ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

決算報告書

2012-05-28 12:57:08 | 能楽の心と癒しプロジェクト
能楽の心と癒しプロジェクト
宮城県石巻市・東松島市訪問活動(2012年3月11日~12日)
亀戸フェスティバル公演「亀戸の夜能」(3月25日)


 〔決算報告〕

 【収入の部】
     前回活動繰越金(ボラ扱い)   109,770円
     銀行口座募金(ボラ扱い)     10,000円        収入計  119,770円
                                  内訳:ボラ 119,770円 ギエ 0円
  〔亀戸の夜能の分〕
     募金                  65,000円        収入計  184,770円
                                  内訳:ボラ 152,270円 ギエ 32,500円

 【支出の部】
  〈活動費〉
    ◎交通費   22,220円
     (ガソリン代             15,820円)
     (寺井・小寺高速バス)       6,400円

    ◎雑 費    7,890円
     (DVDディスク等          5,190円)
     (プログラム印刷費         2,700円)       支出計   30,110円

 【収支差引残額】〔亀戸の夜能終了時点〕              残額    154,660円
                                  内訳:ボラ 122,160円 ギエ 32,500円


※注※
・例によって宿泊はすべて現地関係者ご厚意により提供されたため支出なし。

・こちらも恒例であるが、食費については旅行がなくても掛かる費用であること、遊興との誤解を招くこと、酒食 の区別がつきにくいことから経費として支出しなかった。

・収支差額は今後の活動費用として活用し、支出明細を明らかにする。

・亀戸の夜能チャリティ公演の際に募金箱に寄せられた募金の総額は65,000円である。ボラかギエか募金者の意向は判断できないため、2月パレットおおさきでの前例に倣いボラとギエに等分に配分することとした。

・ただし、3月11日の震災から1年目の節目を迎えて、ギエを提供支援するべき現地で活動するボランティア団体は変化しつつある。プロジェクトとして活動を支援してきた「チーム神戸」は石巻の常駐から訪問支援活動へと活動形態を変え、明友館も支援物資を蓄える倉庫を持つ拠点から仮設住宅へと活動の場を縮小した。引き続き新たな活動団体を模索してはいるが、すでにギエは一定の役目を終えた段階にあると考えることもできる。プロジェクトの活動にとってもボラとギエを分配して取り扱うのは負担でもあり、今後は募金も減少してゆき、活動が困難になってゆく事が予想されるので、ギエの募集を取りやめ、プロジェクトの活動資金として募集を呼び掛けるよう検討中である。

                                           以上

  平成24年5月25日


                       「能楽の心と癒しプロジェクト」
                        代表   八田 達弥
                        (住所)
                        (電話)




活動報告書(3/11~12)

2012-05-27 10:28:24 | 能楽の心と癒しプロジェクト
遅くなりました~。何事も後手にまわってしまって。。
3月の活動の報告書でございます~
関係各位に厚く御礼申し上げます! m(__)m

能楽の心と癒しプロジェクト
宮城県訪問活動(2012年3月11日~12日)
亀戸フェスティバル公演(3月25日)


 〔活動報告書〕

【趣旨】
 東日本大震災被災地支援を目指す在京能楽師有志「能楽の心と癒しプロジェクト」の4名(※注1)は、能楽の持つ邪気退散、寿福招来の精神を被災地に伝えるべく、すでに2011年8月15日、9月26日~30日、12月24日~2012年1月1日、2月10日~13日の4度に渡り岩手県釜石市、宮城県石巻市、気仙沼市および大崎市にて能楽を披露する活動を行って参りましたが、このたびメンバーの八田・寺井とゲスト出演の太鼓方・小寺真佐人氏は、記録写真撮影のための写真家1名(※注2)とともに去る3月11日と翌12日の2日間に渡り宮城県・石巻市および東松島市の計3カ所にて能楽の上演を行いました(※注3)。とくに今回は3月11日の東日本大震災から1年目のその日に石巻市で行われた追悼集会(民間の集会)にて上演を挙行できたこと、はじめて東松島市で公演し、しかもそれが市民との共催の形で実現したこと、初めて市民の協力によって全行程個人宅に泊めて頂いたこと、仮設住宅2カ所の集会所に児童用の玩具など支援物資を届けたことなど、かつてない成果を数々挙げることができました。

※注1 プロジェクトメンバーは八田達弥(シテ方・観世流)、寺井宏明(笛方・森田流)、大蔵千太郎(狂言方・大蔵流)、小梶直人(同)の4名。ただしスケジュールの都合により狂言方2名は今回は欠席。
※注2 写真家Y氏(匿名を希望しております)はほぼ毎回プロジェクトの活動に同行してくださり、活動の記録をしてくださっております。
※注3 今回の上演場所は①石巻市・湊小学校体育館で執り行われた追悼集会②東松島市・根古公民館(根古仮設住宅の集会所として機能)③東松島市・矢本運動公園仮設住宅・東集会所。

【活動記録】
 3月9日(金)
 移動日。八田のみ先発して石巻に入る。宿泊は石巻商工会の佐藤洋一氏宅。佐藤氏は2月に活動を行った石巻の仮設商店街「立町復興ふれあい商店街」での公演に尽力して頂いたが、奥様は観光協会に奉職され、昨年9月の活動からお世話になっており、我々とはすでに旧知の間柄。今回の活動では3.11の追悼集会への参加が大きな目標となっていたが、市内各地でボランティア団体等により追悼集会が開かれ、全国からこの日にボランティア経験者が集合するのは必至。それに伴って宿泊施設は現地常駐のボランティア団体の事務所を含めて混雑を極めるのは自明で、当プロジェクトにとっても宿泊の場所を確保するのが事前の最大の問題だった。
そのため旧知の佐藤氏に相談したところ快諾を頂いたのは幸運だった。この場を借りて謝辞を申し上げる。

 3月10日(土)
公演準備日。まずは静岡県・伊豆の国市で八田が長年指導を続けている「子ども創作能」に出演している児童の保護者より寄せられた支援物資を東松島市の仮設住宅集会所に搬入。

 昨年末頃より活動を続けている仮設住宅であるが、集会所のソフト面の設備の貧弱さにはずっと危惧を抱いていた。とくに隣家に音が響く仮設住宅であってみれば集会所は幼児・低学年の児童が母親などと過ごす重要な生活スペースであるにも関わらず玩具・絵本さえ備え付けられていない現状は憂慮された。そこで伊豆の国市の母親たちに呼び掛けて支援物資を募ったところ、ワゴン車に満載されるほどの絵本・玩具類が寄せられた。予想を超える物資を支援することは当プロジェクトにとっても初の経験であり、その善意に心より御礼を申し上げたい。物資の受け入れについては、石巻に比べて支援が薄いと言われ、今回初めて公演を行う東松島市が適当と考え、東松島生活復興支援センターに相談したところ、鷹木の森・根古のふたつの仮設住宅をご紹介頂き、この日無事に搬入を終えることができた。東松島での活動はこの生活復興支援センターの尽力により実現したところが非常に大きく、こちらにも御礼を申し上げたい。

午後より湊小学校体育館に赴き、昨年6月以来ずっと活動に協力頂いているボランティア団体「チーム神戸」指揮のもと、翌日に開催される「石巻3.11市民追悼の会」のための会場設営のお手伝い。

 3月11日(日)
早朝、前夜に東京を夜行バスで出発した寺井・小寺氏を石巻駅前でピックアップ。佐藤氏宅で朝食をご馳走になり、石巻市の被災地域の視察をしてから湊小学校へ。「石巻3.11市民追悼の会」は市民主催の民間運営の追悼集会である。かつて湊小学校に集った住民さんの同窓会という側面もあり、また各家庭で法事なども行われるだろう、との配慮から、朝10時~夕方17時にわたる長時間の追悼集会が計画された。朝のミーティングでこの1年湊小学校でそれぞれの活動を続けてきたボランティア団体が一堂に顔を合わせた。「チーム中津川」「大恩寺」「曹洞宗庄内青年会」「在日フランス人協会」。。名前を聞くけれども初めて顔を見るボランティア団体も多く、それぞれがこの日の追悼集会の運営に携わる活動。。駐車場誘導・炊き出し・写真展示など作業を行った。

