避難指示はなかったな。。それにしても ずいぶん風が強いようだけど。。今から考えると、それは低気圧に変わる寸前の、衰えた台風の“目”だったようです。やがて雨が降り出し、そうしてやがて、雨は止みました。

今日は女川町の仮設商店街と仮設住宅を廻る予定。女川町は昨年の秋頃からずっと視察はしていますが、公演を行うのは初めての場所です。それも今回は飛び込みで活動のお願いをしました。突然の電話でさぞ関係者の方は驚かれたろうと思いますが、結局 仮設商店街を管轄する女川町商工会さまと復興支援センターさま(旧:災害ボランティアセンターですね)のご協力を頂けることになり、訪問が実現したのでした。ずっとお電話でのやりとりを続けてきた担当者さまとこの日初めて対面させて頂くことになります。

ささっと朝食を済ませて宿舎「ふれあいサロン」の2階に上げた装束類など荷物を下ろしてレイちゃん2(車)に積み込み、走り出しました。ところがもうひとつ。。この日地元紙「石巻かほく」紙に昨日の立町仮設商店街での ぬえらプロジェクトの上演の記事が掲載されている、との報告が寄せられましたので、女川町までは30分ほどの道のりですが、途中でゲットしようと考えました。

まずは開北に行って昨日もお世話になった相澤利喜子さんをピックアップして。。ここで相澤さんが「石巻かほく」の現物を見せてくださいましたが、なんとカラー写真入りで大きく掲載されています!(新聞紙面は→こちらの記事でご紹介しました) これはなんとしてもゲットしなければ、というので新聞販売店を探しながらの移動に。まず立ち寄ったコンビニには「河北新報」は置いてあっても地域版の「石巻かほく」は置いておらず。。女川町に入ってしまうと より入手は難しくなるだろうから、とカーナビで検索して渡波の新聞販売店に行ってみました。

ん~、住宅街の中の。。たしかにこのあたりなんだけど。。ないなあ。販売店が見あたりません。車を降りて誰かに聞こうと思った ぬえ。。ちょうど小学生の女の子がすぐ隣のアパートの前で遊んでいました。「ねえ、新聞屋さん、って近くにある?」女の子は「ここにあったけど」と言って ぬえの後ろを指さしました。「え?」と振り返る ぬえ。。そこはただの空き地でした。「地震のあとになくなっちゃったの」。。事情はわかりませんが移転したか廃業したのか。。でも建物は。。?

なんだか暗い気持ちに襲われながらも女の子にお礼を言って、その場を去りました。楽屋入りするつもりだった時刻も迫ってきたので、新聞は石巻の河北新報社に直接出向いて頂くなどすることに決めて、女川町に向かいました。

ところが。。昨日の台風の影響は如実に表れていて、今年の元日に公演を行った流留のイオンスーパーセンターまで行ったところで女川に通じる道路は冠水のため通行止めになっていました。そういえば女川に通じる道は汽水湖の万石浦のすぐそばを通っています。地盤沈下の影響もあるだろうし、冠水になる可能性は予測するべきでした。

女川町の担当者さまに事情を話して到着が遅れることを伝えて、ぬえは別な作業に。じつは伊豆で ふとした事から知り合いになった方から支援物資として仮設住宅の集会所に寄贈するマンガ本ひと箱をお預かりしていたのですが、その本棚にするカラーボックスを、このイオンで買うことにしました。その間に笛のTさんは情報を集めて、女川町に至るルートを調べて。。

カラーボックスを買って ぬえが車に戻ったときには すっかりルートも決まったようです。ところがまた別な事情が起こりました。ぬえの携帯にひっきりなしに電話がかかってきたのです。それはこのまた翌日に石巻市内で行う予定になっている今回の活動最後の公演についての市民からのお問い合わせでした。

じつは今回の公演のチラシのいくつかで、問い合わせ先を ぬえの携帯の番号として印刷してありました。まあ、これまでは、プロジェクトの公演活動には必ず現地の「受け入れ団体」がありまして、そこを連絡先にして頂いていたのです。たとえば仮設住宅での上演ならばそこの自治会長さん。仮設商店街ならば商工会など。こういう方の連絡先をチラシに印刷することで、公演会場の場所の説明や、開演時間など基本的な情報の問い合わせに応じて頂いておりました。ところが今回は「星と能楽の夕べ」のような自主公演がありましたもので、拝借する会場さまに問い合わせ先の対応をお願いするわけにもいかず、ぬえが自分で対応することにしました。この番号が「石巻かほく」の記事に掲載されたのですね。もうこの日は移動中、女川町の公演会場での準備中。。果ては面装束を着けて出番を待っている間にも電話が鳴り続けました(さすがに面を着けている状態では対応はできず、メンバーが代わって対応に当たってくれました)。

こんなわけで突然 問い合わせ対応という新たな仕事も加わった ぬえは、運転を代わってもらって。。3つも4つも作業を抱えながら女川町に向かいました。

石巻・女川町を訪問して参りました(その10…伊豆が。。襲われてる~~!!)

