ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

松戸市能楽講座(第2回=あっ、そ、そこのあなたは!)

2006-09-27 17:11:57 | 能楽
さて、今回の松戸市での能楽講座ではもうひとつ大きな事件がありました。それが「こっしー」さんとの再会です。もう何年ぶりの再会だろう。

ずぅっと以前、ニフティのパソコン通信の時代に ぬえも属していた能楽専門の「会議室」=いまで言う掲示板ですね=に、ある書き込みを見つけました。その書き込みをした人が こっしーさんだったのです。書き込みには こっしーさんが高校で教師をしていること、自分でも学生時代に謡曲と笛を習っていたこと、そこで知った能のすばらしさを今の生徒に伝えたくて授業でも能を取り上げて『羽衣』について教えていること。。が書かれてありました。そして、舞台芸術である能を生徒たちにコトバだけで説明するのには限界を感じた こっしーさんは、教材として使用するために『羽衣』のビデオを誰か貸して頂けないだろうか? というお願いが書き込みの趣旨だったのです。

ところが。。この書き込みはニフでは「違反」になるのです。

つまり、不特定の読者にビデオの貸し出しを呼び掛けることは著作権法に抵触してしまうのですね。著作権法は「個人として楽しむなどの利用を除いては」複製を不特定の相手に配布してはならない、という事になっているそうで、この場合はビデオを教材に使用する、と利用目的もハッキリしているのですが、その利用目的が真実であるのかを調べる方法がない。。これを許してしまうと、悪意を持って複製・頒布する人が「教師」を騙り、「教材」を騙ってしまうおそれもあるのでしょう。ニフではこういう書き込みをすると、即座に抹消されてしまう、というキマリがありました。

偶々、消される前にこの書き込みを見た ぬえは、すぐにコメントをつけて「ぬえは能楽師なので、よろしければ ぬえが上演した『羽衣』のビデオを貸しましょうか。自分のものだから著作権の問題は大丈夫」と書きました。(厳密にいえば ぬえの著作権はクリアしていても、本当はワキや囃子方の許可も必要ということにはなりますので、公開の場で書き込むには ぬえの内容も不適切だった、とも思いますが。。)

そして、「ついでながら、ぬえも子どもたちに教えたりするのは好きだから、いっそのこと、こっしーさんの学校にお邪魔して実演しましょうか」とも書いたのです。これは、まあ簡単には実現しないだろうとも思いながら、だったのですが、意外や こっしーさんは「それはありがたい。本物を見せられるのならば生徒たちも喜ぶでしょう。さっそく校長先生にも話をしてみます」と喜ばれて、こっしーさんが奉職される高校でのデモンストレーションのお話が発進したのでした。

聞けば、なんという偶然か、こっしーさんがお住まいで、またその高校もある街とは。。ぬえがお弟子さんのお稽古に通っている千葉県・松戸市だとおっしゃる! これには驚きました。何か見えない力を感じる。。

そして数ヶ月後に ぬえは こっしーさんの高校でのデモンストレーションを行うことができ、その場では こっしーさんも笛を吹きました。自分の先生がまさか能の笛を吹くとは思わなかった生徒さんはビックリした事でしょう。さらにまたその後には こっしーさんの奥様が奉職される小学校でも子どもたちに能のお話をする機会を頂くことができました。

それから数年。。まさかここで再会するとは思わなかった こっしーさん。能楽講座には奥様も参加してくださり、次回の能楽講座(10月14日)では こっしーさんに笛を吹いて頂き、ぬえも鼓を打って、簡単な囃子の実演をしてみよう、という計画が持ち上がりました。これは楽しそうだ!

松戸市能楽講座(第2回)

2006-09-24 22:30:30 | 能楽

今日は松戸市での能楽講座の第2回目。前回と違う会場で催したのですが、残念ながらこの会場にはテレビモニターがなく、そのうえアンプなどの拡声装置もうまく働かず、前回お約束した丹波篠山での「翁神事」のビデオをお見せすることも、テープをかけて『海士』の一部を舞ってお見せする事もできませんでした。もっと事前に会場を下調べして設備を確かめておけばよかったのですが、なんせ ぬえはあんまり事前に計画を立ててしゃべるよりも、大まかなテーマだけを決めておいて、あとは行き当たりばったりで話す方が得意なもので、次回に使う教材などもたいがいは講演の前日に決めたりするものだから。。

そんなわけで今日は前回よりも少しお話が中心になってしまった感はありましたが、それでも謡に感情を込めたり、面に表情をつけたりする実演ができ、また参加者には今回は面を実際に掛けて頂いて、能楽師がいかに視野が狭い中で舞っているかを実感して頂く事もできました。今回のテーマは、う~んと、「『高砂』を謡ってみよう!」というものだったんですが…まあ一度はみなさんで謡ってはみたのですが、どちらかというとこちらは「おまけ」みたいになってしまいました~(^^;)

また今回は展示品として新旧の中啓と古い謡本をご覧に入れて、古いものが如何に心を込めて造られているかを見て頂きました。我々のまわりにあるモノは、いま どんどんイミテーションと入れ替わってしまっている。これは扇や本の装丁などという工芸品ばかりにとどまらずに、食品やら日用品やらが、代替品の原料や手間を省いて安価な製品に取って代わられつつあります。それは毎日、少しずつ、少しずつだから、我々はその変化に気づくことさえない。。考えてみれば恐ろしいことです。イミテーションにすり代わってしまう事で、大切な何かがその蔭で失われている事にさえ気づかない。。失われて行ってしまうものとは ぬえが扱う工芸品のようなものならば職人さんの技であるわけですが、食品などの場合ならば「健康」であったりさえするんですよねぇ。健康とか命とか、そこまで大きな問題は切実には ぬえも考えられないのだけれど。。

しかし ぬえ所蔵の古い扇は、これを骨董屋で手にしたとき ぬえはとても衝撃を受けたのです。いま現在 ぬえたちが舞台で当たり前のように使っている扇や装束でさえも、じつはだんだんと品質を落としていた、扇屋さんには悪いけれども、「まがいもの」だったのです。それは現在、こういう工芸品に湯水のようにお金を掛けられない、という事情が根底にあるとはいえ、江戸期に作られたと思われるこの扇に描かれた絵の、なんと心の込められている事か! そして ぬえはその絵から、それを描いた職人さんの「心意気」まで伝わってくるんです。名前なんか残そうとしていない、ただ、その扇を手に取ったシテが「ああ、いい扇だな…」と感心する様子を思い描いて、それだけで充分だ、と思っている。もう100年以上も昔にこの職人さんは亡くなっているだろうけれど、ぬえたちがこの扇を見てため息をついているのを、草葉の陰で誇らしげに ほくそ笑んでることでしょう。

