ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

浦安薪能

2009-09-29 03:19:32 | 能楽

もう一昨日になるのですが、千葉県・浦安市で行われた「浦安薪能」に出演してきました。

浦安市。。といえば有名なのはTDLですよね~。今回の薪能はそのTDLのすぐとなり、新浦安駅からまっすぐに伸びている大通りの突き当たり、海に面した「総合公園」で行われました。いや、見てくださいこの環境のよさ! 舞台の背景は海! 秋の一番よい気候の日、涼しい風が舞台に吹き渡り、本当に気持ちのよい舞台になりました!

上演された曲目は『羽衣』だったのですが、季節は春と秋とで違ってはいても、まさに天女が天下るような良いお天気でした。ん~、考えてみると薪能ってのはなぜ真夏に催すのが多いんだろうか、と ふと考えてしまいました。春や秋の気候がおだやかな頃の薪能ならばお客さまにとっても舞台に集中しやすいんではないかなあ。まあ、春も秋も晴れの日が多いとはいえないのかも。

晴れの日の確率の高さを考えるならば、真冬に催すのが一番いいでしょうが。。寒いわな。(;>_<;)

そういえば気候が厳しい時期。。とくに真夏の催しには、かつて「袴能」というものが上演されていました。冷房がないような時代には二・八月には催しは休演になるか、もしくは真夏の場合だけ、装束を着るのが負担になるような時期に、面・装束は用いず、紋付袴姿で能を舞うのです。袴能が仕舞や舞囃子と違う点は、まず能の一部ではなく一曲全部を上演すること。。これは当たりまえですが、作物や小道具は略さずにすべて持ち出されること、それから中入の際の間狂言は省略されること、でしょうか。

仕舞や舞囃子では、たとえば『桜川』の「掬い網」とか『野守』の「鏡」などの小道具はすべて扇で代わりにしますが、袴能ではちゃんと小道具はそのまま出します。また作物もすべて略さずに舞台に出します。

また間狂言ですが、おそらくシテが前後で装束を替える必要のない袴能では中入で着替える時間を必要としないので、その理由で間狂言が省略されるのだと思いますが、これはどうも。。間狂言はシテが装束を着替える時間稼ぎのためだけに舞台に登場しているわけではなく、「語リ」という芸を見せるひとつの場であるはずなのでしょうから、この省略はちょっと狂言方に失礼ではないかなあ、とも思いますが。。近来は袴能はほとんど演じられなくなってしまいましたが、現代に上演される場合はこの間狂言の省略の有無も再度検討されるべきだと思います。ついでながら、間狂言でも いわゆる「アシライ間」と呼ばれる役。。たとえば『三井寺』で鐘をつく能力の役とか『花月』の「清水寺門前の者」。。つまり花月の友達の役などは、この役がないと曲の進行ができないような役は袴能でも省略されずに登場します。

また、袴能が上演されるときには、本狂言も「袴狂言」として上演されることになります。こちらも袴能と同じく面・装束は用いずに、小道具・作物類は出して上演するのです。。が。。狂言では面は能とはちょっと違う使われ方をしますから、その場合はどうなるんだろう。『仏師』や『清水』のように変装のために面を使う曲では、これを略してしまうと上演ができないのではないかと思うので、その場合はやっぱり省略はできないのではないかと思いますが。。

近来は袴能・袴狂言の催しはめったに見られませんが、ぬえの師家でもずうっと8月の催しの能は袴能の形式でした。当時おそらく東京で定期的に袴能を上演していたのは ぬえの師家だけだったと思います。まあ、夏休みの時期にもあたるので、学生さんなどが能楽堂にはじめて足を運んでくれるのもこの時期。そのせっかくのファーストコンタクトが袴能では具合が悪かろう、ということになって、ぬえの師家でもとうとう袴能は上演されなくなってしまいましたが。。

まあ、風情のものなので、ときどきは袴能も見たいな~、ぬえも今も思っておりますけれども。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その36)

2009-09-26 02:33:16 | 能楽
また七面神の神力についても次のように記されています。

七面宮の御霊験さまざまありし中にも天文年中の比なり。此の国の守護信玄のたまひけるは、身延山を中野の杉山に移し、その跡を城郭になし給はんと安間弾正左衛門を使者として越し給ふ。貫首老僧一同して私の返事成りがたし。祖意にまかすべしとて、満山祖師の宝前に集会して一万巻の陀羅尼を誦し、御くじ両三度に及ぶといへども祖師御心にかなはざるよし返事なり。その儀ならば軍勢を以て破却してとらんとの事なり。此の事身延に知れければ護法の神力を頼まんにはと、満山大堂に集まり、一万部の読経を始め衆怨悉退散と祈り給ふ。
惣大将信玄出馬あれば先陣の軍勢身延山の東の麓、早川河原に着く。早川を渡さんとすれば俄かに雨車軸を流し、川水まさり波瀬まくらを打ち岸を洗ふ事おびただし。先陣の軍勢渡りかね、身延の峯を見上ぐれば旌旗(せいき)天にひるがえり、木のかげ、岩のかげに兜の星をかがやかし、軍兵雲霞の如く見えければ、案に相違して進みかねたる所に、本陣の惣大将信玄御不例なりとて俄かに甲府の城へ帰り給ふゆえ、その軍勢も引き返しぬ。
その前の夜、先手の惣がしら侍大将の一同に夢見しは、身延山の鎮守七面大明神女体に甲冑を体し、九万八千の夜叉神を左右に随へ、仏法破却の大将を射ると放ち給ふ。その矢、大将の口の中に入ると見えしと語りしが、果して明くる日惣大将信玄俄かに口中を痛み、歯瘡(はくさ)といふ煩ひにて死去し給ふなり。夢見し人々の語り伝へし事なり。


