ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ふたつの影…『二人静』(その14)

2014-07-30 01:09:10 | 能楽
本日、申合も済み、あとは『二人静』の上演当日を待つばかりとなりました。お囃子方もおワキも巧者の方が揃って、なんだか ぬえのような芸で申し訳ないですけれども。。それでも稽古の甲斐あってシテとのシンクロ率はかなり上がってきたと思います。そればかりを見せるのではダメなんですけどもね。。このテンションをあと2日、きちんと保って行ければ、まあなんとかお目汚しにはならない程度の舞台にはなるかもしれない。。

ところで稽古を重ねてきて、どうしても気になるのが例のキリの場面でシテが左手をツレの右肩に置く型なのですよね。先にも書きましたが、この場面は『二人静』の中で40分間におよぶシテとツレとの相舞の中でわずか30秒ほどのごくごく短い時間ではありますけれども、憑依した静の霊がはじめて 彼女が取り憑いた菜摘女。。生を持つ生身の人間の肌に触れるわけですから。。

そうしてここで地謡が謡う内容。。取りも直さずシテの言葉が「思ひかへせばいにしへも。恋しくもなし憂き事の。。」という文句です。およそ、能の中にあって霊として現れたシテが「いにしへも恋しくもなし」と言うことがあり得るだろうか。。

楽しかった頃の生前の思い出、恋しい人との忘れがたい思い出。。ときにはつらい、悲しい事件に恨みを残すシテもあるけれども、能の中に登場するシテの霊の多くは、そういった美しい思い出に未練を持ち、そのために成仏できないでいる迷える魂です。だからこそワキ僧の弔いを求めて現れることも多いわけで、『二人静』でもシテは弔いを願っているのですが、どうもこの曲のシテはほかの能のシテの造形とは少し違った位置にいるようです。

ずっとこの問題について考えてきた ぬえは今、このシテの姿は見所にいらっしゃるお客さま以外の目には見えていないのではないか? という思いを持っています。

単純な理由としては、『二人静』で二人の役者が同じ文様の装束を着ているのが そもそも不審ではありました。静が勝手神社に納めた舞の装束は1組だったはずで、これを着た二人が登場するのは理屈に合わないからです。

しかし、もしこの霊が人の目に見えない存在だとしたら。。すなわち、ツレ菜摘女が着ているのが正しく静が納めた装束なのであって、勝手神社の神職はじめ吉野の里人は見たのは、これを着たツレ一人が舞っている姿だったのではないか。。ここにもう一人の登場人物。。シテの静が現れるということは、能楽堂に集うお客さまがよく目を凝らして見ると。。その菜摘女の後ろに重なるように、薄くぼんやりと見える影がある。。という意味なのかも。これは言うまでもなく今 菜摘女に取り憑いてその体内にいる静の霊なのであって、菜摘女を突き動かしている。。というよりは、むしろ静が舞う動作に、すでに意識を失った菜摘女の身体だけが操作されてつき従っているのではないか。

一方、静は義経との逃避行を仕方話のように語り舞ううちに、その言動に変化が起きていることにも ぬえは気づきました。

「ても義経凶徒に准ぜられ。既に討手向ふと聞えしかば。。」「次第々々に道せばき。御身となりてこの山に。分け入り給ふ頃は春。。」これは明らかに彼女の恋人、義経の逃避行を語っているのですが、そのうちに。。「我こそ落ち行け落ちても波は帰るなり」と一人称の語りが登場します。最初にこれに気づいたときは、これは義経の言葉を静が代弁した表現かとも思ったのですが、またそのあとにも「遊子残月に行きしも今身の上に白雲の」とか「追手の声やらんと。後をのみ三吉野の奥深く急ぐ山路かな」と語られていて、これは義経の思いを静が言ったとも、また静自身の言葉とも、また彼女を含めた一行が共有する思いとも考えることができるようです。このへんから、どうもこのあたりは作者が意図的に発言者の主体を曖昧にしているのかも知れない、と ぬえは考え始めたのでした。

そうしてクセが終わったとき、地謡が描くのは鎌倉に護送され、頼朝の前に引き出された静の姿でした。「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。。」頼朝に所望されて静が舞ったのが義経を想う舞ではあっても、ここで描かれるのは まさしく静の個人的な体験の仕方語りに変化しています。

こうして静が頼朝の前で舞った舞の再現に当たるのが序之舞で、これを舞い上げた静の霊は菜摘女の肩に手を掛けて「思ひ返せばいにしへも恋しくもなし。。」と言うのでした。

ここからは ぬえの個人的な妄想に過ぎないかもしれませんが、義経との吉野山での逃避行から始まった『二人静』のシテの物語は、次第に義経を離れて静その人の内面に向かって深まって行くように思えます。『二人静』の作者は、逃避行を続ける義経への静の想いを、いつの間にか静が自分の内面に向ける眼に、意図的に置き換えているのではないかと ぬえには思えるのです。考えてみれば『義経記』に描かれた静の後半生。。この吉野山で義経と別れたあとの彼女の人生は悲惨きわまりないものでした。吉野山の衆徒に捕らえられて鎌倉に護送され、頼朝の前で屈辱の舞を見せ、生まれた男児。。義経の子は殺され。。わずか十九歳で剃髪、その翌年にはこの世を去り。。

とすれば、彼女の言う「恋しくもな」い過去とは。。

ぬえは、それは愛してはいけない人を愛してしまった、そのために尋常ならざる苦難の道を歩むことになった、そんな静みずからの人生の事を言っているのだと思っています。後悔、ともまた違う、いわゆる「業」というか、抗いがたい運命のようなものではないか。。? これによって前シテは「わらはが罪業」を「悲しく候へば」と言ったのであって、そんな「業」からの魂の救済を願ったのではないでしょうか。

。。こう考えたとき、例の、シテがツレの肩に手を掛ける型には恐ろしい意味があるのではないか、と ぬえは考えています。すなわち、この型は自分が運命によって失ってしまった「生」への静の執着を表している。。生身の人間に触れて「いにしへも恋しくもなし」と言うとき、失ったものへの強い憧れが ぬえには感じられるのでした。

こう考えると、ツレの肩に手を置くシテの型。。よくまあ先人はこういう印象的な型を考えたものだと想います。

なんとも。。救いのない物語です。これを美しい装束を着た二人の役者が見事に動作を合わせて舞う。。そんな美的に昇華させた能。。それが『二人静』なのではないか、と ぬえは考えています。

ふたつの影…『二人静』(その13)

2014-07-28 07:17:30 | 能楽
先週からいよいよ『二人静』の稽古もクライマックスになって参りまして、まずは月曜に師匠にお稽古をつけて頂き、昨日の土曜日にはお囃子方の来演を願って稽古能がありました。

