ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

豆ぬえ、初の子方…無事に終わりました

2010-01-26 13:16:15 | 能楽

去る土曜日、群馬県・伊勢崎市でホール能があり、ぬえも地謡に出演させて頂きました。

これは伊勢崎市ではもう恒例になった催しですが、この日上演された能『海士・懐中之舞』では 豆ぬえが初めての子方を勤めさせて頂きました。豆ぬえ…アイツです。世界征服をたくらむ6歳児。龍女を味方につけてその野望をまた一歩現実に近づけたようです…

初めての子方のお役にしては『海士』はちょっと難しかったかな~、とは思いましたし、そもそも 豆ぬえにはこの1年近く稽古をつけていませんでした。どうも覚えが悪くて。本人もあまり舞台に出るつもりはなかったようです。なんせ チビぬえが厳しく稽古をつけられているところを目の当たりに見ていますからね~ (__;) 自分はあんな目に遭いたくないとも思っていたようです。

がしかし。実際問題として「右に行く」「左へ廻る」ということさえ覚えないのでは稽古のしようもないわけで。そんなワケで怒った ぬえは、お弟子さんの小さな発表会に出す予定だった 豆ぬえの仕舞もすべて取りやめてしまいました。

そうして月日は流れて… 昨年の秋頃に、先輩からこの伊勢崎市での『海士』の子方のお役を 豆ぬえに任せたい、というご相談がありました。 へ?? なんで豆ぬえ?

どうやら、いつの間にか ぬえの師家では子方の人材が不足していたようです。あれあれ、先日まで子方はてんこ盛りにいましたのに! そういえば…思い起こせばずっと以前に子方をしていたK君はいまや書生さんとして修行中。つい先日まで子方を勤めていたS君は受験生ですって! そうして チビぬえもいつの間にか声変わりをしてしまいまして(年齢と比べてちょっと早かったですが…)、これも子方はもう無理になってしまいました。こうして、あれよあれよと言う間に子方を勤められる子どもがいなくなってしまって、そうして 豆ぬえに白羽の矢が立ったのですね… んん~、どうしよう…

なんせ初子方。しかも曲がセリフも型も多い『海士』で、その上今回は「懐中之舞」の小書つき。これによりまた子方の型も増えるのです。ああ~、大失敗が起きる予感… (×_×;) そこで、お役を頂いた先輩には申し訳ないですけれども、このような事情ですので、チビぬえにも同時に子方の稽古をつけておいて、豆ぬえが どうしても、どうしても子方の役が勤まらないような最悪の事態に立ち至った場合、そのスペアとして チビぬえが代役することもご相談申し上げて了承を頂きました。

こうしていよいよ本格的に子方の稽古を始めたのですが、やはり1年間の間に子どもは成長しているのですね。この度の稽古では 豆ぬえは型も謡もよく覚えられるようになって、稽古は成果をあげてゆきました。そうして、これが子方の稽古としては一番肝心なのですけれども、舞台上でアクシデントが起こった場合の対処のしかたについて何通りものシミュレーションをするところまでたどり着いて、なんとか舞台で失敗する恐れは少なくなっていきました。

それでも、まだまだやる事はあるんです~。装束を着けての稽古もしなきゃならないし、『海士』のビデオを見せて実際の舞台のイメージをつかませ、申合ではいかにこれと違うかも説明する必要があります。すでに チビぬえの稽古の際に思ったことですけれども、「わかりきっているところは省略」「面装束は着けているつもりだけ」というスタンスで臨む能の申合は子方にとっては試練ですね。そのうえ囃子方も大鼓は革が痛むため張り扇で演奏するし、そもそも囃子方は申合では床几に腰掛けずに正座して勤める習わしになっているし…さて本番で幕を揚げてみれば、子方にとっては申合と全く違う状況がそこにはあるわけです。これをちゃあんと説明しておかないと、本番で子方は混乱して、何もできなくなってしまう…

こうして、どうにかこうにか大過なく 豆ぬえは初の子方を勤めることができました~。3歳から稽古を初めて4歳になったばかりから子方を勤めている チビぬえから比べればずいぶんと遅いスタートではありましたが、物怖じする性格でもないし、これからは良い舞台を勤めてくれることを期待しています。

さて…『海士』を無事に勤めたごほうびは何がいい? と聞いたところ、豆ぬえから返ってきた返事は「水族館に行きたい」でした。ほおほお、何だかんだ言ってもやっぱりお子さまだね~

…まてよ。。

龍女を味方につけた 豆ぬえは、その眷属を手下にするために水族館に行くのではないのかっ!? 「おい、おまえら…誰がボスなのかわかっているよな…。○月×日に決起する…。おまえはイギリスを包囲しろ…。おまえたちは海からニューヨークを攻撃するんだ…。上海にアタックを掛ける者は料理の材料にされないように注意しろ…。わかったら…散れ!!」そっと水槽につぶやく 豆ぬえ。(O.O;)(o。o;)

