熊本民謡「ポンポコニャ」についてはこれまでも何度かこのブログのネタにさせてもらったが、今日よく唄われている歌詞以外にも多くの伝承があり、民俗学の観点からも興味は尽きない。この唄についての研究としては一昨年に他界された郷土史家・鈴木喬氏が「市史研究くまもと(1994年3月号)」に発表した研究論文「熊本民謡『ポンポコニャー』と熊本名所地名考」を超えるものはおそらくないだろう。歌詞に歌い込まれた地名や固有名詞などから微に入り細を穿ってこの唄の発生時期を考証している。この論文の中に熊本出身の醸造学の権威・住江金之(すみのえきんし)が「日本談義(1951年2月号)」に寄稿した「肥後古民謡」に関する小文が紹介されている。これが気になったので僕も図書館でその現物を読んでみた。それによれば、住江が大叔母から聞いたという「ポンポコニャ」は歌詞に欠落した部分があるというものの随分趣きが異なるのである。
ここに出てくる「ペレトン」、「台場」、「石火矢」などの言葉から、住江本人は黒船が来た頃の唄と推察しているが、それは大叔母の生きた時代からみて、長崎周辺に外国船が出没することに危機を感じた幕府が嘉永2年(1849)に海防強化令を出したことに関連するものとして、住江説は間違いないだろうと鈴木もこれに同意している。
ちなみに「ペレトン」は「ペレット(pellet)」のことだろうと鈴木は推測している。「ペレトン=pellet on」か。また「台場」は砲台や要塞のこと。「石火矢」は大砲のことである。
鈴木のこの研究の主目的は「ポンポコニャ」が江戸時代に生まれたものかどうかを考証することである。従って、もともとこの唄がどこで誰が歌い始めたのかについては追究していない。そこで僕はそれが知りたくなり、今、いろんな文献等を漁って調べているところだ。また、歌詞についても上の紹介歌詞に「長崎」や「薩摩」が出てくるように、もともと今の熊本名所めぐりのような歌詞ではなく、九州全域を歌い込んだものではなかったのかという気もする。僕は二つの仮説を立てている。いずれにしてもこの唄の発生はお座敷唄としてであろうと考えているが、一つは長崎の「九連環」系。そしてもう一つは江戸もしくは京の「端唄」系である。はたしてこれを立証できるだろうか。(続く)
♪長崎に オランダペレトン始まりて 台場/\にゃ大きな石火矢 ポンポコニャ
オーサ ポンポコポンポコニャ
♪おさんどうんが さつまのお芋をたんとたべ 大きなおならを ポンポコニャ
オーサ ポンポコポンポコニャ
オーサ ポンポコポンポコニャ
♪おさんどうんが さつまのお芋をたんとたべ 大きなおならを ポンポコニャ
オーサ ポンポコポンポコニャ
ここに出てくる「ペレトン」、「台場」、「石火矢」などの言葉から、住江本人は黒船が来た頃の唄と推察しているが、それは大叔母の生きた時代からみて、長崎周辺に外国船が出没することに危機を感じた幕府が嘉永2年(1849)に海防強化令を出したことに関連するものとして、住江説は間違いないだろうと鈴木もこれに同意している。
ちなみに「ペレトン」は「ペレット(pellet)」のことだろうと鈴木は推測している。「ペレトン=pellet on」か。また「台場」は砲台や要塞のこと。「石火矢」は大砲のことである。
鈴木のこの研究の主目的は「ポンポコニャ」が江戸時代に生まれたものかどうかを考証することである。従って、もともとこの唄がどこで誰が歌い始めたのかについては追究していない。そこで僕はそれが知りたくなり、今、いろんな文献等を漁って調べているところだ。また、歌詞についても上の紹介歌詞に「長崎」や「薩摩」が出てくるように、もともと今の熊本名所めぐりのような歌詞ではなく、九州全域を歌い込んだものではなかったのかという気もする。僕は二つの仮説を立てている。いずれにしてもこの唄の発生はお座敷唄としてであろうと考えているが、一つは長崎の「九連環」系。そしてもう一つは江戸もしくは京の「端唄」系である。はたしてこれを立証できるだろうか。(続く)