当プロジェクトに対しては能楽の上演が使命として与えられた。演目の選曲は自由で、また上演時刻も住民さんの集まり具合を見て適宜上演して良いとのこと。この日は法要、2:46の黙祷などの行事の合間を縫って能「葛城」「獅子」「羽衣」の3番を演じた。

集会終了後、佐藤氏宅に宿泊。八田のみは東松島の木村健人氏宅に投宿。

 3月12日(月) 
午前、東松島市の根古地区センターにて「能楽の心と癒やしをあなたに」として能「羽衣」の一部や囃子・装束の着付け体験。また東松島市在住の能面作家・木村健人氏の展示会と初めてのコラボ公演。プロジェクトとしても初めて市民と共催の催し。対象は隣接する根古運動場応急仮設住宅の住民さんであったが、近隣の在宅避難者も多数ご来場頂き大変盛り上がった催しとなった。

午後、同じく東松島市の矢本運動公園応急仮設住宅・東集会所にて「能楽の心と癒やしをあなたに」として能「菊慈童」の一部を上演。ここ矢本は木村健人氏の自宅に近いため、木村氏に「葵上」の装束を着付け、氏が打った「般若」面を本人に掛けてみる。将来、上達した暁には氏の打った面を八田が掛けて、東松島市で「葵上」を上演したい、という希望を持っている。

終演後、夕方に東松島市を出発して帰京。

【収入・支出】
  プロジェクトの活動はすべて募金によって行われております。募金にはプロジェクトのボランティア活動資金として使わせて頂くもの(以下「ボラ」)と、被災地への直接支援を目的にプロジェクトに寄せられた義援金(以下「ギエ」)に分けられます。これらのうち「ギエ」につきましては、震災から1年を経て、地元で活動するボランティア団体が撤退、あるいは活動の形態が変わってくることが予測され、2月の訪問の時点で「ギエ」の全額を「チーム神戸」「明友館」の2団体に寄付することで精算することで一旦解消することとしました。今後も「ギエ」と目的を限定しての寄付は受け付けますが、これはプロジェクトとして支援するのに然るべき団体。。被災地に拠点を置き、直接被災者の支援活動に従事することを目的とした、非営利で公明正大な活動が長期に渡って期待できる、信頼すべき団体を見つけるまで保留させて頂くことと致します。

  これにより今回の活動資金は前回活動繰越金(109,770円=全額ボラ)および銀行口座への新規の募金となります。銀行口座への募金はボラ扱いとみなされる(10,000円)でありましたので、これらの総額 119,770円となりました。

  頂いた募金の使途につきましては別紙「決算報告書」にて改めてその内訳を明示致しますが、今回の活動終了時で残額 89,660円(内訳:ボラ 89,660円 ギエ 0円)となっております。これらは今回の活動繰越金として次回活動の資金として有効に使わせて頂きます。関係者各位に対し、厚く御礼申し上げます。

  これに対してプロジェクトの訪問公演の支出につきましては節約を旨としております。交通費につきましては今回の活動は石巻市災害ボランティアセンターから発給される「災害派遣等従事車両証明書」の認定を受けることで高速道路料金も免除されましたが、3月末日をもってこの制度は瓦礫の第一次撤去作業(被災現場からの瓦礫清掃作業)のみを対象とすることに限定され、我々のプロジェクトの活動はその要件を満たさないこととなりました。今後の活動には困難が予想されております。

  宿泊につきましても今回は関係者のご厚意により石巻市および東松島市の個人宅に無料で寄宿させて頂きました。また参加者のすべての食費はそれぞれ個人的に支出する方針を堅持しております。

  これにより今回も支出の内訳は公演プログラムの印刷費、記録用ビデオテープ、などの事務雑費のほかはもっぱら交通費(高速バス代+ガソリン代)に限られることとなり、今回の活動費の支出合計は30,110円となりました。

  これらの結果、収支差額として89,660円の残金(全額「ボラ」扱い)が出ました。これは次回の訪問の活動資金として活用させて頂きます。今後の活動予定としてはゴールデンウィーク中に気仙沼および大島での活動、6月に石巻を中心に活動を続ける予定ですが、今後はボランティアセンターの認定による「災害派遣等従事車両証明書」によって免除されていた高速道路通行料金も支出しなければならず、また宿泊についてもボランティア団体の撤退により有料の施設を利用せざるを得ない状況が見込まれ、今後の活動には資金的に困難な状況が予測されます。引き続きまして活動支援をお願い申し上げる次第です。

【成果と感想・今後の展望】
  プロジェクトとして5回目となる今回の支援活動では、まずもって3.11の追悼集会に出席。。のみならず出演することができたのが望外の幸でした。能楽師の被災地支援の活動として、避難所や仮設住宅への訪問という、直接被災者に接し、傾聴する活動を続けてきたために関係者の信頼を得られた、ひとつの成果と考えております。我々の活動に深い理解を頂いた関係者各位。。わけても「チーム神戸」の金田真須美さん、石巻商工会の佐藤洋一さん、「明友館」の千葉恵弘さんには言葉で言い表せないほど感謝の念を持っております。

  また今回は、はじめて東松島市の仮設住宅で活動を行うことができました。2月の石巻・立町復興ふれあい商店街での公演にお出で頂いた能面作家・木村健人氏の言葉をキッカケに、東松島市生活復興支援センターの協力を頂き、わずか1ヶ月で公演の実現に漕ぎつけたことは驚異的です。現地の活動では大変盛り上がりも見せ、また木村氏の能面展との共催という活動形態は、初めて市民との合同の活動として、我々の活動のひとつの一里塚的な意味合いを持ちます。上演をご覧頂くだけではなく、住民さんに本当に語りかける事が出来る市民の方との協力は今後も重視していきたいと考えております。

  また今回は、静岡県・伊豆の国市で長年八田が指導を続けている「子ども創作能」の参加児童の保護者から大量の支援物資をお預かりし、東松島市の仮設住宅2カ所の集会所にお届けすることができました。昨年末以来、仮設住宅の集会所のソフト面の備品の不備。。わけても子どもが遊ぶ玩具や絵本などの物資の欠乏に心を痛めておりましたが、これを伊豆の国市の児童の保護者さんに相談したところ、思わずも大量のご支援を頂きました。東松島市生活復興支援センターのご尽力もあって2カ所の仮設住宅より受け入れを頂き、大変喜んで頂けました。被災地に行けなくても善意が見事に伝えられたと思います。関係各位に厚く御礼申し上げます。

  しかしながら、当地の現状は必ずしも楽観を許さないのは前回と同じ感想で、むしろ状況はより悪くなっているように思う実感もいまだ好転していません。3月11日を過ぎて我々の活動も変化を余儀なくされる状況の中、息の長い支援を続けていけるよう努力を重ねてゆく所存です。どうぞ今後も変わらぬお力添えを賜りますよう伏してお願い申し上げます。

【亀戸の夜能について】
3月の石巻・東松島訪問活動のあと、3月25日(日)に東京・亀戸でチャリティ公演を行いました。

これは当地で開催されている「亀戸フェスティバル」の中のイベントのひとつとしてプロジェクト同人の寺井宏明氏を通じてまとめられた催しです。町のお祭り、という意味が強いフェスティバルではありますが、本年は亀戸地域から復興に向けて何ができるのかを問う講演会「東日本大震災から1年 亀戸からのメッセージ」や展示「東日本大震災を振り返って」などの企画も行われ、全体として震災に対する視点を持つイベントでした。