ああ、世界征服の脅威はいま目の前に!? (;>_<;)

太刀、作ってます

2010-01-22 02:30:57 | 能楽

久しぶりの工作の時間~
今回の ぬえは太刀を作っております。と言っても作っているのは刀身だけ。これを「つなぎ」と言います。

元来、刀剣は鞘に納められているものですが、たとえば時代のある刀剣が売りに出される場合、刀身は白鞘に入れて売却され、鞘や柄などの刀装、すなわち「拵え」は美術的な価値があるため別売りされる事が多く、ところが拵は刀身がなければバラバラに分解してしまうため、木製の刀身…要するに竹光を中に入れてその形状を保つのです。この竹光が「つなぎ」ですね。

竹光と言っても「つなぎ」は木製です。白鞘を含め刀の鞘や柄、そして「つなぎ」はすべて朴の木で作る事が多いのです。ぬえも一昨年、『一角仙人』を勤めたときに剣を自作してみましたが、この時 試しに朴の木で鞘を作ってみたのですが、なるほど木目が素直で、それなのに加工がしやすいです。そのうえカンナで削るだけでツルツルに仕上がる。これなら中に入る刀身を痛めません。木目が詰まっているためか、少々重いのが玉に瑕かしらん。

この画像の太刀は子方用で、数年以上前になりますか、骨董市かどこかで見つけた物です。これは五月人形の飾り太刀だと思いますが、それにしてはかなり大きい物で、子方の太刀としてなら十分に舞台での使用に耐えるものです。五月人形の飾り太刀としてはたいそう立派な拵で、戦前の良い時期に作られたものでしょう。中には刃は引いてあるものの鉄製の刀身が入っています。来月 豆ぬえが『船弁慶』の子方を勤めるので、これを舞台で使ってみようと考えて、この太刀の刀身を木製のものに替えようと、「つなぎ」の製作に取りかかりました。…が、予想はしていましたが、やっぱりこれは大変でした~



これが一昨年に作った剣なのですが、これは鞘から柄から刀身まですべて自作しました。まあ~大変な作業で、完成までに半年ほど掛かったのですが、剣はまだ「直刀」ですんで、おおかた予想した通りに作ることができました。がしかし、この剣を作ったときに、湾曲した太刀の「つなぎ」を作ることはさぞ難しいことだろうと痛感しました。すでに鞘が先にそこにあって、その反りに合わせて「つなぎ」を作るとは…驚異的。…ぬえには不可能だと思いましたが、今回は止むに止まれずこれに挑戦することになったのです。

まずは薄い木(今回は朴の木ではなく西洋材)の板を用意しまして、これに太刀に入っていた鉄製の刀身を載せて形を写し取り、ノコギリやカンナを使ってだんだんに削っていって、刀身のコピーを作るわけです…が、うまく写したと思っても、できあがった刀身…「つなぎ」が、どうしても鞘の中に納まらない…どこか「つなぎ」の厚さや幅が微妙に間違っているんですね。これが、どの部分が狂っているのかが なかなか見つけられないのです。鞘を割って、「つなぎ」を合わせてみれば、どこが当たってしまっているのか分かると思うのですが、それでは漆をかけた鞘を破壊してしまうことになります…

刀身も鞘の内部も湾曲していますから、「つなぎ」が鞘の内部で当たっている部分がどこなのかは、「つなぎ」を何度も鞘に出し入れして感触で見当を付けるしかありません。で、あっちを削り、あれ、当たっているのはここじゃないな。んで、こっちを磨き。なんだよ、ここでもないのか…だんだん「つなぎ」が細くなっていく~ (T.T)

で、なんとかペーパーナイフになる前に「つなぎ」として削り出すことに成功しました。これが最初の画像の真ん中に写っているヤツです。あとは下地塗装をして銀色に塗って。そうして目釘を打って完成です。

豆ぬえ~、稽古で壊すなよ~。

だってさ…今週伊勢崎市で行われる催しで『海士』の子方で初子方を勤める豆ぬえ…その稽古ですでに稽古用の経巻を破ってしまいまひた… おねがい…壊さないで… (×_×;)

しんべヱの声の方に会いました

2010-01-20 02:33:16 | 能楽
先週、川崎市の「洗足学園」にて学生能が行われ、ぬえも地謡にて参加してきました。

少人数の出演者でフットワークの軽いお狂言では学校公演というものはかなり以前から行われていますが、能となると なかなか機会がありません。その意味でも一昨年、昨年と文化庁の派遣公演「本物の舞台芸術体験事業」で東北や九州の小中学校を巡回して公演できたことは、ぬえにとっても印象深い経験でした。その後例の「事業仕分け」でやり玉に挙げられましたが…その後どうなったかなあ。。 ぬえ達が伺った学校は、お世辞にも都市ではなく、むしろ僻地と呼ばれるような地域にあったのですが、普段触れる機会のない能に出会った子どもたちの、神妙な面もちでもあり、またうれしそうな顔が忘れられません。財政問題はあっても、文化を殺してしまうような政策は行ってほしくないです。死んでしまった文化は二度と再生できないのですから…