師匠の稽古は横浜での催しのあとの夜で、催しがちょっと長丁場だったので面は掛けずにお稽古をつけて頂きました。本当はお互いに相手が見えない状態で如何に舞を合わせられているか、を見て頂くので、稽古でも面を掛けているのですが。。この日は催しのあとの疲れもあるので勘弁して頂きました。

お稽古の結果は。。歩数を1箇所直されました~! もうガチガチに決めてあるので歩数が変わるとその部分だけもう一度動作のタイミングを組み直しになり。。覚え直しになってしまうのですが、まあそれはすぐに対応しました。むしろ師匠から頂いたお言葉で最も印象深かったのは「気持ちがちゃんと伝わるように舞いなさいよ? 能なんだから、少しくらい舞が合わなくても、気持ちが伝わっていることの方が大切だ。」。。というものでした。ん~、これまでいかに動作をシンクロできるかに目標を絞ってきたけれど。。

先日の稽古能のあと師匠の稽古日だったので、久しぶりに師匠の生徒さんとお話しする機会がありまして、この師匠のお言葉をお話ししたところ、「要するに両方ともあるのが理想なんでしょうね」と仰られまして、なるほど、そういう事なんだろうと思います。たしかに能で技術論ばかりを追求するのは まるっきり見当違いで、今回もそこに、これまで ぬえが語ってきた静の悲しみとか業というものが現れてこなければ上演する意味そのものがなくなってしまいますね。これは相手のあることなので、シテともよく話し合っておこうと思っています。

さて稽古能では面も掛けましたが、装束のうち上に羽織る長絹だけは着て演じてみました。
クセの中で1箇所、長絹を着ているために扇の扱いが難しい型があるため、でもあったのですが、やはり相舞はアクシデントがいつ起こるかわからないので、本番の上演に向けて一度、それに近い状態で演じておこう、という思いがありましたので。。

さて相舞のシンクロですが(それだけじゃダメ、と言われたばかりですが)なかなかの完成度には近づいてきたようには思います。が。。やっぱりどこかしら間違えるんですよね~。二人のうちどちらかが。やはり40分の間の動作なので勘違いも起きてきますし、集中力を途切れさせず型を合わせるのは至難。。いまはたまたま舞台やその稽古が多い時期なので仕方がなかったのですけれども、いよいよ上演が近づいてきてようやく二人とも『二人静』に集中できる体勢にはなったと思います。

そして地謡との打合せも稽古能で無事に済ませることができまして、先輩からのアドバイスも種々頂戴することができました。明日が『二人静』の申合でして、まずはそこに向けて完成度を高めてゆきたいと考えております!

ふたつの影…『二人静』(その12)

2014-07-25 09:29:16 | 能楽
40分間シテとツレがシンクロした相舞を繰り広げる『二人静』ですが、じつは序之舞の中で2カ所、シンクロしないところがあります。

それが「二段」と呼ばれる部分。。序之舞は大きく4つのパートに分かれている3番目の章段。。と「三段」と呼ばれる最後の部分です。

型の解説は膨大になるので差し控えますが、扇を左手に持ち替えるところからが「二段」で、このあとシテとツレは舞台奥で向き合い、それからシテは正面に出、ツレはそれを追いかけるように後に続くのです。こうしてシテとツレとは舞う位置を入れ替えます。すなわち、『二人静』では見所から見てシテが向かって左、ツレは向かって右側で舞っているのですが、このとき舞う位置を入れ替えて、ツレが左、シテが右側になります。

そうして二人が舞台先で扇をハネる型をして扇を右手に逆手に取ると三段になりますが、このとき再びシテとツレは立ち位置を交換して、元のようにシテが左、ツレが右になって舞います。つまり序之舞の4つのパートのうち三番目にある「二段」目の間だけシテとツレは位置を入れ替えて舞う、ということですね。

じつはこれ、相舞であれば必ず行う型なのですね。延々と、ただ同じ動作を続けているだけではなく、突然シンメトリーになったり、後を追いかけたり、という型が昔からつけられています。『二人静』の場合、ツレには意識がなく、シテに突き動かされて舞っているだけですから、なぜ動作が違う場面があるのか、とか、細かいことをいえば疑問もあるでしょうが、それはさておき舞台効果としては抜群で、よくまあこういう型を古人は考え出したものだと感心します。

さらに言えば。。相手が見えない状態で、神経を砕いて打ち合わせ通りの舞のタイミングをひとつ ひとつ実践してゆく二人の役者にとっては、この立ち位置を変えるところだけが唯一、緊張から解放される場面とも言えるでしょう。もっとも立ち位置を変えたら再び型を合わせるのですから、入れ替わる時間はほんの2~3分といったところでしょうか。

やがて序之舞が終わり、キリと呼ばれる最後の場面になります。

シテ/ツレ「しづやしづ。賤の苧環。繰り返し。 と二人上げ扇を仕
地謡「昔を今に。なす由もがな。 と中左右・打込
シテ/ツレ「思ひかへせばいにしへも。 と向き合い謡
地謡「思ひかへせばいにしへも。 とツレは正先へ行き正へ向き、シテはその後ろへ行きツレの右肩へ左手を掛け恋しくもなし憂き事の。今も恨みの衣川。 とシテのみ足拍子踏みながら二人静かに出身こそは沈め。名をば沈めぬ。 と二人斜に下がり下居
シテ/ツレ「武士の。 と向き合い謡
地謡「物毎に憂き世の習ひなればと と立ち上がりサシ思ふばかりぞ山桜。 とツレは橋掛リ一之松へ、シテは常座へ行き雪に吹きなす。花の松風静が跡を。弔ひ給へ と二人カザシ扇にて左へ小さく廻りワキへ向き合掌静が跡を弔ひ給へ。 と右ウケ、左袖を返しトメ拍子踏む 扇を畳みツレ、シテの順に幕に引く

キリの中で印象的なのが「思ひ返せばいにしへも」と正先に立ったツレの右後ろにシテが立ち、ツレに左手を掛ける場面でしょう。『二人静』の番組などでもよく写真で紹介されたりしています。

これ。。再びシテとツレが違う動作をする場面なのですが、意味は深いと思います。憑依した霊と憑かれた人間と。幽明を異にした二人ですが、シテがその生身の人間の身体に触れるのですから。

そうしてここで地謡が謡う内容がまた、意味が深いものです。

「思ひかへせばいにしへも。恋しくもなし憂き事の。今も恨みの衣川。身こそは沈め。名をば沈めぬ」

およそ、これがこの世に執心を残して現れたシテのセリフでしょうか。よくよく考えてみれば、静にとって未練が残っていたはずの過去は、じつは恋しいものではなかったのでした。