当プロジェクトとしては「亀戸の夜能」と題して亀戸香取神社の神楽殿にて狂言『棒縛り』(シテ:小梶直人)、能『羽衣・和合之舞』を上演しました。主催者より多少の予算も頂いたため、プロジェクト同人のほか、梅若紀長(仕舞:『融』を上演)、中村裕、古室知也(以上シテ方)、野口能弘(ワキ方)、幸正昭(小鼓方)、安福光雄(大鼓方)、吉谷潔(太鼓方)、吉田信海(狂言方)(敬称略)の来演を頂きました(プロジェクト同人は無給、ゲストの能楽師はプロジェクトの主旨にご賛同頂きお車代程度の出演料でご出演頂きました)。能の地謡の人数やワキツレを削減したりと、必ずしも完全な形の上演ではありませんでしたが、常に少人数で仮設住宅などを廻っている我々にとって、プロジェクトとして三役のすべてを揃えて被災地支援のために能を上演したのはこれが初めてのことであり、感慨深い催しとなりました。

当日はプロジェクトの活動に毎度ボランティア参加で同行してくださる能楽写真家Y氏や、プロジェクト同人が撮影した被災地の状況やプロジェクトの活動を示す写真を展示しましたが、開演前からお客さまからには関心を持ってご覧頂き、盛んにご質問等も寄せられました。プロジェクトの活動をご理解頂ける貴重な機会となったと思います。

なおこの催しは主催者のご厚意によりチャリティ公演とさせて頂き、募金箱を設置させて頂きました。我々の活動にご賛同頂いたお客さまより、総額65,000円にのぼるご寄付を寄せて頂きました。大変ありがたいこととプロジェクト一同、大変感謝しておりますこの募金は「ボラ」「ギエ」のふたつの使途に半分づつに分けて(それぞれ32,500円)有効に活用させて頂きます。

この結果、プロジェクトの活動資金は上記3月の活動の残金と合わせて154,660円(内訳:ボラ=122,126円、ギエ32,500円)となりました事を併せてご報告申し上げます。

平成24年5月25日



                      「能楽の心と癒しプロジェクト」
                       代表   八田 達弥
                      (住所)
                      (電話)

気仙沼弾丸ツアー(その8=ようやく帰れそう)

2012-05-22 02:42:37 | 能楽の心と癒しプロジェクト
今日は金環日食ということで盛り上がっていましたね~。ぬえもしっかり見ましたよ~。でもその後午前中は稽古をして、午後からずうっと6月に石巻を訪問するための交渉をしていました。大問題が起き、それが解決し。。相変わらずですがお風呂も二日にいっぺんしか入れないような日々が続いています。

さてご報告の続きですが、大島から船に乗って気仙沼市街に帰って来まして、ここで「海をつくる会」の帰宅メンバーとはお別れ。いまだに陸に打ち上げられたまま放置されている巨大な船を見てからタクシーでお帰りとのこと。

ぬえは。。装束のトランクと、もうひとつ、ワカメと昆布が詰まった大きな袋を提げて、一昨日お世話になったネットワークオレンジさんの事務所に挨拶に行きました。ちょうどこちらではピアノとボーカルのコンサートが始まったところでした。被災地にピアノを贈るプロジェクトを展開されているピアニストの方が演奏されていましたが、なんとネットワークオレンジさんの事務所には寄贈されたグランドピアノが鎮座していました! ど。どうやって中に入れたんだろう。

ぬえはご挨拶だけを済ませて気仙沼駅へ。この頃にはワカメと昆布の袋が指に喰い込んで、もう大変でした。指の神経が本当に切れるんじゃないかと思った。。戴き物はありがたい限りですが、ワカメと昆布で指が死ぬとはだ~~れが思ったことでせう。

駅ではやはり電車は止まったままで、再開は未定とのこと。駅の窓口には数人が並んで駅員さんと交渉中でした。これはちょっとヤバいかも。やっと ぬえの順番がまわってきましたが、代行バスはなく、代わりに一ノ関や仙台まで行く路線バスを利用してください、とのこと。乗車券に「不乗」というスタンプを捺してもらって、急いでバス停に行ってみました。ゆ。。指が。。

ああ。。ここでも長蛇の列。。一ノ関までどれくらい掛かるかわかりませんが、1時間では済まないでしょう。立ったままでバスに長時間揺られることを覚悟。。いや、乗れない場合はどうする? ワカメや昆布の袋はどのような運命に。。? …が、バスが到着してみると、意外やみなさん座ることができました。それにしても装束のトランクが車内で邪魔なこと。。やっぱり ぬえのような活動だと鉄路での移動は無理だね~。。つくづく思い知りました。。

約90分掛かって一ノ関駅に到着。ここは ぬえが東北支援に来るきっかけとなった学校公演でも投宿した町です。公演の合間を縫って中尊寺を見に行ったり。。平和で楽しい旅でした。その時とはまったく違う思いでここにまた降り立つとは思いも寄らなかった。なんといっても指が痛い。(__;) 駅の売店でキャスターつきの安物のバッグを買って、ワカメと昆布の袋をここに入れて。。ようやくひと心地つきました。。次は「レイちゃん2」で来よう。。

そうそう、じつはこの春に愛車の「レイちゃん」は「レイちゃん2」に替わりました。じつは3月に伊豆の子ども能の保護者のご家庭からの絵本やおもちゃの支援物資を東松島の仮設住宅に運んだ際に、そのあまりの分量にレイちゃんが悲鳴を上げまして。。なんせ、もう装束のほかにこの物資を積んだら、ぬえ一人しか乗れない。。たまたまこの時は ぬえ一人が先発隊だったもので、これでもなんとか東北訪問はできたのですが、もう運転席に乗ったらそのまま身動きできないほど。。後方視界なんてまったくありませんでした。あ、悲鳴を上げたのは ぬえか。そんなわけで、ワゴン車だった「レイちゃん」はミニバンの「レイちゃん2」にバトンタッチしたのでした~

ともあれ一ノ関から新幹線でようやく東京に帰りました。車では考えられないくらい、あっという間に到着。弾丸ツアーだけあって、翌日は舞台だったのですが、これに臨むためには十分な余裕をもっての帰宅です。が、やっぱり運転もせずに座って帰るというのも、楽チンのようで、なんだかどうにも居心地が悪い。。偉そうに。。

それにしても気仙沼大島。。なんて美しい島でしょう。8月に再訪する話は大島から帰る際にも相談しましたし、ぬえの後に残った笛のTさんも話を進めてくれました。いろいろ不確定な要素もあるようですが、実現すれば素晴らしいものが出来ると思います。美しい島に美しい人々。ぬえが島を離れるとき、姿が見えなくなるまで手を振ってくださった菅原さんの奥様の姿が今も目に焼き付いています。

                                     (この項 了)

気仙沼弾丸ツアー(その7=行きはよいよい帰りは。。)

2012-05-17 02:10:31 | 能楽の心と癒しプロジェクト
牡蠣を美味しく頂き、いよいよ ぬえは東京に帰る時刻が近づいてきました。さあて出発するか、というそこに思わぬ連絡が。。「JR大船渡線が昨夜の大雨の影響で止まっています」(゜_゜;) え?