さてこの日は久しぶりの学校公演ということで、しかも女子校の高校生と中学生が観客です。んま~~、さすがに開演前の客席の騒がしさ…つまり おしゃべりの音量が 小学校の比ではありませぬな。(^◇^;)

でも、この日は能のほかに特別の出し物があったのです。それは女流 講談師の一龍斎貞友(いちりゅうさい・ていゆう)さんによるお話! それはこの日の上演曲目である『安達原』のあらすじを能の上演に先立って講談で語って頂く、という、現代っ子の中・高校生に能の理解をして頂くための工夫です。

一龍斎貞友さんとは ぬえも初対面だったのですが、そのお声はそれ以前から聞いていました。すなわち昨年の九州での学校公演で『安達原』を上演した際に、スライドであらすじを上映し、そのナレーションを貞友さんが受け持っておられたのです。そのナレーションがそれこそ千変万化の声の持ち主で、それにまず驚いた ぬえではありましたが、楽屋で「あのナレーションは しんべヱの声の人なんだよ」と教えてもらって またまたビックリ。あ~~!!なんとなく聞き覚えがある声だと思ったら。

こういうご縁で、東京近郊の学校公演で、しかも上演曲目が『安達原』ですから、ご本人の登場を願った、というのが今回の洗足学園の公演だったようです。

楽屋でお目に掛かった貞友さんは、とっても気さくな方でした! そうして始まった講談ですが、貞友さんは「みなさん講談を聞くのは今日が初めてだと思いますが、私の声は小さい頃からよく聞いていると思いますよ~」とおっしゃって、NHKで放映しているテレビアニメ番組『忍たま乱太郎』の登場人物「しんべヱ」の声を担当する声優でもある、と明かしました。とたんに会場は「え~~~~~!!!」…ぬえ、ホールが壊れるかと思った。(^_^;)

その時のお話で知ったのですが、貞友さんは「しんべヱ」のほかにも『ちびまる子ちゃん』の「おかあさん」の役とか、『クレヨンしんちゃん』の「まさおくん」などの役も担当されているのだと知りました。ええ~、ずいぶん印象が違う声の役だが…

しかし始められた『安達原』の あらすじの講談を聞いて納得しました。いや以前にスライドのナレーションを聞いたよりも、ライブで聞くとさらに千変万化に声を変えられるのですね~。一人で何役をこなしていたのだろう、それが み~んな、声を出した瞬間に、登場人物のうちの誰の声なのかがわかる、という。「そのとき○○が言いました」なんて説明をしないでも、ちゃあんと会話になって聞こえます。ん~、どの道であっても、プロはやっぱりスゴイね~。

んで、貞友さんによれば「しんべヱ」の声は ほぼ地声のままなのだそうです。なるほど、『安達原』のあらすじを語っておられても、狂言方が勤める能力の役の部分を語ると、あら不思議、「しんべヱ」が能力であるみたい。(^◇^;) もちろん客席からも どよめきが…

講談の部分は舞台袖からしっかり拝見した ぬえは大爆笑でした。ああ、こういう企画も面白いですね~。

NHK『忍たま乱太郎』サイト
一龍斎貞友サイト

訃報・村瀬純師(続)

2010-01-18 01:48:28 | 能楽
村瀬純師のご葬儀…ぬえはよんどころない用事がありまして、お通夜のみの出席となりました。

…でも、お見送りのときに村瀬師のお顔を見たら…ぬえ、ダメだったかもしれないです。(T.T)

さて結婚祝いに中啓を頂いた ぬえのお話。その後、これは扇を頂いたずうっと後のことになりますが、その扇を使って、村瀬師をお相手にシテを勤める機会が訪れました。ちなみに ぬえはその頂いた扇を、村瀬師のお相手のときにおろす…つまり初めて舞台で使う事に決めていたので、これがその扇のデビューになりました。

その日楽屋で村瀬師とお会いした ぬえは「この扇…頂いたものです。今日は初めてこれを使わせて頂きます」と申し上げたところ…意外そうな顔をされて、そうして ひとこと。 「ふん」 …これだけ。(^_^;)

まったく扇のことなどには頓着されず…というより誇るでもなく恩着せがましい態度を取るでもなく。いつも通りの村瀬師でした。「ちゃんと稽古は積んできたんだろうな? 舞台の上で見させてもらうぞ」と、口には出さないまでも そういうオーラが出ていました。いつものように。(;^_^A

