ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

伊豆の国市で子ども能の稽古 二回目(その2)

2006-02-27 12:45:01 | 能楽
で、この子ども創作能『江間の小四郎』ではワキにあたる勇者・小四郎(北条義時)が悪者の大蛇(こっちがシテ)を退治する物語で、その際に小四郎が橋掛りにいる大蛇に本当に弓を射る型を作りました。

弓矢は ぬえの自作で、自宅でも稽古するよう言いつけて小四郎役の子にそれを預けたのですが、そしたら小四郎役の子(小学六年女子)がポツリと。。

「かじられちゃわないかなあ。。」

。。それは ぬえ家でも聞き慣れた言葉。。
すぐに脊髄反射して聞いてみました。「。。何に?」

そしたら、答えは予期したとおり!

「うさぎ」

。。。(@^^@)やっぱり。

ぬえも携帯の待ち受け画面にしている姫の画像を見せて、しばし うさぎトピックにて盛り上がりましたー

「えー先生も飼ってるの? うちなんか三匹だよ」
「三匹! ぬえは一人だけ。。庭もないしね。でも閉じこめたりしないんだよ」
「うちもー。家の中で放し飼いー」
「三匹とも!? 夜もそのまま?」
「夜も放してあるの。ときどきベッドの上にピョンっと飛び乗るんだよ」
「へへ~~んだ。ぬえのところの姫は寒い夜にはフトンの中に潜り込んでくるもんねー」
「。。それは いいなあ。。」

ぬえの勝ちー   (。_゜☆\ベキバキ(~_~メ)稽古はどした?


あ、上の画像ですが、こう読んでくらはい

「ん? なんだこれ?」
  ↓
「とりあえず じゃれてみよう」
  ↓
「コケました」



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伊豆の国市で子ども能の稽古 二回目

2006-02-26 15:16:54 | 能楽
昨日は伊豆の国市での子ども能の稽古の第二回目でした。

今年の第七回『狩野川薪能』は7月8日(土)と決まったのですが、子どもたちの創作能があるため、例年夏休みに開催されています。ところが今年は会場の都合からこの日になってしまいました。子どもたちにとってもこの期日の薪能は大変だろうけれど、月に二度子どもたちに稽古をつける能楽師の方も大変です。なんせ学校が休みの土曜日か日曜日・休日しか稽古できない。ぬえの他にシテ方・ワキ方ひとりずつが毎年稽古に行っているのですが、今年はこのスケジュールなので、三人が揃って稽古に行く事はほとんど不可能です。で、いきおい比較的スケジュールが合いやすい ぬえが一人で稽古に行く事が多くなります。

しかも教える内容が子ども創作能『江間の小四郎』のシテ、ワキ・ワキツレ(このへんは ぬえの職掌とは違うのだが、新作能でもあるので、ワキ方が稽古に見えるまで ぬえが暫定的に教えています)、地謡(これも子どもたちがやるの!)、さらに創作能とは別の出し物として子どもたちの仕舞四番、さらに ぬえらがシテを勤める玄人の能『船弁慶』前後之替の子方(これも当地の子どもから選んで稽古をつけ、出演させます)。。と、合計9科目にのぼるのです。稽古場を確保してある限られた時間の中でこの科目をすべてこなすのは。。思ったよりも大変でした。。

でも、子ども創作能『江間の小四郎』は昨年の初演に引き続いて二度目の上演ですし、参加してくれた22名の子どもたちもほとんど去年の経験者。毎年思う事だけれど、子どもたちの記憶力ってのはスゴイもんです。地謡担当ですでに昨年から参加している子どもの中には、まだ二度目の稽古、しかも薪能まで4ヶ月以上あるこの時期に、すでに台本を持参せず、暗記して謡う子がいる! ぬえが本を地謡を間違えると「えー、先生、そこ違いますよ?」なんて言われる。。ぬえの自作なのに。。しかも稽古なので ぬえは本を見ながら謡っているのに。。ごめんよー(/_;)

シテ役の大蛇や、それを退治する勇者・小四郎(北条義時)でワキに相当する役は、毎年小学六年生から選ぶので、毎年違う子が演じるのですが、やはり昨年も参加している子は、見よう見まねでほとんどの型を覚え込んでいる。。なんだか記憶力の問題だけじゃなくて、彼らの「やる気」というか舞台に立つ「責任」というものの自覚が芽生えているのだろう、と感じます。もう六年間も子どもたちに教えてきて、こういう点で手応えを感じたのは初めてですね。例年、薪能当日の子ども創作能では、子どもたちが地謡を謡う後ろに ぬえが後見として座って、小さい声で謡ってあげているのですが、このまま行けば、あるいは地謡は子どもたちだけで出来るんじゃないか。。なんて大それた欲望も持ってしまいました。実際は囃子に合わせて謡うわけだから至難なんだけれど。。
んー。。あるいは。。ひょっとしたら。。

夢はふくらんでいます。楽しみだなあ。

昨日は三島から乗り換えた電車の車窓から見た富士山がとてもきれいでした!

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NHK FMにて素謡『井筒』の収録

2006-02-22 01:16:18 | 能楽
今日は渋谷のNHKセンターにてFM『能楽鑑賞』の収録に行って参りました。

曲目は『井筒』で、シテは師匠=梅若万三郎、ワキ=梅若紀長。ぬえは地謡としての参加です。割と良い出来だったと思うので、放送をお楽しみにー。。。と言っても放送はなんと9月3日(日)朝7:30だそうです(ちと時刻はうろ覚え。。)。いつもは収録して1ヶ月後あたりに放送になるのですから、今回はどういう事情でこんなに早い収録だったんかいな?

