今月の3、4日にこのブログでご紹介した大分の“K”さんの寄稿文の中に「鶴崎の三大祭り」の話があった。すなわち、4月の「剣八幡春大祭(喧嘩祭り)」、7月の「二十三夜祭り(加藤清正公命日干灯明)」そして8月の「国選択無形文化財・本場鶴崎踊大会」。江戸時代、肥後藩五十四万石の港町だった鶴崎の三大祭りのうち、唯一、肥後の飛び地になる前から続いているのが「本場鶴崎踊」。そしてこの祭で踊られるのが「猿丸大夫」と「左衛門」という二つの踊りであることが紹介されていた。
僕はこの二つの踊りの由来が知りたくなり調べてみた。いずれも起源は上方方面にあるという。「左衛門」は450年ほど前の国主・大友義鎮(後の宗麟)の勘気をおさめるため、家臣が京から呼んだ舞子が唄い踊った「三つ拍子」がもとになったもので、もう一つの「猿丸大夫」は江戸宝永年間、お伊勢参りが一大ブームになった頃、参詣者が「伊勢踊」を持ち帰り、それがもとになってできたものだという。鶴崎のような港町は特に上方の文化が伝わりやすかったものと思われる。
▼「鶴崎踊り」の「左衛門」
そこで思い出したのが、津々堂さんが紹介された、肥後藩主のお召し船「波奈志丸」の無事の出航・帰航を願って唄われたという「御舟歌」のことだ。歌詞の一部を津々堂さんがご紹介しておられたように、歌詞は残っているが、メロディは失われてしまったという。単なる想像で何の根拠もないのだが、これは失われたわけではなく、船頭や水主たちが既に聞き覚えていた曲だったから何も残っていないのではないだろうか。つまり、どこかの寄港地で憶えてきた曲、ということは原曲は今も残っている可能性がある。歌詞をよく見てみると「七五調」であり、「エイ」という囃子言葉の入り方からも「甚句」であることは間違いなさそうだ。「相撲甚句」で唄っても合いそうだし、上方や瀬戸内にも多くの「甚句」が残っているので、ピッタリ合いそうな甚句がないか実験してみるのも面白いかなと思う。
▼「御舟歌」の歌詞の一部
▼細川公のお召し船「波奈志丸」の鶴崎港入港を描いた絵馬
僕はこの二つの踊りの由来が知りたくなり調べてみた。いずれも起源は上方方面にあるという。「左衛門」は450年ほど前の国主・大友義鎮(後の宗麟)の勘気をおさめるため、家臣が京から呼んだ舞子が唄い踊った「三つ拍子」がもとになったもので、もう一つの「猿丸大夫」は江戸宝永年間、お伊勢参りが一大ブームになった頃、参詣者が「伊勢踊」を持ち帰り、それがもとになってできたものだという。鶴崎のような港町は特に上方の文化が伝わりやすかったものと思われる。
▼「鶴崎踊り」の「左衛門」
そこで思い出したのが、津々堂さんが紹介された、肥後藩主のお召し船「波奈志丸」の無事の出航・帰航を願って唄われたという「御舟歌」のことだ。歌詞の一部を津々堂さんがご紹介しておられたように、歌詞は残っているが、メロディは失われてしまったという。単なる想像で何の根拠もないのだが、これは失われたわけではなく、船頭や水主たちが既に聞き覚えていた曲だったから何も残っていないのではないだろうか。つまり、どこかの寄港地で憶えてきた曲、ということは原曲は今も残っている可能性がある。歌詞をよく見てみると「七五調」であり、「エイ」という囃子言葉の入り方からも「甚句」であることは間違いなさそうだ。「相撲甚句」で唄っても合いそうだし、上方や瀬戸内にも多くの「甚句」が残っているので、ピッタリ合いそうな甚句がないか実験してみるのも面白いかなと思う。
▼「御舟歌」の歌詞の一部
♪ 音に聞へし 八代の 景は筆にも 延べがたし エイ
鏡の池の 壱りおし 己が影をやつまと 見るらんと エイ
口すみ見ぬる 其人も 心づくしの 旅そかし
実(け)にやいにしへ 西行のおふ つらねしうたにも おしなめてん
ゑひ物をおもわぬ 人にだに エイ 心つくる 秋の惣と エイ
かように詠みし 言の葉も かゝる折にや 花咲いづる 葉き原の
袖も尾花に 続キぬる エイ ふもとの里の 山あらし エイ
遠寺の鐘に 夢さめて エイ つきす渡る 名取川 ・・・
鏡の池の 壱りおし 己が影をやつまと 見るらんと エイ
口すみ見ぬる 其人も 心づくしの 旅そかし
実(け)にやいにしへ 西行のおふ つらねしうたにも おしなめてん
ゑひ物をおもわぬ 人にだに エイ 心つくる 秋の惣と エイ
かように詠みし 言の葉も かゝる折にや 花咲いづる 葉き原の
袖も尾花に 続キぬる エイ ふもとの里の 山あらし エイ
遠寺の鐘に 夢さめて エイ つきす渡る 名取川 ・・・
▼細川公のお召し船「波奈志丸」の鶴崎港入港を描いた絵馬
歌詞だけは沢山残りましたが、肝心のメロディーが判らず残念の極みです。どんな歌だったのか、聞いてみたいものですが・・・・
県立図書館で松本政信様の御著書もひと通り拝読させていただきました。帯出禁ですので完全理解とはまいりませんでしたが、再度挑戦してみます。お蔭さまで「御舟歌」について少し研究してみたくなりました。調べ始めましたら、各藩の「御舟歌」についての調査研究が意外とあることに気づきました。楽譜が残されている藩もあり、大いに参考になりそうです。鶴崎の楽譜でも発見されない限り完全復元は難しいと思いますが、音楽的な面からも考察を重ねていけば、本丸御殿の障壁画のように、本物に近い歌は創ることができるかもしれませんね。