そうなんです。後輩の面倒見のよい村瀬師は、ぬえの、いや、ぬえに限らないでしょうが、お相手を願った能が終わると、よく楽屋でいろいろとアドバイスをしてくださいました。ある時… あれは ぬえが『安達原』を勤めたとき、能が終わって楽屋で通り一遍のご挨拶をお互いに交わしたのですが、どうも村瀬師の態度があきらかに不機嫌。装束を脱がれた村瀬師はそのままご自分の楽屋で腕組みをして座っておられて。ぬえは恐る恐る村瀬師にあらためてご挨拶に伺いました。村瀬師は「おまえ…ちょっとそこに座れ」とおっしゃって。そうして「オレは…『安達原』を、もう100遍は勤めているよな」と切り出されました。「だが…おまえのようなやり方をオレは見たことがないぞ。他の人の舞台をちゃんと見ているか?」

これは当時の ぬえには衝撃的でした。いや、少なくとも同年代の能楽師の中では ぬえは格段に多くの舞台を勉強のために拝見に伺っていたつもりでしたから…。細かい点は長くなるので省きますけれども、要するに ぬえはその拝見したお舞台ではそのときシテを勤められた方の技術ばかりを参考に見ていたのですね。そして形付け…振り付けを書いた書物の中でも自分のパートばかりを見ていた事に気づかされたのでありました。囃子には造詣の深い ぬえは、囃子との合い具合などには相当に神経を注いでいましたけれども、おワキから言われたこの批判は、一番の能を作り上げる上で最も必要な視点を当時の ぬえは欠いていた事を端的に指摘していました。

シテ方は職掌柄どうしてもお囃子との具合の良し悪しを考えてしまうし、研究の方向もそちらに向きやすいかも知れないです。少なくとも当時の ぬえはそうでした。しかし考えてみれば、同じく立ち方として装束を着けて言葉を交わすワキ方の視点を常に考えていなければ、ワキの目を通して舞台で展開される事件を追体験されるお客さまにも演技は伝わりようがないわけで…。

おワキ方は、舞台のクライマックスの場面では ほとんどの場合、着座してシテを見つめる事に専念されておられるので、そうしてシテはついついその場面で丁々発止と舞台を進行させる地謡や囃子との関係に注目してしまうのですね。これはあまりに片手落ちな態度であるし、ある意味では見所に背を向けた指向性でありましょう。そうしてまた、このクライマックスの場面でシテを注視するおワキ方こそ、もっとも冷静な眼でシテを評価する立場でもあるのです。

この日村瀬師はいろいろな例を引いて ぬえに指導してくださいました。ぬえはそれ以後、能を勤める態度を最初からすべて見直すようになるほど、この日の体験は ぬえを変えてしまいました。今になって考えてみれば、シテ方とワキ方…に限らず流儀や職掌の違いを超えて、また若輩で新参者の ぬえの立場に対して、村瀬師のほかにこれほど懇切にアドバイスをしてくださった方があったかしらん…そうして村瀬師のアドバイスには、明らかに後輩に対して上達してほしい、という愛情がありました。

…そうして、ぬえは心に決めたのでした。ぬえが『道成寺』を披くときには村瀬師にお相手を願おう…

訃報・村瀬純師

2010-01-12 13:18:25 | 能楽

土曜日から日曜にかけて、箱根での結婚式への出演と伊豆での稽古に行って参りました。

土曜日の結婚式も滞りなく勤めることができ、その日は三島市の近所に泊まって、さて翌朝ホテルをチェックアウトはしたのですが、まだ伊豆での稽古には時間があります。そこで世界でもここだけ、という「富士竹類植物園」に行ってみました。1~3月までは日曜日しか開館していないというので、たまたまこの日に近所に来ていた ぬえはラッキーでした。ここはテーマパークのようなものではなく研究施設で、4万m2の敷地に500種類の竹類が植えられているそうです。竹は能では作物や道具類を作るのに欠かせない素材ですが、いやはやこんなにたくさんの竹の種類があるとは。

富士竹類植物園
→園内については「竹マニアブログ」に詳しいです

…と園内を散策していた ぬえの携帯電話に突然の連絡が。それは衝撃的な知らせでした。原因や詳細はわからないものの、能楽ワキ方の 村瀬純師が公演で訪れておられたシンガポールのホテルで急逝されたとのこと…

村瀬師は ぬえから見れば大先輩ですが、なんというか面倒見の厚い、親分肌の方で、若手の能楽師にも親身になってアドバイスしてくださったり、相談に乗ってくださったり…お世話になった方は数知れないと思います。