それにしてもラジオの収録で『井筒』はキツイ!
なんせ静寂が旨の曲なので、45分間 息継ぎの音もたてられないほど気を遣います。緊張のあまり生唾を呑み込む、それさえも音がして邪魔になるのでは。。と震え上がる、という。。(^^;)

こういう事は静かな三番目物の曲ならではで、もちろん舞台でも気を遣うけれども、それでも能では囃子方もおられるし、基本的には大きな音で演奏していますからこれほど気を遣う、という事はないです。お客さまも多いから咳払いが聞こえてきたり、少しは雑音の類だってないわけではない。それに能楽堂は広いですからね。おシテが橋掛りにおられればお客さまの注意も主にそちらに向けられるだろうし、間狂言の語リなど、おシテが舞台におられない場面だってある。

。。でもラジオの収録では防音されたスタジオで、出演者各自の目の前にそれぞれマイクがあって、そのマイクが ぬえの音を「ジ~~~~~~~~っ」っと狙ってる。。(>_<)
こんな環境で『井筒』を、しかも素謡で謡うのはつらいっ。

考えてみると、舞台で地謡を謡うときも、能と素謡・仕舞というのはずいぶん違いますね。能では上記のような理由もあって、謡うのは割合と楽なのです。でも囃子が入らない素謡や仕舞では、やはり能と比べればかなり気を遣いますね。少なくとも文句を間違えるととっても目立っちゃう。(^^;)

いやいや、素謡や仕舞の地謡が大変なのは、間違うとすぐに目立ってしまうから気を遣うのではなくて、謡そのものを聞かせなければならない、というところが大変なのだと思います。言うなれば、能や舞囃子の地謡ならばある程度囃子との共同作業として作り上げてゆくものなので、そのコンビネーションとか、息の合い方みたいなものが重要になってくる。囃子方と一緒に盛り上がって行ける、という事もありますね。まあ地拍子の知識がなければ謡えない、という根本的な問題もある事はありますが。

また素謡や仕舞の地謡では能ほどの盛り上がりでは「やり過ぎ」である事が多くて、ちょっと引いて冷静に謡わなければならない、という事もありますね。

いずれにしても、能や舞囃子に対して、素謡や仕舞の地謡というのはそれほど違うものなのです。

。。で、ぬえは能の地謡も素謡の地謡も、どっちも好き。(^^;)

仕舞の地謡の面白さ、というものはちょっとまだ ぬえにはわからないんですけども、能の地謡には能の良さ、素謡の地謡には素謡の良さが凝縮しているように感じます。場面によりシテよりも雄弁な事も多いし、やっぱり能の正否を決定づけるのは地謡、でしょう。

ぬえもはやく地頭やりたいなあ。

『鵜飼』終了しました(その5)~神鳥の周辺

2006-02-20 01:51:37 | 能楽
またまた幽玄堂主人さんへのレスを書いていたら長文になっちゃったので新規記事になりました。。すみません。。ぬえも混乱しているので、あえてレスは不要ですので。。>幽玄堂さん

あ、ありましたね『鵜飼』のほかにも鵜を扱った曲が。
『鵜祭(うのまつり)』。たしか廃曲ではなく、金春流では現行曲だと思います。。もっともさすがによく上演される人気曲ではなく、ぬえも国立能楽堂の主催の企画で出されるのを番組で拝見した程度だと思いますが。。

番組で拝見しているのに、不勉強な ぬえは未だ実演に接していません。脇能で、曲の終わりの方で奇瑞として鵜が出る、それも子方が鵜の役を演じる(!)という程度は知識としては知っていましたが。。そこでちょっとこの曲の梗概を調べてみたら。。ええっ? 後シテが女神なのに「楽」を舞うんですか! う~ん、少なくとも観世流で能を勤める身としてはそれは考えられない。。

観世流では女神の役は「序之舞」か「中之舞」、または「神楽」を舞うもので、「楽」はもっぱら男性の舞、という認識です。。女性の役で「楽」を舞う曲もないわけではないのですが、『梅枝』『富士太鼓』の二曲に限られます。でもこの二曲はそもそも脇能ではないし、もっとも大きな違いはこの二曲には太鼓が参加しない点です。しかも『天鼓』のように小書がついて演出が変わる場合に太鼓が入るという事もない。大小物の「楽」は普段聞き慣れているあの華やかで楽しげな「楽」とは全然雰囲気が違って、ちょっと淋しさを湛えた舞で、伶人の夫を失った妻がその夫を追慕して舞う舞楽、という設定にはまことに似つかわしいんですが。

話がそれましたが、『鵜祭』に登場する鵜の役はたしかに神鳥なのでしょうね(実演に接していないので確信はないのですが。。)本当に、どうして神のお使いの首を縛って魚を捕るような職業が古来からあるのだろう。どうして鵜なんだろう。。? んー、幽玄堂主人さんばかりでなく ぬえも、もうここまで来たらお手上げです。。いつか調べてみたいものだが。。

ところで『鵜祭』の物語の舞台は能登・気多大社だそうですが、「気多明神」と呼ばれるご祭神は大国主命のはず。ははあ、やっぱり実像は女神ではない。。なんと言っても出雲大社のご祭神で、「因幡の白兎」の伝説で有名な御仁(ご神。。か。。)です。どうも『三輪』や『龍田』とも通ずる難しい神道解釈がこの曲には流れているようですね。

鵜、と言えば、そういえば神武天皇の父。。というか能楽関係では『玉井』のシテ(豊玉姫)とワキ(火々出見命=山幸彦)との間に生まれた子、と言った方がわかりやすい鵜ですが、その神の名前「ウガヤフキアエズノミコト」も表記は「鵜葦草葦不合命」だったはず。産気づいた豊玉姫のために火々出見命が浜辺に産屋の建てるのに、その屋根を葺くのに鵜の羽を使ったがそれが葺き終える前に生まれた子で。。という話もあるし(あれ。。?『鵜羽(うのは)』って曲もあったような気が。。)

ああ、混乱してきた。このあたりは九州のお話なので、このへんの系図なんてどこかにあるんだろうか。。と思ったら、やっぱりありました。

http://miyazaki.daa.jp/himuka/sinwa01.htm

なんでも、鵜葦草葦不合命はその系統の中で穀物に由来しない名前を持つ唯一の神で、それもナゾなのだそうです。

えっと、最後に『鵜祭』のご祭神を祀る「気多大社」はHPがありました。
興味がおありの方はご覧に。。なっても。。良いのでは。。ないかと。。

http://www.keta.or.jp/

きもちもキレイにしなくちゃ! (;_:)

『鵜飼』終了しました(その4)

2006-02-16 13:06:41 | 能楽
引き続きまして幽玄堂さんへのレスですー

あ、その前に、
>>…「融の大臣の能に、鬼になりて、大臣をせむる」と有る。大臣を責める。大臣が
 怨霊になるのではなく、責められる方だったとは…。

これはやはり融が「鬼になり」「大臣をせ」めた、読むのが自然ではないでしょうか。いまの「白式舞働之伝」という小書がこの古い形の『融』の名残だ、という説もあるけれど。。どうなんでしょうね。。


さて「石」に経文を書く、という事について、幽玄堂さんのおっしゃるように「賽の河原」のイメージは、なるほど確かにこの場面に埋め込まれているように感じます。そう考えてくると、ぬえのイメージもふくらんできました。

「賽の河原の石積み」のイメージ。。贖罪のために石を積んでも積んでもそれを壊しに来る地獄の鬼。。でも『鵜飼』の鬼はそのような 罪人に責め苦を与える存在ではなく、仏による救済の代理人です。。すると、そもそも「石積み」に我々が持つイメージの方がどこかで歪曲されてきたのでは?