ぬえはこの扇を手に入れてから、いろんな事を考えました。まず、自分もこの職人さんのように生きたい、とは切実に思いましたね。それに、いつも自分たちが使っている扇や装束を見て満足してはいけないのだ、という事も考えました。説明は難しいのだけれど、なんだか「にせもの」に囲まれているうちに、自分までニセモノになってしまう気がして。。本物を買い揃える事は不可能であっても、いつも「本物」を見極める眼だけは持ち続けていなければならない。そう思って、この扇はいつも手元に置いて、時々取り出しては自分を戒めるようにはしていますし、またこういう能楽講座などの場合には必ず持参しています。外国で講演をする時にだって、危険は承知だけれど、この扇は必ず持っていくし、こういう、品物に込められた「心」というものは外国人にもよく伝わりますね。


※ここでふれている扇の画像は「能楽 ぬえの会」サイトをご参照ください。

PR/梅若研能会 11月例会

2006-09-23 21:01:13 | 能楽
【梅若研能会 11月例会】   平成18年11月9日(木)午後5時30分
                  於・観世能楽堂(東京・渋谷)

 能  海士(あま)
     シテ(海士/龍女) ぬえ

     子方(藤原房前)  八田和弥
     ワキ(従者) 梅村昌巧/間狂言(浦人) 大蔵教義
     笛 一噌隆之/小鼓 亀井俊一/大鼓 大倉栄太郎/太鼓 大江照夫
     後見 梅若万佐晴/地謡 青木一郎

