のすたる爺や

文明の果てなる地からのメッセージ

減量

2006年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 夏風邪をこじらせて一ヶ月ほど体調が悪かったおかげで体重が減りました。災い転じて福となす、このチャンスにこの体重を維持しようと意識していましたが、体調が戻るに連れて体重が増え始めたので、ロシア式ダイエットを試してみようと、この連休中は断食してウーロン茶を飲みながら過ごしました。
 結果は、思ったほど体重が減りません。

 考えてみれば戦後の食糧難を経験した我々の親の世代は「子供達にひもじい思いをさせまい」と努めて来たはずですが、”衣食足りて礼節をなす”が当たり前になった飽食の時代を作ってしまい、痩せるためにひもじい思いをする世の中になってしまいました。
 何と言う矛盾、何と言う理不尽。と腹が減るのを我慢して3日過ごしました。

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うらなり

2006年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 久し振りに良い天気になりました。風が吹いたために湿気もありません。
 昨日の道路清掃以降に吹いた強い風と雨のおかげで、側溝には枯葉や折れた枝が流れこんでいました。
 都合のつく人を集めて集水枡のドブさらいをしてきました。

061008e  このあたりは気温が低いので甘くなる柿の木は少ない土地ですが、数少ない甘柿の木。本来ならもっと熟している季節ですが、まだうらなりの状態です。

一緒に作業していた年配の人が「うらなり」と言う言葉を使ったときに、壷井栄の「二十四の瞳」でに出てきて憶えた言葉だったことを思い出しました。うらなりの柿の実を食べて死んでしまった子供のことが書かれていました。
 柿や梅など実が熟していないと果実の中に青酸が残っているので、食べ過ぎると生命に関わることがあります。植物が自分の実を守るための手段ですね。

 「気が熟す」何事にもあるもので、熟す前のうらなり状態で失敗することもあれば、肝心な時期を見過ごしたがために熟しすぎて実が落ちてしまったり。
 男女の仲などその際たるもので、お互いの気持の盛り上がり方がなかなか一致しないものです。
 人生の一瞬でしかないのですが、このときにお互いのピークがそろうことも稀です。だからこそ「人生」なんでしょうが、「待つ」こともあり、「待たせる」こともあります。

 耐えて「待つ」ことはあっても「待たせて」はならない、それは紳士の態度ではないと心に決めていますが、あっちのほうでは?????
 お先に行かせてもらいます?????

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薬師様

2006年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム

061008d  関東から北海道前大雨と強風をもたらした熱帯性低気圧。突風で船が転覆するなど大きな被害を出しました。中心気圧の関係でこれが台風でないのですから不思議な気もします。

 昼間はあまり雨が降らなかった我が家の界隈ですが、深夜3時ごろ強風と激しい雨になりました。
 今日は地区の道路清掃の日で、小雨決行。深夜の雨の調子を見て「中止かな?」と思っていましたが、朝、日が差していました。降ったり止んだりの天気で、地区の各家庭から人が出て道路の側溝の掃除や草刈をしました。
 この時期の道路清掃は冬の雪のために準備で、側溝に雑草が茂っていると雪がそこにつまって雪解け水が道路にあふれて夕方凍結することもあります。

 河川敷の草刈もやる予定でしたが、この状態では危なくて近づけません。

061008 道路清掃が終わってから薬師堂の清掃と気の薬師際の準備。例年ならのぼり旗を立てますが、風が強いので旗は立てないでお堂だけ飾り付けました。

 昼頃突風が吹き荒れて、道路に木の枝や葉っぱが飛び散り、掃除する前よりも汚くなりました。

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え?

2006年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム

 人生営んでいれば釈然としない日もあるもので、今朝、近所の人に昨年の春までこの地域を担当していた30代の駐在の警察官が亡くなっていたことを知らされました。
 元々は刑事さんで2年ほどこの地域の駐在として勤務していました。この土地が好きになり、こちらで子供も生まれて、「将来家を建ててこっちに住む」と故郷のように馴染んでくれていました。

 昨年春からまた刑事に戻り、この冬にあったときには別人のようにげっそり痩せていたので、よほど神経をすり減らす仕事なんだなと思いました。
 十数年前にこちらの駐在にいた若いおまわりさんが癌で亡くなったことがあったので、「まさか癌じゃねえだろうな。」と聞いたら、「健康検査では異常なしですよ!」と笑いながら否定していました。
 その後、電話をしたら「そのうち休みに子供を連れて温泉に入りにそちらに顔を出します」と言っていました。

 刑事は人を疑って粗を探して何ぼの仕事ですから、自分自身との葛藤もあるでしょうし、努力しても冷ややかな世情の厳しい目もありますし、組織の息苦しさもある。ある意味「個人」や「人間味」を捨てて成り立つ世界なので、並大抵の神経では耐え切れないのでしょう。自ら命を絶ってしまったそうです。
 