贖罪のための石積みの行為と、それが永久になし得ない事は、そのまま『鵜飼』の前シテの姿~死後、僧に懺悔のために見せる鵜飼の有り様の中でも、やっぱり「後の世も忘れ果てて面白や」と言ってしまう欲望に負ける人間の業の姿~と重なって見えてきます。すると、石積みを邪魔しに来る鬼、というのも じつは永久に続く石積みという輪廻を断ち切る役目なのかも。。

この能が作られた頃は末法思想の絶頂期ですし、『地獄草紙』『病草紙』が流布したように、むしろ来世への恐怖から地獄が「悪人が連れて行かれる恐ろしい場所という観念ばかりが先行して、ある種の「俗化」をしたように ぬえには感じられて、ひょっとすると『鵜飼』の作者は、それをもう一度仏の慈悲との関係にリンクさせて再構築しようとしたのかも。するとこの曲は作者の「忘れられた鬼」へのオマージュ。。?

う~~ん。。この曲は脚本に本当に破綻がないので、あるいは二重三重に作者の意図が込められているのかもしれません。。でも ぬえにはいまそれを証明する証拠がない。。

『鵜飼』は研究者によって「護法型」と分類される好例の曲だそうで、それについても言いたい事もあるし、また「鵜飼」という職業そのものについても、鵜は本来「神聖な鳥」だという見解があったりで、知っておくべき事は多いのだけれども。。今回は問題提起、というところで諦めざるを得ません。また機会があれば調べてみましょう。


。。閑話休題。

>>…この曲の発祥とされる石和付近では、丸石を積み上げた“道祖神”が現在でも祭られている。

石和には『鵜飼』に関係する数々の寺宝が伝えられる「鵜飼山 遠妙寺」というお寺がありまして、そこには「南無妙法蓮華経」の七字を記した経石、鵜の形をした「鵜石」、そして鵜を入れる「魚篭(びく)石」というものまであるそうです。う~ん、これはどうなんだろう。。

おまけに この「七字の経石」は一つが割れていて、それは同寺の記録に「正保年中 松江少将松平出羽守直政公 当山へ参詣霊宝等拝礼あり、七字の経石墨薄く文字判明ならず、住職立善院日祐上人と交渉 鉄扇を以て割りたるに、妙字の墨色石中に通徹しあるを見、感涙を流し、この霊跡を幕府へ上奏、慶安元年七月 三代将軍家光より御朱印を賜る」とのこと。

事実はさておき、ぬえは「ここにも家光さんが!」と思いました。この人は本当にスゴイ人で、東照宮を造った事は有名ながら、信仰厚く精力的にいろいろな寺社の援助を惜しまなかった人。東京にいると家光さんの功績はすぐに気がつくけれど、地方に行っても「ここにも!」と思う事がよくあります。まあ、伝説のようなものもあるでしょうけれど。。


『鵜飼』終了しました(その3)

2006-02-16 12:23:34 | 能楽
幽玄堂主人さんが「その2」に付けて下さったコメントへのレスのつもりだったのですが、興味深い内容なので新規記事にしました。

閻魔大王の本地は地蔵菩薩。。ふーむ無知な ぬえは知りませんでした。。『鵜飼』のテーマは「欲望に負ける弱い人間の業」だと思いますが、答えの出ないテーマだけを観客に突きつけておいて、曲自体は「超自然力による救済」で納めて終わりになる。能にはよく使われる脚本の手法ですが、だからこそ ぬえは後シテは獄卒だと考えた方が、実際には登場しない閻魔大王の「大きさ」が連想されるのではないか、と考えますねー。

たとえば『石橋』では、演者も観客も後シテの獅子の激しい舞に焦点を合わせてこの能を見るわけですが、お客さまは獅子の演技の切れを楽しみになさいますし、演者も師匠から「そんなダラダラした舞じゃダメだ!」と叱られながら稽古をします。ところがある研究者が次のような事を言ったのを聞いて ぬえは愕然としてしまった。。

  私は『石橋』で、なぜ後シテに獅子が登場するのか ずっと疑問に思っていま
  した。これは言うなれば西部劇の映画でカウボーイが主役じゃなくて、それが
  乗る「馬」が主役になっているようなものですから。。 この理由をずっと考え
  ていたのですが、ある時にはたと気がつきました。

  「『石橋』という能の作者は、後シテの獅子が激しく舞い狂ったあと、それが
  去った静寂の中に「文殊菩薩の浄土の静謐な世界を現出させようとしたのでは
  ないか?」

。。これは恐るべき卓見で、これが正解であるならば、シテが去ってから、お客さまが席を離れるまでの間に曲の本質がある、という事になってしまう。。演者も観客もそのどちらもが、舞台上に最後まで登場しないものを現出させるためにギリギリの緊張感を舞台と見所のあいだに構築して、じつはそれは作者が作った「仕掛け」に乗せられているのだ、という事になるのです。演者もそんな事は考えずに必死に身体を作って切れのある舞台になるように努めるし、お客さまもその派手な演技の舞台を固唾をのんで見守る。。でも作者の意図は、その能が終わった後にはじめて姿を現す。。その時には演者はすでに楽屋に引き上げていて、演者同士で挨拶を交わしたり、自分の演技を反省したりしているし、お客さまも長い観能に疲れた体を席から持ち上げて、家路につこうとしている、その時に、です。