   ~~~休憩 10分~~~

 狂言 惣 八(そうはち)
     シテ(惣八) 大蔵吉次郎
     アド(有徳人)    大蔵千太郎
     アド(出家)     大蔵彌太郎


 能  土蜘蛛(つちぐも)
     シテ(僧/土蜘蛛ノ精) 伊藤 嘉章

     ツレ(源頼光)梅若紀長/ツレ(胡蝶)古室知也/トモ(従者)中村政裕
     ワキ(独武者) 森常好/間狂言(従者) 大蔵基誠
     笛 一噌幸弘/小鼓 観世新九郎/大鼓 大倉三忠/太鼓 金春国和
     後見 ぬえ/地謡 梅若万三郎


  《入場料》指定席6,000円 自由席4,700円 学生2,200円 学生団体1,500円
  《お申込》ぬえ宛メールにて QYJ13065@nifty.com

  ※自由席は割引できるかも。。です。


今回の上演曲目は『海士』! それにしても、舞台面は華やかで動きも多く、面白い能なのに、じつはなんて難解な物語なんだろう。。 曲目についての考察は少しずつ進めてはいるんですが。。ま~~難解! 解説はもう少し時間を下さいまし~~(T.T)

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その2)

2006-09-20 23:16:58 | 能楽
師家 家蔵のSP盤のリストは完成して、ぬえの友人の研究者と師匠にそれぞれお渡しして内容を吟味して頂く事となりました。いろんな発見もありましたね。

師家所蔵のSP盤の発売元は以下のようなレコード会社。
ニッポノホン、日本コロムビア、日本マーキュリーレコード、日本ビクター、能楽名盤会、ポリドール、ヒコーキ(GODO PHONOGRAPH CO.LTD.)、スタークトンレコード、キングレコード、日本放送録音(株)。

現在でもCDを発売する会社(やっぱり、現代でも「レコード会社」って呼んでいましたかね?レコードなんて作っていないのにね~)もあれば、ニッポノホン、ヒコーキなんて、当時は「ハイカラ」なネーミングであっただろうけれど、今となってはレトロな風情が漂う会社もあります。研究者によれば、この2社は当時は比較的有名なレコード会社だったらしいけれど、スタークトンレコードというのは現在残っているレコード盤の中でもレアな会社であるようです。

この研究者によれば、大正時代と昭和に入ってからの謡曲の録音は、同じSP盤なのに、録音技術も、発売された目的もかなり性質が異なっているのだそうです。いわく、まず技術面では大正時代はようやく「電気録音」が始まったような時代で、それ以前までは蓄音機の原理の逆で、録音機器のラッパに向かって演奏をして、その空気振動を針で直接レコードの原盤に刻むのだそうです。もちろん音質はよくなく、謡など声楽の場合は怒鳴るような音量で録音しなければならなかったのだとか。電気録音の技術が確立されて、ようやくマイクロフォンを使った録音ができるようになったのだそうです。

そういえば、洋楽の分野ではマイクとPA技術が発明されたことによって、それまでのオペラのような歌い方ばかりでなく、ささやくような歌い方でもコンサートでも充分に観客の耳に届くようになって、現在に続くポピュラー音楽の発展の基礎となった、と聞いたことがあります。能の場合もそれとちょっと似たような事はあって、明治以後に能楽堂が造られるようになってから、それまでの屋外での演能よりも謡の微妙なニュアンスがよく伝わるようになったそうです。そしてそのために様々な技巧も凝らされるようになったし、なにより繊細な表現を追求することで、上演時間が長くなる傾向が始まったのだ、という見解もあるようですね。

また、謡曲のレコードが製作・発売された目的も大正と昭和では異なる傾向があるのだそうで、大正時代には囃子が入った「番謡」(番囃子)の録音が多いのに、昭和に入るとほとんどが囃子を伴わない素謡や独吟などの録音なのだそうで、これはこの研究者によれば、おそらく昭和になってからは「謡曲の稽古をするお弟子さんが、自宅での稽古の参考とするための範吟として購入する事をねらって発売されたのだろう」ということで、それに対して大正時代以前は純粋に観賞用として能が上演されている雰囲気をそのまま記録するために、囃子を入れた番謡が多いのだろう、ということでした。

なるほど、録音テープなどなく稽古も口移しなのが当たり前の時代に、何度も再生できるSPレコードは、自宅での自習の教材としては画期的だった事でしょう。ぬえは内弟子としての稽古を始めた頃、ちょうどビデオが普及した頃でしたが、それでも「ビデオがない時代は、能楽師はどうやって自分の型のチェックをしていたのかなあ」と思ったものですが。。ビデオも録音もない時代。。およそ想像がつかない。

世阿弥は「離見の見」を持つことが重要、と書いています。けだし名言。

伊豆の国市で薪能の反省会

2006-09-18 16:31:38 | 能楽
去る土曜日に伊豆の国市の狩野川薪能の「反省会」が行われて、ひさしぶりに伊豆長岡に行ってきました。

この日は同じく子どもの稽古をしてくれた観世流のKくんのほか、総合プロデュースの大倉正之助氏も忙しいところを駆けつけて管さました。もう、あの子たちに会えると思うと、三島でローカル線に乗り換えたあたりから顔がほころぶ ぬえ。

いやまあ、薪能が終わってから2ヶ月も経っていて、その間に夏休みがあったものだから、子どもたちもみ~んな真っ黒だね。それに何人かは明らかに背が伸びてる。。そして「反省会」が始まりました。シュークリームと、おせんべい、ドーナツにチョコレート。そして妙齢のお嬢さま方のお酌でお茶を頂きました。ああ、嬉しいなっと(T.T)

さて反省会ではまず正之助氏が「心」というものについて熱く語られました。世界での戦争や紛争の抑止、にまで話が及んだけれど子どもたちにはうまく伝わったかな? ぬえも挨拶を求められまして、やはりずうっと稽古で彼らに触れていた ぬえとしては、舞台に立つ「責任」というものを、とくに主役級のお役を頂いた子どもには分かって欲しかった、そういう稽古をした、という事を話しました。この目的は完全に達成できたし、それどころか(このブログにも書いたように)薪能の最後の上演曲『船弁慶』が終わったところで、子どもたちみんなが、子方の大役を果たした マリナを楽屋で拍手で迎えてあげた、という、あの素晴らしい態度を誉め讃えてあげました。

ちなみに、ぬえとしてはどうしても知りたかった事。。あの時、誰が言い出して マリナを拍手で迎えよう、と話がまとまったのか。反省会が終わったところで、会場の外で アリサが ぬえに話しかけてきたので思い切って尋ねてみました。すると。。「ううん、誰が言い出したワケじゃないのよ。なんとなくみんながそういう気分になって。。」 創作子ども能『江間の小四郎』への出演を終えて楽屋で着替えた彼らは、観客席に移って薪能のプログラムの「第二部」となる、我々能楽師による狂言と能を鑑賞していたので、それが終演した瞬間に楽屋に集まるには、よほどみんなで約束でもしていたのかと思ったら、もっと自然発生的で自発的な行動であったらしい。「船弁慶のお能が終わってすぐに楽屋まで走っていったから疲れちゃった」。。全米が泣いた。