信玄が死去したのは天文年間ではなく元亀四年(1573)年なので、ええ~?? と思わず叫びたくなる内容ですが、『身延鑑』解説によればどうやらまったく荒唐無稽なお話でもないとのこと。信玄死去の2年前の元亀二年に織田信長が比叡山を焼き討ちし、再興を堅く禁じたのに対して、信玄は天台座主の覚恕法親王を保護して権僧正の位を得、翌年には信長と対立していた足利義昭の求めに応じて信長討伐のために挙兵しています。『身延鑑』解説によればこのとき法親王から延暦寺の再興を求められた信玄は、自分の領国である甲斐に天台宗の本拠地を築くことを構想し、要害の地である身延山をそれに充てる意図を持った旨が学究によって明らかにされつつあると。

なるほど延暦寺の再興は京都に近い比叡山では当時はとても無理でしょうし、天台座主の法親王を自国に迎えた信玄が、自分の身近な場所に比叡山を再興しようとしたのは話として自然です。しかも比叡山焼き討ちのわずか2年後に信玄が死去している事実も、延暦寺の再興のために信玄が身延山を攻略したための「仏罰」と説くのに説得力もあるような。しかし信玄は領内に昔から存する身延山には保護を与えていたようですし、これはもう少し精査した方がよい問題ですね。

『身延鑑』にはこんな記事も。

又、ある時風はげしきをりふし盗賊忍び入り、本院の大庫裏に火を付けしかば、諸堂の鐘をつき、貝を吹きならすといへども、山を越え谷をのぼる事なれば、大衆の集まる時うつり、すでに二三間燃え上り、あれはあれはとばかりなりし所に、七面山より黒雲一村吹き来り、雨車軸を流し、刹那に火を消し子細なかりしとなり。その時の焼け残りたる棟木虹梁今にあり。

ん~。ちょっと批評の言葉もない記事ではありますが。。それほど身延山は法華宗の聖地として畏敬され、そうして愛されてもいた、その証左でありましょう。そういった信仰のひとつの現れとして、そういった素地の下で能『現在七面』も生まれたのではないかな~? と考えると、ちょっとうれしくなってきました。それはそれで美しい信仰のかたちでしょう。

お客さまが手を合わせて能『現在七面』をご覧になっている。。そういった場面が、この能の上演史には必ずあるはずです。今とちょっと違った能の上演の風景がそこにはあるはずです。そう思うと ぬえもその場に居合わせてみたかったな~。

                                      <了>

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その35)

2009-09-24 02:52:47 | 能楽
霊夢によりはるばる都より此の山に来り給い、御身を清め給えば本のごとく平癒あり。その時、姫君のたもうは、我は此の池にすむいわれありと池の中へ入り給うと見えしが、二十ひろばかりの大蛇となりて浮かび上りて見え給えば、供人驚ろき都へ帰りぬ。

池の宮は兼言の契りはあれども、新枕を見るよしもなき御うらみ、床は涙の淵となり、袖のしがらみひまもなくまします所に、姫君は不思議の病を受け給い、甲斐の国七面の山中に身を捨て給うと聞し召し、いかなる山の奥までも尋ね逢わんと思召し、御病の御薬など取持ち給い都を忍び出で、九重の雲井はるばると波木井の郷に尋ね入り、七面の山中を隈もなく尋ね給えども見え給わず。
麓へ下り、かなたこなたと尋ね給えども知りたる人もなし。ある里にてこまごま問い給えば、里人さようなる人は見ないとぞ申しける。宮は、もはや此の世にはなき人と思召し、都より持ち来り給う御薬もよしなしとて捨てさせ給う。その里を見ないの里と申し、文字には御薬袋と書くなり。そののち笛を吹き、経を読み給う所を管絃島・経が島と申すなり。御身を投げさせ給う所をば身投げが池と申してあり。御死骸を取り上げ一つの墓をつき御所墓と申すなり。その後、夢の告げありて一つの社を建て池の太神と申すはこれなり。本地は毘沙門天王なり。


う~む、美人が登場しながら重い病に苦しみ、霊夢によりこの七面山に来たところたちまち平癒したけれども、今度は突然の狂気(?)によって池に入水し、ところがたちどころに姫は大蛇に変身し。。一方彼女に心を寄せる「池の宮」はついに彼女の心を射止めたけれども、病のためとて彼女の突然の失踪を知り後を追いながらついに再会は果たせず、これも池の中に身を投げて死んでしまう。。

なんだか悲恋物語なのだか何だか、いまいちテーマがつかめない話ではありますが、それでもこの姫君は父親である「京極中納言師資卿という公卿」が厳島弁才天に祈誓をしたところ授かった子。となれば、はじめて七面池を見て「我は此の池にすむいわれあり」と言って池に入る彼女の奇行も、先に引いた『身延鑑』の物語を考えれば自然な流れで、要するに姫君は厳島弁才天が仮に人間の姿をとって、子宝に恵まれない 京極中納言師資卿の娘として誕生したものなのですね。

また「池の宮」が入水自殺を遂げてから夢の告げがあって神社を建て、彼を「池の太神」と祀った、という記録も、その本地仏が毘沙門天だとなると、興味が出てきます。毘沙門天の妻はふつうは吉祥天とされているのですが、それとは別の伝承として弁才天を充てることもあるからで、『身延鑑』の前掲の部分には「此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。(略)北方毘沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。」とも見えるので、この書では弁才天と吉祥天を混同しているのかもしれませんが、いずれにしてもこの物語の要点は、子宝に恵まれなかった京極中納言師資卿の娘と、彼女に心を奪われた池の宮が、ともに人間としてこの世に生まれながら、添い遂げることができなかった悲恋の物語であるように見えながら、じつはこの七面池を介して本性たる弁才天と毘沙門天としての自覚を取り戻し、同時に人間界から姿を消し去った、という奇跡潭が描かれているのでしょう。

それはすなわち神の人間界への影向の形のひとつにほかならず、それが子宝に恵まれなかった父に娘として降臨し、またその娘に思いを掛ける男として登場する物語とすることで、畏怖すべき存在でない、もっと人間界に近しい、親近感を持たれる神として描こうとする意図が働いて作られた物語。。なのかもしれませんですね。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その34)

2009-09-23 01:38:58 | 能楽
ところで『身延鑑』の物語で弁財天の「垂迹の姿」として登場するのが「赤竜」というところに興味を引かれて、ちょっと調べてみました。