ぬえはこのお話を聞いた時は総毛がよだつ思いでした。やっぱりこの国の文化はすごいなあ。。

程度の差こそあれ『鵜飼』にも、ぬえはそのような作者の「虚構」を感じます。まあ、この前シテは「密漁者」ふぜいなのですし、ここに閻魔大王が救済に現れた、と考えるよりも、その手下のひとりにしか過ぎない「獄卒」が現れる方がつりあいも取れるでしょう。なにより その「獄卒」でさえもが大きな救済の力を持っていると見せる事によって、地獄や閻魔大王そのものの大きさ=悪人を責め立てるばかりではない救済の力の大きさ=が暗示され、地獄と言えども極楽と表裏一体の関係にあって、さらに言えば仏の深遠な慈悲のようなものが観客に印象づけられる、と思うのです。この曲のテーマは「人間」にありながら、単純に神様仏様を登場させて大団円を迎えさせないあたりが、作者のすばらしい力量だと感じました。


伊豆の国市で子ども能の初稽古!

2006-02-14 23:33:01 | 能楽
じつは昨夜パソコンがクラッシュしてしまいまひた。。

ほとんど徹夜状態で、あちこちいじって。。とうとうシステムリカバリになってしもうた。。あああああああああぁぁぁぁぁ

今日は松戸市にお弟子のお稽古に行っていたのですが、帰宅してなんとかインターネット環境だけは復旧しました。メールの復旧はまだなの。。

さて研能会で『鵜飼』を勤めた翌日、伊豆の国市(旧・大仁町・伊豆長岡町・韮山町が合併して昨年誕生した新市)に「子ども能」の初稽古に行って参りました。これは大鼓方の大倉正之助氏がはじめた薪能『狩野川薪能』の中で、小学生を中心にした地元の子どもたちを出演させるもので、特筆すべきは、この「子ども能」が地元の民話を題材にた新作の能で、地元の子どもたちが(囃子を除いた)すべての役を演じる、というところなのです。もう今年で第七回を迎える『狩野川薪能』の「子ども能」。ぬえはその第一回から関わっていて、子どもの稽古を中心的にさせて頂いております。

思い起こせば七年前には大仁町独自の催しで、子ども能も地元のご当地ソングってなものを選んで、主にワキ方のY氏が中心となって『城山(じょうやま)の大蛇』というのを作りました。ぬえは主に節付けを担当して、最初は居囃子の形式で上演したのですが、翌年には「子どもたちをただ座らせて謡わせるだけじゃもったいない」という事になり、型をつけて能の形式に作り直しました。その後も数回の上演を経て内容も段々に充実させて、出演する役も増やしたり、地元の神社などに歴史を取材に行って本文に反映させたり。

ところが去年から新「伊豆の国市」が誕生した事で、大仁町に偏った能を演じるばかりでは不具合がありますから、再び民話を取材して、子どもたちの指導をする能楽師が寄り集まって『江間の小四郎』(北条義時の前名)というお話の能を新作しました。『城山~』も『江間~』も、どちらも地元に出没する大蛇を勇者が退治する、というストーリーで、子どもたちにはチャンバラする事で発散できてよい経験でしょう。

もっとも、ぬえは子どもたちに「能」をやらせている、という意識はなくて、「能のエッセンスを取り入れた」、言葉は悪いかもしれないけれど「お遊戯」の延長のようなもの、というスタンスで教えています。ですから、子どもたちには悪ふざけをしたり、他の子の迷惑になる事をしない限り、滅多に怒ることもありませんね。こういう年頃の子どもたちには古典芸能のエッセンスに触れてもらえれば、それで良いのではないか、と思っています。そのうち、古典の能や日本の文化の深さにいつか気づいてくれれば良いのでね。。

お稽古の詳細はまた改めてアップする事にします。とりあえず今日はここまでで。。パソコンの復旧に専念いたしまする。。

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『鵜飼』終了しました(その2)

2006-02-13 16:53:28 | 能楽
後見のうち一人は、能の終了する直前には切戸に先に引いて幕の中で待ち受けていて、舞い終えて橋掛りに引き揚げて来られるおシテが幕の中に入る時には平伏してそれをお迎えしなければなりません。ところが『西行桜』の後見は能の終了時にも舞台に居残って作物を引かなければならないので、誰か後見の代役がおシテをお迎えする事になります。

なぜか今回は ぬえにその代役のご指名があったので、おシテをお迎えして、面を外すところまでお手伝いさせて頂き、それから急いで胴着に着替えて『鵜飼』の装束を着けました。今回の前シテは濃い青(ほとんど紺色)の水衣に花色の無地熨斗目。腰蓑も上半分が黒。悪者の密漁者には良い姿でしょう。「鵜之段」で激しい動きをしても尉髪が乱れないように少し仕掛けをしておきましたが、これは成功だったようです。面は前後とも師家から拝借しましたが、どちらも出目是閑(大野出目家初代。16~7世紀の面打ちの作で、前シテは拝借する時に師匠から「この尉面は面白いだろう。三光尉のたぐいだとは思うんだが」とおっしゃるように、「笑尉」と「三光尉」の間をいくような面で、とくに頬の彫りが極端に深くて、ある程度下品。(笑) 『鵜飼』の前シテにはちょうど良いでしょう。面の裏がかなり狭くて、頬の面当て(面の角度を調整するために入れる手製のクッション)は不要でした。

一声で幕を揚げて出て、このときは ぬえ、いつもの悪いクセで足に力が入りすぎたのですが、次第にほぐれてきました。謡は当日になってから楽屋でおワキからいろいろと教示を受けましたが、もっともなご注意だったので、出来るだけそれを守りながら謡いましたが、これまたいつもの事で、稽古よりは微妙にピッチが上がり気味になりましたが、おワキからも「謡が抑えすぎじゃないか?」と言われていたので、これもまあ許容範囲であったのではないかと思います。「語り」も自分としては良くできた方だと思っています。

前シテの眼目の「鵜之段」は、これは力が入りました。「語る草」さんからもご指摘があったように、力が入りすぎ、という事もあろうかと思いますが。。それもさもありなん。。舞台でブチ切れた ぬえは手がつけられないのは有名で。。反省してます。。