40分間のシテとツレの演技の中でほんの。。30秒ほどの時間、霊は生身の人間の身体に触れ、過去は恋しくはない、と言う。なんとも業を感じさせる言葉だと思います。

ふたつの影…『二人静』(その11)

2014-07-21 00:03:05 | 能楽
本日、はじめて面をかけてお互いが見えない状態でシテとともに舞の稽古をしました。シテも ぬえも、やっぱり40分間の舞の中では勘違いがあったりタイミングを間違えたり。。う~ん、いま舞台が多い時期なので、そちらに取りかかっていると、ついつい覚えたつもりの『二人静』の相舞のシンクロのタイミングがおぼろげになってしまうのですよね~。それでも今日は若先生に見て頂いたのですが、「結構合ってるよ」とのお言葉を頂きました。

さて長大なクセが終わると いよいよ序之舞が始まります。

序之舞は上村松園の美人画や、その松園をモデルにした宮尾登美子の同名の小説などで、能の舞の中では最も知られた舞ですね。能では三番目物。。鬘物とも言われる女性が主人公の能でしばしば舞われるもので、上品かつ優雅な印象を与える舞です。太鼓が演奏に加わるかどうかで大きく分けて太鼓序之舞と大小序之舞に分けられますが、太鼓入りの序之舞は『杜若』『羽衣』など主に天女や草木の精などの役に用いられ、やや浮き立つような明るさを持っています。能『二人静』には太鼓は参加せず、序之舞も大小鼓(と笛)によって演奏される大小序之舞ですが、こちらは太鼓入りの舞と比べると ぐっと閑寂な、やや物寂しげな舞、という印象に見えると思います。

今回は相舞ということで、クセと同様に序之舞もシテと一挙手一投足に至るまで綿密に打ち合わせをしました。それがトップ画像ですが、これを覚えるのか。。 ぬえも序之舞は難度となく舞っていますが、今回はタイミングを合わせるために細かく動作を取り決めたので、序之舞の動作をまた最初から覚え直すようなものでした。

さて『二人静』の序之舞は吉野で捕らえられて鎌倉に護送された静が頼朝の前に引き出され「静は舞の上手なり。とくとく」と強要されて鶴岡八幡宮で舞った、という舞の再現です。クセの中では義経と吉野の山中を逃避行する有様が語られ、それに続く序之舞は鎌倉で恥辱を与えられた出来事が語られる。。一見 時間も場所も、吉野から鎌倉に突然話が飛んだような印象でもありますが、都落ちをした義経が吉野へ分け入ったのは文治元年(1185)の十一月頃で、静が頼朝に召し出されて舞を舞ったのは翌文治二年四月八日のことでした(『吾妻鏡』)。二つの事件の間はわずか半年のことでした。

そして有名な「しづやしづ。。」の歌となるわけですが、じつはこのとき静はもうひとつ歌を歌っています。

吉野山峯の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき

これはあまりにあからさまで、この歌を聞いた頼朝は激怒しました。しかし北条政子はこの歌に感動し、頼朝が伊豆で流罪になっていたときに父(北条時政)に止められたにもかかわらず北条邸を出奔して頼朝のもとに駆けたこと、挙兵後に石橋山の合戦に頼朝が赴いたとき、政子は伊豆山神社にこもって心細く頼朝の無事を祈っていたことを引き合いに出して頼朝を説得しました。頼朝の憤りは解け、褒美に静に衣を取らせました。

ちなみに八幡宮で舞を舞った静は、七月には義経の子を出産し、それが男児であったために誕生直後に由比ヶ浜に棄てられました(『吾妻鏡』)。細かいことですが、このあたりの事情は『吾妻鏡』と『義経記』ではすいぶん異なっていて、『義経記』では静の出産が先で鶴岡八幡宮での舞があとになっています。しかも八幡宮での舞は頼朝に強いられたのではなく、頼朝の計略によって義経の無事と再会を祈るために参詣するよう仕向けられたということになっています。境内に参着して、さて頼朝が来ていることを知った静は舞おうとしませんでしたが、頼朝は手勢の大名の中から選び出して囃子の上手を揃え、これを見た静はついに舞を見せたのでした。能『二人静』は『義経記』から取材していると思いますけれども、この鶴岡八幡宮での静の舞の場面は『吾妻鏡』が下敷きになっているようです。

最終的には賞翫を受けたとはいえ強要されて舞を舞った静。そのうえ義経との子を奪い取られて殺された彼女にとって鎌倉はまさに恨みの場所であったでしょう。

ところが能『二人静』では、鎌倉での暗い事件の数々にはあえて触れていません。謡曲の詞章を見ると「それのみならず憂かりしは。頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。心も解けぬ舞の袖。返すがへすも怨めしく。昔恋しき時の和歌」とあるばかりで、八幡宮での舞は心ならぬ舞であった、とは書いてありますけれど、むしろ彼女の心はそこから再び義経への思慕に帰って行くのでした。

すなわち『二人静』の序之舞は鶴岡八幡宮での舞の再現、というよりは、それを通して いつのまにか義経への想いの中に埋没して行く静の姿でしょう。その執心こそが静が成仏できずに霊として登場している理由でしょうし、弔って欲しいと願い、懺悔のために舞を奏で始めたはずの彼女が、やはり自分の想いを押しとどめることが出来ず、執心の罪を重ねていくという業の姿なのだと思います。

こういう熱い思いは。。しばしば能ではシテの狂乱として描かれますが、『二人静』ではそのような印象はないですね。ただひたすらに思い続けながら、どこかに過去の義経との甘い思い出にもう戻れない、という静の諦念のようなものが感じられます。だからこの序之舞は悲しそうに見えなければいけないでしょう。ぬえはそう解釈して演じることにしております。

ふたつの影…『二人静』(その10)

2014-07-15 15:11:11 | 能楽
もうひとつ、物着のあとのワキの文句「静御前の舞を御舞ひあるぞ。みなみな寄りて御覧候へ」にも注目しておきたいと思います。このワキの文句は能楽堂に集まるお客さまを勝手神社に集まった信徒に見立てて、見所に向かって謡われるのですが、わざわざ謡う必要がある文句なのか、常々 ぬえは疑問に思っていました。

なるほど、間狂言の触レや能『百萬』の中でシテが舞う「立回リ」などの例を出すまでもなく、能の観客をそのまま能の台本が描く事件の現場に居合わせた人々と仮託するのは能の常套手段の演出といえると思います。『二人静』の場合も勝手神社では新年の神事を控えていて、その神事に必要な若菜を摘みに菜摘女は出かけたのでした。若菜が到着すればすなわち正月の神事が始まるわけで、これを期待して集まった初詣客は相当数あったであろうことは想像に難くありません。

