知財判決 徒然日誌

論理構成がわかりやすく踏み込んだ判決が続く知財高裁の判決を中心に、感想などをつづった備忘録。

閑話休題-特許制度の創設の立役者の功績

2006-06-25 12:24:08 | Weblog
「高橋是清自伝(上)」 中公文庫 高橋是清著、上塚司編より

<無審査登録制ではなく、審査制に>
『 商標の方は異常の順序をもってともかく出来上がったので、今度は発明専売規則の作成に取りかかった。その内にいよいよ成案を得たので、例によって参事院に提出すると、なかなか通過がむつかしい。これより先、明治四年の頃、ひとたび発明専売略規則なるものが発布せられたが、さてこれを実施する段となって、発明の審査に当たる者がない。やむなく多数の外国人を雇わねばならぬ。そうすれば費用もたくさんにかかる、その割合にはろくな発明も出来ないというので、とうとう明治五年三月二十五日の布告第百五号をもってその実施を中止することになった。それで、それほどに難しいものが、たやすく行われるものではないといって、参事院では反対の議論が強く、一時停頓の姿であった。
 ・・・(中略)・・・
 これより先元老院では箕作燐祥さんが、夙に発明保護の必要を感ぜられて、フランス式の簡易な無審査専売特許法を立案して、非公式ながらその案文を閣僚議官の間に配布しておられた。従って元老院では、その案文が先入主となって、私の立案よりもフランス式無審査免許の方法がよろしいとの意見を持つ人も少なくはなかった。しかし当人の箕作さんは、私の案文を見て、これは君の案がよい、自分は決して自説を固持するものではないと、むしろ賛意を表された。
 さような有様で、元老院では、相当に議論もあったが、議論の結果とにかく私の案は無事通過して、明治十八年四月発布、同七月一日より施行せらるることとなり、私は同年四月二十日附をもって、専売特許所長兼務を命ぜられた。
 ・・・(中略)・・・
 あだかもこの時近くにローマにて開催せらるべき発明保護に関する万国会議に我が国も入会するように照会してきたが、それに対して我が国特許制度が今日の有様では、未だその準備ととなわざるが故に、これに入会することは、我に得るところ少なく失うところ大き理由をも詳論して、もって上司の参考に供した。』(第190~第192頁より引用。)

<特許証の有効無効の判断>
(特許証の有効無効の判断を審判長に任せた理由)
『さていよいよ特許条例を作るに当たって、審判長の権限について議論が沸騰した。私は「特許証の有効無効を裁判するについては特許局長が自ら裁判長となってこれを判決し、かつこれを持って最終のものとせねばならぬ」と主張した、すると井上毅氏が極力反対せられた。「そんなことは条理の上から許さるべからざることである。特許局長は農商務大臣の部下ではないか、その部下の役人が、上長大臣の与えた特許証を審判するくらいまではよいが、これを持って最終審とするのは不都合である。最終決は国法の定むる大原則に従って当然大審院で下すべきものだ」というのが、井上氏の理由であった。
 これには私も説明に困った、そこで私はドイツで聞いてきた例を話して、日本の特許裁判は未だ過渡期であって、一般裁判官の頭が進んで来るか、民間に参考人として十分なる技術者がたくさん現出するまでは、特許局長の審判にまつの必要がある所以を力説した。・・・ここに至って、工業所有権保護に関する法規はほとんど具備するに至ったのである。』(高橋是清自伝(上)第262頁より引用。)
(ドイツの例について)
『従来、登録保護せられている発明権を犯したものは、直ちに普通の裁判所に廻される。すると裁判官に発明に関する技術上の知識がないために、往々にして間違った判決を下し、せっかく苦心した発明の効力が甚だうすらいでくる。英国や米国ことに英国では、規則の出来た以前より、発明者の権利を不文律をもって、裁判の上で保護しておったが、ドイツにはこれがない。ゆえに英、米のごとく幾多の判決例が出来るか、あるいは民間にその参考となるべき技術家が出て来るまでは、発明に関する最後の審判は、特許局においてせねばならぬということであった。これは私の頭にも直ちにピンと響いた。』(高橋是清自伝(上)第250頁より引用。)

<特許局の独立>
『さて、私は帰朝後の仕事として前述三条例を起案し、同時に特許局独立の運動を始めた。・・・(中略)・・・農商務省専売特許局が廃せられて単に特許局となった。
 私が特許局の独立を図ったのは決して根拠のないものではなかった。米国で聞くとろこによると、当時米国の特許院では、約八十万ドルの余剰金があった。こんな余剰金がどうして出来たかといえば、元来特許料や登録料は、政府の歳入を目的としてもうけられたものでないから、一般会計とは区別して、特別の会計となっていた。それが、経費を払って残った金が積もり積もって八十万ドルにもなっていたのである。それで当局者の意見では、この余剰金の使途については大いに考究せねばならぬ。発明特許や商標登録の方から上ってきた収入であるから、出来るだけ発明者や商人の利益になるように使わねばならぬ。それにはまず第一に、発明品の陳列館を拡張し、更に余裕があれば、特許料及び登録料の値下げをなすべきもので、決して一般会計と混同せしめてはならぬ。また、発明の審査や登録の手続きが迅速に行くように、内部の充実を図らねばならぬというような説明を聞いて、私は、それは極めて道理あることと思った。
 それで、私は、日本へ帰ると、少なくとも、米国の特許院の小型のものを作りたいと思って、まず、特許局の独立を計り、更に官制を改正して、局中に庶務部、検査部、審判部、陳列室を置くこととし、一方特許局新築の話を進めた。』(第264~265頁より引用。)