中入の間狂言の山本家の文句については前述しましたが、開演前の楽屋でそれについてお伺いしてみました。やはりお家の語りは「密漁者を殺せと提案した本人」というものだそうで、これは ぬえも知っていたのですが、捕らえた密漁者をまず座らせて「ゆるりと休ませ」、その間に大竹を取り寄せてこれを細く割って簀に編み、さて漁師をその上に「とくと寝かせ」端より「くるりくるりと巻き込めて」この川の「一の深みに」沈める、というスゴイ描写。最初の「ゆるりと休ませ」が怖い。。お話しをしてくださった狂言方も「じつは殺されると分かった時はショックが大きいよねえ。。」なんて言っていました。実際には ぬえは後シテの装束を着付けて頂いていたのでこの間狂言の語りは聞いていません。はやく録画が届かないかなあ。

後シテは早笛で登場しますが、前述のようにあまり速くは演奏しない事に定められています。一方シテの方も「橋掛りは序・破・急と速度を上げて出るものだ」と教えられていますので、幕から出るところはややシッカリ、次第に歩速を速めて一之松で正面にずかりと出てヒラキ、謡い出しとなります。後シテの面は前述のように是閑の「小ベシ見」ですが、こちらはちょっと薄い面で、面当てに少し工夫をしました。面白いのはこの「小ベシ見」、グッと結んだ口のところを細く切り通して明けてあるのです。これは ぬえは見た事がないので師匠に伺ったところ、「小ベシ見には時々こういう造作の面もあるね。やはり謡い易くするためだろう」ということでした。なるほど、このようなベシ見系の面「大ベシ見」「小ベシ見」「長霊ベシ見」「熊坂」「黒ベシ見」などは、すべて口は裏側に貫通している彫りはないのです。裏側から見れば口だけはのっぺらぼう。こういう面で謡を謡うと、ときどき声が籠もってしまって何を謡っているのかわからない方もあるけれど、ぬえの経験では稽古で克服できるはずです。それ以上に困るのは、こういう面で激しく舞うと、次第に酸欠状態になってくるのですよ。やはり口が閉じられた状態の面ですから、呼吸が苦しくなってくる事はあります。幸い、今回は ぬえはそのような目には遭いませんでしたが。。なお装束はちょっと古い黒地の袷狩衣、赤地半切、修羅扇、唐冠。赤頭と紅黒段の厚板は ぬえの所蔵品でした。

後シテは前回にも書いた通り太鼓のKくんと打合せが出来ていたので、これまた型と齟齬なく合いましたし、飛び安座も、もともと飛び上がる高さはあまり挑戦する気はなかったのですが着地はうまく決まりました。その後のキリは型が余るところですが、師匠がサラッと謡ってくださって、これまたうまく文句にはまって舞う事が出来たと思います。

ああ、やっぱり ぬえは切能が好きだ。。

ご来場頂きました方にはこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
今後ともどうぞ ぬえのお舞台にお運び頂けると幸甚ですー   (おわり)

『鵜飼』終了しました

2006-02-13 00:58:30 | 能楽
2月11日(土)の梅若研能会2月例会にて『鵜飼』を無事に勤めてまいりました。

木白山さんへのコメントでも申したのですが、本当に久しぶりに、終演後にガックリと落ち込むことなく(←ホントに自分が勤めたあとはいつもこんな感じ)、手応えを感じた舞台となりました。なんとなく序之舞を舞う曲を勤めさせて頂く機会が多い ぬえなのですが、ああ、やっぱり ぬえって切能が好きなんだなあ。。とつくづく思いましたー。(^^;)

当日は午後1時の開演だったので、11時に楽屋に入り、装束の準備や下ごしらえ(?)をしたり、またちょっとした仕掛けを装束にしたりして、あれよあれよと開演時刻が近づいて来ました。

ぬえ、今回は、後輩のKくんが初番に勤める『箙』の能の主後見もさせて頂く事になっていたので、本当の事を言えば、催しの当日が近づくにつれてかなりナーバスになっていました。後見というのは見た目よりも大変で、おシテの装束の着付けもしますし、万が一お舞台に事故があった場合はすぐに対処しなければならないのです。

たとえばおシテが万一絶句した時には間髪を入れずに文句を付けなければならない(プロンプター、ですな)ので、おシテやおワキの文句は完璧に覚えていなければならない。ところが『箙』と『鵜飼』には微妙に似た文句があるのです。『箙』でおシテが絶句した時に『鵜飼』の文句を付けちゃったら大変な事になるし、また『鵜飼』のおシテを勤める時に『箙』の文句が口を衝いて出たら、これまた大惨事。。(^◇^;)

また、上演中に装束が乱れて演技に支障が出た場合にはすぐにそれを直しますが、これもおシテの演技やお客さまがご覧になる邪魔になってはならない。このように装束の乱れを直すにもタイミングがあるので、「こういう事態になったらこのタイミングでこう直す。ここで事故がある可能性があるから、その場合はこうして対処する」と、何通りものアクシデントのシミュレーションを予めしておくのです。それに、そもそも装束の乱れというの楽屋で着付けをする際に不備があった場合が多いから、事故そのものが後見の失態です。しかも後輩の数少ない舞台の機会に先輩の ぬえが失態で傷をつけるわけには絶対にいかないのです。そんな事があったら、確実に ぬえは自分のお役の『鵜飼』に後悔を引きずってしまって、こちらでも失策をしかねない。。

このへんについては副後見のUさんが ぬえに気を遣ってくださって、「あとにおシテが控えているのだから、『箙』のおシテの文句は私に任せて、ぬえさんは覚えなくても良いですよ」と言ってくださったのですが、ぬえも主後見のお役を師匠から頂いた以上、やはり自分で後見の仕事が全うできるよう、舞台当日までに細心の注意を払っていました。また『箙』のような修羅物の曲は、事故が起きやすい能なのです。。それでも結局『箙』は何のアクシデントも起こらず、おシテのKくんも稽古や申合よりも良い出来でしたね。もう少し発声のの鍛錬をした方がいいんじゃないかな、とは思いしたが、型はのびのびと演じていて、囃子方ともうまく合って舞っていました。