弁財天は七福神の一人として殊に有名ですが、私たちが想像する弁財天は一般的には優美な飛天の姿でしょう。仏教では天部の一人。。すなわち如来や菩薩と比べればそれほど徳の高い存在ではなく、我々が持っている弁財天のイメージもむしろ世俗的な親近感ではないかと思います。そういう印象からも、弁財天は中国あたりの民間信仰の神様が仏教の中に取り込まれたのかと思ったのですが。。ところが意外や弁財天はれっきとしたインド生まれの神様で、仏教に取り込まれて天部となって後、ふたたび神様として崇められるようになったのは、特にこの日本においての特異な現象のようです。

仏像・仏画に描かれた弁財天は八つの腕を持って(八臂)その手には武器を携える、女性の姿ながら仏教の守護神たる天部としての姿のものと、天女や菩薩の姿として一般的になじみの深い像にわけられ、日本でも二つの姿が並立したまま仏像・仏画が作り続けられたようです。

ところが弁財天が竜である、という考え方はこれまた日本独自のもののようで、本来インドで弁財天は川の神様であったことからの連想なのでしょうか。厳島神社においても厳島神が蛇身であるという伝承があり、『身延鑑』の物語ともほぼ矛盾ないようです。弁財天は天女あるいは菩薩の姿なのだとばかり思っていたのですが、八臂や竜・蛇身など、いろいろな現れ方をしているのですね。しかし最も一般的な飛天の姿と見えたのはじつは菩薩の姿で、仏教では妙音菩薩と同一視されることも多かったのだとか。

弁財天は蛇身とも考えられ、天女としての姿も妙音菩薩と同一視され。。そういえば妙音菩薩も霊鷲山で釈迦の法華経の説法を聞いた一人です。さらに日蓮自身も自分が釈迦が説法したときに地から湧いて出た一連の菩薩の第一番とされる上行菩薩の再誕と信じて法華経流布に努めた。。どうも『身延鑑』の物語や能『現在七面』の背景や登場人物にはいろいろと相関関係も見いだせそうですが、今回の調査はこれ以上は望むべくもなく、また ぬえの手にも余るようですので、この度はこのへんにてご報告の筆を置かせて頂きたいと存じます。

最後になりますが、『身延鑑』には上記の物語のほか七面池について、また七面神の威光について大変面白い記事が載せられていますので、これらをご紹介させて頂きましょう。

又、古老の里人の申し伝えには、人皇七十一代御三条院の御宇に、京極中納言師資卿という公卿、子の無き事を嘆き、安芸の国厳島弁才天に祈りて、一人の姫を設け給う。成人に従がいて、いわんかたなき美人にて春の花の窓の内深く、いまだ知る人もなかりしに、匂いや外にもれぬらん。

東宮の御連枝に池の宮と申し奉りしが、風の便りに聞し召し、玉章のかずも千束になりけれど、いなやのかえり事もなし。池の宮の御うらみの歌に、

   我袖ハなミたのしぐれはれねとも つれなき松はふるかひもなし

此の歌に、姫君あわれとや思召し、秋の田のかりそめふしの御枕の契り給わんと、一夜二夜とすぎのまどあかし給う所に、姫君俄かに人のきらいし病を御身にうけ、色々御養生はかぎりなくありし所、御氏神厳島大明神御告げに、これより東海道の道のすえ、甲斐国波木井川の水上に七面の山と申すは、北方毘沙門天の城妙華福光吉祥園を移して七宝の池あり。これ天竺無熱池の水の末なり。池の底には金の砂を敷き、八功徳を具え、諸天常に極楽し給う池なり。此の水にて垢離し給うならば、忽ち平癒し給うべしと。


外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その33)

2009-09-22 01:10:19 | 能楽
『身延鑑』の記すところによれば、日蓮の庵室を日参したのは「二十ばかりの化高女」で、日蓮はその者の人でないことを看破して、ある日素性を問うたところ、女は「我は七面山の池にすみ侍るものなり」と直ちに認めて日蓮に結縁を願います。日蓮はこれに応じ「輪円具足の大曼茶羅」を授け、重ねてその名を問うたところ女は「厳島女」と答え、日蓮は彼女が「安芸の国厳島の神女」であることを悟ったのでした。女も自ら「我は厳島弁才天なり」と明かし、「霊山にて約束」した通り「末法護法の神なるべき」と誓い、そのとき日蓮は「垂迹の姿」を見せ給えと傍らの花瓶を差し出したところ、女はその姿を水に映すと思うや、たちまち「一丈あまりの赤竜」となったのでした。

ややあって赤竜は「本の姿」すなわち女の姿に戻り、かつて霊鷲山にて釈迦自身から法華経の説法を聞き、「末法法華受持の者には七難を払い、七福を与う。誹誇の輩には七厄九難を与え」る守護神の役目となったことを言い、この「身延山に於て水火兵革等の七難を払い、七堂を守るべしと固く誓約」すると再び池に帰ったのでした。

能『現在七面』と比べると、能ではシテの本来の姿が大蛇で、日蓮の供養と法華経の功徳によって大蛇が天女に変身するのに対して『身延鑑』では化高女の真の姿は「厳島弁才天」なのであり、として出現するは赤竜で、これこそ厳島弁才天の「垂迹の姿」つまり真の姿であって、天女の姿はついに登場しないのです。

さらに厳島弁才天が日蓮に語ったのは、みずからが法華経の守護神となるのは「霊山にて約束」したからなのであり、すなわち釈迦が法華経を説いたその時にその場に居合わせ、その時に法華経の守護をする誓いを立てたからであって、決して日蓮の供養によって立てられた誓いではありません。

。。つまり『身延鑑』に描かれる赤竜の姿は「厳島弁才天」そのものの姿であって、能『現在七面』の後シテが「懺悔」のために本性を現した「大蛇」の「悪」のイメージとは正反対のものなのです。そしてこの「末法護法の神」は法華経のために往古より存在し続けたのであって、この物語において日蓮の存在はその高い徳のために「末法護法の神」が影向したのではあっても、能『現在七面』に描かれる、大蛇という「悪」が天女という「善」にその性格を反転させるのが日蓮および法華経の霊力によってとされるのとは大きく異なった比重を持っていると考えられます。