彼らはそのあとも、うち揃って能楽師の楽屋を訪ねてきて、ぬえとKくんから子どもの楽屋へ差し入れたアイスクリームへのお礼を言いに来ました。「アイスクリーム、ありがとうございま~~~あす」。。

この薪能では第一部の「創作子ども能」と仕舞に出演した子どもたちは、ぬえやKくん、同じく指導にあたったワキのYさん、そしてお囃子方とは共演したけれども、『船弁慶』や狂言を勤める能楽師とはまったく没交渉でした。しかし楽屋には ぬえやKくんにとっても大先輩もいるワケだし、ましてや同じ日に同じ舞台に立つわけだから、子どもたちには能楽師の楽屋に集合させて挨拶させるつもりだったのです。ところが、開演前の楽屋では ぬえも上演準備に追われているし、子どもたちも着物の着付けで大忙し。イケナイことだけれども、ついに開演前に能楽師と子どもたちとの挨拶はできなかったのです。かと言って、とくに能楽師の方でも「挨拶がない!」と憤慨しているような人は一人もいなかったし、むしろ子ども能が始まると、舞台の袖から目を細めて子どもたちを見守っている先輩がいた事も ぬえは地謡の後ろに座りながら発見して、胸をなで下ろしたりしていました。

それでも挨拶だけはキチンとしておきたかったのですが、まさか彼らから自発的に挨拶に来るとはね。突然「アイスクリーム」と挨拶された能楽師はビックリしていましたが、それでも「お? おお~っ」と、なんだかよくわからない挨拶を返していた先輩もありましたっけ。。



。。す、すまんマリナ。ちょっとシャッターのタイミングが悪かったかな。
  ホントはもっと可愛いのだ。

実行委員会の会長さんとも少し来年の薪能の方針について伺う事ができて、また子どもたちからもすでに「来年は小四郎の役をやりた~い」とか「低学年なんだけど妹も出演したい、と言っているんだけど。。」なんて相談もありました。すでに来年に向けて計画は進んで行っております。勝手に。。どんどんと。。(^◇^;)




ところで。
みなさ~ん、このブログの扉のFlash、ちゃあんと最後まで見てくださっていますか~?落ち葉が散っているだけじゃないよん。

師家蔵・古いSP盤のデジタル化作戦(その1)

2006-09-16 01:14:24 | 能楽
中京に住む ぬえの友人の某研究者が、主に戦前の古い謡のSP盤を入手してはデジタル化する作業をしています。年末には関西方面で能楽学会のフォーラムが開かれて、そのテーマでこの時代の古い謡曲の録音を扱うそうで、そのための準備でもあるらしい。

彼が行っているデジタル化の作業は、それまで家庭などに死蔵されてきた録音盤を文献資料としてまとめる事にもなり、また学会の際には論文としてまとめられるわけで、1ヶ月ほど前に彼からこの話を聞いた ぬえは、彼に協力する事にして、ぬえの師家の家蔵のSP盤を拝借してデジタル化させて頂けないか、師匠にお伺いしてみる事にしました。

師家には古いSP盤やフィルムなども残されているのですが、もう今となっては再生する機械。。つまり蓄音機なんてないですから、こちらでもやっぱり死蔵、になってしまうんですよね。

先日師匠にとりあえずのご承諾を得て、今日の師家での稽古能が終わってから、所蔵品のリストを作るためにSP盤を探しはじめました(師匠も盤そのものがどこに保管されているのか、ハッキリした記憶をお持ちではありませんでした。それほどに死蔵されている、という証左でもあります)。そして装束蔵の隣の部屋の納戸の奥からついにそれらを発見しました。

それにしても。。リストを作ってみて気がついたのですが、SPレコードに限らず、音素材のメディアというのは、そこに記録されてある内容(音源)についての記録がとっても貧弱。。レーベルには曲目やシテの名前ぐらいは書いてあるけれども、それが能なのか、舞囃子か、はたまた素謡や独吟なのかさえわからないものが多いし、それどころか録音の期日はおろか、発売年月日さえどこにも記していないものばかり。文献を調べている感覚では、近代のものであれば書籍では発行所や発行年月日、逐次刊行物では巻号まで必ず明記されているのが当たり前なのに。。もちろんレコードのレーベルの記録スペースは限られているから、自ずと記録できる情報は限られてくるだろうけれど、当時は豪華な函入りで売っていたのですから。。

【注】
ここで、SPレコードどころかLPレコードやシングルレコード、はたまた昔はよく学童雑誌のおまけについてきた薄っぺらなソノシート。。なんていう、いわゆる「アナログ盤」をご存じないお若い読者のために解説をしておきますと。。

「レコード」ってのは円盤型で、プレイヤーに乗っけて針を下ろして再生する、というところまでは若い方もご存じでしょうが、ほんの20年前ぐらいまではCDなんてなかったのでレコードしかありませんでした。LPはLong Play の略で、直径30cm、片面30分、両面で60分程度が記録できて、レコードプレイヤーに乗せて毎分33回転で再生しました。シングルはEPともドーナツ盤とも言って、直径17cm、毎分45回転で片面3分程度を記録できたため、歌謡曲1曲分がちょうど収まり(と言うか歌謡曲がこれに収録できる事を条件に作曲したのですな)安価なため普及しました。いまのシングルCDですな。

これらはどこまで行ってもアナログなものなので、珍現象も起きました。たとえばCDと違って歩きながらなど移動しながらの再生はできないから、友達との貸し借りや車で聞く時はもっぱらカセットテープにダビングするのです。ところが、レコードプレイヤーの回転が個々の機械によってモーターの回転が微妙に違っていて、友達にテープを貸すと、あとで「なんだか演奏が遅いよ~」なんて文句を言われたりしたものです。レコード盤にキズがつくと、演奏に一定の周期で「プチッ。。プチッ。。」と雑音が入ったり、それどころかキズが甚大だとレコード針がそこで隣のミゾに移動してしまうショートカットのルートができてしまって、おんなじ箇所の演奏が無限ループ状態に。。その夜は枕が涙で濡れましたとさ。

それからプログレッシブ・ロックなんていう前衛的な音楽のジャンルではなぜか大作主義が流行った時期があって、LPレコードの片面いっぱいに1曲だけ、両面で2曲だけしか収録しない! なんてレコードがいくつもありました。そう言えばクラシックではどうだったんでしょうね。片面30分、全部で60分という収録時間のリミットとなると、交響曲なんかでは両面への収録の配分が難しかったのではないでしょうか。。?

これらLP・EPはどちらも塩化ビニール製で、音質を犠牲にしてそれを薄く作ったのがソノシート。こちらは雑誌のおまけなどに重宝されました。そんで、それより古い時代に存在したのがSP盤です。

秋になりました。。

2006-09-15 00:04:30 | 雑談
いつのまにか肌寒い季節になりました。

先日、常磐道を走っていて、何気なく渋滞情報の放送を聞いてみたら。。「ただいま下り方向で逆走している車があるとの情報がありました。注意して走行してください」と言ってた。。ぬえが走っているのとは逆方向だったけれど、そ、そんな事が本当にあるんですね。。(゜_゜;)