2012-07-12 22:24:04 | 能楽の心と癒しプロジェクト
プロジェクト初の自主公演「星と能楽の夕べ」は大過なく終了することができました。天候には恵まれませんでしたが、美しい世界を石巻に現出できたのではないかと思います。これ、次は気仙沼でやりたいんだけど。。なかなか能楽師と幽玄堂さんの都合が合う日を見つけるのが難しいのです。。次回プロジェクトでは8月に石巻と気仙沼で活動をする予定なのですが、幽玄堂さんはすでにスケジュールが合わず、この時の実行は不可。秋、はみんな舞台で忙しいから、やっぱり冬になるかなあ。。

さて終演後、避難勧告が出ている湊地区の宿舎に帰りました。まずはテレビで台風の状況を確かめると。。ををっ?? い。。伊豆を台風がちょうど直撃しているようです!

思い返せば。。ぬえが石巻の支援活動を始めたのは、かつて学校公演で石巻小を訪れたのが そもそものキッカケでした。そのときの子どもたちの反応がすばらしくて、とても印象的だったのです。その後。。震災が起きてしまって。伊豆で子ども創作能の指導をずうっと続けている ぬえにとっては、まず石小の子どもたちがどうしているのか。。? それが気がかりでした。でも石巻は東京からはあまりに遠く(いまは慣れてしまってあまり遠い、とは思わなくなりましたが)、 ちょっと1日スケジュールが空いたくらいでは訪れることはできないし、現地はそんな状況でもなかっただろうと思います。震災から3ヶ月半が過ぎた6月下旬に、スケジュールが数日空いたチャンスを捉えて ぬえは一人で石巻に向けて車で走り出しました。

このとき結局 石小の子どもたちと会う事はなく、そしてその後も石小を訪れる機会はついに巡ってきていないのですが、要するに伊豆の子ども能の教え子の子どもたちとの関係で、石巻の子どもたちの事も心配になって石巻にやって来た ぬえなのですね。

ということは、つまり。。

震災に襲われた石巻の子どもたちが心配になって当地にやって来たのに、ふと後ろを振り返って見てみると。
ぬえのいない間に、今度は伊豆の子どもたちが襲われてるっ (×_×;)

。。あとで伊豆のママたちに聞いたところではケガした子などはいませんでしたが、「生まれて初めての風でした」「家が揺れた」とのこと。。まあ無事でなによりでした。

さて石巻で台風の被害が予想されるのは深夜になってから、とのことでしたので、とりあえず公演の汗を流しにスーパー銭湯「元気の湯」に行き、北関東から東北にかけてはポピュラーな和風ファミレス「まるまつ」で夕食。安くておいしいです~

宿舎に帰り、今日はアルコールは自粛で眠ることにしました。深夜、もしも北上川のあの薄っぺらな仮設堤防が破れて浸水するような事があれば一大事で、その前に避難勧告が避難指示に変わったら、我々は投宿させて頂いている「チーム神戸」のお手伝いとして避難所に行って毛布を配るなど、支援活動に加わるのです。リーダーの金田さんの指示で公演から帰った ぬえたちは、まず面装束やお囃子方の道具など貴重品を宿舎の2階に上げ、車は少しでも高いところに上げるように、ということで、被災して土台だけになった隣家の敷地に乗り上げて駐車しておきました。

テレビの台風情報を見ながら、だんだんと強くなってくる風雨に心配しながら、それでもいつしか深い眠りに。。今回は睡眠障害のはずの ぬえも睡眠時間が長いようです。。

伊豆の国市「子ども創作能」、写真展のおしらせ~

2012-07-11 11:47:39 | 能楽
閑話休題。

さてこの度、伊豆の国市で ぬえが指導を続けている(今年で13年目!)「子ども創作能」ですが、能楽写真家で伊豆でもずっと撮影を続けてくださっている山口宏子さんが写真展を開いてくださることになりました!

【山口宏子写真展 「こども能」】
会期:2012年7月11日(水)~20日(土)
会場:ニコンプラザ新宿「フォトスクエア」
   新宿区西新宿1-6-1 新宿エルタワー28階





会場アクセス:
新宿駅A17出口(JR、京王線、小田急線、東京メトロ丸ノ内線、都営地下鉄新宿線) 徒歩3分
都庁前駅N5出口(都営地下鉄大江戸線) 徒歩5分
新宿西口駅D4出口(都営地下鉄大江戸線) 徒歩6分
西武新宿駅(西武新宿線) 徒歩7分

今日から展示開始ですね! ぬえもお邪魔してみまする~

さて子ども創作能では今年は大河ドラマの影響もあって、大変めざましい活躍を行っております。4月にははじめて市内を飛び出して鎌倉公演を実現させましたし、8月には花火大会のイベントや「第一回頼朝挙兵祭」というイベントに出演する事が決まっております。

が、一方ここのところ ちょっと参加人数が少ないことを ぬえは心配していました。いや、現在のところ参加児童は14名もいるので、必ずしも少ない、とも言えないのですが、すでに中学に進学していて、なお子ども能に参加してくれている子も含まれているし、もっと心配なのは、児童の学年に大きな偏りがあること。。高学年と低学年に人数が偏っていて、その中間の、3~4年生の子がほとんどいない状態が続いていました。しかも主力となっているのは最大の人数が在籍する5年生。今はまだ問題ないですが、2年後には大量退団者が出る予定なのです。。

こういうものは継続にこそ力があります。小さい頃からずっと続けてくれている子があるからこそ、公演の経験もずっと積み重ねられてきて、成果も上がってきます。これを見た ぬえの方も、それじゃ次の公演ではもうちょっと難度を上げてみるか、と演出を練って、ますます子ども能は高度な技術を獲得していきます。そうしてその舞台成果を見た低学年の子は、来年はあの役を射止めてみせる! と闘志を燃やすのでした。一朝一夕には今の舞台の完成度はあり得ないと思います。

それが一度でも児童の学年の間隔が開いたり、経験者がみんな辞めてしまって新人さんばかりになってしまったら、また演出のレベルを下げて作り直しになるかもしれない。幸いにしてこれまで子ども能ではこういう危機はまぬがれてきました。が、今後はどうなることか。。

ところが!