ぬえはある時期、村瀬師のアドバイスにとっても感激して、いろいろな事を伺っていました。それが元になって、自分が『道成寺』を披くときにもあえてお相手を願ったのです。

また、ぬえが結婚するときの話が故師の人柄を表すエピソードとしてもっともふさわしいでしょう。結婚のご案内を村瀬師に出して、そうしてしばらくして楽屋でご一緒になる機会がありました。師は「お、おまえ結婚するんだってな。おめでとう」と、そのときは何気ないお祝いのお言葉を頂いたのです。ところがその日、師は装束を着付けられながら、再び ぬえにお尋ねになりました「おまえ…尉扇って持ってるの?」

尉扇(じょうおうぎ)とは能で老人の役が持つ、白地に墨絵で「竹林七賢図」を描いた扇のことですが、突然の質問に ぬえは「え?…あ、いえ…お金がないもので」なんてとんちんかんな返事をしたものでした。師は重ねて「…つまり、持ってないんだな?」「あ…はい、持っていません」「そうか…」それだけでした。あと師はいつもと変わらず用意を済ませて舞台に出て行かれました。

そうしてまた数日後、これは楽屋でだったか…あるいは結婚式の当日であったか…村瀬師とご一緒の機会がありまして、その際いきなり師は「はいこれ。オレからのお祝いだ」とおっしゃて、丁寧に包まれた一つの平たい箱を ぬえに手渡されたのでした。これまた突然のことだったもので ぬえも通り一遍のお礼を申し上げて、そうして帰宅して包みをほどいて驚きました。中に入っていたのがこの画像の「尉扇」だったのです。

これ、絵を描かれたのは師の父君で同じくワキ方の故・村瀬登茂三師です。登茂三師は大変な画才に恵まれた方で、生前にはよく扇面を描いておられましたし、また観世流の機関誌『観世』誌の目次ページに長くカット画を描いておられました。そうして、登茂三師の描かれた扇は登茂三師や純師によって、ときにお祝いの場面で能楽師にプレゼントされたこともあったようです。ただ、ぬえなどは師からみればずっと後輩の若年で、しかも ぬえは家柄に生まれたわけでもない門外漢でした。それであっても分け隔てなく扇をプレゼントされた志に ぬえは大変感激しました。このプレゼントの包みをひらいたとたんに ぬえは絶句。そのとき囃子方の友人がそばにいましたね。…尉扇を見たこの友人も「これは…催しでこの扇を使って、そうして村瀬さんをお相手にお願いしてご恩返しをしなきゃいけないよ」と ぬえに言ったものです。

ぬえさえこうだったのだから、村瀬師にご恩を受けた能楽師はたくさんおられることでしょう。その後、いつだったか、ずっと後になってから舞台で尉の役があって、その能のお相手に村瀬師をお願いすることができました。

(村瀬師の逝去に関してはまだ詳細が伝えられていないため記事にすることを悩みましたが、その後いくつかの能楽師のブログ等で逝去の報そのものは伝えられましたので、ぬえも記事にする事に致しました。故師の生前のご恩に感謝申し上げ、謹んで哀悼の意を捧げたいと存じます。    合掌)

謡初め

2010-01-10 01:04:05 | 能楽
え~と、年末ジャンボ宝くじは…惨敗でした。当たったのは300えん。そうです。アナタと同じですっ(T0T)

あ、それだけじゃありませんでした。実家に帰省していた ぬえ家のママぬえが、車を電柱に当てて帰って来てくれましたっ。あはは、大きいのが当たったから宝くじは外れて当然だねっ。(oo)/

しかも。

その翌日、車を運転しようとした ぬえはリアの窓ガラスに見慣れない神社のお札が貼ってあるのを発見! なんじゃこれ? と思ってよく見ると、それは ママぬえの実家の近所にある神社の交通安全のお札。。ダメじゃん。(.. )

ん~世の中にこれほど霊験のあらたかでない例を ぬえは知らない。
そのうえ ママぬえはご丁寧にも交通安全のお守りまで頂いてきたのだそうです。わ~

え、さて。

丹波篠山から東京に帰った ぬえは元旦をゆっくりと寝て過ごし、それから大掃除の続きをして、さて翌日の2日に師家の謡初めに行って参りました。

師家では毎年1月2日に謡初めを執り行います。これ、以前はやはり元旦に行われていたのだそうですが、丹波篠山の「翁神事」が始まってから、それに合わせて2日の開催に改められたのだそうです。丹波篠山の「翁神事」はご先祖様へのご挨拶という意味もありますから、やはり優先的に扱われるようになったのですね。

かつて、先代の師匠がいらっしゃった当時は、謡初めはこのようなやり方で行われました。まず師家に到着して三々五々、お互いに新年の挨拶を交わします…が、これはあくまで非公式。なんとなく小声で挨拶を交わしたりしていました。そうして定刻になると、まず先代の師匠、そのご子息お二人(=現在の ぬえの師匠)の三人で、仕舞『弓矢立合』が舞われます。『弓矢立合』は『翁』の演出のひとつで、三人の翁が登場します。要するに三人の師匠が、略式にでもあれ打ち揃って新年に『翁』を舞う、というのが真意なのだと思います。ぬえら門下はこの地謡を謡うことで