そんで、そのまま東京方面に走りながらラジオを聞いていたら、あるジャズ・コンサートの情報が流されていました。で、ゲストが登場してそのコンサートの見どころを解説する、というのだが。。ああ、アナタは。。

登場したゲスト。。八◎誠とわ。。ぬえの従兄弟ではありませぬか。ジャズ専門誌の『Adlib』の編集部に勤めていたとは聞いていたが、へぇぇ、FMラジオでコンサートの解説をするようになっていたのねー。そういえばちょっと前にもマーカス・ミラーのCDを買ってみたら、ライナーの執筆に彼の名が。。

親戚にこういう道に進んでいた人がいたなんて、なんだかちょっと不思議。(ま、むこうだって親戚で能楽師になったヤツがいるなんてヘンな気分だろうけれど。。)

音楽といえば、能楽師にも仲間で組んだバンドがありますね。一部では有名らしいけれど。でも、それに限らず楽器を趣味にしている仲間はわりといます。東京ではこのバンド以外ではあまり聞かないけれど、中京から関西の、とくにお囃子方では、ピアノの弾き語りをなさる方もあるし、ギターの趣味が高じられて、自宅にスタジオを持って奥様とデュオで演奏される方もあります。

かく言う ぬえもじつは、ピアノがかなり上手い某能楽師を見つけたので、一緒にジャズバンドを組む計画を持っています。ぬえはこれでもベース弾きでして。。これまた能楽師の身内でボーカルができる女性がいるので、三人でやろうよ~~、と言っているのですが、なかなかお互いに忙しくて、もう何年も実現できないでいたりします。しゅん。

そういえば、ずうっと昔の内弟子時代に、仲間の囃子方と意気投合して「バンドやろうぜっ」という話になって。そこまでは良かったのですが、彼が楽器を弾くという話は聞いたことがない。。それなのになぜここまで話が盛り上がったかは不明ですが、さあ、ここで ぬえは不安に思って彼に聞いてみました。「。。で、キミはなにか楽器できるんだっけ?」「え。。えーと。。じゃ、◎鼓。。」(。_゜☆\ベキバキ(~_~メ)


足利薪能

2006-09-12 02:54:58 | 能楽
先日も触れました栃木県・足利市での『足利薪能』がこの土曜日に無事終了しました。番組は師匠・梅若万三郎師の『熊野』、野村万蔵氏の狂言『鬼瓦』、そしてN先輩の『鞍馬天狗・白頭』で、うん、これは豪華番組と言えるでしょうね。

当日はよい天気だったのですが、開演時刻が近づいて来るに従ってどうもアヤシイ雲行きになってきて。。まあ、それでも雲が厚くなってきた程度ではあったので予定通りに開演し、師匠の『熊野』はつつがなく進行してゆきました。読継之伝、村雨留と進んでいって、ようやく短尺之段に差しかかったとき。。突然の雨降りに見舞われて、シテはそれに気づいて急遽文句を飛ばしてキリに突入。とっさの判断でしたが、演能としては5分間短縮しただけでほぼ完演することができました。ワキは熊野が詠んだ和歌を見ることもなく、シテも宗盛の許しもなく勝手に故郷へ帰った。。のだが、お客さまがずぶ濡れになるのには代えられまい。

ただ、楽屋に戻る途中に ぬえが思ったのは。。どうしよう。。このまま薪能が中止に追い込まれたら『鞍馬天狗』の花見に抜擢された地元の子どもたちが泣きだして、楽屋は阿鼻叫喚地獄になっちゃう~~(T.T)

それでも初番の能が終わったところで行われる「火入れ式」は滞りなく行われたようで、また雨も止んできたようでしたが、舞台は雨たまりが出来るほどで、狂言の上演にはちとつらい。『鬼瓦』のシテの主は長袴ですものね。小休憩をとってスタッフによって舞台が拭かれ、ようやく狂言も上演でき、またトメの番組の『鞍馬天狗』の開演が近づいた頃はほぼ上演に不安はなくなってきました。楽屋でも「よ~~し、行けえ!」となぜかヘンな盛り上がりの中で子方の装束着けが一斉に始まりました。やっぱりみんな心の中では楽屋での阿鼻叫喚を恐れていたものと見える。。そして『鞍馬天狗』は、途中小雨もあったけれども無事に上演を終える事ができました。ああよかった。花見に出演した子どもたちはお疲れさまでした。

さて画像は開演前の会場・鑁阿寺(ばんなじ)の境内に設えられた舞台です。前にも書きましたが、この経蔵は室町時代のもので重文の指定を受けています。ずっと砥粉塗りで黄色かったのですが、最近やっと丹塗りが施されたそうで、その話は聞いていたのですが、ようやく実物を見ることができました。もっとケバケバしい丹塗りを想像していたのだけれど、なるほど落ち着いた良い色合いですね。ぬえはこの会場に来るのが本当に楽しみで、古い良いものがたくさん残っているのです。同じく重文の本堂は、この経蔵よりはるかに古い鎌倉期のもので、彩色などは一切無いけれどもその木彫りの装飾の見事さと言ったら! 山門と、もともとは足利氏の邸宅であったために周囲に巡らされた壕を渡って その山門にたどり着くための屋根付きの太鼓橋も、これは江戸期のものながらそう感じさせない風格を持ったたたずまい。さらに境内には、たしか日本でも有数の大きさを誇る多宝塔があります。ここのもの以上に大きいものは大塔と言って別扱いになるはず。

そしてもう一つ注目して頂きたいのがこの画像。



これは先日も話題に出た足利義満の座像なのですが、開演前の法要のために舞台上に安置されました。これは本当に良い彫像でしたね。時代はいつ頃のものなのか。。見惚れている ぬえに、実行委員会の方が言うには、寺には足利氏歴代の将軍の座像があって、毎年の薪能の際の法要にそれは持ち出されて供養されるのですが、それは毎年一体ずつ順番に持ち出されるのだそう。だから今年義満さんに対面できたのは、たまたまその順番に当たったからだった、とのこと。なんだか最近このブログや先日の松戸市での能楽講座でも義満さんの事は話題に出ていただけに、不思議な縁を感じました。

結婚式つながりで(その6=結婚式で本当にあった話)

2006-09-09 02:18:13 | 能楽
さて結婚式にお呼ばれする機会の多い ぬえですが、結婚式ではよく思うことがあります。
「うう。。新郎さんの紋付が着崩れてる。。直してあげたい。。」(>_<)

失礼ながら、やっぱり着物ってのは着慣れていないと なかなか身体にフィットしにくいようですね。と言うか、洋服を着た場合と和服を着た場合とでは身体の動かし方がちょっと違う、と言うべきか。あとは。。ときどきビックリするような奇抜な紋付で登場する新郎さんを見る事が。。

さて、ある時 ぬえの親族の結婚式がありました。会場は都内の某ホテル。ぬえは親族なので式から出席しましたが、披露宴では謡を披露する事になっていたので、チャペルでのキリスト教式だったにも関わらず、参列者の中で ぬえだけが紋付袴姿。ちと違和感もあったけど、ま、これは仕方ない、と言うことで。

このような式場には新郎新婦の介添えをしたり、参列者の交通整理をする「仲居さん」みたいな女性の方がおられますね。こういう時、この仲居さん(と呼ぶのか不明だが仮にこう呼んでおきます)は専門家なのでじつに てきぱきと人をさばいていきます。「はい、もうじき新郎新婦が入場しますからねー。みなさん着席してお待ちくださいー。はいそこ!白いカーペットはバージンロードだから踏まない!あ、そこのお子さん。『着席してお待ちください』ですのよー。はいはい、このたびは大変おめでとうございま~す」。。もう慇懃無礼ちうのか、マニュアル通りというのか。。ムチャクチャ。。