このとき海底清掃ボランティアの中にもスケジュールの都合で横浜に帰る人が2人ほどありまして、すでに対応策がまとまっていました。早っ。でもその案はフェリーで気仙沼市街まで戻ったら、そこから一ノ関までタクシーを利用する、というもの。ん~。。貧乏ボランティアの ぬえにはちと厳しいかも。ってんで、ぬえは大船渡線の代行バスを期待して、気仙沼駅に行ってみることにしました。

とりあえずボランティアさんの車に便乗させて頂いてフェリー乗り場まで。。なんですが、昨日地元の方に頂いたワカメと昆布がとんでもない分量で、もう荷物はとても一人で運ぶことはできなくなっていました。フェリー乗り場に着くとすぐに乗船券を買い、それから荷物の一つを宅配便で自宅に送るためと、それから滞在中お世話になりっぱなしだった菅原さんにご挨拶をするために乗り場前のコンビニ「グリーンアイランドおおしま」に行きました。菅原さんはご一家。。奥様やお嬢さん、そのご主人もおられました。この若夫婦さんは昨日の公演にもいらっしゃっていましたが菅原さんのお嬢さんだったんですね! なんとこのお二人はずっと日舞のお稽古をしておられるそうでした。

そうこうしているうちに、先ほど別れたばかりのボランティアの面々もこのコンビニに到着。なんでも海底清掃が中止になった代わりの活動として、亀山に上って砂利を土嚢袋に詰めるのだそうです。ぬえにはよく分かりませんが、牡蠣の養殖に使う筏の錘? になるらしい。もとより陸上作業を想定していなかったダイバーのボランティアさんですから、作業の前にいろいろと用具の買い出しにいらしたようです。

「海をつくる会」の坂本リーダーと菅原さん、ぬえらも加わって、なんとなくそれぞれの活動の報告会と今後の打合せのようになりました。そんな中で、この8月に大島のこの「浦の浜」で花火大会が行われる、という話が出ました。しかもその期日が ぬえたちが8月に活動を予定している日程の中にうまくはまっている。。これは能の公演を組み込んで頂かない手はありませぬ。ああ、いやいや、この少し前に ぬえは菅原さんの奥様から「今度は夏に来てくださいねぇ。8月ならウニがどっさり獲れますからご馳走できますのにねぇ」と言われたから花火大会に公演の受け入れをお願いしたワケではありませぬ。決して! 。。でも考えてみると、打ち上げられた花火って。。トゲトゲのウニに似てるよねえ。(=^0^=)

そうこうしているうちに乗船時刻が迫ってきました。荷物の一つを宅配便で送る手続きを済ませて、でも装束は手で運ぶことにして。それと、生鮮食料品である、頂き物のワカメと昆布も手で運ぶのですが、こうしてくると だんだんと頂き物の重量が身体にこたえてきます。。

そこに! 菅原さんから駄目押しのひと声が! 「昨日の昆布の茎ね。ぜひこれ、持って帰ってくださいな!」と追加の頂き物をしてしまいました。

大島から気仙沼市街までの船。。行きと違って天気にも恵まれ、船中から見る気仙沼港の有様は、やはり陸上から見るよりも遙かに、復興に向けて厳しい状態が続いていることを伺わせます。と思ったそのとき、船もぐっと速度を緩めました。どうやら海上の漂流物を避けて航行するために慎重に航路を探っているようです。見れば、なんと数十メートルの長さの帯状になって、昨日の風雨のために海に落ちたのであろう流木やらが固まって浮いていました。

。。これを見た ぬえには、去年から今年にかけて気仙沼で聞いた恐ろしい話が蘇ってきました。気仙沼では3.11の日、地震のあとに津波の来襲を予期した漁師さんたちは、港に停泊していた船を海上に向けて走らせたそうです。津波の際は陸上よりも海上の方が危険が少ないのだそうで、そのために船を出したのですが。。それはそれは恐ろしい事態に陥ったのだそうです。津波の影響でしょうか、海上には大きな潮の流れができて、船は翻弄されたのだそう。海上の瓦礫に火がついて一面の火事の中、一晩ずっと潮の流れに乗って気仙沼湾を何周もめぐらされた船。。また仲間の漁船と出航して、うまく沖に出たと思って振り返った漁師さんが、いつの間にか自分の船一艘だけになってしまっていると気づいた話。。海上に出来た大きな渦に飲み込まれる漁船を目の当たりにした話。。

。。こんな現実離れした話が、1年前にここで本当に起こったのです。。

気仙沼弾丸ツアー(その6=海底清掃ボランティアさんの前での上演)

2012-05-14 01:24:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
「海をつくる会」のミーティングで、結局この日は海底清掃は中止となりました。波も高く、水も濁っていましたから、これは仕方がない。事故だけは避けなければなりませんですしね。

そこで、というんで、この日の朝の、ぬえにとっては今回の活動の最終公演は宿泊している「椿荘」さんの大広間で、「海をつくる会「ともに浜をつくる会」のボランティアの皆様を前に上演することになりました。本来の予定では、現地の漁協さんなどの協力を頂いて、海底清掃を行う浜で舞う予定だったのです。海底清掃のボランティアさんの無事故祈願を兼ねて、また浜の復興をも願って。そうして、能の上演が済んだところで一斉に海底清掃が開始される、という段取り。あ~、残念。ぬえは昨年9月に南三陸の泊浜で行った「堤防ライブ」の再演を期待していました。

こゆの。



この時はお客さまがいない、ぬえと笛のTさんだけで、鎮魂の意味を込めて堤防で舞ったのですが、いや、今回はそれどころか、堤防の上で装束着けて舞うつもりでいた ぬえ。(^◇^;) 舞い終えた ぬえは装束を脱いで、ウェットスーツに身を包んだボランティアのダイバーたちに「行ってらっしゃ~~い」と浜で手を振る、という、なんだかスゴい光景が繰り広げられるはずでした。

いや待てよ。。?そいえば、東京でのスケジュールのために弾丸ツアーとなった ぬえと違って、Tさんはこのあと2日間も大島に留まることになっていまして。もとよりTさんは「海をつくる会」のメンバーで、海底清掃のボランティア・ダイバー要員でもあるわけで。。ということは。。? もし晴れていたらTさんは紋付の下にウェットスーツを着込んでいて? 能が終わったらサッと紋付を脱ぎ捨てて? そのまま波の底に沈みけり? 立つ波の下に入りにけり? あ~『海士』の世界がまさに眼前に?(O.O;)(o。o;)

ま、冗談はさて措き。(;^_^A

「海をつくる会」のメンバーの一部のみなさんとは去年の暮れに釜石でご一緒し、その折には被災した旅館「宝来館」のプレ・オープニング・イベントで ぬえは『羽衣』を上演し、またその翌日に釜石の仮設商店街「鵜(う~の)!はまなす商店街」で『菊慈童』を上演したのですが、今回は「椿荘」の大広間で『菊慈童』を上演しました。釜石の時よりも大勢のメンバーが海底清掃に駆けつけられましたので、能をご覧になるのが初めての方も多く、興味を持ってご覧頂けたと思います。

さて上演も終わり装束を片づけていると、思わぬ連絡がありました。「いま旅館の外で牡蠣を焼いています。みなさんお出でですからお早くどうぞ~」ええ~~っ牡蠣ですか!