これが終わると三人の師匠も地謡に加わって、今度は全員で『老松』のキリを連吟します。これにて無事謡初めは終わり、これにて正式に新年の挨拶をお互いに交わし、そうして記念写真を撮っておしまい。謡初めといいながら、実演しているところはわずかに10分間でしょう。このあとは乾杯となって、しばし歓談の時を過ごします。

ところが先代の師匠が亡くなってからは、現在の ぬえの師匠が謡初めのやり方を改めまして、それ以来、謡初めでは門下全員によって1番づつ仕舞を勤めることになりました。これもいろいろ変遷があって、当初は毎年いろいろな仕舞の曲が割り当てられて、バラティに富んだ番組になりましたが、そのうちに曲目が固定されるようになりました。つまりこの人はこの仕舞、この人はこの曲、と毎年同じ曲を勤めるようになりました。ぬえの割り当ての曲は『盛久』です。毎年1月2日には ぬえはいつも『盛久』を舞うのです。ん~それじゃあ『盛久』を能で舞ってみたくなるじゃないか~

面白いのはこのときの仕舞を舞う演者の順番。普通の催しで、能のほかに仕舞が続くのであれば、若い者→中堅→師匠、と、なんというか前座→先輩・後輩→師匠という順番になるはずなのですが、この日ばかりは違います。師匠が一番最初→門下→書生さん、という順番です。年末に大掃除をしたお舞台を、最初に使うのが師匠であって、ついで門下が順番に初めて使わせて頂くわけですね。

こうしてようやく能楽師の年始は始まります。年末・年始は考えようによっては一年で一番忙しい時期かもしれませんですね~

丹波篠山「翁神事」(続)

2010-01-05 16:04:48 | 能楽

さて0時に神主さんによる神事が行われ、引き続いて0時半より『翁』が上演されました。当地での「翁神事」は三番叟こそ上演されませんが、笛と小鼓三人のお囃子方はご出勤頂いて、本格的な『翁』の上演です。お笛の赤井啓三師と小鼓頭取の大倉源次郎師はもう30年間もご自宅で新年を迎えたことがないという… (;^_^A

観世流の『翁』では翁と千歳の役がシテ方の担当で、面箱持ちは狂言方が勤めることになっています。がしかし、当地では三番叟は演じられないため、便宜的に下懸リの『翁』のように千歳が面箱持ちを兼ねることで上演を続けております。ぬえも千歳の披キはこの丹波篠山の「翁神事」でのことで、そのときもやはり面箱を持って出、面箱さばき…すなわち舞台上で座に着いた大夫の前で面箱から翁面を取り出して、裏返した面箱の蓋の上に置く作業を致しました。師匠とはいえ大夫の前、お客さまが注視する中でご神体である翁面を扱うのは緊張しますね~。狂言方が面箱を勤める際は、大夫…つまりシテ方の先生の前でその所蔵になる翁面を扱うのですから、緊張は ぬえの経験の比ではないでしょう。

さて今回の ぬえは『翁』の後見でしたから、楽屋でも大忙し。翁飾りを作り、翁の装束の着付け、翁面を面箱に納め、上演の直前には出演者一同が行う盃事の取り仕切りをし… そうして面箱(千歳)、大夫、囃子方に続いて舞台に出てみますと、なるほど、小雪が舞っているのが目に入りました。寒さはもう…これはどうしようもないですね~。しっかり素袍の下は厚着をして、カイロを貼って準備万端でしたが、やっぱり寒いものは寒いっす…

大夫が正先で拝礼をして、笛柱の前の座に着くと、角で控えていた面箱が大夫の前に面箱を置いて面箱さばきをします。これが終わるとそれまで橋掛リに控えていた囃子方・後見・地謡が一斉に立ち上がって舞台に向かいます。ぬえも囃子方の後方を通って大夫の後ろに座り、お囃子方が打ち出して、まずは手早く装束を整えてから千歳之舞を待ちます。この千歳之舞のなかで大夫が翁面を掛けるのですが、千歳之舞が颯爽としているので、お客さまの中には大夫が翁面を掛けるところを見逃す方があるようですね。後見としてはここが一番の難所で、ここで失敗するわけにはいかないので非常に緊張するところです。

舞台の上で面を掛けるのも『翁』だけなら、その面紐の結び方も『翁』だけは独特で、常のような駒結び(一般的には「堅結び」というヤツです)ではなく、花結び(「蝶結び」)に結びます。これは『翁』が終わって大夫が面を外すときに、面紐がすぐに解けるようにそうするのですが、駒結びで結ぶ場合よりもほどける危険があるわけですし、そのうえ真冬の夜中の野外…手がかじかんでしまっては大失敗に繋がるので、お客さまにはわからないように、ぬえはずっと手をこすり合わせて暖めていました。結果、ちょっと結び方に工夫も考えてあったので、無事に面紐を結ぶことができました。