がしかし『二人静』では、特に事件が起こった季節が正月であるべき必然性は感じられません。若菜を摘む神事が能のストーリーに関係しているわけでもなく、いわばこの曲の事件が正月に設定してあるのは、野辺に出て若菜を摘む若い菜摘女の清々しさが早春という季節にふさわしく、その清々しさが、前シテの女が言う「罪業のほど悲しく候へば」「我が跡弔ひて賜び給へ」という恐ろしい伝言とのギャップを生み、戯曲が印象的になる狙いが作者にあったのだろうと ぬえは考えていました。

そうであるならば、あえてここでワキにこの文句を言わせる必要はあるのでしょうか。静の霊が菜摘女に取り憑いて菜摘女の人格が豹変するという相当に劇的な場面を経たいま、戯曲としてはそのあと宝蔵から静の舞の衣裳が発見されるなど、勝手宮を取り巻く現実世界を作者は常に視点から外していないのだけれども、人格の変化というあまりに印象的な場面のあとではそのまま静ひとりの独白の形を取って、いわば個人の内面に視点を移した方がストーリーとしては自然な流れなのではないか、と常々 ぬえは思っていたのです。

ところが今回『二人静』をよく読んでみると、もうひとつ、台本に現れる「一日経」というものを、ここで考える必要があると思い至りました。

「一日経」とはひとまとまりの経巻を一日で写経することで、『平家物語』にも屋島の合戦で佐藤継信が能登守教経が義経に向けて放った矢を身を以て防いで討ち死にしたとき、義経は近在の僧を探して名馬・大夫黒を与えて、一日経をもって継信の供養をする事を頼んだ、と記されています。

一日経で写経するのは法華経であることが多かったようです。章段の多くが「如是我聞」で始まるとか、国宝の中の国宝と呼ばれる平家納経がこの法華経の書写であるとか、かつて日本人にとって法華経は身近であり、大変に信仰を集めていました。しかし法華経は「一部八巻二十八品」と呼ばれるように大きく8巻、28の章段から成っていて、これは少ないように思えますが、かつて岩波文庫から出ていた現代語訳は上中下3分冊という大部でした。平家納経が清盛主導で平家の公達が「一人一経」と手分けして書写した事を考えても、これを一日で書写を完遂するためには人海戦術で作業にあたらなければ無理で、それを支えるには一般市民の協力も必要だし、経済的にもこの事業を成し遂げるのは大変なことだったようです。

ここに考え至って、今回はじめてワキの言葉の意味が ぬえに理解されました。

ワキの「静御前の舞を御舞ひあるぞ。みなみな寄りて御覧候へ」という言葉は、静が所望する一日経の実現のために協力者を募る言葉で、それは経済的な協力。。喜捨をも念頭に置いた言葉でした。

静は白拍子として舞を見せることで生計を立てていた芸能者です。だから勝手宮の神職は静の思いを理解し、彼女の代弁者として、静の舞を見る代わりに一日経の完成に協力する者を募ったのですね。能『二人静』の作者は、この場面でわざわざワキにこの言葉を言わせることによって、静の舞を見る観客をただの享受者にはとどまらず、静の舞が終わってから勝手宮で当然行われるはずである一日経の書写の実務に携わる協力者に仕立て上げようとしたのでした。協力者に仮託された観客は静の舞を見るのはその対価。そうして作者はお客さまを戯曲の内部に取り入れることによって、より舞を見る興味が増すことを計算したのでしょう。

こういう、能『二人静』の作者の意図を発見すると、もうひとつの疑問も解けてきました。

クセの中で地謡が謡う詞章では「次第々々に道せばき。御身となりてこの山に。分け入り給ふ頃は春」となっていますが、実際に義経が大物浦での難破事件のあと吉野山に入ったのは元暦2年の暮れのことで、季節は冬でした。なぜ『二人静』では季節を春としているのでしょうか。

それは取りも直さず吉野山が桜の名所なので、桜の季節を能の台本の設定にしたのでしょうが、もうひとつ、散る桜を義経と静の逃避行のイメージに盛り込むことを作者が意図したのだろうと思います。日本人にとって桜は特別な感慨を持つ花ではありますが、それは春を謳歌するように咲き乱れる豪華な花盛りと、それがほんの短い命で、花の季節が終われば花吹雪となって潔く散るその対比が はかなさを感じさせるからでしょう。同じ『二人静』のクセの文句に「寝もせぬ夢と花も散り。まことに一栄一落目のあたりなる浮世とてまたこの山を落ちて行く」とありますが、まさに作者が描きたかったのは義経の栄華と盛衰の対比を吉野の桜の花に象徴させたいという思いがあったのだと思います。

ふたつの影…『二人静』(その9)

2014-07-13 08:45:01 | 能楽
昨日、入場券のお申込を頂いた方のために『二人静』の「鑑賞の手引き」のようなプリントを作っていたのですが、この際ちゃんと台本の現代語訳をつけようと思いまして。これまで自分でもちょっと曖昧なままに意味をつかめていなかった部分もあったので、今回きちんと現代語訳してみました。。ら、とくにクセの文章が、あまりに かわいそうな内容だったのでした。

ちょっと意訳も交じっていますが ぬえ訳『二人静』(サシ~クセ~キリ)をご覧下さい~

シテ/ツレ「さても義経は朝廷から凶徒と烙印を捺され(注①)、すでに追討の兵が向かったと聞くと小舟に乗って渡辺神崎から海を渡ろうとしたが、航海はうまくいかず暴風が吹いて、元の地に戻されてしまった。これも天命かと思うと、この世では罪は犯さなかったつもりであっても
地謡「前世に罪お犯してしまったのかと、我が身を恨むばかりであった。