ところが、さて『箙』が終わってみて。。ぬえは疲労困憊。後見役の精神的な重圧から解放された途端、ヘタってしまいました。これから『鵜飼』のおシテ。。でも『箙』の直後には師匠が『西行桜』を勤められて、これがかなり長大な曲だったので、その上演中に『鵜飼』の文句をもう一度おさらいする余裕もあり、ようやく気力を回復できました。


『鵜飼』(その7)

2006-02-10 14:20:22 | 能楽
早笛で登場した後シテは橋掛り一之松に止まり「それ地獄遠きにあらず」と謡い出します。こういう強い曲では一之松に登場してヒラキをした両手をすぐには下ろさず、三句謡ってから下ろすキマリになっています。「江河に漁ってその罪おびたたし」と右にウケ、「金紙を汚す事もなく」と扇を大きく正面に出して見込みます。この「金紙」というのは亡者の生前の行いのうち善行を閻魔庁で記録しておくもので、悪行は「鉄札」に書き記します。死後の審判はこの「閻魔帳」によっておこなわれる、とされています。「されば鉄札数を尽くし、金紙を汚す事もなく」と後シテが言うので、殺生を重ねた漁師には善行は一つもなかった、というわけです。

「無間の底に堕罪すべかっしを」と拍子を踏み、「一僧一宿の功力に引かれ」と左袖を返してワキを見込み、「急ぎ仏所に送らんと」と左を引いて右手で改めてワキへキメ、「悪鬼心を和らげて」と正面へ直しながら袖を払い(少し気もゆるめて)、「鵜舟を弘誓の船になし」のおわり頃より左へトリ舞台に向かいます。「法華の利益の救け船」と舞台の中央のあたりでサシ、「篝火も浮かむ」と見廻しながら常座へ立ち戻り「気色かな」と正面へヒラキ、すぐに角へ出て正面へ直します。

このあたりは謡の分量と比べてかなり型が多くて忙しいかぎり。それよりも大変なのは太鼓の手が謡に合うように付けられているので、太鼓の手と型が合いにくいのです。そこで太鼓方とは稽古能ではとりあえず常寸通りに謡を基準にして打って頂いたところ、やはり型と合わない。聞いてみると「ここは謡が伸びる事があって、その時は少しこちらも寸法を延ばします」というお返事で、やはり他の演者も同じ苦労がある様子。謡を伸ばして型に合わせているのだろうけれど、ぬえはちょっと考え方を変えて、太鼓の方には申合では謡は参考にしながら、型を基準にして打って頂くようお願いしました。

申合でこれをやってみたところ、うまく型と合うようです。聞いてみると型に合わせたからといって太鼓の手も極端に伸びてしまうわけではないらしいので、当日もこのやり方で打って頂くようお願いしました。稽古能と申合でやり方を実験してみて良い結果が得られたのは結構なことで、太鼓を打ってくれるKくんも非常に柔軟に対応してくれるのでありがたい事です。それにしてもK君はうまい。こういう方とご一緒できるとおシテも安心して舞えるでしょうね。

ここでようやく地謡が謡い始め、「迷いの多き浮き雲も」と左へ廻り舞台正中にて正へ向き「実相の風 荒く吹いて」とヒラキ、左袖を頭に返し(唐冠を壊す恐れがあるので、狩衣の場合は背中に返すようにはしていますが。。)、「千里が外も雲晴れて」と上を面切り見廻し、「真如の月や出でぬらん」と上をサシて月を見る心で角へ出、左をカケて常座へ戻り、正面へ小廻リヒラキ。

普通の切能ならばここで「舞働」となり、キリも太鼓が入った大ノリの謡になるのですが、『鵜飼』では太鼓が打つのはここまでで、あとは大小鼓による平ノリのロンギとなります。『高砂』などにもある手法で、現代では太鼓が打ち止めてしまうと何となく寂しく感じるのですが、稽古の段階で考えてみると、おそらく舞働~大ノリのキリでは『船弁慶』や『土蜘蛛』のように強く、激しくなり過ぎてしまうので、それをあえて避けたのでしょう。キリの内容は法華経の賛美で、型も難しい足拍子が連続していて、これまた「速さ」よりも「大きさ」を表現する事が演者に求められているのだと思いますね。ちなみに『鵜飼』のもう一つの小書「真如之月」では舞が入るのですが、これも舞働ではなくドッシリとした「立廻り」です。「空ノ働」の小書といい、仏法礼賛、真理の番人としての「悪鬼」。ここを見誤ると『鵜飼』の能は間違ってしまうのでしょう。

「唯一乗の徳によりて、奈落に沈み果てて浮かみ難き悪人を」と飛び安座があり、「仏果を得ん事は」と右下を扇で一つ打って「この経の力ならずや」と左袖を返してワキへキメ、「これを見彼を聞く時は」と袖を払い扇を開いてユウケン扇を二つしながら立ち上がり、角へ行き左へ廻り、正中にてワキへ胸ザシ「仏果菩提に到るべし」とヒラキにてワキを見込み、「げに往来の利益こそ」と正へサシ(こういうところは面は切らずに)、角より常座へ至り小廻リ、「他を済くべき力なれ」と定型にて右ウケてトメ拍子を踏み、幕へ引きます。

「大きさ」を求められながら、作品自体は小品、それに後シテの分量がやや あっさりとし過ぎているかな? とは思いますが、面白い曲ではあると思います。興味深い小書もあるし、演技の幅を許す曲なのでしょう。

最後に、稽古していて思ったのは、『鵜飼』という曲はほとんどと言って良いほど脚本に破綻や齟齬がないと感心させられました。それどころか「欲望に負ける弱い人間」を徹底的に前シテで描いていて、そこ彼処にこの漁師の人間的な弱さを観客に印象づける仕組みが用意されている。とても脚本に統一感があります。そして後シテが超自然的な力でそれを救済するという脚本も、「神様を出してしまえば大団円」という宗教劇が持つ弱点に納まるのではなくて、人間の原罪のような、答えが出るはずもないテーマを描き出した前シテの物語を収集するのに、最も適した手段だったのかも知れないな、とも思えます。やはりこの作者は非凡ではあるまい。ぬえは「榎並の左衛門五郎の原作を世阿弥が改作」、という『申楽談儀』の記事には再検討の余地があると思います。作者は一人だと思いますね。

明日は ぬえ、この『鵜飼』を勤めて参ります。とっても楽しみにしていますー 明日天気になーれ(*^_^*)