いま仮に『身延鑑』の物語が能『現在七面』よりも先だって成立し、なおかつ能の作者がこの物語から何らかの印象を受けて『現在七面』が書かれたのだとしたら、能の作者は『身延鑑』の物語を独自の視点で拡大させたのであって、それは法華経そのものの霊力と日蓮の徳とを同一視する視点によるものなのでしょう。

『現在七面』は成立時期は確定できないものの、江戸初期に作られた能であることはほぼ確実で、ぬえはこの能は法華宗の内部、あるいはその周辺で作られた能なのではないかと感じています。この能は法華経と日蓮を同時に同レベルで賛嘆するのが主眼で、ある意味でのテーマでもあり、目的でもあるように感じるのです。なによりこの能は一般観客の鑑賞の場を想定して作られたとは思いにくい部分が多い。どうも法華宗の信者が集うような場面でまず上演されることを目的として作られた能であるようにさえ感じられるのです。

そうであるならば、この能の作者は あるいは能楽師ではないが能の台本を書くことにも精通した当時のプロライターのような者があったのかもしれないし、そうであれば ある意味でこの能は『身延鑑』と通底した目的を持っているのでしょうし、それを補完するような役割も持っているのではないか、と感じます。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その32)

2009-09-20 02:13:32 | 能楽
最近、楽屋で能楽師からもこのブログについて質問を受けたりしています(^^ゞ
ぬえ、あんまり詳しくないのでご質問はお手柔らかにお願いします~(^◇^;)

これによれば「山八分にあ」る「本堂」には「曲蛇の形」をした「七不思議の池」があり、さらに「二十町上」ったところに「奥の池」があるとされるわけですが、じつはこの山は身延山ではありませんで、そのお隣に位置する「七面山」のことを記したものです。ところが「本堂」に祀られているのは仏ではなく神様でして、しかもこの書でガイド役を務める老僧の言うには「池の太神なり」ということで、ご神体は山よりもその山頂に近くある<曲蛇の池>あるいは<奥の池>に鎮座すると考えられているようです。本堂そばの<曲蛇の池>から流れ落ちる水は「天竺の無熱池の水末なり」と老僧が説明しているのを見ても「水」が重要なキーワードで、能『現在七面』とも共通するところです。

法華宗の信者であるこの書の参詣人は当然ながら疑問を持ち、①「本地はいかなる仏菩薩」か、②「何時の頃よりか此の山に跡を垂れ、末法法華の守護神」となったのか、③「七面とはいかなるいわれ」なのかと、本地垂迹説に基づいて神の本地仏について尋ね、また「七面」の謂われを尋ねています。

老僧の答えにはこの神の本地仏は「弁財天」であり(①の答え)、山の八方に門がありながら「鬼門を閉じて」「七面を開き」、「七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえ」に七面山と言うのだ(③の答え)と説明されています。

後回しにされた②の説明ですが、これが最も興味深い点で、老僧は次のような不思議な物語を語ります。

此の神、身延山末法護法の神となり給う由来は、建治年中の頃なりとかや。大聖人御読経の庵室に二十ばかりの化高女の、柳色の衣に紅梅のはかまを着し、御前近く居渇仰の体を、大且那波木井実長郎等共見及び、心に不審をなしければ、大聖人はかねてその色を知り給い、かの女にたずね給うは、御身は此の山中にては見なれぬ人なり。何方より日々詣で給うとありければ、女性申しけるは、我は七面山の池にすみ侍るものなり。聖人の御経ありがたく三つの苦しみをのがれ侍り、結縁したまえと申しければ、輪円具足の大曼茶羅を授け給い、名をば何と問い給えば、厳島女と申しける。聖人聞し召し、さては安芸の国厳島の神女にてましますと仰せあれば、女の云く、我は厳島弁才天なり。霊山にて約東なり、末法護法の神なるべきとあれば、聖人のたまわく、垂迩の姿を現わし給えと、阿伽の花瓶を出し給えば、水に影を移せば、一丈あまりの赤竜となり、花瓶をまといしかば、実長も郎等も疑いの念をはらしぬ。

本の姿となり、我は霊山会上にて仏の摩頂の授記を得、末法法華受持の者には七難を払い、七福を与う。誹誇の輩には七厄九難を与え、九万八千の夜叉神は我が脊属なり。身延山に於て水火兵革等の七難を払い、七堂を守るべしと固く誓約ありて、また此の池に帰り棲み給う。その時の蛇形を狩野大蔵が筆にて元祖大聖人霊翰をあそばされ残し置き給う。阿伽の花瓶も今に身延の霊蔵にあり。厳島女の曼茶羅は安芸の国厳島神殿に納めありて諸人拝み侍り。厳島には七浦ありて七浦の明神と申すとかや。裏面一体分身の神のいわれなり。


能『現在七面』の物語の原拠は身延山・久遠寺の縁起や周辺に伝えられたこのような伝承であったことは間違いないところでしょう。それでも能の台本とは根本的にシチュエーションが異なっている点もいくつかあって、そこにこの能の作者の意図を感じた ぬえではあります。

外面似大蛇内心如天女~『現在七面』の不思議(その31)

2009-09-16 11:21:05 | 能楽
え? 今さら? と思われるかもしれませんが。。『現在七面』の考察、番外編~

いまここに『身延鑑』という元禄頃の身延山・久遠寺の参詣手引き書の翻刻が ぬえの手元にあります。これは10年ほど以前、中森貫太氏の催しで久遠寺で『現在七面』が上演されたときに ぬえもお手伝いに参上し、この折 久遠寺より戴いたもの。まさかこの本を熟読する日が来るとは夢にも思いませんでしたが。。 この書の存在については以前に言及させて頂いたのですが、まだ内容のご紹介に至っておりませんで。今日はこれについて記しておこうと思います。