地謡(クセ)「そうしているうちにあの方の進む道は次第に細くなっていくばかりに思えました。こうしてこの吉野の山に足を踏み入れたのは春の頃。有名な吉野山の桜の木の下にのどかに休もうとしても、激しい夜嵐が吹くような不安に目が覚めてしまい、夢を見ることもなく花も散ってしまった。まこと、栄華も衰えも一時に起きるのが浮き世とは聞くけれど、この時にそれが本当の事だと我が身に思い知りながら、さらに深くこの山の奥へ落ちて行ったのだった。
シテ/ツレ「昔、浄見原天皇も
地謡「大伴の皇子に襲われてこの吉野山に逃げ込んで迷い歩いたという(注②)。そのとき雪の木陰を頼みにされたという桜木宮や宮滝、西河の滝。いまは私たちががそこをただ落ちて行く。滝の水はまた元に帰るというのに。それにしても吉野の木陰を私たちも同じように頼りにしようと思っても、花が散った桜は雨さえも遮ってくれない。奥山までも音騒がしく、春の夜の月は朧に曇って(注③)、なお足を引きずりながら山奥に迷い込む姿は
シテ/ツレ「唐土の祚国が花に心を奪われて身を滅ぼし(注④)
地謡「旅人は有明の月の下に歩を進めるということも(注⑤)今さら身の上のことのよう。雪のように白い落花を踏んでは少年のように春を惜しむという春の夜(注⑥)だが今は静かではない。騒がしい吉野の春では桜を散らす山風の音までも追っ手の声なのではないかと恐れて後を振り返りながら、さらに山奥へと山路を急ぐのだった。

地謡「それだけではなく つらかったのは、私が頼朝に召し出されて「静は舞の上手である、急いで舞を見せるように」と命令され、心ならずも袖の紐を解いて舞の袖を翻したこと(注⑦)。返すがえすも怨めしいこと。そのとき謡ったのは、楽しかった頃の昔を恋しく思う歌。
シテ/ツレ「しずやしず    序之舞

シテ/ツレ「賤やしず、賤の苧環繰り返し
地謡「昔を今になす由もがな。
シテ/ツレ「思ってみれば昔も
地謡「つらいことばかりで恋しくもない。今身につけている衣裳からも連想される衣川、その館で命を失ったあの方の事を思うと恨みの心ばかりが今でも私に迫る。衣川に身を投じるように義経さまは身を失ったが、しかしその武名は失うことはなかった。
シテ/ツレ「武士として守れたのは名誉だけだが
地謡「それだけでなくつらい事は多いのが世の定め。仕方がないことだと思うばかりの私の前に、やはり雪のように松風に散らされる山桜の花のはかなさ。静の跡を弔ってください。どうか私の跡を弔ってください。



①後白河法皇は義経のために頼朝追討の院宣を出したが、それが都落ちして北条時政が都に入ると、それに屈してかえって義経追討の院宣を出した。
②壬申の乱のこと。
③吉野に逃げた義経一行は金峯山寺の心変わりに遭い、ここも追われて奥州に向かった。
④典拠不明。番外曲『祚国』に花を手折ろうとして谷底に転落した祚国の話が見える。
⑤「遊子なお残月に行く、函谷に鶏鳴く」和漢朗詠集
⑥「燭を背けては共に憐れむ深夜の月、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春」和漢朗詠集
⑦『義経記』によれば吉野で捕らえられた静は鎌倉に護送され、頼朝の所望により鶴岡八幡宮で舞を披露させられた。その時に謡ったのが「しずやしず」の今様で、義経を想って舞ったのが頼朝の逆鱗に触れたが、北条政子の同情を買って許された。なお同書では鎌倉で静は義経の子を産んだが、男子だったため由比ヶ浜で殺された。静は後に傷心のまま都に戻り、出家。翌年には二十歳で死去したと伝える。


これだけ長大なクセでありながら、内容というものが ほとんどありませんね。女性をシテとする本三番目能の中でも歌舞を生業とする静を主人公としながら、クセの中ではわずかに『和漢朗詠集』が引かれるだけで、静自身が謡ったという「しづやしづ。。」のほかには和歌が現れないのも特異。

そうでありながら、このクセの内容は静が実際に見た義経の逃避行の有様です。まさに落ち武者の悲哀が延々と連ねられていて、これは叙事詩と言っても良いのではないかと思えるほど。

それだけにキリの文句「思ひ返せばいにしへも恋しくもなし」…という言葉が重いです。恋人の義経へ残す執心のために成仏できない静が、その「いにしへ」が恋しくもない、と言う。どうもこの辺にこの曲のテーマがあるように思えますね。。

ふたつの影…『二人静』(その8)

2014-07-12 22:35:22 | 能楽
ここからが いよいよシテとツレがシンクロしながら舞う『二人静』最大の見どころであり、眼目の演出なわけですが。。当初なんとなく、合わせて舞うのは20分くらいかなあ? と楽観的に考えていたのですが、実際には40分間でした。まったく相手が視界に入らないままで舞をシンクロさせるのが40分間!

『二人静』では「クセ」と呼ばれる地謡に合わせた舞と、器楽演奏で舞う「序之舞」と。もちろんエンディングである「キリ」と呼ばれる小段もあるのですが、ここだけは割とシテとツレは別々の動作が多くてややシンクロ率が下がり、また「序之舞」の中でも一部。。4分の1くらいはシテとツレが位置を交代して舞う部分もありますが、「クセ」に至っては完全に舞が一致しております。

こういう、二人の役者がシンクロさせる舞を「相舞(あいまい)」と呼び、相舞がある能には『二人静』のほかにも『小袖曽我』『三笑』などいくつか例があります。相舞を舞うのはシテとツレのことが多いのですが『鶴亀』『嵐山』など子方、またはツレ同士の相舞もあるのですが。。『二人静』の相舞はその中でダントツに難しいでしょうね。

まずはシテもツレも眼の穴が小さい女面を掛けていること。まるで五円玉の穴から外を覗いているような面の視界からは、まずお互いの動きを探ることは不可能なのです。それでも舞の動作の中で、相手が見える場合もときどきはありそうなものですが。。今回の『二人静』でシテとして ぬえのお相手をお願いしている梅若泰志くんに聞いたところ、「まったく見えない」のだそうです。

梅若泰志くんは ぬえから見れば後輩に当たりますが、彼には年齢が近く修行の経歴もほとんど同じ同輩の役者がありますので、すでに『二人静』は一度上演した経験があります。その彼の言によれば、動作の角度によっては相手が視界に入ることもあるが、せいぜい相手の後頭部が見える、という程度で、腕の動きとか全体の動作の遅速までは まったく分かりません、とのこと。。

この、視界が利かない事が、もちろん相舞を勤める上で最大の難関なのですけれども、それに加えて『二人静』ではシテが女性の役であるだけに舞全体が緩やかな速度であること、そしてその結果。。相舞の時間が長大になることが相舞の難易度を高めています。

さらにダメを押すかのように『二人静』で舞われる「クセ」の小段は平均的な分量よりもさらに長大な詞章を持つ「二段グセ」と呼ばれる形式であること、それから、これは女性役のシテだから仕方ないことですが、舞も長大な「序之舞」。。ともかく至難です。