そういえば1年前、はじめて被災地を訪れた ぬえは、被害の程度が比較的少なく、すでに復興を始めていて観光客も戻り始めていた松島で、屋台で売っていた焼き牡蠣を、その美味しさに衝撃を受けながら食べたなあ。急いで片づけを終えて ぬえも行ってみると、すでにボランティアのみなさん、牡蠣を食べビールを飲みながら談笑しておられます。ああ、間に合った。早速に ぬえも頂きましたが、いや、その牡蠣の大きくて美味しいこと! 東北って驚くことばかり。

どうやら、この日海底清掃ができなかった代わりにボランティアさんたちが牡蠣の養殖に使う設備の補修をするお手伝いをすることになり、漁協の関係者の方がわざわざそのお礼のために牡蠣を持って来られたらしいです。
あ、すいませ~ん、ぬえはそのお手伝いはせずに午後には帰らなければなりませんのに~。(・_・、)

気仙沼弾丸ツアー(その5=気仙沼大島総合開発センター公演)

2012-05-11 07:40:05 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼大島にある「総合開発センター」での公演は、大雨と強風という悪条件の下でしたが、大勢のお客さまがお出でになって頂き感激でした。広い体育館に響き渡っていた屋根を打つ激しい雨音も上演時刻には少しおさまってきたようです。

この日は横浜から海底清掃のために参加する「海をつくる会」「ともに浜をつくる会」(海をつくる会と同じように横浜を拠点として、こちらは潜水をするのではなく砂浜の再生活動を展開している団体。気仙沼大島への支援活動を一貫して行っておられます)の一行も参加の予定でしたが、大雨とGW渋滞のために到着が大幅に遅れ、一部のメンバーが到着したところで能『羽衣』を上演。終演後は恒例の装束着付け体験も実施し、終演は閉館ぎりぎりの午後9時になっていました。

急いで装束を片づけて宿となっている「椿荘」さんへ。ところがこの頃届いた情報で、「海をつくる会」のみなさんは大島に渡る最終のフェリーに乗り遅れてしまったのだそう(!)。ええ~~っ! 大島の菅原さんなどの助言もあって、大島に渡るためには定期航路のほかにも舟をチャーターしたり、海上タクシーみたいなものを使う方法もある(!)そうでしたが、なんせ一行はバスを仕立てて移動しているもので、結局一行は気仙沼市街で一夜を明かすことになりました。ここからが大した行動力で、女性など一部のメンバーのために地元の議員さんの事務所を借りて宿舎としたそうです。それでも大部分はバスの中で車中泊。ま、ようするに宴会場が旅館ではなく気仙沼の復興商店街と車中に予定が変わっただけ、という説もあったようですが。(^◇^;)

そのおかげで(?)ぬえは大部屋泊の予定が個室を頂いちゃいました。ついでに一行の夕食(宴会)の料理が丸々残ってしまって、これをおつまみに「海をつくる会」の先発隊(トラックで移動していた機材班)としばし宴会。このメンバーは面白い人たちばかりでした。機材班だけあって元・自衛隊員とか現役レスキュー隊員とか、強者ぞろい。水つながり、なのか、釣り師さんも常駐メンバーにおられまして、こういう潜水はせずにもっぱら陸上班として活動する方もおられます。

しかし伺ってみると海底清掃というのは大変な作業ですね。手作業で海底のゴミをひとつひとつ拾ってくるのです。やっぱり武勇伝というものもあって、両手両足に計4本のタイヤをぶら下げて海面に運んだメンバーの話なども伺いました。こうしてみると意外に大変なのは陸上班かも。おそらく漁船などを使って海上にゴミを引き上げて、これを陸上に運ぶのでしょうが、舟に大きなゴミを引き上げるのは重労働でしょう。

さて1日に3回の公演があった ぬえはお先に休ませて頂き、その翌朝の5月4日。天気は回復に向かっていました。宿からすぐ下の方に浜辺が見えていたので、まずはそこに行ってみることに。

じつはこの2日前に一ノ関から大船渡線で気仙沼に向かった際、初めて見る車窓からの景色に目を奪われました。桜が咲いている! 。。これは桜ではないですね、杏かな~?



でもその向こうには土台だけになった家屋の跡が無惨な姿をさらしていました。



嵐が過ぎ去りつつあるけれども荒波が打ち寄せる海岸も、防波堤が破壊されている姿が痛々しく、これは去年9月に南三陸の泊浜で見た堤防よりも甚大な被害を受けてしまったようでした。



震災から1年が過ぎたというのに車も積み上げられただけで放置されたまま。



宿に戻って朝食を頂くと、やがて「海をつくる会」の本隊が早朝のフェリーに乗ってようやく到着。作業についてのミーティングが行われていました。

つくば市の竜巻被害

2012-05-09 01:48:58 | 能楽の心と癒しプロジェクト
稽古に出かける前に意を決して、日曜日に突然竜巻が襲った茨城県つくば市へ行ってみました。

じつはこの周囲の街には ぬえは馴染みが深くて、何度か印象的な公演や、また稽古を通じて思い出に残る出会いがありました。それらもいつの間にか時間が隔たってしまいましたけれども、ときどき訪れて静養する場所があったり、親戚が住んでいたり、はたまたこの6月に石巻を訪問する共演者がこのあたりの人であったり、と、なんだか茨城県とは縁が深いのです。

そんな思いもあって つくば市の災害現場に行ってみようと思い立ったわけですが、つくば市は常磐道を下りて筑波山の方向にあり、その中のほんの一部だけを竜巻が襲いました。国道を進んでいくと渋滞が起こり始め、迂回路を探しながら進んでいきました。。が、やはり通行止めの道もちらほら。。夏に三陸の海岸線を走ったときの記憶が蘇ります。

目的地に近づいたところで渋滞を避けて少し離れた場所に車を停めて歩き出しましたが、最初は被害がどこで起こったのかもわからないほどの のどかさ。ところが歩いていくと、拡声器を片手に炊き出しのお知らせを呼び掛けるボランティアさんとすれ違いました。。

小学校を過ぎ、テレビで報道された団地が見えてきた頃から屋根に登って修繕をする人影が見え始めましたが、ひとつの路地。。と言っていいほどの小さな通りから様子が一変。倒壊した家屋やなぎ倒された並木が現れました。

集合住宅の裏手から国道の方ヘ出ると、竜巻はずっと平地が続く南の方から国道を斜めに横切って、山の方ヘ向かって過ぎていったらしいことがようやく解ってきました。破壊力はすさまじいもので、車は津波被害と同じように大破し、テレビで報道されていたように集合住宅はベランダ側の窓ガラスがすべて破壊されているのですが、じつは裏側。。玄関側も同じ。ところがすぐそばのショッピングセンターは無傷で、被害の範囲が極端に狭いことが印象的です。

ところがじつは国道に面した鉄筋造りの家屋の被害よりも、北側の山に向かって続く民家の集落の方が被害ははるかに深刻なのでした。道を引き返して狭い道を山の方に向かって行くと電柱が折れ、家屋は倒壊したり屋根が吹き飛んでいたり。。あちこちで片づけが行われていました。







それにしても復旧のための作業は迅速に行われています。自衛隊はここでもすでに作業を行っていましたし、なんとボランティア団体も各地から集結を始めていました。ぬえが見た範囲では、名古屋から来たボランティアもいた模様(!)。こういう力、東北でもいかに役だったことでしょう。ショッピングセンターにはすでに募金箱も置かれています。そうしてあちこちで電気の復旧のための工事や、電柱を建て直す作業が進められていました。テレビの取材班もたくさんいましたが、とくに人だかりがしている所を見ると。。つくば市長さんが視察に見えていました。



この日は稽古の予定があって何もできる事がありませんでしたが、東北で見たのと同じような自然災害の威力を肌で感じることができました。規模の違いはあっても突然平和な生活が根底から覆される自然災害の甚大な被害は目を覆う惨状です。震災被害では水の重さが致命的な破壊力を持つ事実を知ったのですが、ここでは被害をもたらしたのは水よりずっと軽いはずの「風」でした。我々は知らないことが多すぎる。。

震災後3ヶ月半の頃に石巻に初めて行ったとき、ぬえは「どうしてもっと早くここに来なかったんだろう。。」と思いました。支援活動も被害の実態への共感が持てて初めて意味を成すこともあるでしょう。それは実際には簡単な事ではないのですが、多忙を理由にして怠慢をしたのではないか。。あの時の後悔はあまりに苦いものでした。今回はそういう思いをしないために、とりあえず現地に赴いてみたのですが。。非力ながら片づけのお手伝いなどの支援にもお邪魔しようと考えております。

気仙沼弾丸ツアー(その4=昆布の話、大島の震災被害の話、学生ボランティアの話)

2012-05-07 03:05:25 | 能楽の心と癒しプロジェクト
気仙沼大島神社の奉納のあと、再びコンビニ(ちゃんと店名を書かなきゃ。グリーンアイランドおおしま、です)のご主人・菅原さんに送って頂き、この日3つめの公演地である大島総合開発センターへ。