この書には『現在七面』の能の原拠となったと思われる大蛇の話が出てくるのですが、まずはその書き出しから面白い。なかなか文才のある方の筆によるもののようです。

せめて世を逃れし甲斐の身延山にまいり、祖師の御真骨を拝み奉らんと思いたち、心を友として。此の年、延宝四丙辰の弥生の空、九重の都を出であずまの海の道遠き、八重の潮路をはるばると日を重ねつつ旅衣、甲斐国波木井郷身延の総門にやすらい、山の眺望をおがみ侍りし所に、耳順う老僧のすみの衣に香色の袈裟かけて、半水晶の数珠をつまぐり、口に経題目を唱え来り給いける立寄り申し侍る。
これは都かたより初めて詣でしなり。此の御山のありがたき所々教え給えかし。
と申し侍る。老僧うちうなずきて、
ありがたくもはるばると参給うものかな。今日は日も麗なれば愚老も諸堂巡礼し侍る。いざさせ給え教え申さん。まず此の山は甲斐の国巨摩郡波木井の郷の乾にあたり。。


『身延鑑』は初めて身延山を訪れた都の者が、通りかかった老住僧に案内を頼み、僧もこれに快く応じて山域をことごとく見て回る、という内容。延宝四年は1676年ですから江戸前期といったところですね。四代将軍・家綱の治世で世情も安定していた頃。この書はいわば身延山参詣のガイドブック兼おみやげのような書で、時代も安定して寺社への参詣も盛んになって、また同時に商業も興隆して印刷技術も進歩して、このような版本が盛んに作られるようになりました。概してその内容はとても文章が上手くて、思わず引き込まれてしまう筆致。以前 ぬえは『隅田川』の物語を伝える東京・浅草の木母寺(もくぼじ=梅若丸の「梅」の字を分解したもの)で寺の縁起(おそらく江戸時代に整備された)を読んだときにも筆致に感心しましたが、この書にもプロライターの存在を感じます。

で、『現在七面』のシテ大蛇が棲む七面池についてはこのように説明があります。

身延川を上り侍れば、石巌屏風のごとく峙ち、岩間の道ほそく九折の路なり。左は竜が鼻、三十三の滝、雨乞淵。右の方は太郎が峰。次郎が尾。これは妙太郎、妙次郎とて天狗の棲む峰なり。(略)これより五十町、楯を上るがごとく休所三所あり。下乗の鳥居より随身門まで二町あり。鐘楼堂、籠屋。
御本社は山八分にあり。
(略)池は曲蛇の形なり。底より水は涌出で、落下る水は春気滝とて百丈の白布をさらすに異ならず。此の滝の流れには金砂あり。甲州の砂金とこれを云う。天竺の無熱池の水末なり。七不思議の池なり。
これより二十町上りて奥の池とてあり。常に池波空にうずまき、白雲池に覆うて、女人童子など卒爾に参詣なりがたし。
(略)あれなるは池の太神なり。拝み給えと申され侍る。その時に問わく、此の御神の本地はいかなる仏菩薩にて、何時の頃よりか此の山に跡を垂れ、末法法華の守護神とはなり給うや。又、七面とはいかなるいわれにて申し候や。老僧の云く。
此の御神と申すは本地弁才天功徳天女なり。鬼子母天の御子なり。右には施無昆の鍵を持ち、左に如意珠の玉を持ち給う。北方毘沙門天王の城、阿毘曼陀城妙華福光吉祥園にいますゆえ、吉祥天女とも申し奉る。
山を七面というは、此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、七面を開き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり。


『難波』の小書「鞨鼓出之伝」(続)

2009-09-12 00:19:38 | 能楽
それは、どうしても上記の事情によって、若い男神としての「鞨鼓出之伝」の上演の機会が少なく、演出がこなれていないのかも知れない、と今回 ぬえは思いました。なんせ ぬえもこの小書に若い男神の演出があることを初めて知ったのです。

それだけではなくて、『難波』という曲が持つ特有の事情も、この小書の未整理に影響しているかもしれませんですね。

前述の通り『難波』という曲は観世流だけが他流とは別に極端に違った演出で常に上演しております。これはとりもなおさず観世流だけが後世に演出を改変したからにほかならず、にもかかわらず古態の演出は廃止されることなく小書「鞨鼓出之伝」として存続した、と考えられるのです。

それではなぜ「鞨鼓出之伝」の小書の中に、観世流の現行の演出であるはずの若い男神の姿の演出が選択肢として存在しているのか。。? ここからは ぬえの想像なのですが、古態の演出を廃しておきながら古態の演出を残したために、かえってお囃子方との申合が整いにくかったのかもしれない、と考えております。

観世流が若い男神としての『難波』を、おそらく江戸中期に正式な演出として採用したために、近代になってかつての「座」を離れていろいろなお流儀のお囃子方とお相手をするようになった時に、小書としての老神の演出が、結局それが古態でもあり、また現行の他流と同一の演出になることについて違和感があって、申合が整わない場合があったのかもしれない。。師家の型付に、この小書で老神の演出を採るか若い男神のそれにするかについては囃子方の流儀にも考慮するよう記載されていることも その事情を伺わせるように感じられます。

ともあれ今回はおシテが若い男神の演出を採られましたが、もともと『難波』の後シテは老神を想定して作られた詞章であるのは明らかで、『高砂』の後シテと同じ颯爽とした姿ではやや演じにくいのですが、今回は小書をつけてまでなお若い男神で演じた意欲的な試みでありました。このときのお囃子方とも話したのですが、もちろんこの演出による「鞨鼓出之伝」の上演はみなさん初めての経験で、それぞれのお師匠さまにも相談されたそうですが、いずれも上演の経験はほとんどないほどの珍しい上演だったようです。

そんな事情もあって稽古能、申合と本役のお囃子方が参加してくださったのですが、これが面白いことに、小書での上演の特殊性を表現したい、という欲求は誰からともなく出てきて、神舞は初段ヲロシでぐっと位が締まり、また段数が進む毎に著しく速くなっていくように工夫が凝らされてきて、とても面白い神舞になったと思います。申合という形式張ったことでもなく、こういう工夫の経験の積み重ねで演出が決まってきたり、また変化してくるのも、現代に生きる古典芸能として健全な姿なのではないかな、と思った ぬえは後見座に座りながら感心して拝聴しておりました。