子ども能の実行委員会「能友の会」さんの方に相談してみた結果、学校を通じて募集をかけてみましょう、という事になりまして、ぬえもアイデアを出して募集チラシのデザインなんかを作ったりでお手伝い致しました。

そうしたら、なんと8名の新規参加者が応募してくれまして! 在籍学年も1年生から6年生までまんべんなく来てくれました! う~ん、なんてラッキーなんだろう!

こちら先日のお稽古で、とりあえず見学に来た子どもたちに自己紹介する子ども創作能の出演者たち。このあとほぼみんなが参加表明してくれました!



で、こちらは着々と上達しているリサべ~とサキべ~の姉妹の仕舞(なんのこっちゃ)『二人静』。もう立派なもんです。目つきも決まっていますね~



さて「能友の会」からは参加の記念として、もうユニフォームになっちゃった「子ども能Tシャツ」…略して「能T」なんて呼ばれていますが…が、新規参加者だけでなく、これまでの出演者にもプレゼントされることになりました! みんな、期待されているねえ。そういえば「能T」も夏場なんか、公演の前日の申合と公演当日に着るので(いやいや、強制しているわけではないのです。み~んな自主的に稽古のときも能T、着てます)、ご家庭ではお洗濯などで困ることも多かったでしょう。それから、やっぱり だんだん子どもたちは育っていくから。少し窮屈になった子もいたかも。子どもたちは思いがけぬプレゼントに大喜びでした。

。。ついでながら。

子ども能では「能友の会」のご厚意によって、ママの分の「能T」もプレゼントされています。で、それを取りまとめてプリント会社に発注するのは ぬえの役目なんですが。。ということは、ぬえは子ども創作能の保護者のママたちのTシャツのサイズをみんな知っている、ということに! これは大変。重要機密情報。国家機密です。ヘタに漏らすと ぬえ、暗殺されちゃうかも。σ(^◇^;)

で。

今回、ママも含めて全員のTシャツのサイズを改めて教えて頂いているわけなのですが。。ママからはこんなメールも。。

「すいません、子どもと一緒にママも育ってしまいました」

ん? この情報リークはアウトですかっ? ダメでしたかっ? ぬえ、危険にさらされています?(×_×;)

石巻・女川町を訪問して参りました(その9…台風の中。。いよいよ開演!「星と能楽の夕べ」)

2012-07-08 02:10:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト
開演直前に楽屋にいらしたその人は。。言わずもがな、「チーム神戸」のリーダー、金田真須美さんでした。

ぬえたちは「チーム神戸」の事務所「ふれあいサロン」に寄宿させて頂いているのですが、金田さんはどうやら近い未来に神戸の支援者の方々に石巻での活動の報告をなさるらしく、連日忙しくあちこちと連絡を取っておいででした。こちらも石巻に到着してやっと2日目、あまりゆっくりとお話しする時間もなかったのですが。。一体なぜここに?

「ぬえさん、あのな。台風のために私たちの拠点がある港地区に避難勧告が出されたのは知っているな? 。。もしこれが避難指示に変わったときは。。その時は即時この公演を中止してお客さまを安全に帰宅させなさい。」「演者としては、もしかしたら苦渋の決断になるかも知れんが。。あなた達はこの街の人々を支援するためにやって来た。わかってくれるな?」

もう面を掛けていた ぬえでしたが、もう面を掛けて私語は慎む、なんて言っている場合でもないです。プロジェクトのリーダーとして、そしてこの「星と能楽の夕べ」を石巻に持ち込む企画立案者として、何か言わなければならない。。もちろんここは異論なく同意させて頂きました。

。。こうして、やがて開演。まず栄光教会の小鮒實牧師さまの挨拶から始まり(このために牧師さまにはリハーサルからご参加をお願い致しました)、続いて笛のTさんの解説。そのあと太鼓のYさんを入れて一調一管の演奏。ここで照明を落として、PC上のソフトをプロジェクターで投影して星空の鑑賞タイム。そっと御子柴さんのピアノ演奏が加わり、幽玄堂さんによる星空解説。。普通のプラネタリウムでの解説とはひと味違う、日本人が古来星を見て思い描いてきた世界観の解説は幽玄堂さんならでは。しかも解説の中では微妙に「羽衣伝説」にも触れて伏線を作っていますね~。やがて星空を投影しながら御子柴さんのピアノソロ演奏になると、さきほどの静けさから、あるときはロマンチックに、また激しく。。これは ぬえの描いた理想を遙かに凌駕した良い出来で進行しているようです。ぬえはすりガラス越しに、しかも面の眼の穴を通しておぼろげに進行を見守るしかできませんが、だからこそ映像に惑わされず冷静に判断できる立場にもいたと思います。その ぬえの間隔として、リハーサルとはうって変わって(?)大変スムーズな進行に満足しました。