。。と思ったら、車に乗せさせて頂いてすぐに菅原さんは「昆布の茎! 持って来ましたよ~」と、タッパーに盛り上げた昆布を差し出してくださいました。ははあ、奉納の間「ちょっと。。」と席を外した菅原さんは わざわざこれを ぬえたちのために取りに行ってくださったのか~。ありがたく頂戴しましたが、なるほど「茎わかめ」ならぬ「茎昆布」。食べ応えがある厚みで、こりゃおいしいですね~。その旨申し上げましたら菅原さん、「それじゃ これ作っているところに寄ってみますか?」「え? いやその、公演が。。」「寄ってみますかねえ!」「。。は、はい、た、楽しみだなあ。。」

こうして連れて行ってくださったのは、海岸から細い道をぐっと登ったところにある小さな小屋でした。中には海女さんが二人おられて、先ほど船着き場のところで見たよりも さらにもの凄い量の昆布をさばいておられる最中でした。「ちょっと見せてやってくれね」「ほいよぉ。どっがら来たの?」「。。東京です」「おお、そんな遠いところがらぁ」 もう、ぬえはその光景に釘付けでした。みぃんな手作業なんだもの。そしたら

「面白いかぁ? ほれ、これ持ってけや!」とドサッと袋に詰めたワカメと昆布のおみやげを頂きました。菅原さんは「ほれ、茎んところあったろ?」と言うと「あ、そこがいいの? ほれ、たくさんあっがら」と、今度は大きな紙袋2つに入れたおみやげまで。。これはとても ぬえでは持てない分量で、菅原さんが「海の掃除に来てくれる人たちで分けられるように小分けにしておくから」と、あれよあれよと車に積み込んで「さ、行きましょうか?」と。なんだか異次元に迷い込んだような、竜宮城でおみやげたくさんもらった浦島太郎状態で作業小屋をあとにしました。



風雨はあい変わらず激しく、移動の途中には菅原さんから震災のときの有様を伺いました。

気仙沼大島は津波の被害を受けたのですが、これがまた。。まずは太平洋から直接島に当たる津波と、本土の岸にぶつかって反射してくる津波と、その両方の波に襲われたのだそうです。なんとこの二つの津波によって大島は南北に分断されてしまいました。浸水域の地図はこちら→Civic Forceサイト

そのうえ対岸から気仙沼湾に漂流した重油タンクから瓦礫に引火し、それが島に燃え移り。。島の北端にあり、気仙沼市街に一番近かった亀山。。さきほどの大島神社はこの山の中腹にあるのですが、ここが山火事になってしまったそうです。火は山頂までを焼き尽くし、そこに通じていた観光用のリフトの設備も焼けてしまいました。→河北新報ニュース

しかし菅原さんや大島神社の宮司さまから伺った話はもっとすさまじく。。リフトのケーブルがおそらく山火事の熱で切れてしまい、すさまじい音を立てて山中をのたうちまわった その轟音を聞いたというのです。また幸いにして、山火事は亀山にある民家(大島神社も考えてみればそのうちの一つ)を避けるようにして燃え広がったのだそう。どちらも不思議な臨場感をもって ぬえの心に響いてしまいました。。

さてそうこうしているうちに次の上演場所「大島総合開発センター」に到着しました。上演場所となったのは1階の体育館でしたが、そこにはすでに先客が。これがなんと学生ボランティアさんで、関西の?大学のプロジェクトとして震災前の大島の様子を模型にして再現する活動をしていて、横浜などいくつかの大学の学生さんがそれに協力して模型を作っているところなのでした。



こちらも公演準備があり、学生さんも島内ではなく気仙沼市内で宿泊しながらここに通って模型造りをしているそうなので、あまり多くは話しませんでしたが、流された家屋について聞き取り調査をして綿密な模型を作り、復興の資料として活用してもらおう、という活動で、分割して作られた模型は完成すればかなり巨大なものになるようです。なんと明日からこの体育館で模型を展示するのだそうで、この日が最終仕上げの日だったんですね。



それでもさきほど菅原さんから頂いた昆布の茎を今夜のおつまみにおすそわけして、最終の船で学生さんたちは気仙沼市内に向けて帰って行きました。

気仙沼弾丸ツアー(その3=気仙沼・大島神社奉納)

2012-05-06 12:30:38 | 能楽の心と癒しプロジェクト
大島に渡ってみると、やはり本土とは違って復興工事もまだ端緒についたばかりという印象です。よくまあ船着き場を確保できたものだと思うほど、岸壁と海を隔てているのはいまだに大きくて真っ黒な土嚢袋。道路の舗装もまだ始まっていません。潮が高く寄せれば冠水の危険と常に隣り合わせの生活。





これらの写真はいずれも翌日東京に帰る前に撮ったものですが、到着時は大雨で大変でした。帰りによく見てみると、実際船着き場のある「浦の浜」の周辺はすでに冠水していました。そうして船着き場には乗船券売り場とコンビニがそれぞれプレハブの仮設店舗で営業しているばかり。

じつはこのコンビニのご主人・菅原さんは今回の ぬえたちの能楽公演と「海をつくる会」の海底清掃をコーディネートしてくださった地元の方々の中心メンバーのお一人で、さっそく菅原さんにお会いしました。この後もずっと菅原さんとはお話をしましたが、沈着冷静で、しかも熱いハートを持った方とお見受けしました。大島の復興の道筋をちゃんと見据えていろいろな活動を進めておられます。そのうえこのコンビニは船で大島に渡ったお客さま(やボランティア)が必ず立ち寄る、いわば大島の顔なんですね。この日も到着したお客さまに見所や宿などを親切に教えておられましたが、自動的に観光協会のような立場になっているようです。



このコンビニ、釣り具売り場を兼ねているらしい事務所に通して頂いたら、そこでは採れたてのワカメを切り揃える作業が行われていました。そういえば2月に階上の地福寺さんで、この時期はワカメや昆布がおいしいんだよ、とは聞いていたのですが、こうやって手作業で製品になっていくんですね~。興味津々で作業の様子を眺めていたら「あとでおみやげに差し上げますから」と菅原さん。え~、そうですかぁ??(#^.^#) それが後で大変な事になるとは知らない ぬえ。



菅原さんに送って頂いて、まずは本日2度目の上演場所である大島神社に向かいます。その途中でも菅原さんは「ホントにおいしいのは昆布の茎のところなんですよ」とおっしゃって、昆布の加工作業場に連絡を入れたりしておられました。それが後で大変な事になるとは知らない ぬえ。

ぬえらは訪問した街の神様にご挨拶をすることにしていますが、実際には地元の方の受け入れを頂いてからになりますので、簡単ではありません。石巻でも初めて住吉神社で奉納をしたのは ぬえが初めて石巻を訪れてからじつに半年後のこの元日でした。そうして気仙沼の神社ではいまだに一度も上演の機会が持てていなかったので、この日の催しはありがたいことでした。

大島神社について ぬえはよく知らなかったのですが。。というより、今回の訪問は「海をつくる会」の活動に付随しての訪問でしたので、この朝に訪問したネットワークオレンジさんが唯一 ぬえの関係から実現した公演だったほかは、この大島に関してはすべて ぬえではなく笛のTさんが話をまとめてくださったのでした。そんな事もあって、ぬえは大島そのものについてよく知らないままで訪れたのが実態でした。