この『難波・鞨鼓出之伝』、ぬえはふだんほとんど経験させて頂いたことのない主後見の大役を仰せつけられ、またチビぬえも本来は大人のツレの役である天女のお役を頂戴致しました。いずれも大過なく勤めることができて今は安堵しております。

じつは ぬえはこの日の後見・チビぬえの天女のお舞台をもって、ようやく今年のお舞台のお役にひと段落がつきました。4月にチビぬえが『望月・古式』の子方の大役を頂き、5月には ぬえの『殺生石・白頭』があり、6月には伊豆の綸子ちゃんとチビぬえが揃って『嵐山』の子方を勤め、8月に1週間の間に ぬえは『現在七面』『望月』の2番を勤め、チビぬえもこの『望月』で共演させて頂きました。そうして9月初旬の『難波・鞨鼓出之伝』。なんだか年始から稽古三昧で秋まで気の休まることのなかった年ですね~。まだこれからも仕舞や連吟などいくつか大切なお役は続くのですが、とりあえず能のお役はこれでいち段落!

そうして ぬえは今、遅~~い夏休みを過ごさせて頂いております~

『難波』の小書「鞨鼓出之伝」

2009-09-11 14:14:02 | 能楽
昨日 師家の月例公演がありまして、『難波』の珍しい小書「鞨鼓出之伝」(かっこだしのでん)が上演されました。

能『難波』は仁徳天皇に仕えた王仁(わに=能の中では「おうにん」と読む)博士が「難波津に咲くや木の花冬ごもり 今は春辺と咲くやこの花」の歌の縁で木華咲耶姫とともに現れて、この御代の太平を言祝ぐ、というストーリーの脇能のひとつです。

ところがこの曲はなかなか厄介な事情がある曲でして。まず観世流だけが他流と大きく演出が違うのです。いわくこの能の後シテは他流では悪尉の面を掛ける老神の姿で現れるのですが、観世流だけは邯鄲男の面を掛けた若い男神の姿です。これに従って後シテが舞う舞の種類も異なり、他流では「楽」を舞うのに対して観世流では「神舞」を舞います。観世流では後シテは『高砂』に似たイメージとなります。

ところが観世流には この「鞨鼓出之伝」という小書がありまして、小書の名称は観世流では常には出さない鞨鼓台の作物(『天鼓』や『富士太鼓』などでも使われる作物)が後場の舞台に出されることから来ているのだと思いますが、最も大きな特徴は 後シテが悪尉の面を掛けて「楽」を舞うことにある。。つまり他流の常の場合と同じ演出になる、ということです。

。。ところが今回の『難波・鞨鼓出之伝』の能では ぬえは主後見のお役を承っておりまして、この能を勤めたことのない ぬえにとっては恐縮のお役で、おシテにお願いして事前に型を伺っておいたのですが、なんとこの小書には上記の通り「悪尉面で楽を舞う」というスタイルのほかに、もう一つ別のやり方があるのだそうです。それは「邯鄲男で神舞を舞う」というもので、ええ?? それじゃ観世流の常の『難波』とどこが異なるんだろう。。?

正解は、鞨鼓台の作物を出し、「打ち鳴らす」の文句のところでシテが鞨鼓台から撥を抜き持って鞨鼓を打つ型をすること(『天鼓』など鞨鼓台の作物を出す際のシテの典型の型)、神舞の三段目でサシ分ケの型が入ること(これも『高砂・八段之舞』等に類例あり)、キリの「寄りては打ち返りては打ち」と左袖を作物に掛ける型をする、という程度でしょうか。シテが「神舞」を舞う曲で小書がつく場合は、その神舞が替の譜に変わったり緩急がつくなど舞の中に大きな変化があるものなのですが、この『難波・鞨鼓出之伝』にはそういった大きな変化はなく、師家の型付には「三段目から急に速くなる」という指示が書いてある程度でした。

先日の『現在七面』でも思ったことですが、珍しい曲や小書では意外に細部まで決められていない、すなわち申合として定まっていないこともあって、今回はこの「鞨鼓出之伝」にも同じ事を思いました。すなわち、まず「鞨鼓出之伝」の小書がついた場合の後シテが悪尉の老神と邯鄲男の若い男神の二つのやり方が併存してあった場合、多くの演者は 当然悪尉を選ぶと思うのです。邯鄲男では小書がつかない常の『難波』を演じているのとあまり変わらず、小書に挑戦する意義もやや不分明になってしまいます。ましてやシテ方は、同じ曲を次にいつ舞う機会が巡ってくるのかわかりませんので、必然的に常の『難波』とは全く違った演出となる老神での上演に意欲を感じるのは当然のことだと思います。

そこで老神の「鞨鼓出之伝」ですが、こちらは常の『難波』と比べて面も装束も、そして位(簡単にいえば上演の速度)も、舞う舞もまったく違ってきます。観世流としては常の『難波』と「鞨鼓出之伝」は別の曲と言っても過言でないほどに違っているのですが、それに対して若い男神としてのこの小書の演出には、案外工夫を重ねて伝えられてきた形跡があまり感じられません。

映画の撮影に。。(続)

2009-09-08 11:09:05 | 能楽

もうずう~~っと忙しい日が続いておりましてブログの更新もままなりません。。ゴメンなさい
この映画の撮影も、もう1週間前のことになるのねえ。。

さて朝5時30分にホテルを発って現場に到着すると、すでに俳優さんやエキストラの人たち、そしてスタッフが大勢集まっておられまして、もう、そこここはチョンマゲだらけ。ぬえらもすぐにメイクとカツラの着用を指示されました。これに要した時間が能楽師全員で30分。。こりゃ時間がかかる1日となりそうです。