再び幽玄堂さんの星空の解説となり、投影は星空から月と富士山を写した画像のスライドショーとなります。解説は月の満ち欠けの話題からそれを司るという『羽衣』に描かれる天女の話題になり。。やがてTさんの笛が会場に響き渡り、これをキッカケに ぬえが登場。。このとき、念のため、と言いますか、登場のために控室のすりガラスの戸に向かっていた ぬえはくるりと後ろに向き直って、ずっと進行を見守っておられた金田さんに語りかけました。

「金田さん。。」「。。なんや?」「。。もし万が一のこと。。避難指示が出たら、そのときは。。躊躇しないで前に出て中止を宣言してください。マイクはステージの上に置いてあります」「おお、分かった。。ただ台風は深夜に直撃する予想なのだそうや。今すぐにどうこう、という事でもないやろ。心配し過ぎずに精一杯やっておいで。。」「。。わかりました。ありがとうございます。よろしくお願いします。。」

。。すでに ぬえの登場のために演奏を始めているお囃子方の二人には失礼千万かもしれませんが。。また面を着けて幕に向かって立ったシテとして、あまりに不作法なことは分かり切っている事ですが。。こういうやり取りが控室でありました。こんな事も被災地での上演でなければあり得ないでしょうね。。

そして登場した ぬえでしたが、思った通り2月の大崎のプラネタリウムでの公演よりも遙かに演じやすい環境であることがわかりました。暗闇の中に「星を投影する」プラネタリウムと、漆黒の夜空の「映像を投影」するプロジェクターとは、同じ星空の投影としてもまったく考え方が違うわけで、「暗闇の投影」は ぬえにとっては明るく舞台の範囲を示してくれるありがたい「光源」でありました。

。。こうして『羽衣』の上演は終わり、楽屋に戻った ぬえはすぐに面を外して、カーテンコールに臨みました。

能にカーテンコールというものはないのですが、こういう場所では不可欠です。御子柴さん、幽玄堂さん、そうして今回のプロジェクトにゲストとして出演してくれた能楽師のYさん。。これらが、それぞれ自分たちがどういう思いでこの石巻にこの日集っているのか、そのメッセージ市民に語りかける事は、こういう場面ではこの上なく重要なのです。いやいや、変な売名行為なんかではなく、石巻を思う人々が集ってこういう一つの成果を生みだしたこと、これほど石巻の人々を大切に思っている者がいることを分かって頂き、それを力となして頂きたい。。

しかし避難勧告が出ている現実もここにあり。。カーテンコールではそれぞれの出演者にひと言ずつ自分たちの活動について話して頂きましたが、もう、それは必要最小限ということにして、早く解散することが必要でした。

演者全員がひと言ずつ挨拶し。。これで解散、というとき ぬえが我慢できず大声で叫びました。「やっぱり言い足りない! 石巻大好き!、石巻サイコー!」 ああ、すいませんフライング。。でもそのとき 一人のおばちゃんが何か叫んでお返ししてくれました!

。。こうしてプロジェクト初の自主公演、「星と能楽の夕べ」は天候には恵まれなかったものの、大成功に終わりました。

すでに楽屋に金田さんの姿はなく。。さあて。。避難勧告が出ている宿舎に帰らなきゃ。。

以下は金田さんから頂いた「星と能楽の夕べ」の画像です。スタッフなんていないから撮影記録はあきらめていたのに。。撮っていてくださったの??(>_



なお ぬえが舞う『羽衣』の背景として投影させて頂いた月と富士山を写した画像は、すべてネットで発見して使用許可を頂きました。ご協力を感謝し、またその素晴らしい画像をぜひご覧頂きたいと思います!

写真ブログ「四季彩」(石塚貴之さんのブログ)
四季の富士山と花々(ルート20さんのブログ)
紅富士に沈む月うさぎ(itさんのブログ)
今日も富士山へトランスワープ!?(コックレーンさんのブログ)

石巻・女川町を訪問して参りました(その8…「星と能楽の夕べ」開演直前)

2012-07-06 11:42:06 | 能楽の心と癒しプロジェクト
あいにくの雨天だった立町復興ふれあい商店街での公演ですが、商工会の佐藤さんの機転とピースボートさんのご協力を得て無事に上演させて頂きました。

装束を片づけて急いで大街道の栄光教会さんへ移動。今回の活動で ぬえが最も力を入れている「星と能楽の夕べ」の上演のために準備に取りかかります。東京での仕事をようやくこなして深夜に石巻に入った幽玄堂さんは、ピースボートセンターいしのまきでの上演時にも装束の着付けのお手伝いをして頂きましたが、なんと言ってもプラネタリウムで能を上演するアイデアは幽玄堂さん独自のものなので、今回PCとプロジェクターを駆使しての疑似プラネタリウム上演でもわざわざ石巻にお出で頂き、星空解説のアナウンスのほか、PC・照明・音響のすべての機器のオペレートをお願いしました。

まずは前日行っていた準備の仕上げをして、やがてピアニストの御子柴聖子さんや、石巻市民でずっと ぬえたちの活動を現地でサポートしてくださっている相澤利喜子さんも到着、ミーティングのあと前日できなかったリハーサルを開始しました。