それだけに大島神社で、まずは小松宮司さまにご挨拶をして、紋付に着替えてから拝殿に通されて驚きました。。「これは。。?」そこにあったのは巨大な岩でした。

こちらがこの神社のご神体だったのです。あとで宮司さまから伺ったのですが、大島神社は『延喜式』の神名帳にも記載がある古い神社で、古くは社殿を整えず岩そのものを崇めていたのだろうとのこと。その後明治の廃仏毀釈の中で神社には本殿・拝殿が必要とされて現在のように拝殿の中にご神体の大岩を祀り、さらにその奥に本殿を造るという形になったのだそうです。早速宮司さまからお祓いを受け、舞囃子『高砂』をTさんと奉納。岩のご神体に直接対面しながら舞ったのは初めての経験でした。

このあと社務所で宮司さまと親しく懇談。3.11の震災から1年の日にはなんと宮司さまは石巻の日和山で神主さまが集った追悼の儀式に出席されておられたそうです。また宮司さんご本人も雅楽の演奏での慰問活動を行っておられるので、ぬえらが仮設住宅を廻って活動をしていること、ことに年末には住民さんたちとご一緒に紅白歌合戦を見るなどふれあいを大切に活動をしている活動の様子に興味を持って頂けたようでした。

それにしても大島、よい所ですね~。大島神社は亀山という大きな山の中腹にあるのですが、晴れていれば広大な海を一望できる絶景なのだそうです。宮司さまによれば朝の日の出や夕に月が上るところは本当に美しいのですって。くやしい。それから話題は気仙沼のおいしいものの話に移って、宮司さまのご家族も「もうちょっと時期が違えばウニやアワビや。。」と満面の笑み。「そう言われれば贅沢な生活かもしれませんね~」。。ちぇっ、コンビニ弁当食べながらの支援活動じゃ割が合わないや。

。。と思っていたら「以前まではね。。」と言葉を継がれました。知らなかったのですが、被災地では震災後、すでに1,000人の方が命を落としておられるのだそうです。もちろん病気などで亡くなった方もあるのですが、亡くならなくてもよかったはずの命もたくさんあるのです。厳しい現実もまたここに。。

気仙沼弾丸ツアー(その2=ネットワークオレンジさんでの上演)

2012-05-05 01:59:44 | 能楽の心と癒しプロジェクト

あは。ご報告2回目ではすでに東京に帰って来ているという。。(^◇^;) さすが弾丸ツアー。
もう。。気仙沼の人々、大島の人々にやられっぱなしです。気仙沼最高、大島大好き。

さて翌5月3日は朝から大雨でした。東北地方での活動で雨が降ったのは初めてではないかしらん。
この日はなんと1日で3公演の予定です。3.11追悼集会で湊小で3回の上演はしたけれど、島内とはいいながら移動しながらの3回公演は初めてではないかしらん。しかも今回は移動の足がなく、地元の方にご迷惑をお掛けしながらの上演でもあります。。

旅館で朝食を済ませてから、NPO法人ネットワークオレンジさんの事務所である「三日町オレンジ」へ。事務所の中には会場となる作業所兼談話スペースである「チャの木」がありますが、まず入口に積み上げられた駄菓子の数々が目を引きます。まるで近所の駄菓子屋さんの風情で、いつも子どもたちで賑わっているのだそうです。ちょうど ぬえらが公演をする翌日にはこちらで「縁日」を開くのだそうで、そういえば天井には大きな鯉のぼりがいくつも吊されてありました。

それから、ここがこちらの団体の活動の大きな部分でありますが、知的障害児の支援活動をずっと行っています。この日にも手作りの紙バッグが販売されていたのですが、これは包装紙を利用して障害児が描いた絵をそこに小さなデザインとして印刷して仙台のデザイナーが仕上げたものなのだそうです。ちょうど ぬえたちが到着したその前日には子どもたちは大船渡で行われている「恐竜展」に遊びに行ったそうで、スタッフの方の話では展示はちょいと拍子抜け、という感じだったらしいですが子どもたちは大喜びで、気仙沼に帰って早速みんなで恐竜の絵を描いたそうです。これもまた紙バッグになる日も近いのでしょうね~

さて公演準備をしている間にネットワークオレンジのスタッフの方々ともお話をさせて頂きましたが、日本から世界に向けて発信するところは多い、子どもたちの可能性を信じる、と強い意志を持った活動には頭が下がる思いです。それなのに事務所では笑いが絶えない、元気なみなさんの様子にこちらまで勇気づけられました。

公演は11時から『菊慈童』を上演しましたが、うを座の方々も駆けつけてくださいました。上演時刻の頃はもう嵐のような風雨でしたが、お客さまは大勢さんお出ましになって頂きました! じつは翌日、ぬえは大島での公演を終えて東京に帰る途中にこの会場「チャの木」に立ち寄って挨拶しましたが、この日に予定されていたピアノ&ボーカルコンサートも満員盛況でした。こちらの団体が地元に信頼されているからでしょうね~

上演を終えてから、まずは笛の体験レッスン。あれあれ? いつもこのコーナーでは誰も音を出すことが出来ずに終わってしまうのですが、このときは ほとんど全員、苦戦しながらであっても音が出ましたよ? あとで思ったことですが、こういう意味も含めて、気仙沼という街は文化レベルの高い街なのかもしれませんね~。







続いて恒例の装束着付け体験でモデルさんに名乗りを上げてくださったのは、うを座の塾生のサヤべ~(この日は新体操部の部活を早引けして公演に駆けつけてくれました!)の(きれいな)ママで、解説をしながら『羽衣』の装束を着付けていったのですが、モデルが良いからこりゃ映えるだべっちゃ。









終了後、気がついてみれば予定時間を大幅に超過して、装束を片づけてネットワークオレンジのSさんに大島に渡るフェリー乗り場「エースポート」に送って頂いた頃はもう14:30分の乗船時間ぎりぎり。笛のTさんと二人だけで2時間も上演していた計算です。。

仮設商店街のコンビニでなんとか弁当を買い込んで乗り場へ。この風雨で欠航を恐れましたが無事にチケットをゲットできました。大島へ渡るフェリー乗り場は、本来はもっと気仙沼港の先にあるのですが、津波で壊滅。港内の一番奥にあたる「エースポート」からの乗船になっています。でも、こちらも桟橋はいまだに崩れて半分海中に没したままですね~。被害が甚大だった港の先端部はだいぶ片づいて、ほとんど更地に近い状態になっていたのは2月に見ていたのですが、それだけに町の中心地に近い港の奥には破壊されたビルがいまだに無惨な姿を晒しているのが目に付きます。

さて定刻通りに船が出航。海側から気仙沼の港地区を見るのはこれが初めてですが、先端部はまだまだ片づけが途中であることがよくわかりました。。なんにせよ とんでもない事がここで起こった。悪魔の所行のようなその爪痕は、まだまだ消え去るのには時間がかかるのかもしれません。


気仙沼弾丸ツアー(その1)

2012-05-03 08:18:42 | 能楽の心と癒しプロジェクト
とか言っているうちにGWを利用して気仙沼にやって参りました~

今回は弾丸ツアーで、東京での催しの申合と当日の間を縫っての訪問です。そうして今回は年末に釜石市での活動をご一緒させて頂いた横浜の「海をつくる会」による海底清掃活動に同伴する形での参加で、気仙沼の離島・大島が主な活動場所になります。今回は何と言ってもGW渋滞が最大のネックで、これを恐れて新幹線と在来線を乗り継いで鉄路気仙沼に入りました。そのうえ「海をつくる会」によって交通と宿泊をご用意頂きました。プロジェクトとしても今後は活動資金も節約しなければならないと思っていたので、これは大変ありがたいことでした。

いや~、10ヶ月も東北に通っているのに、電車で来たのは今回が初めて! 車窓から見る景色は ただただ美しい。。ずいぶん以前、盛夏に秋田の大館で催しがあって、その翌日に ぬえはレンタカーを借りて一人で十和田湖から青森まで走ってみたのですが、東北地方の美しさに驚嘆したのを思い出しました。今回は東京では2週間も前に終わっている桜がこちらではちょうど満開でした。ちょっと天気が悪いのが残念ですが。