で、地謡や囃子方の用意ができるとシテ、ワキは装束を着けまして、さっそくリハーサルとなります。今日の撮影は、まず能の場面を撮影して、ついでそれを見物するお殿様とか役人の姿も入れて全体像を撮影する、という順番のようです。

今回の上演曲は『殺生石・白頭』のキリの場面ですが、これを ほんの1~2分程度にあちこちの型を分割して、こま切れに撮ってゆきます。シテが角から廻る動きを少し離れたところから全身を撮ったり、前へ出てくる足だけを撮ったり、はたまた面を切る型だけをアップで撮ったり。そのたびにカメラの位置設定を変え、カメラを載せる台車(?)やそれを走らせるレールを敷き直したり。

能の場面では基本的に監督さんから演技指導は出されずに、こちらが普段演じている通りでよろしかったようです。それでカメラアングルを決めるのに最も時間が掛かって、それから1~2回のリハーサルを行いますが、これもむしろカメラの動作を決定するために行われた印象でしたですね。そして本番。これは必ず1回だけでOKが出されました。



それにしても撮影機材とスタッフの人数の大がかりなこと! この画像はクレーン・カメラって言うんですか? これでの撮影の様子。あ~んな高いところから撮影がスタートして、そのときは能を演じている舞台を角柱の方向の上から捉えているわけです。季節は春の設定なのでスタッフが横から桜の枝を高く掲げて、枝だけが写り込むようにしています。そしてなんと!! このクレーンに乗ったカメラが能を演じている最中にグイ~~ン! と!舞台の中に入ってくるのです(!)。そうしてシテの背後に回り込んで、その背中越しに御殿で能を見るお殿様たちを写し込むという。。凝ってますね~~

能の場面は合計7~8カットも撮ったでしょうか。さらに地謡や囃子方もそれぞれ謡い、囃しているところを撮影されましたから、ぬえもちょっとは映画に映るかも。能の撮影もようやく午後になったあたりでお殿様や役人の武士のみなさんも御殿に居並んで、見物している風情も写り込むような感じで撮影が進みます。こうして、能の舞台面がすべて撮影が終わったのが午後4時くらいだったでしょうか。少なくとも8時間以上 能の撮影に費やされたことになります(映画では能の場面は3~4分程度らしいですが)。みなさんお疲れさまでした。シテはとくに大変だったと思いますけれども。。

そうして、ぬえらは着替えて帰宅しました。この間にも 今度は御殿だけの場面の撮影が続いていましたが、お殿様や武士役のみなさんは能だけの撮影が終わってこの場面の撮影になるまで6時間ほど待機状態だったのですね。。休憩時間に「お待たせしてすみません」と俳優の方に言ったのですが、「いえいえ、能のみなさんの方が大変ですよ~」とねぎらって下さいました。

助監督さんとも休憩の時に、今日はどれほどの人数が撮影に集まっているのか伺ってみると。。なんと出演者・スタッフ総勢で150名とのこと! うわ~、大変だ~。もちろん映画の中で最も大がかりなシーンなのだそうです。

それにしても。。最初は異様に感じたチョンマゲのヅラでありますが。1日中周囲にチョンマゲがあふれていると、段々と慣れてきてしまいます。能楽師の中で、一人だけ楽屋働きの者がおりまして、彼は一応紋付は着たけれど、画面には写らないのでカツラは着けませんでした。そうしたら。。時間が経つにつれて彼の現代人の髪型の方がおかしく見えてくるんですよねえ。不思議~。そんで、お囃子方の中で太鼓のSくんが。。これが異様にカツラ・紋付姿が似合っているのに驚愕! 彼は生まれてくる時代を間違えたに違いない。。

これら能楽師の画像や、御殿に居並んだ殿様や武士のみなさんの壮観な様子をお見せしたいのは山々ではありますが、著作権や肖像権に配慮し、また映画のネタばれにもなるので自粛しました。

んで、最後に ぬえのチョンマゲ姿~



似合ってない。。(×_×;)

映画の撮影。行って来ました~

2009-09-03 01:15:32 | 能楽

映画への初めての出演です。といっても時代劇の中で演じられる能のワンシーンで、ぬえは地謡だったのですけれども。

『必死剣 鳥刺し』という映画だそうで、最初この題名を聞いた ぬえは時代劇とは気がつきませんでした。。藤沢周平さんの短編連作小説だったのね。すんません。。アニメかと思った(←ぢゃなんで能楽師が出演するんだよ)。。 2004年に公開された『隠し剣 鬼の爪』の続編。。正確には続々編で、今秋に続編が公開され、ぬえらが携わった(出演した、なんてオコガマシイですんで。。)こちらの映画は来春頃に公開されるのだそうです。

能楽師は、少なくとも東京在住のそれは、大河ドラマなどでの能楽の上演シーンへ出演する機会もあって、一度はそういう経験をしたことのある能楽師も多いのですが、ぬえは今回が初めての経験でした。

今回は野外ロケだったもので、まずは先日 師匠家で囃子と地謡だけを先に録音しまして、その日は鬘合わせも行われました。ああ!これが ちょんまげヅラなのね~。カツラにもサイズがあって、役者の頭の大きさに合わせて事前に選んでおくのか~。ふ~ん。そんで、カツラの下には「羽二重」と呼ばれるゴム状の薄い膜を頭頂部にかぶせて髪を隠して月代とします。。この説明じゃわかりませんね。以下のサイトを参照~

丸羽二重

。。さらにわかりにくいか。。
「羽二重」といえば紋付の素材になる最高級の布のことですから、これを常用する ぬえたちにとっては意外で違和感のある名称ですね~。ともあれカツラはこんなの↓

ぬえの役は武士のカツラ

そうして一昨日の月曜日、師家で行われた稽古能が終わってから一路バスで撮影現場に行きました。と言っても、その日に撮影があるわけではなくて、現場のセットの下見をして、すぐにホテルに移動しました。というのも、翌日の撮影開始が午前5時30分ホテル出発という(!)強行スケジュールだったのです。あまりにも早いその集合時刻も、撮影が始まってみれば納得なのでしたが。。