それでは実際に「クセ」の本文と動作をご紹介しましょう。

地謡(クセ)「さる程に。次第々々に道せばき。御身となりてこの山に。分け入り給ふ頃は春。  と正へ出、行掛リ所は三吉野の。花に宿借る下臥も。 とサシ廻シ長閑ならざる夜嵐に。 と七ツ拍子踏みながら正ヘノリ寝もせぬ夢と花も散り。 とヒラキ、据拍子まことに一栄一落 と角へ行き正へ直シ目のあたりなる浮世とて と中へ行きまたこの山を落ちて行く。 と打込扇開き
シテ/ツレ「昔清見原の天皇。 と謡いながら上扇
地謡「大友の皇子に襲はれて。 と大左右拍子一ツ踏ミ彼の山に踏み迷い。雪の木陰を。頼み給ひける桜木の宮。 と正先へ打込神の宮滝。 と正へ扇平に下シ西河の滝。 と右跡へ廻リ正へ行掛リ我こそ落ち行け と胸ザシ落ちても波は帰るなり。 と拍子一ツ踏ミさるにても三吉野の。頼む木陰の花の雪。 と角へ行き正へ直シ雨もたまらぬ奥山の 左へ廻リ中へ行音さわがしき春の夜の。月は朧にて。 と霞扇にて右上を見上ゲなほ足引の。山ふかみ分け迷ひ行く有様は。 と左右打込
シテ/ツレ「唐土の祚国は花に身を捨てゝ。 とヒラキ拍子一ツ踏ミ
地謡「遊子残月に行きしも今身の上に白雲の。 と大左右正先へ打込花を踏んでは とツマミ扇ニテ正へ拍子二ツ踏ミ同じく惜しむ少年の。 と右へ廻り春も夜も静かならで。 と常座にてヒラキ騒がしき三吉野の。 と四ツ拍子踏ミ山風に散る花までも。 と角へ行きカザシ扇追手の声やらんと。 と左へ廻リ地謡前へ行後をのみ三吉野の奥深く急ぐ山路かな。 と幕の方へ向き出、見込ミ
地謡「それのみならず憂かりしは。 正へ直シ頼朝に召し出され。静は舞の上手なり。とくとくと有りしかば。 と正へ出サシ込心も解けぬ舞の袖。返すがへすも怨めしく。昔恋しき時の和歌。 と拍子一ツ踏ミ
シテ/ツレ「しづやしづ。 と謡いながら扇をたたみ常座へ行

これより「序之舞」になります。

これを覚えるの!? いや、動作自体はそれぞれ手慣れたものなので問題はないのですが、二人の動作をピッタリと合わせるために、動作のタイミングについて綿密な打ち合わせが必要なのです。

そのタイミングを記したメモがトップ画像です。字が汚くてすみません。。

歩数は言うに及ばず、そのスタートのタイミングまで細かく細かくシテと打ち合わせておいて、シテとツレはそれぞれの生活の中で自主稽古を重ねて、それから二人で一緒に稽古をして動作のシンクロや立ち位置、微妙な動作の緩急などを調整してゆきます。

最初のタイミングの打ち合わせには2週間ほど掛けたでしょうか。今 稽古は全体を通して稽古する段階に入っていますが、毎度タイミングの再調整が必要になってきます。それは机の上での打ち合わせだけでは、実際に身体を動かしたときに不都合が発見されることが しばしばあるからで、もう何度か一緒に舞って稽古を重ねていても毎回 調整が行われるということは。。完成なんてあり得ないから最後までそれに近づく努力を傾注し続ける、なんて言えればカッコいいんですけど。実際には確実にシンクロする自信がつかめない不安があるのですね。こりゃ上演当日になっても楽屋で「やっぱりあそこはこういう風にしよう」なんて言うのかなあ。。

ふたつの影…『二人静』(その7)

2014-07-10 16:46:08 | 能楽
ツレは物着で長絹、静折烏帽子を着け扇を持ちます。もとより長絹は水干の意味で、また詞章によれば大口袴を穿いているのですが、これまた観世流では実際には着流しの姿で、袴を穿いている心で勤めることになります。静折烏帽子というのは前折烏帽子のうちで金地で地紋のあるものを言います。由来は よく知らないのですが観世流では静御前の役には必ずこの烏帽子を使うことになっています。

物着ではツレが唐織を着ていればそれを、水衣を着ていればやはりそれを脱いで長絹を羽織るわけですが、水衣を着ている方が唐織よりもはるかに着替えの手間は省けます。前述のようにツレの物着なのでお囃子方は「物着アシライ」を打たない決まりですので、静寂の中での着替えになりますから、少しでも手順よく着替えないと舞台に空隙ができてしまいますね。

ツレは物着が出来上がると立ち上がって正面に向き舞台に入り(このとき前述のワキの言葉が入ることもあり)謡い出します。

ツレ「げに恥かしや我ながら。昔忘れぬ心とて。
ワキ「さも懐かしく思ひ出の。
ツレ「時も来にけり。
 とツレはワキへ向き
ワキ「静の舞。
ツレ「いま三吉野の川の名の。
 とツレは正へ直し

と、ツレが舞い始めようとするところに、後シテが登場します。これが他の能にはない『二人静』独特の演出です。

後シテ「菜摘の女と。思ふなよ。 とシテは謡いながら幕より出
地謡「川淀近き山陰の。 とシテは舞台へ入りツレは小鼓前へ行き正へ向き 香も懐かしき。袂かな。 と二人サシ込ヒラキ

まったく同装の二人が登場し、これ以後つかず離れず同じ動作をシンクロして舞う。。よくまあ先人はこんな前衛的な演出を考え出したものだと思います。『二人静』の作者は伝書類には世阿弥とされていますが文体から見ても信じがたく、作者不詳とするよりないと思いますが、上演史は古く、『能楽源流考』によれば上演記録の初出は寛正五年(1464)四月の糺河原勧進猿楽の三日目、観世座によって上演されたもののようです。

どうやら往時の 白拍子の舞というものは二人の役者による相舞の形式が多かったようで、『平家物語』に登場する白拍子の祇王・祇女の例が有名ですね。そのほかにも『明月記』には法師二人による。。つまり男性二人の白拍子が参上したことが見えます。となればシテ・ツレの二人が登場して舞うことは決して『二人静』の作者による創意工夫とは言えないわけなのですけれども、今様を謡い舞う白拍子という芸能が相舞を旨とはしていたとしても、それは演劇というよりは歌舞の披露であったとすれば、霊に取り憑かれた人が舞い始めると、そのあとからそっと取り憑いた本人の霊が登場して舞うという『二人静』の形式は、やはり能の作者の独特の表現ではなかったろうか、という思いは致しますね。