で、式は無事に終了しました。新郎新婦を拍手で見送って、この頃はまだフラワーシャワーとかブーケトスのような式のあとのアトラクション(?)はあまり一般的でなかったのか、この仲居さんに連れられて新郎新婦は記念撮影のために写真室に向かって去って。。いやいや、進んで行かれ、残された参列者は、またまた担当の仲居さんのご指示を仰いでから行動しなければなりませぬ。「はい、みなさん、本日は大変おめでとうございま~す。このあと披露宴の会場へご案内させて頂きま~す。はい、それではこちらへどうぞ~。みなさん2列でお並び頂きまして、順のご案内となりま~す。はい並んで。オイッち、にぃ!さん、し!エレベーターはこちら。全体~~右向け~~右っ!」

かくしてエレベーター前まで参列者の行軍は続き、またまたそこで上官の訓辞を拝聴致します。「エレベーターが狭いので、9名様ずつのご案内となりま~す。はいどうぞ!いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、しち、はち。。く!はい、ここまで!あとは次のエレベーターをお待ちくださいっ」。。と、仲居さんは我々参列者の顔さえ見ずにテキパキと仕事をこなしてゆきます。いつも決まり切った流れ作業。そして彼女たちはプロ。マニュアルに沿って号令を掛けて案内をしていれば、それで毎日がつつがなく進行してゆきます。ゆく。。はずだったのです。ぬえの姿を見るまでは。

偶然にも ぬえの前の人でエレベーターの定員9人となり、乗り込もうとした ぬえの前に無情にも仲居さんの右手がサッと差し出され、丁寧ながら、反論の余地のないドスの利いた声で仲居さんが言いました。「はいっ、ここまで!あとは次のエレベーターをお待ちくださいましなぁ」(-_-メ)

そして ぬえの前の人までを乗せてエレベーターは動き出します。仲居さんは作り上げられた、非の打ち所のない満面の笑みを浮かべて閉まる扉に向かって最敬礼のお辞儀。当然そのお尻は ぬえに向いて無言の制止の圧力を掛け続けます。。しばしの静寂。。このあと残された参列者は何をされるのか。。誰からなのか「ゴクッ」と生唾を呑み込む音がホールに響き渡ります。そして。。仲居さんは振り向きました。「お待たせしましたわいなぁ」

そのとき! ぬえの目にも、何かが壊れたのが感じられました。何か。。とてつもなく大きな事件が起こっている。。なんだろう。。気づけば仲居さんの両眼は大きく見開かれ、血管が走るのがわかる。彼女の呼吸は大きく乱れ、身体は小刻みに震えている。。そして。。その見開かれた眼は。。たしかに ぬえを見据えているのです。ぬ、ぬ、ぬ、ぬえ。。何かしちゃった?。。゛(ノ><)ノ ヒィ

そして仲居さんは低く、乾いた声を絞り出して、こう言いました。

「あ。。あの。。」(゜_゜;)
「は。。はい。。?」(T.T)
「し。。新郎さん、まだご案内していませんでしたかぁぁぁ??」」(◎-◎;)



いくら ぬえが紋付着てるからって言ったってさ。たった今終わったのは教会式で、ここはチャペルじゃねえか。。マニュアルに頼りすぎるから。。

ぬえの「能楽講座」(その2=能面について)

2006-09-08 14:20:23 | 能楽
さて今回の能楽講座では、総論というか、能の歴史、能や能舞台の特長、流儀の歴史などのカタいお話(だいぶ脱線はしたけれど。。)をしてから能面を展示して見て頂きました。

今回はお見せするだけで終わってしまったけれど、次回以降には能面の使い方の実演をしたり、扱い方を教えて能面を実際に顔に掛けて体験して頂こうと思っています。

ぬえは一代目の能楽師で、内弟子に入門した頃は自分の持っているもの、というのは なぁんにもありませんでした。能楽界では能楽師を親に持つ能楽師が圧倒的な人数を占めるわけだけれども、そういう人たちはほとんど家にいくばくかの面・装束・道具類はそろえているわけで、そういう立場の人くらべて、自分が絶対的に不利な立場にいるのだと気づいた ぬえは、内弟子の時代から「毎年、必ずひとつは道具を集めていく」という事を堅く心に決めました。これは今でも心がけています。

そんなワケで今回お見せした面はほとんど骨董屋で集めたものなのです。ぬえは東京では骨董市や骨董屋にはかなり頻繁に出かける方ですが、それだけに留まらず地方に行く機会があって時間が許せば骨董屋さんを覗いたりします。もう骨董屋さん通いも20年になってしまいました。骨董屋さんで「なにか能に関係する道具が出たら教えてください」と言って名刺を渡すと。。たいがいは「ええ?。。能の道具。。?。。ふふん。わかりました」と言われて。おいおい、なんだよその含み笑いをしながらの「ふふん」ってのは。。(/_;)

それでも骨董屋では これまでに本当に「出会い」がありました。ちょっとビックリするような物も ぬえは所蔵していますし、自分が手に入れないまでも、ほかの能楽師に紹介して差し上げたり、って事も何度もある。やっぱり足で探すものだと思います。そして最近では何か出物を見つけた友人からの情報の方が多くなってきました。「おい、ぬえくん。こんな物があの骨董屋に出されていたぞ」。。こういう情報を頂くと、ぬえは必ずその日のうちに見に行く事にしています。

まあ。。友人は能楽師ではないから、「能面が出た」、なんて言われても、その90%はオモチャなんですけれど。。それでも必ずその友人には感謝して、次もなにか見つけたら知らせてもらうようにお願いしておきます。そうしている中で、能面を見つけた、と友人の報告で ぬえがある骨董屋に行ってみると、その能面はオモチャだったのだけれど、同じ店の中で江戸期のある宗家による金泥の極め書きがつけられた小鼓の胴が破格の値段で売られているのを発見した、という事もあります。この胴は ぬえが買ってしまうと死蔵になってしまうので、その流儀のしかるべき小鼓方に紹介してあげました。

今回展示した能面10数点は、それほど古いものは少ないのですが、多くはこうして ぬえが一つひとつ集めたものです。ただ、ぬえの師匠は能面についてたいへん造詣の深い方で、どうも少なくとも東京では能面については一番詳しいらしい(ぬえにそう言った能楽師が何人かいるので本当らしい)。ぬえは能面を手に入れた場合、必ず師匠にご覧に入れているのですが、その時に面の善し悪しや面のどこに注目して入手するべきかをずいぶん教えて頂きました。たとえば般若の場合だと、角と下あごの牙が同じような角度だと表情が効いて見える、とか、この面だけは絶対にテラして使ってはならない、ワキに面を切る場合でも必ず上目遣いにワキの顔を睨みつけなければならない、とか。。

結婚式つながりで(その5)

2006-09-05 00:01:59 | 能楽
昨日、伊豆の国市の狩野川薪能実行委員会から、去る7月8日に ぬえらが中心になって行った薪能の画像が送られてきました。サイトの方にアップしておきましたので、ぜひご覧下さいまし~~