『鵜飼』(その6)

2006-02-10 11:36:17 | 能楽
昨日無事に『鵜飼』の申合が終わり、あとは当日を待つのみとなりました。トリノ・オリンピックの開会式をつい、ライブで見ちゃってから研能会にお出でになる方。。やっぱりあるんだろうなあ。。当日は『箙』『西行桜』『鵜飼』の三番能なので。。夜更かしはあまりお勧めできませんー。

お装束は前シテが無地熨斗目に鉄色のようなちょっと変わった色合いの水衣、腰蓑、尉髪です。中啓は「鵜之段」でパラリと開かなければならないので、具合の良い尉扇を ぬえ所蔵品から持参し、尉髪は「鵜之段」での激しい動作で乱れないようにちょっと工夫するつもりです。後は黒地の袷狩衣、赤地半切、唐冠、修羅扇。赤頭と厚板は ぬえの所蔵品です。『鵜飼』のように安座をする曲では半切に良いものは使えないのですよねー。いっぺんでおしょうぞくが痛んじゃう。。今回も半切はあまり上等ではないものを拝借する事にしました。面は当日のお楽しみになりまする。
                                           ヘ(^.^)/

さて間狂言が終わるとワキの待謡になりますが、この待謡は珍しいものでおワキは読経しているのではなくて、河原の石に経文を書き付けて川に沈める、としいう文句です。経文と言いましたが本文では「妙なる法の御経を一石に一字書きつけて」となっているので、「南無妙法蓮華経」の七字を書きつけた事が印象づけられ、これまたおワキが日蓮である事が示唆されているのかも。

後シテは「早笛」で登場します。龍神などの登場でもよく演奏される早笛ですが、曲によりその「位」は区別されて演奏され、お囃子方はこういうところが苦心のしどころなのですが、『鵜飼』ではあまり速くは演奏しません。この曲では「俊敏さ」「力強さ」よりも「大きさ」「重厚さ」を表現するよう、各役でもそれぞれの師匠から稽古を受けていますし、各自が催しに向けて稽古をしていますので、申合ではその程度の摺り合わせをする作業が主な目的になります。昨日の申合では特に不具合なく進行しました。

後シテの役柄は作品研究や解説などを見ても「閻魔大王」とされていて、また観世流の謡本の前付けにもそのように書いてあるのですが、じつは本文にはそのような事は一言も書かれていないのです。「早笛はシッカリと演奏する」という実演上の約束も、おそらく後シテが「閻魔大王」だという理解から来ているのだと思いますが、ぬえはこの後シテは「閻魔」ではなく「冥官の鬼神」という程度であろうと思っています。地獄の獄卒ですな。「閻魔大王」自身が登場する、というよりは、その配下の冥府の官吏でしょう。

だからといって「位」は早めた方が良いというものでもなく、現在の位が「冥官」にも当てはまると思うので、お囃子方にどうこう、と意見を言ったワケではありません。これはまあ、この度のシテのお役を ぬえはそのつもりで勤めさせて頂く、という心構えのようなものでしょうか。型としては「重厚なところもあり、また場面により俊敏になるべきところもあり」というつもりで稽古していました。実際、後シテが登場して橋掛り一之松に止まると しばらくはその場で型があるのですが、文句と比べてかなり型が忙しいのです。どうも「冥府の長」という印象ではない、と思うのは ぬえばかりかしらん。

もっとも『鵜飼』には「空ノ働=むなのはたらき」という珍しい小書があって、この時は後シテは登場するとすぐ舞台の真ん中にどっかりと安座して、なんと! キリまでそのまま動かず、「これを見彼を聞く時は」と立ち上がって地謡のうちに退場してしまうのです(!!) まったく演技というものがない 恐るべき小書で、演者にとっては とんでもない至難な小書でしょう。ともあれ ぬえはこの小書こそ「閻魔大王」の役にふさわしいと思うので、あるいは先人もこの曲の後シテの役柄について疑問があって、「空ノ働」の小書を作る事によってふた通りの演じ方を残したのかも知れない、などと想像を巡らせました。

『鵜飼』(その5)

2006-02-08 13:28:27 | 能楽
ところで中入の「鵜之段」は仕舞にもなっている仕方どころですが、前シテがこのような仕方話をする、というのは能の中ではきわめて異例です。それはこの能がいわゆる「複式夢幻能」と呼ばれる体裁を取っていながら前シテが後シテの化身ではなく別の役柄であるためで、こういう脚本の能では後シテの役柄と直接結びつかない前シテの場面にもある種のクライマックスが必要で、中入までに演技が完結されなければならないからです。こういう能は意外に例が多くて、『朝長』『船弁慶』『昭君』『天鼓』『藤戸』などがそれに当たります。これらの能では前シテも舞を舞ったり、また深刻な内容の居グセや語りをするなど、必ず何らかの見せ場があります。

本曲の「鵜之段」では半開きにした扇を左手に持って、前へ投げるようにパラッと開く型から始まります。川面に鵜を放す心なのですが、むしろ投網を投げる、というつもりで ぬえはやっています。それから松明を振りかざしながら水底を見込み、シテ自身も水の中に入った心で両手で正面に魚を追い(師家では右手の松明だけで追うのが型ですが、今回は両手で追うつもり)、逃げまどい一カ所に集まった魚を扇ですくい上げ、「罪も報ひも後の世も」と右に廻って常座で正へヒラキ、「忘れ果てて面白や」と扇で膝を打ってワキを見込みます。ここから型は少し静まって、松明を振りながら正面へ出て再び水底を見込んで右左と面を使ってさらなる獲物を求めます。

。。すると、突然水底の魚影が見えなくなった事に気づき、訝しく思う心で「不思議やな」と思わず二足下がり、「篝火の燃えても」と松明を高く掲げてその火を見、「影の暗くなるは」とそのまま正面の下の方の川面を見、「思い出でたり」と右手を下ろして正面へ向き直し、「月になりぬる」と月がのぼったのを左上にぼんやりと見やり、「悲しさよ」と正面に向いて力なく下がりながら扇、松明の順に捨てて、双ジオリをします。「鵜舟の篝影消えて闇路に帰るこの身の名残惜しさを如何にせん」と両手を下ろして静かに右へ廻り、常座でワキへツメて、返シで右にトリ幕へ引きます。