翌日時刻通りに集合して撮影セットへ。そこで見た光景がトップ画像です。ふむ。殿様がおわする母屋があって、それに対面するように庭に建てられた能舞台。ああ、いいね~、風が通り抜ける舞台というのは。東本願寺や厳島神社、そして彦根城の舞台などで同じような舞台は見たことがありますが、今回はそこに立てるのです。ここはどうやら観光のために(?)建てられた、戦国時代の武将の館を再現した施設のようです。映画の時代背景としては江戸中期あたりかと思いますが、東北地方の小藩の城であればこの程度が妥当かも、と思わせる豪華さと質素さがうまくマッチした感じの建物。大勢のスタッフが朝から忙しそうに立ち働いておられます。

が。。謂われを聞いて ぬえは衝撃を受けました。

なんと!母屋は最初からこの施設に建設されてあったのですが、能舞台はというと、これは今回の映画の撮影のために わざわざ新築されたものだとのこと!!!!!!!!!!!!!!!!!!

ええっ!! そんなことがあり得るのかしら?? 床の、柱の色合いも母屋と同時代の趣をしっかり持っていますのに。。でも、そういえば戦国時代の館にそれほど完備された能舞台があるはずもない。。そうして、この舞台の屋根は上部を欠いています。雨漏りしちゃう。半壊状態なのかと思っていたのですが。。裏に廻ってみたら。。こうでした。



驚いた。。本当に今回のために作り上げたんだ。。表側から見る舞台の風合いは着色して作られたものなんだ。。スゴ過ぎる。。(しかもこのシーンの設定が春なもので、桜の木まで用意されてます。ぬえらも紋付は夏の絽ではなく単衣を着るように言われていました)

狩野川能、大成功で終わりました~~(その2)

2009-09-02 00:43:56 | 能楽

あっと言う間に映画撮影は1日で終わり、東京に帰って来ました~
そのご報告は次回ということにしまして、今回は 狩野川能のご報告の続き!

まずご注目頂きたいのはトップ画像。新作の子ども創作能『伊豆の頼朝』の一場面です。これは当日の昼間に行われたリハーサルの様子なのですが、このようにリハーサルから装束を着けて稽古しました。

場面としては高倉宮の令旨と後白河法皇の院宣を請けて平家討伐を決意した頼朝(左から2人目)が当地の守山八幡宮、三島大社、そして遙かに都の男山八幡宮を拝して戦勝祈願を行う場面で、頼朝の後方に控えるのが源氏の郎党、そして右から2番目に居るのが北条政子です。『吾妻鏡』や『源平盛衰記』には記述はないのですが、ここに ぬえは政子が神に祈誓する頼朝の横で鈴を打ち鳴らす型を入れてみました。いえね、先日 骨董位置で子供用の、五色の帯がついたきれいな鈴を見つけて、これを子ども能に活かせないかな~、と思って買った、その鈴を登場させたかったのが一番の理由ですが(笑)、まあ一方、頼朝が天下を取るのに貢献をした政子でもありますし、非常に気丈な女性だった彼女がこの門出の場面で神子の役目のようなことをするのも、ちょっと意味があるかな、と思いまして。

本当にお見せしたかったのは後半の場面の、頼朝・北条軍が平家の伊豆目代・平兼隆を山木館に襲撃する場面なのですが、ちとまだ画像が ぬえのもとに届いておりませんで、またこれは改めてご紹介したいと思います~

ちなみにこの子ども能には ぬえは自分が所蔵する装束類は貸し出さないことに決めております。まあ。。腰帯とか赤頭とか鬘の類とか、代用品がきかないものは例外にはしておりますが、子ども能は ぬえの中ではあくまで「子ども能楽」ではなくて、能の形式を借りた「創作舞台」というスタンスなのです。面はもちろんですが、装束も、それを着る者に扱いの心得や尊重の念がなければ ただの道具や衣装になってしまいます。古典の曲を演じるのならば ともかく、新作の舞台で、それを演じるのが小学生軍団となれば、この尊重の心を教えたり、実践させるのは簡単ではありません。

で、子どもたちの装束や小道具は神社から拝借したり、それから保護者のお母さん方に作ってもらったり、また ぬえの自作の品も登場しています。今年はミシンを使うのが上手なお母さんが多くおられて、装束を1領 新調して頂きましたし、ぬえも去年は風折烏帽子を、今年は侍烏帽子を2つ自作してこの日の舞台に使いました。

それでも今回の『伊豆の頼朝』に関しては、『源平盛衰記』に基づいて 長刀を使う役を作りました。子どもが長刀を使うことには ぬえもちょっと悩みましたが、師匠のお許しを得て、よくよく稽古をつけて。こちらが見ていて不作法なことは起きませんでしたが、まあ、この役を得た子は ぬえも昨年から見ていて信頼は置いていましたから。彼に依らず今年は「役者に恵まれた年」だったと思います。男の子が多かったし、運動神経の良い子もいたしチームワークも強かった。来年はどうなるかなあ。



こちらは仕舞『小督キリ』。中学2年生3人による上演です。狩野川能では小学生中~高学年の出演を前提にしているのですが、さすがに10年も続けていると、中学生になっても続けて出演したい、と申し出る子も出てきます。反対に出演者の弟や妹の中で「私もやりた~い」と言う子もありまするが。(^_^;) どちらも受け入れていますのですが、中学生になったら「子ども創作能」には地謡として後輩のバックアップにまわってもらって、彼ら自身には古典の能の曲の体験として仕舞を勤めてもらうことにしております。今年は中1生には仕舞『吉野天人』を、2年生には『小督』を勤めてもらいました。『小督』は悲恋の物語ですし、キリの仕舞は型はそれほど難しくないけれども喜びと悲しみが重奏する複雑な曲。中学校2年生くらいの年頃の感受性にはなにか響くところもあるかな、と。

稽古のときには彼女たちには能の『小督』のあらすじや『平家物語』に描かれる物語も教えてあげました。うん。何か感じ取った子もいたようですよ。そうやって古典文学の世界に遊ぶようになってくれうとうれしいです~