相澤さんは、年末 ぬえたちが石巻市役所で上演した際にたまたまご覧にお出でになり、以来 ぬえらが石巻で活動する時には必ずお出でくださっています。最初はお客さま、だったんですが、やがて仮設住宅での公演の際に装束の着付けのお手伝いをお願いしたりするようになって、いまでは完全にスタッフ状態。今回は自主公演の「星と能楽の夕べ」では受付などをお願いしました。ぬえは「事務局長」とお呼びしていますが。(^◇^;)

とはいえ、仕方ないことではありますが、プロジェクトの限られた活動資金や人材ではスタッフなど存在するわけもなく、東京から石巻に来た者はすべて舞台に出演するわけです。受付こそ相澤さんにお願いできたものの、主催者であるこちらプロジェクトのメンバーがその側に付き添っていることもできず、お客さまから質問でも出たときは相澤さんの機転に頼るしかありません。さらには幽玄堂さんにはアナウンスのほかに機器のオペレートまですべてお願いすることになり、これはちょっと大変だったと思います。次回はオペレーターぐらいは別に用意して、幽玄堂さんにはアナウンスに専念できるようにしたいな、と考えています。

ともあれリハーサルでは御子柴さんも積極的に意見を多く出してくださり(これはパフォーマーとしてかなり有意義な意見でした)、いろいろ小さな修正を加えていくと、リハーサルの終了時にはすでに開演時間が近づいていました。急いで各自着替えなど準備に掛かります。ぬえも装束を着始めて、暑いので窓を開けると。。ん~、なんだか雨足がだんだん強まっている。。

いや、それどころか! 緊急放送が市内に流されているではありませんか。

「避難勧告が出ています。。湊町、不動町の方は避難してください。避難場所は○○小学校です。。」

避難勧告!?
しかも湊町といったら。。ぬえたちの宿舎がある場所ではありませんか。。

どうしようと思いましたが、意外にもこの頃栄光教会にはお客さまは集まり始めていまして、またこの大街道地区は海からも北上川からもやや離れたところにあるので避難勧告は出されておらず。。情勢の変化に注意しながらも、とりあえず予定通り行うことにしました。

あとで知ったことですが、「避難勧告」は災害が発生、または発生の恐れがある場合に自治体の首長が出すもので、「居住者に避難を勧め促す」もの、これより強い勧告に「避難指示」があり、こちらは命令に近いものです。しかしいずれも法的な拘束力はないそう。さらにこれよりも逼迫した危険がある場合には住民ではなく地域を指定する「警戒区域」の指定がなされ、これは違反して区域内に侵入したり退去指示に従わない者には罰則が課される場合があるそう。今回の原発事故で福島県内に設定されたのがこの「警戒区域」です。

ぬえも開演直前に面まで掛けて、あとは控室で暗闇に目を慣らしながら、すりガラス越しに開演した「星と能楽の夕べ」の進行を見守りました。この時間、いつも ぬえは孤独ですね~。そばに誰もいないまま、必要な場面ですぐに登場できるよう、面まで掛けて待っています。通常の公演ならば後見の方がそばについて下さり、出番の直前に面を掛けるのですが、こういう場所ではその人員もなく。。とはいえ、大変なのはむしろ紋付で行動するお囃子方です。プロジェクト・メンバーの笛のTさんは毎度、公演前にはチラシ類のデザイン、印刷を一手に引き受けてくださり、公演時には解説やら ぬえの着付けの手伝いやら、お客さまの応対やら。。装束を着ている ぬえができない作業を一人でこなすことになります。これは大変でしょう。しかも今回は幽玄堂さんの補佐として機器の操作まで手伝って頂きました。いつもいつも困難な活動をして頂いて感謝です~。

さて開演直前に、この雨天でお客さまはどれぐらい集まってくださったかな~、と考えている ぬえの耳に、いきなり耳慣れた関西弁の言葉が聞こえてきました。「ぬえさん、あのな」 。。ををっ?? なぜあなたがここに??

石巻・女川町を訪問して参りました(その7…ピースボートセンターいしのまき)

2012-07-03 02:17:53 | 能楽の心と癒しプロジェクト
そうこうしているうちに、ふいにどこかへ出かけて行った佐藤さんが戻って来られて、新しい提案をしてくださいました。

それは、この会場にほど近い商工会の隣りに、ボランティア団体「ピースボート」が事務所をオープンし、そのメンバーと今回の能楽公演の話をしたところ、大変興味を持ってくれた、そこでの公演はできないだろうか? というものでした。

ピースボート。。この石巻をはじめ、津波被害に遭った各地でこの団体の名前を聞かない日はなかったんじゃないか、と思うほど、人海戦術の大作戦を展開しているご様子は夏から拝見していました。実質上、自衛隊や米軍に次ぐ規模で各地っで活動されていたんじゃないかしら? でも、体力的に泥掻きまでは無理な ぬえとしましては、活動をご一緒する機会はついにありませんでした。むしろお世話になったのは仮設のお風呂。いや、笑うことなかれ! これは大問題だったのです。