言うなればツレ菜摘女は静の霊が取り憑いたあとは意識を失っているわけで、取り憑いた静の霊が彼女を操って舞を舞わせている、というのが『二人静』の趣向です。舞の衣裳がふた組あったのではなく、また後シテの静の霊が菜摘女とは別に登場したのでもなく、菜摘女が舞い始めたところ、その後ろに薄ぼんやりと取り憑いた静の霊が見え隠れしている、という風に ぬえは捉えています。能において神や霊が人に取り憑いて舞を見せる、という趣向の曲は『蟻通』『雨月』『巻絹』など例が多いのですが、それらすべての例で登場するのは取り憑かれた依り代としての人間だけで、その本性たる神や霊は見えない、という設定になっています。戯曲上は取り憑かれた人物を演じる役者が、その本性たる者になり代わって演技をすればそれで成立するので、『二人静』はその意味において能の中でも異色中の異色の曲といえるでしょう。

これは白拍子の二人舞にヒントを得て『二人静』の作者が独自に工夫を加えたもの、と ぬえは解したいですし、そうであるとするならば結果としてそれは、この曲が他の能にはない独特の味わいを出す画期的な工夫であったと思います。まさに演じているのは一人だけ。どちらが現とも影ともわからない舞。そうしてそれは意識を失った菜摘女と、この世に肉体を持たない霊の舞です。さればこそ『二人静』は「ふたつの影」が舞う能、と ぬえには感じられます。

シテ/ツレ「さても義経凶徒に准ぜられ。 と二人向き合い 既に討手向ふと聞えしかば。小船に取り乗り。渡辺神崎より押し渡らんとせしに。海路心に任せず難風吹いて。もとの地に着きし事。天命かと思えば。科なかりしも。 とシオリ
地謡「科ありけるかと身を恨むるばかりなり。 とシオリ返シ

これよりシテとツレは同じ動作で舞う「相舞」となります。

ふたつの影…『二人静』(その6)

2014-07-08 11:39:47 | 能楽
ツレ「真は我は女なりしが。この山までは御供申し。此処にて捨てられ参らせて。絶えぬ思ひの涙の袖。
地謡「つゝましながら我が名をば。静かに申さん恥かしや。
 とツレはワキへ向き

ついに霊は自分の名を明かします。だってワキが当ててくれないんだもの。
それでも恥じらいを含んだ答えは「静かに申さん」と、あくまで名をほのめかす程度。

ところで『二人静』で「この山までは御供申し。此処にて捨てられ参らせて」と描かれ、能『船弁慶』では摂津・大物の浦で静は義経と永遠別離をしたことになっています。さらに能『吉野静』では『二人静』と同じように静は吉野にいたことになっていますが、そこで佐藤忠信とともに計略して法楽の舞を見せ、義経を討とうと勇み立つ僧兵たちを制したり、義経が落ち延びる時間稼ぎをしています。この違いはどういうことでしょう?

答えは拠り所にしている本説の違いによるものなのです。『平家物語』で静が登場するのは、源平合戦が壇ノ浦で終結したあとのこと。平家の大将・宗盛父子を鎌倉に護送するも頼朝に鎌倉入りを拒まれた義経は、仕方なく都に戻って後白河法皇に頼朝追悼の院宣を出させた直後。。刺客として送り込まれた土佐坊昌俊の夜討ちを義経が防いだ、という能『正尊』でおなじみの場面です。じつは『平家』で静が登場するのはわずかにこの場面だけなのです。

能『船弁慶』が描く大物の浦での静と義経の別離は、『平家』などの物語には見えず、能の脚色であるようです。もっとも『平家』では頼朝との対立が決定的になり、都が戦場となるのを恐れて都落ちした義経が西国を目指して大物の浦から出帆した船は嵐に遭って遭難。住吉などの浦々に漂着してしまった場面が描かれ、このとき義経は仕方なく吉野へ潜伏しますが、船に同乗させていた女房たちは浜に置き去りにせざるを得ず、嘆き悲しむ彼女たちを住吉の神職や土地の者が哀れんで都に送り届けた、とされています。『船弁慶』の、少なくとも後シテの場面はこのあたりの場面が脚色されたものでしょう。

一方『吾妻鏡』や『源平盛衰記』(や『平家』の異本)では、船が難破し、女房たちが打ち捨てられてしまった中、義経は静だけは伴って吉野に同道したとされていて(白拍子二人、礒の禅師という表現の本もあり)、能『二人静』に矛盾しない内容に。

そうして『吾妻鏡』のほか物語としては『義経記』に至って、ようやく静が吉野で捨てられた記事が見えます。『義経記』によれば義経は吉野に逃れた山中で、女性を伴っての逃避行は難しいと考えた弁慶らが逃亡を計画し、これに気づいた義経が彼らを留めるために泣く泣く静を都の母のもとに帰すことになっています。義経は形見として鏡や鼓を静に与え、そのほかにも財宝を与えますが、供につけた5人の侍と雑色は吉野のふもと近くまで来たときに同心して静を裏切り、「近くに親しい者がありますので、協力を頼んできましょう」と言って静を待たせたまま、財宝を取って逐電してしまったのでした。

ワキ「さては静御前にてましますかや。静にて渡り候はゞ。隠れなき舞の上手にてありしかば。舞を舞ふて御見せ候へ。跡をば懇に弔ひ申し候べし。 とツレは正へ直し
ツレ「我が着し舞の装束をば。勝手の御前に納めしなり。 とツレはワキへ向き
ワキ「さて舞の衣裳は何色ぞ。
ツレ「袴は精好。
ワキ「水干は。
ツレ「世を秋の野の花尽し。
ワキ「これは不思議の事なりとて。
 とツレは正へ直し宝蔵を開き見れば。げにげに疑ふ所もなく舞の衣裳の候。これを召されてとくとく御舞ひ候へ。 とワキは装束をツレに渡し、ツレは立ち上がって後見座に行き物着

能『二人静』に戻って、菜摘女に取り憑いた霊が静であることがわかると、ワキは舞を所望します。されば、との要求に応えて自分が勝手宮に納めた舞の装束をこと細かに説明して用意させます。

静は白拍子で、母の磯の禅師とともに非常に高名であったようです。『徒然草』には藤原信西が磯の禅師に教えて舞わせたのが白拍子の始まりで、「白き水干に鞘巻を差させ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける」とあり、男装で舞う芸能でした。娘の静もこの芸を継ぎ、『義経記』には百日の旱魃があったとき高僧を集めて祈祷をしても効果がなかったが、白拍子百人を集めて神泉苑の池で舞わせたところ、最後に静が舞ったところ黒雲がにわかに湧き出、三日間の洪水が起こって国土を潤したのだそうです。