…が、長い能楽の歴史の中では失敗も起きたことがあるのではないかなあ。『翁』で大夫が掛けた翁面の面紐が途中でゆるんできちゃったら…どうなるんだろう。…考えてはみたのですが、これはどうしようもないですね。そうなったら大夫は後ろを向いて着座でもして頂かないことには直しようもない…考えただけでも恐ろしいことです…(×_×;)

さて面紐を無事に結び終えると、後見の仕事はほぼ完了に近いところまできたことになります。あとは大夫が面を外す「翁還り」まで仕事はないので、ようやく安心して、しかし翁面がゆるんでくることはないか、装束が烏帽子に引っかかるような事故はないか、と気を付けてはおります。

どうやら無事『翁』の上演が全うできそうだ、と思ったとき、ようやく落ち着いて それとなくあたりの様子を窺ってみると… う…。雪が舞台の中にまで降り込んできていますよ? をを~、脇座に両手をついて控えている千歳に雪が積もってる…(・_・、) 着座しているまわりはもう真っ白です。ありゃりゃ~…
…と思って よく見ると、ぬえの素袍の左袖にも雪が積もって、氷が張り付いていました。をを~っ。(゜_゜;)

しかし舞台に横殴りに鋭く吹き込んでくる細かい氷のような雪は、照明に照らされてきらきらと輝いて ぬえの前を矢のように飛んでいきます。これは本当に美しい光景でした。舞台上ではありましたが、しばし見とれてしまった ぬえなのでありました。

『翁』自体は約30分しか上演時間は掛かりません。深夜1時頃に上演を終え、楽屋の片づけをして、そうしてもう車に乗って東京へ向かって出発です。ん~、丹波篠山にいた時間は10時間ちょっと。(^_^;) それでも充実した新年を迎えることができました。ぬえにとっては年始より『翁』の後見という大役を頂き、それを無事に全うできたことが とってもうれしかったです。今年は良い年になりそうだ!



そうだ、このイキオイで早速調べてみよう! 年末ジャンボ宝くじ! この分なら大判小判がザックザクなのは間違いなかろうっ!!(^^)V

丹波篠山「翁神事」

2010-01-04 01:41:15 | 能楽

というわけで出勤して参りました丹波篠山での「翁神事」ですが、数日前から天気予報には注意していたのですが、「大晦日は大荒れでしょう~!(^^)V」という天気予報ばかりでゲンナリ… なんせ昔ながらの野外の舞台で、しかも真冬の深夜に上演しよう、ってんですから、少しでもコンディションは良い方がありがたひ。

それでも当日は東京は快晴になりました! 朝から門下数人で車で出発。交代で運転しながら7時間ほどの行程です。この日も天気予報をチェックしていましたが、兵庫県の予報は「南部は晴れ。北部は雪 (*^。^*)/」。なんじゃそりゃ。しかし結局天気が崩れることはなく、現地にも雪が積もっていることもなく、無事に到着しました。

もう長く続くこの「翁神事」ですが、よく聞いてみれば今年でなんと33年目になるのだそうです。当地にある能楽資料館の前館長である中西通氏の尽力によって実現した「翁神事」ですが、通氏はいまは故人となり、その跡を継がれたご子息の薫氏によれば、その記念すべき第1回目。。つまり33年前には薫氏はまだ19歳で、はじめての『翁』の上演に際しては幕揚げ後見として舞台に参画されたのだそうです。そうして今年。その薫氏のご子息で大学1年生の亮くん~正月休みで帰省中~が、今度は幕揚げのお役を勤めてくれることになりました。こうやって世代を越えて「翁神事」が繋がれていく、ってことはすばらしい事だと思います。大きく言えば、こういう「思い」の積み重なりがあって。。いつの間にか能は600年間の歴史を培ってきたのだろうと思います。

さて、能楽資料館で休憩した ぬえたちでしたが、夜になって到着された小鼓方の大倉源次郎師(大倉流宗家)がおっしゃることには「いい感じに雪が降ってきましたね~(^^)V」 げ。そうなんですか。

午後10時頃、楽屋入りして上演準備に掛かりましたが、ん~たしかに小雪がちらほらと。。もっとも雲には切れ間もあって、そこから、あら! 満月が覗いています。天候の悪化はないだろう、と祈るようにムリヤリ信じて楽屋に入りましたが、うん、たしかに天気は小康状態で、これ以上荒れることもないようです。それにしても寒いこと!