震災当初、食事さえ欠乏している状態の中、自衛隊と並んでいくつものボランティア団体が救援に駆けつけました。この頃の事情は実際に現場にいなかった ぬえにとっては伝聞でしかありませんが、食事の確保ほか通信の復旧、いやその前に人命救助や被害者の捜索、負傷者の搬送・治療。。と戦場のような有様で、とても入浴なんてゼイタクは言えない、というか考えつかない状況だったようです。当時、1ヶ月もお風呂に入っていない。。なんてお話はザラだったようですから。。

ぬえが石巻や気仙沼を震災後初めて訪れたのはそれから3ヶ月半も経ってからの事で、すでに街にはある程度の落ち着きが戻ってきていたように思います。そうしてプロジェクトとしての活動として能楽の上演活動を始めたのは、またそれより1ヶ月半が過ぎていました。この頃にはまだまだ銭湯なんて営業しておらず ぬえたち能楽師有志一行が活動のあとにお世話になったのが、ピースボートが運営する仮設浴場「不動の湯」でした。「不動の湯」というのはこの仮設浴場が設置された場所が石巻市民会館の敷地で、そこが不動町という地区だったからでしょう。隣りは明友館の建物でした。

いや、この仮設浴場の快適なこと! 鉄骨?の骨組みとブルーシートで作られた大きな浴槽になみなみと注がれ続ける湯。洗い場はすのこ1枚で下はアスファルトの地面でしたが、シャンプーもボディソープも常備され、湯上がりにはなんとジュースのサービスまで供され、露天にベンチを置いた喫煙所兼休憩所まで完備。これはこの湊・不動町地区の住民さんもボランティアさんも みなさんお世話になったことでしょう。あ、そうそう。ピースボートさんの石巻での活動では仮設住宅に配られる新聞「仮設きずな新聞」の活動が特筆されるでしょう。手作り、手渡し配布の姿勢、すばらしいです。

仮設きずな新聞アーカイブ

そんなピースボートさんですが、今回は商工会の佐藤さんのお計らいで、雨天のため公演が難しくなった立町商店街の代案として、その新拠点である「ピースボートセンターいしのまき」で公演を持たせて頂けることになりました。

とはいえ事前の宣伝では「立町復興ふれあい商店街」さんでの公演になっていましたし、商店街のみなさんも楽しみにしてくれたし歓迎もして頂いたので、とりあえず 笛のTさんはじめ囃子方のメンバーには立町商店街に集まってくださったお客さまに対して空き店舗を利用して能楽の囃子のミニ体験教室を行って頂き、ぬえはそれとは別にピースボート事務所に行き公演のための装束の準備。やがて立町商店街でミニ囃子講座を終えたTさんらはお客さまを誘導してアーケードを徒歩でピースボートセンターへ移動して、ここで能楽『羽衣』をご覧頂くことになりました。

去る6月2日にオープンしたばかりの「ピースボートセンターいしのまき」は、それはそれは美しい事務所でした。住民さんが自由に利用できるPCコーナーあり、イベントスペースあり、ボランティア活動依頼のデスクあり。このボランティア依頼デスクの整頓されて清潔な様子を見て、だんだんと復興が進んできたことを実感した ぬえでありました。

ピースボートセンターいしのまき

ここでの ぬえらプロジェクトの上演は、河北新報さんから取材を受けまして、翌日の「石巻かほく」紙にカラー写真入りで掲載されました。それがトップ画像です。河北新報さんには何かとお世話になりっぱなし。ありがとうございます~~

すいません、ちょっと話は戻って仮設浴場について ぬえが思う話題の続き。

ぬえらプロジェクトが昨年初秋まで活動をしていた拠点、石巻の湊小学校避難所ですが、ここにはピースボートとはまた別の団体が設置した巨大な仮設浴場がありました。ぬえらはついにここを利用することはなかったのですが、その規模の大きさは驚異的でした。



そして、それより増して驚かされるのが、6月に ぬえが見た、そこに張り出された横断幕の文字。「中越・中越沖震災 ご支援ありがとうございました 新潟県十日町市・津南町・柏崎市 支援企業グループ」

およそ震災被害を受けた地域に届けられた巨大仮設浴場の贈り物。そこにあった文字が「応援しています」「がんばって」ではなく「ありがとう」とは… これを最初に見たとき ぬえは本当に、自分が知らないことばかりなんだなあ、と思いました。17年前に震災で痛い目に遭った神戸の人々。もう世間では半分忘れ去られている中越沖地震を経験した新潟の人々。それらがみいんな次の災害のために周到に準備を行っていたのです。そしてこのたびの震災に際して石巻に善意を集中させた。この姿はまことに尊いと思います。関東大震災以来(戦災は除いて)大規模な災害に遭わなかった東京に住む ぬえには到底至ることのできない境地でありましょう。

それにしても本当に多くの企業。。つまり民間の力がこの「希望の湯」に注ぎ込まれたことがわかります。

サイエンス株式会社:石巻市湊小学校「希望の湯プロジェクト」
東北大学地域復興プロジェクト"HARU":石巻「希望の湯」プロジェクトの報告
株式会社グリーンエナジー:宮城県石巻市で『希望の湯プロジェクト』を実施

いつか石巻の人々がこういった善意をお返しする日が来ることでしょう。それは甘美な、美しい姿であるでしょうね。いや、災害なんて起こっては困る事なんです。それはそうなんだが、もし、万が一そういう事が起こった時には、ぬえが抱いたような感慨を、次は石巻の人々が強力に展開することでしょう。今回の震災の経験を元にして、被災地に限らず日本のすべての人々が民間レベルで災害に対する対策を準備し、迅速な救援の手を差し伸べられるような、そんな未来が来ることを ぬえは願っています。