さて話題がズレてきてしまっているなあ。。と思いつつ、結婚式での『高砂』の謡について、と松戸での能楽講座でやはり『高砂』を謡ってみせたので、これらを絡ませてればなんとか話題は元に戻ろう。

今回の松戸能楽講座では謡について少し触れました。いわくヨワ吟とツヨ吟の違いを、謡ってみせる事で体感して頂くのです。このへん、このブログを読まれている方は謡の稽古をしておられる方ばかりではないのでちょっと面白い話題かも。

能の声楽の部分は「詞=コトバ」と、「謡」とか「節」と呼ばれる部分とに大別できて、「詞」はいわゆるセリフ、「謡」は歌と考える事ができます。「詞」はセリフに近いものですが、その抑揚には決マリがあって、純然たるセリフとはちょっと違います。そしてこの「詞」の部分も「話す」ではなく「謡う」と称するので、やはり声楽の一部とも考えられる、ちょっと特殊な位置づけになりますね。ぬえが思うに、能ができるだけリアリズムから離れて、様式の中で演技を構築していくうえで、謡ほど束縛がないはずのセリフの部分の抑揚にも決マリを設けてあるのでしょう。

さて謡の部分ですが、これも二つに大別できて、ひとつはピアノでもメロディをなぞれるほど豊かな音階を持った「ヨワ吟」で、もう一つは“メロディのない歌”である「ツヨ吟」です。メロディがない歌、というのはちょっと不思議ですね。モンゴルのホーミーのように、基本的に音階構造に対する意識がない歌(?)も世界には例があるかもしれないけれど、能の「ツヨ吟」は幕末頃に「ヨワ吟」から変化した、とされていて、上演の歴史の中で“敢えてメロディを捨てた”と言っても良いかもしれません。一方では「ヨワ吟」はちゃんと残っていて、場面や曲目によってどちらの謡い方で謡うかが決められているので、能の声楽はかなり音楽的に高度に洗練されている、と ぬえは感心しています。。囃子の音楽理論はもっと高度で精緻だとは思いますけれども。(どうして場面で謡い方を変えるのか、についての考察は長くなるのでまた別の機会に。。また「ツヨ吟」と「ヨワ吟」の両方の特徴を持つ「和吟」という謡も、例外的ではあるけれど存在している事も、ここでは指摘だけしておきます)

で、『高砂』のような祝言性の高い曲の場合はほとんど「ツヨ吟」で謡われるのですが、だからこそ声のダイナミズムで謡わないと、まるでお経を読んでるみたい。(^^;) 時代劇番組などで結婚式(祝言をあげる、ってヤツですね)の場面で『高砂』が謡われる事がありますが、あれが滑稽に聞こえるのは、役者さんは謡の発声の訓練を受けていないからで、めでたい場面で抑揚のない陰気な『高砂』ではいかにも ちぐはぐで、だからおかしいのです。

ところで なぜ結婚式で『高砂』の待謡の部分を謡うのでしょうか。

これについてはハッキリとした理由付けは ぬえはこれまで目にした事がありません。詞章の内容から言うとワキ(阿蘇宮神主友成)が松の精である前シテ・ツレの老人夫婦に誘われるままに高砂浦から船出して住吉大社に向かう、というもので、『高砂』の能全体の中でも、もっとも祝言性が希薄な部分とも言えます。船出して未知の土地に向かう。。この姿が 新郎の家に嫁ぐ新婦の姿と重なる、という見方もあるでしょうが、ぬえは違う考えを持っています。

この待謡というもの、複式夢幻能の形式の能にはほとんど必ずあるものですが、要するに後シテを「待ち受ける」ための謡。。言い換えれば後シテを勧請する「言寄せ」のような呪術性を発揮する機能があるのではないか、と ぬえは思っています。典型的な待謡はワキ僧が読経している場面である事からも、これは首肯できるでしょう。『高砂』では詞章こそ船出なのですが、むしろこの待謡が終わったところで、この能では後シテの住吉明神が登場して、この現世を言祝ぐのだ、というところに注目するべきだと思います。結婚式の場で新しい門出を迎える二人のために神の加護を祈る。。彼らのもとに神が降臨して祝福する事を呪術的に約束するのが、ここで待謡が謡われる理由だ、と ぬえは考えます。仲人がそれを謡うのが本来であるならば、「人」として二人を繋ぐ役割である仲人としてはシテの部分を謡って「神」に扮するよりも、「人」であるままで、目に見えぬ神を新郎新婦のために呼び寄せる呪術を行う事の方が遙かにその役割に合致しているでしょう。そして、周囲の「人」が神に扮して直接的に新郎新婦を祝福するよりも、神を呼び寄せて、神そのものは目に見えぬままに「ここにおわす」と信じる方が、日本人の文化に合致していると思います。

結婚式の話題でこんなに書くことがあるとは思わなかった。次回こそ最終回。「結婚式で本当にあった話」。

足利薪能。。と足利家の事ども

2006-09-04 02:41:38 | 能楽
ぬえの能楽講座にわざわざ沖縄から参加してくださった ぐりこさん。コメントを頂いてありがとうござました。ぐりこさんの九州のご実家が「丸に二つ引き」の紋で、足利家と関係がある、とのことで、思うところがあり、コメントへの返信ではなく、こちらの本文でちょっと書いてみる事にしました。

じつは ぬえの師家では今週末にその「足利氏」の出身地「足利市」で薪能を催すのです。足利市というのは栃木県の南西部にありまして、日本最古の学校で国宝の典籍も持つ足利学校でも有名です。

足利市というと、能楽師としては足を向けては寝られないほどの恩がある足利氏の出身地。足利氏はどうも学校で習う日本史では突然東国から京都に上った尊氏が室町幕府を開いたかのような印象を受けるかも知れないのですが、じつは源氏の傍流で、保元の乱にも清盛・義朝軍に参加しているし、頼朝の挙兵にも参加。鎌倉時代には源家が滅びた後にも北条家と姻戚関係を続けるなど、なかなかの政治力を持ちます。(なお源頼政が以仁王とともに清盛を倒そうとして失敗、宇治で自害した際に宇治川の先陣を切った人物は能『頼政』では「田原又太郎忠綱」となっていますが、『平家物語』では「足利」姓ですね。このへんは未調査なので事実関係は分からないのですが。。)

さてところが足利氏は鎌倉後期には不遇だったようで、ついに尊氏が後醍醐天皇の挙兵に応じて北条氏を攻めて鎌倉幕府を倒し、その後は今度は後醍醐天皇と疎遠になって戦乱となり、後醍醐を退位させて室町幕府を開いた、という経緯があるんですね。。なかなか複雑。

ちなみに尊氏は後醍醐天皇が差し向けた新田義貞・楠木正成軍との戦に破れて一時九州に逃れ、そこから体勢を立て直して京都に進撃したので、ぐりこさんのおうちが足利家と関係があるのはここに関係するのかも。

能の世界では、もちろん室町幕府の三代将軍義満が観阿弥・世阿弥親子を見いだして寵愛してくださったために、まさに現代まで能が生き残れたので、義満は能にとって最初の大恩人です。ちなみに義満は金閣寺を造った事で有名ですが、南北朝を統一したり、花の御所を造営したりと多才な人で、禅宗や水墨画が流行した「北山文化」の大パトロン。禅の影響を受けた唯一の演劇と言われる能も、世阿弥とこの文化の出会いがなければ今のような形ではなかったかも。

