東日本大震災から10年を経て、この311の日にも「能楽の心と癒やしプロジェクト」として石巻で慰霊と慰問の活動をして参りましたが、震災10年のこの時期に東京新聞にプロジェクトの活動をご紹介頂きました。
こちらの記事を書いた藤浪繁雄記者は、経緯は忘れましたが以前に被災地の気仙沼の仮設住宅での活動を取材頂いたことがあり、そのときには気仙沼でおいしい海鮮丼をごちそうになりました(←そんなことだけは覚えてる)。
じつは震災10年を経て、これまでの活動や被災地で経験したことなどをこのブログでご紹介しようと計画していましたが、このコロナ禍で能楽師は生活状況が激変、それにかける時間が取れなくなってきました。
が、今回の新聞報道のための取材で10年間の思いや経験について話し、それが新聞記事として公となったのを良い機会として、改めましてこのブログでもこの10年間を振り返ってみたいと思います。
このことを語るには、そもそも ぬえがなぜ被災地支援に赴くことになったのか、からの長いお話があります。
震災の2年前になりますか、文化庁の事業による学校への派遣公演で ぬえは石巻と気仙沼を訪れていました。このときのことは鮮明に覚えておりますが、宮城県の小中学生のお行儀のよいこと! 校内ですれ違うたびに児童生徒が挨拶を欠かさず、公演を終えてバスに乗り込む際には校庭のはるか遠くから手を振って感謝してくれる。。素晴らしいことだと思いますし、ぬえの記憶にもよく残りました。それだからこそ震災でこの街が大きな被害を受けたことは ぬえにとってかなり大きなショックでありました。
たまたま。。震災の3か月後に ぬえは自分の生徒さんの発表会を予定していまして、そこまでは ぬえも指導に時間が取られておりましたが、発表会の翌日からは長く時間を取れたので、6月下旬、単独で被災地支援に赴くことにしました。
こうした理由ですから現地に誰一人として友人も知人もなく、まったくの手探りで。。当時は避難所が設置されていましたが、そこで生鮮食品が不足しているとの報道もあり、とりあえず車に野菜をたくさん積み込んで、当てもないままに出発しました。
最初の宿泊だけはネットで予約が取れた塩釜市のホテルに決めてあったのでとりあえず投宿しましたが、さてその後はどうしたものか。。ホテルでネットで支援の方法を探りましたが、「東日本大震災」で検索して1万件以上のページがヒットしてかえって途方に暮れ。。そんな馬鹿なことをしていましたね。
今でこそ石巻も気仙沼もカーナビがなくても行きつけますが、当時はまったく土地勘もなく、そうそう、この最初の活動のために初めてカーナビを買ったのでしたっけ。それも実際には道路が寸断されていたり通行止めが各所にあって、あまりカーナビも役に立たない感じではありました。
それでも塩釜から石巻までが近いことを知って、翌日はとりあえず石巻に向かうことにしました。途中、誰も知人がないため、学校公演で訪れた石巻小学校に電話をして何かお役に立てないでしょうか? と伺いましたが、「?? 。。それはどうも。。 でも、もう子どもたちも落ち着いていますので。。」とかなり怪しまれてしまいました。そりゃそうだ。
そこで石巻に到着しましたが、さて車に載せた野菜をどうするのか。。
当時は在宅被災者さんと言って、住宅が小規模の被害で済んだ方は避難所に行かず住宅で生活をしている方がありました。避難所と比べてプライバシーが保たれる利点はありましたが、反面、避難所に届けられた物資は受け取ることができず、困っているとの報道もありました。それではこの野菜を1軒ずつ訪ねて、このお宅にはどなたか住んでおられますか? 野菜はお入り用ではありませんか? と聞いてまわるのか。。??
そんなとき検索で知ったのだったかな、経緯は忘れましたが住民ボランティアさん(被災地域の住民によって立ち上げられた支援団体)である「明友館」に向かい、ようやく野菜を引き取って頂くことができました。
こちらの記事を書いた藤浪繁雄記者は、経緯は忘れましたが以前に被災地の気仙沼の仮設住宅での活動を取材頂いたことがあり、そのときには気仙沼でおいしい海鮮丼をごちそうになりました(←そんなことだけは覚えてる)。
じつは震災10年を経て、これまでの活動や被災地で経験したことなどをこのブログでご紹介しようと計画していましたが、このコロナ禍で能楽師は生活状況が激変、それにかける時間が取れなくなってきました。
が、今回の新聞報道のための取材で10年間の思いや経験について話し、それが新聞記事として公となったのを良い機会として、改めましてこのブログでもこの10年間を振り返ってみたいと思います。
このことを語るには、そもそも ぬえがなぜ被災地支援に赴くことになったのか、からの長いお話があります。
震災の2年前になりますか、文化庁の事業による学校への派遣公演で ぬえは石巻と気仙沼を訪れていました。このときのことは鮮明に覚えておりますが、宮城県の小中学生のお行儀のよいこと! 校内ですれ違うたびに児童生徒が挨拶を欠かさず、公演を終えてバスに乗り込む際には校庭のはるか遠くから手を振って感謝してくれる。。素晴らしいことだと思いますし、ぬえの記憶にもよく残りました。それだからこそ震災でこの街が大きな被害を受けたことは ぬえにとってかなり大きなショックでありました。
たまたま。。震災の3か月後に ぬえは自分の生徒さんの発表会を予定していまして、そこまでは ぬえも指導に時間が取られておりましたが、発表会の翌日からは長く時間を取れたので、6月下旬、単独で被災地支援に赴くことにしました。
こうした理由ですから現地に誰一人として友人も知人もなく、まったくの手探りで。。当時は避難所が設置されていましたが、そこで生鮮食品が不足しているとの報道もあり、とりあえず車に野菜をたくさん積み込んで、当てもないままに出発しました。
最初の宿泊だけはネットで予約が取れた塩釜市のホテルに決めてあったのでとりあえず投宿しましたが、さてその後はどうしたものか。。ホテルでネットで支援の方法を探りましたが、「東日本大震災」で検索して1万件以上のページがヒットしてかえって途方に暮れ。。そんな馬鹿なことをしていましたね。
今でこそ石巻も気仙沼もカーナビがなくても行きつけますが、当時はまったく土地勘もなく、そうそう、この最初の活動のために初めてカーナビを買ったのでしたっけ。それも実際には道路が寸断されていたり通行止めが各所にあって、あまりカーナビも役に立たない感じではありました。
それでも塩釜から石巻までが近いことを知って、翌日はとりあえず石巻に向かうことにしました。途中、誰も知人がないため、学校公演で訪れた石巻小学校に電話をして何かお役に立てないでしょうか? と伺いましたが、「?? 。。それはどうも。。 でも、もう子どもたちも落ち着いていますので。。」とかなり怪しまれてしまいました。そりゃそうだ。
そこで石巻に到着しましたが、さて車に載せた野菜をどうするのか。。
当時は在宅被災者さんと言って、住宅が小規模の被害で済んだ方は避難所に行かず住宅で生活をしている方がありました。避難所と比べてプライバシーが保たれる利点はありましたが、反面、避難所に届けられた物資は受け取ることができず、困っているとの報道もありました。それではこの野菜を1軒ずつ訪ねて、このお宅にはどなたか住んでおられますか? 野菜はお入り用ではありませんか? と聞いてまわるのか。。??
そんなとき検索で知ったのだったかな、経緯は忘れましたが住民ボランティアさん(被災地域の住民によって立ち上げられた支援団体)である「明友館」に向かい、ようやく野菜を引き取って頂くことができました。
(続く)