石巻・女川町を訪問して参りました(その6…雨の立町商店街)

2012-07-02 16:34:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
さて食事を済ませると、今回の最初の公演となる立町復興ふれあい商店街での公演のために宿舎を出発しました。

…ところが天気はだんだんと崩れてきて、とうとう雨が降り出してきました。ああ。。どうなることに? これまで1年間の活動で、雨が降ったのはわずかに先月GWに気仙沼大島に行ったときと今回だけです。。が、最初の公演地である石巻の「立町(たちまち)復興ふれあい商店街」は雨では公演が難しくなってしまうんです。

…というのもここは仮設商店街でして、被災した店舗が寄り集まってプレハブの仮設店舗を形作っているところ。もとより店舗の中では上演できるスペースはないし、たとえ上演してもお客さまがご覧になる場所がない。そこでこういう仮設商店街では駐車場など野外の空きスペースで上演することになります。いやこれが。意外にアスファルトの上というのは足の滑りが良くて、舞うには不便はないのです。もちろん足袋はダメになってしまいますけれども。。それと1回は仮設商店街の駐車場がアスファルト舗装されていなくて砂利の上、ということがありました。角ばった砕石の上で足袋はだしで舞うのは。。このときだけはちょっと大変だったかな。こんなわけで、仮設商店街では野外での公演になるため、雨天では上演そのものが難しくなってくるのです。

もっとも石巻の天候は当然活動の出発前にチェックしているし、そこでどうも晴天には恵まれないかも、という心配はすでにあったので、対策も少々は考えてありました。今回の活動では上演曲を『羽衣』に統一しておいたのですが、これは雨天の中では上演できない。。彩色が水に弱い面がむき出しですからね。そこで出演者で打合せはしてあって、霧雨程度の降雨ならば急遽曲目を『菊慈童』に変更することになっていました。黒頭をかぶる『菊慈童』であれば、短時間の上演には耐えられる、と考えたのですが、これはシテ方である ぬえの立場からの対策で、あとは地面に直接座る(座布団くらいは敷いて)お囃子方の立場からも判断はあるでしょうから、上演の可否は出演者全員の合意で決定することにしました。

しかしやはり事前に上演の宣伝もしていますし、お客さまが集まって来られた場合、ただ中止、というだけでは申し訳ない、という事もあります。じつはこの前日、やはり今回の活動中に仮設商店街での上演の予定がある女川町の商工会さまからお電話を頂いておりまして、やはり天候を心配されて、雨天の場合はどうしますか? というご相談がありました。

雨天で出演者の都合として上演は不可能、それでもお客さまが集まって来られた場合はどうするか? いや、もしもお客さまが会場に来られないような雨天の場合。。これも考えなかったわけではなくて、やはりこちらとしてもわざわざ宮城県まで足を伸ばしてのせっかくの活動ですし、また当地でもお客さまだけでなく仮設商店街のお店の方々も楽しみにしておられるので、この場合は空き店舗の中でミニ能楽講座を行うことにしました。

女川町商工会さまには電話で、石巻では商店街に到着してから担当の商工会の方に直接この旨をお伝えし、どちらも安堵されました。おっと石巻の立町仮設商店街では担当の商工会の方。。いつもお世話になっている佐藤洋一さんと3ヶ月ぶりの再会です。2月の活動でもこの立町の商店街での上演をまとめて頂き、前回3月の活動の際にはお宅に泊めて頂き、と、ぬえらプロジェクトにとって大恩人の方の一人。で、この日は屋外での上演は不可能であろう、という能楽師の決断があって、佐藤さんも急遽会場を仮設商店街の空き店舗。。本来控室として使わせて頂く12畳ほどの場所でのミニ講座への変更を承知してくださいました。

でも、ぬえも考えが甘かったかも。プレハブ店舗が長屋のように並べて建てられている仮設商店街は、まるで地下街かなにかのように整然と店舗が並んでいるのですが、それらをつなぐ屋根付きの通路などはないので、雨に濡れた屋外から土足でいきなり店舗に踏み込む構造です。我々が楽屋入りしただけで室内の床はすでに泥だらけに。。これでは床に畳折紙を拡げて装束や面を並べたり、お客さまに正座して楽器を体験して頂くことも難しい。。急遽佐藤さんはほかのイベントに使ったビニールシートを敷く提案をしてくださいました。

それでもお客さまがビニールシートに上がるために靴を脱ぐスペースの確保やら、どうやら問題は山積のようです。仮設商店街での公演の雨天の対策は今後もう少し考えていかなければなりませんね。。

石巻・女川町を訪問して参りました(その5…滞在2日目)

2012-07-01 20:04:43 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今朝のテレビニュースを見て、石巻の「木の屋」さんの鯨缶タンクがついに撤去された事を知りました。
刻々と変わっていく有様に感慨もあり、複雑な思いもあり。。