「鵜之段」の冒頭の扇を投げるように開く型がすでに能の中では珍しい型なのですが、その後もちょっと他の能では例を見ないような定型に外れたリアルな型が連続します。ああ、そういえば書生時代にはじめて「鵜之段」の仕舞のお稽古を受けたときには まるっきり型が出来ずに師匠に怒られた事を思い出した。。

シテが中入すると、間狂言が再び登場して(能の冒頭でワキに 川崎の御堂に泊まる事を勧めたアイは、以後ずっと橋掛り一之松の狂言座で待機しています)ワキと問答し、ワキからこの川で禁漁を犯して殺された鵜使いの事を尋ねられて、その詳細を語ります。

間狂言でもっとも多い類型は、その能の事件が起こった土地の里人が「この土地に住んでいるが詳しい事は知らない。しかしお尋ねなのであらまし知っている事だけお話ししよう」と言って物語をワキに聞かせる、というものでしょう。『鵜飼』でも同じパターンを踏襲してはいるのですが、禁漁を犯した鵜使いが殺されたのは最近の事なので(ワキツレが二~三年前に生前の鵜使いに会っている)、間狂言の里人も実際に目前で体験した事件として物語をします。

ところで面白い事に、狂言の山本家では「この村で起こった事件」として客観的に語るのではなくて、村人が捕らえた鵜使いの処遇について話し合っている時に、この漁師を殺そう、と提案したのは自分だ、と かなり突っ込んだ表現の語りをなさるようです。語りの最後も「殺した事によってこの土地の法が守られたのだから良い事をしたと思っている」となっていて、凄惨なこの能の前場の雰囲気に合わせて作られています。

今回の梅若研能会では、この山本家の間狂言が聞かれます。ぬえも期待しているのですが、狂言のお家でも間狂言の語りには何通りかの「語り」がある事もあって、この内容ではない場合もありますが。。

『鵜飼』(その4)

2006-02-07 00:06:25 | 能楽
松明を前に置いて「語り」となります。この「語り」は能の中でも屈指の残酷な内容。殺生禁断の川で鵜を使って密漁を重ねたためこれを憎む村人に捕らえられ、簀巻きにされて殺される模様を語る、というもので「一殺多生の理に任せ、彼を殺せと言ひあへり」とか「その時両の手を合わせ、かかる殺生禁断の所とも知らず候。向後の事をこそ心得候べけれとて、手を合わせ嘆き悲しめども助くる人も波の底に」とか、ともかく悲惨な内容なのです。「殺す」という直接的な言葉は、謡曲に限らず珍しいのではなかろうか。「死ぬ」という言葉も謡曲に限らず古典文学でも少ないはずで「世を去る」「空しくなる」「みまかる」が普通でしょうし、「殺す」というのは、そのような意味の用例もずっと少ないだろうし、それでも「討つ」「害する」「誅する」「(命を)取る」「失ふ」でしょう。(『雷電』に「蹴殺す」の用例があるけれど、ほかにはあるかしらん)

この「語り」が終わると、シテはワキに向き「その鵜使いの亡者にて候」と本性を明かします。『求塚』にも似た手法がある「語り」で、第三者について語っているうちに、いつの間にかそれが自分の身の上の物語にすり替わっている、という、これも戯曲として優れた技法だと思います…それだけに「語り」は迫真でなければならないでしょうし、そうでなければこの「語り」の意味そのものがなくなってしまう、と思うので、意外に難しい「語り」なのではないか、と思います。

稽古をしながら考えたのですが、そういえばこの曲の脚本にはほとんど破綻がありません。いやそれどころか、シテの心情(~罪を意識しながら誘惑に抗えずにその罪を止める事ができない弱い人間の運命~)を表す同じ内容の語句が能の底流にいつも流れているようにあちこちに散りばめてあって、常に観客の印象から薄れないように工夫されているように思います。前シテの登場の「一セイ」の謡で「げにや世の中を憂しと思はば捨つべきに、その心さらに夏川に、鵜使ふ事の面白さに殺生をするはかなさよ」は形を変えながら、ワキとの問答で「若年よりこの業にて身命を助かり候程に、今さら止まっつべうもなく候」と応じる事にも繋がり、「語り」のあとでワキに本性を明かして罪障懺悔のために鵜飼の業を見せるはずの「鵜之段」でさえも「面白の有様や。底にも見ゆる篝火に驚く魚を追い廻し潜き上げ抄ひ上げ暇なく魚を食ふ時は罪も報ひも後の世も忘れ果てて面白や」と、前シテを通じて人間の業というテーマを見失う事なく描き切っている。『鵜飼』は、切能としてもどうしても小品に数えられてしまって、軽い曲、というとらえ方をされてしまいがちですが、どうしてどうして、テーマが明確だ、と言う点では類曲の『阿漕』よりもはるかにシッカリした作品ではなかろうか。

「語り」のあとの「鵜之段」でシテは中入しますが、前述のように我を忘れて殺生を楽しむ姿から一転して「不思議やな」と気を替えて「篝火の燃えても影の暗くなるは」と松明を見上げてから正面の下の水底を見下ろし、「思ひ出でたり」と正面を見やって「月になりぬる」と左上に月を見上げて「悲しさよ」と正面向き、タラタラと下がりながら扇・松明の順に捨てて双ジオリをします。

「篝火の燃えても影の暗くなる」とは、鵜飼が松明の光で鮎を寄せて捕る漁法だからで、月が出る事によって水面の全体が明るくなってしまって松明の光が水に映らなくなる事を言います。これに続いて「鵜舟の篝影消えて闇路に帰るこの身の名残惜しさを如何にせん 名残惜しさを如何にせん」と小さく右に廻って常座でワキに向き二足ツメて、それから橋掛りへ行って中入となります。この部分も前シテの登場の「一セイ」の文句「鵜舟にともす篝火の後の闇路を如何にせん」と呼応していて(篝火が消えて真の闇になったとき、それはシテの生命の灯火が消える時を暗示し、殺生の業によって地獄に堕ちる定めを示唆します)、テーマの重さと叙情的な中入が、見る者に運命というものを感じさせずにはいられないと思います。