あ、話はそれますが、狂言『附子』で砂糖を食べ尽くした言い訳に太郎冠者が、主人の所蔵品である掛け軸を破り、台天目をうち割る、というアイデアを思いつく話が出てきますが、掛け軸は「牧渓(もっけい)和尚の墨絵の観音じゃと言うて秘蔵された」と表現されています。ところがこの牧渓という人は南宋(日本では鎌倉時代)の画僧で、日本に伝えられた軸は現在多くが国宝に指定されているほどの名品。そんで、北山文化に比較される東山文化を作り上げた足利義政の所蔵品「東山御物」のリストにこの「牧渓の墨絵観音像」が載っています。え~~それを破ったの~~? ぬえ、これを知ってからは『附子』を見るたびに「ああ。。また今日も国宝を破ってるのね。。」と思ったりします。ちなみに台天目の方もこの軸に匹敵する茶碗だったとすると、国宝の「曜変天目」みたいなものだったのかも。。

さて今週行われる薪能は、まさに足利家の旧邸宅だった鑁阿寺(ばんなじ)で行われるものです。ここはお寺なのに周囲に土塁と壕を巡らせていて、まさに中世の武家屋敷らしい、要塞のような面影を今に伝えています。ちなみに鐘楼・本堂・経堂は国指定の重文で、輪蔵を納めているその経堂の前に舞台を設えて薪能が催されます。経堂はずうっと砥の粉の塗りっぱなしで黄色いままだったんですが、最近新たに丹塗りが施されました。

今年のこの薪能の演目は師匠の『熊野』と、先輩の『鞍馬天狗』です。ぬえの伊豆での薪能と同じように、地元の子どもたちが大勢出演するそうで、こりゃまた楽しみな催しです。

ぬえの「能楽講座」(千葉県松戸市)(その1)

2006-09-03 22:28:47 | 能楽
千葉県・松戸市での ぬえの「能楽講座」が始まりました。

もうずいぶん以前になるのですが、ぬえは松戸市の公益財団が主催で「能楽講座」を何年間か行いまして、その成果はついに同市内のホールでの「能楽鑑賞会」の開催にまでつながったのですが、市の財政もことごとく見直しになっている昨今、残念ながらその後は公的な企画として講座や公演を行うのは難しい状況になっていました。

その頃、ちょうど ぬえも米国の大学からの招聘を受けて3度目になる渡航公演を計画していて、その交渉のさなかでしたし、わけてもこの度は3都市を歴訪してちょっとした米国ツアーというような大きな催しとなったので、諸事に忙殺されていて、松戸市で自主的な新しい企画を計画する事までは手が回らない状態でもありました。今年はまた大曲『朝長』の上演が予定されていたので、これまた他の事に手を出す余裕もなく。。そしてようやく今月から、4回にわたって市内で「能楽講座」を催す事ができました。

それにしても市の団体が主催するのと、ぬえ自身が中心になって、松戸市内でお稽古をいているお弟子さんの協力を得ながら自主的に行うのとでは、これほど準備の手間が違うものか。。市内の公共施設の大きな会場を確保するのに苦労もしましたし、市報に掲載する講座の宣伝も、前回の写真入りの堂々とした宣伝と比べて、今回は市民団体の催しが一括して掲載される欄にわずか数行が載っただけ。まあ、これが自主的に講座を立ち上げるのだからこれが本来の姿で、前回が恵まれすぎていた、という事でしょう。

宣伝不足を補うべく、いろいろな方にお声を掛けました結果、今回の出席者は約20名といったところでした。決して多くはない人数だけれど、久しぶりの講座の発足にあたっては、満足すべきでしょう。この講座を続けていって、だんだんと反響が育っていく事を祈っています。

さて、ぬえの講座の名称は「能楽講座 ~能から日本文化を学ぶ~」というもので、これは日頃から ぬえが話したいと思っている事です。能楽師の講座なのだから、もちろん能についてお話をするわけなのだけれど、ぬえがこの世界に飛び込んで、この国の文化がいかにスゴイものであるのか、それを参加してくださった方々と一緒に再発見していこう、というのが本当の目的です。今日もお話したのけれど、ぬえは大学在学中に能の世界に飛び込んだ一代目の能楽師ではありますが、この世界を知る前の ぬえは、和服など着たこともなく、耳にする音楽といえば洋楽ばっかり。。まるで外国人のようでした。いま、ぬえは「日本人に生まれて本当によかった。。」と心の底から思っています。この国の文化は世界一だ、と力を込めて言える。でもまた、同時に、滅び去る寸前でもあるのかも知れない。。と最近は思うことも多いけれど。。

ともあれ始まった能楽講座の第一回でしたが、あ~~やっぱり ぬえ、話題は大脱線ばっかりで、話したい事の半分もしゃべってません~。まあ、受講者は爆笑してくださったようで、楽しい講座にはなりましたけれども。。もう少し次回は真面目な話をしよう。そうしないと4回の講座が「漫才から日本文化を学ぶ」になってしまう。。

ところで今回の講座ではミクシイでお友だちになった方が、なんとわざわざ沖縄からおいで下さいました(!) たまたま東京でお仕事の研修があって、その日程がうまく ぬえの講座とも重なったから、とのことでしたが、これは嬉しかったですね。会場でその人が沖縄から参加した事を受講者に告げると、みなさん「えええ~~~っ」と驚かれて、拍手まで出ていました。

結婚式つながりで(その4)

2006-09-02 02:12:28 | 能楽
。。さて結婚式での謡の話題の続き。

また結婚式で謡を謡う場合、「翳シ=かざし」というのが問題になる事があります。縁起の悪い文言をめでたい文句に替えて謡うことで、『高砂』の「待謡」の場合、「出る」「遠く」など、結婚式にはすこぶる縁起の悪い言葉が多いのです。また謡曲では頻繁に出てくる、文句を繰り返して謡う「返シ」も、具合が悪いので一度だけ謡うようにします。つまり本来の文章が以下のようであるのに、

高砂や、この浦舟に帆を上げて。この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で汐の、波の淡路の島蔭や遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり

実際にはこのように謡うのです。

高砂や、この浦舟に帆を上げて、月もろともに入り汐の、波の淡路の島蔭や近く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり

最後の「はや住の江に着きにけり」を繰り返して謡うのは、この部分を「返シ」とは呼んでいないせいなのですかね? まあ、ここは いっぺんだけ謡うのでは収まりが悪いとは思うけれど。

で、ぬえはこの「翳シ」というヤツ、頼まれてもこの通りに替えては謡いません。「翳シ」なんて時代錯誤だと思うし、幸福というものはこうやって縁起をかついで呼び寄せるものでもない。替え謡は能そのものへの敬意を捨てる事にもなるし。。第一、「月もろともに入り汐」じゃ月が沈んで暗闇だよ?

そういえば、どこかの結婚式で ぬえが「待謡」を謡う事になって、当日に司会と打合せをしたとき、ワケ知り顔の担当者から「あ、文句は替えてくださいね。常識だからご存じとは思いますが」と言われて断固拒否。大ゲンカした覚えがあるなあ。ああ、今となってはいい思い出。。(そうなのかっ!?)

次回で最終回(たぶん)。「なぜ結婚式で『高砂』の「待謡」を謡うのか?」について。