ぬえは今回は『翁』の後見の大役を頂いておりましたが、この寒さで大夫が掛ける翁面の紐をうまく結べるかどうか、本当に心配していました。面紐が途中でゆるんじゃったらどうしよう。。いや、どうしようもないのです。直しようがない。それで自宅でも何度も紐を結ぶ稽古を重ねていました。ぬえは『翁』の後見はこれが二度目なのですが、やはり油断はできないです。舞台上で大夫の面紐がゆるんで下がったりしたら。。そんな大失敗をしたら…謹慎は避けられないでしょうね~…自宅での稽古でようやくコツはつかんだものの、やはり心配で丹波篠山にも面紐は持参していまして、楽屋入りの前に何度も後輩をつかまえては面紐を結ぶ稽古をさせてもらいました。

こうして深夜0時をまわったところで楽屋内で新年の挨拶が交わされ、同時に舞台上では神主さんによって新年の神事が執り行われ、そうして0時半より『翁』が上演されました。

ありゃ…また雪が降ってきたようです…

あけましておめでとうございます~元旦に月食

2010-01-02 01:43:33 | 能楽

あけましておめでとうございます 本年もみなさま方にとって幸多からん1年でありますことを。
併せまして ぬえの公演やブログ、そして能楽に対して変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申し上げます~m(__)m

さて師家では年始に恒例の、丹波篠山での「翁神事」に出勤して参りました!
ぬえの今回のお役は『翁』の後見。年始早々の大役です。
しかし無事に勤めを果たすことができまして、今はホッとしています。
そのご報告は次回として、今日はその帰り道でのできごと。それがタイトル画像です。

なんと、今日は月食があったのですね! …知らなかった。。

この画像は午前6時30分頃、東名高速のサービスエリアで休憩中に撮ったものです。夜明け間近の富士山のすぐ横に沈み欠けた満月が上っていて…はあ~~キレイな景色だな~と思って撮影したのですが、そのとき ぬえは同じくここで休憩していた旅行客の方から「今日は月食なんですよ」と聞かされてビックリ! どうやらすでに月食は終わりに近いそうで、肉眼では欠けた様子は確認できなかったのですけれども…

あとで調べたところ、今回の月食は最大でも8%程度しか欠けないそうで、その時刻は午前4時半頃だったとのこと。ところが今年のこの月食、いろんな意味を持っているそうで、まず元旦の月食というのは「日本史上初」なんだそうですね~(!)。近世まで日本で用いられた太陰暦では各月の境目は新月の日に充てられていたので元旦の月食はあり得ず、太陽暦に切り替わった明治以降では元旦の月食は一度も起きていないのだそうです。そんな大変な現象だったんだ…。

深夜、「翁神事」のために楽屋入りした ぬえは、折から降り始めた小雪の空を恨めしげに見上げながら、それでも雲はそれほど厚くはなく、そうして雲の切れ間から覗く月を見て「あれ…? 今夜は満月なの?? あらら、もし晴天なら、これほど最高のシチュエーションの下での『翁神事』もなかったのに~」と残念に思いながら、それでも思うのはこれ以上天気が荒れて上演に不都合が起きないでほしい…と願うことばかり。

そうして無事に「翁神事」は終わり、後かたづけをして丹波篠山を出発したのが午前2時でした。そうなんです。上演が終わってから仮眠を取るでもなく早々に東京を目指して出発して、往路と同じく交代で運転しながら徹夜で帰京するハードスケジュール。もう、その日が月食かどうか、なんて悠長なことは事前に考えることもありませんでした。帰路は帰路で、深夜の走行ですから雪のために道路の規制に注意したり、渋滞もうまく避けるように工夫しながらルートを考えたり、これまた目前に迫るトラブルを如何に回避しながら早く帰れるか、そんなことばかりが関心の対象でした。

そうしてようやく東京が近づいてきたときの休憩で、ぬえはようやく安心して、初めて美しい景色に心奪われて写真を撮ったのでした。

さて、帰宅してから調べた結果では、元旦の月食も日本史上初ながら、その半月後にあたる今月15日には静岡県以西で部分日食が起きるのだそうで、さらに今年は日本では見られないけれど皆既日食も昨年に引き続いて起きるとのこと。さらにさらに今年は6月26日に再び部分月食が起き、12月21日には皆既月食も起きるのだそうで、年に3回も月食が起きるのは100年に1度ほどの珍しい事なのだそうですね。

はあ、今年はじつは天文学の分野では大変な年だったのですね~。今年はなにか良いことが ぬえにも起きるかも~

  さるほどに。三光西に行くことは。衆生をして西方に勧め入れんがためとかや。
   月はかの如来の右の脇士として有縁を殊に導き、重き罪をも軽んずる。无上の力を得る故に大勢至とは號すとか

さあ、そうこうしているうちにご来光も上ってきました!





今年が良い1年でありますように~