 私など逆の生き方をしているので、愚かしいながらも幸せなのかもしれません。

 辛い知らせが続いたので、明日はいいことがあるでしょう。

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趣味の外国語

2006年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 ソビエト時代、日本語の教育機関があったのはウラジオストクの極東大学だけですが、時折「モスクワで日本語を学びました」と言う人に出くわします。40歳以上の人たちです。
 モスクワの日本語教育機関はKGBの教育機関。ソビエト時代どういう職業に従事していたのかわかります。
 
 90年代半ばにはウラジオストク以外の教育機関にも日本語のクラスができました。最近人気は下火とはいえ、ロシアの中でも特に日本語の勉強が盛んなのは地理的に近いウラジオストクで、仕事帰りに日本語を勉強している人も多いです。
 こうした教室に行く費用がないからと、独学で日本語を勉強している人もいます。語学は特殊能力ではないので、いつからスタートしても良いものです。上達するしないのスピードはそれも個性で、鼻にかけるものでもなければ卑下するものでもありません。興味があればトライするところに意味があると思います。

 外国人には多少間違えていても意思を疎通させようと果敢に喋りかけてくる人たちが多いものですが、ロシア人は「自信がない」と一歩ひく傾向が強いです。このあたりの感覚が日本人とにているのですが、全てしっかりと整ってから言葉に出すタイプです。間違えていても平気で喋る人のほうが上達は早いのですが、癖がなかなか治らないものです。

 日常は残業がないロシア社会なので、仕事帰りや休日に語学やスポーツスクールに通う人も多く、アフターファイブの生きがいの一つとして日本語の勉強を楽しんでいる人も多いです。
 一頃の日本語教室には日本人講師などいませんでしたが、最近は日本人教室が教えている日本語教室もあります。(なぜか関西の女性が多いらしい)

 「何のために日本語を勉強するの?」ついつい詮索してしまいますが、「教養のため」「楽しみのため」という答えがあっても良いのではないでしょうか?

 考えてみると、私の地元の行政が主宰する英会話教室にしても中国語会話教室にしてもそこに来る顔ぶれといったらほとんどが年配の女性。男性は自分の旅行や出張でもなければこうしたところに顔を出しませんし、用が終われば顔も出さなくなってしまいます。語学には楽しみと同様に道具と言う側面もありますので、実用と趣味とでは大きく意味合いが異なります。せっかく言葉に触れるのならそれらの国についても触れてみると、また違う解釈ができると思いますが、「必要に迫られて」ではそのゆとりもないのでしょうね。
 「楽しむ」と言うことに対して奇妙な抑制が働いてしまうのが日本男性の悲しいところかもしれません。
 趣味が人生にもたらすゆとりは計り知れないと思います。

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ランデブー

2006年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム

 ランデブーとはフランス語でrendezvous。集合場所や、待ち合わせ場所を意味します。デブが走ると言う意味ではありません。念のため。

 私が子供の頃はデートではなくランデブーが”逢引”の意味合いに用いられていたような気がします。

 個人的にランデブーに対する印象が変わったのは宇宙でソビエトとSAの宇宙船がドッキングに成功した頃からで、宇宙ステーションに接続するスペースシャトルや、人工衛星、「空のランデブー」のように、自分のいる場所から、別の世界での「接近」のように思えるようになってしまいました。

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ジャガイモ

2006年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 ジャガイモは元々南アメリカ大陸原産で16世紀にヨーロッパにもたらされ、普及するまでも様々なドラマがあり、ドイツでは国が強制的にジャガイモつくりを農民に押し付け、フランスでは王侯貴族がジャガイモの花を愛でることにして庶民にジャガイモつくりを普及させ、英国ではジャガイモの芽を王室に食べさせたために毒素のソラニンに中って大騒ぎになったためにジャガイモの普及が遅れた歴史があります。

 寒冷なヨーロッパで、寒冷地に強いジャガイモの普及は大きな役割を担っていましたし、もしジャガイモが普及しなかったらヨーロッパ諸国の人口は増えず、植民地も必要なかったのではなかろうかと言う意見もあります。
 日本にはインドネシア経由では行ってきたのでジャガタライモ。ジャガタラはジャカルタですね。

061003d  新しいことに否定的な保守的意見は当然あるもので、ジャガイモ普及の足を引っ張ったのが「悪魔のりんご」と呼んだキリスト教の古いい一派だったそうです。

 ロシア語でジャガイモは「カルトフェーリ」と呼びますが、ドイツ語では「カルトッフェル」。ドイツから入り込んできたことがわかります。

 ロシアにも16世紀から17世紀にジャガイモがもたらされていたようですが、普及はしませんでした。
 帝政ロシアの皇帝が国有の耕作地に一定の割合でジャガイモを作付けするように詔を発したのが1840年。
 これに対して農民達の暴動が起きています。日ごろから皇帝に対する不満が背景にあったことが一番の要因でしょうが、政府が庶民の日常的な食生活に対して干渉したことへの反発や、ジャガイモは悪魔の食べ物と言う迷信もあり、「皇帝は我々にジャガイモを食わせて殺す気だ!」と不平が爆発しました。 

 いまやロシアの伝統的な主食のごとく鎮座するジャガイモですが、100年も遡れば、食生活を変えることに激しい抵抗がありました。

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