さてこの日、「星と能楽の夕べ」の機材の仕込みが終わったら、そのままリハーサルに突入する予定だったのですが、機材操作と星空解説のアナウンスを担当するプロジェクトのゲスト、幽玄堂さんが東京での仕事が片づかず、石巻到着は深夜近くになることが判明。。まあ機材さえセッティングが終わっていれば、あとはソフトだけの問題なので、リハーサルは翌日。。すなわち公演当日に行うことにしてこの日は撤収。栄光協会の小鮒實牧師さまにご挨拶して宿舎に帰ることに。

あ、そうだそうだ、じつは最近10月に松島での活動を打診されまして、その関係者がこの日仕込み準備中の栄光協会に ぬえを訪ねてくださいました。ん~とうとう ぬえらも石巻でお仕事を依頼されるようになったか~。この日は簡単に打合せをさせて頂きました。ご丁寧に石巻名物の「笹かまぼこ」の詰め合わせをおみやげに頂いてしまいましたが、これは滞在中の我々の宿舎での朝食を毎日賑わせることになりました~。ありがとうございました~

さて宿舎にはお風呂がないので、セッティング終了後、栄光協会がある大街道からならばすぐそばの「元気の湯」に向かうところですが、タオル類を宿舎に置いてあったのでまずは宿舎に向かいました。金田さんは先日までずっと石巻で活動をともにしていたスタッフさんと電話しながら、ずうっとPCに向かって作業中。どうも神戸で近々に大きな活動報告の場があるらしく、その資料づくりで大変忙しい様子です。なんでもお風呂もロクに入れないほどらしい。。ので、元気な声で「お風呂に行って来ま~す」とご挨拶して出発。

その後は激ウマ焼き鳥屋さんの「東助」で飲んで、宿舎に戻るといくばくもなく眠りにつきました。。そういえば今回の公演では よく眠ったような気がします、ぬえ。ぬえは睡眠障害があって、どうもふだんはほとんど眠らないんです。深夜2時頃に寝て、5時には目が覚めて作業を始める、といった具合。。昼間に疲れたな。。と思うことがあっても、30分もうつらうつらすれば、ほら、元通り! (・_・、) まあ、時には猛烈に眠気が襲ってきて気絶状態で眠ってしまうこともあります。伊豆の子ども創作能の稽古のあと、夕方7時に伊豆を出たのに、東京に到着したのは翌朝4時、ということもありました。

でもまあ、そんなに眠ってしまうのは稀で、石巻でも前日の公演で疲れて眠っても、翌朝5時頃には起きてしまって、一人でレイちゃんを駆って早朝に視察に出るのが日課のような感じでした。それが今回は早朝に起き出すことは一度もなかったな~。久しぶりの終夜運転で疲れが出たり、または初めての自主公演があって緊張していたか。。?

【6月19日(火)】

。。と言っている舌の根も乾かぬうちに6時に起床。早朝の石巻を見て回りました。いやいや、早朝に起きだして視察したのは本当に今回の滞在中はこの1日だけでした。まずは中瀬を見て、それから住吉神社にご挨拶。。と、ふとここで堤防から北上川を見てみると。。なんと「巻き石」が姿を現しています!!

「巻き石」は住吉神社のすぐ前の北上川の中に、岸のすぐそばにある小さな岩のことです。見事に四角形のこの岩に当たった水が小さな渦巻きを起こすところからこの名がつけられた、ということで、石巻市の名前の由来になっているのだそうです。ところが震災後、石巻市では大規模な地盤沈下が起きて。。この巻き石は水没してしまった、とのこと。地元の人からもそう聞いていたし、ぬえ自身何度もここを訪れましたが、やはり巻き石を見ることはありませんでした。ところが今日はたしかに巻き石が見える! これはどうした事でしょう。。はじめて巻き石を見た感慨もさることながら、なんだかかえって不吉な予感。。

このあと日和山に上り、鹿島御児神社の境内から石巻の市内を見渡しました。すっかり瓦礫が片づけられて平地になった門脇・南浜。それに中瀬。遠くに日和大橋。それと比べるとやはり片づけの速度がやや遅く感じる北上川の対岸の湊や不動町も、ここからならきれいになった街並みに見えますね~。ちょっと天気は心配だけれど、こうした見晴らしの良い場所がたくさんある街っていいなあ。





以前に学校公演でお邪魔した、そしてそのときの子どもたちの好印象が ぬえの活動の原点にもなった石巻小学校を眺めながら日和山を下りて、朝食のためにコンビニでちょっと買い物をして宿舎に帰りました。

宿舎に到着すると朝食の準備。同行してくれた共演者がササッとソーセージを炒めて、昨日頂いた笹かまぼこが食卓に並びました。インスタントみそ汁にサラダ。をを~っ、ごちそうじゃありませんか。そういえばプロジェクトの活動で東北地方に来ると、スケジュールが忙しかったり、また宿舎に設備がなかったりで、ほとんどコンビニ弁当で食事を済ませるのが当たり前になっていました。よく笛のTさんと話すのですが、「我々の食事って、毎度初日だけ豪華だよね~」

…どういう事かと言うと、東北での活動ではなぜか、毎回初日だけは我々の公演を受け入れてくれる団体などが宿舎を用意してくれる事が多くて、それが朝食付きの旅館だったりするのです。初日は旅館に泊まって食事も頂き、2日目から避難所やボランティア団体事務所で雑魚寝、食事はコンビニ弁当。。こんな事ばっかり。いや、それはそれで楽しいんですけどね~。