能『二人静』でも「袴」「水干」と謡われ、男装の装束が納められたことが語られ、その現物が宝蔵の中より発見されるのですが、実際に舞台に登場するのは水干ではなく能で舞を舞う女性の役に多用される長絹で、その上にはあらかじめ金色の「静折烏帽子」を糸で留めておきます。

これにてツレは後見座で「物着」(舞台上での着替え)になるのですが、本文に登場した「袴」は出さずに、その文句とは相違しますが下半身は着流しのままです。もっとも金春流では文句通り、本当に大口袴を穿くのだ、と仄聞しました。実見はしていないのですがこれは「物着」としては大変な作業で、しかもワキから大口をツレに渡すのも難儀で、この場合はワキからツレへ渡されるのは観世流と同じく長絹と烏帽子だけで、大口袴は別に後見が切戸から持ち出して後見座での「物着」の中で着付けるのだそうです。

なお、この物着の間、舞台は静寂に包まれますね。能の「物着」では、女性のシテの役が物着する場合のみ、大小鼓と笛によって「物着アシライ」が演奏されて雰囲気を保ってくださるのですが、男性の役とか、『二人静』のようにツレの物着の場合には「物着アシライ」は演奏されない決まりになっています。

「物着」の静寂の間は舞台はいったん「ポーズ」が掛かった状態なのだと思いますが、やはりお客様からは丸見えなので、後見の着替えの手際が問われるところです。

やがてツレの物着が出来上がって立ち上がるとワキが衆人に触れる体で正面に向き直り一句を謡います。この文句はワキ方のお流儀によりない場合もあり、またシテ方からのお願いがあれば勤める、という場合もあるようですね。

ワキ「静御前の舞を御舞ひあるぞ。みなみな寄りて御覧候へ。

ふたつの影…『二人静』(その5)

2014-07-05 20:39:05 | 能楽

ツレ菜摘女の態度の豹変に驚いたワキ神主はその素性を問います。

ワキ「言語道断。不思議なる事の候ものかな。狂気して候は如何に。さて如何やうなる人の憑き添ひたるぞ名を名のり給へ。跡をば懇に弔ひて参らせ候べし。 この謡の中で後見はツレが置いた手籠を舞台から引く。
ツレ「何をかつゝみ参らせ候べき。判官殿に仕へ申せし者なり。 とツレはワキへ向き

ワキが素性を問うのは弔いのためにそれを知るのが必要だからで、それに対して菜摘女に取り憑いた霊は「何をかつゝみ参らせ候べき」と言った割にはなかなか名前を名乗りません。それは名乗るのが恥ずかしいためで、こういう応答や、先の「ただ外にてこそ三吉野の。花をも雲と思ふべけれ。。」という表現に女性らしさが感じられると思いますが、「判官殿に仕へ申せし者」と聞いたワキには義経に従った武将のことがすぐに連想されたようです。

ワキ「判官殿の御内の人は多き中にも。殊に衣川の御最期まで御供申したりし十郎権の頭。 とツレは正へ直し
ツレ「兼房は判官殿の御死骸。心静かに取りをさめ。腹切り焔に飛んで入り。殊にあはれなりし忠の者。されどもそれには。なきものを。 とツレはワキへ向き

ワキの言葉を遮るように十郎権頭の事績を語り、それではない、と答える菜摘女。

十郎権頭兼房というのは義経の家臣のひとりで、姓は不詳。『義経記』だけに登場するので架空の人物を考えられています。能『二人静』はこのように典拠を主に『義経記』においていると思われますが、この書は『平家物語』や『源平盛衰記』からはずっと時代が下った室町時代に成立したと考えられていて、多分に創作の手が加わった「物語」であるのもまた事実ですが、その生き生きとした描写が能の作者に強く印象を与えて『二人静』のほか多くの能が作られたのでした。

『義経記』で兼房は自らの出自について「もとは久我大臣殿の侍なり」と語り、また別の箇所に「こゝに北の方の乳母親に十郎権頭」とあります。義経の北の方については「久我大臣殿の姫君」とあり、両親に先立たれてからは「傳(めのと)の十郎権頭より外に頼む方ましまさず」とあるので、兼房は主君に仕える侍ながら姫君の養育係でもあり、その後姫が義経に嫁いでからもそれに付き従って義経の家臣となった人物であるようです。もっとも『吾妻鏡』には義経の正室は河越重頼の女と記してありますが、義経の家臣は山賊あがりだったり猟師あがり、僧兵くずれとまことに多種多様な人物が多いのですが、『義経記』の記載によれば鎌田盛政らとともに珍しく正当な出自を持った人物であるようです。

さて兼房は菜摘女が語るように義経の最期まで従ってみずからも壮絶な最期を遂げました。『義経記』の記事では義経の最期は「かの刀を以て左の乳の下より刀を立て、後へ透れと掻切つて、疵の口を三方へ掻破り、腸を繰出し、刀を衣の袖にて押拭ひ」と凄まじいもので、そのうえ割腹してから衣をまとって傷を隠し、北の方に実家へ戻るよう言いつけたのでした。北の方は義経とともに自害の道を選び、その介錯をしたのが兼房で、彼は続いて五歳になる義経の若君、生まれて七日目の姫君をも手に掛けています。誕生から成人するまでずっと見守ってきた姫君をみずからの手に掛ける非常な宿命の人物として『義経記』には描かれています。

すべての後始末を終えた兼房は「今は中々に心に懸かる事なし」と独り言を言って館に火を掛け、さて鎧を脱ぎ捨てて館の外に出ると、その日の大将長崎太郎・次郎兄弟が目に入ります。彼らは頼朝に屈した藤原泰衡の家臣。それまで義経を支えていた立場の人でした。兼房は馬上にあった二人を引き落として、弟の次郎を左の脇にはさみ、「独り越ゆべき死出の山、供して越えよや」と言ってもろともに火の中に飛び込んだのでした。

『二人静』では菜摘女に取り憑いたのは義経の愛妾の白拍子・静御前であるわけですが、実際には静はこの吉野山で捨てられたので、兼房の最期を見たわけではありません。その後捕らえられた静は鎌倉に送られ、頼朝の詰問に遭っていますから、そのときにでも聞いたのかと思えば、それはまだ義経が逃避行を始めたばかりで平泉にも到着していない文治二年のことです。

その後静は翌年に都・北白川に帰りましたが、物思いに沈み持仏堂に引き籠もってしまいました。やがて十九歳で剃髪して天龍寺のふもとに草庵を結び、翌年の秋の暮れには往生した、と『義経記』は伝えています。