ただ、車でなく鉄路での移動は、装束などの荷物の運搬がとんでもなく大変でした。。次回はやっぱり車でなきゃ無理ですね~

さて昼頃東京を出発して、気仙沼に到着したのは夕方。Facebookでウワサを聞いていた「ハモニカ飯」…これはメカジキの背びれの付け根の肉を使った駅弁らしいのですが、これを駅前で探してみたけど見つからない。。キヨスクで聞いてみたら「ああ。。震災以来製造がまだ復活していないんですよ」。。ええ~っ。。 時折限定版が東京などのアンテナショップで売られることがある程度らしい。

さて今回は大島での活動なのですが、ぬえの活動可能なスケジュールと「海をつくる会」のスケジュールが微妙にズレていまして、海底清掃のグループとは別に 笛のTさんと二人で1日早く気仙沼に入りました。じつはこのスケジュールのズレを利用して、大島に渡る前の5月3日(つまり今日)に、気仙沼で知的障害者を支援しているNPO法人「ネットワークオレンジ」さんの事務所でひとつの公演を行う予定にしたのでした。

ネットワークオレンジさんでの公演は、年末と2月に気仙沼での活動をサポートしてくださった当地の児童劇団「うを座」のメンバーの方がこちらのNPO法人法人のメンバーだったこともあって、2月に訪問公演のオファーを頂いたのでした。ありがたいお話ではありましたが、日程や活動資金の面で実現の日は将来的に決める。。という程度しかお答えができず。。そこに「海をつくる会」による大島の海底清掃活動への同伴のお話がTさんからもたらされ、一気に実現へと話が進みました!

NPO法人ネットワークオレンジ

申し訳ないことにネットワークオレンジさんでは ぬえらのために旅館の宿泊をご用意して頂いてしまいまして。。m(__)m
昨夜はこの旅館の向かいにある居酒屋さんで飲みました~

ところで話は戻りますが、3月の震災1年目の追悼集会などでの活動のあと、東北道を走って東京に帰る途中のサービスエリアで夕食をかねて休憩していたところ、なんと「チーム神戸」のみなさんと偶然に再会!!.。ooO(゜ペ/)/ひゃ

ついこの前日、湊小での追悼集会が終わってから、これで石巻での1年間に渡る活動に区切りをつける「チーム神戸」と涙のお別れをしたばっかりだというのに、ここでは大爆笑になってしまいました。今回の震災のために組まれた混成チームだった「チーム神戸」はひとまず解散となり、スタッフもそれぞれの街に帰ってゆくのですが、リーダーの金田真須美さんは定期的に石巻を訪れて支援活動を続けられるそうです。その強いリーダーシップから反発を受けることも多かった金田さんですが、ぬえは彼女からいろいろな事を学ばせて頂きましたし、道は違えど、同じプロとして尊敬しています。また石巻でお会いできるといいなあ。

震災から1年~追悼集会に参加(その15=東松島・矢本運動公園仮設住宅公演)その2

2012-05-02 00:16:01 | 能楽の心と癒しプロジェクト
木村さんは趣味で面打ちを楽しまれている方で、それも「般若」ばかりを打ち続けておられるのだそうで。。人生の中で何か思うところがあるのでしょうか。。(×_×;)

それが震災でお嬢さんとお孫さんを合わせて3人も亡くされてしまいました。木村さんのお宅に泊めて頂いた ぬえは、そのお宅の場所=赤井地区=が三陸自動車道の「石巻港」インターのすぐそばなのを見て、ここならば津波の被害はなかっただろうと思ったのですが、実際はお宅のすぐ前を通る道をはさんで海側までかなりひどい浸水の被害を受けたのだそうです。あとで知ったことですが、このあたりは定川という川が石巻港に向けて注ぎ込んでいる地域で、今回の震災の被害は川に沿って遡上した水が内陸部まで被害を及ぼした例がよく言われています。

そういえば壊滅的な被害を受けた野蒜地区にも東名運河があって、この運河沿いの家屋はもう大変な状況でしたが。。この赤井から海に近づいた地域が。。木村さんが親族を亡くされた大曲という地区になります。仙台の荒浜や若林、閖上もそうでしょうが、海から平坦な地形が続く地域で、割と山がちな石巻とはまた風情を異にしています。大曲には定川のほかにさらに北上運河が東北から南西にかけて通されていて、こうした地形が浸水被害を拡大させたのかもしれません。

この北上運河はそのまま大街道、蛇田という石巻の中心的な地域を貫いて石巻専修大の付近で北上川に接続しています。本来は北上川から運河を通って石巻港に流れる水が、震災のときには逆に津波が北東に向けて遡上しました。しかし大街道の付近は、6月に ぬえが訪れた際にはきれいだったし、すでに店舗も通常のように営業していたように思います。そうして今でも相変わらずの交通渋滞の中心地。ところが震災のとき、この大街道はめちゃくちゃに壊されてしまっていたのだそうです。石巻にとっては大動脈のような場所だから、迅速に復旧の作業が行われたのかも。でも、考えてみれば大街道を通っていれば気づかないのですが、その一歩南側。。日本製紙工場の北端から行くと目の前にあたる大街道南・築山といった町はもう大変な有様だったので、海と運河に挟まれた地区は被害が大きかったといえるのでしょう。考えてみれば石巻は水が豊富な町ですね。海も川も、そして運河さえもある。東松島は印象としてはそれ以上に水路が行き渡った町のように ぬえには思えました。これが災いとなってしまったとは。。

木村さんは震災後何も考えられないほど消沈してしまったそうですが、ある日彫りかけの面を見て、亡くなったお嬢さんが元気づけて元のように面を打ってほしいと言っているように思えたとのこと。そこからお嬢さんのご家族が引っ越しを決定していた東京での個展にまで繋げたのだから、強い精神力だと思います。その出品の勉強のために石巻での ぬえの公演にお出でになり、こうして ぬえらと一緒に東松島で活動することもできるようになりました。お嬢さんも喜んでおられるでしょう。。そういえば ぬえがこの前日に泊めて頂いたのは作業場のような部屋でしたが、そこにはお父さん(木村さん)に宛てたお嬢さんからの「感謝状」が何枚も飾られていました。。

この日、こんな木村さんに着付けた『葵上』の装束がこちら!





ん~、面はまだ もうちょっと品がないと困るんですが、上達を期待するし、ご本人もやる気です。いつの日か彼の打った面を掛けて東松島で『葵上』を演じてみる、という希望も ぬえは持っています。

おっとこの日の ぬえは伊豆の子ども能のユニフォームの「能T」を着てるぢゃないかぁ。

こうして夕暮れになり、ぬえらプロジェクトの6回目になる支援公演も終わりました。帰りがけに東松島のボラセンに当たる「生活復興支援センター」に顔を出して、今回の東松島市での ぬえらの活動をコーディネートしてくださったOさんを訪ねたのですが、残念ながら不在でした。

そうこうして3月の活動の報告がようやく終わり、これから活動報告書と決算報告書を公開しなければならないのですが、すでに次の支援活動はどんどん進んでおりまして。。

じつは明日(もう、今日ですか。。)から弾丸ツアーで気仙沼・大島へ支援活動に行って参ります。その間にも、6月中旬に石巻・東松島で活動する予定で、こちらも大体形が整ってきました。6月には、先日大崎市のプラネタリウムで行った「星と能楽の夕べ」を。。これはずっと小さな規模になるでしょうが、石巻で再現する計画で、すでに現地でコラボするピアニストの方もご紹介頂いて、今日はじめてお電話でお話をさせて頂きました。なんと湊地区で毎月活動をされておられるそうで、ぬえは全然知らなかった。。 なんだか楽しみになってきましたよ~?

まずは明日からの気仙沼。初めて訪れる大島に期待をふくらませております!